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川を眺めた日 [散歩]


 このところ、週末の散歩は何だか引き寄せられるように隅田川の周辺を歩いている。

 9月最初の週末は、それまで降り続いていた雨が土曜日の昼前には上がり、日曜日は終日好天で暑さもほどほどだという。それならばと、日曜日の昼前から家内と散歩に出ることにしたのだが、二人で選んだ場所が、隅田川の河口に近い佃島周辺だった。

 今から20年以上前、我家の子供たちがまだ小さかった頃、隅田川を上り下りする遊覧船は既にあったのだが、乗ってみると両岸の眺めは堤防と倉庫ばかりで何とも殺風景だった覚えがある。その時代に比べると、今は「隅田川テラス」と呼ばれる遊歩道が両岸に整備され、街路樹も植えられて、その景観には昔とは見違えるほど豊かになった。特に隅田川の河口が二股に分かれる佃島のあたりは、船から眺める遊歩道や公園の緑がきれいで、聖路加病院やリバーシティ21などの高層ビルや中央大橋の幾何学的なデザインとの組み合わせがなかなかいい。今日は永代橋の西詰を起点に、その佃島周辺の遊歩道を散策し、月島・築地を経て銀座まで歩いてみよう。
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 東京メトロを乗り継いで茅場町で外に出て、広い永代通りを東に600mほども歩くと、重厚なアーチが印象的な永代橋が見えて来る。江戸時代までは隅田川に架かる最南端の橋だった。これを渡ってもう少し行けば富岡八幡宮の門前町として栄えた門前仲町だが、今日はその方面へは行かない。
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 永代橋の西詰から右に曲がって川岸の「隅田川テラス」に出ようとした時、マンションの植え込みの中にちょっとした石碑があった。「船員教育発祥の地」と書いてあり、その碑文によれば、明治8年11月、内務卿・大久保利通の命により、岩崎弥太郎がこの地に「三菱商船学校」を設立した由。江戸時代を通じて大型船の建造が禁じられていた日本は、明治になって西洋船による海運が始まった時に船乗りが足りず、この地でその養成を始めたという訳だ。言うまでもなくこの学校が、隅田川の対岸を1kmほど下った越中島の東京高等商船学校(現・東京海洋大学)の前身である。
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(中央区観光協会HPより拝借)

 隅田川テラスに降りると、行く手に佃島のタワーマンション群が天を突いている。斜張橋と呼ばれるタイプの中央大橋との組み合わせが、ちょっとした未来都市のようだ。
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 「佃島のタワーマンション群」と書いたが、今目の前に見えているのは、実は佃島ではなくて石川島である。元々は石川島と佃島の二つが隅田川の中にポツッとあって、江戸時代の内にこの二つが繋がったのだそうだ。石川島の方は17世紀前半の江戸開幕府早々の頃に、石川八左衛門重次という旗本が徳川家からこの島を拝領し、屋敷を構えたことからその名が付いたという。

 一方の佃島は、徳川家康との繋がりが更に深いことで知られる。1582(天正10)年6月2日に本能寺の変が起きた日、家康は堺の街を見物中だった。その家康が明智光秀の軍勢をかわして命からがら岡崎へと逃げ帰る、いわゆる「伊賀越え」の際に、多数の舟を出して淀川を密かに遡上するのを助けたのが摂津国佃村の漁民たちだった。これに恩義を感じた家康は、後に江戸を支配した際に、折からの人口増による江戸の食糧難への対策も兼ねて、佃村の漁民たちを江戸に呼び寄せ、この島の砂州を埋め立てて住まわせると共に、特別の漁業権を与えたという。それが、彼らの故郷の名を冠した「佃島」の始まりなのだそうだ。

 幕末の嘉永年間に作られた江戸の古地図を見ると、石川島と佃島が繋がっただけのこじんまりとした様子がわかる。まだ月島以南の埋め立て地が何もなかった頃のことだ。
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 1830(天保元)年頃に作製された葛飾北斎の「富嶽三十六景」の中に、「武陽佃島」という作品がある。画面中央に富士の遠景が描かれているから、この絵は隅田川の上流側から河口側を眺めている訳で、だとすれば中景左の緑に覆われた島が石川島、集落のある右側の島が佃島なのだろう。現在の地名では佃一丁目の、堀で囲まれた一角が当時の佃島にあたる。
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 因みに、この佃島だった場所の北端には住吉神社が置かれている。主祭神の住吉三神は航海安全の神様とされ、全国の住吉神社の総本社が摂津一宮の住吉大社だ。佃村の漁民たちの江戸移転に際してこの「すみよっさん」を一緒に連れてくるあたり、いかにも大阪の風と言えようか。
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(左)佃島の住吉神社 (右)歌川広重 「江戸名所百景」より「佃しま住吉の祭」

 さて、中央大橋を渡ってかつての石川島へ。川沿いは遊歩道と石川島公園が整備され、永代橋や東京スカイツリーを眺めながら一休みするにはいい場所だ。ここで隅田川が二股に分かれているので、目の前の景色は右も左も隅田川の河口である。この石川島には幕末期に水戸藩が石川島造船所を設置。後にこれが民間に払い下げられ、石川島播磨重工業の前身となった。私たちの背後に林立するタワーマンション群を眺めていると、その石播の工場が1979(昭和54)年までこの場所で稼働していたことなど、今ではとても想像できない。
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 それまでは適度に高曇りだったのが、ここで一休みしている間に晴れ間が大きく広がり、日差しがいささか暑くなった。そんな時に川沿いは風が涼しくて心地よい。家内と私はタワーマンション群を抜けて東京メトロの月島駅方面へと向かう。歩いて行く道がちょうど佃島と新佃島の境目あたりで、後者は佃島の南隣に明治になってから埋め立てられた土地である。ここまで歩く間に見て来た近未来的な景観とは対照的に、新佃島は路地も路地裏も実に昔懐かしい庶民的な姿で、私などはついホッとしてしまう。
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 少々余談になるのだが、今は埋め立て地が格段に広がった東京湾も、幕末に黒船がやって来た時には隅田川の河口に石川島と佃島があるだけだった。浜離宮から西では現在の東海道本線の線路ぎわが海岸線で、埋め立て地は何もなかったのだ。これではいかにも無防備だからと、品川の沖合に7つの砲台を設置したのが、いわゆるお台場だ。その内の3号と6号の砲台が今も東京レインボーブリッジの南側に残されている。
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 さて、明治・大正時代には佃島・新佃島の更に西側が埋め立てられた。それが現在の地名で言うと月島と勝どきだ。東京メトロ有楽町線の月島駅がある広い通りが、佃島・新佃島と月島の境界になっていて、月島側へ歩いて行くと名物の「もんじゃ焼き」の店が軒を連ねている。干拓によって町が形成されていった頃、この地域で小麦粉を出汁で解いたものを熱した鉄板の上に垂らして焼きながら文字を覚えさせたのが、「文字焼き」→「もんじゃ焼き」の起源なのだそうである。

 茅場町を起点にここまで歩いてきて、さすがに喉も乾いてきた。盛夏をとっくに過ぎたとはいえ、それなりの日差しが照りつける中、今まで通りならもんじゃ焼きをツマミにビールを一杯!と行きたいところだが、今の私は年末に抗がん剤の服用が終わるまでの間、アルコールはご法度である。今日のところは我慢ガマン。それもまた人生だ。
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 明治時代の終わり頃には既にその骨格が出来上がっていた人工島の月島。昭和になると干拓による土地造成はその南の晴海へ、そして戦後はその更に沖合の豊洲、そして有明へと進んで行った。今日はそれを全部歩く時間はないが、もう少し気候が良くなったら散歩コースにも入れてみよう。

 月島の商店街から北西に向かうと、程なく隅田川の堤防に出る。少し上流方向に戻って佃大橋を渡ろう。1964(昭和39)年8月27日というから、東京オリンピック開会日の一ヶ月半前にこの橋が竣工するまで、佃島と対岸の明石町の間には無料の渡し船が運行されていたのだが、今の景観にはその面影はない。
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 その佃大橋を渡っていると、ちょうどTokyo Cruseが運行する松本零士氏デザインの観光船・ホタルナが聖路加病院をバックに隅田川を遡って来た。
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 そして対岸の「隅田川テラス」に出ると、聖路加病院に近いこの一帯は花壇がよく整備されている。それらを愛でながらゆっくりとジョギングを楽しむ外国人たち。都心にもお金をかけずに良い気分転換を図れる場所が結構あるものだ。
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 そして、植え込みの中にはもうヒガンバナの姿が。そういえば秋のお彼岸まで、あとちょうど20日だ。
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 前方に見えていた勝鬨橋の姿が大きくなると、今日の隅田川沿いの散策コースも終わりに近い。1940(昭和15)年竣工のこの橋は中央に可動橋部分を持つために、その重厚さは他の橋とは全く別格だ。ずっと眺めていたくなる橋である。
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 行く夏と始まり出した秋とが交互に顔を見せ合ったような半日。川沿いの心地よい風を楽しんだ家内と私は、それから築地と銀座を横切って数寄屋橋まで歩いた。距離にして約5.7キロ。ショッピングとは無縁ながら、こういう都心の散歩も悪くないものだ。

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