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北の守り神 [散歩]


 JR仙台駅から、車体に石ノ森章太郎の懐かしいアニメ・キャラクターが描かれた電車に揺られること30分。本塩釜駅で高架のホームに降り立つと、午後の爽やかな秋空が広がっていた。

 出張先での仕事が早めに終わり、後は東京に帰るだけ。自分一人だし、日暮れまでにはまだ少し時間があるから、折角ならばそれを利用して宮城県の地理にも親しんでみようか。そう思い立ったが吉日、私は仙石線の電車に飛び乗ってここまでやって来た。駅の直ぐ先には港も見えて、ちょっと遠くまでやってきた気分になる。
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 塩釜という地名は、製塩用の「かまど」を意味する普通名詞から来ているそうだが、それならば漢字は「釜(かま)」ではなくて「竈(かまど)」のはずだ。現に自治体の名前は塩竈市だし、私がこれから訪れる予定の神社は鹽竈神社という更に古風な表記になっている。人間が生きて行くために不可欠な塩。この地域に限らず、かつては日本の津々浦々に「塩竈」が見られたことだろう。(因みに、英語の”salary”(給与)の語源はラテン語の”salis”(塩)なのだそうだ。)

 名勝・松島の島々を抱く内海に面した塩竈はもとより平地の少ない所で、埋立地がつくられる以前は数々の丘陵が海に迫る地形だった。古代に東北地方南部(福島県・宮城県・山形県の一部)を陸奥国と呼んで支配を広げつつあった畿内の中央政権は、政治・軍事上の拠点として多賀城国府を建設(724年)。塩竈はその国府の外港(国府津(こうづ)と呼ばれた)としての役目を担い、その海に向かって西側から岬のように突き出した丘陵の上には、創建の年は不明ながら陸奥国の守護神として鹽竈神社が置かれた。(国府から見て鬼門の方角に神社が置かれているのが興味深い。)この神社(宮)と国府(城)が「宮城」の地名のもとになったと言われるぐらいだから、今回私が訪れている地は、宮城県のルーツと言ってもいいのだろう。
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 そんな経緯があるので、鹽竈神社は陸奥国一宮である。諸国一宮の中で、東北地方太平洋側ではこの神社が最北なのだ。機会があれば是非一度訪れてみたいと思っていた。
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 本塩釜駅から西方向へ400mほど歩くと、道路の北側に大きな鳥居が現れた。それが鹽竈神社の東参道の入口で、参道はそこから丘陵の尾根を緩やかに登っていく。平安時代に奥州藤原氏の三代目・秀衡が開いたとされる道で、敷石は石巻から運ばれたという。平日の午後だから、あたりは実にひっそりとしたものだ。草むらではヒガンバナの赤色が鮮やかなアクセントを見せている。
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 やがて正面に再び大鳥居が。シンプルながらも品格のある扁額を見上げて、思わず一礼。やはり陸奥国一宮は鳥居からして違うなあ。
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 その鳥居を潜って直進すると、やがて左側に手水舎(てみずや)があり、そこで手と口を清める。そして鹽竈神社へと上がる階段の手前には「皇族下乗」の立て札が。そういえば、先ほど乗って来た仙石線には、本塩釜の二つ手前に「下馬(げば)」という名前の駅があった。それは、鹽竈神社へのかつての参道を行く人は、そこで馬を降りて歩かねばならなかったことに由来するのだそうだ。それほどの参拝客を集めた陸奥国一宮は、王政復古を迎えた明治の世になっても皇族に下馬を求めたということか。
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 そこから更に鳥居を潜り、向かって右の唐門を経て鹽竈神社の境内へ。まずは正面の左右宮拝殿へと向かう。お祀りするのは左が武甕槌(タケミカヅチ)神、右が経津主(フツヌシ)神。いずれも「出雲の国譲り」で大国主命(オオクニヌシノミコト)と談判をした武勇の神様だ。後に神武東征の際にも天皇を補佐し、更には蝦夷(東北地方)平定も行ったとされる。
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(二神を祀る左右宮拝殿)

 中央政権側で武威をふるった二神それぞれに頭を下げた後、この拝殿の右側、それまでとは90度右の方向に建つ別宮拝殿へ。別宮というと、何だか本館に対する別館のような響きがあるが、実はこちらの方がメインの神様、すなわちこの神社の主祭神である鹽土老翁(シオツチオヂ)神と向き合う場所なのだ。

 この神様は高天原から降りて来た瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に自らの国を早々に差し出したとされ、他方では海幸彦から借りた釣針をなくして途方に暮れた山幸彦の前にも現れている。また、この神様が「東に良い土地がある」と述べたことが神武東征のきっかけになったとされ、武甕槌神・経津主神による蝦夷平定にあったてはその先導役を務め、その後もこの地域に残って人々に製塩業を伝えたという。
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(別宮拝殿)

 「塩」=「潮」ということからなのか、鹽土老翁は潮流を司る海路の神様ともされていて、海に囲まれたこの国の風土にいかにも適した国津神(くにつかみ)である。そして、山幸彦や神武天皇に因むエピソードから考えると、海路に限らず物事を進めるための正しい道へと導いてくれる神様であるようだ。今の日本では突如として衆議院選挙が行われるようで、与党も野党も右往左往しているが、こんな時にこそ鹽土老翁神の御導きがないものだろうか。

 塩竈神社への参拝を終えて再び「皇族下乗」の立札まで戻ると、鹽竈神社の境内に隣接してもう一つ別の神社がある。それが志波彦神社だ。ご祭神は志波彦(シワヒコ)神で、これは記紀に登場するような神様ではなく、農耕や国土開発を司る地元の神様。要するに鹽土老翁よりももっとローカル色の強い国津神なのだろう。この神もやはり武甕槌神・経津主神による蝦夷平定に協力したとされるが、実際には平定(or征服)された地域の人々を代表する「地霊」のような存在であったのかもしれない。
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(志波彦神社拝殿)

 志波彦神社は、元々は岩切という、もっと内陸部に建てられ、927年に完成した延喜式(律令の施行細則)にも名神大社として記載があるという。だが中世には廃れてしまい、火災にも遭って、江戸時代には他の神社に合祀されるほどだったという。それが明治4年に突然国弊中社に格上げされ、社殿を造営しようにもスペースがないので、明治7年に陸奥国一宮・鹽竈神社の東隣に遷祀されるという、何とも破格の処遇を受けることになった。そして、終戦後に社格制度がなくなるまで、「志波彦神社・鹽竈神社」を一体のものとして国弊中社というステータスが与えられていたのである。

 以前にもこのブログに書いたことがあるが、この志波彦神社が鹽竈神社の隣に遷祀された翌々年の明治9年に、明治天皇による東北・函館巡幸が行われている。明治初年の戊辰戦争に加え、版籍奉還や廃藩置県、地租改正などの大改革が続いたこの時期に、明治天皇自らが民の前に姿を現し、働く人々を慰撫して回ることは、生まれたばかりの近代国家に安定をもたらす上で極めて重要なイベントであったのだろうと、私は想像している。だとすれば、地元を代表する志波彦神を祀りながらも他の神社に「居候」せざるを得ないほど廃れていた志波彦神社に社格を与え、陸奥国一宮と同格に扱うという施策が明治天皇の巡幸前に行われたことにも、そうした政治的な配慮があったのではないだろうか。

 鹽竈神社では、かつて東北を平定したとされる武甕槌神・経津主神の二神が概ね鬼門の方角を背にしており、主祭神の鹽土老翁神は東側の海を背にしている。国の中央から見た場合に、それがまさに陸奥国の守護神たる構造なのだろう。そして明治7年に造営された志波彦神社では、ご祭神が北北西を背にしている。中央の神様と地域の神様が横に並んで共に北を守るという構造。このあたりにも、戊辰戦争を経た後の明治新政府の思いが表れていると言ったら考え過ぎだろうか。
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 私たちが神社を訪れて拝殿に向かった時には、10円玉を賽銭箱に投げ入れ、鈴を鳴らし、二礼二拍手の後にありったけのお願い事をするのが普通のパターンだ。しかしながら、参拝というのはお願い事をするものではなく、本来は神様に対して誓いを立てることなのだそうである。確かに、日本の神様は何かお願いごとを叶えてくれるのではなく、神前で誓いを立て、自らを律しながら生きていく私たちを、姿は見えないけれどいつも近くで静かに見守って下さる存在なのだろう。
 
 私はこの春に病変が見つかり、生涯で初めての大きな手術を受けた。現在もまだ治療中であるし、この先の余命がどうなるかも、今はまだ何とも言えない。そして家族や友人、会社の同僚をはじめ、多くの人々に心配をかけ、多くの人々のお世話になってしまった。そうであれば、今日こうして二つの神社を訪れた私がご祭神に対して行うべきことは、自分の延命や病気快癒のお願いではない。自分に残された命が続く限り、お天道様に恥ずかしくないよう真っ当に生き、人々との繋がりを大切にし、何よりも家族をしっかりと守って行くという誓いを立てることだろう。そして、その通りに出来るかどうかを神様に見ていただくしかないのである。そんな神々が神社だけではなく、森の中の大きな木立にも、清らかな沢の流れの中にも、更には家々の竈の火の中にもおわす私たちの国は、何と恵まれていることだろう。

 志波彦神社の境内を後にすると、遠くに松島方面の海の眺めが広がる一角があった。1689(元禄2)年の春、門人・河合曾良を伴って「奥の細道」の旅に出た松尾芭蕉は、5月8日(現在の暦では6月24日)にこの鹽竈神社を訪れている。その当時、志波彦神社はまだここにはなかったはずだが、松島の方向には今と同じ眺めがあったのだろうか。丘の上だけあって、よく晴れた今日も風が涼しい。
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 さて、志波彦神社から鹽竈神社の南側に回ると、急な坂を202段の石段で降りて行く道がある。これは下界から見ると、丘の斜面を直登して鹽竈神社の境内へ最短距離で上がるルートで、表参道と呼ばれている。その急登ぶりは何やら東京・芝の愛宕神社にある「出世の石段」のような趣で、今では鹽竈神社で一番の「パワースポット」などと呼ばれているようだ。しかし、手水舎も通らず境内に直接上がってしまうルートを表参道と呼ぶのはいかがなものだろうか。
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(表参道の急な石段)

 そのパワースポットの石段を一気に降りて道路に出る。後は本塩釜の駅へ戻るべく、のんびりと歩いて行けばいい。途中、味噌・醤油の醸造元の店先に小さな石碑があり、6年前の東日本大震災の時に津波がここまで押し寄せたことを示している。多島海の構造を持つ松島湾があるために、塩釜は津波の勢いがだいぶ緩和された地域ではなかったかと想像するのだが、それでもこんな所まで津波が達したとは。
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 駅に戻る前に、大通りを少し外れて塩釜の街中を歩いていた時に、興味深いものに一つ出会った。

 陸奥国一宮として人々の信仰を集めて来た鹽竈神社。その麓には神社の別当寺として室町時代に法蓮寺という寺が創建され、江戸時代には大いに栄えていた。先ほどの東参道入口の鳥居を潜ったすぐ先に位置していたようで、芭蕉や曾良もそこに宿泊している。ところが、明治の初年に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた際に、この法蓮寺は廃され、幾多の破壊を受けて仏像や仏具類も散逸してしまった。当然にして諸堂も打ち壊されたのだが、その内の本堂の向拝(本堂の正面階段上に屋根がせり出した部分)を多賀城にある寺が譲り受け、本堂の玄関として長年使用して来たところ、2006年になってその本堂も建て替えの対象となり、向拝も一緒に解体・廃棄の運命にあった。それに対して、塩釜の市民グループなどによって向拝の保存運動が起こり、2008年に塩釜の酒造会社の新社屋の玄関として使用されることになったというのである。
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(見事に保存された法蓮寺の向拝)

 因みにその酒造会社とは、江戸時代中期から御神酒(おみき)酒屋として鹽竈神社との関係が深かった、あの浦霞を造る佐浦酒造である。新社屋の隣にはレトロな姿をした浦霞の販売店もあった。折角だから中を覗いて行きたいところだが、私は病気治療中のため、もうしばらくはアルコールを控えねばならない。店に入るとロクなことにならないから、今回はその外観だけを楽しませてもらうことにした。
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 本当にその日に思い立って、仙台から電車で30分だけ足を延ばしてみた塩釜の街歩き。小さな街にもなかなか深い歴史があることを、改めて思った。

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2勝1敗 [スポーツ]


 9月16日(土)、14時に始まった所沢のメットライフドームでの試合。公式戦130試合目となるこのゲームで埼玉西武ライオンズを7対3で下し、福岡ソフトバンクホークスが2年ぶりにプロ野球パ・リーグのレギュラー・シーズン優勝を飾った。ホークスと同様、前日までにリーグ優勝のマジックナンバーを1としていたセ・リーグの広島東洋カープにも同日優勝の可能性があり、皆既日食にでも出会うようなその希少な機会を私は楽しみにしていたのだが、残念ながらカープは終盤に逆転を喰らって試合を落とし、59年ぶりのセ・パ同日優勝は叶わなかった。それはまた、来年以降の楽しみにしておこう。

 現在のレギュラー・シーズン143試合制の場合、優勝ラインは通常だと80勝台になる。今シーズンのホークスは、16日の試合で優勝を決めた時点で89勝41敗、貯金は実に48。二位ライオンズとは14.5ゲーム差のブッちぎりだったのに、それでも89勝が必要だったのは、ライオンズが73勝54敗3分で貯金19、三位イーグルスが68勝54敗2分で貯金14と、上位三チームがいずれも大きく勝ち越していたからだ。それでいて9月16日の優勝はパ・リーグの最速記録を1日更新しているのだから、ホークスがいかに順調に勝ち星を重ねて来たかということである。

 ホークスの胴上げがかかった土曜日の大一番。私は外出先から帰って来て、6イニング目の攻防からテレビ観戦をしたのだが、その時点でホークスは主砲柳田悠岐の30号2ランなどで既に6対1と試合を有利に進めており、選手たちものびのびとプレーをしていた。先発の東浜巨が6回を2安打1失点9奪三振の好投でゲームを作り、7回表には指名打者アルフレド・デスパイネの一発が飛び出して7対1に。そして終盤は7回裏を左腕のリバン・モイネロ、8回裏を岩嵜翔が、それぞれ中継ぎ投手としてゼロに封じ、ライオンズの追撃を許さない。

 試合はいよいよ9回裏を迎え、この点差ではセーブ・ポイントがつかない局面ながら、「守護神」デニス・サファテが登板。セーブの日本新記録を更新中(現時点でS51)で全幅の信頼を集めるこのサファテが、私の見る限りこの日に登板した投手の中では一番緊張していたように思う。その結果としての被安打3と2失点はご愛嬌というものだろう。最後の打者を三塁ゴロに討ち取り、遂にゲームセット。そして次の瞬間に内野の真ん中で躍動しながら膨れ上がる歓喜の輪。文字通りの胴上げ投手になったサファテは、間違いなくシーズンMVPに選ばれることだろう。
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 お立ち台に上がった工藤公康監督は、「リーグ優勝を昨年は出来ず、クライマックス・シリーズで負けてから1年弱、この事だけを思って・・・。」と語ったところで感極まって、珍しく涙を見せた。最大11.5ゲーム差をつけながら北海道日本ハムファイターズの逆転優勝を許してしまった昨年のことが、よほど悔しかったのだろう。その悔しさから再出発した2017年のホークス。工藤監督は常々「3連戦を勝ち越すことで、貯金を一つずつ積み上げていく」、「3連戦の頭を取ることが重要」と述べていたが、その結果はどうだったのか。

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 ここまでのホークスの130試合中、パ・リーグの中でのリーグ戦112試合は77勝35敗で勝率.694だから2勝1敗のペースを7勝上回っている。そしてセ・リーグ6球団との交流戦は12勝6敗だから、まさに2勝1敗ペースそのものだ。3月31日の開幕後、4月末までの1ヶ月間はモタついていて貯金を殆ど積み上げられなかったが(上記グラフの①の部分)、5月以降は勝ち負けに大きな山谷がなく、非常に安定的かつ着実に貯金を増やしていった。

 そして、ここまで37回あった3連戦の内27回で初戦を取り、合計では78勝33敗、勝率は実に.703であった。「3連戦の頭を取る」ことが、やはりその後の試合を有利に進めることに繋がったといえるだろう。
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 それに対して、二位ライオンズは7月のオールスター戦が終わるまで投打が噛み合わず、貯金は一桁台に過ぎなかった。それがオールスター戦開けの7月21日から突如として13連勝を遂げ、8月20日までの一ヶ月間に21勝6敗という驚異の追い上げを見せた。貯金も20台に乗せたのだが(上記グラフの②の部分)、8月下旬からはその勢いも陰り、貯金は一進一退を繰り返すことになった。

 そして第三位のイーグルスは、開幕当初から打線が好調で見事なダッシュに成功し(上記グラフの①の部分)、ずっと首位を走り続けていた。オールスター戦の前後からはホークスとデッドヒートを繰り返し、必死に首位を守り続けて来たのだが、7月末から急速にペースダウン。8月15日からは6連敗、一日おいて8月23日から更に10連敗を喫してしまい、9月に入ってもその基調を食い止めることは出来なかった。貯金がmaxに達した7月28日以降、ホークスが優勝を決めた9月16日までの戦績は実に13勝29敗1分、勝率.310という体たらく。7月26日以前の貯金がなかったら、とてもAクラスには残れなかっただろう。

 上位3チームの打撃・投手・守備の主要な指標について、今シーズンの9月16日までの実績と過去3年(2014~2016年)の実績値の平均を比較してみると、以下の通りとなる。
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(上位3チームの戦績 左:2014~2016年の平均値、右:9月16日現在の今シーズン)

 ホークスは前述のデスパイネの加入によって本塁打数が格段に増え(9月16日現在、彼一人で33本を打っている)、懸案であった主砲が固まった。チーム打率は寧ろ過去3年平均よりも少し低いぐらいで、盗塁も実力に比して抑え気味だが、OPS(出塁率+長打率)は向上し、過去平均並みの一試合当たり得点数を維持している。走らせなくてもランナーを返せる打線になったというべきか。

 寧ろ注目すべきは投手力だろう。9月16日時点でのチーム防御率3.06は12球団ダントツで、セーブとホールドの各ポイントも、ここまでの数字を誇るチームは他にない。優勝を決めた試合も含めて、6回終了時にリードしていた試合は74勝1敗という驚異的な勝率だったのも、先発・中継ぎ・クローザーの「方程式」がガッチリと確立していたからだ。対戦チームは何れも、試合の中盤までにリードを許してしまうとその後はもう歯が立たない、という実感を持ったことだろう。

 更には、地味ながらも注目したいのが守備力である。もともと高かった守備率が今年は.993にまで向上し、失策も昨年のほぼ半数に減っている。何れの指標も12球団のトップだ。資金力のあるチームだけに「大型補強」ばかりが毎年注目されがちだが、こうした指標を見てみると、ホークスは大砲を並べたチームではなく、寧ろ好投・堅守のチームなのである。

 それに対して、ライオンズは明らかに打のチームだ。今シーズンの得点数やOPSではホークスを上回っている。「辻野球」のモットーなのか、今シーズンは盗塁にも積極的だ。他方、投手陣は総じて今シーズンは頑張ったと言えるのだろうが、セーブの少なさに象徴されるように、試合を決める「投の方程式」が未確立という課題が未だ解決していない。加えて守備力は大きく見劣りしている。簡単に言ってしまえば、打力はあるのに、投手力や守備力の面でそのリードを守れず、特に接戦になった時にどうも勝ち切れない、という印象だった。

 そして第3位のイーグルスは、大方の予想とは裏腹に、今年のオールスター戦までは大健闘だった。カルロス・ペゲーロジャフェット・アマダーの両外国人の加入によって打力が大きく向上したことに加え、先発投手・岸孝之の獲得、セットアッパー・福山博之の大活躍などにより投手力も充実。首位を突っ走る前半戦の快進撃は本当に驚異的だった。ところが、ゼラス・ウィーラーを含めた三人の外国人野手が揃って調子を落としてしまい、投手陣にも疲れが出始めた7月下旬以降、勢いを失ったチームは坂道を転げ落ちるように連敗を重ね、3位にまで後退。梨田昌孝監督は「全く別のチームになってしまったようだ」と嘆いたが、要は一年を通して戦い続ける体制が十分に出来ていなかったということなのだろう。

 先ほどのグラフだけだと、ホークスは年間を通じて大きな問題が何も起こらなかったように見えてしまうが、実は主力選手が怪我・故障で離脱という危機に何度も見舞われていた。

 そもそも開幕前から、中継ぎで昨年度に抜群の成績を挙げたロベルト・スアレスがベネズエラ代表としてWBCに出場中に故障。そして先発陣の中から和田毅武田翔太もそれぞれ故障で開幕早々に離脱した。WBC日本代表として世界にその名を知らしめた千賀滉大も、背中の張りを訴えて夏前に一時離脱。更には、キャプテンにして四番打者の内川聖一が骨折などで一軍登録を二度抹消されている。

 そんな危機を乗り越えられたのは、いつでも一軍で活躍出来る若手選手たちの育成・指導システムと、その中から起用に応えた若手たちの台頭であり、野手で複数のポジションをこなせる何人ものユーティリティー・プレイヤーたちの存在であり、そして「好調な選手から使う」という、選手間の競争を促しながら個々の選手のコンディションを綿密に把握して起用する首脳陣のマネジメントであったのだろう。投手:千賀滉大・石川柊太捕手:甲斐拓也という共に育成出身のバッテリーで計21勝を挙げたのは、それらの努力の象徴といえる。
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 そこで思い出すのは、1999年に福岡ダイエーホークスがリーグ初優勝と日本シリーズ優勝を遂げた後しばらくしてからの、王貞治氏の言葉である。眼光鋭くグラウンドに立ついつもの「王監督」とは異なり、行きつけの店・博多の「テムジン」で餃子とビールを楽しみながらの、王さんの素顔が良く出ていた民放のインタビュー番組だった。

 終始にこやかに応じていた王さんが、「今シーズンは、監督が結果的に起用した選手が結果をよく出しましたね。」というインタビュアーの問いかけに、その時だけ表情を変えてきっぱりと、「その『結果的に』という言われ方は、俺には納得いかねえなあ。」と答えたのだ。

「『結果を出した』というのはね、それだけ日頃からやって来た選手たちが活躍の場を与えられてね、その時に自分が今まで溜めこんで来た力を出したんだよ。そういう風に言ってやんなきゃ、選手がかわいそうじゃないか。試合に出られない人は歯を食いしばって、試合に出たらやってやるぞって気持ちでやって来たんだからね。」

「だって、ポジションっていうのは一つしかないんだから、出られないのは選手はわかっているからね。だけど、『だからお前はいらないんだよ。』じゃ選手は絶対働かないし、意欲も持たない。だから(出場の機会が)来た時のためにね、『お前には期待してるんだ。』ということを常に問いかけておかないと。」

「むしろ、試合に出てる奴は放っときゃいいんだよ。試合に出てない選手のそばにいて見て、『あ、今のいいな』とか『悪いな』とか、『もっとこうした方がいいよ』とかいうことを言っていないと。きっかけを掴めば行けるんだけど、そのきっかけをなかなか与えられない。でも、その来た時のためにみんな準備してたんだ。そして、ああやって結果が出たんだから、もう『まぐれ』じゃないんだよ。」

 今更言うまでもない超一流のプレイヤーだった「世界の王」が、レギュラー・クラスでない選手たちとこんな風に熱く接して機会を与えていたのだ。それを「たまたま使ってみたら上手くいった。」などと単純化されてしまうのは聞き捨てならなかったのだろう。そんな王さんが会長を務める今のホークスにも、こうした王イズムはきっと受け継がれているに違いない。
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 選手たちを競わせながら、こうしてモチベーションを持たせ続ける手腕というものは、私たちの普段のビジネスにおいても参考にすべきことだろう。私の会社などはこのように競わせるほど「選手層」は厚くないが、だからこそ全員が活躍できるようになってもらう必要がある。そのためには、今はサブの仕事をしてもらっている人たちにも活躍の機会を与え、起用したからには信頼し、コミュニケーションをよく取りながら実戦を通じて育てていくことが必要なのだが、頭の中にはあってもなかなか実行出来ないことだ。

 それはともかく、このようにして選手たちはレギュラー・シーズンを文字通り戦って来たのであれば、日本シリーズはやはりリーグ優勝チーム同士の対戦とすべきだろう。蛇足感しかないクライマックス・シリーズなどはもう止めて、今年の場合であればカープとホークスとの頂上対決をシンプルに、なおかつ両チームへのリスペクトを持ちながら、じっくりと楽しみたいものである。

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川を眺めた日 [散歩]


 このところ、週末の散歩は何だか引き寄せられるように隅田川の周辺を歩いている。

 9月最初の週末は、それまで降り続いていた雨が土曜日の昼前には上がり、日曜日は終日好天で暑さもほどほどだという。それならばと、日曜日の昼前から家内と散歩に出ることにしたのだが、二人で選んだ場所が、隅田川の河口に近い佃島周辺だった。

 今から20年以上前、我家の子供たちがまだ小さかった頃、隅田川を上り下りする遊覧船は既にあったのだが、乗ってみると両岸の眺めは堤防と倉庫ばかりで何とも殺風景だった覚えがある。その時代に比べると、今は「隅田川テラス」と呼ばれる遊歩道が両岸に整備され、街路樹も植えられて、その景観には昔とは見違えるほど豊かになった。特に隅田川の河口が二股に分かれる佃島のあたりは、船から眺める遊歩道や公園の緑がきれいで、聖路加病院やリバーシティ21などの高層ビルや中央大橋の幾何学的なデザインとの組み合わせがなかなかいい。今日は永代橋の西詰を起点に、その佃島周辺の遊歩道を散策し、月島・築地を経て銀座まで歩いてみよう。
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 東京メトロを乗り継いで茅場町で外に出て、広い永代通りを東に600mほども歩くと、重厚なアーチが印象的な永代橋が見えて来る。江戸時代までは隅田川に架かる最南端の橋だった。これを渡ってもう少し行けば富岡八幡宮の門前町として栄えた門前仲町だが、今日はその方面へは行かない。
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 永代橋の西詰から右に曲がって川岸の「隅田川テラス」に出ようとした時、マンションの植え込みの中にちょっとした石碑があった。「船員教育発祥の地」と書いてあり、その碑文によれば、明治8年11月、内務卿・大久保利通の命により、岩崎弥太郎がこの地に「三菱商船学校」を設立した由。江戸時代を通じて大型船の建造が禁じられていた日本は、明治になって西洋船による海運が始まった時に船乗りが足りず、この地でその養成を始めたという訳だ。言うまでもなくこの学校が、隅田川の対岸を1kmほど下った越中島の東京高等商船学校(現・東京海洋大学)の前身である。
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(中央区観光協会HPより拝借)

 隅田川テラスに降りると、行く手に佃島のタワーマンション群が天を突いている。斜張橋と呼ばれるタイプの中央大橋との組み合わせが、ちょっとした未来都市のようだ。
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 「佃島のタワーマンション群」と書いたが、今目の前に見えているのは、実は佃島ではなくて石川島である。元々は石川島と佃島の二つが隅田川の中にポツッとあって、江戸時代の内にこの二つが繋がったのだそうだ。石川島の方は17世紀前半の江戸開幕府早々の頃に、石川八左衛門重次という旗本が徳川家からこの島を拝領し、屋敷を構えたことからその名が付いたという。

 一方の佃島は、徳川家康との繋がりが更に深いことで知られる。1582(天正10)年6月2日に本能寺の変が起きた日、家康は堺の街を見物中だった。その家康が明智光秀の軍勢をかわして命からがら岡崎へと逃げ帰る、いわゆる「伊賀越え」の際に、多数の舟を出して淀川を密かに遡上するのを助けたのが摂津国佃村の漁民たちだった。これに恩義を感じた家康は、後に江戸を支配した際に、折からの人口増による江戸の食糧難への対策も兼ねて、佃村の漁民たちを江戸に呼び寄せ、この島の砂州を埋め立てて住まわせると共に、特別の漁業権を与えたという。それが、彼らの故郷の名を冠した「佃島」の始まりなのだそうだ。

 幕末の嘉永年間に作られた江戸の古地図を見ると、石川島と佃島が繋がっただけのこじんまりとした様子がわかる。まだ月島以南の埋め立て地が何もなかった頃のことだ。
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 1830(天保元)年頃に作製された葛飾北斎の「富嶽三十六景」の中に、「武陽佃島」という作品がある。画面中央に富士の遠景が描かれているから、この絵は隅田川の上流側から河口側を眺めている訳で、だとすれば中景左の緑に覆われた島が石川島、集落のある右側の島が佃島なのだろう。現在の地名では佃一丁目の、堀で囲まれた一角が当時の佃島にあたる。
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 因みに、この佃島だった場所の北端には住吉神社が置かれている。主祭神の住吉三神は航海安全の神様とされ、全国の住吉神社の総本社が摂津一宮の住吉大社だ。佃村の漁民たちの江戸移転に際してこの「すみよっさん」を一緒に連れてくるあたり、いかにも大阪の風と言えようか。
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(左)佃島の住吉神社 (右)歌川広重 「江戸名所百景」より「佃しま住吉の祭」

 さて、中央大橋を渡ってかつての石川島へ。川沿いは遊歩道と石川島公園が整備され、永代橋や東京スカイツリーを眺めながら一休みするにはいい場所だ。ここで隅田川が二股に分かれているので、目の前の景色は右も左も隅田川の河口である。この石川島には幕末期に水戸藩が石川島造船所を設置。後にこれが民間に払い下げられ、石川島播磨重工業の前身となった。私たちの背後に林立するタワーマンション群を眺めていると、その石播の工場が1979(昭和54)年までこの場所で稼働していたことなど、今ではとても想像できない。
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 それまでは適度に高曇りだったのが、ここで一休みしている間に晴れ間が大きく広がり、日差しがいささか暑くなった。そんな時に川沿いは風が涼しくて心地よい。家内と私はタワーマンション群を抜けて東京メトロの月島駅方面へと向かう。歩いて行く道がちょうど佃島と新佃島の境目あたりで、後者は佃島の南隣に明治になってから埋め立てられた土地である。ここまで歩く間に見て来た近未来的な景観とは対照的に、新佃島は路地も路地裏も実に昔懐かしい庶民的な姿で、私などはついホッとしてしまう。
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 少々余談になるのだが、今は埋め立て地が格段に広がった東京湾も、幕末に黒船がやって来た時には隅田川の河口に石川島と佃島があるだけだった。浜離宮から西では現在の東海道本線の線路ぎわが海岸線で、埋め立て地は何もなかったのだ。これではいかにも無防備だからと、品川の沖合に7つの砲台を設置したのが、いわゆるお台場だ。その内の3号と6号の砲台が今も東京レインボーブリッジの南側に残されている。
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 さて、明治・大正時代には佃島・新佃島の更に西側が埋め立てられた。それが現在の地名で言うと月島と勝どきだ。東京メトロ有楽町線の月島駅がある広い通りが、佃島・新佃島と月島の境界になっていて、月島側へ歩いて行くと名物の「もんじゃ焼き」の店が軒を連ねている。干拓によって町が形成されていった頃、この地域で小麦粉を出汁で解いたものを熱した鉄板の上に垂らして焼きながら文字を覚えさせたのが、「文字焼き」→「もんじゃ焼き」の起源なのだそうである。

 茅場町を起点にここまで歩いてきて、さすがに喉も乾いてきた。盛夏をとっくに過ぎたとはいえ、それなりの日差しが照りつける中、今まで通りならもんじゃ焼きをツマミにビールを一杯!と行きたいところだが、今の私は年末に抗がん剤の服用が終わるまでの間、アルコールはご法度である。今日のところは我慢ガマン。それもまた人生だ。
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 明治時代の終わり頃には既にその骨格が出来上がっていた人工島の月島。昭和になると干拓による土地造成はその南の晴海へ、そして戦後はその更に沖合の豊洲、そして有明へと進んで行った。今日はそれを全部歩く時間はないが、もう少し気候が良くなったら散歩コースにも入れてみよう。

 月島の商店街から北西に向かうと、程なく隅田川の堤防に出る。少し上流方向に戻って佃大橋を渡ろう。1964(昭和39)年8月27日というから、東京オリンピック開会日の一ヶ月半前にこの橋が竣工するまで、佃島と対岸の明石町の間には無料の渡し船が運行されていたのだが、今の景観にはその面影はない。
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 その佃大橋を渡っていると、ちょうどTokyo Cruseが運行する松本零士氏デザインの観光船・ホタルナが聖路加病院をバックに隅田川を遡って来た。
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 そして対岸の「隅田川テラス」に出ると、聖路加病院に近いこの一帯は花壇がよく整備されている。それらを愛でながらゆっくりとジョギングを楽しむ外国人たち。都心にもお金をかけずに良い気分転換を図れる場所が結構あるものだ。
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 そして、植え込みの中にはもうヒガンバナの姿が。そういえば秋のお彼岸まで、あとちょうど20日だ。
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 前方に見えていた勝鬨橋の姿が大きくなると、今日の隅田川沿いの散策コースも終わりに近い。1940(昭和15)年竣工のこの橋は中央に可動橋部分を持つために、その重厚さは他の橋とは全く別格だ。ずっと眺めていたくなる橋である。
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 行く夏と始まり出した秋とが交互に顔を見せ合ったような半日。川沿いの心地よい風を楽しんだ家内と私は、それから築地と銀座を横切って数寄屋橋まで歩いた。距離にして約5.7キロ。ショッピングとは無縁ながら、こういう都心の散歩も悪くないものだ。

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