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再会(開)の秋 [自分史]


 「膵臓がんとは穏やかじゃない、大事(おおごと)じゃないですか。ショックです。(中略)日本へ帰国したら、とにかくご連絡します。何としてもお会いしたい。」
 
 中学・高校時代の級友だったA君からそんなメールを貰ったのは、9月13日の早朝のことだった。

 A君はもう30年以上もカナダのトロントで暮らしていて、日本とカナダの文化交流を深める仕事を一貫して担ってきた。私が今、高校クラス会の幹事をしていて、11月に開く予定のクラス会関係のメールを彼にも送った時、海の向こうからのA君の参加はなかなか難しかろうからと、今年の4月以降に私の体について起きたこともそのメールを通して伝えておいた、それに対して反応してくれたのである。彼はたまたま親御さんの介護の関係で9月27日から一週間ほど東京に滞在する予定にしており、その間に是非会いたいとのことだった。

 A君も私も、区立の小学校から受験をして同じ中学に入り、高校でも同じクラスだったから、長い付き合いである。電車通学が始まった中学時代、彼は五反田から、私は渋谷からそれぞれ山手線に乗って学校へと通った。だから、帰り道に渋谷まで一緒になることが多かった。A君は最近、故石岡瑛子のポスターの展覧会をトロントで手掛けていて、往年の渋谷PARCOに関連した作品に囲まれているうちに、私たちが共に通学していた頃を思い出したようだ。「ハチ公口の方へ下車していく貴兄の学生服の後ろ姿が石岡ポスターと重なるような気がします。」とも書かれていた。

 昭和40年代の半ばというと、東京五輪大会に続く高度経済成長によって渋谷の街の様相が一変した時代である。建設の槌音は絶えず、朝の駅の混雑は殺人的。その一方でPARCOに象徴されるような新しい消費文化も芽生えていたが、それとは対照的に、駅のガード下ではまだ傷痍軍人がアコーデオンを奏でていた。そんな風に時代の光も影も共に鮮やかで、独特のゴチャゴチャ感の中から絶えずエネルギーを発散し続けていたのが渋谷という街だった。私たちはそんな時代に中学・高校時代を共に過ごしたのである。
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 高校に進んだ時、A君と私は山岳部に入部した。やはり中学で同級だったT君も入部したので、山岳部の私たちの代は中学の同級3人になった。普段は学校の中でのトレーニングや装備の点検と扱い方の習熟などが部活動の中心だが、年に6回ほどあった合宿では山の中にテントを張って暮らす訳だから、山岳部とは一つの生活共同体であり、運命共同体とも同義語のようなものだった。そして、前述のように私たちの代の同期は3人だけだったから、この3人が喧嘩をしてしまっては共同体そのものが成り立たない。私たち3人の間ではそれぞれが最も力を発揮する領域を自ずと棲み分けるようになり、「三本の矢」ではないが私たちなりにバランスを保ちながら、山での運命を共にしていたのだった。今から思うと、山の中という非日常を舞台にして実に貴重な体験をさせてもらったものである。

 今回、そのA君をいたく心配させてしまったのは私が送ったメールのせいなのだが、ともかくも来日中に是非会いたいと言ってくれているのだから、これは是非T君にも声をかけよう。社会に出てからは随分と長い間、T君も私も山からは遠ざかっていたが、8年ほど前から他の同級生たちにも声をかけて度々一緒に日帰りの山に出かけるようになり、年に1回ぐらいは泊まりでも山へ行っている。その繋がりから、中学同級のOさんも紅一点でA君との会にジョインしてもらうことになった。

 9月30日(土)の夕刻。表参道から少し路地裏に入ったところにある少々隠れ家的な居酒屋に席を取り、私たち4人は三々五々集まった。

 「やあ、どうもどうも。」
 「久しぶり!元気そうで何より。」
 「変わらないねー。」
 「今回は心配かけて申し訳ない。」

 顔を合わせた時に第一声として何と発すべきなのか、事前にはそれなりに悩んでいたものの、会ってしまえば、そこからはもう成り行きに任せるより他に自分をコントロールしようがない。というより、旧知の仲間の間では儀礼など最初から無用なのだ。中学を卒業して今年でちょうど45年になるのだが、そんな時空を一瞬のうちに飛び越えて、私たちは昔の教室の中の私たちに戻った。

 Oさんも含めて私たち四人は、当然のことながら卒業後はそれぞれに異なる道に進み、異なる分野で人生を過ごして来て、還暦を過ぎた今も幸いなことにそれぞれの仕事を続けている。だからこそ、同じ話題一つをとってみても思考のアプローチはそれぞれに異なるし、そこには各自が歩んできた人生が自ずと裏打ちされている。まるで一つの山を四つの異なるルートから登っているようで、ああ、なるほど、そういう見方もあるんだということを教えられて、何とも刺激的なのだ。そして、そんな風に自由闊達に意見を交わし、異なる考え方を認め合うリベラルさが、私たちの学校の校風でもあった。「昔の教室の中の私たちに戻った」というのは、基本的にそういう意味である。
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 思い出話の中心は、何といっても高校一年の秋合宿のことだった。1972(昭和47)年の10月10日前後のことだ。私たちの高校は二期制だったので、前期と後期の間に一週間程度の秋休みがあった。例年その時期に高校山岳部は縦走合宿を組んでいたのである。その年の計画は、南アルプスの3,000m級の山を三つ越えるという野心的なものだった。

 前夜に中央本線の最終の長野行き普通列車に乗って、甲府で下車。予約していたタクシーに分乗して南アルプスの玄関口・広河原に到着。そこのコンクリート製の東屋に寝袋を敷いて短い仮眠を取り、早朝から山を目指した。二年生の部員が多かったので、引率のOBも含めて私たちは総勢14名ほどのパーティーになっていた。
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(1972年10月 高校山岳部秋合宿のルート)

 初日は極めて順調。好天の中、広河原から白根御池を経て日本第二の高峰・北岳(3193m)に登り、更に進んで北岳山荘の前で幕営(当時は「北岳稜線小屋」という名前だったはずだ)。25kgほどの大荷物を抱えながら、初日にいきなり標高差1,500mのルートを登り切ってしまった。勿論、山の上からの眺めは申し分なかった。

 第二日、この日も終日好天。二つ目の高峰・間ノ岳(あいのたけ、3189m)を越え、三峰岳を経て新たな尾根へと入る。仙丈ヶ岳(3034m)と塩見岳(3047m)を結ぶ「仙塩尾根」と呼ばれるこのルートは実に山深く、南アルプス北部では最深部といっていいだろう。素晴らしい秋の紅葉と豪華な山の眺めの中を私たちは歩き続け、北荒川岳(2698m)を越えた南側の尾根上に幕営地を選んだ。今では幕営禁止になっているはずの場所だが、少し下ると水場があったのではないかと記憶している。尾根の西側は崩壊の激しい地形だった。

 異変が起きたのは三日目の朝だった。二年生の一人が寝袋の中から起き上がらない。高熱を発して意識がなくなっていたのだ。山に入る前、冷え込んだ広河原で仮眠を取った時に風邪を引いたのを、そのまま登山を続けたために風邪をこじらせて肺炎を起こしたようだった。よりによって、ここは南北いずれも3,000m級の山が立ちはだかっており、意識のない病人を下山させる術は私たちにはない。直ぐに救援を求めねばならなかった。

 私たちは三日目に予定していた行動を中止し、救援を求めるための二人一組のパーティー三つを編成。それぞれが直ぐに出発した。第1組は塩見岳を越えて塩見小屋へ。第2組は少し戻って新蛇抜山から大井川の源流へ下り、池ノ沢小屋へ。そして第3組は前日歩いてきたルートを戻って熊ノ平小屋へと走る。総勢14名の所帯だからこそ、こうした手分けが出来たのだ。そして、極めて幸いなことに同行のOBの一人が医大生で、病人にずっと付き添い、水に溶かした解熱剤を意識のない本人の口にスプーンで入れる等の処置をして下さった。

 私は二年生のMさんと第3組として熊ノ平小屋へ急いだ。この日も終日好天で、真っ青な秋空の下、燃えるような紅葉に包まれていたはずなのだが、事情が事情だけにそれを楽しんでいる余裕はなかった。それでも、これは後から知ったことなのだが、結果的にはこの熊ノ平小屋から無線で農鳥小屋を経由してメッセージを伝えてもらったことが、下界への第一報になったようだ。

 第1組と第3組はそれぞれ山小屋への連絡を済ませて幕営地に帰還。第2組は池ノ沢小屋からそのまま沢沿いの山道を二軒小屋まで下り、静岡へ出ることになっていた。その日の午後、静岡県警のヘリが私たちの幕営地を目指して飛んで来て着陸を試みたが、無理だったようで引き返して行った。その夜は二人ずつ二時間交代で看病。医大生の先輩は殆ど眠らずにおられたのではなかっただろうか。
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(北荒川岳幕営地付近の地形図。星印が幕営地の位置)

 第四日の早朝、東の方角からヘリの爆音が聞こえて来た。皆がテントを飛び出すと、農鳥岳から南へ延びる山の尾根を越えて、一機のヘリが一直線に私たちの上空をめがけてやって来ようとしていた。ハイマツを掻き分けて高い場所に上り、皆で大きく手を振ると、ヘリは明らかに私たちを視認していた。そして、轟音を立ててテントの近くに着陸。それは陸上自衛隊のヘリだった。何と、茨城県の土浦から飛んで来てくれたという。中から乗員が現れて、燃料が限られているので素早く行動するよう求められ、私たちは寝袋に包まれたままの患者を急いでヘリの真下に運ぶ。すると、それはテキパキとした手順で収容され、ヘリは静岡市内の病院を目指してあっという間に飛び去って行った。

 物事の展開のあまりの速さに、私たちはしばらくの間茫然としていたのかもしれない。だが、少なくとも病人の救助は何とか叶った。私たちは笑顔を取り戻し、テントを撤収して行動を再開。その幕営地からよく見えていた塩見岳のピークを越えて、三伏峠の小屋の前で幕営。入山から四日目のこの日も奇跡的に好天が続いていて、やっと景色を楽しむ余裕が持てた私たちは、塩見岳からの山の眺めを胸に刻んだ。
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(塩見岳山頂から、越えて来た山々をふり返る ー カシミール3Dにて再現)

 翌日の第5日はさすがに雨。だが、この日は三伏峠からの下山だけである。山道が終わってからの8kmの林道歩きは辛かったが、ともかくも東京に帰り着くことができた。ヘリで静岡市内の病院に収容された先輩は、そこでしばらく療養されており、日曜日に皆で静岡までお見舞いに行ったことをかすかに覚えている。世の中の多くの方々のお世話になってしまったが、ともかくも全員無事のハッピーエンドを迎えられたのは何よりだった。そしてこの出来事への反省から、高校山岳部では山へ持って行く医薬品リストや応急マニュアルを整備し、部費を集めてトランシーバーを購入することになったのだった。無論、合宿場所の選定にあたっても、緊急の際のエスケープ・ルートなどが常にチェックの対象になった。

 あの時に患者への応急処置と私たちが取るべき行動について、一貫して的確な判断を下された医学生の先輩は、その後は大学病院に勤められ、日本における救急医学の第一人者になられた。そして、あの時に発病された先輩は、そのことがきっかけになったのかどうか、自らも医学部に進まれ(しかもその大学では山岳部に所属されて)、神奈川県で今も医師として活躍を続けておられる。当時高校一年生だったA君・T君・私の三人にとっても、この秋合宿での体験が色々な意味で人生の「肥し」になったことは確かである。

 思い出話は尽きないが、時間には限りがある。私たちは表参道の居酒屋での会をお開きにして、渋谷駅までゆっくりと歩いた。そして、制服姿で通学していた当時とはまるっきり変わってしまった渋谷駅のハチ公口で、再会を期してハグを交わす。生きている限り、この友情は大切にして行きたい。
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(あの幕営地からずっと見えていた塩見岳)

 翌10月1日(日)の朝8時前、京王線高尾山口の駅前で5ヶ月ぶりに山仲間のH氏と再会。昨夜のA君との会でも一緒だったO女史を含めた三人での軽い山歩きにこれから出かける。

 この春に私が膵臓がんの手術を受けることを知らせて以来、H氏には何かにつけて気遣いをしていただき、入院中も色々と励まされたものだった。退院後も7月末頃まで私は体調が安定せず、そもそも運動はまだ制限されていたのだが、8月の後半から次第に食欲と体力が回復し、ちょっとしたジョギングが出来るようにもなっていた。無論、週末の山歩きも術後は封印したままだったのだが、リハビリを兼ねてそろそろ軽いコースならどうか、ということでH氏が約3時間の高尾山往復に誘ってくれたのである。今日は朝から秋晴れのいい天気だ。

 平坦な舗装道とは異なり、形状の複雑な山道を歩くにはちょっとしたコツが要る。高尾山なんて何ほどのことはないと思いがちだが、こうして久しぶりに山に入ってみると、高尾山の稲荷山コースはこんなに木の根が張った山道なのだということを改めて認識することになった。
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 リハビリ目的だから、息が上がらないよう、とにかくゆっくりと歩く。今まではすっ飛ばすように歩いていた山道も、こうして一歩一歩踏みしめるように歩いてみると、あたりから聞こえて来る秋の虫の音や木漏れ日に輝く緑が何とも愛おしい。
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 コースタイムよりも若干ゆっくり目の計画を立ててはみたが、自然体で歩いていると、コースタイムほども時間はかからない。8時に高尾山口を出て、稲荷山で長めの休憩を取りながらも、9時40分には高尾山頂の少し先にあるモミジ台に着いてしまった。計画上、今日はここまで。私としてはまだ腹五分にも満たない感じではあるが、ゆっくりゆっくりと活動の幅を広げていくのがリハビリの極意であるようなので、初回はこの程度にしておくべきなのだろう。今日はよく晴れて、丹沢連峰の眺めが爽やかだ。標高600m近辺の低山でも、それなりの秋が始まっていた。
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 お目当ての富士山だけは何となく雲の中である。それに、まだ冠雪が始まっていないので、見えていたとしても少し迫力に欠ける。次に来る時にはその頂上付近の雪を眺められるだろうか。
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 モミジ台のベンチでフルーツを食べながら展望を楽しんだ後、どこかの動物園のような賑わいの高尾山頂を経て下山路へ。木曜日に降った雨が日陰ではまだ十分乾いておらず、下りは滑りやすいので、予定していた琵琶滝コースはやめて、舗装された薬王院の参道を下る。コンクリートを踏みながらの下山は味気ないが、それでも今の私には両側の山の緑がありがたい。手術を受ける前も、今年に入ってからは忙しくてずっと山に行けてなかったから、山歩きは実に10ヶ月ぶりのことになる。その分だけ、自分には山の緑への飢餓感があったのだろう。年間3百万人が訪れる今や一大観光地の高尾山だが、目を向けてみればまだまだ緑は豊かだ。そんな緑に久しぶりに触れた半日。今日はH氏に感謝である。
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(混雑する高尾山頂にも、それなりの秋が。)

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 膵臓がんの手術を受けてから5ヶ月と一週間。今現在は(メニューは選ばざるを得ないものの)概ね人並みの量の食事が摂れるようになり、それなりに体力も回復して、会食や国内出張、そして今日のように軽く体を動かすイベントにも参加出来るようになった。この春以来会えなかった人々、出来なかったことに対して、この秋は私にとって「再会」、そして「再開」の時である。オーバーペースにならないよう、自分の体を客観的に見つめながら、人々や物事とのご縁を大切にして行こう。

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