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大津にて (2) [歴史]


 琵琶湖を東に見下ろす山の斜面に広い境内を持つ、天台寺門宗総本山の長等山園城寺(通称、三井寺)。この古刹を初めて訪れた私は、桜の開花を待つばかりの境内の様子を楽しみながら、遥かな古代史に思いを巡らせている。

 園城寺のHPでこの寺の歴史を調べてみると、次のような記載がある。

 「667年に天智天皇により飛鳥から近江に都が移され、近江大津京が開かれました。672年、前年の天智天皇の永眠後、大友皇子(天智天皇の子:弘文天皇)と大海人皇子(天智天皇の弟:天武天皇)が皇位継承をめぐって争い、壬申の乱が勃発。乱に敗れた大友皇子の皇子の大友与多王は父の霊を弔うために『田園城邑(じょうゆう)』を寄進して寺を創建し、天武天皇から『園城』という勅額を賜ったことが園城寺の始まりとされています。勝利を収めた大海人皇子は再び飛鳥に遷都し、近江大津京はわずか五年で廃都となりました。」

 サラッと書かれているが、これは日本古代史の中でも特筆すべき激動の時代に関する事柄なのである。

「万世一系」とは言うものの、遥かな古代には色々あったと思われる皇統の系譜。応神天皇(第15代)、継体天皇(第26代)、欽明天皇(第29代)らの登場の経緯については昔から数多くの議論があるところだが、その欽明天皇以降の皇統の中では、やはり天智天皇(中大兄皇子)が存在した時期が大きな激動期である。
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 中大兄皇子は626年に舒明天皇の第二皇子として誕生。乙巳の変(645年)と呼ばれる宮中クーデターで蘇我宗家を滅ぼし、異母兄の古人大兄皇子を謀反の疑いで葬ったのは弱冠19歳の時だ。以後、叔父の孝徳天皇の下で皇太子として難波に遷都。一連の改革(いわゆる大化改新)に着手するのだが、その8年後に何故か飛鳥板葺宮に群臣を連れて戻り、これに同行しなかった孝徳が翌年に一人寂しく崩御したため、妻の前・皇極天皇が斉明天皇として重祚。息子の中大兄皇子は引続き皇太子として政権を支えていたところ、その5年後の660年に、唐・新羅連合軍の侵攻による百済滅亡という大事件が起こる。

 事件の報に接した斉明天皇・中大兄皇子は、百済の再興を図るべく援軍を西方に送るのだが、自ら九州に赴いた斉明女帝は筑紫・朝倉の地で崩御。中大兄皇子は皇太子のまま称制を執り、朝鮮半島に出兵するも、663年に白村江で唐・新羅連合軍に大敗を喫してしまう。

 衝撃を受けた皇子は、やがて起こり得る唐・新羅の日本侵攻に備えて北九州の各地に防塁を築くと共に、都を近江大津京へと遷した(667年)。その都の位置は、この園城寺から琵琶湖の左岸を2km足らず北上したあたりだ。確かに比叡山から南に続く山並みが都の西側に連なり、西からは攻略を受けにくい地形ではある。そして、この地に遷都した翌年(668年)に中大兄皇子はようやく即位に至る。これが天智天皇だ。そして「弟」の大海人皇子が皇太弟となった。

 母親であった斉明女帝の崩御から約6年半、中大兄皇子はなぜ即位をせずに称制を続けたのだろう。そして、西からの敵を防ぐのに適した地であるとはいえ、彼が遷都先として近江大津の地を選んだのはなぜだったのか。

 日本書紀によれば、天智天皇(中大兄皇子)と天武天皇(大海人皇子)は、同じ舒明天皇を父、皇極(斉明)天皇を母とする兄弟とされている。天智が兄で天武が弟だというのだが、実に奇妙なことに天武の生年に関する記載が日本書紀には全くないため、今でも生年不詳なのだそうだ。そして、古代においては近親結婚が特に珍しくもなかったとはいえ、(記紀の記述が正しければ)兄の天智は自分の娘を4人も天武の妻に送り出しているというのも異常なことである。

 だが、考えてみれば日本書紀は天武の息子の舎人親王が編集責任者となり、天武の孫の元正女帝の治世(720年)に完成した官製の「国史」である。そして、全体の中では天武の業績に関することが大きなボリュームを占めており、その編纂には官製プロパガンダという意図があったことは否定できないだろう。だとすれば書かれていることの全てが真実とは限らない、いや、むしろ多分にフィクションが含まれているのではないか、という考え方に私は賛成したくなってしまう。

 そう考えると、天武天皇礼賛の史書の中に本人の生年に関する記載がないのは何とも奇妙なことであり、天武の出自を「天智の弟」とする上で何かしら都合の悪い部分があったのではないか、と疑いたくもなるものだ。それに加えてもう一つの大きな謎は、天智天皇の崩御に関する経緯である。
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 日本書紀によれば、天智天皇は病を得て死の床につく。(そうであれば、その場所は近江大津京の宮中だったと考えるのが自然だろう。) そして「弟」の大海人皇子を枕元に呼び寄せて後事を託すのだが、暗殺を警戒した大海人皇子は「皇后が即位して大友皇子(=天智の第一皇子)が執政を行えばよい」として辞退し、直ぐに頭を丸めて吉野に下ったという。それぐらい、大友皇子と大海人皇子との関係は緊迫したものだったのだろう。そして、672年に天智が崩御すると、大友皇子は朝廷で後継に立つのだが、実際に即位したかどうかは定かでないという。「弘文天皇」という諡号が贈られたのは実に明治3年のことである。

 ところが、天智の崩御から400年も後の1094年になって、比叡山の僧・皇円の編纂によるものとされる「扶桑略記」の中に、
 「天智天皇は山科の里へ遠乗りに出かけたが、そのまま帰って来なかった。山中深く探しても行方がわからず、仕方がないので沓が落ちていた場所を陵墓とした。そこは山城国宇治郡山科郷(現・京都市山科区)の北山である。」
との記載があることから、天智の崩御は宮中での病死ではなく、近江大津から離れた山科の地での暗殺だったのではないかとの見方も少なくない。「扶桑略記は後世の書なのだから、そっちの方がフィクションなのでは?」との反論も成り立つが、それにしては不思議なのが、現に山科には宮内庁管轄の「天智天皇山科陵」が存在し、考古学的にも文献資料的にもほぼ確実な天皇陵とされていることだ。

 既に触れたように、天智の第一皇子の名前は大友皇子だ。園城寺の寺域を含む大津の一帯は、継体天皇と共に越の国から移住して来たとされる漢系渡来人の氏族・大友村主(すぐり)家の本拠地であり、その「大友」の名を冠した皇子は、大友村主家の支持を受けていたのではないかという。だとすれば、大友皇子の父親であり、明らかに百済救済に利害が絡んでいた天智天皇自身も大津に何らかの地縁があり、だからこそ都を遷す場所に選んだのではないか。

 そう考えると、もし天智天皇が宮中で病死したのなら、その陵墓は近江大津京の近くに置かれるのが普通ではないか。それがなぜ、大津京も琵琶湖も見えない山科の地にあるのか。そうなると、天智天皇の崩御に関しては、日本書紀よりもむしろ扶桑略記の記述の方に説得力があるように思えてくる。この山科の天智天皇の陵墓には、今日この後に足を運んでみようと思っている。

 園城寺の前の道路を北へ1kmほど行くと、大津市役所のすぐ先に「弘文天皇御陵参拝道」という石碑が立っている。天智天皇の崩御の後、時を経ずして大友皇子と大海人皇子の間で武力衝突が始まった。日本古代史上で最大の内乱とされる壬申の乱(672年)である。そして、この戦いに敗れた大友皇子は大津の地で自害に及んだ。
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 先に触れたように明治になってから大友皇子には弘文天皇という諡号が贈られたため、市役所の裏手にある彼の陵墓は「弘文天皇陵」なのだが、付近には「皇子山」という地名が今でも残っている。やはり大友皇子は即位していなかったのか。それとも、在位中の天皇を討ったとなれば逆賊になってしまうので、大友皇子はまだ即位していなかったように見せかけるために、天武が敢えて「皇子山」と呼ばせたのか。ともかくもその参道(といってもただの路地)を上がってみると、ひっそりとした「弘文天皇陵」が春の陽を受けていた。
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 そして、その弘文天皇陵の直ぐ近くに、新羅善神堂という、園城寺が管理しているお堂がある。南北朝時代に建てられたそのお堂と、その中に安置された平安時代(11世紀)の作になる新羅善神坐像(秘仏)は何れも国宝なのだが、とてもそうは思えないほど目立たない、言葉を選ばずに言えば捨て置かれたような場所にある。そこへ行く道も舗装すらされておらず、観光客など誰もいない。非公開なので門の外から眺めるだけなのだが、新羅善神という神様がここに祀られているというのが、これまた大きな謎である。
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 冒頭に引用した園城寺のHP上の文章を再掲する。

 「672年、前年の天智天皇の永眠後、大友皇子(天智天皇の子:弘文天皇)と大海人皇子(天智天皇の弟:天武天皇)が皇位継承をめぐって争い、壬申の乱が勃発。乱に敗れた大友皇子の皇子の大友与多王は父の霊を弔うために『田園城邑(じょうゆう)』を寄進して寺を創建し、天武天皇から『園城』という勅額を賜ったことが園城寺の始まりとされています。」

 先に触れたように、天智天皇と天武天皇が(日本書紀の記述のように)本当に兄弟だったのかどうかは、かなり怪しいと言うべきだろう。その天武が壬申の乱に勝利して、大友皇子は滅び、大友の子(与多王)が父の霊を弔うべく、言わば自分たちの氏寺を建てたいと申し出て(686年)、天武がそれを許可した。敗者の霊をも丁重に弔う日本の伝統はこの時代にもあったというべきなのかもしれないが、考えてみれば、大友の父(天智天皇)は、唐・新羅連合軍によって滅ぼされた百済の再興を目指して朝鮮半島へ出兵までした人物である。その霊を弔う寺に、なぜわざわざ新羅の神様を祀ったのか。それは、園城寺の中興の祖・円珍が唐に留学した帰りの船で嵐に遭い、そこに新羅善神が現れて一行は救われたので、以来この寺の守り神になったと伝えられるのだが、それも後から加えられたフィクションの可能性だってなくはない。

 この新羅善神の存在を天智親子の「怨霊封じ」という風に読み解くかどうかはともかくとして、壬申の乱の勝者と敗者の間の微妙な関係が、その後の園城寺の歴史の中にも投影されて来たと考えるべきなのだろう。

 なお、天智と天武の関係は、その後の天皇家の系図にも少なからず影響を与えている。前掲した天智・天武以降の皇統系譜を天智の血統か、或いは天武の血統(天智系との混血を含む)なのかで色分けしてみると、次のようになる。
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 天武の系統はなぜか男子が早逝することが多く、次世代が育つまで女帝が中継ぎを務めることが度々あった。奈良時代に女帝が多いのはそのためだが、更には大仏建立の頃の聖武天皇は男子に恵まれず、娘の孝謙(道鏡事件の際に重祚して称徳)天皇を以て、その血統が途絶えてしまう。

 称徳の後を受けて即位したのは天智の孫にあたり、なおかつ天武の血が入っていない光仁天皇で(その時点でかなりの老人だった)、その光仁と百済系帰化人・高野新笠との間に生まれた桓武天皇の即位を以て、皇位は名実共に天智の血統に戻ったことになる。(しかも再び百済と繋がっているところが興味深い。) そして、その桓武以降、日本の天皇家は1000年以上にわたって京都に定着することになる。

 更に言えば、歴代天皇を仏式に祀り、それゆえに御寺(みてら)と呼ばれる京都の泉涌寺では、天武から称徳までの天武系の8代7名の天皇だけ位牌がないという。途中で途絶えた天武の系統だけが何か異質なものとして扱われているかのようだ。それもまた、天武の出自の謎に繋がっているのだろうか。

 なお、ここまで「園城寺」と記載してきたが、この寺は三井寺(みいでら)という別名の方がずっとよく知られている。それは、この寺の金堂の近くに、「天智・天武・持統の三帝が産湯に用いた」という「三井の霊泉」があることに拠るものなのだが、これもまた、そういう「伝説」を敢えて用意する必要があるぐらい天武の出自には謎があることを、実は暗示しているのかもしれない。
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(色の濃い部分は各天皇の在位期間)

 それにしても、大津駅を起点に、ここまでよく歩いて来た。ここからは暫くの間、電車の座席に座って一休みすることにしよう。

(to be continued)

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