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大津にて (3) [歴史]

 
 土曜日の夕方に京都に集まり、大学時代のゼミの同期生たちと楽しく過ごした、その翌日の日曜日。私は京都から在来線に乗って滋賀県の大津を初めて訪れ、ちょっとした一人旅を楽しんでいる。

 広い境内を持つ古刹・園城寺(三井寺)では、桜の開花を待つばかりの山の静寂さをかみしめ、更に北方向へ1キロほど歩いた弘文天皇陵新羅善神堂では、日本古代史が激動期を迎えていた壬申の乱(672年)の前後のこの国の姿に思いを馳せていた。

 新羅善神堂から緩い坂道を降りると、県道の反対側に京阪電鉄石山坂本(いしやまさかもと)線大津市役所前とい小さな駅がある。前々日の3月16日までは「別所」という名前の駅だった。「別所」というと、別の場所という一般的な意味の他に、

①(仏教関係用語で)本寺の周辺にあり、修行者が草庵などを建てて集まっている地域。平安後期から鎌倉時代にかけ浄土信仰の興隆とともに盛んになった。
②新たに開墾した土地。(以上、『三省堂スーパー大辞林』より)

という意味があるようだが、平安時代の初期に比叡山延暦寺と袂を分かつ形で智証大師円珍の門流が三井寺にやって来た、その歴史と何か関係があるのだろうか。(もっとも、昭和2年にこの鉄道路線が開業した時の駅名は「兵営前」だったようだが。)
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 その大津市役所前駅の短いホームで待つことしばし、比叡山の山並みを背後に、石山寺行きの二両連結の電車がトコトコとやって来た。そして、左右にカーブを切りながら琵琶湖疎水を渡ると三井寺駅、そこから道路の中央を走る路面電車区間になって、程なくびわ湖浜大津駅に到着する。(ここも前々日までは名前が「浜大津」だった。)ここは京都方面に向かう京阪電鉄京津線との乗換駅で、石山寺行き電車の到着に合わせて、電留線から京津線・太秦天神川行きの四両連結の電車が反対側ホームに入線して来る。今日はこの路線に乗ることを楽しみにしていた。
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(左が石山坂本線、右が京津線の電車)

 明治13年に官設鉄道の大津・京都間が開業した時、そのルートは東海道沿いに急勾配で逢坂山の斜面を登り、山科盆地を南西に横切り、更に稲荷山の南を回り込んで京都に向かう大回りのルートだったこと、そして、長大トンネルを掘れるようになった大正10年に現在の大津・京都間のルートが開業したことは、前々回にこのブログで述べた通りである。しかし、その官設鉄道の新ルート開業を待たずに、大津と京都を手っ取り早く結ぼうという鉄道業者が現れた。官鉄の京都駅は京都の伝統的な繁華街からは随分と南に外れており、官鉄はルートが大回りなだけでなく、京都駅自体が不便な場所にあったのだ。

 それが明治39年設立の京津電気軌道で、大正元年に浜大津と京都の三条大橋を結ぶ10kmの路線を開業した。たったの10km?と思ってしまうが、両者の間は遠回りをしなければそれぐらいの距離なのである。
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 この京津電気軌道を前身とする現在の京阪電鉄京津線(「きょうつせん」ではなくて「けいしんせん」が正しい読み方だそうだ)。見ての通りの四両連結の電車なのだが、これが大津市内の路面電車の区間、逢坂山を越える山登り区間、そして京都市営地下鉄に乗り入れる地下鉄区間という三つの顔を持つ、極めてユニークな鉄道なのである。

 びわ湖浜大津駅を出発した電車は、直ぐに大通りの交差点を半径43mの急カーブで左に曲がり、琵琶湖を背に、路面電車として大通りを登って行く。日本の軌道法では列車長が最大30mと定められているが、この路線では特例でこの長さを超える四両連結の電車が走ることが認められているそうだ。そして700m弱の路面電車区間が終わると、今度はこの路線で最も急な半径40mの右カーブで専用軌道に入り、上栄町駅に停車。いよいよ山岳路線が始まる。
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(路面電車区間を走る京阪京津線の電車)

 上栄町駅を出ると、そこからは急カーブで速度制限が20km/hの箇所が連続する。そして、車内にいると気がつかないのだが、人家に近い急カーブの箇所では、車輪と線路が軋む音を緩和するために水煙を上げるスプリンクラーを作動させているそうだ。

 程なくJR東海道本線の線路をオーバーパスして右カーブ。そして今度は左カーブで国道161号を横断すると、逢坂山トンネルまでの間は国道1号の下り(京都方面行き)側に沿ってゆっくりと勾配を登り続ける。最大で61‰の急勾配は箱根登山鉄道の80‰に次ぐ国内第二位、アプト式の大井川鉄道井川線の90‰を加えても第三位というから大変な難所なのである。
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(京阪京津線の山越え部分)

 そして、この区間のハイライトがいよいよやって来る。名神高速道路の下を潜って間もなく、半径45mの右急カーブで逢坂山トンネルへと入って行く箇所だ。長さ約250mのトンネルの中も上り勾配が続いていて、それを抜け出た先がピークになる。今度は線路が国道1号の上り(大津方面行)側に並行するようになり、勾配を下り始めて直ぐに大谷駅に到着する。この駅自体が40‰の急勾配の途中にあるために、私は気がつかなかったのだがホームのベンチは勾配に合わせて左右の脚の長さが異なるという。
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 大谷駅の北側には「百人一首」で有名な蝉丸(せみまる)を祀った蝉丸神社。蝉丸は生没年が共に不明で、皇族の血統を持っていたという噂があること、盲目ながら琵琶の大変な名人だったこと、そしてこの逢坂に住んでいたことぐらいしかわかっていないようだ。

 「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも逢坂の関」

 平安時代の昔から、この逢坂越えが東西交通の要所であったことをこの歌は示しているのだが、東京に生まれ、その後も基本的には東京で育った私には、「箱根の山は天下の険」なら肌感覚はあっても、「逢坂山」には今までどうも具体的なイメージが湧かなかった。それだけに、鉄道が大津と京都を結ぶ時代になってからも「逢坂の関」が引続き難関であったことを、今回乗ってみた京津線の電車が文字通り身をもって教えてくれたように思う。

 さて、大谷駅を出た電車は、今までの山越えの区間とは異なり、わりと直線部分が続くルートで山科盆地へと下りて行く。四宮駅からは殆ど平坦になり、JR山科駅の直ぐ南にある京阪山科駅に停車。この場所を初めて「山科」と名乗ったのは大正元年8月に開業したこの京津線の駅なのだが、後の大正10年8月に官鉄東海道本線のルート変更で山科駅がここに設置されると、京津線の方は「山科駅前」駅に変更となった。官と民との関係は常にそういうものであるようだ。

 京阪山科駅を出ると直ぐにS字カーブでJRの線路を潜り、電車は平成9年から始まった京都市営地下鉄東西線への乗り入れのために地下へと潜って行く。そして最初の停車駅が御陵(みささぎ)である。(以前のルートは京都の三条までずっと地上を走っていた。)ホームが地下2階と3階に分かれた駅で、地上に出ると幅の狭い県道が走っている。

 この駅で降りた理由は、その駅名にあった。「御陵」とは付近にある天智天皇山科陵のことだ。今朝、大津の三井寺や弘文天皇御陵、新羅善神堂を訪れ、私があれこれと想像を巡らせていた、あの天智天皇の陵墓とされている場所である。

 前回の記事で少し触れたが、663年に白村江で唐・新羅連合軍に惨敗を喫した中大兄皇子は、4年後の667年に近江大津京に遷都し、翌年に即位。後に「天智」の諡号を贈られる天皇となるのだが、その即位から4年足らずの672年の年初(旧暦では671年の年末)に崩御。その事情について「宮中での病死」を示唆する日本書紀の記述に対して、「遠乗りに出たまま行方不明となり、仕方がないので沓が落ちていた場所を陵墓とした」との噂を記載した文献が存在。しかも現に宮内庁が今も管轄している「天智天皇陵」が近江大津の地から山々を隔てた山科の地に存在するのだ。それならば、大津から京都へ戻る道すがら、是非立ち寄ってみようではないか。
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 電車を降りた御陵駅から県道を大津方向へ500mほど戻ると、道の左側にその陵墓の入口がある。そこからは森の中に石畳の道が真っ直ぐ続き、それを更に500mほど進むと、歴代天皇特有の形をした陵墓が現れる。背後は深い森で、訪れる人など誰もいない。まさに静寂だけが支配する空間だ。その静寂に包まれながら、私は改めて考えてみた。
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 近江大津京と天智天皇山科陵の間には、比叡山から南へと続く幾多の山々によって隔てられている。その当時、この山々に入り込んで大津京から山科へと抜けて行く山道があったとしても、「馬で遠乗りに出る」ルートとは考えにくい。天智天皇が本当に馬で遠乗りに出かけたのならば、それはやはり逢坂の関を越えて行く通常のルートだったのではないか。だとすれば、平安京はおろか平城京もまだ開かれていない時期に、山科には何の用事があって立ち寄ったのだろう。
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(再掲)

 この出来事が「遠乗りに出かけて行方不明になった」のではなく、「遠乗りの途中で暗殺された」という説を取るのなら、「沓が落ちていた」という場所は本当に暗殺現場の近辺だったのか。そうでないなら何処だったのか。そして、天智のものと伝えられる陵墓が、明らかに地縁のある近江大津ではなくてなぜ山科の地にあるのだろうか。

 いずれにせよ、山科の陵墓からは近江大津京も琵琶湖も眺めることは出来ない。にもかかわらずこの地に天智天皇の陵墓が造られたのであれば、何等かの事情があって、「霊魂を鎮めるために事故(もしくは事件)現場付近に取り急ぎ陵墓を造る」ことが優先されたということではないだろうか。そして、天智の「崩御」から幾らも経たないうちに壬申の乱が始まったことから考えると、天智が「遠乗りに出かけたまま帰還しなかった」事故または事件の背景に、天智への対抗勢力としての大海人皇子(後の天武天皇)の存在が多分にあったのではないか・・・。

 恐らくは本人にとって不本意な形で葬られたのであろう天智天皇。だが、時代が明治に入り、都としてのステータスを失って衰退を始めた京都に対する「復興プロジェクト」として琵琶湖疎水の建設が始まり、三井寺の直ぐ南を取水口として山を貫くトンネルに入ったその水路は、山科盆地で再び地上に姿を現し、この天智天皇山科陵のすぐ北側を回り込むようにして京都へと流れている。天智天皇の崩御から1200年余り。琵琶湖疎水の開通が琵琶湖と天智天皇とを再び繋ぐことになったのだから、歴史というのは何とも不思議なものである。
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 京都から立ち寄った大津への半日の旅。それは私にとって久しぶりの、足で歩く歴史旅であり、なおかつ大好きな乗り鉄の旅でもあった。京阪京津線は車両の更新時期が迫る中、赤字路線であるためにその将来が取り沙汰されているようだが、是非存続して欲しいものである。そしてそのためにも、遠からずまた乗りに出かけることにしよう。

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大津にて (2) [歴史]


 琵琶湖を東に見下ろす山の斜面に広い境内を持つ、天台寺門宗総本山の長等山園城寺(通称、三井寺)。この古刹を初めて訪れた私は、桜の開花を待つばかりの境内の様子を楽しみながら、遥かな古代史に思いを巡らせている。

 園城寺のHPでこの寺の歴史を調べてみると、次のような記載がある。

 「667年に天智天皇により飛鳥から近江に都が移され、近江大津京が開かれました。672年、前年の天智天皇の永眠後、大友皇子(天智天皇の子:弘文天皇)と大海人皇子(天智天皇の弟:天武天皇)が皇位継承をめぐって争い、壬申の乱が勃発。乱に敗れた大友皇子の皇子の大友与多王は父の霊を弔うために『田園城邑(じょうゆう)』を寄進して寺を創建し、天武天皇から『園城』という勅額を賜ったことが園城寺の始まりとされています。勝利を収めた大海人皇子は再び飛鳥に遷都し、近江大津京はわずか五年で廃都となりました。」

 サラッと書かれているが、これは日本古代史の中でも特筆すべき激動の時代に関する事柄なのである。

「万世一系」とは言うものの、遥かな古代には色々あったと思われる皇統の系譜。応神天皇(第15代)、継体天皇(第26代)、欽明天皇(第29代)らの登場の経緯については昔から数多くの議論があるところだが、その欽明天皇以降の皇統の中では、やはり天智天皇(中大兄皇子)が存在した時期が大きな激動期である。
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 中大兄皇子は626年に舒明天皇の第二皇子として誕生。乙巳の変(645年)と呼ばれる宮中クーデターで蘇我宗家を滅ぼし、異母兄の古人大兄皇子を謀反の疑いで葬ったのは弱冠19歳の時だ。以後、叔父の孝徳天皇の下で皇太子として難波に遷都。一連の改革(いわゆる大化改新)に着手するのだが、その8年後に何故か飛鳥板葺宮に群臣を連れて戻り、これに同行しなかった孝徳が翌年に一人寂しく崩御したため、妻の前・皇極天皇が斉明天皇として重祚。息子の中大兄皇子は引続き皇太子として政権を支えていたところ、その5年後の660年に、唐・新羅連合軍の侵攻による百済滅亡という大事件が起こる。

 事件の報に接した斉明天皇・中大兄皇子は、百済の再興を図るべく援軍を西方に送るのだが、自ら九州に赴いた斉明女帝は筑紫・朝倉の地で崩御。中大兄皇子は皇太子のまま称制を執り、朝鮮半島に出兵するも、663年に白村江で唐・新羅連合軍に大敗を喫してしまう。

 衝撃を受けた皇子は、やがて起こり得る唐・新羅の日本侵攻に備えて北九州の各地に防塁を築くと共に、都を近江大津京へと遷した(667年)。その都の位置は、この園城寺から琵琶湖の左岸を2km足らず北上したあたりだ。確かに比叡山から南に続く山並みが都の西側に連なり、西からは攻略を受けにくい地形ではある。そして、この地に遷都した翌年(668年)に中大兄皇子はようやく即位に至る。これが天智天皇だ。そして「弟」の大海人皇子が皇太弟となった。

 母親であった斉明女帝の崩御から約6年半、中大兄皇子はなぜ即位をせずに称制を続けたのだろう。そして、西からの敵を防ぐのに適した地であるとはいえ、彼が遷都先として近江大津の地を選んだのはなぜだったのか。

 日本書紀によれば、天智天皇(中大兄皇子)と天武天皇(大海人皇子)は、同じ舒明天皇を父、皇極(斉明)天皇を母とする兄弟とされている。天智が兄で天武が弟だというのだが、実に奇妙なことに天武の生年に関する記載が日本書紀には全くないため、今でも生年不詳なのだそうだ。そして、古代においては近親結婚が特に珍しくもなかったとはいえ、(記紀の記述が正しければ)兄の天智は自分の娘を4人も天武の妻に送り出しているというのも異常なことである。

 だが、考えてみれば日本書紀は天武の息子の舎人親王が編集責任者となり、天武の孫の元正女帝の治世(720年)に完成した官製の「国史」である。そして、全体の中では天武の業績に関することが大きなボリュームを占めており、その編纂には官製プロパガンダという意図があったことは否定できないだろう。だとすれば書かれていることの全てが真実とは限らない、いや、むしろ多分にフィクションが含まれているのではないか、という考え方に私は賛成したくなってしまう。

 そう考えると、天武天皇礼賛の史書の中に本人の生年に関する記載がないのは何とも奇妙なことであり、天武の出自を「天智の弟」とする上で何かしら都合の悪い部分があったのではないか、と疑いたくもなるものだ。それに加えてもう一つの大きな謎は、天智天皇の崩御に関する経緯である。
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 日本書紀によれば、天智天皇は病を得て死の床につく。(そうであれば、その場所は近江大津京の宮中だったと考えるのが自然だろう。) そして「弟」の大海人皇子を枕元に呼び寄せて後事を託すのだが、暗殺を警戒した大海人皇子は「皇后が即位して大友皇子(=天智の第一皇子)が執政を行えばよい」として辞退し、直ぐに頭を丸めて吉野に下ったという。それぐらい、大友皇子と大海人皇子との関係は緊迫したものだったのだろう。そして、672年に天智が崩御すると、大友皇子は朝廷で後継に立つのだが、実際に即位したかどうかは定かでないという。「弘文天皇」という諡号が贈られたのは実に明治3年のことである。

 ところが、天智の崩御から400年も後の1094年になって、比叡山の僧・皇円の編纂によるものとされる「扶桑略記」の中に、
 「天智天皇は山科の里へ遠乗りに出かけたが、そのまま帰って来なかった。山中深く探しても行方がわからず、仕方がないので沓が落ちていた場所を陵墓とした。そこは山城国宇治郡山科郷(現・京都市山科区)の北山である。」
との記載があることから、天智の崩御は宮中での病死ではなく、近江大津から離れた山科の地での暗殺だったのではないかとの見方も少なくない。「扶桑略記は後世の書なのだから、そっちの方がフィクションなのでは?」との反論も成り立つが、それにしては不思議なのが、現に山科には宮内庁管轄の「天智天皇山科陵」が存在し、考古学的にも文献資料的にもほぼ確実な天皇陵とされていることだ。

 既に触れたように、天智の第一皇子の名前は大友皇子だ。園城寺の寺域を含む大津の一帯は、継体天皇と共に越の国から移住して来たとされる漢系渡来人の氏族・大友村主(すぐり)家の本拠地であり、その「大友」の名を冠した皇子は、大友村主家の支持を受けていたのではないかという。だとすれば、大友皇子の父親であり、明らかに百済救済に利害が絡んでいた天智天皇自身も大津に何らかの地縁があり、だからこそ都を遷す場所に選んだのではないか。

 そう考えると、もし天智天皇が宮中で病死したのなら、その陵墓は近江大津京の近くに置かれるのが普通ではないか。それがなぜ、大津京も琵琶湖も見えない山科の地にあるのか。そうなると、天智天皇の崩御に関しては、日本書紀よりもむしろ扶桑略記の記述の方に説得力があるように思えてくる。この山科の天智天皇の陵墓には、今日この後に足を運んでみようと思っている。

 園城寺の前の道路を北へ1kmほど行くと、大津市役所のすぐ先に「弘文天皇御陵参拝道」という石碑が立っている。天智天皇の崩御の後、時を経ずして大友皇子と大海人皇子の間で武力衝突が始まった。日本古代史上で最大の内乱とされる壬申の乱(672年)である。そして、この戦いに敗れた大友皇子は大津の地で自害に及んだ。
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 先に触れたように明治になってから大友皇子には弘文天皇という諡号が贈られたため、市役所の裏手にある彼の陵墓は「弘文天皇陵」なのだが、付近には「皇子山」という地名が今でも残っている。やはり大友皇子は即位していなかったのか。それとも、在位中の天皇を討ったとなれば逆賊になってしまうので、大友皇子はまだ即位していなかったように見せかけるために、天武が敢えて「皇子山」と呼ばせたのか。ともかくもその参道(といってもただの路地)を上がってみると、ひっそりとした「弘文天皇陵」が春の陽を受けていた。
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 そして、その弘文天皇陵の直ぐ近くに、新羅善神堂という、園城寺が管理しているお堂がある。南北朝時代に建てられたそのお堂と、その中に安置された平安時代(11世紀)の作になる新羅善神坐像(秘仏)は何れも国宝なのだが、とてもそうは思えないほど目立たない、言葉を選ばずに言えば捨て置かれたような場所にある。そこへ行く道も舗装すらされておらず、観光客など誰もいない。非公開なので門の外から眺めるだけなのだが、新羅善神という神様がここに祀られているというのが、これまた大きな謎である。
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 冒頭に引用した園城寺のHP上の文章を再掲する。

 「672年、前年の天智天皇の永眠後、大友皇子(天智天皇の子:弘文天皇)と大海人皇子(天智天皇の弟:天武天皇)が皇位継承をめぐって争い、壬申の乱が勃発。乱に敗れた大友皇子の皇子の大友与多王は父の霊を弔うために『田園城邑(じょうゆう)』を寄進して寺を創建し、天武天皇から『園城』という勅額を賜ったことが園城寺の始まりとされています。」

 先に触れたように、天智天皇と天武天皇が(日本書紀の記述のように)本当に兄弟だったのかどうかは、かなり怪しいと言うべきだろう。その天武が壬申の乱に勝利して、大友皇子は滅び、大友の子(与多王)が父の霊を弔うべく、言わば自分たちの氏寺を建てたいと申し出て(686年)、天武がそれを許可した。敗者の霊をも丁重に弔う日本の伝統はこの時代にもあったというべきなのかもしれないが、考えてみれば、大友の父(天智天皇)は、唐・新羅連合軍によって滅ぼされた百済の再興を目指して朝鮮半島へ出兵までした人物である。その霊を弔う寺に、なぜわざわざ新羅の神様を祀ったのか。それは、園城寺の中興の祖・円珍が唐に留学した帰りの船で嵐に遭い、そこに新羅善神が現れて一行は救われたので、以来この寺の守り神になったと伝えられるのだが、それも後から加えられたフィクションの可能性だってなくはない。

 この新羅善神の存在を天智親子の「怨霊封じ」という風に読み解くかどうかはともかくとして、壬申の乱の勝者と敗者の間の微妙な関係が、その後の園城寺の歴史の中にも投影されて来たと考えるべきなのだろう。

 なお、天智と天武の関係は、その後の天皇家の系図にも少なからず影響を与えている。前掲した天智・天武以降の皇統系譜を天智の血統か、或いは天武の血統(天智系との混血を含む)なのかで色分けしてみると、次のようになる。
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 天武の系統はなぜか男子が早逝することが多く、次世代が育つまで女帝が中継ぎを務めることが度々あった。奈良時代に女帝が多いのはそのためだが、更には大仏建立の頃の聖武天皇は男子に恵まれず、娘の孝謙(道鏡事件の際に重祚して称徳)天皇を以て、その血統が途絶えてしまう。

 称徳の後を受けて即位したのは天智の孫にあたり、なおかつ天武の血が入っていない光仁天皇で(その時点でかなりの老人だった)、その光仁と百済系帰化人・高野新笠との間に生まれた桓武天皇の即位を以て、皇位は名実共に天智の血統に戻ったことになる。(しかも再び百済と繋がっているところが興味深い。) そして、その桓武以降、日本の天皇家は1000年以上にわたって京都に定着することになる。

 更に言えば、歴代天皇を仏式に祀り、それゆえに御寺(みてら)と呼ばれる京都の泉涌寺では、天武から称徳までの天武系の8代7名の天皇だけ位牌がないという。途中で途絶えた天武の系統だけが何か異質なものとして扱われているかのようだ。それもまた、天武の出自の謎に繋がっているのだろうか。

 なお、ここまで「園城寺」と記載してきたが、この寺は三井寺(みいでら)という別名の方がずっとよく知られている。それは、この寺の金堂の近くに、「天智・天武・持統の三帝が産湯に用いた」という「三井の霊泉」があることに拠るものなのだが、これもまた、そういう「伝説」を敢えて用意する必要があるぐらい天武の出自には謎があることを、実は暗示しているのかもしれない。
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(色の濃い部分は各天皇の在位期間)

 それにしても、大津駅を起点に、ここまでよく歩いて来た。ここからは暫くの間、電車の座席に座って一休みすることにしよう。

(to be continued)

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大津にて (1) [歴史]


 3月18日(日)午前8時過ぎ、私はJR京都駅2番線ホームに停車していた東海道本線の上り列車に飛び乗った。8時7分発の快速米原行き。スマホで時刻表を調べてみたら、兵庫県と岡山県の県境に近い上郡駅を今朝の5時10分に出て、山陽本線と東海道本線をもう3時間近くも走り続けて来た列車だ。

 程なく発車時刻を迎え、列車はゆっくりと京都駅を離れていく。その時、私の中にはまだ昨夜の余韻が少なからず残っていた。大学時代のゼミの同期生たちと8人で京都に集まり、楽しく過ごしていたのである。

 私たちの母校は東京にあるのだが、ゼミの同期生のK君が今では京都で会社の社長を務めている。彼自身、西陣で生まれ育った生粋の京都人なのだ。私たちが大学を出たのはもう37年も前のことだが、ゼミの同期生たちとは今でも年に2回ぐらいは集まっている。京都で仕事をしているK君には、そのたびに用事を作って東京へ出て来てもらっていた。そうであれば、たまには我々が京都へ足を運んでみよう。そんな話が出たのが昨年の秋。それから話はどんどん具体化していって昨夜の集まりになった。
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 もっとも、実際に京都に集まるとなれば、場所のセッティングや宿の手配などは現地にいるK君に全てをお願いせざるを得ない。結果的に彼には大きな手間をかけることになってしまったのだが、もうあと一週間もすれば桜も開花という季節に、西陣の老舗料亭での一次会、そして祇園のバーでの二次会を私たちは大いに楽しむことが出来た。京都の夜に、女性が隣に座る訳でもなく、カラオケもなく、男8人がひたすら語り合うというのはいささか硬派な過ごし方なのかもしれないが、これもまた私たちのグループの持ち味なのだろう。

 大学を出た頃には、それから37年後に同じメンバーでこんな機会を持つことになるなんて想像も出来なかった。それから皆が社会に出て、メンバーの大半が海外赴任を経験し、それぞれの人生を精一杯生きて来た。そして全員が還暦を過ぎた今、こうして昔と同じように様々なことを語り合える。長い年月を経た今もなお、お互いにそんな間柄でいられるというのは何と幸せなことだろう。
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 そんな余韻をまだ半ば引きずったままの私を乗せた米原行き快速電車は、間もなく闇の中へと吸い込まれた。京都の清水寺の1kmほど南で東西に山を貫く、長さ1865mの東山トンネルである。それを抜けると窓の外には山科盆地の眺めが広がり、程なく山科駅に到着。再び出発して左カーブを切り、湖西線と別れると直ぐにまた次のトンネルに入る。これが長さ2325mの新逢坂山トンネルだ。それを抜けると軽い右カーブになり、列車は直ぐに大津駅ホームに滑り込むことになる。

 ホームに降り立つと、その京都寄りの先端部からは先ほどの新逢坂山トンネルの大津側出口が直ぐ近くに見え、その上に逢坂山の東面が立ちはだかっている。その時に一つのシンプルな疑問が湧き起った。

 自分が知る限り、新橋・横浜間の鉄道開通は明治5年、京都・神戸間は明治10年だ。そして東海道本線の全通は明治22年だから、大津・京都間もそれ以前に開通していた筈である。しかし、そんなに早い時期に長さが2km前後にもなる鉄道トンネルの建設が出来たのだろうか?
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(大津駅ホームから眺める逢坂山とトンネル)

 これは後で調べてみて知ったことなのだが、大津・京都間の開業は明治13年だった。当然、そんな時期に長大トンネルを掘る技術はない。だから京都・大津間の鉄道は今とは別ルートだったのである。

 急勾配が苦手という宿命を背負ってきた鉄道。全国いたる所に山あり谷あり急流ありの日本でその鉄道を建設するためには、様々な工夫を凝らしつつ現実の地形と折り合って行かねばならない。「逢坂越え」もその典型で、大津側からの当初のルートは今よりも南側、旧東海道に沿って25‰の急勾配を登り、長さ665mのトンネルで逢坂山を越え(旧逢坂山隧道)、その後は山科盆地を南西に横切った上で、伏見稲荷大社のある稲荷山の南を回り込み、現在のJR奈良線・稲荷駅から京都を目指すというものだったのだ。大津・京都間を結ぶものとしてはいかにも大回りだが、難関の逢坂越えに加えて、地盤が軟弱とされた東山を避けるという意図もあったようである。
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 なお、このルートを建設する過程で、665mの逢坂山トンネルは、外国人技師の力に頼らずに日本人だけで完成させた日本初の山岳トンネルとなったという。明治13年といえば西南戦争の後だ。深刻な財政難に陥っていたはずの明治新政府も、よく頑張ったものだと思う。そして、新逢坂トンネルと東山トンネルを伴う現在のルートに変更となったのは大正10年。勾配も緩和されてスピードアップに大きく貢献したことだろう。現代の私たちは、この新ルートよりも南側を走る東海道新幹線で通過してしまうことが多いから、かつての逢坂越えの苦労を想像する暇もなく京都に着いてしまう。やはりたまには在来線で旅をしてみるものである。

 さて、大津駅で降りた私は駅前ロータリーに出た。考えてみれば、私が物心ついてから滋賀県に足を踏み入れるのはこれが初めてのことである。観光案内の地図を見ていたら、駅から歩いて直ぐのところに露国皇太子遭難の碑があるという。おお、明治24年のあの大津事件の現場なのか。それは是非とも見てみよう。

 駅前から琵琶湖に向かって大通りを下って行くと、大きな交差点の先の路地に、あまり目立たない石碑が一つ。「比附近露国皇太子遭難之地」とある。その前の道は旧東海道だそうだ。
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 日露戦争の時にはロシア皇帝だったニコライ二世が、まだ皇太子の時代に日本を訪れたことがあった。シベリア鉄道の東側起工式に出席するために軍艦ではるばるやって来た皇太子は、その途中に九州経由で神戸に寄港。京都を訪れ、そこからの日帰り観光で琵琶湖にも足を延ばしていた。その途上で、沿道の警備をしていた津田三蔵巡査が突然サーベルを抜いて皇太子に襲いかかり、頭部を負傷させるという事件が起きたのだ。津田は日頃から日本に対するロシアの行動に不快感を募らせており、ニコライの訪日も敵情視察が目的だという思いがあったそうだが、外国の皇族に対してテロ行為を起こしたこの津田への刑事罰は、死刑なのか無期懲役であるべきか、政界と司法界を巻き込む大論争となったのがこの大津事件である。

 東海道沿いの現場付近は、当時は人通りで賑わっていたのだろうが、日曜日の朝ともあって今はひっそりとしている。

 その旧東海道をそのまま西に進み、だいぶ行ったところで右に折れて琵琶湖に近づくように歩いていくと、やがて琵琶湖疎水の取水口が現れる。琵琶湖の水を京都まで引いて京都市民の水道用水とする他、水運や水力発電によって新たな産業を興すために建設された水路。それは、明治になって首都機能が東京に移り、衰退を続けていた京都の復興プロジェクトでもあった。
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(琵琶湖疎水の取水口。前方が琵琶湖の方向)

 琵琶湖側の取水口から水路を作り、長いトンネルで山を貫いて、明治23年に第一疎水が完成。更には京都の蹴上(けあげ)で大きな落差を利用して水力発電を行い、その電力を利用して舟を京都側から琵琶湖側に持ち上げるために長さ640mのインクライン(傾斜鉄道)を建設。それらの運転開始は翌明治24年というから、まさにニコライが大津を訪れた年のことである。(もう一つ言えば、この蹴上で発電した電力を利用して、明治28年に京都電気鉄道が京都・伏見間で営業を開始。日本で初めて電車を走らせたのである。)これに続いて第二疎水の建設も行われ、それが完成したのは明治45年のことであった。
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(京都市上下水道局のHPより拝借)

 先人たちは偉かった! 取水口から山へと向かっていく琵琶湖疎水を眺めながら、そう思う他はない。
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 疎水を渡って更に歩いて行くと、道はやがて大きな参道と交差する。そこを左に向かえば有名な園城寺(三井寺)の入口が待っている。

 長等山園城寺。言うまでもなく天台寺門宗の総本山である。平安時代の初期、第五代天台座主・智証大師円珍(814~891、空海の甥にあたるそうだ)によって天台別院として中興された。

 開祖・伝教大師最澄(766~822)亡き後、日本天台宗では第三代天台座主・慈覚大師円仁(794~864)と円珍の二人が抜きんでた存在となるのだが、その二人の間での仏教解釈の違いから後の世代の中で争いが起こり、比叡山延暦寺は円仁門流が多数派を占めたため、円珍派は山を下りることになる。その時に彼らが拠ったのがこの園城寺だった。
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(園城寺の入口に立つ仁王門)

 以来、山門派(延暦寺)と寺門宗(園城寺)は対立を続けることになる。四宗(円・密・禅・戒)兼学を旨とする山門派に対して寺門宗は四宗+修験の五法門を唱えるというが、両者の対立の原因がそれだけのことなのかどうか、私にはわからない。

 仁王門の横から境内に入り、石段を登ると国宝の金堂が正面に聳えている。延暦寺との対立の中で園城寺は焼き討ちに遭うことも数多く、この金堂も16世紀末に秀吉の遺志を継いで再建されたものだそうだ。
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 山の東斜面全体が寺域であるような園城寺。広々とした境内を歩き回るには相応の時間が必要だ。重要文化財の三重塔、同じく重文の釈迦堂、毘沙門堂などを見て歩くと、それぞれに山の自然と一体化したような落ち着いた佇まいが立派である。明治の初めに来日し、この国の自然と伝統美術をこよなく愛して岡倉天心(1863~1913)を支援した米国人アーネスト・フランシスコ・フェノロサ(1853~1908)やウィリアム・スタージス・ビゲロー(1850~1926)が眠る墓も、この境内にあるそうだ。
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 それにしても、昨日の土曜日の京都の大混雑とは対照的に、園城寺の境内は何と静かなことか。
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 琵琶湖を望む観音堂からは、甍の向こうに比叡山の山並みが見えている。山門派・寺門宗の争いといっても、この距離の中でのことだったのだ。箱庭の中での争いごとのようで、何だか微笑ましくもなってしまう。辺りの桜の木では蕾が大きくなっていて、あと一週間もすればこの山でも開花が始まりそうだが、その時に訪れたならば、どんなに素晴らしい眺めが待っていることだろう。
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 さて、この園城寺は平安時代初期の智証大師・円珍が中興の祖であることについて先に触れたが、それ以降の寺門宗としての歴史もさることながら、私にとってより興味が湧くのは円珍の時代以前の、この寺の創建に係わることである。

(to be continued)

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