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帝都の治水 [歴史]


 記録的短時間大雨情報という言葉を、この夏はずいぶんと頻繁に聞くようになった。

 気象庁の「大雨警報」が出ている時に各地の気象台から発表されるもので、その雨が、
 ● 数年に一度しか起こらないようなもの
 ● 一時間に100ミリ前後の猛烈な雨が観測されたもの
というのが凡その基準になっているそうだ。

 2013(平成25)年から運用されているが、現在までの月別の発表件数を調べてみると、今年(2017年)7月の44件(但し26日現在)というのが断トツの数字になっている。やはり、「最近よく聞くなあ。」という印象と合っているのだ。8月・9月の台風シーズンを前にしてこれだから、今年は年間の発表件数が過去最高になるのではないか。
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 一時間に100ミリなどという途轍もなく激しい雨が降ると、直ぐに気になるのは河川の氾濫だ。雨量が多い上に総じて河川が急傾斜な日本では、昔から各地で水害の発生が年中行事のようなものだった。今夏も、九州北部豪雨の際に筑後川とその支流の氾濫が周辺地域に大きな被害をもたらし、直近では秋田の雄物川の氾濫が注目を集めたばかり。現代ですらそうなのだから、明治以前の日本では多くの地域にとって治水が何よりも重い行政上の課題であったはずである。そして、大雨のたびに暴れ川となる河川に橋を架けるのは大変な事業だったことだろう。

 幕末期に歌川広重が残した『江戸名所百景』を見ると、江戸の隅田川に架かる千住大橋・両国橋・新大橋などの様子が巧みに描かれている。橋はどうしてもそこに人が集まるから、色々な意味で要所になりやすい。中でも両国橋の西詰などは当時の江戸で最大の繁華街だった。
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 その一方で・・・と思うことが一つある。隅田川に架かる橋の周辺のこのような賑わいに対して、それよりも川幅の広い荒川の流域はどんな様子だったのだろう。空の上から眺め下してみると、東京湾に流れ出る数々の河川の中でも荒川は有数の大河で、特に河口近くの川幅が広い。それなのに広重の錦絵の中に荒川の様子がちっとも出て来ないのはなぜなのか。残されているのは「逆井の渡し」という、荒川の西を流れる小さな川の鄙びた風景だけである。
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 答は簡単で、広重の時代、いや明治時代を通してみても、東京の下町に荒川という河川は存在しなかったからである。

 1910(明治43)年8月というと、日本が大韓帝国を併合する韓国併合条約の調印を月末に控えていた頃である。梅雨前線の南下によって5日頃から雨が降り続いていたところへ、11日に房総半島をかすめて太平洋に抜けた台風と、14日に駿河湾から甲府、更に群馬県西部へと抜けた台風とによって関東各地に集中豪雨が発生。この結果各地で河川が氾濫し、東京も含めた関東南部は未曾有の規模の水害を被ることになった。明治43年の大水害と呼ばれるものである。

 奥秩父の甲武信ケ岳(2475m)直下を水源とする荒川は、秩父盆地を貫いて寄居で関東平野に出ると、熊谷付近から次第に南を向き、現在のJR川越線の指扇・南古谷間で入間川を合わせた後、概ね南東方向に東京湾を目指す川である。昔から河道が安定せず、増水時にはその名の通り暴れ川になることで有名だった。その荒川が、利根川と共に明治43年8月にも暴れまくったのである。

 「山間部では山崩れを発生させ、家屋や田畑、橋や道路などの埋没・流失を招き、そして川へ大量に流れ込んだ土砂や流木は、濁流とともに堤防を決壊させました。明治以降、荒川最大の出水となるこの洪水は、利根川の洪水と合わせて埼玉県内の平野部全域を浸水させ、東京下町にも甚大な被害をもたらしました。記録に残る埼玉県内の被害は、破堤945箇所、死者・行方不明者347人、住宅の全半壊・破損・流失18,147戸、床上浸水59,306棟、床下浸水25,232棟にものぼりました。」
(国交省関東地方整備局 荒川上流河川事務所HPより)

 入間川と合流した後、当時の荒川は今よりももっと大きく蛇行を繰り返しながら、東北本線・荒川橋梁あたりで現在の隅田川の河道を通っていた。つまり、この時代までの江戸・東京にとって、荒川=隅田川であり、千住大橋あたりまでを荒川、そこから下流を隅田川と呼んでいたのである。蛇行が多いのは普段の川の流れが遅い地形になっているからであり、大雨による増水時にはそれが氾濫の原因になった。

 「埼玉県内では、県西部や北部に人的被害が多く、床上浸水被害が県南や東部低地に多かったのが特徴です。交通や通信網も遮断され、鉄道は7~10日間不通。東京では泥海と化したところを舟で行き来し、ようやく水が引いて地面が見えるようになったのは12月を迎える頃だったそうです。」
(同上)

 この年の水害損失額は当時の国民所得の3.6%にあたる112百万円にのぼり、明治時代としては最大の水害であったという。あの荒川の水がそのまま隅田川に流れ込む構造になっていたのだから、大雨の際にこのような水害が起きるのは避けられなかったのだろう。だから、「江戸名所百景」に登場する隅田川も、実際には広重が描いたようなのどかな情景ばかりではなかったに違いない。
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(現在の墨田区役所付近の隅田川の洪水。川の対岸は山の手側。)

 この未曾有の水害を受けて、明治政府は素早く動いた。時の首相兼蔵相・桂太郎が大蔵省秘書官に直々に命じて予算面における治山治水計画の骨格を作らせ、それを内務省に持って行って15年計画の具体案を発案させたという。先に大蔵省が金の算段を済ませたものであれば、内務省の具体案も話が取りやすいという訳だ。この水害発生時に、桂自身は軽井沢の別荘で静養中だったという。ところが大洪水によって鉄道も電信も不通となり、桂は東京と連絡がつかないまま現在の信越線・篠ノ井線・中央本線経由で帰京せざるを得なかった。その道中で水害の様子を目の当たりにした桂は、治山治水を急がねばという意を強くしたそうで、実際に工事は翌明治44年から早速始まっている。

 水害を防ぐための治山治水計画の内、首都・東京における対策は何といっても荒川の水を隅田川から切り離すことであり、そのために4つの案が出されたという。
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(荒川の水を隅田川から分離する計画案-国交省関東地方整備局 荒川下流河川事務所HPより拝借)

 第1案は、千住大橋の下流側で隅田川を分流させる新たな河道を建設する案だ。工事区間が最も短くて安価だが、これより上流部分の水害予防策にはならず、メリットが少ない。

 これとは逆に第2案はもっと上流の、入間川との合流地点あたりから荒川を早くも分流させてしまう案である。確かに水害は防げるだろうが、新たな河道の工事区間が極めて長く、なおかつそれが東京・山の手の市街地を縦断せざるを得ないので、実現性には乏しい。

 第3案と第4案は基本的に同じで、赤羽の岩淵地区付近に水門を設置し、そこで荒川を隅田川から分流させて中川の河口に繋げるというものである。それが日光街道の宿場町・千住の北を経由するのが第3案、南を回るのが第4案という訳だ。結局は新たな河道用の用地取得が比較的容易な第3案が採用された。これが、今となってはその名を語られることもなくなった荒川放水路である。
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(明治42年の赤羽・岩淵地区。当時、今の荒川の流れはなかった)

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(現在の赤羽・岩淵地区)

 ところで、この明治43年の大水害の11年前の8月27日に、東京・本所区と栃木県足利町を結ぶことを創立の趣意とした鉄道会社が、北千住と埼玉県・久喜の間で鉄道の営業を開始していた。現在の東武鉄道伊勢崎線の黎明期である。同社の社史には、「2時間間隔で1日7往復の混合列車を運転した。」とある。(混合列車とは客車と貨車とを併結させた列車のことだ。) そしてその3年後には、鉄路は北千住から吾妻橋(現・とうきょうスカイツリー駅、つまりその時点での東京側の終点)まで伸びていた。(無論、電化はまだ先の話である。)

 明治42年(つまり大水害の前年)作成の地図で北千住付近の様子を眺めると、確かに現在の荒川は皆無で、隅田川の流れだけが存在している。そして、明治29年の暮に日本鉄道の土浦線として開業していた現在のJR常磐線の線路を、北千住駅の北方で東武鉄道がオーバーパスする様子が描かれている。(その構造は現在も同じなのだが、当時は両鉄道共に、あたり一面の田んぼの中に建設された築堤の上を走っていたことが、その地図から見てとれる。)
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 ところが、明治43年の大水害を踏まえた「荒川放水路」の建設計画が世に出されると、東武鉄道伊勢崎線のルートが2ヶ所で変更を迫られることになった。
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 その一つが、この「田んぼの中のオーバーパス」だ。大正8年作成の地図では、このオーバーパスが荒川放水路計画ルートの真ん中に位置していたことが明確にわかる。あたりの水田は既になくなったようだが、荒川放水路(の予定地)にはまだ通水がなされておらず、昔の道路がそのまま残っていたりしている。
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 この荒川放水路を避けるために東武鉄道がルート変更を行ったのは1923(大正12)年7月、つまり関東大震災の僅か2ヶ月前のことだった。今度は北千住の先から荒川放水路を鉄橋で渡り、小菅の監獄に最も接近したあたりで左カーブを切りながら常磐線を越えている。(勿論、常磐線も新たに鉄橋を建設し、僅かではあるがルートが変わった。) つまりオーバーパス地点が旧線より北東側に移り、そこから先も西新井駅までのルートは旧線より北東側に変更となったのだ。そして、翌1924(大正13)年10月に新ルート上で小菅・五反野・梅島の3駅が新たに開業している。

 もう一ヶ所のルート変更は、北千住から南の鐘ヶ淵駅までの箇所である。S字状の線形の内、右下の部分の膨らみが荒川放水路の中央部にまでかかってしまうので、鐘ヶ淵駅の北側で直ぐに左急カーブを切り、荒川放水路の土手の淵に沿って北千住に向かうルートに変更する必要があったのだ。そして、土手に沿って走る部分の北端に堀切駅を開設。それは上述の小菅・五反野・梅島の開業と同日であった。
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 1911(明治44)年から工事が始まった荒川放水路の開削。それは総延長22kmにわたって川幅455~582mの河道を開削するもので、そのルート上にある土地の買収の総面積は11平方キロ、移転した住戸は約1,300戸に及んだ。地面の掘削や川底の浚渫によって掻き出した土量は東京ドーム約18杯分にもなり、その内の55%は両岸の築堤に使用されている。新たに4本の鉄道橋と13本の道路橋が架けられ、既存の河川との接点には3ヶ所の閘門と7ヶ所の水門が設置された。掘削や土砂の運搬をまだ人力に頼る部分も多く、大変な工事であったようだ。(途中、1923(大正12)年に関東大震災が発生し、築堤などに被害が出た一方で、通水前の河道は周辺住民15万人の避難場所にもなったという。)

 数多くの困難を経て、1924(大正13)年10月に赤羽の岩淵水門が完成すると、いよいよ通水を開始。工事開始からちょうど20年目にあたる1930(昭和5)年に、荒川放水路は竣工となった。総工費31.4百万円は、今の価値に換算すると2,300億円に相当するという。そして(上流にダムや調整池が整備されたことの効果は勿論大きいが)、これ以降現在に至るまで、荒川放水路の決壊は一度も起きていない。

 荒川放水路の開削が行われたこの20年間は、日露戦争終結の6年後から満州事変勃発の前年にかけての期間である。その前半には第一次世界大戦による好況期があったものの、その後は戦後不況に関東大震災、そしてニューヨークの株価大暴落に端を発した昭和金融恐慌と重なっている。日本にとっては苦しいことの多い時期であったが、一方でこの開削工事は失業者の受け皿としての公共事業にもなったのだろうか。

 明治43年の時点であのような大水害が起きたほど、帝都東京の治水が脆弱であったことにも今更ながら驚かされるが、それを受けた荒川放水路の開削は、この20年を逃しては出来なかったのかもしれない。勿論、今とは違って用地の確保にも工事の方法にも荒っぽい面はあったのだろうが、大都市のインフラ整備は何といっても政治家の決断力とリーダーシップにかかっているのだ。新聞紙上に「豊洲」・「築地」という文字が躍るたびに、私はこの20世紀初頭の開削事業のことを思い浮かべている。

 今や、人口の河川であることは殆ど認識されなくなった荒川放水路。1965(昭和40)年には正式に荒川の本流と定められ、以後「放水路」という言葉は消滅している。

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