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仏の国の通史 [美術]


 8月11日(金)、今年から始まった「山の日」のおかげで、お盆休みを合わせると会社は来週の水曜日まで6連休だ。

 私は今年の4月下旬に開腹手術を受け、今はまだそこからの養生過程にあるので、山の日といっても山歩きはまだ封印中である。もっとも、この夏は特に8月に入ってから天候不順が続いており、東京では何だかんだ毎日雨が降っている。この時期に山へ行っていたとしても、山頂から一望千里という訳にはいかなかっただろう。

 この日は夕方から家内と上野に出かけ、東京国立博物館で開催中の日タイ修好130周年記念特別展『タイ ~仏の国の輝き~』に足を運んでみた。

 私が1996年から2003年まで香港に赴任していた間、仕事でも家族旅行でもタイにはよく出かけたものだ。独特の民族文化を今も色濃く残した非常に特徴のある国で、どこへ行っても食べ物は美味しいし、暑さの中で万事ゆったりと物事が動いていく感じが好きだった。そして、私たち日本人にも親しみのある仏教が今なお非常に盛んだが、それは我が国のものとは随分と有り様の異なる仏教で、そこが何ともエキゾチックである。そんなタイに残された仏教美術の名品を通じて同国の歴史と文化に触れるという企画。東京メトロの車内で盛んに流れる広告を最初に見た時から、これは行こうねと家内と話していたのだった。

 東京国立博物館は毎週金曜日が21時閉館なので、遅い時間からでも展覧会を楽しめる。この日、私たちは17時半過ぎに入場。祝日の夕方だが、世の中はお盆の帰省の初日ということもあってか、博物館の中はガラガラで、実にゆったりと展示物を鑑賞することが出来た。
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 特別展の鑑賞を始めて感心したのは、展示物の説明と共に、タイという国の歴史そのものに関する説明が実にわかりやすいことだ。

 家に帰って高校時代の世界史の教科書をひっくり返してみると改めて気付くのだが、タイを含めた東南アジアの歴史に関する教科書の記述は、さながら中国史とインド史の谷間にすっぽりと落ちていて、極めて断片的にしか述べていない。だから、私自身も極めて不勉強なことに、タイという国の通史を全く理解していなかった。東南アジアにあって帝国主義の時代に欧米列強の植民地にならなかった唯一の国、という断片的な知識がかえって邪魔をして、遥かな古代からタイ人の王国が連綿と続いて来たかのようなイメージを勝手に持ってしまっていたのである。

 ところが、タイの地理を改めて整理してみればわかるように、この国の北部はユーラシア大陸の一部でインドシナ三国やミャンマーと陸続きだ。そして南部のマレー半島から南はマレーシアやインドネシア、そしてフィリピンなど島嶼部の多い国々との船での往来が古来盛んで、それはインドと中国を結ぶ海上交易のルート上にある。だから、古くはヒンドゥー教、その後はイスラム教の文化が入り込み、民族的にも華僑や印僑のプレゼンスが大きい地域だ。要するに、極東の島国に住む私たちとは比べ物にならないほど、タイは歴史上、周辺の民族に揉まれ続けて来たのである。

 チャオプラヤ川の肥沃なデルタが広がるタイの平野部には、BC36世紀にも遡るという世界でもかなり早期の農耕文明が興り(世界遺産にもなった遺跡あり)、AD6~11世紀にかけてチャオプラヤ川沿いのタイ中央部から北部にかけて都市国家が成立。これが世界史の教科書にも一応名前だけが載っているドヴァーラヴァティ王国である。これを形成したのはモーン族という、古くから東南アジアに居住していた、肌が浅黒くて目がギョロッとした民族だそうだ。
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 ついでながら、タイ国政府観光庁のHPには
「かつてはタイ族の起源は中国から南下した民族であるとされていましたが、以上のような先史時代の遺跡、またドヴァーラヴァティ王国やクメール王朝などの史料から、現在その説は否定されています。」
という風にきっぱりと書かれているところが面白い。「俺たちは中国人の末裔なんかじゃないぞ!」という気概を見せているようで。

 そのドヴァーラヴァティ王国では上座部仏教の信仰が篤く、造営された数多くの寺院に法輪が造られたという。「車輪が転がるように仏陀の教えが広まることを意味する」法輪が盛んに造られたのはこの王国の大きな特徴なのだそうだ。
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(7世紀に造られた法輪)

 その後、7世紀頃から現在のカンボジアでクメール族の王国が隆盛になり、ドヴァーラヴァティから独立して9世紀にはアンコール朝が成立。11世紀には強大になってタイ中央部も勢力下に治める。有名なアンコール・ワットが建設されたのは12世紀初めのことである。(このアンコール・ワットに象徴されるように、クメール族はなぜかヒンドゥー教の強い影響を受けていた。)
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 しかしアンコール朝の繁栄も長くは続かず、中国を支配したモンゴル人のの勢力がインドシナにも及び始めると、アンコール朝の支配下にあったタイ族が玉突きのようにして雲南地方から南下。13世紀前半にタイ中北部を支配してクメール族の勢力を駆逐する。こうして成立したのが、タイ族初の王朝となるスコータイ朝だ。「幸福の生まれ出ずる国」という意味を持つこの王朝下では上座部仏教に基づく仏教文化がいよいよ栄え、タイ語の文字や文学が生まれるなど、現在にも繋がる「この国のかたち」が形成されていく。日本でいうと鎌倉時代の初期にあたる。
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 特別展に展示された14~15世紀のこの王朝下の仏像は、私たちが一般的に持っているタイの仏教文化のイメージそのものではないだろうか。
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 その後、14世紀半ばになると、スコータイの南にアユタヤ朝が成立。これがスコータイを併合し、東のクメール王国にも侵攻して首都アンコールを陥落させる。以後400余年の間、この王朝は国際交易国家として栄え、秀吉・家康の時代には朱印船貿易に携わった日本の商人たちもここに集い、日本人町も誕生した。言うまでもなく山田長政(1590~1630)が活躍した時代である。(日本人町に集まったのは商人だけではなく、戦国時代末期に主君を失った浪人たちが傭兵として海を渡ったケースも多かったのだ。)
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(薙刀を持っているのが日本人義勇兵)

 しかし、アユタヤ朝はその成立以降、西に隣接する現在のミャンマーを支配していた王朝と何度も戦火を交えた。その中で1765~1767年にかけて起こった戦争で首都アユタヤは陥落し、街はミャンマー軍によって徹底的に略奪・破壊され、アユタヤ朝は完全に滅亡してしまった。

 私は香港駐在時代に家族を連れてアユタヤを訪れたことがある。石造りの仏教遺跡の数々を巡り、それらがミャンマー軍によって破壊されたという説明も受けたのだが、まるで古代遺跡のように風化したその様子から、ミャンマーとの戦争とは、例えて言えばポエニ戦争(ローマvs.カルタゴ)のような古い話なのかと恥ずかしながら思っていた。しかし、それが18世紀の戦争だったとすれば、それなりに砲火(少なくとも銃火)を交えるような戦争だったのではなかろうか。
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(アユタヤの遺跡の一つ、ワット・プラシーサンペット)

 このアユタヤ朝滅亡のあたりから、世界史の教科書においてタイに関する記述はなくなり、その次は帝国主義時代の列強諸国による東南アジアの植民地化の話まで飛んでしまう。だが実は、1767年のアユタヤ朝滅亡の後、15年間の争乱を経る中でタイ族の勢力はミャンマー軍を再び撃退し、1782年にチャオプラヤー・チャクリーが内乱を鎮めてラーマ1世として即位。これが現在も続くラッタナコーシン朝(またはバンコク朝)である。

 その後、19世紀半ばに王位にあり、映画「王様と私」で有名なラーマ4世の時に清朝への朝貢を止めて冊封体制から脱し、西洋との自由貿易を開始。続くラーマ5世の時代に数々の近代化政策が実施された。因みに、今年で「日タイ修好130周年」という1887(明治20)年の日タイ修好通商宣言は、このラーマ5世の外交政策の成果物なのである。

 首都バンコック最大の観光地の一つである「エメラルド寺院」は、ラーマ1世の時代に建てられたものだ。予備知識を何も持たずに行くと、奈良や京都の名刹のように古いものと考えてしまいがちだが、実は日光の東照宮より150年以上も後に建てられたもので、タイの歴史の中ではかなり新しい存在なのである。
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(Google Earthで俯瞰した「エメラルド寺院」)

 仏像を鑑賞するというよりも、私の場合は今回認識を新たにするになったタイの通史の方に目が行ってしまったが、こういう機会に学び直すことが案外あるものだと思った。タイの通史をもう少しきちんと頭に入れていたら、香港駐在時代に何度も足を踏み入れたあの国の姿をもっとまともに見つめることが出来たかもしれないという大きな後悔も含めて。人間、還暦を過ぎてもなお、まだ知らないことだらけだと痛感している。

 いつもなら東京国立博物館の特別展は黒山の人だかりなのに、「山の日」の夕方に訪れた今回は入場者も少なく、展示室のソファーからもゆっくりとタイの仏様の微笑を鑑賞することが出来た。金曜日の夜に行くのはおススメである。

 外に出ると日没後の残光がそろそろ消えようかという頃で、本館のライトアップが美しかった。

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