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北の守り神 [散歩]


 JR仙台駅から、車体に石ノ森章太郎の懐かしいアニメ・キャラクターが描かれた電車に揺られること30分。本塩釜駅で高架のホームに降り立つと、午後の爽やかな秋空が広がっていた。

 出張先での仕事が早めに終わり、後は東京に帰るだけ。自分一人だし、日暮れまでにはまだ少し時間があるから、折角ならばそれを利用して宮城県の地理にも親しんでみようか。そう思い立ったが吉日、私は仙石線の電車に飛び乗ってここまでやって来た。駅の直ぐ先には港も見えて、ちょっと遠くまでやってきた気分になる。
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 塩釜という地名は、製塩用の「かまど」を意味する普通名詞から来ているそうだが、それならば漢字は「釜(かま)」ではなくて「竈(かまど)」のはずだ。現に自治体の名前は塩竈市だし、私がこれから訪れる予定の神社は鹽竈神社という更に古風な表記になっている。人間が生きて行くために不可欠な塩。この地域に限らず、かつては日本の津々浦々に「塩竈」が見られたことだろう。(因みに、英語の”salary”(給与)の語源はラテン語の”salis”(塩)なのだそうだ。)

 名勝・松島の島々を抱く内海に面した塩竈はもとより平地の少ない所で、埋立地がつくられる以前は数々の丘陵が海に迫る地形だった。古代に東北地方南部(福島県・宮城県・山形県の一部)を陸奥国と呼んで支配を広げつつあった畿内の中央政権は、政治・軍事上の拠点として多賀城国府を建設(724年)。塩竈はその国府の外港(国府津(こうづ)と呼ばれた)としての役目を担い、その海に向かって西側から岬のように突き出した丘陵の上には、創建の年は不明ながら陸奥国の守護神として鹽竈神社が置かれた。(国府から見て鬼門の方角に神社が置かれているのが興味深い。)この神社(宮)と国府(城)が「宮城」の地名のもとになったと言われるぐらいだから、今回私が訪れている地は、宮城県のルーツと言ってもいいのだろう。
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 そんな経緯があるので、鹽竈神社は陸奥国一宮である。諸国一宮の中で、東北地方太平洋側ではこの神社が最北なのだ。機会があれば是非一度訪れてみたいと思っていた。
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 本塩釜駅から西方向へ400mほど歩くと、道路の北側に大きな鳥居が現れた。それが鹽竈神社の東参道の入口で、参道はそこから丘陵の尾根を緩やかに登っていく。平安時代に奥州藤原氏の三代目・秀衡が開いたとされる道で、敷石は石巻から運ばれたという。平日の午後だから、あたりは実にひっそりとしたものだ。草むらではヒガンバナの赤色が鮮やかなアクセントを見せている。
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 やがて正面に再び大鳥居が。シンプルながらも品格のある扁額を見上げて、思わず一礼。やはり陸奥国一宮は鳥居からして違うなあ。
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 その鳥居を潜って直進すると、やがて左側に手水舎(てみずや)があり、そこで手と口を清める。そして鹽竈神社へと上がる階段の手前には「皇族下乗」の立て札が。そういえば、先ほど乗って来た仙石線には、本塩釜の二つ手前に「下馬(げば)」という名前の駅があった。それは、鹽竈神社へのかつての参道を行く人は、そこで馬を降りて歩かねばならなかったことに由来するのだそうだ。それほどの参拝客を集めた陸奥国一宮は、王政復古を迎えた明治の世になっても皇族に下馬を求めたということか。
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 そこから更に鳥居を潜り、向かって右の唐門を経て鹽竈神社の境内へ。まずは正面の左右宮拝殿へと向かう。お祀りするのは左が武甕槌(タケミカヅチ)神、右が経津主(フツヌシ)神。いずれも「出雲の国譲り」で大国主命(オオクニヌシノミコト)と談判をした武勇の神様だ。後に神武東征の際にも天皇を補佐し、更には蝦夷(東北地方)平定も行ったとされる。
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(二神を祀る左右宮拝殿)

 中央政権側で武威をふるった二神それぞれに頭を下げた後、この拝殿の右側、それまでとは90度右の方向に建つ別宮拝殿へ。別宮というと、何だか本館に対する別館のような響きがあるが、実はこちらの方がメインの神様、すなわちこの神社の主祭神である鹽土老翁(シオツチオヂ)神と向き合う場所なのだ。

 この神様は高天原から降りて来た瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に自らの国を早々に差し出したとされ、他方では海幸彦から借りた釣針をなくして途方に暮れた山幸彦の前にも現れている。また、この神様が「東に良い土地がある」と述べたことが神武東征のきっかけになったとされ、武甕槌神・経津主神による蝦夷平定にあったてはその先導役を務め、その後もこの地域に残って人々に製塩業を伝えたという。
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(別宮拝殿)

 「塩」=「潮」ということからなのか、鹽土老翁は潮流を司る海路の神様ともされていて、海に囲まれたこの国の風土にいかにも適した国津神(くにつかみ)である。そして、山幸彦や神武天皇に因むエピソードから考えると、海路に限らず物事を進めるための正しい道へと導いてくれる神様であるようだ。今の日本では突如として衆議院選挙が行われるようで、与党も野党も右往左往しているが、こんな時にこそ鹽土老翁神の御導きがないものだろうか。

 塩竈神社への参拝を終えて再び「皇族下乗」の立札まで戻ると、鹽竈神社の境内に隣接してもう一つ別の神社がある。それが志波彦神社だ。ご祭神は志波彦(シワヒコ)神で、これは記紀に登場するような神様ではなく、農耕や国土開発を司る地元の神様。要するに鹽土老翁よりももっとローカル色の強い国津神なのだろう。この神もやはり武甕槌神・経津主神による蝦夷平定に協力したとされるが、実際には平定(or征服)された地域の人々を代表する「地霊」のような存在であったのかもしれない。
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(志波彦神社拝殿)

 志波彦神社は、元々は岩切という、もっと内陸部に建てられ、927年に完成した延喜式(律令の施行細則)にも名神大社として記載があるという。だが中世には廃れてしまい、火災にも遭って、江戸時代には他の神社に合祀されるほどだったという。それが明治4年に突然国弊中社に格上げされ、社殿を造営しようにもスペースがないので、明治7年に陸奥国一宮・鹽竈神社の東隣に遷祀されるという、何とも破格の処遇を受けることになった。そして、終戦後に社格制度がなくなるまで、「志波彦神社・鹽竈神社」を一体のものとして国弊中社というステータスが与えられていたのである。

 以前にもこのブログに書いたことがあるが、この志波彦神社が鹽竈神社の隣に遷祀された翌々年の明治9年に、明治天皇による東北・函館巡幸が行われている。明治初年の戊辰戦争に加え、版籍奉還や廃藩置県、地租改正などの大改革が続いたこの時期に、明治天皇自らが民の前に姿を現し、働く人々を慰撫して回ることは、生まれたばかりの近代国家に安定をもたらす上で極めて重要なイベントであったのだろうと、私は想像している。だとすれば、地元を代表する志波彦神を祀りながらも他の神社に「居候」せざるを得ないほど廃れていた志波彦神社に社格を与え、陸奥国一宮と同格に扱うという施策が明治天皇の巡幸前に行われたことにも、そうした政治的な配慮があったのではないだろうか。

 鹽竈神社では、かつて東北を平定したとされる武甕槌神・経津主神の二神が概ね鬼門の方角を背にしており、主祭神の鹽土老翁神は東側の海を背にしている。国の中央から見た場合に、それがまさに陸奥国の守護神たる構造なのだろう。そして明治7年に造営された志波彦神社では、ご祭神が北北西を背にしている。中央の神様と地域の神様が横に並んで共に北を守るという構造。このあたりにも、戊辰戦争を経た後の明治新政府の思いが表れていると言ったら考え過ぎだろうか。
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 私たちが神社を訪れて拝殿に向かった時には、10円玉を賽銭箱に投げ入れ、鈴を鳴らし、二礼二拍手の後にありったけのお願い事をするのが普通のパターンだ。しかしながら、参拝というのはお願い事をするものではなく、本来は神様に対して誓いを立てることなのだそうである。確かに、日本の神様は何かお願いごとを叶えてくれるのではなく、神前で誓いを立て、自らを律しながら生きていく私たちを、姿は見えないけれどいつも近くで静かに見守って下さる存在なのだろう。
 
 私はこの春に病変が見つかり、生涯で初めての大きな手術を受けた。現在もまだ治療中であるし、この先の余命がどうなるかも、今はまだ何とも言えない。そして家族や友人、会社の同僚をはじめ、多くの人々に心配をかけ、多くの人々のお世話になってしまった。そうであれば、今日こうして二つの神社を訪れた私がご祭神に対して行うべきことは、自分の延命や病気快癒のお願いではない。自分に残された命が続く限り、お天道様に恥ずかしくないよう真っ当に生き、人々との繋がりを大切にし、何よりも家族をしっかりと守って行くという誓いを立てることだろう。そして、その通りに出来るかどうかを神様に見ていただくしかないのである。そんな神々が神社だけではなく、森の中の大きな木立にも、清らかな沢の流れの中にも、更には家々の竈の火の中にもおわす私たちの国は、何と恵まれていることだろう。

 志波彦神社の境内を後にすると、遠くに松島方面の海の眺めが広がる一角があった。1689(元禄2)年の春、門人・河合曾良を伴って「奥の細道」の旅に出た松尾芭蕉は、5月8日(現在の暦では6月24日)にこの鹽竈神社を訪れている。その当時、志波彦神社はまだここにはなかったはずだが、松島の方向には今と同じ眺めがあったのだろうか。丘の上だけあって、よく晴れた今日も風が涼しい。
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 さて、志波彦神社から鹽竈神社の南側に回ると、急な坂を202段の石段で降りて行く道がある。これは下界から見ると、丘の斜面を直登して鹽竈神社の境内へ最短距離で上がるルートで、表参道と呼ばれている。その急登ぶりは何やら東京・芝の愛宕神社にある「出世の石段」のような趣で、今では鹽竈神社で一番の「パワースポット」などと呼ばれているようだ。しかし、手水舎も通らず境内に直接上がってしまうルートを表参道と呼ぶのはいかがなものだろうか。
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(表参道の急な石段)

 そのパワースポットの石段を一気に降りて道路に出る。後は本塩釜の駅へ戻るべく、のんびりと歩いて行けばいい。途中、味噌・醤油の醸造元の店先に小さな石碑があり、6年前の東日本大震災の時に津波がここまで押し寄せたことを示している。多島海の構造を持つ松島湾があるために、塩釜は津波の勢いがだいぶ緩和された地域ではなかったかと想像するのだが、それでもこんな所まで津波が達したとは。
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 駅に戻る前に、大通りを少し外れて塩釜の街中を歩いていた時に、興味深いものに一つ出会った。

 陸奥国一宮として人々の信仰を集めて来た鹽竈神社。その麓には神社の別当寺として室町時代に法蓮寺という寺が創建され、江戸時代には大いに栄えていた。先ほどの東参道入口の鳥居を潜ったすぐ先に位置していたようで、芭蕉や曾良もそこに宿泊している。ところが、明治の初年に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた際に、この法蓮寺は廃され、幾多の破壊を受けて仏像や仏具類も散逸してしまった。当然にして諸堂も打ち壊されたのだが、その内の本堂の向拝(本堂の正面階段上に屋根がせり出した部分)を多賀城にある寺が譲り受け、本堂の玄関として長年使用して来たところ、2006年になってその本堂も建て替えの対象となり、向拝も一緒に解体・廃棄の運命にあった。それに対して、塩釜の市民グループなどによって向拝の保存運動が起こり、2008年に塩釜の酒造会社の新社屋の玄関として使用されることになったというのである。
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(見事に保存された法蓮寺の向拝)

 因みにその酒造会社とは、江戸時代中期から御神酒(おみき)酒屋として鹽竈神社との関係が深かった、あの浦霞を造る佐浦酒造である。新社屋の隣にはレトロな姿をした浦霞の販売店もあった。折角だから中を覗いて行きたいところだが、私は病気治療中のため、もうしばらくはアルコールを控えねばならない。店に入るとロクなことにならないから、今回はその外観だけを楽しませてもらうことにした。
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 本当にその日に思い立って、仙台から電車で30分だけ足を延ばしてみた塩釜の街歩き。小さな街にもなかなか深い歴史があることを、改めて思った。

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