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「私」の解消 [読書]


 8月16日(水)、6連休になった会社のお盆休みも最終日を迎えた。だが、東京は終日雨が降り続き、街は人通りも少ない。8月のど真ん中だというのに気温も低めで、盛夏らしからぬ冴えない一日だった。

 毎年この日は、お盆で里帰りしていた祖先の霊を送り出す「送り火」、いわゆる大文字焼きが各地で催される。こういう時代になって、火をLEDに切り替えた地域もあったそうだが、いずれにしても大文字焼きのニュースに接すると、夏も残り少なくなったなあという淡い寂寞感に囚われてしまう。それは還暦を過ぎた今でも、私の中では子供の頃とあまり変っていないようだ。
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 もっとも、さすがにこの歳になって、全く無邪気に夏休みを過ごしていた子供の頃との違いがあるとすれば、お盆のせいかこの時期には自分がどこか仏教臭くなることだろうか。会社の夏休み最後の日、雨の中をわざわざ出かけるほどの用事もない私は、数日前に買った南直哉(みなみ じきさい)氏の新書本を読んでいた。著者は大学を卒業後、数年の会社員生活を経て仏門に入り、福井の永平寺で20年も修行を続け、今は恐山にあるお寺の院代を務めるお坊さんである。(以下、青字部分は本書からの引用。)
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 幼少の頃から病弱で、激しい発作による呼吸困難に苦しみ続け、間もなく迎えるかもしれない「死」とは何か、それとは逆に「生」と何かを子供なりに考え続けたという著者。やがてそれは「自分の存在の根拠とは何か」という問いに発展し、高校時代には哲学書・思想書の類を読み漁ってみるのだが、肝心なところがわからない。とりわけ、自分が存在することの根拠を“唯一絶対”の創造神の存在に投げてしまうキリスト教の考え方には、ついて行けなかった。

 そんな著者は、やがて日本曹洞宗の開祖・道元禅師の『正法眼蔵』にある有名な一節に出会う。
 「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己を忘るるなり。」

 そもそも「この『私』はそれ自体で本当に存在するのか。その一貫性を根拠づける何かがあるのか。」 「昨日の『私』と今日の『私』が同じ『私』であることの証明は、昨日の『私』はすでにいない以上、無理」であるならば、「今までも、今も、今後も存在する『私』を当たり前のように前提にすること」もまた無理なのではないか。まして「『私』の存在は『自己決定』によって始まったわけではない」のであれば、「『自己』自体が幻想に過ぎない」 つまり、「一貫して変わらない(と思い込んでいる)“私”の存在が、老・病・死の苦しみの大前提」なのだ・・・。

 「(中略)仏教は根拠を求めて苦しむ人間に根拠を与えて救うのではなく、そのような人間の在り方そのものを解体することによって、『苦しみを消去してしまえばよい』と考えるのです。
 これは、どう考えても尋常な話ではありません。どう転んでも仏教が「ヒューマニズム」になることは金輪際ありません。『ありのままの自分』を大切にするような考え方と真逆にあるのが、仏教なのです。
 これほど極端な考え方に、シンパシーを感じる人が昔から今までかなりの数存在し続けてきた、考えると不思議なことです。」

 ブッダや道元の言葉を通じて、「自己」の実在を否定する仏教の考え方に巡り合った著者は、「これは、“絶対に正しい何か”の話とは別物だ。何の確信もない。でも仏教を選択するのだ」という“賭け”に出て仏門に入り、結果的に今に至っているという。

 そんな経緯があるためか、本書における自分の仏教についての考え方は基本的に偏っており、一般的な仏教を知りたい人には向かないと著者は謙遜している。だが、本書の後段で著者も述べているように、「絶対の真理」や「絶対者」の存在を前提にしていて「答え」がひとつでなければならない宗教とは異なり、仏教が投げかけるのはあくまでも「問い」であって、それに対する答えの出し方は様々なのだから、著者なりの仏教論があっていいのではないか。読者の一人として、少なくとも私はそれを楽しませていただいた。

 「苦」、「無常」、「無我」、「縁起」、「因果」、「業(ごう)」、「空」・・・。仏教書を読めば必ず出て来るキーワードに関する著者なりの説明も、なかなか興味深い。普段から明快な文章を得意とする著者の手にかかっても、様々な比喩を用いながら理解のヒントを提供するという手法を用いざるを得ず、言わんとしていることを読者はそこから懸命につかみ取ろうとするしかないのだが、そもそも仏教とはそういうものなのだろう。「不立文字」にして「教外別伝」なのだから。
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 本書のクライマックスは、「『悟り』―それは『開けない』」と題された章である。

 まず、「煩悩」とは何か。それを「本能的な直接性を失って、それが『意識』と『言葉』を持つ人間における欲望として発現する」ものと説く。本能としての「空腹を満たすこと」と煩悩としての「美味しい」とは別物で、前者は物理的に満腹になればそれで終わりだが、後者には際限がない。同じ理由で、「所有」に対する欲求も「煩悩」の最たるものだろう。

 そこで、「煩悩にとらわれた凡夫がブッダの教えに従って修行して、悟った結果、煩悩をコントロールするか、煩悩を滅して解脱し、最後は涅槃に至る」という仏教のプロセスが始まるのだが、多くの場合、修行と苦行を混同し、或いは修行それ自体が自己目的化し、目指すところの「悟り」とは何かを取り違えているという。

 「人間の『煩悩』や『欲望』が意識や言語に深く浸透されている」のであれば、煩悩による苦しみは「『私』という在り方(=『私』という言葉を使う実存)でいる以上は決して解決し」ない。ならば「問題の解決は『欲望』の消去ではなく、欲望する『私』の解消、或いは改造」、言い換えれば「『無常』であるにもかかわらず、それ自体で存在していると思い込むような『私』の錯覚を解消すること」になり、そのために座禅や瞑想などの修行方法が伝えられて来た。

 しかしながら、「そのような修行が結果的にもたらす心身状況を特別視して『真理』と考え、結果的に『実体』化すること」は避けねばならないという。修行によって得られる一種の恍惚感を以て「悟った」などとしてはいけないということだ。これは「決して完結しない修行」であって、道元が言うところの「悟った上にも悟る(悟上得悟)」という姿勢が肝要だというのである。

 そして、その修行としての「座禅」。道元の「只管打坐」という言葉がつとに有名だが、著者によればこれは「ただ坐る」という意味で、「『悟り』のための座禅を否定する言葉」だという(!)。座禅を重ねて行くと次第に感覚が開放され、身体の内外を区別する感覚が曖昧になって、やがては「非思量」という、自意識が融解してしまう状態になるそうなのだが、それでも「ただ、そうなる――というだけのこと」で、それがブッダ本人の到達した境地と同じかどうかを決める根拠は一切ない、と突き放している。本書の表題である「『悟り』は開けない」とは、そういう意味なのだろう。
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 然らば、歴史的事実としてはゴータマ・ブッダの死を意味する「涅槃(ニルヴァーナ)」とは何か? 「悟りの境地」とは、要するに「死」と同じことなのか?

 例えば“唯一絶対”の神によって「自己」の存在が与えられ、その「自己」を実体のあるものと考えるならば、「『自己』のうちに『自己』であることを根拠づける不変の何ものか」、つまり「『霊魂』のようなもの」の存在を想定することになる。ならば死とは生きている世界から(霊魂が)移動するだけで、それが最終的に天国へ行くのか地獄へ行くのかはともかく、「自己」の存在は永遠に変わらない。それが「古今東西、最も一般的な死の考え方」だと著者は言う。

 それに対して仏教では、自分の死を自分で語ることは誰にも出来ないのだから、死が何であるかは絶対的にわからないものだとしたうえで、生と死は対立概念ではなく、「『生きている』とは『死んでいくこと』」であり、「死に侵された生こそ『自己』が実存することの『無常』」と考える。とすれば、「『自己』が生きる意味(=『自己』の存在根拠)を欲望し続けることを止めてしまえば、死も無意味になる」わけで、「無意味でわからない死を、無意味でわからないまま受容すること」「その無意味を怖れることも、その無意味に憧れることも、無視することも欲望することもなく、ただ受容する態度が、『死』を『ニルヴァーナ』に転換する」のだという。さすがにここまで来ると、凡夫の私にはまだ十分に呑み込めていない、というのが正直なところではある。
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 では、座禅という修行を重ね、「自己」の実存への欲望を滅することが出来たとして、その先はどうするのか。実践することが最も重要とされる仏道は、畢竟何のためにあるのか。そのことへのキーワードとして、筆者は「他者の受容」を挙げている。

 既に述べたように、死が何であるかは絶対的にわからない。それと同じく、我々には絶対にわからないのが「他者」である。絶対的にわからない死を「わからないもの」として受け入れることは、やはり絶対的にわからない「他者」を「わからないもの」として受容することと根底で繋がっているのだと、著者は説明する。

「まず座禅という方法によって『自己』の無根拠さを自覚する。この自覚において、『自己』がそれ自体で存在するのではなく、『他者から課された自己』という構造で存在していることを認識する。このいわば『自己』の初期化から、再度『他者』といかなる関係をつくり出し、それによってどのように『自己』をプログラムし直して起動させるかを問う――。」

 このことを著者は「『自己』を『他者』に向かって切り開く」とも表現している。他者との対話を成り立たせ、「他者との間に利害損得とは別の関係をつくり出」し、「自他に共通の問題を発見して、一緒に取り組む」こと。そして、「仮にその行動から利害が生じるなら、そのときは一方的に自分が他者に利を譲る覚悟をする」こと。それが仏道だというのである。

 考えてみれば、「我思う、故に我あり」という西洋の啓蒙主義を土台にして近代資本主義が勃興し、その資本主義の枠組みの中で経済効率の更なる向上を日夜追い求めることが世界のスタンダードになってから、もう既に久しい。けれども、とりわけ1990年代以降の米国で金融とITが興隆して以降、世界は大きな金融危機を度々経験する一方で所得格差は拡大の一途を辿り、行き過ぎた資本主義経済がもたらす弊害はもう誰の目にも明らかである。資本主義の原動力は「我思う・・・」どころか、今や「我所有する、故に我あり」だ。こうして資本主義経済と市民社会、議会制民主主義との間のバランスが崩れてしまったことが、移民・異教徒・富裕層などへの激しい憎悪を呼び、世界各国はテロの横行に揺れている。

 そのような風潮の中で、著者が説明するような仏道の実践は極めてハードルが高いと言わざるを得ないし、まずは修行を続けて「自己」を求める欲望の解消を図るというのは、いかにも遠回りなアプローチであるようにも見える。それこそ、ブッダの言うように「犀の角のように独り歩む」覚悟が要ることだろう。しかしながら、中庸と寛容の精神を持って他者を受容するこうした仏道の実践でも行われない限り、このまま行けばこの世は利害が衝突するばかりの本当にとんでもない世界になってしまうのではないかと、本書を読み終えてからその思いを新たにした。
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 同じ日の夜、日経新聞の夕刊に目を通していると、シンクタンク出身で現・法大教授の渡部亮氏がコラムにこんなことを書いていた。米国では、日本では考えられないような超高所得の資産家や企業家が誕生し、その政治献金によって連邦議会議員に圧力をかけ、自らの利権擁護を図っていることについての評論である。具体的には、高所得者からの圧力を受けて、社会福祉関連支出を削減し、その分を高所得者の減税に充てようと、トランプ政権が医療保険制度改革法(いわゆるオバマケア)の廃止を議会に上程。しかしながら、低所得者の医療費負担増が自らの票田に影響する民主党と共和党穏健派がこれに反対、その他の税制改革法案も滞っていることを指している。

 「表面上これは政治問題だが、その背景には経済の論理が民主主義の論理を圧倒してしまったという事情がある。経済成長や利益追求を優先した結果、繁栄の基盤であった議会制民主主義や健全な市民社会が危機に瀕している。低所得者向け減税や社会福祉支出などの所得再分配政策を行わないと、米国の社会的混乱は激化するであろう。
 資本主義は所得格差や金融危機といった弊害を生みやすい。民間の利益追求の行き過ぎを政府が制御する必要があるが、経済的利権がらみのイデオロギー対立によって制御不可能になっている。」
(2017年8月16日付 日本経済新聞夕刊 『十字路』より抜粋)

 私たちは、この日本をそんな国にしてしまってはいけないのである。

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