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四つのチェロの響き [音楽]


 金曜日の夜遅くに帰宅すると、A4サイズのごく軽い封書のような荷物が宅配便で届けられていた。封を切ると、内容物は1枚の音楽CDだ。それは、私がインターネットでHMVのサイトから8月22日に注文を入れたものだった。

 私のお目当ての物はその時点ではHMVに在庫がなく、取り寄せになるので出荷まで二週間程度の日数が必要とのこと。今年の7月にフランスで発売されたばかりの新譜だが、もう品薄なのだろうか。その「二週間程度」が過ぎた9月7日にHMVからメールが来て、商品をまだ手配中なので出荷が遅れるとのこと。そして9月23日にもう一度メールの配信があり、依然として手配中ということだった。

 確かに音楽のジャンルや企画の内容からすると、それほど多数の売上があるとも思えないから、これは気長に待つしかないのかな。そう思ってゆったり構えていたところ、10月5日になって「商品を発送しました。」というメールが入り、翌6日の夜までに配達されたのである。たかだか2,000円ぐらいのCD1枚の注文にこたえるために一ヶ月半ほどの時間をかけて、欧州と日本との間でいったい何人の人たちが動いてくれたのだろう。ネット通販で便利な世の中になったとはいえ、何だか申し訳ないような気持ちになってしまう。

 遅い夕食を簡単に済ませ、夕刊にもざっと目を通した後、私はベッドサイドのCDプレーヤーに届いたばかりのディスクを入れて、音量を小さめに調整し、大の字に寝そべって目を瞑る。流れて来たチェロ四重奏の気品に満ちた優しい響きは、忙しかった今週のあれこれを頭の中からデリートするには十分だった。

 男女二人ずつのチェロ奏者によって構成される、フランスのポンティチェッリ四重奏団。私が選んだのは、彼らがJ.S.バッハ『オルガン小曲集』を4台のチェロで演奏するという、ちょっと風変わりなアルバムである。
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 偉大な作曲家である以前に偉大なオルガニストでもあったJ.S.バッハは、その65年の生涯のうちに約250のオルガン曲を作曲したという。その圧倒的な質と量はまさに「綺羅、星の如く」と形容すべきバッハのオルガン曲の作品群において、45曲の小品によって構成される『オルガン小曲集』は些か地味で目立たない存在ではあるが、時にじっくりと耳を傾けてみると、これがなかなか味わいのある作品なのだ。いずれも教会でコラール(ルター派の教会で会衆によって謳われる讃美歌)を歌う前の前奏曲として作られたものである。

 ベルリンのドイツ国立博物館へ行くと、このバッハの『オルガン小曲集』の原本が保存されているそうだ。縦15.5cm x 横19.0cmというから、B5(18.2cm x 25.7cm)よりもまだ一回り小さいサイズで、全184ページの冊子。その最初のページには次のようにバッハ自身の言葉が記載されているという。

 「オルガン小冊子。修行中のオルガニストにコラールを展開するあらゆる技法の手ほどきをすると共に、ここに収録されているコラールをペダルを完全にオブリガートで演奏する事によって、ペダルの使用に習熟する事を目的としている。至高の神にのみ栄光あれ、また隣人はこれによって教え導かれます様に。作者は現アンハルト=ケーテン候の宮廷楽長、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ」

 バッハのこの肩書からすると、彼がケーテンという小さな町に居住していた1717~23年の間に書かれたことになるが、これら45曲のかなりの部分は、それ以前に彼がヴァイマールで宮廷礼拝堂のオルガニストを務めていた1708~17年の間に作曲されたそうだ。その当時は、この『オルガン小曲集』の前文に書かれているような教育目的ではなく、おそらくは自分の仕事のために書きためておいたものではなかっただろうか。更には、ずっと後の1740年代、彼のライプツィヒ時代にも一部の作品に手を加えていたというから、足掛け30年以上の期間にわたって編集された作品群なのである。

 私はキリスト教徒ではないし、キリスト教への一般的な知識も極めて浅いから、これは今までに読んだ本の受け売りでしかないのだが、それによるとクリスマスの四週前の日曜日から、教会暦と呼ばれる一年間のカレンダーがスタートするという。そこには各日曜日の行事や様々な祝日が定められていて、例えばルター派の教会では、それぞれの日の礼拝時に歌われるコラールの数が全部で51曲。その他の様々な機会に歌われるコラールが全部で113曲。合わせると164曲のコラールがあるそうだ。

 バッハはその全てにオルガンによる前奏曲を作ろうとして、必要な数のページを『オルガン小曲集』の中に用意し、音符を書き込む五線を引いていたという。だが実際に作曲されたのは、日曜・祝日の礼拝用のものが35曲、その他の機会に使われるものが10曲、計45曲であった。(BWV(バッハ作品番号)でいうと599~644の46曲なのだが、633と634(最愛なるイエスよ、われらここに)が同じ作品の新旧バージョンなので、一般には全45曲とされている。)
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 教会暦に従えば、クリスマス前の四週間は待降節(アーベント)と呼ばれ、クリスマスの準備をしてイエス・キリストの降誕を待つ期間である。それが始まるのが12月の最初の日曜日(待降節第一主日)だ。バッハの教会カンタータ第61番 『いざ来ませ、異邦人の救い主よ』(Num Komm, der Heiden Heiland) BWV61 はこの日の礼拝のために作曲されたもので、『オルガン小曲集』の第1曲もこれと同じタイトルを持つオルガン用の短い前奏曲BWV599となっている。

 バッハが従事していた教会では、まずオルガンでこの曲を奏でた後に61番のカンタータが始まったのだろう。大いなる祝祭気分はクリスマスに取っておいて、ここでは人々を慎ましくも厳かな信仰の世界に導き入れる、そんな曲想の前奏曲になっている。まずはパイプオルガンの演奏で原曲を聴いてみよう。(Helmut Walchaの演奏によるもの)


 人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。
 すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。
 そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。
 そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。
 ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。
 だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。
 このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。
 だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。
(『マタイによる福音書』第24章37~44)

 さて、これに対してポンティチェッリ四重奏団の演奏はこんな風だ。

 教会の中の厳粛な雰囲気とは異なり、私たちにはもっと身近な、優しさと共に気品に溢れた音色。このアルバムは終始こうした味わいで、肩の力を抜いて聴くにはぴったりだ。HMVのサイトには「・・・これは癒されます。」と書かれていたが、今風に言えばそういうことなのだろう。そして、キリスト教の教義や教会行事に対する知識を抜きにして純粋に音楽として聴いてみても、更には当初の指定とは異なる楽器での演奏を試みても、バッハの作品の音楽性は少しも揺らぐことなく、むしろ驚くほどの包容力を見せる、そんなことを改めて認識させてくれるアルバムである。

 この『オルガン小曲集』の中で人気の高い第24曲、『おお人よ、汝の大いなる罪を嘆け』(O Mensch, bewein dein Sünde gross) BWV622 は私も大好きなので、この記事にもポンティチェッリ四重奏団の演奏の一端を貼りつけておこう。受難節に歌われるコラールのための前奏曲なのだが、その安らかなメロディーが何とも魅力的で、私の命が尽きる時にはこんな音楽に包まれていたいと思うほどだ。

 そして、このBWV622と並んで愛好される作品が『主イエス・キリストよ、われ汝に呼ばわる』(Ich ruf zu dir, Herr Jesu Christ) BWV639だ。以前にもこのブログに書いたことがあるが、1972年公開のソ連映画『惑星ソラリス』のテーマ曲として使われたことで一躍有名になった前奏曲である。深い悲嘆や悔い、或いは諦念を思わせる重厚なパイプオルガンの響きとは趣の異なる、エレガントにして高い精神性を保つチェロの響きの重なりは、目の前のことにばかり囚われている私たちの頭の中を解きほぐし、目を閉じて静かに呼吸を整えることの大切さを教えてくれている。

http://alocaltrain.blog.so-net.ne.jp/2017-08-30

 注文を入れてから一ヶ月半ほどを待ち続けた甲斐があった。聴き込んでいくとバッハの音楽がまた一つ好きになること必至のアルバムである。

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