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四旬節 [音楽]


 「来月、マタイ受難曲の演奏会があり、私は合唱のバスのパートに出る予定です。
 福音史家の部分を神父さんが日本語で『聖書朗読』し、アリアや合唱の部分を歌う形式でやります。何分、若手、セミプロ、素人の集まりですのでハイレベルの演奏という訳には行かないと思いますが、もしお時間とご興味がありましたらご一報ください。」

 高校時代の山岳部の先輩・Eさんからそんなメールをいただいたのは、今年1月の中頃だった。二月の三連休の月曜午後、しかも場所は目黒のカトリック教会の中だという。そんなシチュエーションでJ. S. バッハ「マタイ受難曲」(BWV244)を聴かせていただく機会など、滅多にあるものではない。私は二つ返事で行かせていただくことにして、Eさんに直ぐにメールを返した。

 学校の年次も会社の会計年度も4月から始まる日本では、年が明けるとその年度の最後の四半期になるので、何かと忙しい。「一月は行く。二月は逃げる。三月は去る。」などと昔から言われて来たが、私自身にとっても今年はまさにそのような展開になり、気がつけば二月も既に半ば。Eさんからお誘いを受けた「マタイ受難曲」の演奏会の日が遂にやって来た。
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 当日の午後、家内と二人で目黒駅から西方向の行人坂へ向かい、途中で左に折れて緩い坂道を下って行くと、程なく左側に教会の入口がある。受付開始の13:30に合わせて来たのだが、私たちと同様に教会に向かう人々は多く、着いてみると座席はもう殆ど埋まりかけている。(教会の中だから席の指定などないのだ。)私たちも慌てて後ろの方に何とか席を確保したのだが、ギリギリ間に合ったという感じだった。

 やがて、オーケストラが登場して各自の位置に座り、続いてEさんを含む合唱団が登壇。それでも床がフラットな教会の中だから、演奏者たちは私たちの目の高さだ。そのあたり、コンサートホールでの演奏会とは異なる身近さや手触り感があって、なかなかいいものだ。
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 教会の中は、前方の祭壇に向かって信者が座る木製で横長の座席が、左右二列になって後ろに続いている。定刻の14:00になると、教会の後方からその左右のベンチの間の通路を通って指揮者が登場。大きな拍手に包まれた後、聖堂の中に柔らかく差し込む午後の光の中で、バッハの「マタイ受難曲」が粛々と始まった。これからイエスの受難という悲劇が始まる、その導入部としての厳粛にして荘厳なオーケストラの響きと、それに続く分厚い合唱。それにソプラノのコラールが絡み合っていく。

 ドイツ語の歌詞だから聴いているだけでは意味が解らないが、和訳は以下の通りだ。

合唱
来たれ娘たちよ、ともに嘆け。見よ - 誰を? - 花婿を、
彼を見よ-どのような? - 子羊のような!見よ - 何を? - 彼の忍耐を、
見よ - どこを? - 私たちの罪を 
愛と慈しみゆえにみずから木の十字架を背負われるあのお姿を見よ!

コラール
おお、罪なき神の子羊よ 犠牲として、十字架に架けられた御方よ、
たとえ侮辱されようとも、いつでも耐え忍ばれた。
すべての罪をあなたはお負いになった。さもなければ私たちの望みは絶えていただろう。
私たちを憐れんでください、おおイエスよ!

 この後、「マタイによる福音書」の第26・27章に従って受難曲は進行していくのだが、バッハの原曲では、エヴァンゲリスト(福音史家)が語る部分はテノール、イエスをはじめとする登場人物のセリフはバリトン或いはバスによる独唱、集団の声は合唱によって表現される。それに対して今日の演奏会では、福音史家の部分について教会の司祭が福音書を日本語で朗読する趣向になっている。これは私たちにとっては大変ありがたいことで、これだけでもストーリーの進行がよく理解出来るのである。

イエスはこれらの言葉をすべて語り終えてから、弟子たちに言われた。
「あなたがたが知っている通り、ふつかの後には過越の祭になるが、
人の子は十字架につけられるために引き渡される。」

 これに続いて、
●祭司長たちや民の長老たちが、策略をもってイエスを殺そうと相談する話、
●イエスがべタニヤで、らい病人シモンの家にいた時に、ある女が高価な香油をイエスの頭に注ぎかける話、
●十二弟子のひとり「イスカリオテのユダ」が、司祭長のところで、イエスを引き渡すことと引き換えに銀貨三十枚を受け取る話、
●夕方になって、いわゆる「最後の晩餐」の時に、イエスが「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている。」と予告する話
などの有名なストーリーが展開。そして、一同が讃美歌を歌ってオリーブ山に出かけ、イエスが
「今夜、あなたがたは皆わたしに躓くであろう。『わたしは羊飼いを打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう。』と書いてあるからである。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガラリアへ行くであろう。」
と述べた後に、美しくとても印象的なコラールが歌われる。

私を認めてください、私の守り手よ!私の羊飼いよ、私を受け入れてください!
すべての宝の泉であるあなたから、私のために多くのよいことが行われました。
あなたの口はミルクと甘い食べ物で 私を元気づけてくださいました。
あなたの聖霊は多くの天国の喜びを もたらしてくださいました。

 これが有名な「受難のコラール」で、この後も幾つかの場面で歌詞を替えて歌われる。この「マタイ受難曲」全体の主題曲とでも言うべきものだ。 
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 同じ一神教ながら、正典といえばただ一つ「コーラン」だけがあるイスラム教とは異なり、キリスト教の「新約聖書」は全部で6種類・計27の文書によって構成されるという。その中で最初のジャンルとして括られるのが、イエスの生涯とその死、そして復活を記録した4種類の「福音書」である。マルコ、マタイ、ルカ、そしてヨハネの順に成立したそうだ。

 「なぜ開祖の伝記が四種もあるのかというと、キリスト教会が最初から統一のとれた組織ではなかったからである。違う派がそれぞれに福音書を制作した。正典に入っている四種の他にも『福音書』と銘打たれた書は続々と出現した。ただし制作年代は少し下り、内容はなかり神話めいたものになっている。
 福音(書)をギリシャ語でエウアンゲリオンと呼ぶ。『良い知らせ(グッド・ニュース)』という意味だ。英語のゴスペル(Gospel)はこれを訳したもので、古語ではgod-spell(良い・話)と言った。(中略) 中国語で『福音』と訳され、日本語はこれを採用した。
 何がグッド・ニュースだったのかというと、もちろん救世主キリストの到来が良い知らせなのであった。神の子が出現して『神の国』を告げて死んで復活して昇天したことが、衝撃的なニュースだったのだ。」
(『聖書、コーラン、仏典』 中村圭志 著、中公新書)

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(上表の「パウロ書簡」の中で網掛けをした文書は、パウロの殉教(西暦65年)以降に成立したと見られ、現在ではパウロの作ではないとされているようである。)

 ライプツィヒの聖トーマス教会においてバッハの「マタイ受難曲」が初めて演奏されたのは1727年のことであるという。バッハがこの街にやって来てから、間もなく満4年が経つ頃であった。

 ライプツィヒに来る以前の6年弱を、彼はケーテンという小さな街で領主レオポルト候に仕える宮廷音楽家として過ごしている。その間に、あの膨大な数にして傑作揃いの室内楽曲・器楽曲の大半が作成されたというのは想像を絶することだが、その一方でバッハの活動には大きな制約もあった。レオポルト候は宗教的にはカルヴァン派に属していたため、宮廷での礼拝からは殆ど音楽が締め出されており、バッハには礼拝用の音楽を作曲する機会がなかったのである。

 やがて彼は大都市ライプツィヒ(ケーテンからは南東へ60kmほど)の聖トーマス教会のカントル職に応募し、採用されることになった。当時「トーマスカントル」と言えば、教会の合唱団を指揮して礼拝用の音楽を取り仕切り、教会に付属する小学校で教鞭を取り、なおかつライプツィヒ市全体の音楽をも差配する監督でもあるという、大変に名誉ある職だった。その肩書を与えられたバッハは、堰を切ったようにカンタータをはじめとする礼拝音楽の作曲に邁進していく。

 「激務だった。だがバッハは全力をあげてこの仕事に立ち向かった。
 生涯を通じてルター派の信仰を持ち続け、また教会に奉職することが長かったバッハにとって、その頃全盛を極めていたルター派の礼拝音楽は、信仰と音楽の双方を追求できる絶好のジャンルだった。」
(『バッハへの旅』 加藤浩子 著、東京書籍)

 加えて、大都市ライプツィヒでは人々の耳も肥えていたようだ。「教会の国」と呼ばれたこの街では「教会音楽も街の売り物の一つ」だったようで、「人々は劇場の桟敷席に通うように、教会の定められた席に坐った」という。

 「おびただしい数にのぼるバッハの作品のなかでも、傑作といえば真っ先に指を折られる二つの受難曲、《マタイ受難曲》BWV244と《ヨハネ受難曲》BWV245も、この時期に初演された。(中略) 復活祭前の聖金曜日に上演される決まりになっていた「受難曲」は、「聖金曜日の受難楽」として、ライプツィヒ市民の年間の楽しみのひとつだったのである。」
(以上、引用前掲書)

 イエス・キリストが十字架に架けられて刑死する受難劇という、いささか残酷で重苦しい内容のドラマが「市民の年間の楽しみのひとつだった」という、その感覚にはちょっとついて行けないなという思いがなくもないし、実際に日本では、キリスト教の信者でなくてもクリスマスは盛大に祝うが、このイエスの受難と復活という、いわゆるイースターは(少なくとも私から見る限り)世の中では殆ど話題になることがない。イエスの受難という重苦しい話は、わが国ではやはり好まれないのだろうか。その一方、私たちの周りでは「義によって主君の仇討を果たした家臣たちが、最後は名誉の切腹を賜る」という話が年末のたびにドラマになり、歌舞伎にもなっているのだから、人間とは意外と悲劇を好む生き物であるのかもしれない。

 西方教会の教会暦では、復活祭(イエスが復活した日曜日。定義は「春分の日の後の最初の満月の直後の日曜日」)の46日前から四旬節と呼ばれる期間に入り、それが復活祭の前日まで続く。今年(2018年)で言えば4月1日(日)が復活祭だから、2月14日(水)から四旬節が始まることになる。そして、復活祭の前々日、即ちイエスの受難の日である金曜日(聖金曜日、Good Friday)に受難曲が演奏されていた訳だ。

 2月12日の今日、東京・目黒の教会でバッハの「マタイ受難曲」の演奏を鑑賞している私たち。座席は教会の長椅子だから、3時間を過ぎようかというほどの公演になると、正直なところお尻が痛くなって来る。元々はあまり長居をする場所でもないからか、夕方に近くなると教会の中は次第に底冷えがしてきて、おまけに隙間風も冷たい。今日はまだ2月の中旬だからそれも仕方ないのだが、東京よりも寒冷な気候である筈のライプツィヒでは、イースターの時期といってもまだ冷え冷えとしている頃なのだろう。そんな中で受難曲を楽しむというのも決して楽ではないに違いないが、それが愛好されてきたというのは、やはり信仰の賜物なのだろうか。
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(ライプツィヒの聖トーマス教会)

 バッハの「マタイ受難曲」は、休憩を挟む二部構成になっている。「最後の晩餐」や「オリーブ山の祈り」の後、そのオリーブ山から麓に降りたゲッセマネでイエスが捕縛されるところまでが第一部、そして最高法院での裁判に始まって、ピラトの尋問、十字架のくびき、ゴルゴタでのイエスの死、そして埋葬までが第二部である。捕縛されてから十字架に架けられるまでの経緯をかなり詳しく描いているので、第二部の方が演奏時間は長い。その中で特に印象に残るのは、やはり十字架上のイエスが死を迎える部分である。

さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

 福音書の朗読の後、死に瀕したイエスの前に預言者エリアがはたして現れるか否かという人々のやり取りが続いた上で、司祭が次の一節を静かに読み上げる。

イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息を引き取られた。

 これに続いて歌われるコラール。ここでも先に述べた「受難のコラール」が用いられているのだが、バッハはここで音階を4度下げ、敢えて中世以来の古風なフリギア旋法を用いることで、イエスの死を限りなく昇華させている。お見事!としか言いようがない。

いつしか私がこの世に別れを告げるとき、私から離れないでください。
私が死の苦しみにあるとき、目の前に現れてください!
この上ない恐怖が私の心を囲むとき、
あなたの苦悩と痛みの力で 私を恐れからお救いください!

 このようなドラマが生まれたエルサレムという街は、一体どんな所なのだろう。昨年に膵臓がんの手術を受けた身である以上、自分の命があとどれだけ残されているのか、今はまだ何とも言えないが、死ぬまでには一度訪れてみたいなと、私は思い始めていた。
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 ローマ総督のピラトがイエスの墓に番人をつけるように命じ、石に封印が為されたことが語られると、第一部の冒頭に用いられたメロディーが再び登場し、合唱をもって受難曲は終了する。

私たちは涙してひざまつき そして、墓の中のあなたに呼びかけます。
安らかにお休みください、やすらかに。お休みください、疲れ果てた御体よ!
安らかにお休みください、やすらかに。
あなたの墓と墓石は、悩める良心にとっては ここちよい憩いの枕
魂の憩いの場となるべきもの。

 会場が盛大な拍手に包まれたのは17:00を少し回った頃であった。途中20分の休憩を挟み、3時間に近い演奏であったが、私たちはこうしてイエスの受難劇の全てをじっくりと鑑賞することができた。これほどの大作に挑むのに、コーラスの練習には一体どんな量のエネルギーを必要としたことだろう。お誘いいただいた先輩のEさんを含めて、演奏者の皆さんの大いなる努力に、心からの敬意を表したいと思う。

 そして、改めて思う。パウロが語るように、キリスト教の要諦は、やはりイエスの受難と復活なのだ。

 「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。」
(『ローマ人への手紙』第10章9)

 私たちにはなかなか理解の及ばないところであるのだが、人間が本来背負っていた原罪をイエスが一人背負って死に、そのことによって人類は救われ、そしてイエスは復活した、だからイエスはキリスト(救世主)なのだ、という信仰である。(私自身も、そこは今も腑に落ちていない。)けれども、信仰そのものではなく宗教学的なアプローチからこのキリスト教の要諦について考えてみることには、きっと意味があることだろう。今日のような機会を利用しながら、これからも学んでみたいと思う。

 私の大好きなバッハの世界にたっぷりと触れた休日の午後。このような機会を与えていただいた、尊敬すべき山の先輩・Eさんに改めて大きな感謝を捧げつつ、家内と二人で再び目黒駅へと向かう。

 坂道を上った所からは、夕暮れの富士山がその頭だけを見せていた。

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立春 [季節]


 2月4日(日) 立春。といっても、外はまだまだ寒い時期である。

 東京の都心部の朝は曇り空が広がっていたのだが、食後のコーヒーを飲みながら読みかけの本に目を通している間に天候が回復していたようで、ふと気がつくと窓のカーテンが明るい陽射しに輝いている。ベランダに出てみると、空の2/3ぐらいに青空が広がっていた。ならば、本の続きは後にして散歩に出てみようか。

 小さなデイパックを肩に、我家の近くにある植物園へ。ここも随分とご無沙汰してしまっている。いつものように正面の坂道を登って桜の広場に出ると、あたりの木々はひっそりと春を待っていた。
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 空が曇っていた朝こそ肌寒かったものの、正午を過ぎたばかりの今は南側の空が良く晴れていて、太陽の輝きが眩しくて暖かい。考えてみれば、今日が立春だから、太陽が一番低くなる冬至から1ヶ月半ほどが過ぎた訳で、春分までの道のりのちょうど半分が経過したことになる。
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 暦というのはよく出来たもので、毎日の平均気温の平年値(現時点で適用されるのは1981~2010年の30年間の平均値)が年間で最低になるのは、二十四節気のちょうど大寒の頃だ。それを過ぎてもまだ気温はなかなか上がらない一方で、南中時の太陽高度は冬至を過ぎてからは徐々に上がり始め、その後は次第に加速をつけて高くなっていく。太陽の輝きの眩しさと風の冷たさとの間のギャップ、すなわち「光の春」を一番感じるのが今頃だというのも、やはり理屈があってのことなのだ。
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 桜の広場からスズカケの林を過ぎ、針葉樹林を抜けて坂道をゆっくりと下ると、日本庭園の先にある梅林ではその1/4ほどの梅の木が既に花を開いていた。
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 ある時期になると多くの木々が一斉に開花する、まるで集団行動のような桜とは対照的に、梅の開花時期は木によって様々だ。そして、花の色にも個性があり、寒風・冬枯れの中で一人花を開き、微かな芳香を放つ・・・。座禅によって己(おのれ)を見つめ続ける禅宗では桜よりも梅が好まれるというのも、何だかわかるような気がする。
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 その日、東京の日中の最高気温は9.8度まで上がり、風のない穏やかな昼下がりを、私はこんな風に植物園の自然の中でのんびりと過ごしていた。そして、翌2月5日(月)は冷え込みが厳しかったものの、東京は引き続きよく晴れた冬の一日だった。ところが、その日から北陸地方では稀に見る大雪が始まっていたのである。

 日本列島が西高東低の冬型の気圧配置に覆われる時、等圧線の間隔が狭くて縦に並ぶものは「山雪型」、等圧線の間隔が広くて斜めに並ぶものは「里雪型」と呼ばれる。2月5日と6日の天気図を見ると、等圧線の間隔は広く、そして等圧線の方向がちょうど北陸地方の上空で斜めになっていた。これは平野部で大雪になるパターンだ。事実、北陸三県では雪が降り続き、特に福井県でそれが激しかった。県庁所在地・福井市の毎日の最深積雪量を見ると、2月4日時点で40cmだったのが5日には82cm(+42)、6日には136cm(+54)に急増、そして翌7日には147cmに達している。
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 147cmと簡単に言ってしまったが、よく考えてみればテニスコートの中央にある審判台の座面の高さが150cmだから、要するにあの審判台がほぼスッポリと埋まってしまう高さである。山の中ならともかく、市街地でその高さの積雪とは大変なものだ。

 2~3日の間にこれだけの量の雪が積もってしまえば、鉄道も道路も除雪が追いつかなくなるのは当然のことだろう。トンネルが多く、除雪のための仕組みを色々と備えた北陸新幹線は別として、在来の鉄道が軒並み運休となっただけでなく、特に福井県下で国道8号線をはじめとする道路交通にも深刻な影響が出て、極めて多数のクルマが立ち往生してしまった様子は、日夜報道されている通りである。

 「雪国」のイメージのある北陸地方だが、平野部で1メートルを超えるような積雪がずっと続く訳ではない。県庁所在地の福井市・金沢市・富山市をとってみれば、冬の間の積雪量は平年値ベースで20~30cm程度のものである。交通が寸断されて市民生活に大きな影響が出るような豪雪というと、近年では1980(昭和55)年の年末から翌81(昭和56)年1月中旬にかけての、いわゆる「五六豪雪」に遡ることになる。
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 この時は北陸三県で12月28~29日、1月5~6日、同13日及び15日と波状的にドカ雪となり、福井市では積雪が1月15日に史上最高の196cmに達している。金沢・富山でも程度の差こそあれ同じような状況だった。
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 五六豪雪の時の北陸地方は、実は12月から平年に比べてかなり寒い冬を迎えていた。気温が低いと降った雪がなかなか融けず、そこへ新たな雪が積み上がってしまう。福井市の場合、年明け後も平均気温が平年値よりかなり低い状態が2月中旬まで続いたために、1月15日に196cmに達した積雪が2月中旬までは1mを超えた状態で残ったのである。

 平均気温と積雪量の逆相関のような関係は今年も同じで、1月に何度かあった平年よりも低温になった時期に積雪量が多くなっている。そして2月に入り、五六豪雪時よりも更に寒くなったところへ里雪型の気圧配置になったことが、今回の豪雪をもたらしたのだ。注目すべきは、2月6日に福井市の最深積雪量136cmが五六豪雪の時の同日の積雪量に並び、翌7日にはそれを上回ったことだろう。局面的には「五六を超える豪雪」とも言えるのである。

 いささか昔話になってしまうのだが、大学を卒業して社会に出た最初の3年間を、私は富山市で過ごしている。着任をしたのは、ちょうどこの五六豪雪の雪がすっかり消えた4月の第3週のことだ。着いた翌日が穏やかによく晴れた日で、真っ白な北アルプスの立山や剱岳、そしてその北方にある毛勝山などが間近に見えていたことを、今でもよく覚えている。

 山が近く、豊かな自然に囲まれた富山市は誠に愛すべき街で、今から思えばその何とものんびりとした環境の中で社会人の第一歩を踏み出せたのは、大変に幸せであったという他はない。多くの人達に本当によくしていただいたので、私の記憶には楽しかったことしか残っていない。仕事のことはともかく、雪国の暮らしを実際に経験することはとても貴重なことで、実に多くのことを学ばせていただいたように思う。(そのおかげで、雪道でのクルマの運転にも一応の「免疫」が出来ていて、それが今の仕事でも役に立つことがある。) 以来、私の中では富山への愛着心をずっと大切にし続けてきた。

 その北陸が、あの時以来の豪雪に見舞われている。福井県でも2月8日のうちに何とか道路上でのクルマの立ち往生を解消したいとのことだが、その先の天気予報を見てみると、これから週末にかけて日本列島には気圧の谷がやって来て、2月11日(日)は全国的に雨。そして振替休日となる2月12日(月)には再び冬型の気圧配置となる見込み。そして想定される等圧線の形はまたしても里雪型だ。しかもその日から強い寒気がまた降りて来る。北陸はもう一度大雪への備えが必要になるようだ。
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 雪の季節での北陸の暮らしは懐かしいが、大雪に人々が難儀するようなことにはなって欲しくない。久しぶりに寒い冬となった今年だが、大雪もそろそろ手仕舞にしてはもらえないだろうか。

 日々の天気予報を眺めつつ、彼方の北陸の空に思いを馳せている。

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