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欧州の秋 (2) バッハが生まれた街 [世界]


2018年9月29日(土)

 ドイツ時間の午前7:16にフランクフルト中央駅を発ったドレスデン行き特急ICE1555は、鉄路を北東方向に進み、朝霧の濃い森の中を走り続けている。工業国のイメージが強いドイツだが、こうして列車に乗って窓から景色を眺めていると、森と畑、そして牧草地が織りなす平坦な地形が延々と続くことが多い。

 フランクフルトから2時間足らず、午前9:10に列車はアイゼナッハ(Eisenach)駅に到着。テューリンゲン州の西端に近い人口4万人の小さな街だ。ドイツを旅したことは以前にもあったが、旧東独領だった地域を訪れるのは、私にとっては初めてのことである。
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 列車を降りると南側のホームに、オモチャのような単行運転用の鉄道車両(おそらくディーゼルカー)が停まっていた。
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 ホームから階段を降りて地下通路を進むと、ドーム型の天井にステンドグラスというクラシックな雰囲気の駅舎があり、更に外に出てみると、その駅舎はまるで産業革命の時代そのままのような姿をしていた。何とも愛すべき駅である。
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(アイゼナッハ駅の内装)

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(アイゼナッハ駅の外観)

 私がこの駅で列車を降りた理由は、ホームの駅名表示を見れば明らかだ。”Geburtsstadt Johann Sebastian Bachs” すなわち私が敬愛してやまない「音楽の父」J.S. バッハが1685年に生まれたのが、この街なのである。だから駅前から旧市街に向かって歩き出すと直ぐに、 “Bachhaus”(バッハの家)の方向を示す道路標識が立っている。
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(「バッハが生まれた街」アイゼナッハ)

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 アイゼナッハの旧市街は本当に小さなエリアだ。駅から歩いて10分足らず。ニコライ教会の石造りの門を潜ると広場に出て、その周囲をクラシックな建物が取り囲んでいる。更に5分も歩けば旧市庁舎前のマルクト広場で、もうそこが街の中心のようなものである。
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(聖ニコライ教会とカールス広場)

 まずはこの旧市街の中で最も高い建物(と思われる)聖ゲオルグ教会へ。1685年の3月21日、8人兄弟の末子としてこの街で生まれたヨハン・セバスティアン・バッハ(~1750年7月28日)が、生後直ぐに洗礼を受けたルター派の教会だ。それだけでなく、幼少期のバッハはここで聖歌隊の一員として歌っていたし、彼の叔父を含めてバッハ一族は1世紀以上にわたり、この教会のオルガニストを務めていたという。
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 「『音楽家バッハ一族』の祖先は、テューリンゲン出身で一時ボヘミアに移住したが、16世紀にまたテューリンゲンに戻ってきたファイト・バッハ(?~1577以前)。ヴェヒマルに移住先を決めたファイトは、パン屋を営むかたわらツィターを爪弾くアマチュア音楽家だった。『バッハ一族』が『音楽家一族』として知られるようになるのは、彼の孫にあたるヨハン・バッハ(1604~73)の頃からである。以後ヨハン・セバスティアン・バッハを経て19世紀の初めに至る間に、『バッハ一族』からは実に60人を超える音楽家が生まれたのだった。」
(『バッハへの旅』加藤浩子・文、若月伸一・写真、東京書籍)

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(有名なバッハ一族の樹系図。黄枠内がJ.S.バッハ、白枠内が父ヨハン・アンブロージウス)

 こういう家系だから、バッハの父ヨハン・アンブロージウス・バッハ(1645~95)も当然にして音楽を生業としていた。街の音楽師にしてザクセン・アイゼナッハ公の宮廷トランペット奏者。丘の上からこの街を見下ろすヴァルトブルク城でラッパを吹く日々であったという。(今や世界遺産のヴァルトブルク城にも是非行ってみたかったのだが、今回は時間がない。)
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(アイゼナッハ駅前から眺めるヴァルトブルク城とヨハン・アンブロージウス・バッハ)

 事情があってこの日は聖ゲオルグ教会の中には入れなかったのだが、この教会の前のマルクト広場で一息入れた後、午前10:00の開館に間に合うよう、私はいよいよバッハハウスへと向かった。

 マルクト広場からルター通りと名付けられた石畳の細い道を歩いて行くと、正面に広場が見え、右側の緑の中にヨハン・セバスティアン・バッハの銅像が立っていた。その奥がバッハハウス。このあたりがバッハの生家だということで、1907年に記念館としてオープンしたという。ところがその後の研究で、どうやら本当の生家は先ほど歩いて来たルター通り沿いにあったことが判明したそうだが、だからといってこのバッハハウスの価値が下がる訳では決してない。私のように海外からここを訪れるバッハ好きは多いのである。
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(バッハハウス)

 入館すると、決まった時刻に(ドイツ語ではあるが)解説付きのグループ・ツアーがあり、実際に古楽器を演奏して見せてくれるとのこと。私はドイツ人の年配のグループにくっついて楽器の展示室へと向かった。窓寄りのスペースや周囲の壁一杯にバッハの時代の古楽器の数々が展示された部屋。そこで小型のオルガンやチェンバロでバッハの小品が奏でられる。バッハの生まれた街でそれを聴くことの幸せ。私にとって長い間の夢だったことが、今自分の目の前で遂に実現しているのだ。感無量とはこういうことを言うのだろう。
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 私が初めてバッハを聴いたのは、小学校の高学年の頃だったかな。 曲目は管弦楽組曲第3番の、「G線上のアリア」として有名な第2曲? それともバッハの教会カンタータの中で最も有名な第147番の「主よ、人の望みの喜びよ」? バッハと聞けば誰でもその名を挙げる「トッカータとフーガ ニ短調」は、ウォルト・ディズニーの映画『ファンタジア』の冒頭に置かれた、レオポルド・ストコフスキーの編曲によるオーケストラ演奏を聴いた(観た)のが、おそらく最初だったと思う。

 その後、物心ついてからも折に触れてバッハを聴くことが多かった。気分の良い時、逆に落ち込んだ時、混沌としてしまった頭の中を整理したくなった時、そして理性と勇気を取り戻したいなど、シチュエーションは様々だが、朝の早い時も夜遅くにも、厳しさと優しさ、そして数学的ともいえる論理性を併せ持ったバッハの音楽は、常に私の隣に寄り添って来てくれたように思う。だからこそバッハが生まれたアイゼナッハには、生きている間に一度来てみたかったのである。

 楽器展示室での演奏を楽しませてもらった後、バッハハウスの二階に上がると、バッハの時代の民家の様子が再現されている。彼はこんな風に揺り籠に揺られ、大人になってからはこのような机で作曲をしていたんだな。
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 バッハハウスには小さな中庭があって、植栽も良く手入れが行き届いている。家の壁を伝う葡萄の木。その葉の柔らかな緑が、窓から見ていて心地よい。
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 バッハハウスの中はそのまま新館に繋がっていて、そこでは様々な最新設備を使ってバッハの音楽を楽しむことが出来る。中でも、天井から吊るされたカプセルの中に座り、ヘッドフォンでバッハを聴く設備が面白い。私は窓に一番近いカプセルを選び、ゆったりと座る。窓の外の街並みを眺めながら、ヘッドフォンから流れて来る「ゴルトベルク変奏曲」を夢見心地で聴いていた。
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(バッハを聴くカプセル)

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(バッハハウスの窓から眺めるアイゼナッハの街並み)

 音楽家の家系に生まれたヨハン・セバスティアン・バッハ。おそらくは幼い頃から楽器の演奏の手ほどきを受け、父の手伝いで楽器を担ぎ、数々の演奏の場に立ち会ったことだろう。8歳で聖ゲオルグ教会付属のラテン語学校に入り、キリスト教と讃美歌を学んだという。

 「そんな多忙な子供時代は、10歳になる直前、1695年の2月に突然中断される。前の年に亡くなっていた母エリーザベトに続き、再婚したばかりの父アンブロージウスが、世を去ってしまったのだ。孤児となったバッハは、音楽家として独立できるようになるまで、しばらく他の町で修行時代を送ることになる。 
 幼くして荒波へと放り出されてしまった少年を見守りながら、冬の寒空に瞬く星は銀色の涙を流しただろうか。」
(引用書前掲)

 こうして10歳の少年バッハは長兄ヨハン・クリストフに手を引かれ、アイゼナッハから南東へ30kmほど離れたオールドルフへと移り住むことになった。その時、彼ははどのような気持ちでこの街を離れたのだろうか。

 バッハハウスの外に立つバッハ像をもう一度見上げながら、私は17世紀末のアイゼナッハの様子に思いを馳せていた。
(To be continued)


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欧州の秋 (1) 再びドイツへ [世界]


2018年9月28日(金)

 "NH203 00:10 Frankfurt Now Boarding”

 モニターに表示された案内を見てラウンジの席を立ったのは、あと15分ほどで日付が土曜日に変わる頃だった。

 深夜の羽田空港。24時間対応のこの空港では、この時間帯になっても国際線のフライトが幾つも出ている。あちこちのゲートに搭乗客の列が出来ている様子はいつもの通りで、今が真夜中であることを一瞬忘れてしまいそうだ。

 乗客の搭乗がスムーズに終わり、ドア・クローズの指示が出ると、トリプルセブンは定刻にゲートを離れ、滑走路へと歩みを進めていく。無数の誘導灯が宝石を散りばめたように闇の中に輝く、そんな光景の中で、長かった私の一日が終わろうとしている。
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 考えてみれば、朝一度会社に来てメールやら書類やらを捌いた後、10時前からはずっと外に出たままだった。私の会社が属している業界団体の用事があって、昼からは茅ヶ崎の郊外にある同業他社の工場を見学。それを受けて現地で会議を重ね、夕方からは海老名駅前のホテルに場所を移して懇親会に出席。場がお開きになるや否や相鉄線に飛び乗り、横浜で京急に乗り換えたのだった。そのエアポート急行が羽田空港国際線ターミナル駅に着き、22時過ぎにANAのチェックイン・カウンターに向かうと、そこで家内が待っていてくれた。

 先月に引続き、私には翌週の10月1日(月)から再びドイツ出張の予定があった。本来ならばその日程通りに発てばいいのだが、この機会を利用して早めに現地に入り、土日を私的に過ごしてから月曜日に他の出張者たちと現地で合流することを、私は思いついた。ちょうど都合の良いことに、羽田からはフランクフルト行の深夜便が毎日出ている。金曜日の夜に海老名で仕事が終わるのであれば、そこから直接羽田に向かえばいい。

「すまないね。ちょっと我儘を言わせてもらって今夜からドイツへ行って来るけど、道中は気をつけるから心配しないで。」
「ううん。折角の機会なんだから、週末は楽しんで来てくださいな。」

 空港まで持って来てくれた私服に着替えた私は、家内のいつもの笑顔に見送られて出国審査の入口へと進んだ。

 深夜便の搭乗客を乗せたANAのトリプルセブンは、既に高度を十分に上げ、巡航速度で北上を続けている。時刻は既に土曜日の午前3時近く。予定通り11時間半のフライトであれば、現地時間で同じ土曜日の午前5:20にフランクフルトに到着し、それから私にとって再び長い一日が始まることになる。ならば機内で少しでも寝ていこう。グラス2杯の白ワインでリラックスした私は、持ってきた本を開くまでもなく眠りに落ちていった。

9月29日(土) ここからはドイツ時間

 羽田発の深夜便。今が夜中であることを自分の体も認識しているためか、機内では比較的よく眠れたように思う。既にシートベルト着用のサインが点灯し、高度を下げるにつれて窓の外に広がるドイツの夜景は刻々と鮮明になっていく。

 05:05 フランクフルト国際空港に着陸、05:25 入国審査、05:45 バッゲージ・クレーム、という具合にスムーズに事が運び、到着ターミナルに出た私は案内表示に従って進み、エスカレーターを降りて遠距離列車が発着するFrankfurt am Main Flughaven Fernbahnhofへ。
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 この駅は空港の地下にあるのだが、その入り口フロアは非常に立派な施設で、朝の6時からスーパー・マーケットや幾つもの店がオープンしている。予定していた列車までまだ時間があるので、私はピザ・トーストとコーヒーを買って簡単に朝食を済ませた。
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(遠距離列車用空港駅の入口。立派な施設だ)

 ホームに降りて構内の様子を眺めているうちに、06:48発のフランクフルト中央駅行き急行列車が到着。列車番号IC2021、昨夜の22:30にハンブルグを出て、ブレーメン、ドルトムント、デュッセルドルフ、ケルン、ボン、マインツ等を経由して来た列車だ。こういう夜行の優等列車は日本では殆ど姿を消してしまったが、ドイツにはまだ需要があるのだろうか。
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(IC2021 フランクフルト中央駅行の夜行列車)

 列車は定刻に発車し、フランクフルト中央駅まで14分ほどの道のりを走る。この日、フランクフルトの日の出は7:22。窓の外には朝焼けが広がり、空港を離陸した航空機が作った幾つもの飛行機雲が放射状に空に広がっている。朝から願ってもない快晴だ。
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 そして定刻の07:02に列車は中央駅に到着。ドーム屋根に覆われた行き止まり式のホームが、夜汽車の終着駅に相応しい。この駅に降り立つのは10年ぶりぐらいになるが、ドーム屋根の鉄道駅はやはり絵になる。
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(フランクフルト中央駅にて乗り換え)

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(やはり絵になるドーム屋根の中央駅)

 さて、14分の接続で私は次の列車に乗り換えだ。出発案内に従って9番ホームに向かうと、7:16発のドレスデン行き特急 ICE1555が待っている。
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 出張に引っ掛けて計画したドイツでの小さな一人旅。私はもう還暦をとっくに過ぎているから、沢木耕太郎の『深夜特急』のようには行かないが、さて、どんな旅が待っているだろうか。
(To be continued)

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備忘録 (3) [自分史]


7月14日(土) 暑い夏

 関東甲信地方についていうと、今年(2018)年は「6月6日頃に梅雨入りした」との気象庁発表から4週間足らずで、「6月29日(金)頃に梅雨が明けた」との宣言がなされた。要するに7月を待たずに梅雨が明けた訳で、その早さは史上1位タイの記録だそうである。

 とにかく暑い夏になった。当時の気象データ(毎日の平均気温)を改めて眺めてみると、東京都心では6月半ばの10日間ほどを除いて、6月・7月は略一貫して平均気温が平年より高かったのだ。毎日の平均気温の5日移動平均を平年値と比べてみると、6月の平均は+0.5℃だが7月は+3.3℃にもなっている。
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 そして東京都心の最高気温がこの夏初めて35℃を超えた7月14日(土)、この日の最高気温が「観測史上1位」または「7月として1位」を記録した観測地点が日本各地で続出。気温を表す気象庁の地図グラフは真っ赤になった。
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7月21日(土) 江戸の夏色

 「朝顔市・ほおずき市」と言えば夏の代名詞。東京・文京区の伝通院では、その広々とした境内で朝顔市が、そして坂道を降りた源覚寺(通称・こんにゃくえんま)では、猫の額のような敷地の中でほおずき市が行われる。例年なら梅雨明け前後のタイミングになるのだが、今年は7月を待たずに梅雨が明けてから既に三ヶ月が経過。35℃近くになる日が何日も続いて、もうとっくに8月を迎えたような気分。それでも朝顔の涼しげな藍とほおずきの鮮やかな朱は、いずれも江戸の夏の色。これを眺めてちょっと気分を換えるのはいいものだ。
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8月14日(火)~17日(金) 田んぼと里山

 暑い夏だが、今年は仕事の関係で会社のお盆休みの間も工場へ出張。外国人技師を交え、設備メンテナンスの作業をサポートすることに。

 工場から車で10分も走れば、周囲は自然色豊かな田園風景。東北地方も暑い夏の日が続いたようだが、青々とした水田とその向こうに見え隠れする里山の眺めは、なぜかとても懐かしい。「日本むかし話」にでも出て来そうな、こんな風景に囲まれて数日を過ごしただけで里心がついて、東京に帰るのが何だか勿体ない気になってしまうのだから、人間とは不思議なものである。
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8月24日(金) SL大樹

 ちょっとした出張で朝から栃木県の日光市へ。午後に本社で会議があったので、文字通りトンボ帰りの出張だったのだが、現地での用事を済ませて東武日光線の下今市駅に戻った時、前年から運行が始まった「SL大樹」がちょうど到着したところだった。
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 これは全くの偶然で、こんな列車があることも認識していなかったのだが、何という幸運か、山陰本線の長門市駅から運んできたという転車台に乗って向きを変える蒸気機関車C11をじっくりと眺めることが出来た。
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 以前の会社の上司だった「鉄ちゃん」にメールをしたら、「下今市へ出張だなんて、出来過ぎだろ!」と言われた。
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8月25日(土) ダイヤモンド雲取山

 土曜の午後の散歩の仕上げに文京シビックセンター25階の展望台へ。西の空が晴れていて、シルエットになった山並みの向こうに日が沈む様子を眺めていた。

 日没の方角から考えて、何となくそうではないかなと思っていたのだが、帰宅してからPCソフト「カシミール3D」で調べてみたらドンピシャリ、その日はシビックセンターから見て奥多摩の雲取山(2017m)の山頂に日が沈む、言わば「ダイヤモンド雲取山」の日だったのである。
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 以前にも西新宿の東京都庁からダイヤモンド富士を眺めた時に、太陽が山頂にさしかかった次の瞬間にその光が上下二筋に分かれることを知ったのだが、それと同じことが雲取山の場合にも見られた。
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 太陽と山が織りなす束の間のドラマ。ちょっといいものを見させてもらった。
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9月3日(月)~8日(日) ドイツ出張

 現地の設備メーカーとの打ち合わせのため、工場の若手3人を連れてドイツへ出張。空路でデュッセルドルフに入った後、イーサーローンという小さな街で3日を過ごす。日本では台風21号が西日本を縦断し、また北海道で大きな地震が起きた、ちょうどその頃だった。
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(デュッセルドルフの繁華街。ヨーロッパはどこかのんびりしている)
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(ホテルの屋上から眺めるイーザーローンの街)
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(イーザーローンは人口6万人の小さな街)

 今回連れて行った3人の若手(よく考えてみたら、彼らと私は30年近く年が離れている!)の内の2人は、そもそも海外へ行くこと自体が初めて。地方に生まれ育ち、地元の学校を出て直ぐにモノ作りの現場に入り、ずっとそこでやって来た人達だから、自分に海外出張の役目が回って来ることなど想像もしていなかったことだろう。けれども彼らは私が思っていた以上に外国という環境にもスムーズに順応し、何よりも現地での仕事には終始目を輝かせながら一生懸命取り組んでくれた。そのことが私には一番嬉しかった。
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(私たちが訪れた現地の設備メーカー)
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(訪問先の社食)

 滞在中に現地の設備メーカー2社を訪れ、一緒に作業をした、その経験は彼らにとってきっと大きな糧になることだろう。日本のモノ作りの将来を担う若い世代。これからも世界を自分の目で見る経験を出来る限り積ませて上げたいと、心からそう思っている。
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 最後の仕事が終わった金曜日の夕方は、ケルンの大聖堂を見学し、土曜日は夜のフライトまでの間、デュッセルドルフの旧市街をゆっくりと見て歩いた。若手3人の爽やかな笑顔が私にとっての励みになった、心に残る出張であった。
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9月19日(水) 安全祈願祭

 二週間前にドイツへ出張して、現地の設備メーカーと具体的な打ち合わせを重ねた、そのことと関連するのだが、発注して来年やって来る設備を据え付ける、その事前準備のための色々な工事がこれから始まる。それに先立ち、地域の八幡神社から神主さんに来てもらい、工場内の一角で安全祈願祭を執り行った。
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 神主さんが祝詞を上げ、私も「玉串奉奠」を行う。神棚の向こうにおわすのは何という名の神なのか、その名前も存じ上げないけれど、その神に頭を下げ、柏手を打って工事の安全を祈願。でも日本の神さまは一神教のように全知全能の神ではないし、教義もなければ修行もない。我々からすれば救済を求める相手では決してないのだが、その代わりに、私たちが誓いを立てたことをきちんと実行しているか、日頃からお天道様に恥じない生き方をしているか、目には見えないけれどそうしたことをいつも見守ってくれる神さまなのだ。
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 だとすれば、今日の安全祈願祭とは工事を安全に進めることを我々が神さまに誓う場であり、そうであればこそ、それらの工事の安全を実現してく主体は外ならぬ私たち自身なのである。

 「ご低頭ください」という声に従って神さまに頭を下げ、祝詞を聞く私たちの胸の中はこれからの抱負に満ちている。この国に生まれ育ってよかったと、心の底からそう思った。

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備忘録 (2) [自分史]


 諸般の事情で今年(2018年)の4月15日以降6ヶ月にわたって中断していたこのブログ。前回記事にて予告した通り、その間の出来事をごく簡単なダイジェストの形にして、備忘録の代わりとしたい。

4月22日(日) 奥多摩・浅間嶺

 中学・高校時代の同級生たちをはじめとする総勢6名で奥多摩の浅間嶺(せんげんれい、903m)へ。この山には何度も登ったが、新緑の季節は特に素晴らしい。
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 それぞれのメンバーにとっても久しぶりの山歩きだったので、武蔵五日市駅からタクシーで峠の茶屋まで上がり、浅間嶺のピークから浅間尾根を経て数馬の湯までののんびりハイキング。穏やかに晴れ渡った春の一日、奥多摩の山の良さを改めて満喫。還暦から2年を過ぎた私たちには、だんだんとこうした山が身の丈に合って行くのだろう。
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5月2日(水) 変わり続ける渋谷

 連休の間の工事で東京メトロ銀座線・渋谷駅手前のガードで線路の付け替えが行われるというので、風景が変わってしまう前に現地を撮影。
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(工事の後は、左に用意された線路を走るんだろう。) 

 渋谷駅前というと、長い工事が昔からつきものだったが、今もまた大規模な工事が続いている。私が子供の頃、1964(昭和39)年のオリンピックで渋谷の街はその様相が大きく変わったが、2020年の次回オリンピックを前に、またその姿を変えようとしている。まあ、この独特のカオスが渋谷の魅力の一つでもあるのだけれど。
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5月5日(土) 都留市・高川山

 四連休後半の土曜日。あまりに天気がいいので、富士山の眺めを目当てに山梨県都留市の高川山(976m)へ単独行で出かけることにした。
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 昨年の4月25日に膵臓がんの手術を受けてから1年。高尾山へのリハビリ登山も含めて、日帰りの山歩きはこれで5回目だが、ソロで行くのは初回。そのことには家内も相応に心配していたのだが、今までに何度も歩いたことのある山で、転がり落ちるような箇所もなく、登山者も相応にいる山だからと説明。私自身もここで事故を起こして人様に迷惑をかける訳にはいかないので、低山といえども慎重に歩いた。
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 楽しみにしていた富士の眺めは申し分なく、緑のシャワーを浴びているかのような爽やかな登山道が、強く印象に残った。
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5月20日(日) 初夏の都心

 実家の母親が5月の初めに骨盤を骨折。連休が明けてからようやく入院する病院が決まり、暫くは母の見舞いが続く。風薫る5月。病院は麻布十番からほど近く、週末の見舞いの帰りに家内とグラス一杯のスパークリング・ワインを楽しむ機会も出来た。
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 母もこの秋には87歳。実家での一人暮らしはさすがにもう無理だ。妹の一家とも話し合いながら、その後の週末は老人ホームを見て回ることが続いた。春先から気温が高めの今年。街中では例年より早くツツジが咲き終わり、いつの間にか紫陽花の季節になっていた。
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6月2日(土) 戦艦三笠

 海軍記念日から一週間遅れで横須賀の戦艦三笠を見学。朝から天気晴朗にして波穏やかな、見事な五月晴れで、三笠の威容と海軍旗の鮮やかな紅白が青空によく映えていた。
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 日清戦争の後、来るべきロシアとの対決を念頭に艦隊の近代化を図るべく、1898(明治32)年9月に英国ヴィッカース社に発注された三笠。それは建造に2年半を要し、1902(明治35)年3月に英サウザンプトン港で日本海軍に引き渡された。アマゾンで物を買うのとは訳が違い、完成した戦艦を日本に送り届けてくれたりはしない。海軍は自分で取りに行く必要があったのだ。

 だから、将官から水兵に至るまでが英国へ行き、自分で操舵して、スエズ運河経由2ヶ月の期間をかけて日本に帰還した。あの時期、水兵に至るまでが自分の目で外国を見て来たというのは、実に貴重な体験であったことだろう。
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 三笠はその翌年に連合艦隊の旗艦となり、更にその翌年の1904(明治27)年2月には、遂に口火を切った日露戦争において旅順口攻撃に出動している。バルチック艦隊を撃破したあの日本海海戦がその翌年の5月27日であったことは言うまでもない。つまり、戦艦三笠は日本に運ばれてからこんなスピード感を持って実戦で活躍するまでになったのである。
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 三笠の艦内を見て歩き、艦橋に立ってみると、「坂の上の雲」ではないけれど、明治維新からまだ40年も経っていない小さな日本がこのような戦艦を駆使してロシアと対決したことに、改めて大きな感慨を持たざるを得ない。明治の人は、やはり偉かった。
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 それに引き換え、戦艦三笠を見学した今年の6月2日というと、国内では例の「モリカケ問題」の追求に野党もマスコミも血眼になっていた。海の向こうでは米朝開戦も止む無しかと言われるほど北朝鮮問題がエスカレートする中、シンガポールでの米朝首脳会談がセットされ始めた、ちょうどそんな頃だったというのに。

 世界の情勢がこんな時に、国会で延々と時間を使うべきことは「モリカケ」なんかじゃないだろう。戦艦三笠の艦橋の上で、私は心の底からそう思ったけれど、少し冷静になって考えてみると、日露戦争の「成功体験」が全てではないし、むしろそれに対する過度な礼賛がその後の日本の進路を誤らせたことも事実。現代の我々はその歴史を踏まえ、なおかつ現代の視点もしっかりと持って、この国の将来のことをもっと真面目に考えよう!
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7月7日(土) 三線軌条

 品川から金沢八景を経由して新逗子まで京急を利用する機会があり、京急逗子線の「三線軌条」を初めて見学。要するに標準軌(1435mm)と狭軌(1067mm)の各電車を相乗りさせるために、片方のレールを共用にして計3本のレールが敷かれた区間のことだ。
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(神武寺駅の品川方。分岐器から向こうが三線軌条)

 昭和23年、戦時統制下の産物だった「大東急」から小田急・京王・京急が分離するのと前後して、横浜市金沢区の旧海軍工廠の跡地に東急が車両工場(現・総合車両製作所)を建設。東急は狭軌だが工場の目の前の京急は標準軌であるために、そこから京急新逗子線を経由し、神武寺駅の手前で分かれてJR横須賀線(狭軌)の逗子駅に至る専用線を敷設するという事情があった。その専用線と京急新逗子線が重なる区間が三線軌条なのである。
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 金沢八景駅のホームから眺めてみると、新逗子線から京急本線へと至る標準軌の線路と、三線軌条のまま車両工場へと至る線路とを切り分ける分岐器が複雑な構造をしていることがわかる。
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 更には、途中の六浦駅で標準軌の京急の車輛が停車した時にホームとの間隔が空き過ぎないよう、それまでは一番ホーム寄りのレールを狭軌と標準軌の共用レールにしていたのを、六浦駅の前後だけはホームから一番遠い線路が共用レールになるように狭軌の電車を誘導する装置が設置されている。
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(六浦駅の品川方。狭軌の電車を線路の左寄りから右寄りに誘導する装置)

 こんな風に工夫が必要な三線軌条。それは首都圏では京急逗子線だけでしか見られない。何につけても実物を見るというのは興味深いものである。
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備忘録 (1) [自分史]


 今年4月15日付で記事をアップして以降、新たな記事を掲載することなく既に半年が経過してしまった。

 その間、どうしても書けない事情があった訳ではないし、書くことがなかった訳でも全くない。

 確かに会社の仕事は前年度よりも忙しさを増していた。素材メーカーである私の会社が、将来に向けて或る大きな決断を下し、中小企業としての会社の身の丈との比較では随分と大きな設備投資を行うことになった。今年の春先はその意思決定の最中にあり、契約を締結して夏前からはそのプロジェクトが実際に動き始めたため、立場上かなりの時間を取られたのは事実である。

 もう一つには、年老いた母をこれ以上都内の実家に一人にさせている訳にいかなくなり、いわゆる老人ホームに入居してもらうためのプロセスに、真夏頃まで殆どの週末の時間を充当せざるを得ないという事情があった。これも致し方ないことだ。私と同じ年恰好なら、多くの方々にも同様の経験があることだろう。

 他方、自分の健康状態はというと、昨年の4月25日に受けた膵臓がんの手術から、早いもので一年が経過していた。昨年末に抗がん剤の服用(いわゆる化学療法)が終了してから半年が経った今年6月21日に、主治医による初回の経過観察を受診。幸いなことに「がんの転移は無し」、「特段心配な点も見られない」との所見をいただき、もちろん手術以前よりも生活態度を改めてはいるが、日常生活には特段の制約もなく、普通の生活を送っていた。手術を受けたばかりの昨年の同時期には、その「普通の生活」に戻ること自体が想像も出来なかったのだから、何と幸いなことだろう。
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 とはいうものの、病気をする以前のように物事に全力疾走をすることには、自分の中にまだためらいがあった。手術を受けた後の初回の診察の中で主治医から言われた、
「これからは十分な睡眠を取ることと、ストレスを溜めないことを約束してください。」
という言葉が、ずっと頭の中を離れずにいたのだ。虚心坦懐に振り返ってみれば、昨年の初めまでの私は、会社の仕事、我ながら目一杯取り組んでしまった自宅マンションの管理組合の仕事、そして実家対応などに追われ、無意識の内に自分の中にストレスを溜めこんでいたかもしれない。

 もちろん管理組合の理事からは昨年の手術の前に退任させてもらったが、会社の仕事が以前よりもずっと忙しくなった今、自分の生活に少しブレーキをかけるとしたら、それはブログを書くのをしばらく止めることだった。

 更にもう一つ言えば、ちょっとした事情があって友人から求められ、今年の年初からfacebookを始めたことだ。最初は勝手がよくわからなかったが、「習うより慣れろ」で始めてみると、友人たちとの間で素早く情報を共有するにはかなり手っ取り早いツールであることがわかった。もちろん写真なども掲載できるので、色々な反応が結構ビビッドに返って来る。それが結構面白くもあり、自分の身の回りのことを書き留める手段として、いつの間にかfacebookが主役に踊り出ていた。
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 そうなのだが、私は次第にfacebookの限界を感じるようにもなっていった。コミュニケーション・ツールとしては確かに手っ取り早いけれど、そこで交わされる内容はいささか底の浅いものであることが多い。「今どこで何を食べてる」的な話は私の好むところでもないし、かといってあまり長文のやり取りには馴染まないツールだ。例えば或る本を読んだり、或る絵画に出会ったりした時に、自分にはどんなことが印象に残り、どんなことを感じて、更に何をどう考えたのか、そうしたことをある程度以上のボリュームの文章にまとめるには、facebookはあまり適していないと言わざるを得ない。

 普段の生活の中には、刹那的な思いや出来事がたくさんあることは事実で、それを他人とやり取りすることは結構なのだが、還暦を過ぎた私にとっては、色々な物事に出会った時に自分が何をどう考えたのか、その記録を残しておきたいという思いの方が遥かに強い。そうしておかないと記憶はどんどん薄れてしまうからだ。

 そんなことから、自分としてはやはりfacebookとブログを使い分け、自分史的に書き留めておきたいことを取捨選択して、やはりブログと向き合って行かねばならないと思うようになった。

 まずはこの6ヶ月のブランクを埋めることから始めねばならない。それこそfacebook的に、貼り付けた写真にちょっとしたコメントを加えるだけになってしまうだろうが、次回の記事でその6ヶ月の埋め合わせをすることにしたい。
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