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欧州の秋 (6) ライプツィヒあれこれ [世界]


2018年9月30日(日)

 ドイツのザクセン州ライプツィヒ。その中央駅から歩いて直ぐのホテルで一夜を過ごした私は、簡単に朝食を済ませて荷造りを開始。何しろ今回の行程では欧州滞在中の7泊はいずれも異なるホテルに泊まる予定なので、毎日が引越である。出張に引っ掛けた一人旅も今日までで、明日からは自分の身一つではない。貴重な自由時間を無駄にせぬよう、今日もせっせと歩き回ろう。

 今日は真昼の列車でベルリンへ移動する予定なので、ライプツィヒ滞在もあと3時間強。街の中を気の向くままに歩いてみようか。幸い空は二日続きの快晴。聖ニコラス教会の前の広場はもう賑わっていて、中央に飾られた秋の実りのディスプレイが素敵だ。
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 街の南の方へ行くために、昨日に続いてマルクト広場を通り抜ける。昨夜は気がつかなかったのだが、マルクト広場の前に建つのはライプツィヒの旧市庁舎。その全容を見るためにGoogle Earthの画像をここに貼り付けるが、解説本によれば1557年の竣工で、「ドイツ・ルネサンス建築で最も美しい建造物」なのだそうである。
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(ライプツィヒのマルクト広場と旧市庁舎)

 しかし、「ドイツ・ルネサンス建築」とは聞き慣れない言葉だ。15世紀にフィレンツェで開花したルネサンス建築がアルプス以北の国々へと展開して行ったのは16世紀になってからだそうだが、その16世紀はドイツにとっては宗教改革の混乱期。ルネサンス建築の伝播は散発的なものに留まったという。だとすれば、当時のドイツには数少ない例として、「時代の最先端」の建築様式による市庁舎がライプツィヒに建てられたということは、この街がそれだけの力を持っていたということだろう。

 ところが私たちは中世から近世にかけての、現在のドイツにあたる地域(神聖ローマ帝国)の歴史を殆ど理解していない。英仏のような絶対王政が登場せず、小さな領邦に分かれたモザイク状態がいつまでも続き、神聖ローマ帝国とは名ばかりで「神聖でもなければローマでもなく、帝国ですらない」などと言われたぐらいだから、よほど好きでない限りはドイツの地域史を追ったりはしないものだ。だから私も、ライプツィヒを含むザクセン地方の歴史を通史的に眺めるなどということはしたことがない。時間がない今は、もう少し大掴みにおさらいをしてみよう。
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(聖ニコライ教会)

 私の息子が高校生だった頃の世界史の教科書を借りてきて調べてみると、こんな記述がある。

 「大航海時代の到来とともに、世界の一体化がはじまった。ヨーロッパ商業は世界的広がりをもつようになり、商品の種類・取引額が拡大し、ヨーロッパにおける遠隔地貿易の中心は地中海から大西洋にのぞむ国ぐにへ移動した(商業革命)。世界商業圏の形成は、広大な海外市場をひらくことで、すでにめばえはじめていた資本主義経済の発達をうながした。また1545年に発見されたポトシ銀山など、ラテンアメリカからの銀山から大量の銀が流入し、ヨーロッパの物価は2~3倍に上昇した。この物価騰貴は価格革命とよばれ、固定地代の収入で生活する領主は打撃をうけた。」

 「西欧諸国では商工業が活発となる一方、エルベ川以東の東ヨーロッパ地域は西欧諸国に穀物を輸出するため、領主が輸出用穀物を生産する直営地経営をおこなう農場領主制(グーツヘルシャフト)がひろまり、農奴に対する支配がかえって強化された。ヨーロッパにおける東・西間の分業体制の形成は、その後の東欧の発展に大きな影響をあたえた。」
(『詳説 世界史B』2005/3/5発行 山川出版社)

 なるほど、大航海時代というのはスペインやポルトガルだけが好景気に沸いたのではなくて、ヨーロッパの内陸地方も含めて分業体制が出来て物流が盛んになり、インフレも起きたということか。そしてそれが封建領主の没落と商業都市の繁栄をもたらしたという訳だ。

 実は、学校では教わらないことなのだが、12~14世紀にかけて、ドイツ騎士団等によって行われた所謂「東方植民」によって、スラブ人の居住地であったエルベ川以東への植民が進むと、やがてヨーロッパを南北と東西に結ぶ二つの通商路が形成されていったという。バルト海からベルリン・アウグスブルグを経てアルプスを越えローマに至る南北の道はVia Imperii(帝国の道)、モスクワからフランクフルトやパリを経てポルトガルへと至る東西の道はVia Regia(国王の道)と、それぞれ呼ばれたそうだ。そして両者が交差する場所が、何とこのライプツィヒだったのである。
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 それゆえライプツィヒは早くから商業都市として栄え、先ほどその前を通って来た聖ニコライ教会や、「バッハの教会」聖トーマスの原型が出来上がったのが12~13世紀のことだ。1409年創設のライプツィヒ大学は、神聖ローマ帝国内では二番目に古い大学だそうである。

 やがてこの街はザクセン選帝侯(神聖ローマ帝国の国王を選ぶ権利を持つ7人の内の1人)の領地となり、15世紀末には「賢公」と呼ばれたフリードリヒ3世が登場する。カトリック教会による贖宥状の販売を厳しく批判して1521年にローマ教皇から破門を受けたマルティン・ルターをアイゼナッハのヴァルトブルク城に匿ったのが、この賢公だ。以後、ライプツィヒは強固なルター派プロテスタントの街であり続けた。なるほど、それが後にこの街でのJ.S.バッハの活躍へと繋がっていく訳だ。

 さて、マルクト広場から更に南に進むと、高い塔を持つまるで城郭のような建物が現れた。スマホのGoogle Mapを見ると、「ライプツィヒ新市庁舎」と書いてある。1905年に建てられたもので、元はザクセン侯の城があった場所だという。城にあった高い塔をそのまま活かしたというから、道理でお城のように見えるわけだ。
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 実はマルティン・ルターも1519年にこの城を訪れている。というか、ルターを破門へと導くために仕組まれた、高名な神学者ヨハン・エックとの討論がこの城の中で行われたのだ。その席でルターはとうとう「ローマ教皇権は聖書に基づくものではない」と主張したために、問題はもはや神学論争の域を超えてしまった。それが一連の「宗教改革」運動のターニング・ポイントとなったという点で、このライプツィヒ討論は大きな出来事だったのだ。なるほど、私にとっては今回の旅でまた一つルターとの縁が出来たことになる。
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(ルター(右)とエック(左)の「ライプツィヒ討論」)

 それにしてもこの新市庁舎はやけに威圧的で、ちょっと近寄りがたいなあ。地元の人々はこんな所へ住民票の写しを取りに行くんだろうか?
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 その新市庁舎の前の広い道路を渡り、更に南方向へ進んで行くと、またとんでもない建物が現れた。なにやら国会議事堂のような形をしていて、これもまた何とも近寄りがたい雰囲気だ。再びGoogle Mapを見てみると、これはドイツ連邦行政裁判所だという。
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 更に調べてみてわかったのは、この建物は1871年のドイツ帝国の成立後、1895年にドイツ帝国最高裁判所として、ベルリンの国会議事堂と並行して立てられたのだそうだ。道理で権威主義的な姿をしている訳である。その他にも、公立図書館だとか中央警察署だとか、このあたりにはやたらと人を威圧するような外観の建物が点在していた。
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(公立図書館)

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(中央警察署。東独時代は市民にとっておっかない存在だった?)

 このような建物はデュッセルドルフのようなドイツ西部の都市では見たことがない。同じドイツでも西と東では文化が大きく異なるのだろうか。

 街の南の方をだいぶ歩いたので、荷物を預けているホテルに戻る方向に更に歩いて行くと、アウグストゥス広場に出た。その広場の南側は有名なコンサート会場のゲヴァントハウスだ。

 朝からライプツィヒの街中を歩き、ザクセン選帝侯時代の建物やドイツ帝国成立後の建物を道すがら眺めて来たが、このアウグストゥス広場は第二次大戦後、それも今から30年足らず前の現代史と大きな係わりを持っている。
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(Google Earthで俯瞰したアウグストゥス広場。画面上部がゲヴァントハウス)

 1989年11月10日、いわゆる「ベルリンの壁」の撤去作業が始まり、東西の大勢のベルリン市民が壁の上で熱狂している様子を伝えた映像は、まだ私たちの記憶にも新しい。その前日に東独政府が東独国民に対する旅行の自由化を事実上認める声明を発表したのを受けてのことだが、そこに至るまでのプロセスの発火点となったのは、実はライプツィヒにおける市民の自由化要求運動だったのである。

 ソ連でミハイル・ゴルバチョフのペレストロイカが始まった1985年以降、東欧諸国でも政治の自由化を求める動きが活発になっていたが、その中で最も動きが遅かったのが、「社会主義の優等生」と呼ばれた東独だった。しかし、既に民主化を始めていたハンガリーが1989年5月に国境の鉄条網を撤去すると、チェコスロヴァキア・ハンガリー経由で西側へ脱出する国民が急増。さすがの東独にも動揺が広がった。

 ハンガリーは更に9月に入ってオーストリアとの国境の開放を正式に発表。これに対して東独政府はチェコスロヴァキアとの国境を閉鎖。これが国民の更なる反発を招き、9月25日(月)にライプツィヒで8,000人のデモ行進が始まる。以前から月曜日ごとに行われて来たこのデモは、その二週間後には7万人を超え、10月に入ると10万人規模に達した。治安当局も軍も、もはや鎮圧に乗り出すことはせず、10月17日に国家評議会議長のエーリッヒ・ホーネッカーが解任。東独の民主化は一気に加速して「ベルリンの壁」崩壊に至った。そのライプツィヒの月曜デモが行われた場所が、このアウグストゥス広場だったのだ。
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(1989年10月、ライプツィヒの「月曜デモ」)

 私は今までそういう理解をしていなかったのだが、中世・近世から現代に至るまで、実は中央ヨーロッパの臍(へそ)であり続けたライプツィヒ。実際に足を運んでみると認識を新たにすることがたくさんあるものだ。やはり、旅はしてみるものなのである。
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(アウグストゥス広場の噴水。右後方はライプツィヒ大学)

 さて、予定している列車の発車時刻がだいぶ近づいてきた。ホテルに預けた荷物をピックアップして、中央駅に向かうことにしよう。
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(ライプツィヒ中央駅)
(To be continued)


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欧州の秋 (5) バッハの教会 [世界]


2018年9月28日(土)

 J.S.バッハ(1685~1750)の生誕の地、テューリンゲン州アイゼナッハを14時に出て、特急列車、近郊型電車、そしてトラムを乗り継ぐこと2時間。ザクセン州ライプツィヒ中央駅の駅前に着いたのはちょうど16時だった。日本時間の前日深夜に羽田から夜行便に乗り、ドイツ時間の今朝5時過ぎにフランクフルトに着いたのだったから、それから既に11時間ほど活動を続けて来たことになる。
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(ライプツィヒ中央駅)

 還暦を過ぎた身ながら、何だか学生時代のような旅を始めてしまったが、このライプツィヒでは今日のうちに訪ねるべき場所がある。当地の日没まであと3時間足らず。ともかくも駅前のホテルに荷物を入れて、旧市街へ歩いて行ってみよう。

 ライプツィヒは人口57万人。旧東独のエリアではベルリンに次いで大きい街なのだそうだ。確かに繁華街に出てみると大都市の賑やかさがここにはある。1990年にドイツが再統一されて以降も旧東独エリアは西側に比べて大きな経済格差があったと聞いていたが、土曜日の夕方近くの街中を眺める限りでは、人々は豊かさをエンジョイしているように見受けられた。
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 数多くの屋台で賑わうマルクト広場を抜けて西へと進んでいくと、だいぶ傾いた陽を背にした三角屋根の教会が現れた。その周りには私のような観光客も多いけれど、バギーに乗せた赤ん坊と共に芝生の広場で寛ぐ地元の人々の姿もあって、何だかほっとする光景だ。

 ライプツィヒの聖トーマス教会。私が敬愛してやまないJ.S.バッハが1723年(彼が38歳の年)にこの教会の音楽監督、いわゆる「トーマスカントル」に就任し、幾多の教会カンタータや受難曲などの宗教音楽を世に送り出したのがこの教会だ。それはバッハの生涯で最も長く続いた職場でもあった。
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(聖トーマス教会)

 教会の左手(南側)に進むと、ステンドグラスの窓を背にしてバッハの銅像が立っている。この教会を訪れることは、私にとって本当に長い間の夢だった。今こうして聖トーマス教会の前でバッハの像と向き合っていることが、いまだに自分でも信じられない。
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 音楽家としての彼の名前が既に知れわたっていたからこそ、トーマスカントルのポストへのオファーが来たのだし、就任早々彼は実に精力的に職務に取り組んだのだが、その一途な性格もあってライプツィヒ市のお偉方とぶつかることも少なくなかった。毀誉褒貶は色々あったようだが、その上で今こうして颯爽とした姿のバッハ像が建てられているのは、やはり後世の評価によるものだろうか。
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 南側の入口から教会の中に入ってみると、白色のドーム型の天井とそれを支える朱色の梁が印象的な、祈りの場としては想像していたよりも明るい雰囲気の空間だ。二階の高い位置に据えられたパイプオルガン。あそこでバッハが実際に演奏し、そして聖歌隊を指揮していたのだろうか。
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 席に座ってステンドグラスをゆっくりと眺めていると、キリストの生涯にまつわるエピソードの数々に混じって、バッハとマルティン・ルターの姿がそこにあった。

 ルターという人は歌が上手く、かつ音楽が好きな人であったそうだ。だから新教の中でも、例えばカルヴァン派のように歌舞音曲の類を排してしまうことはなく、むしろルター自身がドイツ語による讃美歌を幾つも作ったという。そして、そうした伝統を持つルター派の教会に奉職することを、宮廷音楽家として既に各地で名声を上げていたバッハが望み、トーマスカントルとしてこの教会にやって来たのだった。そう思うと、時代は二世紀ほど離れてはいるが、共に中部ドイツで活躍したルターとバッハという二人の組み合わせは、人類の音楽史上において誠に幸いなことであったと、改めてそう思わざるを得ない。
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 私は席に座り続け、教会内の空間に身を浸している。「バッハの教会」として世界中から観光客が訪れるこの教会。私はもっと大きな、例えばウィーンの聖シュテファン教会ぐらいの規模はあるのかなと思っていたのだが、想像していたよりもコンパクトな大きさだ。それだけに、ここでカントルを務めたバッハにとっては、手作り感のある演出が出来たのではないだろうか。この空間の中で教会暦に従ってカンタータが歌われ、春の復活祭の前には『マタイ受難曲』が響いていたのかと思うと、私には大きな感慨があった。

 教会の窓から差し込む一筋の午後の光。バッハが活躍していた頃にも、こんな一時があったことだろう。その時、バッハはどんなことを考えていたのだろうか。
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 縦に長い教会の内部。パイプオルガンとは反対側の端にバッハの墓が位置している。カントルとしてこの教会に奉職して26年、1749年の初夏にバッハは脳卒中に襲われて病床に伏した。以前から白内障が進行していたこともあり、視力を殆ど失ってしまったバッハは、翌年3月に英国人の眼科医によって二度の手術を受けたが、いずれも失敗。その後遺症から体力を失い、7月28日の朝、家族に看取られながら65歳の生涯を閉じた。

 その全てが一人の人間による作曲だったと思うとただただ驚くしかない、バッハによる名曲の数々。しかしその晩年には、旋律の主従が明確な解りやすい音楽が好まれるようになっていた。ヨーロッパの多声音楽の伝統を引き継ぎ、対位法というルールを駆使したバッハの作品は古臭いものとして受け止められ、世間からは急速に忘れられていったという。後にメンデルスゾーンが「マタイ受難曲」の演奏を復活させ、バッハの作品が世の中で再評価を受けるようになるまでには、80年ほどの年月を要したのだった。

 そのバッハが眠る教会内の墓。常に花が飾られている様子は写真で見たことがあるが、この日はその墓の後方に様々な野菜や果物など秋の実りが見事に盛り付けられていた。私たち日本人にとっての墓前のお供えのような概念がキリスト教にもあるのかどうか、私にはわからないが、こんなところにも現代の人々のバッハへの敬意が感じられて嬉しかった。やはりライプツィヒの聖トーマスは「バッハの教会」なのである。
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(バッハの墓と秋の実り)

 いつまでも教会の中でゆっくりしていたかったが、私は教会を出て南隣のバッハ博物館へと向かう。手前にある売店でチケットを買い、中庭を通って奥の建物に入る仕組み。いかにもヨーロッパの趣がある博物館だ。

 ここでの見ものは、何といってもバッハが残した書簡や自筆の楽譜の数々だ。トーマスカントルとして多忙な日々を過ごしていたバッハが、その労働条件の改善を求めてライプツィヒ市のお偉方に宛てた抗議文なども展示されていて、ドイツ語が読めたらきっと面白いことだろう。
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(バッハ博物館)

 そして部屋の壁に沿ってずらりと並ぶ自筆の楽譜。それを見て驚いたのは、バッハが年齢を重ねるほど、音符の筆致が精密になっていることだ。トーマスカントルに就任して間もない40歳頃にもの凄い勢いで教会カンタータを作曲しまくっていた時期のものは、音符をそれこそ殴り書きにしたような印象があるのだが、遺作となった晩年の「フーガの技法」などは、まるで印刷にかけたように精緻な筆跡の楽譜なのである。私も自分の年齢がバッハの晩年に近づいているのだが、歳をとっても仕事はきっちりとこなすところは見習わねばならない。

 バッハ博物館を出ると、外はさすがに日没が近づいていた。暮れて行く街に灯がともる、その様子を眺めていると、遠い異国へやって来たことを実感する。さて、私も夕食にしよう。
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 旧市街の中のレストランで、なるべく分量の小さいメニューを選んだつもりだったが、それでも私には満腹を通り越してしまいそうな量である。けれども、出されて来たものは一昔前の「ドイツ料理」のイメージとは違ってなかなかの美味であったことは、ライプツィヒの名誉のためにも是非付け加えておこう。ゴーゼというご当地のビールのテイストも含めて。
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(ソーセージの付け合わせはニョッキだった)

 私には十分過ぎる夕食を済ませた後、夜景を眺めるためにもう一度聖トーマス教会の前へ足を運んだ。雲一つない快晴の一日が終わり、今日最後の光が消えかかる西の空を背景に、バッハの教会は凛として立っていた。
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(To be continued)


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欧州の秋 (4) ローカルとグローバル [世界]


2018年9月29日(土)

 J.S.バッハ(1685~1750)が生まれた街、ドイツ・テューリンゲン州のアイゼナッハを朝から訪れていた私は、昼を過ぎてから駅に戻り、ライプツィヒを目指して再び列車の旅に発つ。引続きよく晴れた午後、ハンブルグ行きの特急ICE690は定刻通り14:01にアイゼナッハ駅を出て、平坦な地形の中を東に向かって走り始めた。
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(ICEハンブルグ行。日本ではもう見られない食堂車がドイツのICEにはまだ残っている。)

 今朝ミュンヘン中央駅を発って、アウグスブルグ、シュトゥットガルト、フランクフルトを経由してやって来たこの列車、この後はベルリン経由で終点のハンブルグに向かうのだが、そのベルリンへ行く途上でライプツィヒは通らないから、途中のハレという駅で乗り換えが必要だ。従ってこのICEにはちょうど1時間ほどの乗車になる。

 アイゼナッハの旧市街の中を結構歩き回った後だけに、ともかくもこの1時間は指定席でゆっくり出来るのがありがたい。車窓を眺めているうちにトロッとしてしまったようで、ハレ到着前の車内放送で目が覚めた。
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 15:04 ハレ到着。地下道に降りて二つ南側のホームに上がると、Sバーンと呼ばれる都市近郊型の電車が待っていた。日本の電車に比べると厳(いか)つい面構えだ。元々ハレとライプツィヒでは個々にSバーンの運行が行われていたのだが、今世紀に入ってから両者が中部ドイツSバーン(S-Bahn Mitteldeutschland)として統合されたという。従ってSバーンの路線図も一つのもので、路線番号も両者間で統一されている。
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 ドイツ出張の機会を利用して、本来のビジネスの日程よりも早めにドイツ入りし、敬愛するJ.S.バッハゆかりの街を訪ねることにした一人旅。実は、私が列車を乗り換えたハレ(Halle)という街も、バッハとの縁がない訳ではない。

 バッハと同じ1685年にこのハレで生まれた音楽家がいた。管弦楽組曲「水上の音楽」や「王宮の花火の音楽」で有名なゲオルグ・フリードリッヒ・ヘンデル(~1759)である。音楽家一族に生まれたバッハとは異なり、ヘンデルの父は宮廷に召し抱えられた医者であり、幼い頃から音楽への才能を見せていたヘンデルがその道に進むことを、父は望んでいなかったという。17歳でハレ大学に進んだが直ぐにハンブルグに移り、4年間のイタリア滞在を経て25歳でロンドンに渡り、そこで作曲したオペラが大成功。2年後の1707年には英国に帰化を申請。以後もロンドンに住み続け、オペラやオラトリオの数々で名声を上げ、没後はウェストミンスター教会に埋葬されるという栄誉を得ている。

 そのヘンデルに一度会ってみようと、バッハが面会を申し入れたことが二度あったそうだ。初回は1719年というから二人が共に34歳の年である。当時バッハはハレから6kmほど北へ行ったケーテン(Köthen)という小さな街で宮廷音楽家を務めていた。彼が室内楽曲や器楽曲の分野で粒ぞろいの名曲の数々を生み出していた頃だが、遠くロンドンで名声を上げたヘンデルがハレに帰郷しているとの話を聞きつけて、実際にハレまで会いに行ったのである。ところがヘンデルはその日には既にハレを離れていて、残念ながら面会は叶わなかった。

 二度目の機会はそれから10年後の1729年。バッハは既にライプツィヒの聖トーマス教会のカントル(音楽監督)に就任しており、ハレ滞在中のヘンデルに対して息子のフリーデマン・バッハを通じてライプツィヒへの招待状を届けたのだが、ヘンデル側の都合により断られたという。

 という訳で二人の面会は遂に実現しなかったのだが、それにしても同じ年に中部ドイツで生まれながら、色々な意味で対照的な人生を歩んだ二人であったことは興味深い。

 既に述べたようにヘンデルは個人の才能によって音楽家となり、作品はオペラやオラトリオが中心で、故郷のハレから遠く離れたロンドンで成功を収めて広く世界にその名を知られた、言わばグローバルに活動する音楽家としてその人生を歩んだ。他方、生涯を通じて独身であった。

 これに対して、バッハはアイゼナッハの音楽家一族に生まれ、その後もテューリンゲンやザクセン一帯から外に出ることはなく、ローカルな音楽家に徹する人生であった。しかし、その作品群は宗教曲から世俗曲まで、そしてソロの器楽曲から協奏曲まで幅広く(但しオペラは作曲していない)、死別した先妻と16歳年下の後妻との間に計20人の子をもうけている(但し成人したのは10人だった)。
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 こんな風に対照的な二人だが、後世に至るまでの存在感を比べてしまうと、それはもう圧倒的にバッハの方が大きいと言える。二人の没後から既に250年以上が経過した今もなお、様々な演奏スタイルや編曲によってその音楽が人々に親しまれているのは、やはりバッハの作品なのである。

 「バッハ以前のあらゆる音楽はバッハに集約され、バッハ以後のあらゆる音楽はバッハに遡ることが出来る、西洋の音楽史上において余人を寄せ付けない一つの分水嶺である。」

 だいぶ以前に読んだことのある本の中で、或る学者がこんな風なことを書いていたが、それは決して大袈裟な表現ではないだろう。

 ハレで乗り換えた近郊型電車は平地の中を20分足らず突っ走り、Leipzig Messeという駅に到着。ここで降りてそのまま待っていればライプツィヒ中央駅行の別の電車がやって来ると思っていたのだが、降車した人々は皆がホームの階段を降りて行く。そこには乗って来た近郊型電車のガードと直角に交わる形で路面電車の線路があり、もしかしたら東独時代のものをまだ使っているのかな?と思ってしまうぐらいにレトロなデザインの三両連結のトラムがやって来た。
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(Leipzig Messe駅でトラムに乗り換え)
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 係員が誘導していて、Central station方面行きの電車だと英語でも叫んでいる。私はそれなりに大荷物を持ってはいたのだが、混雑したそのトラムに乗車。約20分でライプツィヒ中央駅前の電停に到着することになった。
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 時刻はちょうど午後4時。日没までにはまだ3時間弱あるのだが、太陽の輝きに少し赤みが増していた。
(To be continued)

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欧州の秋 (3) ルターと新教 [世界]


 ドイツのテューリンゲン州アイゼナッハ。「音楽の父」ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685~1750)の生地として知られるこの街の旧市街に向かって、鉄道の駅から一本道を歩き、石造りの門を潜ってカールス広場に出ると、その中心に立派な銅像が立っている。

 誰かと思って近づいてみると、それはあの「宗教改革」で有名なマルティン・ルター(1483~1546)の像だ。体の左に抱えている大きな書籍は聖書なのだろうか。肩をいからせ、空の一点を睨む堂々たる姿。ルターといえばこんな風に、いつも何かに怒っているようなイメージがあるのだが、それにしても「バッハの街」アイゼナッハになぜルターの像が?
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 1483年にルターが生まれたのは、アイゼナッハから北東方向に100kmほど離れたザクセン・アンハルト州のアイスレーベンという村だ。農民の出身だったルターの父は、その当時鉱山の仕事に就いていたが、勤勉な男で家庭では厳格な「教育パパ」であったらしい。そんな父の期待を背負ったルターは、法律家への道を進むべくエアフルト大学を目指し、そのための準備として1498年から3年間、アイゼナッハの聖ゲオルグ教会付属のラテン語学校に学んだという。それは、ちょうどその200年後に8歳のヨハン・セバスティアン・バッハが入学したのと同じ学校なのだ。

 そしてその3年間にルターが寄宿したという、聖ゲオルグ教会を間近に望む場所に建つ家が、今はルターハウスという記念館になっている。16世紀当時の姿そのままのような建物で、その右隣に建てられた新館から入場することになる。館内にはルターが学んだ頃の机が残されていた。
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(アイゼナッハのルターハウス。右のガラス張りの建物が新館)

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(ルターが学んだ机)

 ここに学んだ後、1501年にルターは望み通りエアフルト大学に入学。哲学を学び、成績は優秀であったそうだ。そして更に法学の道へと進むのだが、1505年の或る日、大学へ向かう途中、エアフルト近郊の草原で激しい雷雨に遭遇。落雷死寸前の体験をする中で信仰に目覚め、父にも無断で大学を離れてしまい、エアフルトの聖アウグスチノ修道会に入門したという。そして早くも翌年には司祭になっている。
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 修道会で祈りと研究の日々を過ごすルターは、やがて新設のヴィッテンベルク大学で神学の博士号を取り、聖書の注解を受け持つのだが、その過程において、簡単に言えば「人間が罪を許され、神との霊的な交わりに入れるのは、善行によってではなく、ただ神への信仰によるのみである」という理解に達したという。「信仰あるのみ」という言葉はここから来ているようだ。
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(マルティン・ルター関連地図)

 その立場からすると、当時ドイツで盛んに販売されていた贖宥状(昔の言葉でいう「免罪符」)の存在-しかもそれは、或る人物が複数の大司教の地位を得ようとしてローマ教皇庁に多額の献金を行うための手段だった-はルターにとって看過し得ないものとなる。このあたりから、学生時代の世界史の授業に出て来たルターの姿がいよいよ登場する訳だ。

 1517年10月31日、当時33歳のルターは、マインツ大司教アルブレヒトが発布した贖宥状販売の「指導要綱」に疑問を投げかけた書簡、いわゆる「95ヶ条の論題」を送る。ヴィッテンベルクの教会の扉に釘でこの書簡を打ち付けた、という風によく語られるが、実際にはそういう事実は確認されていないそうである。
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 ともあれ、かかる書簡を突き付けられたローマ教会側は、1518年にアウグスブルクでルターに対する審問を行うが、彼が自説を曲げなかったために対立は決定的となり、1521年にローマ教皇レオ10世によってルターは遂に破門を宣告される。更には法律の保護の外に置かれたため、身の危険を感じたルターはザクセン選帝侯フリードリヒを頼り、アイゼナッハのヴァルトブルク城で2年間の隠遁生活を送ることになった。その間にルターはラテン語で書かれていた新約聖書のドイツ語訳を行い、当時既に普及していた活版印刷のおかげもあって、聖職者ではない一般の人々でも直接聖書を読む時代を切り開いていくことになる。
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(アイゼナッハ駅付近から眺めるヴァルトブルク城)

 そんな訳で、聖ゲオルグ教会付属のラテン語学校に学んだことと、ヴァルトブルク城に隠れ住んだことの二つにおいてルターはアイゼナッハとの縁があり、それゆえにルターはJ.S.バッハと並ぶこの街の誇りなのである。

 アイゼナッハのルターハウスを一通り見学してロビーに戻って来ると、反対側の新館では特別展として「異端・分派活動家・宗教指導者 - カトリックから見たルター」という展示が行われていた。覗いてみると、ルターの言動がカトリック側からどのような偏見を持って見られていたかということを説明しているコーナーだ。面白いのは、カトリック側から言い立てられたことを記したものを青メガネをかけてから眺めると、違ったように見えるようになっている。例えばこんな具合だ。
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 ルターは贖宥状を販売する教会に対して論戦を挑み、審問の際にも決して自説を曲げなかった。加えて、従来カトリック教会では聖職者の独身が守られて来たが、ルターは結婚が必ずしも信仰を妨げるものではないとして、修道者に対して結婚を斡旋することも多かったという。そればかりか、彼自身も女性たちが修道院から脱する手助けをして、その中の一人であった15歳年下の元修道女と結婚をして6人の子をもうけている。だから、彼のそうした言動に対してカトリック側から激しい誹謗中傷の数々があったことは想像に難くない。この展示はその中の典型的な中傷に対するルター派の立場からの反論だから、そう思って眺める必要があるのだろうけれど、何だか笑えてしまうものもあって、私には興味深かった。
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(特別展の入口)

 アイゼナッハを実際に訪れる機会がやって来るなどとは想像もしていなかった今年の初め、私は『プロテスタンティズム - 宗教改革から現代政治まで』(深井 智朗 著、中公新書)という新刊書を読んでいた。
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★ 1517年に始まったルターの「宗教改革」。それはカトリック教会の権威を大きく揺るがす結果となったけれど、ルター自身はあくまでもカトリックの信者として活動をしただけで、決してキリスト教界に「革命」を起こそうとは思っていなかった。

★ むしろルター以降の人々によって、彼の主張はカトリックと対立する「新教」となり、ルター本人の意志とは異なる方向へと進んでいった。

★ ルター派のプロテスタンティズムは、19世紀のドイツ統一の過程でナショナリズムを鼓舞するものとして利用され、ドイツの政治的・宗教的保守主義の源流であり続けた。

★ 現代の「リベラリズム」に繋がる(とりわけ米国の)プロテスタンティズムは、いわゆる「宗教改革」で主流の座に上ったルター派からは排斥された人々によって始められたものだった・・・。

 受験の世界史でルターやカルヴァンの名前を暗記し、大学時代にマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読んだ、そのあたりでいわゆる「宗教改革」についての私たちの理解は止まっている。そういう点では、従来私たちが抱えて来た「新教」のイメージとは異なるプロテスタンティズムの実像を、幅広い観点から描き出したこの新書本はなかなかの好著だと、今改めて思う。
(To be continued)

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