SSブログ

ミッテルシュタント [世界]


 11月8日午前7時、デュッセルドルフの空はまだかなり暗い。

 東京の感覚でいうとこんなに暗いのは朝よほど早く起きた時だが、午前7時といえば当地でも普通に朝の通勤が始まっているから、ホテルの外の道路ではライトを点灯した車が数多く行き交っている。スマートフォンで調べてみると、この日のデュッセルドルフの日の出は7時40分15秒、日の入が16時54分49秒、従って昼の長さは9時間14分34秒だ。(因みに、デュッセルドルフは北緯51.2度と、日本の稚内(北緯45.2度)よりも北にあるから、この日の昼の長さは稚内よりも30分短い。)

 地球の自転は24時間で一周360度だから、経度15度ごとにちょうど1時間の時差が生まれることになる。ロンドン・グリニッジ天文台の真上を通る子午線が東経0度と定められているから、ロンドンから1時間時差という設定と、空が明るい・暗いという肌感覚とが最もフィットするのは(緯度の多寡で昼・夜の長さの違いは生じるものの)東経15度近辺に位置する地域ということになる。改めて地図を眺めてみると、ベルリン(北緯52.5度、東経13.4度)、プラハ(北緯50.1度、東経14.3度)、ウィーン(北緯48.1度、東経16.3度)、ローマ(北緯41.9度、東経12.5度)など中央ヨーロッパが、ロンドンから1時間時差と定めるには相応しい地域なのである。

 それから考えると、デュッセルドルフ(北緯51.2度、東経6.8度)は「中央ヨーロッパ」からはだいぶ東に寄っており、パリ(北緯48.8度、東経2.4度)に至っては経度が極めてロンドンに近いから、それと同じ時間帯にした方が肌感覚には合うような気もするのだが、そこはやはり中央ヨーロッパに時計を合わせ、英国とは一線を画することの方が大事なのだろう。
mittelstand-01.jpg

 社長自らがハンドルを握るAudiのレンタカーに乗って、私たち3人はデュッセルドルフからアウトバーンを南下。朝霧が濃く、通勤ラッシュで渋滞気味だったケルン近郊までの幹線から離れ、東へと向かう路線に入ると、車窓はそれまでのライン川沿いの平地から一変して、緩やかな起伏を持つ丘陵地帯の真ん中を走り続ける緑豊かな風景となった。このあたりのアウトバーンは交通量も比較的少なく、速度制限もないから、私たちの車は時に180km/hに近い速度が出ていた。

 午前9時少し前、アウトバーンを下りてクロイツタール(Kreuztal)という小さな街に入る。ケルンから80kmほど東に向かった所だが、それでもドイツ全体では西端に近く、オランダやベルギーとの国境からは140km程しか離れていない。アウトバーンの出口からいくらも走ることなく、私たちは目的地のA社に到着。ここを本拠地として長い歴史を持つ機械メーカーで、今日はこれから打ち合わせと工場見学を予定している。午前9時のアポイントメントにぴったり間に合った。
mittelstand-02.jpg

 私が今勤めている会社は戦後の設立で、今年が創業65周年。産業用の金属素材を製造する典型的なB to Bの会社である。元々は重たい産業向けが取引の中心だったのだが、パソコンやデジタルカメラ、携帯電話などの電子機器の時代が始まってからは、それらの中に搭載される小さな電子部品用の素材としてのニーズが年々高まり、スマートフォンの登場以降は素材の薄型化・高品質化が益々求められるようになった。そして、世界はいよいよEV(電気自動車)やIoT(物のインターネット)の黎明期を迎え、社会の至るところに小型のセンサーや通信機器などが散りばめられる時代が始まろうとしている。

 そんなことを背景に、昨年の夏頃から私たちの業界では製品への引き合いが急増してどこも生産が逼迫している。しかもそれは一時のブームではなく、中長期のトレンドとして今後も持続すると見られ、それどころか、IoTの時代になると私たちの業界にとっては何十年に一度の大きな環境変化、それもポジティブな方向での大変化が起きるのではないか。そうなると、将来の製品需要の方向性をよく見定めた上で、私たちは生産能力増強のための設備投資を急がねばならない。

 とはいうものの、20億円にもなろうかというような設備投資を決断することは、私たちのような中小企業にとってはまさに「清水の舞台」である。ましてその設備を外国企業から調達するとなると、そのプロセスに必要なやり取りをこなせる人材も社内では極めて限られてしまう。だが、世の中は待ってはくれない。ハードルは高いが、自分たちの力で、ともかくもやるべきことはやらねばならない。ドイツまでやって来て設備に関する基本的な仕様をA社と打ち合わせ、重要なポイントを一つ一つ確認する作業を進めながら、私はふと思った。軍艦を発注するために英国に赴いた明治の日本海軍も、もしかしたらこんな心境だったのだろうかと。
mittelstand-03.jpg
(私たちが訪れたA社)

 A社からこの日、技術者たちと共に終始私たちの相手をしてくれたのは、齢70に達したオーナーのB氏だった。背が高くて恰幅の良い銀髪の紳士で、技術者たちは普段着だが彼だけは仕立ての良い背広に純白のワイシャツ、それに上品なストライプのネクタイという姿である。私たちが導入を考えている設備の仕様に関する打ち合わせでは細部にわたって説明をしてくれ、それに続く工場見学では時にA社の長い歴史に触れながら、実に丁寧に色々なことを教えてくれた。工員たちにも気さくに声をかけながら、まさに会社のdetailsまでしっかりと把握しているオーナーという印象だった。

 中味の濃い時間を過ごしていると、時計の針はあっという間に回転してしまうものだ。工場見学を終えた時には既に午後1時を過ぎていた。

「さあ、遅くなりましたが、食事にしましょう。」

 B氏はそう言って、私たち3人をA社のゲストハウスでの昼食に招いてくれた。それは工場の敷地から南へ少しだけ歩いた所にある、緑豊かな住宅街の一角にあった。元は歴代のオーナー一家の住居であったという。今はその一階部分が会食用のゲストハウスとして使われているのだった。
mittelstand-07.jpg
(A社のゲストハウスの位置)

 食卓のある部屋の手前に談話室がある。その片隅のバー・コーナーで、食前酒用のショットグラス4個を並べ、ドライシェリーにベルモット、そしてカンパリをそれぞれに注いだB氏は、この建物の歴史をさりげなく語り始めた。

 「19世紀に建てられたこの屋敷には、父の代まで歴代オーナーの一家が住んでいました。従って、私も幼い頃はここで育てられた、その記憶は勿論残っています。」

 「昔はこのあたりに鉄の鉱山があり、近くで石炭も採れるので製鉄業が盛んでした。そのために第二次大戦でこの一帯は激しい空襲を受け、地上にあったものは完璧に破壊されてしまいましたが、この建物だけは奇跡的に戦禍を免れたのです。」

 「終戦後、この地域は英国が占領しました。そして或る日、英軍の将校がやって来て、この建物を将校用のカジノハウスとして使うために接収すると言い出したのです。他には建物らしい建物が残っていなかったので、いずれここは接収されると父は読んでいて、先祖代々の家具や調度品は予め別の場所に隠していました。そして、『カジノハウスに使うのはいいけれど、机も椅子もないので、工場から持って来るしかありません。』と答え、実際に工場からそれらを運び込んだのです。その結果、味も素っ気もない工場の事務机と椅子ではカジノの気分が出なかったのでしょう。そのうちに英軍はここを使わなくなりました。(笑)」

 なるほど、なかなか深い話だ。ショットグラスを皆が飲み干したところで、私たちは食卓へと案内され、昼食をご馳走になる。玉葱とキノコのクリームスープの後に、鹿肉を煮込んだ主菜がサーブされた。緑の丘陵が続くこの地方で捕獲された鹿だそうである。
mittelstand-08.jpg
(歴史のあるゲストハウス)

 部屋の壁には、一枚の油絵。それは、A社がこの地で創業した頃の製鉄の姿を後世になって描いた想像画である。そのA社の操業とは実に1452年にまで遡るとB氏は語る。その当時、或る3人の兄弟がこの場所で鉄の鍛造を始めたのが起源で、熱い鉄を水車によって動くハンマーで鍛造して棒鋼に仕上げ、鍛冶屋向けに販売したという。(その棒鋼は各種の農機具や工具へと加工されたそうだ。)
mittelstand-04.jpg

 そのビジネスは300年ほど続いたが、木炭の代わりに石炭を使って錬鉄を製造するパドル工程という手法が開発されると、旧工法による鋳造業は儲からなくなり、工場は1846年に現在のオーナー家に売却された。以後ドイツの産業革命の波に乗って、その工場は農機具や家庭用品向けから産業向けの鋳鉄品の製造へと急速に傾斜し、19世紀末には圧延機などに使われる各種ロールの製造に特化。20世紀にはロールだけでなく鉄用の圧延機全体の製造を開始して、鋳造品メーカーから機械メーカーへと変身を遂げた。
mittelstand-05.jpg

 第二次大戦では、先ほどのB氏の話にもあったように工場も戦禍を受けたのだが、戦後は銅合金やアルミなど非鉄金属用の圧延機メーカーとして再出発し、その周辺機器の製造も手掛け、今やその製品は世界60ヶ国に輸出されるまでになった。それでも、オーナー家が株式を支配する構造は今も変わらず、株式の公開などはおよそ考えていない。人件費が高いからといって海外生産に転ずることもなく、地元で雇用を続け、生産技術はあくまでもこの創業の地に蓄積されて生産が行われている。「目の届く範囲での経営」とでも言えばいいのだろうか。
mittelstand-06.jpg
(写真はいずれもA社のHPから拝借)

 そういえば、先ほどの工場見学の際に、高校に入ったばかりといった様子の若い男の子たちが工作機械の操作を学んでいる一室があったのだが、ドイツの多くの企業がそうであるように、この会社も将来の職人の道を選んだ地元の若者たちを研修生として受け入れており、彼らの8割は卒業後にA社に入社するそうだ。

 「私たちの製品の多くは海外にも輸出され、顧客の工場に据え付けるために多くの技師が海外へ出かけていますが、生産はこの地で続け、技術者はこの地に維持しています。それを世界各地に広げてしまうと、それぞれの拠点で技術力・品質を維持していくのは大変なことですからね。」

 「工場の敷地から道路を挟んだ向かい側に、古くなった工場の建屋を壊した土地があったのですが、そこを地域のためのショッピング・モールの場所として提供しました。地域に根差して何百年もやって来ましたから、地域のために還元するのは当然のことです。」

 その日、工場の一角には仮設のテントが張られ、ランチタイムが近くなると、エプロン姿の従業員たちが炭火を起こして沢山のソーセージを焼いていた。社員に対するその売上は障害を持った子供たちのために全額寄付されるのだという。グローバルな製品市場に確固たるプレゼンスを築きながらも、目線は常に地元にあるようだ。

 15世紀にも遡るというA社の歴史に始まり、歴代オーナーによる伝統的な経営哲学、地域活動。そして私たちが訪れた前週がドイツでは宗教改革500周年であったことからキリスト教にまつわる歴史など、昼食をいただきながらのB氏との会話は多岐に及んだ。何事にも紳士的で、歴史や文化に関する造詣が深く、終始穏やかに私たちと接してくれたB氏。単に会社の経営に留まらず地域に深くコミットしている彼の存在は、まるでヨーロッパの貴族を見ているかのようだ。

 その一方、私たちとの会話の中でただ一つ、温厚なB氏が語気を強めて批判していたのがドナルド・トランプ米大統領の存在についてであったことを、忘れずに書きとめておこう。

 「なぜあのように下品な男がアメリカの大統領に選ばれたのか。」

 「前言を平気で翻し、嘘もつき、自分の過ちを一切認めようとしない。あのような態度はヨーロッパの価値観からは到底受け入れられないものだ。」

 欧州には”noblesse oblige”(高貴なる者が背負う義務)という言葉があるぐらいだから、中世以来の貴族のようなB氏から見ると、超大国のトップに上り詰めた男が勝手気ままに振る舞う様子には我慢がならないのだろう。(B氏に限らず、今回の出張で出会ったドイツの人々の間ではドナルド・トランプの評判は散々で、彼を大統領に選出したアメリカという国そのものがバカにされているようにも思えたほどだった。)
mittelstand-09.jpg
(この日の夜、街中のニュースエージェントで見かけた新聞の1面)

 半日の時間をかけて私たちに応対してくれたB氏に心からの謝意を述べて、私たちは帰路につく。車に揺られながら、私は行きの飛行機の中でたまたま読んでいた『ハーバード日本史教室』という新書本の一節を思い出していた。ハーバード大学で日本史に関する講座を持つ10名の教授にそれぞれインタビューを試みたものだ。その中で、渋沢栄一が理想として掲げていた「倫理的な株主資本主義」に注目するジェフリー・ジョーンズ教授がこんなコメントをしていた。

 「ドイツに『ミッテルシュタント』と呼ばれる中小企業群があるのをご存じでしょうか。どの企業も地域に根差したファミリービジネスからはじまっていますが、卓越した技術力を擁しています。もちろんドイツを拠点に輸出はしていますが、あくまでも拠点は創業の地。多国籍企業になるつもりもありません。むやみにグローバル化すると、それまで育ててきた職人や社員の技術を得られなくなってしまうからです。(中略)
 ローカルビジネスというのはとても重要です。国の雇用を支えているのは、地域ビジネスなのです。IT、金融、エレクトロニクス、消費財などに関わる企業であればグローバル化するメリットはありますが、ローカルのままでいたほうがよい企業もたくさんあるのです。」
(『ハーバード日本史教室』 佐藤智恵 著、中公新書ラクレ)

 今回訪問したA社は、こうしたミッテルシュタントの中ではやや大きめの部類に入るのかもしれない。だが、オーナーであるB氏の考え方は、まさにこの本が述べていることを裏書きしていた。

 中小企業というと、大手の系列の下で大手の下請けを安価で引き受けるという姿を日本ではイメージしてしまいがちだが、ドイツのミッテルシュタントは高い技術力を武器に決して安請け合いをせず、彼らがいなければ大手も成り立たない存在となって、しっかりと利益を上げているという。(逆に言うと、儲からない企業はさっさと退出させられるお国柄であるようだ。)しかも、ドイツは労働者の休暇取得に関する法制が厳しく、皆が一ヶ月の夏休みを取っている。それでも利益を上げているのだ。

 世界は今、行き過ぎた株主資本主義と貧富の格差の拡大が深刻な問題と化している。同じドイツでも、例えばフォルクスワーゲンのような大手の上場企業は、その行き過ぎた株主資本主義の中で無理を重ね、エンジンの燃費数値の改ざんに手を染めてしまった。(幾つかの日本企業も同様の問題で世間を騒がせている。)別の例を挙げれば、ビジネスのグローバル化が最も進んだ金融の世界では、あのドイツ銀行が投資銀行部門で巨大な損失を抱えて信用力を落とし、今は見る影もなくなってしまった。勿論そんな事例だけで物事の功罪を論じる訳には行かないが、そうしたことを見るにつけ、株主資本主義とは何か、グローバルな経営とは結局のところ何なのだろうかという思いに、私などはとらわれてしまう。

 私の会社は、ある特殊な素材のメーカーとして、日本では数少ないプレイヤーの一つである。かつては首都圏に工場を構えていたが、90年代以降は東北地方の一画に生産拠点を移し、今は全ての生産をそこで行っている。勿論、生産の現場で働いているのは地元の人たちだ。そこでの歴史が早くも四半世紀を超えている。

 日本を含む東アジア一帯が製品の主戦場だが、高品質の分野で戦っており、ボリュームゾーンで血みどろの安値合戦を繰り広げるつもりは全くない。他方、この分野で世界最高品質の製品を作るには、上流から下流までの全ての工程を一貫して日本の中で手掛けることが必須と考えているので、モノ作りは今後も東北地方の一画に留まり、引続きmade in Japanで頑張っていくつもりだ。人口減少で働き手の確保がこれから益々大変になるだろうが、だからこそ省力化を進め、技術に磨きをかけ、しっかりと利益を上げて、世界のオンリーワンを目指して行きたい。そして、儲かっても株式の公開はしないだろう。

 国内でモノ作りを続けるためには、工場が立地する地域にしっかりと根を下ろし、社員一人一人を大切にしながら、高いモチベーションを持って働いてもらう必要がある。技術面で地元の大学との連携も色々と可能性があるだろうし、特に若い社員たちには、知識や技術をしっかりと身につけてもらった上で是非とも海外を見る機会を与えてあげたい。そのあたり、ミッテルシュタントの在り方と重なり、彼らの生き方を参考に出来ることが私たちには幾つもありそうだ。

 「社長、今日は大いに勉強させていただきました。設備の導入以外にもやるべきことが沢山見つかりましたね。」

 「ドイツに来るたびに、本当にそう思います。我社もあんな風になれたらいいと思うことが多々ありました。我々にも出来ることを是非考えて行きましょう。」

 再び社長がハンドルを握る車は、午後のアウトバーンを軽快に北上していく。そして、帰り着いたデュッセルドルフの街には早くも夕闇が迫り、クリスマスのデコレーションが輝いていた。
mittelstand-10.jpg
mittelstand-11.jpg
nice!(0)  コメント(1) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。