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89歳の雄姿 [鉄道]


 8月27日(日)午前9時26分、東武鉄道の特急「りょうもう3号」は、定刻通り新桐生駅に到着した。この駅で下車したのは私を含めて十数名ほど。その一団がホーム中ほどの階段を下りて線路を潜り、反対側のホームに上がって改札口を出てしまうと、二面二線のホームは特急停車駅とも思えない静けさに包まれた。
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 8月最後の日曜日。昨日まで数日間の暑さをもたらした太平洋高気圧が少し南に後退し、今朝の関東地方は涼しい風を送ってくれる中緯度帯の移動性高気圧に北から覆われている。今朝早く東京を出て来た時のどんよりとした空に比べると、群馬県桐生市の空はいわゆる高曇りで、一部には青空ものぞいている。そして東京よりも晩夏の緑が鮮やかな一方で、りょうもう号の車中から眺めた田んぼには僅かながら黄味が掛かっていた。目の前のことに一喜一憂してばかりの私たちの暮らしとはちがって、ゆっくりと、しかし着実に、季節はその歯車を進めているようである。

 今年の4月下旬に膵臓の約半分を切除する手術を私が受けてから、一昨日でちょうど4ヶ月が経過した。先月一杯までは何しろ「術後の養生」を最優先にせざるを得ず、体調の管理に随分と苦心することが続いていたのだが、8月のお盆に入る少し前頃からは、まるで小川を一つポンと飛び越えたように、それが明らかに楽になった。食欲もかなり回復し、体を動かすことも億劫でなくなって来たのである。自分の体にとっては、病院から処方されている錠剤だけではなく、やはり「時の経過」そのものも薬なのだろう。

 先週の経過観察でも、主治医から「暑さを上手く避け、水分をしっかり補給しながら運動を心掛けてください。」と言われていた。そうであれば今日の日曜日は少し遠出をして歩き、久しぶりに「乗り鉄」&「撮り鉄」に興じてみよう。幸いにして今日は暑さが一服し、適度な曇で日差しが柔らかいのが何よりだ。

 降り立った東武桐生線の新桐生駅は、実は桐生市の中心部からはだいぶ離れている。群馬県の太田駅と赤城駅を結ぶこの路線は、1911(明治44)年に開業した藪塚石材軌道という、石材を運ぶための人車軌道としてスタートしたのだった。要するに芥川龍之介の短編小説『トロッコ』に出て来るような、人夫が車両を押して動かす軌間610mmの細々としたものだったのである。それが同年に太田軽便鉄道へと名前を変え、2年後には東武鉄道が買収。既に開業していた東武伊勢崎線と同じ軌間1067mmへと改軌されて東武桐生線になった。

 桐生という街は絹織物の名産地として古来その名が全国に通っていたが、石材軌道という生い立ちからすれば、この鉄道が桐生の中心地を敢えて通る必要もなかった訳だ。従って、今日の私は桐生の街中にある最初の目的地まで、この駅から3キロの道のりを歩かねばならない。
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 新桐生駅前から緩やかに下る一本道を歩いて行くと、1キロ弱で渡良瀬川の橋を渡る。広々とした河原を眺めつつ、川の上流方向に目をやると、本来ならばそこに見えている筈の赤城山は残念ながら雲の中だ。それでも、街の周囲を取り巻くポコポコとした山々や河原の緑を眺めていると、遠くへやって来た気分になる。
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 橋を渡り終えてからもせっせと歩き続ける。目的地まであと2キロ。そこに10:20頃迄には着いておきたいから、それなりの速度で歩く必要がある。やがてJR両毛線の高架をくぐり、最初の交差点を左折して300mほど進むと、左手にJR桐生駅の駅前広場。その交差点を今度は右折して更に200mを歩くと、ようやくお目当てのレトロな建物が現れた。上毛電鉄西桐生駅である。
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 1928(昭和3)年11月の開業以来の姿をそのまま残すこの駅舎。マンサード屋根と呼ばれる形状の屋根を持つ洋風建築で、今や国の登録有形文化財なのだ。一度訪れてみたいと、ずっと思っていた。

「西桐生驛」という文字が今どき右から左へと書かれ、しかも「駅」の旧字が使われている。壁に貼られた一枚の紙は今日の臨時列車のダイヤをマジックで手書きにしたもので、そのシンプルさがいい。
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 そして駅舎の中に入ってみると、そこには子供の頃に見た田舎の駅のような佇まいがそのままに。自動券売機はもちろんあるが、改札口ではもしかしたら今でも硬券の切符を売っているのではないかと思うほどだ。(因みに上毛電鉄はSUICAやPASMOには対応していない。)
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 改札口の横からホームを覗くと、昭和の匂いを濃厚に残す小さなホームでは、かつて京王井の頭線で使われていた電車が客扱いの開始を待っていた。
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 おっと、こうしてはいられない。先ほどの貼り紙にもあった当駅10:27着の列車がもうすぐやって来る。私は駅裏の道を100mほど進み、遮断機のない小さな踏切の前でカメラを構えることにした。

 待つこと数分、次の踏切の警報器が鳴り始め、列車の走る音が線路から伝わって来る。そして、緩い左カーブを切り終えて姿を現したのは、上毛電鉄の名物・デハ101である。
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 これも西桐生駅の駅舎と同様、昭和3年の開業以来の「永年勤続者」。実に89歳なのだ!定期運行こそ10年前から外れてはいるが、普段からきちんと動態保存されていて、こうして年1回のイベントの日にはその雄姿を見せてくれる。今日の私のお目当てはこれだったのである。

 写真を撮り終えて駅に戻ってみると、そのデハ101に乗って来た子供連れや「鉄五郎」たちで駅舎の中は一転して賑やかになっていた。中央前橋方面からやって来た彼らの多くは、この駅で折り返しになるデハ101にもう一度乗車するのだろう。どうせそれは大混雑になるだろうから、私は一本早い電車に乗ることにして、彼らよりも先にホームに入る。その時にデハ101の窓から車内の様子をちょっとだけ撮影してみたのだが、昭和3年製造当時の様子が実にきちんと保存されていることに驚いた。
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 そういえば、私が子供の頃に東京近郊の青梅線や南武線、鶴見線などでまだ頑張っていた「旧型国電」も、基本的にはこういうスタイルだったな。天井にエアコンがない時代のレトロな照明がとても懐かしい。

 10:46発の電車にて西桐生を出発。かつて井の頭線を走っていた京王3000系の電車は、1962(昭和37)年から1991(平成3)年まで製造された車両だから、私などには子供の頃から馴染みのあるものだ。井の頭線からの引退後は地方私鉄に多数譲渡されていて、松本電鉄(現・アルピコ交通)上高地線を走る電車もこれである。ここ上毛電鉄では車内のデコレーションも手作り感に溢れていて、私が乗った車両は夏の縁日のような飾りつけが楽しかった。
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 西桐生を出て三つの駅に止まった後、上毛電鉄の電車がわたらせ渓谷鉄道(旧・国鉄足尾線)をオーバーパスすると、左から東武桐生線の線路が近づいて来る。そして間もなく到着する桐生球場前駅から赤城駅までの約2キロは、上毛電鉄と東武桐生線という二つの私鉄の単線鉄道がまるで複線のように並走するという、全国でも極めて珍しい姿を見ることが出来る。(どっちも列車ダイヤが少ないから、実際に両社の電車が並走するようなことは滅多にないのだろうが。)

 赤城駅を過ぎると車窓の眺めはローカル色を強め、のどかな風景が続く。そして、11時21分に大胡(おおご)という駅に到着。この沿線では枢要な駅で、ホームの西側(中央前橋方)は引込線によって車両工場と繋がっている。その木造の車両倉庫と大胡駅の駅舎は、これまた国の登録有形文化財なのだが、デハ101の臨時運転が行われる今日は、この車両工場も一般向けに開放されているのだ。これを見に行かない手はない。
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 駅舎を出て徒歩一分のところになる車両工場。中は既に多くの子供連れと私のような中高年の鉄五郎たちで賑わっていた。このようなイベントにはこれまでにも幾つか参加しているが、やはり地面の高さからローアングルで目の前の鉄道車両を見上げると、私などは妙に心を揺さぶられてしまう。幼い頃、夏の間に母の実家に長く逗留していた時、祖父母に連れられ東海道本線の線路端から目の高さで列車の通過を飽きることなく眺めていた、そんな遠い記憶が甦るからだろうか。
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 何にせよ、間近に鉄道に触れられるというのは楽しいものだ。予定している電車が来るまでの一時間ほど、私は車両工場滞在を満喫させていただいた。そしてここでも、臨時運行のデハ101に再び出会った。
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 桐生に初めて鉄道が通ったのは1888(明治21)年11月のこと。私鉄の両毛鉄道が小山・佐野・足利・桐生を結んだのだ。それが翌年には前橋まで伸びた。その両毛鉄道は1897(明治30)年に私鉄の雄・日本鉄道に譲渡され、更に1906(明治39)年には鉄道国有化の対象となる。言うまでもなく、これが現在のJR両毛線である。古くから生糸や絹織物の産地であった北関東では、東京・横浜に物資を運ぶための交通インフラ建設のニーズが明治の早い段階からあったということなのだろう。

 然しながら、小山から桐生まで来た両毛線は、その桐生と並んで古くからの絹の産地であった伊勢崎を経由して前橋へ向かうために、桐生から西は大きく南へ迂回するルートになり、赤城山麓の住民にとってはメリットがなかった。そこで、桐生と前橋を真っすぐに繋ぐ鉄道路線の建設が地域の有志らによって構想され、1928(昭和3)年の開業に漕ぎつけたそうである。
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 当初のプランでは、現在の西桐生・中央前橋間だけではなく、車両工場のある大胡から南へ、伊勢崎を経て埼玉県の本庄で高崎線に接続する路線も建設することにしていたそうだが、そこは環境が許さず、工事の着工もなかった。大正時代に作られた意欲的な鉄道建設のプランが昭和の初めの金融恐慌のために潰えたというのは、日本各地でよくあった話なのだ。

 大胡から再び乗車した上毛電鉄の電車は、赤城山麓の広々とした景色の中を走り、20分足らずで終点の中央前橋駅に到着。ここは89年前の姿そのままの西桐生駅とは異なり、開業当時の駅舎は米軍による空襲で焼失。その後、昭和40年代に建てられた駅ビルも老朽化のために取り壊され、平成12年に現在のガラス張りの駅舎になった。
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 だが、上毛電鉄の中央前橋駅からJRの前橋駅までは南へ1キロほど歩かねばならない。「中央前橋」と言うからには、歴史的には先に開業したJR前橋駅(=両毛鉄道の前橋駅)よりも前橋の中心街に近い立地であったのか(今の中央前橋駅周辺の様子からは、とてもそうとは思えないのだが)? そして一方のJR前橋駅周辺も、県庁所在地のJRの駅とは思えないほど閑散としており、1キロの道のりを歩く間にも閉店したままの店が多いことに驚いてしまった。
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 確かに、JR両毛線も上毛電鉄も共に単線鉄道で30分に1本程度の列車ダイヤだから、県庁所在地を走る鉄道としては些か寂しいものがある。それでなくても自動車メーカーの工場が数多く立地し、全国でも有数のクルマ社会と言われる群馬県。新幹線のある高崎との距離は10キロほどのものなのだが、前橋の苦戦は続きそうである。

 その前橋駅の高架のホームから高崎行の両毛線の電車に乗ると、地上を走っていた上毛電鉄とは違って窓の外の眺めが良い。電車が利根川を渡る頃、それまでは中腹から上を雲の中に隠していた赤城山の輪郭が見えるようになり、そのまま目を西側に転じていくと、子持山や榛名山の山並みが続いている。いつかまた上毛電鉄を訪れる時には、今度は冬晴れの日を選んでみようか。「赤城下ろし」は寒そうだが、そんな季節だからこそ出会うことが出来る凛とした山々の姿を眺めてみたいものだ。

 13:20に高崎駅に到着。家族へのお土産に「鶏めし弁当」を買い求め、上野東京ラインに乗車。電車を乗り換える赤羽までの1時間半の間、グリーン車の二階席で昼寝を決め込むことにしよう。術後4ヶ月にして初めての遠出。良く歩き回ったが特に疲れも感じず、幸い胃腸にも全く問題は起きなかった。そしてそのおかげで、初めて訪れた上毛電鉄沿線のあれこれを私なりに楽しむことが出来たのは何よりだった。

 やはり、乗り鉄はしてみるものである。

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会津・上越 各駅停車 (4) [鉄道]


 2016年10月1日(土)、出張の帰りの日。会津若松を朝6時に出て足掛け4時間43分の「只見線の旅」を楽しんだ私は、上越線・小出駅のベンチに座り、上りの普通列車を待っていた。未明から続いていた小雨が上がったばかりで、遠くの高い山々にまだ雲がかかっている。上越線のこの区間は1時間に1本のダイヤ。駅構内はいたって閑散としている。

1732M (11:10 小出 → 12:43 水上)

 11時9分、長岡発・水上行きの普通列車が定刻に到着。二両連結の電車の座席は7割ほどが埋まっている。数えるほどの乗降客が入れ替わり、11時10分に発車。非電化の只見線を走ってきたキハ48に比べれば、VVVFインバータ制御のE129系電車の走りはさすがに軽快だ。

 小出を出発して二つ目の駅が浦佐。東京へ早く帰るならここで(或いは越後湯沢で)上越新幹線に乗り換えればいいのだが、私はそのまま普通列車に乗り続ける。それには理由があった。(そもそも会津若松から東京に早く帰りたいのであれば、只見線経由などにはしないものだ。)

 「長岡発・水上行きの普通列車」とサラッと書いたが、それは上越国境の山々を清水トンネルで越えて行く列車である。そして、上越新幹線が間もなく開業33周年を迎える中、戦前に建設された清水トンネル(下り線は昭和42年開通の新清水トンネル)を走る在来線の定期列車は、今や1日5往復しか設定されていない。その「希少」というべき列車に27分の接続で小出駅から乗れたのだ。今日は土曜日。急いで東京に帰るニーズも特にないならば、この電車を途中で降りてしまう手はない。私自身にとっても、在来線で上越国境を越えるのは33年ぶりのことになる。
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 その浦佐駅では、雨上がりの雲が八海山や越後駒ヶ岳をまだ隠している。よく晴れていれば、進行左手の窓の外にその姿が大きく見えていた筈だ。
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(浦佐駅付近からの眺め。左が越後駒ヶ岳、右が八海山)

 東西に迫る山々の間に形成された平地を辿りながら、列車は魚野川を遡るようにして走る。その平地の幅は一駅ごとに狭くなり、一段と山が迫るようになった所が越後湯沢だ。列車はここで9分間の停車。かなりの乗客が降り、これから始まる山越えの区間を乗り続ける人々は1両あたり20人程度になった。
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(越後湯沢駅に到着したE129系)

 私が中学・高校を過ごした1970年代に、上越線には「新潟色」という塗装を施された電車が走っていたものだった。朱色と山吹色のツートンカラーに塗られた旧型国電で、車体も塗装も首都圏では見かけない物珍しい存在だったのだが、現在のE129系電車に施された二色のラインが、その伝統をさりげなく引き継いでいる。
http://rail.hobidas.com/kokutetsu2/archives/2011/10/70.html

 ホームの南端に立つと、いよいよこれから越えていく上越国境方面の山々が行く手に続いている。もっとも今見えているのは、本当の上越国境(谷川岳や茂倉岳など)から見てまだ前衛の山々に過ぎないのだが。
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 越後湯沢を出た普通列車が関越自動車道を潜るあたりが岩原スキー場前駅。その直ぐ先に、線路がかなり急な右カーブで綺麗な半円を描いて行く場所がある。
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 一見すると、田んぼの中をわざわざ遠回りしているようなのだが、地図ソフトで調べてみると、この半円形の始めと終わりの標高は後者が30mほど高い。それを直径約800mの半円形で上るのだから、計算してみると23‰ほどの急勾配である。この区間の開業は清水トンネルと同じ昭和6年だが、上越国境に向かって標高を上げて行くためにはこうしたループが必要だったのだ。

 越後中里を過ぎて再び関越自動車道の下を潜ると、下り線の線路が右手に分かれて行く。下り線は戦後に作られたルートで、私が乗っている上り線が昭和6年開業時のルートだ。それは右回りのループ・トンネルで標高を稼ぐ「松川ループ」と呼ばれるもので、列車に乗っていてもそれがループ・トンネルであるかどうかは実感しにくいのだが、地図を調べてみると、二つのトンネルの入口と出口では70m強の標高差がある。
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(松川ループ)

 その松川ループを過ぎて土樽駅に到着。新潟県最南端の駅で、その先にはいよいよ国境の清水トンネルが待っている。

 12:10 土樽駅を発車。速度を上げて列車は清水トンネルに進入。それまでの急カーブの箇所とは違って、真っ直ぐに掘られたトンネルの中を列車はぐんぐんと加速して走っていく。1922(大正11)年に着工し、9年の歳月をかけて1931(昭和6)年に開通した全長9,702mの清水トンネル。前後の土樽駅も土合(どあい)駅もトンネルの入口の直ぐ近く。列車はちょうど10分間でこの区間を走り抜けた。
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(清水トンネルの断面図)

 12:30 群馬県側の土合駅に到着。ここは上り線だけが地上ホームで、下り線のホームは戦後に建設された新清水トンネルの中の地下ホームになっている。谷川岳を目指す登山者たちが、この地下ホームから500段近い階段を上る姿がかつては有名だったのだが、土合駅を通る列車の数が激減した今は、この駅を利用する登山者も少ないようだ。
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(土合駅上り線ホーム)

 私も高校時代に冬の谷川岳へ行った時、夜行列車を降りて延々とこの階段を上った経験があるのだが、その時以来の土合駅。今日の上り線ホームでは一日5本の希少な列車を目当てに、鉄ちゃん達がカメラを構えていた。
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(谷川岳の東の麓にある土合駅)

 土合駅を過ぎて、まだもう一つ見どころが残っている。次の湯檜曽(ゆびそ)駅へと降りて行く際に通る「湯檜曽ループ」だ。土合駅を出て直ぐにトンネルがあり、その次のトンネルを出ると、進行右下に湯檜曽川の深い谷がかなり低い位置に見える。そのまま注目しよう。しばらくするとその谷底に、私たちが乗っている電車とは直角方向に谷を渡る線路が見える。実はそれがこの先の私たちのルートで、谷を渡ったところが湯檜曽駅なのだ。
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(土合から湯檜曽へ)

 列車はほどなく第二湯檜曽トンネルに入り、一度外に出た後、直ぐに第一湯檜曽トンネルに進入。この区間が一体となってループ線を形成し、先ほど見たように、このループ線に入る前の場所の真下に、それまでの進行方向とは直角に出るのである。ループの前後の標高差は凡そ46m。そうやって到着した湯檜曽駅のホームから線路の方向を見上げると、先ほど通って来たループ線の直前の地上部分が見えるのではないだろうか。(そんな暇もなく列車は直ぐに出発してしまうのだが。) なお、下り線の湯檜曽駅は、土合駅と同様に新清水トンネルの中に設けられた地下ホームになっているため、こうしたループ線を楽しむことは出来ない。
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(湯檜曽ループ)

 「国境のトンネルを越えると雪国であった。」という小説の書き出しとは逆方向に上越国境を越えて来た今日の乗り鉄。山の向こうとこちらで劇的に天候が変わることもなく、群馬県側も曇り空で高い山は雲に隠れている。そして、定刻の12:43に終点の水上に到着。反対側のホームには15分で接続する高崎行きの電車が待っていた。
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(水上駅)

740M (12:58 水上 → 14:01 高崎)
4835Y (14:14 高崎 → 15:53 池袋)

 水上から先は、山の中から関東平野へと降りて行くルートである。晴れていれば車窓から武尊山、赤城山、榛名山などの山々の姿を楽しめたのかもしれないが、今日は曇り空で、渋川の近くの子持山(1296m)の一角が辛うじて見えた程度だ。今日の乗り鉄のハイライト部分が終わってしまったことや、朝6時から列車を乗り継いで7時間を超えたことから、高崎行きの電車の中で、私は少しウトウトしてしまった。座席に座り続けてさすがにお尻も痛い。高崎で湘南新宿ラインの特別快速に乗り換えた時には、グリーン車に席を取ることにした。
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 会津若松から只見線・上越線を経由して池袋まで、6本の普通列車(含:只見線の代行バス)を乗り継ぎ、9時間と53分をかけた今日の乗り鉄の旅。いや、正確にいえば前日も郡山から会津若松までは磐越西線の普通列車に乗って来た。我ながら、「各駅停車」と名付けたこのブログの本領発揮といったところだろうか。

 子供の頃から列車の車窓を眺めるのが好きだった私の人生。還暦を過ぎた今も、「三つ子の魂」はなかなか抜けそうにない。

会津・上越 各駅停車 (3) [鉄道]


 会津若松を朝6時に出る只見線の始発列車に乗り、2時間と4分をかけて会津川口までやって来た、今日の乗り鉄の旅。ここからいよいよ核心部へと入って行く。会津盆地で降っていた軽い雨はいつしか止んで、只見川の深い渓谷の中にある会津川口では、曇り空ではあるものの薄日も射してきた。

代行バス423便 (08:15 会津川口 → 09:05 只見)

 会津川口駅の小さな駅舎の改札を出ると、駅前に一台のマイクロバスが待っていた。
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 只見線の会津川口・只見間は田子倉ダムの建設のために敷設され、1957(昭和32)年から1961(昭和36)年までの間、電源開発㈱専用の貨物線として使われていた。そしてダムの完成後に路線の改良工事が行われ、1963(昭和38)年から国鉄・会津線の一部になったという戦後の歴史を持っている。

 ところが、2011(平成23)年7月の新潟・福島豪雨では、特にこの区間が甚大な被害を受けて今もなお不通が続いており、マイクロバスが同区間の旅客輸送を代行しているのだ。今朝の乗客は地元のお年寄りが一人の他は、私ともう一人の乗り鉄の計3名だけ。結構しっかりとしていて綺麗な車両で、何だか申し訳ない感じだ。しかも、そのお年寄りはわりと直ぐに降りてしまった。

 女性ドライバーの運転で、只見線に並行する国道252号線を走り出した代行バス。会津川口を出てわりと直ぐに、鉄橋の一部が落ちたままの只見線・第5只見川橋梁が右手の窓の外に見えた。続いて本名ダムを渡るところで、同様に第6只見川橋梁が途中から崩落している姿が左下に現われる。
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 東北の大震災があった年の7月下旬、例年なら梅雨明けの声も聞こえてくる頃に梅雨前線が新潟県付近に停滞し、日本海から雨雲が次々に流れ込んで、新潟・福島両県の境になる山間部では記録的な大雨となった。7月28日には只見で一日に134ミリ、会津川口を含む金山で204ミリ、続く29日には只見で実に439ミリの雨が降ったのだ。只見川の最も上流でこれだけの豪雨になれば、下流に大きな影響が出るのは必然というものだろう。只見線では3つの橋梁が流失し、多くの箇所で路盤が流出することになった。
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 「河川法で川砂利の採取が厳しくなってから、只見川の川底が浅くなり、大雨が降ると川の水位が上がりやすくなっていました。そこへあの豪雨ですからねえ。」
 「あの時は上流のダムが満水になってしまい、それでなくても水位が上がっていた川に放水せざるを得なくなりました。他にどうしようもなかったんでしょうけれど、それが水害の一因になったという思いが、地元にはありますね。」

 ドライバーが語ってくれる当事の様子は、目の前の車窓風景からはなかなか想像がつかない。
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(第8只見川橋梁。川を渡るのではなく川と平行に架けられた珍しい橋梁だ。)

 JR東日本はこれまでの復旧費用と崩落した橋桁の撤去に28億円を既に投じたとしており、不通区間27.6kmを「仮に復旧するならば更に85億円の費用と約4年の工期が必要」との数字を2016年6月に示している。しかも、そうした費用を投じて鉄道を復旧させたとしても、列車運行のための直接的な経費が年間2.8億円、固定資産税や減価償却費を加えると年間3.35億円の経費になるのに対して、この区間で得られる運賃収入は年間僅か5百万円に過ぎず、毎年3.3億円の赤字が積み上がって行くという。

 従って同社は、復旧費とその後の運営費について、「鉄道復旧のためには、『上下分離方式』も含めた負担のあり方の検討が必要」という論旨のペーパーを、福島県主催の「只見線復興推進会議検討会」に提出している。とはいうものの、今後一層の過疎化と高齢化が目に見えている中で、地元自治体としてもこんな金額規模の復旧費と毎年の運営費を負担していくことは現実的ではないだろう。
http://www.jreast.co.jp/railway/pdf/20160618tadami-1.pdf

 それでも、JRが赤字ローカル線を存続させることの大義名分として、「冬場の積雪で代替の交通手段がない場合」という理屈がこれまでにはあった。豪雪地帯の道路の除雪は大変だが、ラッセル車などの設備を持つ鉄道は比較的雪に強いとされていたのだった。

 「今は真逆なんですよ。道路は昔より整備されてトンネルもあり、除雪車も頻繁に来るようになりました。大雪になると、今は只見線が運休になることの方が多いんです。」

 ドライバーの話を聞きながら、国道252号線の沿線風景と、その中に細々と残る、列車が走らなくなって久しい只見線の築堤や高架橋などを眺めていると、この区間の鉄道の復活には限りなく高いハードルがあると考えざるを得ない。現に今日だって、この代行バスに終点まで乗っているのは私も含めて二人の物好きだけなのだ。
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 会津川口から30km弱の道程を走り、9時過ぎに只見駅前に到着。ここで9:30発の小出行きの列車を待つ。それが出てしまうと次は6時間後というのもなかなかのものだ。何しろ一日3往復の列車しかない只見・小出間。浅田次郎の小説『鉄道員(ぽっぽや)』に出て来る「幌舞線」が、確か一日3往復という設定だった。北海道・石勝線の夕張支線(南夕張⇔夕張)だって一日5往復なのだ。これは「超」が二つぐらい付くローカル線という他はない。
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(只見駅の時刻表。上りはなく、下り列車が一日3本だけ。)

2423D (09:30 只見 → 10:43 小出)

 町の北側に迫る山の縁(へり)に設けられた只見駅のホーム。一本だけの島式で簡素なことこの上ない。いかにも秘境という感じの駅だ。
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(信号機の向こうは草が生い茂る不通区間)

 二両連結のキハには、合わせて10人ほども乗っていただろうか。定刻にホームを離れると、程なく田子倉トンネルに入った。

 これから列車が走るルートは、ここまでの会津側とは全く別の歴史を持って建設されて来た。まず、1942(昭和17)年に小出・大白川間が只見線として開業。これは軍事上の要請で、耐火煉瓦の原料となる硅石を大白川から運ぶための鉄道であったそうだ。それが、戦後になって田子倉ダムの完成後に只見と大白川を結ぶ約6.4kmの長大な六十里越トンネルが建設され、1971(昭和46)年に会津側の会津線と鉄路が繋がることになる。その時から会津若松・小出間の全線が只見線と呼ばれるようになった。
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 列車が田子倉トンネルを出て六十里越トンネルに入るまでのごく短い時間だが、左側の窓から田子倉ダムを眺めることが出来る。
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 そしてまた直ぐに闇の中へ。六十里越トンネルが貫く山の尾根は福島・新潟両県の県境であり、阿賀野川水系と信濃川水系との分水嶺にもなっている。その長い闇を抜けると、左の窓の下を流れる沢は列車の進行方向、即ち越後側に流れていて、分水嶺を越えたことを実感する。

 それにしても・・・と改めて考える。1922(大正11)年制定の改正鉄道敷設法において、「福島県会津柳津ヨリ只見ヲ経テ新潟県小出ニ至ル鉄道」が確かに予定線の一つに定められていた。けれども、長さ6.4kmに及ぶ六十里越トンネルを建設しない限り、これは実現しなかったルートだ。この新潟・福島県境の山を越える交通ルートを作ることは、実際にどれほどのニーズに基づくものだったのだろう。「六十里越」という言葉の通りに、人々は昔から長い山道を越えて行き交っていたのだろうか。

 それぞれ別々の目的と歴史を持って建設されてきた会津若松・只見間と小出・大白川間の鉄道。長大な六十里越トンネルの完成によって1971(昭和46)年に両者が繋がった時、皮肉なことに福島県側でも新潟県側でも人や物資の輸送ニーズはピークを過ぎていた。既に1966(昭和41)年から赤字決算を続けていた国鉄にとって、全線開通の時から只見線はお荷物になり続けたのである。

 新潟県側に出てみると、窓から外を眺めた印象だけだが、トンネルの向こうの只見や会津とは少し風土が違うのかなと思う。深い谷の中の風景ではなく、それなりの平地の向こうに高い山が見えている。入広瀬の駅からは、町並みの背後に守門岳(すもんだけ、1537m)が聳えていた。
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 列車が進むにつれて平地は広くなり、今度は南の方角に高い山々の姿がある。越後駒ケ岳(2003m)は残念ながら雲の中だが、八海山(1778m)のピークはしっかりと見えていた。
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 やがて列車は関越自動車道をくぐり、ゆっくりとした左回りで魚野川を渡って、定刻通り小出駅に到着。会津若松から4時間43分をかけて、遂に只見線を走破することが出来た。

 上越線との乗換駅だというのに、小出は何とも寂しい駅だ。町の中心部とは川を隔てているからか、駅前には何もなくて、構内にも飲み物の自販機とトイレぐらいしかない。ホームで上越線の列車を待っているのも、ほんの数人だ。もっとも、こんな風に閑散とした風景に出会えるのが乗り鉄の妙味ではあるのだが。
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(小出駅に到着した只見線のキハ)

 ともかくも、只見線の旅は無事に終わった。しかし、ここまで乗り鉄をしてきた今日の私には、まだもう一つ目的が残っている。
(To be continued)


会津・上越 各駅停車 (2) [鉄道]


 10月1日(土)午前5:50、会津若松駅の4番ホームはひっそりと朝を迎えていた。

 まだ薄暗いホームを照らす寂しげな灯り。そのホームの向こうへと真っ直ぐに伸びていく単線鉄道のレールと、そこから分岐していく支線の数々。そして彼方に黒々と続く見知らぬ形の山並み・・・。一人旅にはこんな光景が似合っている。
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 ホームにはディーゼル・エンジンを重々しく響かせる二両連結のキハ。只見線の会津川口行き始発列車で、乗客は一両に4~5名。私は先頭車両中ほどの右側のボックス席に居場所を定める。前の座席に足を投げ出し、カメラを点検。デイパックに入れて来た「鉄道地図」を膝の上に。窓側の席から外を眺め続ける「乗り鉄」の長い一日が始まろうとしている。
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423D (06:00 会津若松 → 08:04 会津川口)

 定刻の午前6時。ディーゼル・エンジンが一段と唸りを上げて、ゆっくりと動き出す。爽やかな青空の下、秋の陽がたっぷりと降り注いだ昨日からは天気が変わり、今朝は会津若松の町並みが軽い雨に煙っている。

 昨日の午後は会津若松で仕事上の用事をこなし、夜はその流れで大宴会。殆どの人たちとは初対面だったのだが、最初からうちとけてしまい、地元企業から差し入れていただいた会津の銘酒の数々が片っ端から空瓶に。今朝はその酒が若干残っていなくもないのだが、これから「乗り鉄」をするんだと思えば大丈夫。週初から仕事の忙しい日々が続いたことも忘れて、今日は列車の旅を楽しむことにしよう。
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(会津盆地を大きく南へ迂回する只見線)

 会津若松を出た後、只見線はしばらく南下を続け、会津盆地を右回りでほぼ半周するようなルートを走る。只見方面を目指すにはずいぶんと遠回りで、どうしてこんなルートになったのか。一級河川の阿賀川を渡り、只見線の駅としては会津盆地の一番南に位置する会津本郷駅付近では、天気が良ければ北方に磐梯山や飯豊山を眺めることが出来るはずである。
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(只見線・会津本郷駅付近からの展望を再現)

 会津盆地を半周し、途中8つの駅で地元の高校生たちを少しずつ乗せて、8:36に会津坂下(あいづばんげ)駅に到着。7分停車の間に上り列車と交換する。ここが只見線のルート上では会津盆地の北西の端になり、あたり一面の田の風景ともここでお別れだ。昨日の午後から楽しんできた、秋の実りの美しい風景。その会津が戊辰戦争ではなぜあのような悲惨な目に遭わねばならなかったのか。歴史は時として理不尽なことがあるものだ。

 会津坂下を出た列車は進路を西に変え、ちょっとした山の尾根をトラバース状に左カーブで越えていく。それなりの勾配があるようで、キハはゆっくりと走るのだが、そのトラバースで尾根の反対側に出たあたりの森の中にあるのが、塔寺(とうでら)という無人駅だ。
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(会津坂下を出て只見川の渓谷に近づいていく只見線)

 一見したところ、近辺に民家は全く見当たらず、いったいどんな人が利用する前提でこの駅が設けられたのだろう。更には、列車が動き出してから気がついたのだが、ホーム上の小さな待合室に「熊出没注意」という貼紙が。それも、
 「ホーム付近にも出没しています。見かけたら躊躇なく待合室に避難してください。」
などと恐ろしげなことが書いてある。私はこの貼紙を写真に残すことは出来なかったが、ネット上にはこんな記事もあるので、ご参考まで。
http://photozou.jp/photo/show/1162398/184122913

 次の会津坂本駅も人っ子一人いない無人駅だが、右側の窓のすぐ側にまで栗の木が迫っていて、実に見事な栗の実を枝にたくさんつけている。これならやっぱり熊は出るんだろうな。
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 このあたりで只見川の流れが右から近づいて来て、只見線はその渓谷を遡るようになる。次の駅が会津柳津(あいづやないづ)で、温泉町のある所だ。只見線は会津若松からここまでが会津線と呼ばれる軽便鉄道として1928(昭和3)年までに開通し、ガソリン・カーが走っていたという。

 只見線のルートはいよいよ只見川の渓谷に近づいて行く。二回ほど鉄橋で川を渡り、7:29に会津宮下駅に到着。ここで再び上り列車と交換するため8分間の停車だ。只見線全線の内、戦前に開通したのは会津若松からここまでの区間である。
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(ローカル線色たっぷりの会津宮下駅)

 会津宮下から先は只見線の核心部に入ったといっていいだろう。一度鉄橋を渡ってトンネルに入り、それを出たところが早戸駅。そこからしばらくは只見川の渓谷を左手に見るようになり、会津水沼で再び右岸へと渡る。確かにこれが紅葉の時期だったなら、素晴らしい渓谷美を楽しむことが出来るだろう。
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 こんなに険しい地形の中でよくぞ鉄道を通したものだと感心してしまうが、先ほどの会津宮下からこの列車の終点の会津川口までは、戦後になって田子倉ダムの建設のために建設された区間なのである。開業は1956(昭和31)年9月だから、私と同様、今年で還暦ということになる。
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(第4只見川橋梁を渡る)

 会津若松を出てから既に2時間。飽きもせず窓の外を眺め続けて来たが、終点は近い。

 8:04 ついに会津川口駅に到着。列車から島式の一本のホームに降りたのは、地元の高校生たちが10人ちょっとと、他には私を含めて乗り鉄が2人だけ。ホームからは只見川の流れも見えている。
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(会津川口駅)

 列車はここが終点なのだが、レールはここで行き止まりになっている訳ではない。ここから先も只見川の上流に向かって鉄路が続いているのだが、今は列車が走ることはない。5年前の夏の豪雨による洪水で、この先は3箇所の鉄橋が落ちたままになっているのだ。
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 只見線の旅も、いよいよその最深部へと入ることになる。この先にはどんな景色が待っていてくれるだろうか。
(To be continued)

会津・上越 各駅停車 (1) [鉄道]


Prelude (1227M 11:40 郡山 → 12:59 会津若松)

 郡山で新幹線を降り、連絡口を通って在来線のホームに降りると、磐越西線の会津若松行き電車が既に入線していた。会津地方の郷土玩具「赤べこ」から生まれたマスコット・キャラクターが車体に描かれた「赤べぇ塗色」の719系交流電車。一時間に一本のダイヤながら、平日の昼間に6両編成とは立派である。
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 9月30日(金)の11時40分、今週初めて見る青い空の下、電車はゆっくりと郡山のホームを離れ、新幹線の高架を右に見送って会津盆地へと向かう鉄路を走り始めた。乗客の人数はというと、3両連結の電車でも十分な程度と言えばいいだろうか。今日は私の会社が所属する業界団体の活動の関係で、会津若松へ出張する用事が出来た。そんなことでもなければ、平日の昼間にこんなにのんびりした普通列車に乗ることもなかなかないものだ。右の車窓には安達太良山(1718m)がよく見えている。
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(磐越西線・喜久田駅付近からの安達太良山の眺めを再現)

 よく考えてみれば、磐越西線に乗るのは生涯で二度目のことになる、初回は大学に入った年の夏に旧友のT君と飯豊連峰へと登山に出かけた時だったから、今から39年も前のことだ。当時は上野から455系電車の夜行の急行「ばんだい」に乗って朝の5時半頃に会津若松に着き、そこでディーゼル列車に乗り換えて喜多方の一つ先の山都まで行き、更に路線バスに揺られて飯豊連峰の南側の登山口へと辿り着いた。そういう時間帯だったから、天気は悪くなかったはずなのに磐越西線の沿線風景は全く覚えていない。

 この時の飯豊連峰が私にとっては初めての東北の山だったのだが、山の深さと雄大さ、そして標高2,000mに満たない山の尾根がハイマツに覆われていることに驚いたものだった。(信州の北アルプスだったら森林限界は標高2,500m程度なのだから。) いい山だった、という思い出が今も残っている。

 この路線は郡山・喜多方間が1967(昭和42)年に交流電化している。その時からほぼ半世紀が経過しているのに、沿線の駅の様子は何だかつい最近まで非電化だったかのような雰囲気だ。それは昔の時代の低いホームが残されているからだろうか。何せ郡山を起点に1898(明治31)年から部分開業していった岩越鉄道という私鉄がオリジンになる、歴史のある路線なのだ。
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(磐越西線 郡山・会津若松間)

 山越えの区間の途中にあり昔はスイッチバックの駅だった中山宿を出て、分水嶺の山を中山トンネルで越えて上戸(じょうこ)駅に着くと、かつての貨物ホームが赤錆びた線路と共に残されていた。
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 その上戸駅を過ぎると鉄路は猪苗代湖に近づき、川桁駅を過ぎるといよいよ右の車窓に磐梯山(1819m)が大きな姿を現した。爽やかな秋空とまさに収穫期を迎えた田んぼの黄色が鮮やかなコントラストを見せている。それにしても、今日は久しぶりに良い天気だ。背広なんか着ているのが勿体ない。
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 翁島駅を過ぎると、磐越西線は勾配緩和のための大きなループを繰り返すようになる。磐梯山の裾野を会津盆地に向けて下っていくのだが、当然のことながら逆方向の列車にとっては上り勾配の連続である。

 2011年3月11日の東日本大震災の直後、磐越西線は一躍注目を集めることになった。震災で東北地方太平洋側の鉄道や道路が寸断されて被災地が燃料不足に陥ったため、郡山の石油ターミナルに石油を運ぶべく、震災発生から二週間後の3月25日を初回とする臨時の石油輸送列車が仕立てられ、この路線を通ったのである。そのルートは、横浜の根岸駅から出発して高崎線、上越線、信越本線を経由して新津から磐越西線に入るというものだった。貨物列車が通らなくなって久しい磐越西線の急勾配を、DD51型ディーゼル機関車が重連で10両のタンク貨車を牽き、最後部からDE10型機関車が押し上げる姿は、大震災の最中の東北地方にあって、希望の光のように眩しかったのだ。
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 列車が会津盆地の入口にさしかかった頃、右の車窓の遠くには平坦な山容ながら頂上付近の一部にうっすらと雪が積もった山の姿が現れた。これが飯豊山(2105m)だ。北アルプスの初冠雪の話はまだ聞こえて来ないのに、やはり東北の秋は早いな。
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(磐越西線・広田駅付近からの展望を再現。左が大日岳、右が飯豊山)

 鉄路はなおも左カーブで会津盆地へと入り込む。あたり一面が黄金色に輝く秋の実りの風景の彼方には、会津と越後を隔てる山々が続いている。
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 今日はこの後、会津若松で工場見学などを含めた業界団体の用事が夕方まであり、夜は宴会だ。一泊して明日の土曜日は東京に帰るだけなのだが、行きと同じルートで郡山から新幹線に乗るのもつまらない。こんな機会も滅多にないからと私は一計を案じていた。せっかく会津に来たからには、只見線に乗ってみようという計画である。秋の紅葉の美しさで知られる只見線は、会津盆地の北西から只見川の渓谷を遡り、田子倉ダムの北辺を長いトンネルで越えて上越線の小出まで、深い山のなかを細々と走る典型的なローカル線だ。
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(JR只見線)

 その只見線は、東北の大震災の年の7月に発生した「新潟・福島豪雨」で甚大な被害を受け、途中の区間が寸断されてしまった。現在は会津若松・会津川口間が一日6往復、そして只見・小出間が3往復しか走っておらず、両者の間の不通区間である会津川口・只見間を上り7便・下り6便の代行バスが結んでいる。ダイヤが何とも限られているのだが、会津若松を朝6時ちょうどに出る列車に乗ると比較的乗り継ぎ時間が短く、10:43には小出に辿り着くことが出来るのだ。これは行かない手はない。明日は早起きをして、只見線の全ルートを是非とも走破してみよう。
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(只見線 下りの時刻表)

 11時06分、定刻から7分遅れで列車は会津若松駅に到着。出口には今日の会合に出席するメンバーが三々五々集まっている。ともかくも、これから始まる仕事の日程を無事にこなすことにしよう。

(To be continued)

D列車で行こう [鉄道]


 定刻の12時33分に新潟駅を出た特急「いなほ5号」は、3月の曇り空の下を東に向かって走り続けていた。

 7両編成の後ろ3両が自由席車なのだが、乗客の数は座席の半分にちょっと欠けるぐらいだろうか。それが、羽越本線に合流する新発田(しばた)に着くと早くも降りる人が結構あって、車内はだいぶ寂しくなった。新潟を出てしばらくは沿線の道路に雪もなかったのだが、新発田から先は道に積雪が残り、田畑は一面の白のままである。

 生き物が呼吸をするように、曇り空にも息がある。雲が空一面をずっと覆っている訳ではなく、時おり雲間に青空がのぞき、日が射すこともあるのだが、その太陽はまたすぐに隠れてしまい、そのうちに雪が舞い始めたりする。日本海側の冬はいつもそんな風なのだ。私が社会人になって最初の任地となった北陸の富山もそうだった。窓の外を見ていて、久しぶりにそのことを思い出していた。

 私が学生の頃は、「いなほ」というと、上越線経由で上野と秋田を結ぶ特急だった。当時は新津回りだったのだが、’83年に上越新幹線が開業すると、「いなほ」は新潟発の白新線経由で秋田・青森へと向かう特急になった。それが、秋田新幹線が走っている今では秋田以北へは行かなくなった。

 使われている車両も、羽越本線の電化前の80系気動車や、電化後の485系電車など、先頭車がボンネット型の「いなほ」が私には懐かしいのだが、今は常磐線の特急「ひたち」に使われていたE653系電車がここに転用されている。

 13時19分、村上駅に到着。私はここでホームに降り、「いなほ」の出発を見届ける。
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 その時、同じホームの向かい側では、二両連結の気動車がディーゼル・エンジンの重々しい唸り声を響かせていた。国鉄時代に製造されたキハ40だ。塗装は新しくなってしまったが、この鈍重な車体は昭和の匂いを濃厚に残していて、妙に嬉しい。
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 列車番号827D、村上発・酒田行きの普通列車。私はこれに乗ろうとしている。末尾のDは言うまでもなくディーゼル車のことである。

 私はこの後、山形県の鶴岡で仕事上のアポがあって、午前中に東京を出て来た。先ほどの「いなほ」にそのまま乗っていても鶴岡にはもちろん行けるのだが、それだと先方指定の時刻には2時間ほども早く着いてしまう。それが、827Dに乗ればちょうどいい時間に鶴岡に着くのだ。ならば、この「D列車」を利用しない手はない。しかも、村上と鶴岡の間は左手に日本海が迫る独特の風景が楽しめる。出張とはいいながらも、こんな機会に巡り会えたとは何と幸運なことだろう。それに、手前味噌ながら「各駅停車」と名付けたブログにも相応しい旅でもある。
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 それにしても、羽越本線は昭和47年に全線電化が完了しているのに、この酒田行きはなぜ気動車なのか。その答は、この駅を挟み南北で異なる電化方式が取られたことにある。

 村上以南は1500Vの直流だが、以北は2万Vで50kHzの交流。駅の秋田方にはその切換点(デッド・セクション)が設けられている。
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(矢印の部分に「交直切換区間」の表示が)

 この二つの区間を跨いで走るには交直両用の電車が必要なのだが、気動車であれば電気とは無関係だ。交直両用の電車は高価であることや実際の旅客数の少なさを勘案すると、電化路線とはいえ普通列車は既にある気動車で対応するというのが現実的な方法なのだろう。

 「D列車」の車内は海側が一列、山側が二列の座席配置で、乗客は本当にチラホラだ。私はもちろん海側の席に陣取った。
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 13時35分、一段と大きな唸り声を上げて、キハは出発。村上の町並みが遠ざかると直ぐに山が近づき、それをトンネルで越えると左手にさっそく日本海がひろがった。村上で顔を出した青空がまだ続いていて、この時期の日本海にしては明るい眺めである。
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 福島から板谷峠を越え、東北地方の内陸部を北上して秋田から青森に至る奥羽本線が明治の30年代に全通していたのに対して、東北地方の日本海側を縦断する羽越本線が建設されたのは大正期に入ってからのことだ。それも、この路線が通る秋田・山形・新潟の三県でそれぞれ工事が進められたのだった。
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(羽越本線建設の歴史)

 そして、羽越本線の建設工事で最後に残った区間が、山が海に迫る村上・鼠ヶ関(ねずがせき)間と、軟弱な地盤のためにトンネル工事が難航した秋田県内の羽後岩谷・羽後亀田間だった。それらが漸く完成したのは大正13年のことである。

 海沿いを走る道路に並行して、ニ両のキハは一駅ずつ鉄路を辿っていく。桑川駅のあたりからの海岸線は奇岩が次々に立ち並ぶ「笹川流れ」と呼ばれる景勝地だ。後になってからの線路改良工事で、以前のルートよりも山側に線路が付け替えられた区間もあるそうだが、それでもなお、波が本当に荒い時は線路が波を被ってしまうのではないか、と思われるほどだ。羽越本線の建設で最後まで残された区間だったのも道理である。
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(今はもう使われていない?手動の転轍機)

 桑川の次の今川という駅では4分停車。この間に貨物列車が上りのホームを通過していく。この駅も、直ぐ先が海だ。
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 海岸線を忠実に辿りながら、鉄路は続く。村上を出た頃に広がっていた青空は早くもどこかへ行ってしまい、今はもう、どんよりとした雲が空を覆っている。でも、この方が冬の日本海らしいかな。
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 これは進行右側の席にいた方がよくわかるのだが、羽越本線は単線区間と複線化された区間とが見事なほどの斑(まだら)模様である。元々は単線鉄道として開通したが、戦争の時代になってからは軍部が日本海ルートの輸送力強化を重視し、複線化を精力的に進めたという。だが、戦後は国鉄の財政難で複線化が進まず、斑模様のまま今に至っている。これでは列車のスピード・アップもなかなか難しいことだろう。
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(単線区間・複線区間が斑模様の羽越本線)

 14時28分、鼠ヶ関駅に到着。いよいよ山形県に入った。鼠ヶ関は、かつては勿来関、白河関と並ぶ奥羽三関の一つで、まさに東北地方への入口となっていた場所だ。逆に言えば、それは何らかの区切りになるような地形であったのだろう。村上からこの鼠ヶ関までの区間が羽越本線の建設で最後に残された区間だったというのも、何やら象徴的である。
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 そこから先も、集落がある所では、山と海の間の限られた平地に道路と民家と鉄道が寄り添っている。そして集落が途切れると、後は荒々しい海だけだ。
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 海が見えるのは小波渡(こばと)という駅まで。その次の三瀬(さんぜ)駅から羽越本線は内陸部を走るようになり、野山の風景が広がる。外はいつしか横殴りの雪になっていた。

 乗り鉄冥利に尽きる素晴らしい車窓の眺めを楽しませてくれた827D。だが、その旅も終わりに近い。村上を出てから、途中15個の駅に一つずつ停まり、1時間45分ほどをかけて、遂に鶴岡駅に到着。本線仕様の長大なホームを、二両連結のキハは完全に持て余していた。
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 酒田へ向けて更にコマを進めていく827Dを見送り、跨線橋を渡って改札口へ。外に出ると、雪はみぞれになっていた。深呼吸を一つして、タクシー乗り場へと向かい、運転手さんに行き先を告げる。

 さあ、仕事だ。


【追記】
 鶴岡の訪問先では、初対面ながら案外と話し込んでまい、鶴岡駅に戻って来るのがぎりぎりの時刻になってしまったが、ともかくも予定の秋田行き「いなほ7号」に何とか乗ることができた。

 自由席車両も閑散としたもので、私は再び海側に席を取り、缶ビールを片手にぼんやりと外を眺める。そして列車が酒田を過ぎ、夕闇が迫る頃に再び海の眺めが始まった。吹浦から象潟にかけての海だ。それはまた、二年前の夏に山仲間のT君と二人で鳥海山(2236m)に登った時に、山の上から眺めた海でもあった。
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 あの時に遥か彼方に見えた海岸線に沿って、私は今、秋田を目指していることになる。午前中に東京を発ち、列車に揺られて遠くまでやって来たものだと、改めて思う。

 缶ビールが空いて、窓辺の友は、いつしかカップ酒に代わっていた。







いつもの車窓から [鉄道]


 木曜日の早朝、テイクアウトのホットコーヒーを片手に、東京駅22番ホームを急ぎ足で歩く。

 平日の午前7時から7時30分の時間帯には、4本のホームから東北・上越・北陸の各新幹線の列車が計8本出発するので、なかなかの喧騒ぶりだ。行き止まり式の各ホームで長編成の新幹線列車が15分おきに出るというのは、かなりタイトな運用なのだろう。(東海道新幹線のホームは14~19番線の計6本。)

 4号車のドアから車内に入り、自分の席の網棚に荷物を乗せていると、盛岡行きの「はやて111号」はもう動き出していた。

 7時16分発のこの列車は、私の会社の工場へ出張のたびに利用している。券売機で座席指定特急券を買う時に、決まって選ぶのが進行左側になる窓側のE席だ。東北新幹線の下りは進行左側が北~西向きになることが殆どなので、朝日がまぶしいことがない。そして、今日のように晴れた日には、左の車窓にひろがる山々の眺めが楽しみなのである。

 2月18日(木)、冬型の気圧配置が緩み、移動性高気圧に覆われて東京は朝から穏やかな青空が広がった。明日は「雨水」だから、今月初めの立春からまた一つ季節が進んだことになる。春が待ち遠しい時期である。
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 東北新幹線の車窓からの山の眺めについては、以前にもこのブログで取り上げたことがある。但しそれは、宇都宮駅付近からの日光連山(男体山、女峰山など)、那須塩原駅付近からの那須連峰、郡山駅付近からの安達太良山、福島駅付近からの吾妻連峰、そして白石蔵王駅付近からの蔵王など、いずれもメジャーな山ばかりだった。快晴の今日は遠くの山々がよく見えるから、今回はこれまでとは違った山々にも注目してみよう。以下、この日の車窓からの眺めをカシミール3Dで再現してみることにする。

1. 利根川橋梁付近

 110km/hの速度制限がある大宮までの区間に25分を要する間に、コーヒーをすすりながら私は日経新聞を読み終えた。その大宮を過ぎると列車はぐんぐんと加速。上越新幹線と線路が分かれて北東に向きを変えると、10分も経たないうちに利根川を渡るのだが、この時に利根川の上流方向の彼方に山々が並んでいるのがよく見える。左から、浅間山(2568m)、四阿山(あずまやさん、2354m)、榛名山(1449m)、そして赤城山(1828m)というなかなか豪華な顔ぶれなのだが、よく晴れた今朝はその榛名山と赤城山の間に雪を抱いた真っ白な遠い山並みが続いていることに気がついた。
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(東北新幹線・利根川橋梁からの山の眺め)

 その山並みが真っ白だから、標高はおそらく2000mクラスの山々だろう。けれども、谷川岳(1977m)をはじめとする上越国境の山並みであれば、この利根川橋梁からだと赤城山の背後にまわるような位置にあるはずだ。あれは一体どこの山なのか、今回の出張が終わるまで私はずっと気がかりだったのだが、帰宅してカシミール3Dで調べてみたら、何とそれは信州・志賀高原の山々だったのだ。
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(彼方に見えていた山々のクローズアップ)

 榛名山のすぐ右奥に見えているピークが横手山(2307m)、そして右から二番目のピークが白砂山(2140m)で、この二峰の間に上信国境を成す尾根が続いている。その背後にあるのが志賀山(2037m)、岩菅山(2295m)、裏岩菅山(2341m)といった志賀高原の山々だ。そして白砂山からは北方に走る信越国境の尾根があり、その途中にあるのが佐武流山(さぶりゅうやま、2192m)である。
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 志賀高原の横手山では、若い頃に残雪期のスキーを楽しんだことがある(もちろんゲレンデ・スキーだが)。なかなか姿の良い山で、雪を踏んで登ってみたいなあと思ったものだったが、まさかそのピークが利根川の河原から見えるとは。これは何とも嬉しい発見であった。
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2. 小山駅付近

 その上信国境の山々が左へと遠ざかり、赤城山の大きな山体の右側に続く山々が見え始める。それを更に辿れば男体山や女峰山など日光の山々に連なるので、大抵はそちらに目が行ってしまうのだが、今日は赤城山と日光連山の間にある、雪を被った一つのピークが妙に目を引いた。群馬県と栃木県の県境を成す尾根の一角にある皇海山(すかいさん、2144m)である。日光の男体山から中禅寺湖を隔てて西側にある山だ。日本百名山にも選ばれている。
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(東北新幹線 小山駅付近からの山の眺め)

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 それにしても、「皇海」と書いて「すかい」と読む不思議な名前である。それも、海が見える訳でもない内陸にある山の名前なのだ。

 日本の近代登山の黎明期に活躍した登山家・木暮理太郎(1873~1944)は、「かつて笄(こうがい)山と呼ばれていた山が、後に”皇開山”と当て字され、更に”開”の字が”海”になった」ということを、その著書に記したという。そして、それが”すかい”という音になったのは”皇”を”すめらぎ”と読むからだという。説得力があるのかないのかよくわからない話だが、「皇海」という文字と共に、天皇(すめらみこと)に由来するその読みからは、ちょっと背筋を伸ばしたくなる気分になる。実際に遠くから眺めていると不思議な威厳のあるピークである。
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(新幹線の車窓から望遠レンズで眺めたら、こんな風に見えるはずだ)

 栃木県側から庚申山を経て皇海山へと至る修験者用の長い道が伝統的な登山ルートだったようだが、今ではクルマを利用して群馬県側から、所要時間はもっと短いがアプローチが大変なルートがあるそうだ。実現するのがいつになるかはともかくとして、いつか登ってみたい山の一つである。

3. 鬼怒川橋梁付近

列車が宇都宮を過ぎて日光の山々が左へと去っていくと、那須連峰が見え始める前に、ちょっと目を引く一群の山がある。鬼怒川を鉄橋で渡るあたりが、一番その眺めがいいだろうか。
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(東北新幹線 鬼怒川橋梁からの山の眺め)

 東北新幹線の車窓からだと西平岳(1712m)、中岳(1729m)、釈迦ヶ岳(1795m)の三つのピークだけが見えているのだが、それらの東側には主峰となる鶏頂山(1765m)があり、それらをまとめて高原山(たかはらやま)と呼ぶのだそうだ。那須火山帯の最南端の山々で、鬼怒川の左岸に位置している。

 日光市の東部をクルマで走っていると、この鶏頂山はかなり目立つ立派な山だ。東武鬼怒川線の電車からも良く見えることだろう。その鬼怒川線を経て、野岩鉄道、そして会津鉄道を乗り継いで会津若松へと至るルートは、将来暇が出来た時の、私の乗り鉄プランの一つである。

4. 古川駅付近

 この日、関東地方は快晴だったが、福島県以北は少し雲があり、安達太良山、吾妻連峰、蔵王はいずれもピークが雲に隠れていた。それが、仙台を過ぎると再び青空が広がり、列車が鳴瀬川を渡って大崎平野に入り、古川駅に向かって速度を落とし始めた頃、宮城・山形の県境に連なる船形山(1500m)が大きな姿を見せていた。横長の台形の上に幾つかの小さなピークがあるのだが、それらの総称が船形山だ。なるほど、船を逆さにした形と言われればその通りである。
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(東北新幹線 古川駅付近からの山の眺め)

 私は古川で新幹線を降り、待っていてくれた会社のクルマで工場へと向かう。駅から30分弱の、大きな高台の上にある工場からは、この船形山が終日よく見えていた。冬型の強い日だと、山の向こうは雪なので船形山の稜線も雲に隠れているのだが、移動性高気圧に覆われた今日は山形県側も天気が良いらしく、船底の形の稜線が本当によく見えている。
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 今日のような日にあの稜線に上がったら、その向こうにはどんな景色が待っているだろうか。山形県の朝日連峰や月山、そして鳥海山などはどんな風に見えるのだろう。そんな機会も、いつか作ってみたいものである。

 出張中の身でありながら、今回も道中で山々の眺めに恵まれた。よく調べてみれば、車窓から見えているのに気がつかない山々が他にもありそうである。いつもの車窓からの眺めも、意外と奥が深いのかもしれない。

城南の横糸 [鉄道]


 池袋でメトロの副都心線に乗ると、それが急行運転なら東急東横線の自由が丘までは22分ほどである。

 メトロと私鉄の相互乗り入れというのは、列車の遅延が他線にも影響してしまう面はあるものの、順調に運行されている分には便利なものだ。ホームが地下に移る前の、地上で行き止まり式だった昔の東横線の渋谷駅も味があったので懐かしいが、あの時代に戻るのはもう無理というものだろう。

 自由が丘で電車を降り、高架のホームから地上の高さの大井町線のホームを一瞬通って南出口へ。駅前の賑わいを通り過ぎて、家内と私は大井町線の線路にほぼ沿うように西方向へと歩く。住宅街の彼方には一列に並ぶ立派な木立が頭の先だけを見せている。あそこが私たちの目指すお寺なのだろう。

 10月最初の日曜日の昼下がり。お彼岸を過ぎたというのに、まだ夏かと思うような日差しが照りつけて外は暑い。今日の散歩は本当は短パンでもよかったと思うような陽気だ。

 程なく私たちは寺の参道の入口に到着。それは東急大井町線の九品仏(くほんぶつ)駅からほんの50mほどの場所だ。住宅街の真ん中ながら実に堂々とした参道で、背の高い松の木が奥に向かって並んでいる。九品山浄真寺。ここに安置されている九体の阿弥陀如来像が「九品仏」の名の由来となった浄土宗の寺である。
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 室町時代の末期、ここは奥州吉良氏が支配する土地で、世田谷城の出城としてこの場所には奥沢城があったという。奥州吉良氏は元々足利の一門で、鎌倉公方がいた時代にはそれに従っていたが、戦国の世には新興勢力の北条氏に接近。そして秀吉の小田原攻めで北条氏が滅亡すると、今度は家康に従っている。

 奥沢城は徳川の世に廃城となり、その跡地を地元の名主が寺地として貰い受けたという。開山は珂碩(かせき、1617~1694)。武蔵国の出身で越後の村上の寺に務めていたが、請われてこの地にやって来たそうである。
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 参道を進んで浄真寺の境内へと入っていくと、これが驚くほど広く、緑が深い。立派な仁王門、足元に続く石仏の数々など、それぞれに味があって、東京23区の中にいることを忘れてしまいそうだ。今はまだ藪蚊が多くて、家内も私も案外刺されまくってしまったのだが、カエデの木も多いので来月の下旬頃にまた散歩をするといいかもしれない。本堂の手前には天然記念物のイチョウの木があった。
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 本堂には大きな釈迦如来像があり、本堂の中に入って間近に見上げることもできる。それと向かい合うように、本堂の反対側には三つの阿弥陀堂があり、それぞれに三体の阿弥陀像が安置されている。窓ガラス越しに暗がりの中の阿弥陀様の様子をうかがっていると、ここでも次々に蚊が寄ってくる。私たちは早々に退散して、街中の散歩を続けることにした。
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 現在の東急大井町線がこのあたりを走るようになったのは、調べてみると昭和4年のことである。当時の目黒蒲田電鉄が大井町と玉川(現在の二子玉川)を結ぶ鉄道を建設。名前は最初から大井町線だった。このうち大井町・大岡山間は昭和2年に開業し、残る西半分がその2年後に完成したのだった。

 昭和の初年というと、確かに東京の山の手は私鉄の建設ラッシュだった。元々山手線の西側の都市化が進みつつあったところへ、大正12年の関東大震災によって下町地区が甚大な被害を受け、多くの人々が山の手に移り住んだことが、運輸業界には大きなビジネスチャンスとなったのだ。
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 目黒蒲田電鉄・目蒲線は、震災の半年前に目黒・丸子(現・沼部)間が、残る蒲田までの区間も震災の2ヶ月後にそれぞれ開業していた。建設ラッシュが始まったのはそれからだ。大正15年に神奈川(昭和25年廃止)から丸子多摩川(現・多摩川)まで出来ていた東京横浜電鉄・東横線が、昭和2年に全通。震災前に蒲田・御嶽山前間を開業していた池上電気鉄道が昭和3年に五反田まで延伸。そして、これらの3線を横断するようにして、この目黒蒲田電鉄・大井町線が昭和4年に全通している。

 終点の玉川には渋谷まで行く路面電車の玉川電気鉄道・玉川線(いわゆる玉電)が明治40年に出来ていたから、それを含めれば大井町線は城南地区の4本の縦糸をつなぐ横糸ということになる。その縦糸は全て異なる電鉄会社だったのに、結果的には横糸も含めた全てが昭和14年までに目黒蒲田電鉄に買収された。同社はその上で社名を東京横浜電鉄に変更。そしてその3年後には戦時統制下で小田急、京急を吸収して社名を更に東京急行電鉄へと変え、いわゆる「大東急」時代を迎えることになる。

 ところで、鉄道が通る前の時代にこのあたりはどんな様子だったのか。例えば大正8年の地図を見てみると、後に自由が丘駅が設けられた場所は田圃の真ん中だ。丘という名前はむしろその南北にある丘陵地帯に与えられるべきなのかもしれない。水田地帯の中にあって浄真寺の境内が僅かに小高い土地であることもわかる。そして、後世に環状8号線となる細々とした道が浄真寺と多摩川の間にあることも興味深い。
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 そして昭和4年測量の地図を見ると、まさにこの年に全通したばかりの目黒蒲田電鉄・大井町線が描かれている。自由が丘の一つ南の丘陵には田園調布駅があり、駅の西側には半円形の道路が同心円状に作られた、あの特徴的な街の形が早くも地図上に表れている。
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 田園調布というと、東横線の建設と並行した宅地開発のようなイメージを持ってしまうが、実はそれよりも早い大正12年に分譲が始まった街だ。理想的な住宅地「田園都市」の開発を目指して渋沢栄一が大正7年に立ち上げた田園都市株式会社の手によるものなのだが、この会社は同時に鉄道事業も手掛けていた。それが目黒蒲田電鉄で、この田園調布を経由して目黒と蒲田を結ぶ目蒲線が、田園調布の分譲開始と同じ大正12年に開業している。(因みに、この電鉄会社の設立以来、専務取締役として腕をふるったのが、後の東急の総帥・五島慶太だった。)

 要するに田園調布は東横線ではなくて目蒲線と共に始まった街なのだ。そして、横浜方面から北へ伸びていた東京横浜電鉄・東横線の線路が多摩川を越えて、田園調布の一つ南の丸子多摩川駅で目蒲線に接続したのが大正15年。以後、東横線の電車は田園調布から目蒲線に乗り入れて目黒まで走っていたそうである。

 浄真寺の境内を後にした私たちは、再び大井町線の線路の南側に出て、住宅地の中を西へ。そこから1km少々を歩けば等々力駅に出る。駅のすぐ南にある高級スーパーを過ぎれば、その右奥にあるのが等々力渓谷の入口だ。階段を下りると谷底に出て、そこから下流に向けて1kmほどが遊歩道になっている。
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 東京23区で唯一の天然の渓谷は、多摩川の支流・谷沢川の渓流で、谷の深さは最大で30mほどもある。10月に入ったというのに、今日は思い出したように夏日の陽気となったが、等々力渓谷の中に入ると、鬱蒼とした緑の中で、さすがに空気もひんやりとしている。
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程なく環状8号線の橋をくぐり、左岸の壁から湧水が流れ落ちる不動の滝まで歩いた私たちは、そこから右岸に設けられた階段を上り、日本庭園の上の緑地で一休み。等々力の駅前で買って来たコーヒーをゆっくりと楽しむことにした。

 そこから更に西方向に5分ほど歩くと、野毛大塚古墳に出る。こんもりとした盛り土は「帆立貝形古墳」というのだそうで、静かな住宅地の中にこれが忽然と現れるのが何とも不思議である。出土した副葬品などから5世紀の初め頃の古墳と推定されるそうだが、当時のこの場所にこのような古墳を作らせることの出来た権力者とは、一体どんな人物だったのだろう。
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 家内と二人でのんびりと歩いた、自由が丘から等々力渓谷までの散歩コース。時計は午後四時を回り、太陽の光にも少しずつ赤味が加わっている。そろそろ等々力の駅に戻ろう。

 私が渋谷区の区立の小学校に通っていた頃、この電車は田園都市線と呼ばれていた。オリジナル・ネームの大井町線が田園都市線に改称されたのは東京五輪の前年で、当時は大井町から二子玉川を経て溝の口まで行く電車だった。戦前に田園調布の開発から始まった「田園都市構想」は、オリンピックの頃には多摩川の南へと進んでいたということなのだろうか。

 更に昭和41年、この路線が長津田まで延伸。その翌年に開通した「こどもの国線」に乗って小学校の遠足に行った記憶が残っているが、あの頃の長津田駅というと周りにはまだ何もなくて、子供心にも寂しい駅だった。けれども、渋谷・二子玉川間の、昔の玉電ルートが地下を走る「新玉川線」として昭和52年に開業。その2年後には二子玉川以西からの田園都市線の電車が渋谷へ直結するようになり、そのルートが新たな田園都市線となった。それに伴い、大井町・二子玉川間は再び「大井町線」に。要するに、目黒蒲田電鉄によって昭和4年に全線開業した時と同じ運行形態に戻ったことになる。

 等々力の駅は、道路から駅舎に向かうのに上り線にも下り線にも構内踏切がある、都内でも珍しい構造だ。その小さな踏切からホームを眺めると、どこか昔の面影が残っている。5両編成で一杯になる短いホームが、何だか妙に懐かしい。
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 昭和の初年の開業以降、沿線の開発と共に姿を変えてきた大井町線。それでも、城南地区の四本の縦糸を結ぶ横糸というコンセプトは今も生きている。大井町線の電車に張りつけられたシンボルマークを見て、改めてそう思った。

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昭和のストリームライナー [鉄道]


 私が子供の頃、映画館の看板に「総天然色」という言葉が入っていた時期があった。

 戦前から『風と共に去りぬ』とか『ファンタジア』のような映画が登場していた米国とは違って、日本では戦後のゴジラ映画も初作はモノクロだったぐらいだ。カラー・テレビの普及も東京五輪以降のことだから、それまではテレビ番組もモノクロばかり。そんな昭和30年代には、カラー映画にわざわざ「総天然色」を謳う意味があったのだろう。だが、そのうちにカラーが当たり前の世の中になると、この言葉は急速に姿を消していった。

 同じように姿を消して久しい言葉の一つが、「流線形」だ。昭和39年10月の東海道新幹線開業で、あのダンゴ鼻の0系新幹線が登場した時には、まだこの言葉があったと記憶しているのだが、スポーツ・カーやジェット機はおろか、ロケットも登場する時代になると、「流線形」は当たり前過ぎて使われなくなってしまった。

流線形(型):
 流れの中に置かれたとき、周りに渦を発生せず、流れから受ける抵抗が最も小さくなる曲線で構成される形。一般に細長くて先端が丸く、後端がとがる。魚の体形がこの例で、航空機・自動車・列車などの形に応用される。 (デジタル大辞泉)

 0系新幹線の登場から32年後にデビューした500系新幹線などは、こうした言葉の定義がぴったりと当てはまるスタイルで、さながらコンコルドを鉄道車両にしたようなイメージだ。

 ところが、こうした科学の粋を極めたようなフォルムとはいささか異なる、もっと大らかで優雅な曲線に包まれた鉄道車両が「流線形」として世界中で流行したことが、戦前の一時期にあった。今、大宮の鉄道博物館へ行くと、日本におけるその時代の代表作を間近に眺めることができる。

 EF55形電気機関車。1936(昭和11)年に3両だけ製造された「流線形」の直流電気機関車である。
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 その内の2両は既に解体されてしまったから、大宮のEF55-1号機が今も残る唯一のものだ。流線形とはいうものの、ずんぐりとしたどこかユーモラスな形の車体。先頭部は流線形だが最後部は切妻型というのも実にユニークな機関車である。そして、円弧を描く側面の飾りが洒落ている。流線形というよりも、「電気機関車のアール・デコ」とでも呼ぶべきだろうか。

 鉄道車両に流線形が導入されるようになったのは、1930年代に入ってからのことだ。当時のドイツ国鉄が、平均時速150kmで走る都市間特急の運行を構想し、そのための特別な車両の製造に取りかかったのがその嚆矢とされる。それは、第一次世界大戦を経て、自動車や飛行機が鉄道のライバルになり始めた時代でもあった。

 「それまで陸上交通をほぼ独占していた鉄道が、近距離移動では手軽な自動車に、長距離旅行においては飛行機に、客足を奪われてしまうのではないかと危機感を抱いたのである。 (中略) 自動車や飛行機はガソリン機関やディーゼル機関といった内燃機関を使うため、蒸気機関を利用したSLよりもずっと軽快で高速性に優れていた。おまけに自動車や飛行機の外観は、流線型でぐっとスマートで、いかにも新時代を象徴していたのである。 」
(『鉄道技術の日本史』 小島英俊 著、中公新書)

 こうした背景のもと、1933(昭和8)年にハンブルグ~ベルリン間に最高時速160kmのディーゼル特急「フリーゲンダー・ハンブルガー」の運行が始まる。そこに登場した新型車両は、流線型というほど丸みを帯びたものではないが、当時の鉄道車両としてはスピード感のある画期的なスタイルだったのだろう。
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 続いて翌1934(昭和9)年には、米国でシカゴ~デンバー間ノン・ストップのディーゼル特急「パイオニア・ゼファー」が登場。こちらは流線形といってもステンレス製のいささか武骨なスタイルで、先頭車両は何だか鉄人28号みたいなイメージだが、ともかくも最高時速181kmを出して米鉄道界のホープに踊り出ることになった。
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 こうして流線形の新型車両が登場すると、同時進行的に蒸気機関車もスマートなボディに包まれるようになっていく。翌1935(昭和10)年に登場した英ロンドン~ニューキャッスルを結ぶ特急列車「シルバー・ジュビリー」を牽引したSLは、その代表例だ。”Silver jubilee”という言葉どおり、この列車の名前は英ジョージ5世の在位25周年に因んだものである。
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 そういえば、アガサ・クリスティー原作のTVドラマ「名探偵ポワロ」のオープニング・タイトルのところで、流線形の蒸気機関車が左手から走ってくるシーンがある。このドラマの時代設定は概ね1930年代の中頃だから、それがその時代の文明の象徴であったのかもしれない。
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 欧米で起きたこのような「流線形ブーム」は、当時としては驚くべき速さで日本にもやって来た。「パイオニア・ゼファー」の登場と同じ年の昭和9年に、特急用のC53形蒸気機関車の内、京都・梅小路機関区にあった1台が流線形に改造され、名阪神間で特急「つばめ」や「富士」を牽引。その走りっぷりは悪くなかったようだが、機関車の車体がボディで覆われてしまったので、保守点検に従来の何倍もの時間がかかったという。結局、C53の流線形はこの1台だけで終わることになった。
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(鉄道模型でも人気のC53流線形)

 続く1936(昭和11)年は、日本における流線形ブームのピークの年であったかもしれない。

 まずは新型の電車、52系が製造され、京阪神間で運行を開始。客観的に見ても、その先頭車はドイツの「フリーゲンダー・ハンブルガー」よりも更に流麗なスタイルだ。当時の日本でよくぞこんなに先進的なスタイルの電車が作られたものである。
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(名古屋のリニア・鉄道館に保存されている52系)

 この電車は戦後も長く使われ、私が中学生の頃はスカ色に塗られて国鉄の飯田線を走っていた。流線形の国電ということから「流電」と呼ばれ、私の好きな車両だったのだが、昭和11年のデビュー当時は「魚雷形電車」と呼ばれていたというから、何とも世相を感じさせるネーミングではある。

 そして、先に述べたEF55形電気機関車3両が製造され、沼津機関区に投入される。この年の2年前に丹那トンネルが開通して、東海道本線が御殿場ルートから熱海ルートへと代わり、東京・沼津間の電化が完成。EF55はこの区間で特急「つばめ」や「富士」を牽くことになった。

 この年には更にC55形蒸気機関車が登場。その内の21両が流線形のボディになって、主に急行列車を牽引している。

 更に言えば、流線形ブームは気動車にも及び、翌1937(昭和12)年にはキハ43000形の試作車が登場。流電52系をそのまま気動車にしたようなスタイルだが、その後、愛知県の武豊線などに投入されたようである。
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(大宮の鉄道博物館に展示されているキハ43000形の模型)

 日本で流線形の鉄道車両が次々に登場した昭和11年。だがそれは、世界を見渡してみれば軍国主義が日に日に力を増して、戦争の足音がすぐ近くまで聞こえ出した年である。国内では二・二六事件が起こり、欧州ではヒトラーやムッソリーニ、スペインのフランコが前面に躍り出ていた。
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 「実は海軍のほうでも昭和十一年は、その年の十二月三十一日をもって軍縮条約をすべて廃棄し、いわゆる『naval holiday』(海軍の休日)、アメリカもイギリスも軍艦を造らないという非常に穏やかな時代が終わり、建艦競争=軍艦を造る競争がはじまる、つまり敵対意識が大きくなりはじめ、対英米戦争への道が踏み出された大事な年でもあるのです。」
(『昭和史』 半藤一利 著、平凡社ライブラリー)

 そして、僅か3年後の秋にはドイツのポーランド侵攻が始まり、世界は第二次世界大戦へと引き摺り込まれることになる。

 従って、流線形の鉄道車両が高速運行を競った時代は、(自国が戦場にならなかった米国は別として)欧州や日本では短命に終わった。特に日本は線路が狭軌(1,067mm)で急勾配・急カーブも多いため、スピード・アップには限界があった。そして最高時速がせいぜい95km程度だと、流線形の効果も殆どないようだ。むしろ車体が流線形のカバーに覆われている分だけ保守点検に時間がかかり、機関車の流線形は敬遠されていった。

 冒頭のEF55にしてもそうだ。上記の問題に加えて、前後非対称の形だから、目的地に着いたら転車台(ターンテーブル)で車両の向きを反対にする必要があるのだが、転車台はもともと蒸気機関車用だから、EF55がそれを使うためにはその上に架線を引かなければならない。そんな使い勝手の悪さもあって、この機関車は3両が製造されただけになった。
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 大宮のEF55を見つめる時、そのどこかユーモラスな車体から昭和11年という時代の重苦しさを感じ取ることは難しい。むしろ、そんな息苦しい時代だからこそ、力学上の効果は殆どないとわかっていても、優雅なスタイルの流線形車両(ストリームライナー)を作ることに、当時の鉄道関係者は夢中になったのだろうか。

 科学技術の進歩と共にいつの間にか使われなくなった言葉にも、相応の歴史が込められている。そのことを改めて思った。

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こまち21号 [鉄道]


 4月22日、出張先の東北地方は快晴の空の下にあった。仙台以北はどこも桜が満開で、始まり出した木々の新緑と共に淡い色彩が東北新幹線の沿線に溢れている。そして青空をバックに聳える東北各地の残雪の山々を車窓から眺めるのは、この季節ならではの楽しみである。

 朝から午後の早い時間まで各地で用件をこなした後、盛岡にやって来た私は、15時35分発の秋田行き「こまち21号」に乗車。いわゆる秋田新幹線である。これから走る路線の正式名は田沢湖線だ。小岩井、雫石、田沢湖、角館(かくのだて)などの駅を経て大曲までの単線鉄道で、大曲からは進行方向が逆になって奥羽本線に入る。終点の秋田まで、1時間半ほどの列車旅である。
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 この出張に一緒に来てもらった課長のTさんと二人で、進行方向右側の席に陣取ることにした。この区間に乗るのは初めてなのだが、おそらく右側の方が山の景色がいいと踏んでいたのだ。今日の仕事上の用件は全て終わり、後はこのまま秋田に移動するだけだから、Tさんも私も気楽なものである。
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(JR東日本のHPより拝借)

 茜色のボディーの「こまち21号」は、定刻通りに盛岡駅を発車。東北新幹線から分かれて電車が左カーブを切り始めると、車窓の彼方には岩手山(2,038m)が早速姿を見せる。2,000m級の山だけあって、この時期は残雪が実に豊富だ。本当に形のいい山で、眺めているだけで山心を掻き立てられてしまう。
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 最初の駅の大釜で上りの「こまち24号」と交換した後、その次の小岩井駅の前後から、岩手山の西に連なる山々が見え始めた。その中で、標高の高い稜線の一番西にあたるのが秋田駒ヶ岳(1,637m)だ。このあたりでは、岩手山、秋田焼山と共に気象庁による噴火警戒レベルの対象になっている火山である。
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 昨年の夏、旧友のT君と二人で秋田・山形両県の境にある鳥海山(2,236m)に登った時、その山道の途中から秋田駒ヶ岳と岩手山のピークが並ぶように見えていたものだった。その秋田駒ヶ岳から南に向かって山並みが続く。私が今乗っている電車は、これからその山並みをトンネルで越えていくのである。

 東北地方の中央部分を背骨のように南北に500kmも走る奥羽山脈。東北本線の各地から、その奥羽山脈を東西に横切るように敷設された鉄道路線は全部で7線。北から順に、花輪線、田沢湖線、北上線、陸羽東線、仙山線、奥羽本線(米沢・福島間)、そして磐越西線である。
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 この内、北上線以南の5路線は1892(明治25)年の鉄道敷設法によって路線の建設が定められた路線で、奥羽本線の米沢・福島間(明治32年開業)を皮切りに、比較的早い時期に建設されている。磐越西線、陸羽東線、北上線はいずれも大正時代に全線開業し、仙山線も昭和12年の全通である。

 そして、この7路線の中で最も北にある花輪線(大館~好摩)は、1922(明治40)年の改正鉄道敷設法によってその一部が建設予定線として定められ、既に開業していた私鉄の秋田鉄道や軽便鉄道の路線と繋がって1931(昭和6)年に全線が開通している。

 それらに対して田沢湖線は、この7路線の中では全線開通が最も遅く、唯一戦後になってから全線開業に漕ぎつけた路線である。秋田県側が大曲から、そして岩手県側が盛岡から、共に大正時代に軽便鉄道として開業していたのだが、秋田県の生保内(おぼない)駅(現在の田沢湖駅)と岩手県の雫石駅の間が、奥羽山脈を横切る険しい地形であり、この区間の建設計画が認められたのは昭和に入ってからのことだったという。だが、日中戦争の激化によって工事は中断し、戦時の統制時代に入ると不要不急線と見なされてしまう。戦後、鉄建公団によって残る区間の建設が始まり、全長3,915mの仙岩トンネルで奥羽山脈を貫いて田沢湖線の全線が繋がったのは、昭和41年のことである。
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 だから、東海道新幹線が開業した昭和39年10月現在の鉄道路線図を見ると、現在の田沢湖線はまだ生保内線と橋場線に別れたままになっている。(橋場線は雫石から先の二駅が新たに建設された状態だ。)
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(弘済出版社『大時刻表』 昭和39年10月版より)

 因みに、この時代には現在の北上線が「横黒(おうこく)線」と表記されているのも興味深い。これは北上の旧名が黒沢尻だったことから、横手と黒沢尻の頭をそれぞれ取って横黒線となっていた訳だ。

 そんな事情で全線開業時期が遅くなった代わりというべきか、1982(昭和57)年の東北新幹線の開業(大宮・盛岡間)に合わせて、田沢湖線は全線が交流電化となり、新幹線接続用に秋田・盛岡間を結ぶ特急が走る路線となった。奥羽山脈を横断する上記7路線の中で完全電化しているのは、幹線扱いの奥羽本線を別にすれば、仙山線とこの田沢湖線だけである。

 電車は雫石駅を過ぎ、川沿いに春木場駅、赤渕駅と進んで行くと、路線は狭い渓谷の中へと入り込み、車窓は一気に山深い景色になっていく。所々に残雪も現れ始めた。それでも木々の芽吹きは始まっていて、線路のすぐ脇には水芭蕉が自生している場所が幾つもあった。東北の春は本当に美しい。

 「『秋田新幹線』っていうけど、スピードは結構ゆっくりしてるんですね。」

 通路側の席に座ったTさんが言う。確かに赤渕駅を過ぎてからは列車の速度が顕著に落ちて、トロトロとした走りになった。盛岡・田沢湖間40.1kmを32分間で走るから表定速度は75.2km/hなのだが、窓の外を眺めている限りでは、今はそれよりも遥かに遅いスピードである。

 「これからがいよいよ山越えの区間だからね。勾配もきつくなったんでしょう。」

 私たちが乗っているE6系「こまち」は、東北新幹線の八戸・新青森間の開業時に「はやぶさ」としてデビューしたE5系電車に併結されて新幹線区間を走る場合には、最高時速320km/hでの走行が可能な車両である。そのスマートな車両にこんな山深い景色は何とも不釣り合いなのだが、昭和41年にこの山越えの区間が開業した時には、それから半世紀も経たないうちにこんな新幹線車両が走るようになるとは、想像も出来なかったに違いない。

 やがて、線路を覆うスノー・シェルターが現れた。奥羽山脈を横断する仙岩トンネルの東側に設けられた大地沢信号所だ。赤渕駅とトンネルの西側の田沢湖駅の間が18kmもあるため、トンネルの西側の志度内信号所と共に設置され、列車交換用に使われている。あたりは深い渓谷の中。冬ともなれば相当な積雪量となる場所なのだろう。
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(仙岩トンネルの東側)

 そして、列車はいよいよ仙岩トンネルを通過。更に二つのトンネルを抜けると再びスノー・シェルターをくぐり抜けて志度内信号所を過ぎる。トンネルに入る前に見えていた沢は列車の進行方向とは逆に流れていたのに、今見えている沢は列車と同じ方向に流れている。やはり仙岩トンネルによって分水嶺を越えたのだ。窓の外はもう秋田県である。
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(仙岩トンネルの西側)

 景色が一度広々となって、16時07分に田沢湖駅に到着。ここで上りの「こまち26号」と交換してすぐに出発となる。列車は再び谷の中を走るようになるのだが、それを過ぎて田園風景が広がるようになると、田んぼの向こうから秋田内陸縦貫鉄道の細々とした単線のレールがこちらに向かってくる。それが合流すると、角館だ。16時20分着。ダイヤ通りである。

 角館を過ぎて、進行方向の右側に席を取ってよかったと改めて思う眺めに出会った。玉川の左岸に続く満開の桜並木だ。小京都とも呼ばれる角館は桜の名所なのだそうで、平日の午後だというのに、この駅で乗降する旅行者が外国人も含めて結構多かった。私たちは出張とはいえ、桜がまさに満開の時期に秋田新幹線に乗る機会を得たのは何とも幸運であったというべきだろう。

 列車は更に田園風景の中を走り、南西から南東へとほぼ90度の右カーブを切って、右からやって来る奥羽本線の線路と並走するようなる。間もなく大曲なのだが、ここで私はその線路の様子を注視していた。ここは秋田新幹線用の標準軌(軌間1,435mm)と奥羽本線用の狭軌(同1,067mm)の二種類の線路が並ぶ区間なのである。
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(手前が標準軌、奥が狭軌)

 秋田新幹線を運行するためには、在来線部分に標準軌を設けなければならない。田沢湖線は1996(平成8)年の3月から約1年をかけて全線を改軌することになり、この間は全列車の運行を休止して代行バスが用意されると共に、秋田と東北新幹線を結ぶ連絡特急はこの期間だけ北上線経由になった。一方、奥羽本線の大曲・秋田間は、複線の内の片方が標準軌、もう片方が狭軌となり、その内の一部区間は狭軌側が三線軌条となり、「こまち」同士の列車交換が出来るようになっている。

 16時31分、大曲着。ここで進行方向が逆になり、列車が再び動き出すと、窓の外は線路の西側(日本海側)の景色が南方向へと流れて行く。大曲まで来れば秋田はすぐかと思っていたら、この「こまち21号」でもこの区間に37分を要するダイヤになっていて、盛岡・秋田間の全所要時間の4割ほどがまだ残っていることになる。やはり東北地方は南北に長いのだ。

 そのうちに、凡そ南西の方角の彼方に雪を抱いた端正な形の山が見えていることに気がついた。この場所からこの方角を見て、まだ雪を抱いた富士山形の山といえば一つしかない。それは鳥海山(2,236m)である。今朝早くに東京を出てから、今日は東北各地の山々が車窓から見えていたが、昨年の夏に登った鳥海山までが姿を見せてくれるとは・・・。今日は出張に来ているという自分のステータスを、私はもう完全に忘れている。
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 「それにしても、色々な山をよくご存知ですねえ。見ただけでよく名前がわかるなあ。」
隣の席のT課長は、殆どあきれ顔だ。
 「まあ、昔取ったナントカってヤツですよ。それに、多少は予習してきたこともあるんだけどね。」
出張カバンの片隅に入れてきた『日本鉄道旅行地図帳』を取り出して見せると、Tさんはもう一度驚いた。
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 とりとめもない山野の景色とカーブが続き、やがて広い平野に出ると、時計は17時を回っている。反対側の窓の彼方には、目を惹く形の山が雪を抱いて聳えている。秋田の地酒の名前にもなった太平山(1,170m)だ。いよいよ秋田にやって来たという思いを強くする。
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 17時08分、定刻通りに秋田駅に到着。駅ビルを抜けて外に出ると、快晴の空の下、夕暮れ時の心地よい風が吹いていた。湿度もなくて実に快適である。T課長と私は駅から近いビジネスホテルに入り、それから街に出て秋田の酒と肴を楽しんだことは言うまでもない。
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 今回は背広姿での出張だったが、いつかまた、今度は自由気ままな旅のスタイルで、やはり桜と新緑の時期にこの地域を訪れてみたいと、強く思った。

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