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国の旗 [世界]

 先週から、厳しい暑さが続いている。気温が37度を超えたとか、全ての都道府県で熱中症にかかった人が搬送されたとか、連日そんなニュースばかりである。

 これで悲鳴を上げる訳にはいかず、日本では例年これからが暑さも本番を迎えるのだが、英国では7月のウィンブルドンのテニス大会が終わると何だか夏も過ぎたようになって、曇や雨で肌寒いぐらいの天候になることが多い。先週末に行なわれたロンドン五輪の開会式でも、英国特有のどんよりとした曇り空が映し出されていた。

 早くも連日熱戦のオリンピック。私は夜帰宅してから多少テレビを見る程度だが、それでも色々な競技において競争の度合いが従来にも増して激しくなっていることを感じざるを得ない。「スポーツに国境はない」とよく言われるが、長らく特定の国のお家芸だった競技種目がいつの間にか国際化して、実に多彩な国々を代表するプレイヤーたちが激しく競い合っている。そのために競技のルールも変わってきて、例えば私たちの知る伝統的な柔道とオリンピックの”JUDO”は、互いに似て非なるものではないかとも思ってしまうが、国際化とはある意味そういうものなのだろう。
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 そのようにスポーツがボーダーレスになっていく中、依然として残るのが「国」そのものである。

 ヒト・モノ・カネが国境を越えて自由に動く時代と言われながらも、ヒトはモノやカネほど機敏には動けない。大多数の人々にとっては、日々の営みをそんなに簡単に変えることが出来ないからだ。そして、その日々の営みを安定的なものにしていくために、或いは我が身を守るためにどうしても必要なもの、だからこそ皆で資金を負担し合って支えていかなければならないもの、そればかりでなく、父祖の時代からの民族の歴史と伝統を総体として受け継いでいるもの、それが国である。人は自分一人では生きて行けないのだから、無国籍のコスモポリタンなどというのは、土台あり得ないことなのだ。

 オリンピックのような国際大会の機会に私たちは、自国の選手を応援し国旗を振ることで、普段は忘れている「自分たちの国」というものを強く意識することになる。そのこと自体は、偏狭なナショナリズムとは別物の筈だ。むしろ人間として当たり前の感情と言ってもいいだろう。とりわけ国旗はシンボリックな存在である。

 3年前の夏、一家四人でトルコを旅する機会に恵まれた。家族にとっては未知の国で、見るもの食べるものに好奇心を刺激され続けた、実に思い出深い8日間になったのだが、その中でも特に強く印象に残るものがあった。それは、国の中のいたる所に掲げられたトルコの国旗であった。

 街中の主だった建物の屋上や、公共の広場、観光スポット、そして鉄道の駅などに翻る、赤地に白の三日月と星のマーク。シンプルなデザインながらインパクトの強いこの国旗は、夏の青空に実によく映える。そんな様子を見ながら、息子がふと呟いた。
 「こんな風にどこへ行っても自国の国旗が堂々と掲げられてるって、羨ましいよなあ。」
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(イスタンブールの街中)

 赤地に白の三日月と星というデザインの出自については、トルコの中でも諸説あるそうだ。オスマン・トルコやビサンティン帝国の時代に遡るようだが、いずれにしても現在の国旗の規格が定められたのは1936年のことだそうである。

 現在のトルコ共和国のアジア部分が位置するアナトリア半島というのは、有史以来実に様々な民族が往来した土地で、この国の考古学博物館へ行くと、そのことを改めて認識させられる。初めて鉄器を使用したヒッタイト、ヘレニズム文化を持ち込んだアレクサンドロスの大遠征、中央アジアからやって来た騎馬民族・・・。これらの民族がこの土地に残した幾多のものを博物館で眺めていると、それぞれに全く異なる文化であること、しかしながらそうした異文化の往来の積み重ねが紛れもなくこの国の歴史なのだということに気づくのである。

 そう思って街中の様子を眺めると、トルコの人々の顔かたちは何とも多彩である。このような歴史の中で混血が進んだからなのだろうか。「これが典型的なトルコ人の顔」というものはなくて、背格好や肌の色、髪の毛や瞳の色、顔の彫りが深いか浅いか、といったようなことが人によって実に様々なのだ。

 トルコという国は、七つの国と陸続きである。(西から反時計回りに、ブルガリア、ギリシャ、シリア、イラク、イラン、アルメニア、グルジア) そして北の黒海を隔てた対岸にはロシア、ウクライナ、ルーマニアという更に三つの国がある。そして南に目を転じれば、地中海を隔ててキプロス、レバノン、イスラエルなどは目と鼻の先である。しかも、これらの隣国の数々とは決して仲が良くなかった。

 そうした中で、他のイスラム諸国と同様にオスマン・トルコが近代から取り残され、国力の衰退を続けていくと、その足元を見るようにして諸外国が戦争を吹っかけてきた。そのような「近代」を過ごしたトルコ。20世紀になって国の内部からトルコ革命を起こしたムスタファ・ケマルが抱いた、「このままでは祖国は外国の餌食にされて滅びてしまう」という危機感は、どれほど強いものであったことだろう。

 そして、その革命が成った後もトルコの周辺は引続き戦争の時代である。だから、何としても祖国のために国民をまとめなければならない。ムスタファ・ケマルの時代に制定された現在のトルコ国旗は、そうした求心力、団結力を鼓舞するものとして、なくてはならないものだった筈である。カッパドキアの岩山の上に掲げられた大きなトルコの国旗を眺めながら、「国とは何か」ということを私は考えずにはいられなかった。
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(「トルコ建国の父」ムスタファ・ケマル 1881~1938)

 それとは対照的に、日本では公式の場で日本の国旗を掲げることに対して素直になれない向きが一部にあるのだが、これはいかがなものだろうか。

 「戦争の時代に軍国主義を煽る道具として使われた」というのが素直になれない理由だとするのなら、軍国主義も国旗を使った国威発揚も、決して日本の専売特許ではない。そして、かつて軍国主義の時代があったからといって国旗の掲揚を抑制するような国など、他には存在しない。「軍国主義」が国家の道を誤らせたのなら、その歴史をしっかりと検証し、今の政治の仕組みに反映させることを考えるべきであって、「軍国主義の時代を思い出させるから国旗を掲揚しない」というのは、手段を間違えているとしか言いようがない。

 また、「国旗の掲揚は愛国心の強制だ」というのが反対の理由だとするのなら、「愛国心の強制」と思うかどうかはあなたの勝手だが、そんな能天気なことを言うぐらいだったら、世界の国々の有りようを自分の目で見てきた方があなたのためですよ、と私は忠告したい。自国の国旗を見て国民としてのアイデンティティーを自覚し、そこに象徴される民族の歴史と文化に誇りを持つことは、世界の中では当たり前のことなのだから。(私の息子がトルコの姿を羨ましく思ったのは、こうした観点からのことなのだろう。) そして、それでもなお日本の国旗を掲げるのが嫌なのであれば、どの国に税金を払って行政サービスを受けるべきなのか、その人はよく考えた方がいいのではないだろうか。

 戦後のポピュリズムが続いたことで、現在の国の財政は危機に直面している。経済危機に揺れる欧州を見るまでもなく、借金まみれの政府の姿を将来にわたって持続可能なものに改造していくことが、世界中で求められている時代である。だからこそ、国民が自分の国を思い、国の行く末を考えることが必要なのだ。

 これまでもオリンピックを迎えるたびに、「国とは何か」ということに意識が向いてきた。そして今回は、「デジタル五輪」と呼ばれるほどに多様かつ大量の情報がリアルタイムに飛び交い、テロ対策にミサイルが配備され、その背後ではグローバルな経済活動によって益々世界が一蓮托生になっている。
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 こんな時代だからこそ、「国とは何か」という問いは、答えが一段と難しいものになりそうである。

或る架空の国 [世界]


 その昔、東京の山手線・大塚駅の南口側に、二本立て300円の小さな映画館があった。今はもう激減してしまった「名画座」といわれるタイプのものだ。高校時代、映画の面白さにハマッていた私は、学校帰りに時々お世話になったものだった。

 天邪鬼の私は、昔からハリウッド映画は好みでなかった。金にモノを言わせたような映画よりも、もう少し手作り感があって、多様な価値観があって、小粒でもピリリと辛い、そういう方が好きだったし、テレビも何もアメリカ一辺倒の世の中だったから、それ以外の地域の作品の方が興味を持てた。(そのスタンスは今も変わっていないが。)

 或る日のこと、題名がアルファベットでたった一文字だけの「Z」という映画を、この名画座で観た。コンスタンティン・コスタ=ガヴラスというギリシャ人の監督によるもので、イヴ・モンタン、ジャン=ルイ・トランティニアン、ジャック・ペランといったフランスの名優たちが顔を揃えていた。’69年の作品だというから、私が名画座で観たのはその5年後ということになる。公開された年にアカデミー外国語映画賞とカンヌ国際映画祭審査員賞を取った作品である。
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 あまり予備知識なく観に行ったのだが、それは「地中海に面した或る架空の国」を舞台にしたポリティカル・サスペンスで、今ではこんなスタイルはまず見かけない、実に硬派の内容だった。

 軍や秘密警察の力を背景にした非民主的な政権のその国で、或る夜、政権を批判する野外集会で演説を終えたばかりの野党の国会議員が、後ろから来た車が通り過ぎた瞬間に頭部を負傷して命を落とす。この事件を担当することになった予審判事は、単なる交通事故として処理しかけていたが、解剖の結果、頭を殴打された形跡が見つかったために捜査を進めたところ、警察署長や憲兵隊長が襲撃計画に関与していた事実が次第に明らかになり、事件は意外な展開へ・・・。硬派なストーリーながら所々にユーモアやブラック・ジョークを織り交ぜた、よくできた映画だった。
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 ジョークと言えば、この映画の結末のドンデン返しも第一級のブラック・ジョークで、思わず「嘘だろ!」と呟いてしまうようなラストが待っていた。すなわち、(42年も前の映画だから、いまさらネタバレとも言われないだろうが) 政敵の議員の暗殺という政権側の陰謀が明らかになって野党が勢いづき、反政府運動が大いに盛り上がったところで、全てを踏み潰す陸軍のクーデターが勃発。軍事政権は更に非民主的な姿勢を打ち出し、新たに禁止された項目をニュース報道調にナレーションが淡々と読み上げるところで、映画は終わる。
 「(禁止されたのは)ストライキ、長髪、ミニスカート、ポピュラー音楽、自由な言論、そして『Z』という文字。それは古代ギリシャ語で『彼は生きている』を意味する言葉だから・・・。」

 政権を批判して斃れた野党議員が民衆の間でヒーローにならないよう、「Z」という文字まで禁止せざるを得ないとは、何とも滑稽にして悲惨な政権ではないか。これがブラック・ジョークでなくて何であろう。
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 一応フィクションの体裁を取っているが、この映画のストーリーには、モデルになった事実があるという。それは、1963年にギリシャのテッサロニキで開かれた平和集会で、G・ラムブラキスという野党の国会議員が米軍によるギリシャへのミサイル配備に反対の演説をした後、「交通事故」で命を落としたという事件だそうだ。

 古代にあれほどの文明が栄えたのに、その後のギリシャは世界史の中でも影がうすい。近代以降も小党乱立のお国柄で政治のリーダーシップが弱く、第二次対戦中は枢軸国側に占領されて、国王は英国に亡命していたぐらいだ。地政学的には重要な位置にある国だったから、戦後は米国が肩入れをして共産主義勢力を排除し、その民主性にはいささか疑問符が付くものの、保守政党の連立政権によって’50年代をしのいできた。

 ところが、米ソの対立が先鋭化した’60年代は社会主義が元気な時代で、ギリシャでも左派勢力が躍進を始める。’64年の総選挙では(保守的・抑圧的な与党に対して)自由主義的な中道連合が地滑り的に勝利。それを率いたゲオルギオス・パパンドレウは、現在のパパンドレウ首相の祖父にあたる。前述した野党議員G・ラムブラキスの怪死事件はその前年のことになる。

 だがゲオルギオス・パパンドレウは、その左寄りとも取れる政治姿勢から国王と対立。新たな総選挙が準備された’67年、中道諸派の勝利が見込まれていた矢先に陸軍の軍事クーデターが勃発。以後は軍事独裁政権となり、数々の抑圧的な政治が行なわれることになった。映画「Z」のエンディングは、まさにこの時期のフォトコピーで、「地中海に面した或る架空の国」も、見る人が見ればすぐにわかる訳だ。(だから、この映画は当時ギリシャでは上映禁止になっていた。)
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 しかし、縁というのは不思議なものだ。私が名画座でこの映画を観たちょうどその年の秋、7年続いたギリシャの軍事独裁政権は崩壊することになった。’70年代の欧州は不況の時代。’73年秋に発生した石油危機が、それに拍車をかけた。ギリシャの国内経済は悪化して軍事政権への不満が増大。トルコとの対立の原因となったキプロス問題の処理に失敗したことが致命傷となって、軍部は退陣。総選挙で新民主主義党が与党となり、多数の政治犯を釈放。国民投票で王制の廃止と共和制への移行が選択されたのだった。

 テレビや新聞によって報道される同時進行形の「ギリシャ現代史」に接しながら、私は何やら映画「Z」の続編を観ているような気分になって嬉しかった。もっとも、高三の秋にもなってこんなことに現(うつつ)を抜かしているとロクなことにならないのは、それから程なくして思い知ることになるのだが・・・。

 あれから37年。ギリシャは今、いささか不名誉な形で世界の注目を集めている。言うまでもなく、膨れ上がった対外債務に対するギリシャ政府の返済能力への懸念、すなわち国家の債務危機である。

 中道と左派が政権交代を繰り返すたびに、選挙の票集めのために行われてきた公務員の増加や各種「手当」の新設、目を覆うばかりの脱税、そもそも競争力のない国内産業・・・。債務危機の原因として挙げられるギリシャの構造的な問題は、既に言い古されてきたことばかりだが、ここへ来て事態の深刻化に拍車をかけたのは、この国が2001年から統一通貨ユーロに加盟したことだろう。

 ずっと以前から慢性的な経常赤字の国だったギリシャ。外貨の獲得手段はといえば、観光収入と海外移民からの送金ぐらいしかなかったから、ドラクマというこの国の通貨はローカル・カレンシーもいいところで、国外では全く通用しないものだった。そして、赤字の穴埋めにギリシャが外国から借入をしようとすると、対外支払準備としてこの国が外貨をいくら持っているかを、貸し手はハラハラしながら見ていた。

 ところが、外貨獲得能力に乏しいことは何も変わっていないにもかかわらず、ギリシャの通貨が或る日からユーロという世界で二番目に活発に取引されるハード・カレンシーになり、そのユーロ建てで国債を発行するようになった。そのことで、ギリシャの支払能力について借りる方も貸す方も「目くらまし」に遭ったようなところがなかっただろうか。

 そして、当のギリシャにとっても、過去のドラクマ時代とは違って為替レートを気にせず、同じユーロでドイツやフランスから物が買える。(それは売る方にとっても同じだ。) ユーロを手にしたことによるそういう気楽さが、ギリシャの対外的な赤字の拡大を助長させてしまったところはなかっただろうか。

 対応を誤ればユーロの存続そのものを脅かすことになりかねないギリシャの債務問題は、今月23日のEU首脳会議という一つの正念場を迎えようとしている。かつて軍事政権によって国外追放の憂き目に遭った祖父ゲオルギオス・パパンドレウよりも、そして政敵ND(新民主主義党)との間で政権を争い、二度にわたって首相を務めた父アンドレアス・パパンドレウよりも、二人の名前を受け継いだ三代目の現首相ゲオルギオス・アンドレアス・パパンドレウが、最も辛い立場に立たされているのだろう。もはや避けて通れない大幅な緊縮政策に対して、対案のないまま国民の反対運動が激化を続けている。
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 映画「Z」が描いた「地中海に面した或る架空の国」では、自由を求める人々の声は戦車によって押し潰された。そして、’74年以降の政治の民主化でやっと自由を手にしたこの国の人々は、今度は豊かさを追い求めた結果、対外債務の返済に困るようになった。これではキリギリスと呼ばれても仕方のないことだろう。

 「怠け者は泥棒と同じだ。」 (フォキュリデス、BC 6~5世紀)
 「生きるために食べるべきで、食べるために生きてはならぬ。」 (ソクラテス、BC 5~4世紀)
 「自制ができぬうちは、自由だとは言えぬ。」 (デモフィロス、BC 6世紀)

 やはりご先祖様は偉かった。21世紀の今もなお、私たちはそう言わざるを得ない。

雨期と政治とマイペンライ [世界]


 記憶をたどると、あれは今から13年前のことだ。季節は9月のどこかではなかったかと思う。

 タイの南部で計画されていた或る大きな開発プロジェクトについて、契約書を作成するための交渉が連日あって、その日も夜になった。首都バンコックの南東部にあった取引先のオフィスを出て、タクシーでホテルに向かおうとした時、外はボツリボツリと雨粒が落ち始めたところだった。

 タイは6月から10月までが雨期になる。スコールと呼ばれる、南の国特有の強い俄か雨を伴うものだが、それでも前半はどちらかといえばおとなしい雨期だ。それが、後半の9月や10月になると雨の降り方が激しくなり、バンコックでもあちこちに巨大な水たまりができて、一時的にクルマが走れなくなることも珍しくない。この日も、タクシーが走り出してから程なく、雨が窓ガラスを叩き、夜空に雷鳴がとどろき始めた。

 当時のバンコックでは、スカイトレインと呼ばれる高架鉄道の建設が始まっていた。深刻な交通渋滞を解消するためのものだったが、その工事が大通りの中央部を塞いだために、皮肉にも渋滞は更に激しくなっていた。外の雷雨は強まる一方で、早くホテルに帰りたかったが、タクシーはスカイトレインの工事現場にさしかかったところで、早々と渋滞につかまった。
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 地面を掘り下げる工事が必要だったのか、道路には多数の鉄板が敷き詰められていた。私が乗ったタクシーも、前に連なる多数の車と同様に、その鉄板を踏む形で渋滞の列に並んでいた。外の雷雨はいよいよ激しくなった。

 稲妻が走るたびに夜空が一瞬だけ真昼のように明るくなる、その繰り返しがどれぐらい続いただろうか。ある瞬間、短くて大きな音と全く同時に、細くてまぶしい光の柱がタクシーの左前方1.5メートルぐらいの場所に垂直に立ち、風圧のような力で車体が僅かながら右に傾いた。ほんの一瞬のことで、外は再び夜の闇に戻ったが、私の目の網膜には、その光の柱だけが鮮やかな残像としていつまでも留まっていた。

 それは、私が乗ったタクシーが踏んでいた鉄板に落ちた雷だったのだ。こんなに至近距離で落雷を経験したのは、もちろん初めてのことで、タイ人の運転手も、何が起きたのかを理解した後は震えていた。

 ともあれ、バンコックの雨期の後半とは、こんな風だった。


 タイを襲う過去最悪の洪水のニュースが、連日大きく報道されている。工業団地の冠水は、中部のアユタヤ県だけでなくバンコック近郊でも始まっているという。チャオプラヤ川は既にバンコック中心部でも水位が上がり、観光スポットでの冠水が危惧されている。

 経済産業省の「海外事業活動基本調査」によると、2009年時点で日本企業の海外現地法人の数は世界全体で18,201社あり、その内訳は中国本土:4,502社(25%)、米国:2,663社(15%)、そしてタイ:1,387社(8%)の順である。日本企業にとって、タイは極めて重要な進出先の一つなのだ。

 とりわけ製造業の進出比率が高く、その中でも(自動車などの)輸送機械業は230社と突出している。工業団地での冠水で、今日までに日系の自動車メーカー全社が現地での生産停止を余儀なくされたようだが、それが長期化すれば、サプライ・チェーンには地球規模で大きな影響が出ることだろう。
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 過去最悪と言われるこの洪水の原因は何なのか。巷では以下のようなことが指摘されているようだ。
 ①タイに限らず、今年は東南アジア一帯で例年よりも雨量が多かった。
 ②違法なものも含めた森林伐採が進み、上流での保水能力が低下した。
 ③前年の乾期に水不足だったため、ダムの貯水量を多めにしていたところ、今年は予想外に雨が多く、あわてて複数のダムから同時に放水を始めた。
 ④ダムや運河に堆積した土砂の浚渫が行なわれておらず、貯水量や流水量が低下していた。

 これらのことが重なったというのは、確かにあるのだろう。だが、それに加えて心配なのは、起きてしまったことへの対策が、タイ国内での政争の道具になりつつあることだ。それは、既存の支配層と貧困層との間の所得格差、南北の経済格差などを背景として国民を二分する、タクシン派と反タクシン派の争いである。


 タイは、西欧列強の植民地化をまぬがれて王国の形を守り抜き、独自の文字を持ち、上座部仏教が今も深く根付いた、アジアの中でも極めて特異な歴史と文化を持つ国だ。そして、「微笑みの国」と言われるようにいつもニコニコしながら、決して外国のペースにはまらない、独特の外交術に長けた国という風に語られることが多い。

 だが私の経験からすると、タイの人々というのは、国内で何か対立が起きると、自分たちの中だけの論理がぐるぐると回るばかりで、一たびそうなると、外国からはどう見えるかなどといったことは完全にどこかへ行ってしまう、ちょっと不思議な人たちだ。そしてその過程では、「微笑みの国」と言われる割には結構過激な実力行使に及ぶことが少なくない。

 この何年かを振り返ってみてもそうだろう。’06年の軍事クーデターでタクシン首相(当時)が失脚して以来、この国ではタクシン派(赤いシャツを着た人々、主として農民・貧困層)と反タクシン派(黄色いシャツを着た人々、主として既得権益側)が衝突を繰り返してきた。しかも、抗議運動がエスカレートしてバンコック国際空港を占拠したり、ASEANサミットの会場となったホテルを占拠して国際会議を中止させてしまったり。国内の対立のために敢えて国家の対外的な威信に傷をつけてしまうような行為は、私たちにはおよそ考えられないことだ。
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 私が落雷の洗礼を受けた13年前、タクシン氏は首相の座にあったのだが、私が係わっていたタイの大型開発プロジェクトも見事なまでに政争の材料となり、結局は中止に追い込まれてしまった。プロジェクトの当事者に外国資本があろうがなかろうが、国内対立の図式の中では、それはお構いなしなのである。

 現在のインラック首相はタクシン氏の妹だが、自治体の首長や軍首脳が反タクシン派であるため、今回の洪水への対策を巡る鍔迫り合いで連携がうまくいかず、対応に遅れが出かねない状況であるという。それ以前に、そもそもこれまでの治水対策が充分でなかったのは、前述のような政争が何年も続き、まともな政策が実施されてこなかったことに大きな原因があるのだろう。

 かつて香港に駐在していた間、バンコックへは数え切れないほど出張をしたものだ。休暇の時に家族を連れてタイを訪れたことも少なくない。万事マイペースのあの感じが憎めない、いや、実に愛すべき国で、家内も子供たちもいまだに強い親近感を持ってこの国を見ている。それだけに、今回の洪水による被害の拡大を何とか食い止め、一刻も早い復旧を図って欲しいものである。
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 タイ語の中で日常最も頻繁に使われる単語の一つに、「マイペンライ」という言葉がある。「どういたしまして」という意味で使われたり、「大丈夫」、「気にしない」、「しょうがない」という意味だったり、更には「何とかなるさ」というニュアンスを込めたり、かなり幅の広い使われ方をするようだ。タイ人のメンタリティーを象徴するような言葉といえようか。

 その独特のフィーリングには、私たち日本人にもどこか通じるものがあって、思わずニヤリとしてしまうが、今はこういう時代。「マイペンライ」にも21世紀なりのスピード感を持たせた方が良さそうだ。

拡散する「自由」 [世界]

 このところ、中東・北アフリカ発のニュースが連日トップを飾っている。

 失業中の青年の焼身自殺に端を発したチュニジアの「ジャスミン革命」。そして28年に及ぶムバラク政権をとうとう倒してしまったエジプトの政変。その原動力となった民衆による反政府デモはイエメン、ヨルダンへと連鎖し、今週はその動きが更にバーレーンやイラン、そしてリビアにも波及している。

 携帯電話やインターネットで世界が同時に繋がる時代。今回の反政府デモの連鎖も、twitterやフェイスブック、ウィキリークスなど、ソーシャルメディアの果たした役割が極めて大きいとされる。一昔前ならば相応のスピード感をもって対応すれば当局が封じ込められたようなことも、今ではソーシャルメディアによってそれこそ「人の口に戸は立たない」状態になっている。中国などはこうした新型メディアの検閲に膨大なカネと手間をかけているというから、独裁政権にとっては厄介な時代になったものである。
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 一口に「反政府デモの連鎖」といっても、既に報じられているように、噴出する不満の中味は強圧的な政権の存在から足元の生活改善まで、国や地域によって様々である。チュニジアやエジプトでは大統領の首の挿げ替えになったが、バーレーンのように少数のスンニー派がシーア派の国民を支配する首長国では、デモは君主制という国の在り方自体を揺るがしかねないものだけに、事態はより深刻だ。
 もともと若年層の多い人口構成ながら、アジアの新興国のようには工業化に成功しておらず、若年層の失業率が高い国々である。そこへ、先進国の金融緩和の余波を受けたこのところの食糧価格の高騰だ。不満は溜まりやすいことだろう。

 一方、こういう時になるときまって米国政府が振りかざすのが、「民主化」、「自由」、「人権」といった概念だ。人類共通の理念として地球上の全地域に当てはまるのが当然と言わんばかりだが、実は相手によって濃淡を使い分けている。

 チュニジアで騒ぎが始まった時、米国は最初から民衆蜂起に対してエールを送っていたが、それがエジプトに飛び火すると、米国のスタンスは及び腰だった。イスラエルと和平を結んだ重要な国に「イスラム化」されてはたまらないから、当初はムバラク退陣を必ずしも要求していなかったのだが、ムバラクの強硬姿勢が裏目に出て民衆デモが後戻りできないほどに拡大すると、反ムバラクが反米に繋がることを恐れた米国が慌ててムバラクに手の平を返したのは、誰の目にも明らかだった。

 そして今度はイランで反政府デモが始まり、イラン政府がそれを力で押さえつけようとすると、米国はそれこそ鬼の首でも取ったかのようにイランを非難し、お得意の「民主化」、「自由」、「人権」を叫び出している。それがどれほど胡散臭いものであるかを、自ら世界に知らしめたようなものだろう。要は米国の国益との兼ね合いで使い分けられている「民主化」、「自由」、「人権」に過ぎないのだから。

 イスラムの世界では、「宗教上の戒律」、「社会の規範」そして「世俗の法律」が三位一体なのだとよく言われる。政治と宗教が不可分で、コーランを筆頭とするシャリーアと呼ばれるものを法源にして全ての世俗の法律が定められるという。しかもその法源の中には、イスラム共同体の合意に代わるものとしてイスラム法学者の合意や、コーランに書かれていないことに対するイスラム法学者の判断が含まれるので、いわゆる民主主義の下で代議士を選ぶよりも、イスラム法に詳しい学者によって導かれる社会のあり方を是とすることになりやすい。
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 要は、ムスリムの人々が自分達のイスラム共同体を――それは彼らが理想とする、ムハンマドの死後の「正統カリフ時代」に存在したような共同体では最早あり得ないが――どのようにして行きたいかの問題であり、そこに「民主化」だの「自由」、「人権」だのを振りかざしたところで、ムスリムの人々にとってそれらにどんな価値があるのかは彼ら自身が判断すべきことなのだろう。

 イスラムの世界ではムハンマドが最後の預言者とされる。その彼が神から預かった啓示がコーランなのだから、「最後の預言者」の後に更なる預言者は現れない以上、これから先もコーランが書き換えられることはあり得ない。宗教生活も世俗の政治もコーランに忠実であらねばならないのがイスラムの世界なのだから、コーランに書かれたことだけでは対応できないような問題について、イスラム社会は今後も振り子のように揺れ続けていくはずだ。「原理主義」的な考え方と「現実路線」との対立である。しかしそれは、ムスリムではない人間がとやかく言うべきことではないだろう。

 近代以降、このあたりはイスラム世界の中でも模索が繰り返されてきた。いわゆる「イスラム色を薄める」ことに最も成功しているように見える一つの例がトルコだが、それだってケマル・パシャが革命によってオスマン帝国を打倒して以降、1990年代に民主政権に移行するまでは長く軍政を続けざるを得なかった。その「民主政権」も、イスラム政党が突出しないよう様々な手心を加えた多党制というのが実態なのだろうが、いずれにしてもそれはトルコが自国の歴史を通じて模索してきた方法なのである。世界中にマクドナルドの店があるのと同じような感覚で、世界共通の民主主義の形があるなどと考えるのは、思い上がりもいいところだ。
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 もう一つ、今回の一連の動きを見ながら私にとって引っかかるのは、「ソーシャルメディアによって人々は『自由』を手にした」、「IT革命がもたらした『自由』はもう後戻りができない」というような論調である。ソーシャルメディアは殆どが米国の産物だが、強圧的な政権の国々で、情報発信のスピードや人々にとってのアクセスの良さにおいて、既存のメディアにはない大きな威力を発揮したことは確かだ。

 しかし、それによってもたらされた「自由」とは何だろう。思想信条の自由、結社の自由、言論の自由、大いに結構。しかし、無責任な発言を世界中にばらまくことや、機密文書を勝手に暴露することが「やっと手に入れた自由」なのだとしたら、そんなことをするために人類は歴史を積み重ねてきたのだろうか。

 「『自由』という翻訳語はよくできている。それは自分に理由のあること、自分の行いに他人を納得させるだけの、しかるべき所以(ゆえん)のあることである。すなわち、『自由』とは『自分のしたいことをすること』ではなく、『自分がなすべきだと信じることを、まさになすこと』である。
 『したいことをする』というのは価値ではない。それは単なる欲にすぎない。したいことができるとき、何をするかが問題なのだ。」
 (以下、引用部分は全て、『語る禅僧』 南直哉 著、ちくま文庫)

 そもそも、「人は生まれながらにして自由で、権利において平等である。」ということの根拠はどこにあるのか。

 「こういう能天気なことを言うためには、『神様は人間をそのように造った』というような話にせざるをえない。アメリカの独立宣言に『造物主』が出てきたり、フランスの人権宣言に『至高の存在』が要請されたりするのは実に当然だ。」

 「神様が人間を『生まれながらにして自由と平等』に造ったというなら、生まれた後でそれを制限するものは、根本的にはすべて悪しき妨げにすぎないことになる。これを取り払い、そう遠くない将来、百億に達しようかという人類全部が、『自由と平等』を好きなだけ追求したら、地球が持たないのは必定である。『自由と平等』であろうとした結果破綻するという、馬鹿みたいなことになりかねない。」

 ここに引用した本の著者は、放っておけばこのように際限なく拡大してしまいかねない「神様発の人権」を、「立場」という言葉に置き換えてみることを提唱している。

 「『立場』というのは他人との関係で決まる人の位置である。ならば、その関係はまっとうな理由に支えられ、筋が通ったもので、何よりもお互いに納得ずくでなければならない。それを『道義』という。『自由』に優先するのはこの『道義』である。 (中略) 私に言わせれば、『自由』は所詮、『道義』を実現するための条件にすぎない。」

 「大切なのは『一律平均的平等』ではなくて『公正さ』だと私は思う。条件の違いは当然として、そこに生じる摩擦をいかに合理的に処理し、双方が納得し合うのか、である。
 とすれば、『自由・平等』とセットで言われる、具体的に誰と言わずに漠然と人を愛する『友愛』などという概念は、ほとんどわれわれには使いようのない絵空事である。自分の『愛』が他人の迷惑にならない保障さえないのに。」

 (念のため付言しておくと、この文章が書かれたのは’94年から’97年にかけてである。日本の或る無責任な政治家が「友愛」を掲げたのは一昨年の秋のことであったが・・・。)

 「立場が違い、利害相反する人々にまず求められるのは、無理して『友愛』を衆に施すことではなく、お互いの立場の相違に『寛容』であることだろう。その前提が忍耐である。
 それぞれに立場があることをわきまえて、その間に道義的で公正な関係を、寛容の精神に基づいて辛抱強く打ち立てる──ということは、なにも人間同士だけの問題ではなく、人間の立場を守るため、自然との間でも問われてしかるべきであろう。」

 「かくて私は、社会倫理の考え方として、神様提供の『自由・平等・友愛』に対して『道義・公正・寛容』をもってしたい。それは神様ではなく、自他の関係のあり方を土台にして導かれる、仏教的理念なのである。」
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 長々と引用してしまったが、こういう考え方を、私は支持したい。一神教の世界の人々からは大いに反論があることだろう。だが、限りなく暴走しかねない理念を振りかざしては争いを起こしてきたのは、歴史的に見ても一神教の側にあったのは否定できない事実であろう。

 その一神教の世界で開発された最新の「飛び道具」がソーシャルメディアだ。爆発的な普及と共に、人々が手にした「自由」は際限のないものになり、拡散した「自由」同士がぶつかり合うことになる。そこに「道義・公正・寛容」が用意されていなかったら、その先に待っているのは対立ばかりの世界だ。それが、神様の望むところなのだろうか?

 最新のニュースでは、イスラム教の安息日にあたる金曜日に、バーレーンで反政府デモに対する治安当局側の発砲があったという。今この瞬間も、ソーシャルメディアを通じて膨大な情報が地球上を飛び交っていることだろう。責任ある発言も、そうでないものも一切合財をごちゃ混ぜにして。

 拡散する「自由」に押しつぶされないよう、人間の智慧が求められている。

明日はわが身 [世界]

 4月も下旬だというのに真冬のような寒さと雨が二日続いた後、週末はやっとこの季節らしくなってきた。土曜日の朝、勢いを取り戻し始めた青空に誘われて散歩に出てみると、家の周りにも新緑が確実に増えている。桜並木はすっかり葉桜に覆われ、公園ではハナミズキが一年中で一番美しい姿を見せている。やはりこの季節は青空と新緑のまぶしさが、私達にとって一番のビタミンだ。
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(小石川植物園)

 久しぶりにゆっくりと過ごす土曜日の午前。コーヒーを飲みながら新聞を広げると、目にとまるのは、信用不安に揺れるギリシャがEUとIMF(国際通貨基金)、そしてECB(欧州中央銀行)に対して金融支援を要請したとのニュースである。

 前政権の下で政府の債務について粉飾まがいの取引が行われ、財政赤字額が公表数字を大幅に上回っていたことが昨年の秋に発覚して以来、国際金融市場ではギリシャという国そのものの信用力への懸念が広がっていた。統一通貨・ユーロに加盟する国は、財政赤字をGDP比3%以内にコントロールすべしというルールがある中で、ギリシャの財政赤字(2009年)は13.6%に達した。市場やユーロ加盟国からの圧力に押される形でギリシャ政府は財政赤字の削減策を発表するが、なかなか市場の新任を得られない。いざとなればEUやECBが支援をするかというと、各国の反応も一枚岩ではなく、そこが更に市場の不安を掻き立てる。問題の発生から半年余りを経てギリシャ政府は、国際金融市場における同国国債の安定的な発行が困難になったとして、とうとう緊急支援を要請することになった。
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 学生時代に受けた世界史の授業は、古い方から話が始まるので、古代ギリシアの話は必ず出てくる。(どういう訳か、古代・中世の話をする時は「ギリシア」という表記が使われるようだ。) 紀元前9世紀頃からポリスと呼ばれる都市国家が現れ、地中海各地に盛んに殖民活動を行い、各都市が結束してアケメネス朝ペルシャと戦い、パルテノン神殿が造られ、偉大な哲学者や悲劇作家が登場し・・・。ずいぶんと色々な人名を覚えさせられたものだし、太宰治の『走れメロス』を知らない人はいないだろう。

 だが、紀元前4世紀のマケドニアにアレクサンドロスが登場し、ポリス同士の内戦が始まると次第にギリシア世界は衰退。紀元前2世紀の中頃に古代ローマの属州になると、ギリシアの名前は教科書から消えてしまう。やがて4世紀の終わりにローマ帝国が東西に分裂すると、「東ローマ帝国」がギリシア世界を継承していくが、その中心はあくまでもコンスタンティノープルやアナトリア地方だった。ペロポネソス半島やエーゲ海地域はすっかり影が薄くなってしまい、それから先はどんな歴史をたどったのか、私達はほとんど知識を持ち合わせていないといっていいだろう。

 ペロポネソス半島が再び歴史の教科書に登場するのはもう一度だけ。それも時代が一気に飛んで19世紀の初めである。オスマントルコからの独立を掲げて1821年にギリシャ独立戦争が始まり、列強各国がこれに介入し、1830年にようやくギリシャの独立が国際社会に承認された。そのことだけが載っている。だが、年表を見てみると、ギリシャはその後もトルコとの対立関係が続き、20世紀にケマル・アタテュルクのトルコ革命が起きた時には、領土の拡大を目指してトルコと交戦するも敗北。第二次大戦中は枢軸国側の支配下にあった。

 地政学的にはなかなか重要な位置にあるために、戦後は米国が肩入れし、一貫して西側陣営にあったが、1968年からは軍政が続いた。その軍政が1974年に崩壊すると、そこから先は中道左派(PASOK)と中道右派(ND)の二代政党が、ほぼ交互に政権を担ってきた。(1974年というと私が高校三年生の時で、まだ社会主義が世界の中で元気だった時代。軍政の崩壊と左派政権の誕生を新聞各紙がずいぶんと持ち上げていたのを、今でも覚えている。)

 1989年の秋、私は仕事で役員に随行してアテネを訪れる機会があった。中央銀行の幹部とミーティングを行い、その日はその建物の中で夕食会に招かれたのだが、中層階のバルコニーに立つと、夕闇迫るアテネの街の背後にアクロポリスの丘が広がり、パルテノン神殿がライトアップされていた。なるほど、ギリシャ人のご先祖様は偉大だったと、そう思う他はなかったのだが、それは現代のギリシャという国の姿がいささかみすぼらしく見えたことの裏返しでもあった。

 紀元前の歴史の終焉と共に、ほとんど世界から忘れ去られてしまったような、この地域だけ時計がゆっくりとしか進まなかったようなギリシャ。それはヨーロッパ文明発祥の地であったのかもしれないが、今の姿は「地中海の外れの開発途上国」に近いような、そんな姿であった。実際に、観光業の他にはこれといった競争力のある産業がなく、私の仕事の上でも、この国の外貨繰りは当時からハラハラして見ていたものだ。統一通貨・ユーロが発足した時も、ギリシャはユーロに加盟できるのか、その後も加盟を維持できるのか、という懸念はずいぶんとあったのだが・・・。
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 現在のギリシャは、労働人口の約四分の一が公務員だそうだ。前述の軍政崩壊後にPASOKとNDが政権交代を繰り返す中で、政権を取った側がその都度公務員を増やして行った結果だという。加えて政府の徴税能力が低く、アングラ経済の比率が大きいのもこの国の病巣である。総選挙の年に限って税収が落ち込むというのも奇妙な話だ。本来税金として徴収されるべきカネが総選挙の年に何に使われてきたのかは、推して知るべしであろう。

 1997年のアジア通貨危機の際、IMFの緊急支援を受けたタイ、インドネシア、韓国では、通貨価値の安定のために、金利の引き上げと政府部門の大リストラという荒療治を余儀なくされた。不況下での高金利政策はショックを過度に大きくしたとも言われているが、結果的にアジアの国々は外貨借入による成長路線を大きく切り替え、国内貯蓄の増加、外貨借入の圧縮により、経常黒字の国へと転換していった。それに対して、ギリシャはこれからどのようにして構造転換を図っていくのだろう。

 だがこれは、私達にとって決して他人事ではない。

 歴代の政権によるバラマキによって財政赤字が極端に肥大化している状況は、我国の場合はギリシャの比ではない。財政赤字はGDP比180%を超えており、国の歳出の25%は国債の利払いだ。欧米とは違って日本は国債の殆どを国内で消化しているから問題ないなどという議論があるが、1,400兆円の個人金融資産の内、郵貯や銀行預金を通じて既に大量の国債が買われている。国内の貯蓄で日本国債を支えきれなくなった時、待っているのは通貨安とハイパーインフレ、そして高金利だ。国際金融市場は最も弱いところを突いてくるのである。

 こんな時に政権与党は迷走し、野党第一党は分裂し、誰が責任を持ってこの国のリーダーシップを取っていくのか、我国の政治の混迷は目を覆うばかりである。「この国民にしてこの政治あり」と言う他はないのだが。

 そう言えば、衆愚政治(Ochlocracy)というのも古代ギリシアで生まれた言葉である。

COP15の難航 [世界]

 コペンハーゲンで開かれていた国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP15)が19日に閉幕した。

 日本でCOP15という言葉がマスコミにも頻繁に登場しだしたのは、8月末に民主党政権が誕生し、鳩山首相が9月に国連の場で、「CO2の排出量を1990年比25%削減」という日本の意欲的な目標を(他国が同調するならという条件付きではあるが)提唱した時からだろう。

 地球温暖化対策について、ポスト京都議定書の枠組み作りを目指したCOP15は、先進国と途上国の激しい利害対立の中で当初から難航が予想され、議長国のデンマークは法的拘束力のある新たなプロトコル(議定書)の採択をあきらめ、その代わりに、最終ステージで各国首脳が集まり、(京都議定書の期限となる)2013年以降の国際的な枠組みの方向性を示す「コペンハーゲン合意」の政治採択を目指した。しかし、利害対立の壁は越えられず、「合意」そのものの採択は見送られ、「合意に留意する」という文書の採択へと格下げになった。

 「合意」に法的拘束力は持たせられなかったが、先進国は2020年までの地球温暖化ガスの具体的な排出削減目標を来年1月末までに提示すること、途上国は原則として国や地域ごとの削減行動計画を作ることが求められ、先進国から途上国への支援金額(2010~12年に総額300億ドル、2020年までに年1,000億ドル)などが盛り込まれ、それを会合では、「採択」ではないが「承認」或いは「了承」したと報じられている。

 かろうじて決裂を逃れたと言うべきだろう。「合意」の中には「世界の気温上昇を科学的な見地から2度以内に抑制すること」が骨子の一つとして謳われたが、「世界の温暖化ガスを2050年までに半減」や、「排出量を国際的に監視する仕組み」は、先進国が支援額の上積みを提示しても、途上国の強硬な反対により見送られた。新たな枠組み交渉の期限をCOP16とすることすら受け入れられなかった。COP15の成果はゼロとは言わないものの、この問題について、あらためて国際合意の難しさを世界は痛感したのではないだろうか。それでなくても、各国は世界金融危機からのリカバリーが最優先で、かつてない規模の財政出動で景気刺激策を行ってきた。政府の台所事情は苦しく、何よりも経済成長にブレーキをかけるようなコミットメントはしたくない、というのが本音だろう。

 たまたま私は18日(金)に、或る外資系証券が主催するセミナーで、『民主党発 CO2削減25%の行方』と題する講演を聴く機会があった。講師は三菱重工業出身のエンジニアで、現在は東京大学サステイナビリティ学連携研究機構の特任教授である湯原哲夫氏。前政権では地球温暖化問題に関する懇談会の中期目標検討委員会のメンバーだった方である。

 湯原氏は冒頭で、地球温暖化対策を進めていく上で欠くことのできない三つのポイントを挙げていた。それは、科学性(世界の気候変動との科学的な整合性)、公平性(CO2の限界削減費用が均等化するような、各国の削減目標の公平性)、そして実現可能性(CO2の削減コストが1トンあたり5,000円程度となるような、無理のない対策を中心とすること)だ。これらを踏まえて日本の削減目標を策定すると、それは再生可能エネルギーや原子力の利用を高めて化石燃料への依存率を下げ、化石燃料の燃焼によるCO2排出量を地球の自然吸収能力以下にすることであり、具体的には2030年に(2005年対比で)エネルギー自給率50%、化石燃料依存率50%、エネルギー利用効率50%という「日本のトリプルフィフティ」を実現することだという。そこから導き出される2020年までの中期目標として、2005年比でCO2の10%削減あたりが妥当と計算されるが、麻生政権はここから一歩踏み込んで、「2005年比で15%削減」を打ち出したようだ。

 それに比べると、鳩山首相が国連の場で持ち出した「1990年対比で25%削減」(=05年対比では30%削減)は極めて厳しい目標であり、それを実現しようとすれば、例えば太陽光発電は現在の55倍に拡大し、従来型の自動車は事実上販売禁止となり、新築・既築の全ての住宅を断熱住宅にする必要があり、製鉄・化学・セメント等のエネルギー多消費産業の生産量低下を見込まざるを得ないという。自民党政権当時のブレーンであったから、湯原氏が今の民主党案には否定的であるとは必ずしも自動的には言えないものの、鳩山プランは日本が一人で重荷を背負うことになりかねず、(コストや持続性の観点で)他国がついてこられるものではないという。

 麻生プランでさえ、それを実現するためには2020年までに総額52兆円の社会的負担が必要な計算になるそうだ(その内訳は産業界と家庭で凡そ50:50)。そこでは、CO2削減コストが1トン当たり5,000円以下の対策を積み上げ、原発の稼働率を90%まで上げ、既存のガス火力発電所をエネルギー効率の高い複合火力型に全て転換することが前提になる。(現状、それを阻んでいるバカバカしい環境規制があることが原因だが。)

 世界で最も産業のエネルギー効率が高く、世界で最も高い環境関連技術を持つ日本でさえ、そうなのである。湯原教授によれば、世界全体のCO2排出量を科学的に予測していくと、この先も途上国はどうあっても排出量が増え続け、それがピークを過ぎて純減になるのは2020年代の後半になってからだという。それまではもっぱら先進国が排出量を純減させるしかない。そしてその間にも途上国は先進国からの金銭的な支援を要求する。COP15の議論が紛糾し、新たな議定書はおろか、合意文書の採択もままならなかったことは、驚くに値しないことなのだろう。

 湯原教授の講演は、地球温暖化対策に留まらなかった。今、世界では新たな化石燃料としてのオイルシェールガスや、排他的経済水域の海底に眠る各種鉱物の採掘が脚光を浴びつつあるという。新興国の追い上げの中で、これからの成長に必要な資源の奪い合いが今後世界中で熾烈になっていくのである。
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 あまりニヒルにはなりたくないが、COP15の経過に見る通り、地球温暖化防止に向けた国際的な協力・努力の枠組み作りには、これからも大きな限界があることだろう。その理念は崇高だとしても、一国一票でそれを決めようとする限り、必ず地域や国のエゴに阻まれてしまう。CO2の世界二大排出国である米国と中国がこの問題で一番「横暴」だと言われていることが、何よりの実例である。

 ツバルのような国々には申し訳ないが、海面の上昇が手遅れになり、主要国でも海面上昇で沿海部の水没が始まり、或いは温暖化による気候変動で主要国に深刻な影響が出て大騒ぎになるまで各国は真剣にならず、気がついた時にはもう手遅れ、といったような姿が現実的であるようにも思える。だとすれば、日本は一人でお人よしにならず、しっかりと戦略を練った上で行動していくべきだろう。ボーダーレスの時代と言われるようになった現代においても、国際社会で主権を持って行動できるのは、やはり「国家」という単位なのである。
 

砂上の楼閣 [世界]

 「ドバイ・ショック」という言葉は、後世も語られるのだろうか。

 ペルシャ湾の人工島に幾多の別荘を建てる、「砂上の楼閣」という言葉がそのまま当てはまるような巨大な開発計画を進めてきた中東のドバイで、その開発主体である政府系の「ドバイ・ワールド」が、総額590億ドルにのぼる借入金の返済一時猶予を銀行団に要請した。

 そのニュースが駆け巡ったのは日本時間の11月26日(木)。アジア時間ではさほどの反応はなかったが、欧州市場が明けると、債権額が大きいと見られる英・仏・スイスなどの銀行株が大幅に売られると共に、ユーロと資源国・新興国の通貨が売られた。幸か不幸か、その日の米国市場は感謝祭で休場。そしてアジアの夜が明けた27日(金)、東京市場では急速な円高が始まり、一時は84円80銭まで上昇。ドバイで建設事業を受注していたゼネコン、中東に債権のある商社・銀行などの株式が売られた。そんな市場動向を朝9時半まで見届けて、私は10時の新幹線で大阪へ。私の会社が主催する年金顧客向けのセミナーに、応援要員として向かった。

 アラブ首長国連合(UAE)を構成する一つの首長国であるドバイは、アラビア半島にありながら石油が出ない。そして、石油なしで発展を遂げるために、ドバイは壮大な不動産開発を進めた。世界一の高さを誇る商業ビル、豪華なホテルをはじめとするショッピング・コンプレックス、人工島に建設するリゾート施設の数々・・・。しかも、その開発資金に巨額の借入金を活用する、いわゆる「レバレッジ型」の開発計画そのものだった。
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 眺めといえば海と砂漠、そしてその彼方に忽然とそびえる商業ビル群。そんな人工島に建てられた一戸3億円とも5億円とも言われる別荘を、ロシア人の金持ちが買った・・・というような話を聞かされると、我々日本人としては、「そんな不自然なことが長続きする筈がない」と思わざるを得なかったのだが、案の定、昨年のリーマン・ショック以降、世界の金融システムが機能不全に陥り、今までのようなレバレッジ金融がワークしなくなると、強気のドバイもとうとう資金繰りに窮するようになったのだ。

 そんなニュースが地球を駆け巡った今日、奇しくも当社のセミナーでスピーカーになっていただいたのは、シブサワ・アンド・カンパニー㈱代表取締役の渋澤健 氏であった。米国の大学を出て投資銀行やヘッジファンドの数々を経験し、今は30年先を見据えて投資する「コモンズ投信」を運営している渋澤氏は、明治時代の国立第一銀行の創始者にして「日本資本主義の父」と呼ばれる、あの渋澤栄一の五代目直系の子孫である。私よりも5歳若い方だ。渋澤健氏のことについては改めて書きたいと思っているが、『論語と算盤』に象徴される渋澤栄一の経営倫理をDNAのように継承する、立派な方である。セミナー終了後の懇親会の場で個人的に話をさせていただいたが、輝かしい血筋と経歴にもかかわらず、とても折り目正しく謙虚で誠実なお人柄が表れていた。
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 物事を解剖学的にパーツに分解して考え、西洋医学的に対象療法を優先し、トータルの合理性を追求する、そういう「機械論」的なアプローチとは対照的に、物事全体を一つのものとして捉え、東洋医学における「気の流れ」のようにパーツとパーツの繋がりを重視し、ある程度の矛盾や無駄も容認する「生命論」的なアプローチ。投資の世界もこれからは生命論の時代だ、という渋澤氏の提言から見れば、ドバイが推し進めたようなレバレッジ型の開発、更には米国が謳歌してきた金融資本主義の在り方は、その対極にあるものだろう。

 「ドバイ・ショック」の日に渋澤さんにお目にかかった、この不思議な巡り合わせに感謝したい。

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