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帝都の治水(補遺) [散歩]


 前回は昭和5年に竣工した東京の荒川放水路について書いてみた。
 http://alocaltrain.blog.so-net.ne.jp/2017-07-29

 その関連で、週末の散歩がてらに見て歩いたことのいくつかを、補遺として残しておくことにしたい。

 JR総武線・亀戸駅の北口に出ると、南北に走る広い道路が明治通りだ。その明治通りの一本東側の細い路地を北に向かう。この路地はいかにも駅裏の飲み屋街といった感じで、今は土曜日の午後2時前だが、餃子屋の前には行列ができ、もうもうと煙を上げるモツ焼き屋は昼間っから繁盛してそうだ。

 なおも直進し、自動車通りに出たところで右折。そこから300mほども歩くと、道の左側に小さなお社がある。それが亀戸水神である。有名な亀戸神はここから蔵前橋通りに沿って西へ1kmほど行ったところだ。天神様は言うまでもなく菅原道真公のことだが、この亀戸水神のご祭神は弥都波能売神(ミズハノメノカミ)という神様である。
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 日本神話ではイザナミが数々の「神産み」をしたことになっているが、ミズハノメノカミはイザナミの尿から生まれた女神で、水を司る神様だという。神社の御由緒によれば、室町時代末期の1521~46年頃の創立で、このあたりを開墾した土民が水害を防ぐために堤防を築き、大和国吉野の丹生川神社からこの神様を勧請したことがその始まりなのだそうである。(亀戸天神の創立は江戸時代に入ってからのことだから、亀戸では水の神様の方が先輩格になる。)
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 地図を見ると、ここは旧中川と隅田川に東西を挟まれた土地だ。旧中川は幾つにも蛇行した、いかにも増水時には暴れそうな川で、徳川家康が大規模な治水工事を行う以前には利根川の水も東京湾に流れ込んでいたから、水害は繰り返されたのだろう。また、江戸時代の初期に水路として旧中川と隅田川を結ぶ北十間川が開削されたが、隅田川の氾濫時には水が逆流して被害が広がったそうである。20世紀に入って荒川放水路の開削が行われた背景の一つとして、隅田川の下流では室町時代から治水の重要性が認識されていたということを、ここでは押さえておきたい。
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 水神様に二礼二拍手一礼を済ませた後、神社への参道だったと思われる道路を200mほど進むと踏切があり、その右手にはカーブの途中に作られた駅がある。東武亀戸線の亀戸水神駅だ。週末の昼間は10分間隔のダイヤで二両連結の電車が亀戸・曳舟間3.4kmを往復する、東京23区内にありながらローカル色の濃い路線で、私自身も乗車するのは今回が初めてになる。けれども、東武亀戸線の開業は1904(明治37)年と、非常に早い部類のものだ。世が世ならば、これが東武鉄道の本線になっていた可能性もあるのだが、そのあたりの経緯についてはまた別の機会に纏めてみることにしよう。
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 亀戸線の電車に乗って曳舟駅で伊勢崎線の普通列車に乗り換え、そこから二つ目の鐘ヶ淵駅で下車。前回見たように、この鐘ヶ淵駅から次の堀切駅にかけては、荒川放水路の開削に伴って東武伊勢崎線のルートが変更になった箇所である。
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 1902(明治35年)に東武伊勢崎線の吾妻橋(現・とうきょうスカイツリー駅)・北千住間が開業した時には、鐘ヶ淵駅から緩やかな左カーブで荒川放水路の中央近くまで張り出した上で放水路の右岸に戻るルートになっていたのだが、新ルートは鐘ヶ淵駅から左急カーブを切って荒川放水路の土手に迫り、その土手に並行して暫く走った上で、再び左急カーブで従来のルートに戻ることになった。だから、鐘ヶ淵駅は上り線ホームの全体と下り線ホームの北端がその急カーブの中にある。
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 駅を出て線路の東側の路地を歩いて行くと、程なく荒川の土手に上がる道がある。そこから鐘ヶ淵駅を眺めてみると、確かに線路が急カーブで土手に迫っていく様子がわかる。
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 線路は土手の法面(のりめん)ギリギリまで近づいてから土手に並行した直線部分を形成しており、荒川放水路の開削計画と折り合っていくためには、こうするより他はなかったと思わざるを得ない。
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 このルート変更がなければ旧線の線路があったであろうあたりには野球場が整備され、球児たちの声が広い空に響き渡っていた。
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 線路を下に眺めながら土手沿いに1kmほど歩くと、頭の上を高速道路が横切る所に隅田水門があり、荒川から隅田川へと通じる水路が現れる。昔の綾瀬川の地形を利用したもので、この地点では荒川と隅田川に挟まれた陸地は400mほどの幅しかない。
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 そして、この水門の直ぐ先に現れるのが堀切駅だ。荒川の土手に沿った線路の直線部分が終わり、左カーブで元々のルートに戻ろうとする地点にあるため、ホーム全体が急カーブの中にある。
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 上り線ホームからの出口(=東口)は荒川の土手に面した一ヶ所だけ。自動改札を出て15段の階段を上ると川の堤防の上に出るなどというのは、東京23区内ではこの駅だけではなかろうか。こういう「寂れた感」が悪くない。
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 そして、下り線ホームの駅舎が実にレトロでいい。東京を遠く離れたローカル私鉄のような雰囲気だ。辺りには商店一つなく、実にひっそりとした駅前である。
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 ところで、作家・永井荷風(1879~1959)は、かつて荒川放水路の左岸を川上から川下へ散歩した時の様子を、以下のように記している。

 「西新井橋の人通りは早くも千住大橋の雑沓を予想させる。放水路の流れはこの橋の南で、荒川の本流と相接した後、忽ち方向を異にし、少しく北の方にまがり、千住新橋の下から東南に転じて堀切橋に出る。橋の欄干に昭和六年九月としてあるので、それより以前には橋がなかったのであろうか。あるいは掛替えられたのであろうか。ここに水門が築かれて、放水路の水は、短い堀割によって隅田川に通じている。
 わたくしはこの堀割が綾瀬川の名残りではないかと思っている。堀切橋の東岸には菖蒲園の広告が立っているからである。」
(『放水路』 永井荷風 著、昭和11年4月)

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 荷風が「綾瀬川の名残りではないか」と推測した短い掘割に築かれた水門は、先ほど通り過ぎた隅田水門のことだ。他方、堀切橋については若干の説明が必要になる。

 1902(明治35)年に東武伊勢崎線の吾妻橋・北千住間が開業した時に、堀切という駅は旧ルート上、つまり今は荒川の河道になっている箇所のどこかに設置されていたのだが、僅か3年後の明治38年に客扱いが休止となり、更に明治41年には廃止されてしまった。止まったり発車したりを頻繁に繰り返すことに向いていない蒸気機関車にとって、鐘ヶ淵・堀切間の距離が短すぎたというのが理由とされるが、利用者が少なかったこともあったのではなかろうか。

 それが、1924(大正13)年に荒川放水路の開削に伴う東武伊勢崎線のルート変更の際に電化も完成し、先ほど見た場所に堀切駅が復活することになった。その時に、地元の要望があって駅の近くに荒川放水路を渡る堀切橋が架けられた。それが荷風も見た初代の堀切橋だ。(先ほど見た、頭の上を越えて荒川を渡る首都高6号向島線の高架橋とほぼ同じ位置にあったようである。)そもそも堀切という地名は荒川放水路の対岸、つまり現在の葛飾区側のものであり、その堀切地区の人々にとって、かつての最寄り駅が今度は川向こうになってしまった。だから堀切橋が新たに架けられたのである。
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 ところが、その後の1931(昭和6)年に京成電鉄が上野線(日暮里・青砥間、現在の京成本線)を開業し、荒川放水路の右岸(葛飾区側)に堀切菖蒲園駅、左岸(足立区側)に京成関屋駅を開設すると、葛飾区側の堀切地区の人々も、足立区側の堀切駅周辺の人々も、都心に出るには京成電車の方が便利になり、東武の堀切駅は乗客を大幅に奪わることになってしまったという。そして、堀切橋自体も戦後になって250mほど上流の、現在の新堀切橋へと代替わりしている。今や、新堀切橋を渡って堀切駅を利用する人などは皆無であろう。
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(京成本線の全通後)

 堀切駅までやって来たところで雨が降り出した。曳舟や鐘ヶ淵で何人も見かけた浴衣姿の人々は、今夜の隅田川花火大会がお目当てだったのだろうが、ちょっと気の毒なことだ。私も傘を持っていなかったので、堀切のもう一駅先の牛田まで行き、そこから目と鼻の先にある京成関屋駅から京成電車に乗って都心へ戻ることにした。

 そのため、荒川放水路開削のために東武伊勢崎線がルート変更になったもう一つの箇所、つまり小菅・五反野間でJR常磐線をオーバーパスする部分については、今回は自分で見て歩くことが出来なかったが、実は戦後になって、このオーバーパスは俄かに注目を集めることになった。

 1949(昭和24年)7月5日朝、日本国有鉄道初代総裁の下山定則氏が公用車で出勤途上に失踪、翌7月6日未明に轢断死体で発見されるという事件が起きた。この死体が生体轢断なのか死後轢断なのかを巡って専門家の見解が分かれ、多くの自殺説・他殺説が飛び交う中、警視庁は捜査結果を発表することなく同年末に特別捜査本部を解散し、15年後には殺人事件である場合の公訴時効が成立。戦後最大の迷宮入り事件の一つとされる、いわゆる下山事件である。

 下山総裁は7月5日の朝、公用車で都内の自宅を出発。通常ならば午前9時前には丸の内の国鉄本社に出社するところを、この日は運転手に命じて日本橋・丸の内一帯を複雑なルートで周回。9時37分頃に三越百貨店前に停車させ、「5分位で戻る」と言い残して三越に入店、そのまま消息を絶った。

 その後、浅草行の地下鉄銀座線の車内や東武伊勢崎線・五反野駅で下山総裁と思しき人物が目撃され、午後2時から5時頃まで同駅近くの旅館に滞在。そして午後6時以降は五反野駅から南の東武伊勢崎線沿線で、同様の人物が複数の人間によって目撃されている。そして、日付が替わった7月6日の午前0時半過ぎに、国鉄常磐線の北千住・綾瀬間の下り列車用線路上で下山総裁の轢断死体が発見された。

 この時の死体発見現場が、東武伊勢崎線がJR常磐線をオーバーパスした地点から、綾瀬方の最初の踏切の手前までの場所であったそうである。(その後、現場付近の常磐線は高架になったので、同踏切は今はなく、道路との立体交差になっている。)
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 前日の出社前の下山総裁の不可解な行動。「影武者」によるアリバイ作りの匂いがする目撃情報(その一例として、自他共に認める愛煙家だった下山総裁が、現場付近の旅館に3時間滞在する間に一本の吸殻も残していないこと等)。轢断場所での血液反応の異様な少なさ。轢断した貨物列車の一本前に現場を通過した進駐軍専用列車の存在。下山総裁失踪の前日に国鉄が発表した3万7千人の従業員に対する整理(=解雇)通告。ソ連・中国との冷戦の激化を受けた米国の対日占領政策の「逆コース」化・・・。

 今もなお多くの謎が残る下山事件の現場は、今回その歴史を辿ってみたように、荒川放水路の開削計画がなければ今の場所ではなかったのだ。東武伊勢崎線のルートが旧線のままであったなら、今の五反野駅に相当する駅がその後に開設されていたのかどうか。そこに駅前旅館があったのかどうか。もしかしたら下山事件の発生現場は全く違う場所になっていたのかもしれない。

 歴史にifはないと言われるが、ついそんなことも考えてみたくなった。

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