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上野と東京 [鉄道]


 あれは確かリーマン・ショックが起きるちょうど1年前のことだったから、2007年10月のことだったと記憶しているのだが、ヨーロッパ出張中に迎えた週末に、私はちょっとした鉄道旅行をしたことがあった。

 金曜の夜にフランクフルトで仕事が終わり、翌・土曜日のうちにロンドンへ移動すればいいだけの行程。普通なら飛行機に乗れば直ぐなのだが、それも何だか味気ない。私は一計を案じて列車を乗り継ぐことにしたのである。

 朝の8時半にフランクフルトを出て正午にパリに着く直通の特急に乗り、パリでユーロスターに乗り換えれば、ドーバー海峡をトンネルで越えて夕方の早い時刻にロンドンに着く。ロンドンでは知人と晩飯を食べる約束をしていたが、それにも十分間に合うだろう。
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(フランクフルト中央駅)

 そうやって国際列車に乗ってみたのは、やはり自分にとっては得がたい経験になった。ドイツ西部から列車に揺られてロレーヌ地方を通過してフランスに入るというのは、車窓を眺めているだけも実に楽しいものだ。そして、パリ東駅に近づいて列車が速度を落とし、モンマルトルの丘の上に建つサクレクールの白亜の教会堂が窓の外に見えると、パリにやって来たという実感が湧いてくる。
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(パリ東駅)

 もっとも、パリ東駅に着いた後は、ユーロスターが出るパリ北駅まで歩くことになる。(天気が良かったから、それはそれで楽しい散歩にはなったのだが。) そして、ロンドンでのユーロスターの終着駅は、当時はまだウォータールー駅だったから、テムズ河の北側のロンドン中心街まではまだちょっと距離がある。要するにヨーロッパの大都市では、長距離列車の出る駅が方面ごとに分かれていることを今更ながら実感することになった。しかも、ヨーロッパのそうした終着駅はだいたいが行き止まり式の駅だから、駅から駅への移動は地下鉄などを利用することになる。
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(ユーロスターに乗るのはパリ北駅)

 東京でも、JRの長距離列車が出る駅は東京、上野、新宿の3駅なのだが、それらは同じJRの環状鉄道・山手線によって繋がっているから、ヨーロッパの駅よりは便利だ。今の私たちはそれを当たり前のことのように思っているが、東京がそんな姿になったのは、実はこの90年ほどのことなのである。

 よく知られているように、駅の開設時期は上野の方が東京駅よりもずっと古い。明治時代に日本初の私鉄である日本鉄道が、現在の高崎線の前身となる上野・熊谷間の鉄道を明治16(1883)年に開業した、その時の起点となったのが上野駅だった。

 そして、日本鉄道は上野駅の南に貨物駅を設けた。荷物を降ろした後に神田川の水運を利用することを視野に入れていたようで、その貨物駅は上野駅から真っ直ぐ南に線路を延ばして神田川にぶつかる手前に建設された。それが秋葉原貨物駅である。上野駅の開業から6年後の明治23(1890)年のことなのだが、明治の末期には東京向けに出荷された米がもっぱらこの駅に集まったというから、貨物駅としては活躍を続けたのだろう。
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(明治時代の地図)

 明治時代の上野駅周辺の地図を見ると、現在の山手線や京浜東北線の高架よりも東寄り、昭和通りの一本西寄りに地上鉄道が南に走っている様子がわかる。昔ながらの住宅の密集地の中を通る鉄道線路。もちろん当時は蒸気機関車の時代だから、貨物線とはいえ沿線住民は難儀をしたに違いない。

 一方、手狭になった上に皇居からも遠い新橋(汐留)駅に代わる東京の新しい中央駅として、東京駅が開業したのは大正3(1924)年12月。日露戦争後の国威発揚の気分も多分にあって、皇居を望む丸の内側に赤レンガ造りの堂々とした駅舎が建てられた。私鉄の駅としてスタートし、後に明治39(1906)年の鉄道国有化で国の物になった上野駅とは違って、東京駅は初めから官設鉄道の駅である。

 当時は、国の威信を体現する中央駅の建設と共に、ドイツに倣って都市の外縁部を環状に結ぶ高架の電車線を建設することが帝都東京の課題。大正8(1919)年には東京駅と中央線の万世橋駅が線路で結ばれ、神田駅が開業。残る区間は上野・神田間の高架線だ。そこがまだ開通していないから、立川方面から中央線を走ってきた「国電」は、神田から東京→品川→池袋→田端を回って上野で折り返すという「の」の字運転をしていたのだった。
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 江戸時代に、馬に乗ることが許されず、江戸城の警護や将軍出行の際の行列の先導を徒歩で務めた下級武士たちを、人々は「徒士(かち)」と呼び、彼らによって編成された隊のことを「徒組(かちぐみ)」と呼んだ。上野と神田の間には、そうした徒士たちが住む長屋が数多く並んでいたという。また、浅草寺や上野の寛永寺など、数多くの塔頭を持つ寺が周辺にあったので、仏具や銀器などの飾り職人も多く住み、江戸時代から住宅の密集地を形成していたようだ。大正時代になってからそこに高架の鉄道を建設するというのは、さぞかし手間隙のかかることであったのだろう。加えて、大正12(1923)年には関東大震災が起きた。

 それやこれやで計画からは遅れたものの、大正14(1925)年の11月に、この区間の電車線がようやく開業。既にあった秋葉原貨物駅が旅客の取り扱いを始めると共に、かつては徒士の長屋が続いていた場所に「御徒町(おかちまち)」駅が開業した。山手線で戦前に設けられた最後の駅である。

 ようやく線路が繋がった上野と東京。それでも、東北本線・高崎線の列車は上野止まり、東海道線の湘南電車は東京駅止まりという意識が私たちにはあるのだが、実はこうして線路が繋がった大正14年11月1日をもって、東北本線の起点は上野から東京に移されているのだ。だから、東北本線や高崎線を走ってきた列車が上野を越えて東京駅まで乗り入れてもおかしくない、というかそれが本来の姿なのだろう。

 事実、山手線・京浜東北線の他にもう一線ある線路を使って、上野・東京間を走る中・長距離列車はかつて存在していたのである。昭和43年10月の全国ダイヤ大改正(いわゆる「ヨン・サン・トオ」)以前の、全国にまだ多数の準急が走っていた時代には、日光発・伊東行きの準急「湘南日光」などが運行されてていたし、その後の特急大増発の時代には、奥羽・東北本線、上越・信越・高崎線、そして常磐線の特急の一部が、若干の普通列車と共に東京発着になっていたのだ。そして、お盆の時期には東北方面行きの夜行列車の一部が品川始発になったりしていたものである。
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 時代が変わったのは、東北新幹線が開業してからのことである。

 昭和57(1982)年6月に盛岡・大宮間で暫定開業した東北新幹線は、昭和60(1985)年3月に上野まで延伸。そして平成3(1991)年には東京駅までの延伸を果たすのだが、そのためのスペースを確保するために、既存の東北本線用の線路が秋葉原・神田間で分断されることになった。臨時列車も含めて、中長距離列車の上野・東京間の直通運転は、昭和58(1982)年1月限りで廃止。東北本線の起点は東京駅のままなのに、それ以来上野・東京間を実際に結ぶのは山手線・京浜東北線だけになった。大正14年に神田・上野間の電車線が開業してから、ちょうど60年後のことだった。

 それから32年。上野・東京間で続いてきた山手線・京浜東北線の混雑解消を目指して、今年3月14日にJR東日本は「上野東京ライン」を開業。宇都宮線・高崎線と東海道線の列車が上野・東京経由で相互乗り入れを行うと共に、常磐線の一部列車が品川まで乗り入れることになった。
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 JR東日本のHPに上野東京ラインの車窓動画が載っているので、それを眺めてみよう。

 北行きの電車は東京駅を出て首都高速道路をくぐった後、結構な急勾配で新設の高架橋を上がり、神田駅の上を乗り越えるようにしていく。最初は右側を並走していた東北新幹線の線路はこの区間で新高架橋の下に入るのだ。そして今度は下り勾配で新高架橋を終えて、秋葉原駅の直前で他の線路と同じ高さになり、右側に再び東北新幹線の線路が現れて、共に総武線の線路をくぐる。秋葉原を過ぎると新幹線は地下に潜り、上野・新宿ラインは山手線・京浜東北線と同じ既存の高架を走る。このあたりは元からあった東北本線の線路を走っている印象だ。御徒町駅にかけて、高架の一番東寄りにあった留置線も昔のままである。

 かつては一部列車の上野・東京間の乗り入れだけだったこの区間が、今回の「上野東京ライン」の開業によって、多数の列車が相互により奥深くまで乗り入れることになった。それまで東海道線用に2面4線を使っていた東京駅のキャパが増えた訳ではなく、南行きの電車を東京止まりにしている余裕はないから、そうならざるを得ないのだが、湘南新宿ライン的な便利さがあることは確かである。また、常磐線の延伸は明らかに今の品川駅のキャパを使えるから実現したことだ。

 32年ぶりの先祖帰りを果たした上野・東京間。単なる先祖帰りに留まらず、これからも様々な工夫・改良を加えて利便性を高めて欲しいものである。

 

半世紀前の鉄路 [鉄道]

 10月14日は「鉄道の日」である。言うまでもなく、明治5年のこの日に新橋・横浜間で我国初の鉄道が開業した、そのことに因んでのものだ。ちょうどその頃は体育の日の三連休が近いので、いつもその三連休の内の土日を使って、東京の日比谷公園では「鉄道フェスティバル」が行われている。今年はそれが11日(土)と12日(日)になった。

 台風19号の足取りが遅く、当初言われていたよりは好天になった11日(土)、午前11時頃に日比谷公園へ足を運ぶと、鉄道フェスティバルの会場のあちこちで、もう既に長い列が出来ている。鉄道会社や色々な団体がテントを出して、それぞれに広報活動を行っているのだが、長い列の殆どは、いわゆる鉄道グッズを買い求める人々の列だ。特に今年は東海道新幹線の開業から50周年にあたるので、「新幹線グッズ」にはとりわけ人気があるようだ。

 そんな中で、私はある物に目がとまり、次の瞬間にはそれを手に取ってレジの前に並んでいた。東海道新幹線の開業に伴う昭和39年10月1日の国鉄ダイヤ大改正。その内容を掲載した弘済出版社の「大時刻表」昭和39年10月号の復刻版を、期間限定で発売していたのである。
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 列車ダイヤというのは、それ自体は列車の運行スケジュール表に過ぎないのだが、その当時どんな路線でどんな列車がどのように走っていたのかというデータは、ある角度からその時代を写したスナップショットのようなものである。しかも今回手に入れたのは、今からちょうど半世紀前、東京オリンピックが開催された当時の日本の姿が描かれたものである。私はこの復刻版「大時刻表」を宝物のように持ち帰って、この三連休の間はヒマがあれば眺めていた。

 全600ページのこの時刻表。当時の販売価格は180円だ。国電の初乗り料金(1~3km)が10円、国鉄の食堂車のメニューの中で、和定食の並が150円、上が200円となっていた時代に、時刻表一冊180円というのは結構いい値段だったはずである。眺めていると本当にキリがないのだが、取りあえず気がついたことを幾つか、忘れないうちに記載しておこう。

(1) 開業時の新幹線

 五輪大会の開会に先駆けてこの年の10月1日に開業した東海道新幹線。50年も前のことだから、もうすっかり忘れてしまったことばかりだが、開業当初の姿は以下のようなものだ。
● 東京発(下り)、新大阪発(上り)共に、朝6:00より定時が「ひかり」、毎時30分が「こだま」の発車時刻で、それぞれ一時間に一本が運行されていた。
● 在来線とは異なり、新幹線の列車番号は当初から下りが奇数、上りが偶数になっていた。
● 東京・新大阪間の所要時間は、「ひかり」が4時間、「こだま」が5時間。前者は「超特急」、後者は「特急」と区分され、いずれも特別急行料金は在来線のそれとは異なっていた。

 なお当時の国鉄は、一等車を利用するか二等車かで、運賃そのものが異なっていた。それに加えて特別急行料金や急行準急料金も一等と二等では料金が違うので、運賃も含めて一等は二等の約2倍というのが相場だった。また、同じ東京・新大阪間の移動も、新幹線だけでなく在来線の急行や準急を使う手もあったから、旅の所要時間と値段とを縦横にした大きなマトリックスがあったのだ。
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(東京・新大阪間の料金比較)

 この当時から4年半後に国鉄は等級別の運賃を廃止し、代わりに「グリーン料金」を導入している。普通車とグリーン車では、運賃を含めた価格差は略1.5倍程度になったが、今となっては、東京・新大阪間の列車利用は新幹線以外にはあり得なくなっているから、格差は縮まったが全員が値段の高い手段を利用するしかない時代になったともいえる。

(2) 在来線の存在感・・・東海道本線

 以上、東海道新幹線については見ての通りだが、これで東京・新大阪間の移動が全て新幹線にシフトした訳ではなかった。朝の6時前から午後4時頃までの間、東海道本線の下りは、定時列車だけも9本の急行と13本の準急が走っている、行先は修善寺、下田、静岡、名古屋、大垣などが中心だ。
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(東京駅発 東海道本線下りの優等列車(16時以降))

 そして、16:35に長崎行きの寝台と急「さくら」が出発して以降は、九州・山陽・山陰方面行の寝台車を伴う夜行列車が15本も設定されている。圧巻は16:35から19:05までに5本の九州行き寝台特急が出発することと、21:30から22:00までの僅か30分間に大阪行きの夜行列車3本が立て続けに出発することだ。東京・大阪間は新幹線による高速移動の時代が始まったが、それでもなお多くの人々が在来線で長距離の移動を行っていたのである。

(3) 電化の足音・・・東北本線

 「大時刻表」の後ろの方に、宮城県・鳴子温泉の或るホテルの広告が載っていた。この年の5月に新規開業したホテルだそうだが、その広告の中にあった東京からのアクセス図を見て驚いてしまった。鳴子温泉へ行くのに東京から鉄道利用だと、東北本線の小牛田(こごた)まで来て陸羽東線に乗り換えるのだが、その小牛田までが東北本線で「東京から急行で7時間」と書いてあったのだ。
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 本当にそんなにかかるのかと思って「大時刻表」を繰ってみると、朝のうちに上野を出て夕方前に小牛田に着くための行き方として、次の4パターンがヒットした。
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(上野から小牛田への行き方)

 昭和39年10月当時、東北本線の電化は上野から仙台までだった(上野・黒磯間が直流、黒磯以北が交流)。だから、上野からの電車急行「まつしま」は仙台止まりで、そこから先の非電化区間は気動車に乗り換えなければならない。

 一方、列車ダイヤの過密な東北本線の迂回路として、常磐線経由で仙台以北へ向かう列車が、当時も数多く設定されていたのだが、その常磐線の電化も、この時点では平(現在のいわき)止まりだった(上野・取手間が直流、取手以北が交流)。従って、常磐線の長距離列車は最初から気動車だった。小牛田へ行くケースでも、この常磐線経由の方が所要時間が多少短かったようだ。

 輸送力増強とスピードアップを目指して、東北本線全線の電化と複線化が完了したのは昭和43年の秋で、いわゆる「ヨン/サン・トオ」の全国ダイヤ白紙大改正の時だ。今回手にした「大時刻表」は、それ以前の東北地方の交通の姿を私たちに教えてくれている。

 それにしても、鳴子温泉まで東京から8時間もかけて旅をした当時の皆さん、お疲れさまでした。

(4) 急勾配との闘い・・・中央本線

 東北本線とは対照的に、戦前の時代も含めて比較的早くから電化が進んでいたのが、中央本線(中央東線)だった。然しながら、中央本線が抱えた困難は、その急峻な地形ゆえに急勾配が連続することと、複線化の場所の確保、そして明治時代に造られた狭小トンネルの取り扱いなどであったといえるだろう。

 今回の「大時刻表」が示す昭和39年10月と、それから約8年が経過した昭和47年8月、そして現在の中央本線について、朝7時に新宿を出る下りの優等列車のダイヤを比較してみよう。
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(新宿発 朝7時 松本行き優等列車の比較)

 昭和39年10月は、松本行きのディーゼル急行「第1アルプス」だ。大月から河口湖へ行く車両と、小淵沢から小海線経由で小諸へ行く車両とを併結している。この列車の新宿・松本間の所要時間は4時間50分だ。ラップタイムを見ると、大月・甲府間に57分、甲府・小淵沢間に55分を要しており、このあたりがネックになっている。

 おそらくこれは、この区間にスイッチバックが幾つも残っていたことが原因なのだろう。大月・甲府間では、初狩、笹子、勝沼の各駅、そして甲府・小淵沢間では韮崎、新府、穴山、長坂の各駅がスイッチバックになっていて、列車はそのたびに進行方向を変えながら急勾配を上り下りしていたのである。(本線と名のつく路線でこれほどの急勾配が連続するのは、他にはないだろう。)

 真ん中に示した昭和47年8月のダイヤを見ると、下りの急行「アルプス1号」は165系の電車急行である。大月・甲府間で15分、そして甲府・小淵沢間で20分もラップタイムを短縮し、松本までの所要時間は4時間12分になった。これは明らかに、昭和40年代の前半に複線化と同区間のスイッチバックの解消が進んだことの成果である。

 なお、現在は特急「スーパーあずさ1号」に乗れば新宿・松本間は2時間39分である。車体の振り子構造によってカーブ上での高速走行を実現したE351系だったが、デビューから既に四半世紀が経過し、来年度には新型車両に置き換えられるそうである。

(5) ローカル線の見本市・・・北海道

 「大時刻表」の冒頭には、全国の鉄道地図が載っている。それを眺めているのも興味が尽きない。今では姿を消してしまった路線がまたたくさん載っているからである。北海道などはその典型だろう。特に目につくのは、オホーツク海沿岸を走る鉄道がたくさんあったことだ。(今では釧網本線の網走・斜里間だけである。)
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 旭川と稚内を結ぶ宗谷本線。その途中の音威子府(おといねっぷ)という駅から、オホーツク海沿岸を経由して稚内へと向かう天北線(てんぽくせん)という、名前からして最果てムードたっぷりのローカル線がかつてあった。宗谷本線の元々のルートは、実はこの天北線だったそうだ。そして、この路線の途中にある浜頓別(はまとんべつ)からは、オホーツク海沿いに更に南東へと進み、北見枝幸(きたみえさし)へと至る興浜北線(こうひんほくせん)という更なるローカル線があった。

 そしてもう一つ、音威子府の南にある美深(びふか)という駅から盲腸線が仁宇布(にうぶ)という駅まで建設されていた。美幸線(びこうせん)である。

 昭和39年10月号の「大時刻表」で天北線のページを繰ってみると、何とも溜息が出るような列車ダイヤがそこに示されていた。
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 音威子府発、天北線の稚内方面駅の列車は、始発が03:44(エラく早い!)、その次が05:59なのだが、その次の10:08発の列車まで、4時間9分もの間は列車が一本もないのだ。そして、これら3本の列車にそれぞれ接続しているのだろう。浜頓別から興浜北線の下り列車が05:02、7:50そして11:42にそれぞれ出ている。

 こんな調子だから、天北線の稚内行は午後も4本、興浜北線の北見枝幸行きも3本のみだ。そして天北線の不思議なところは、午後の4本の内の一つが小樽発・稚内行の急行「天北」という優等列車だったことだ。午前中に列車の走らない時間帯が4時間もあるようなローカル線で、急行列車を利用するニーズがどれほどあったのだろうか。

 前述した美幸線は、この「大時刻表」が出版された昭和39年10月1日時点ではまだ開業していない。10月5日に開業したので、この「大時刻表」には路線名はあっても列車ダイヤは載っていないのだ。この時点でまだこんな盲腸線を新たに建設していたことには驚くばかりだが、この美幸線には、終点の仁宇布から興浜北線の北見枝幸を結ぶ延伸がなおも計画されていたというのだから、恐れ入ってしまう。(深と北見枝を結ぶから美幸線という訳だ。)

 私が学生の頃、国鉄の営業係数のワースト路線がこの美幸線だとされていたが、それは無理もないことだろう。興浜北線と美幸線は、まだ国鉄が存続していた昭和60年に廃止。そして天北線はJR発足後の平成元年に廃止となった。急行列車が走る路線が段階を経ずにいきなり廃止になったのは、天北線が全国で初めてだそうである。

 昭和39年は、東海道新幹線開業の年であるが、皮肉なことに国鉄の財政が赤字に転落した最初の年でもあった。当時の「大時刻表」に残された赤字ローカル線の数々は、そうした国鉄の姿が必然であったことを物語っているのだろう。


 この三連休が終わると、14日(火)が本当の鉄道記念日だ。台風19号が東日本を通り抜けて行くようだが、各地の鉄道路線に大きな被害が出ないことを祈りたい。

200メートルの先祖返り [鉄道]


 東京・飯田橋は、駅のすぐ北側に巨大な五差路があって、いつも多くのクルマが犇めいている。JRの他に4本の地下鉄が通り、まさに交通の要衝といった場所だ。神田川の流れが南から東へと大きく向きを変える所で、江戸時代には牛込見附という江戸城の見張り場があった。その牛込見附から南西方向には四谷までの間に江戸城の外堀が続き、桜の季節などには恰好の散歩コースである。

 その飯田橋の五差路から電車のガードをくぐって九段下の方向へと大通りを歩いていくと、飯田橋二丁目の信号の足元に一本の石碑が立っている。そこには「甲武鉄道飯田町駅」の文字。だが、あたりには今や鉄道の匂いは全くしない。
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 その石碑から左を向くと、小さな路地の先にホテルメトロポリタンエドモントが見えている。JR東日本グループが経営するホテルだ。そこから左回りにホテルの裏手へ回ると、高層ビルが建ち立ち並ぶ「アイガーデンエア」と名付けられた一角に出るのだが、その遊歩道がちょっと変わっている。ある一帯の敷石だけが他とは異なる煉瓦色で、それを挟むようにして両側に金属のレールが埋め込まれている。巻尺で測った訳ではないが、その幅は1,067mm、つまりJRの在来線と同じ狭軌の幅ではないだろうか。
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 アイガーデンエアはJR貨物が事業主となった再開発エリアで、貨物駅や紙類の倉庫、引込線などがあった場所をオフィスビルや高層マンション、ホテル棟などにしたものだ。だが、そもそもこの場所で明治時代に鉄道事業を始めたのは、先ほどの石碑に名前のあった甲武鉄道という私鉄だった。現在のJR中央本線の八王子から都心部までの区間の前身となった会社である。

 明治の初年に、元々は新宿・八王子間に馬車鉄道を造るつもりで起こされた会社であったらしい。事実その免許も下りたのだが、紆余曲折あって蒸気を動力とする鉄道へと規格を変えて改めてその免許を取得し、明治22年4月11日に新宿・立川間の開業に漕ぎつけた。そして、同年8月には八王子まで延伸。この年は2月11日に帝国憲法が発布され、7月1日には東海道本線が全通している。明治の日本が漸くそれらしい姿形を現わしつつあった頃だから、甲武鉄道の出現は全国的に見ても早かったと言うべきだろう。
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 その甲武鉄道が新宿から都心部へとレールを伸ばしたのは、それから5年後のことだった。明治27年10月9日、新宿・牛込間が開業。この牛込駅というのは現在の飯田橋駅よりも少しだけ市ヶ谷寄りの場所に設けられていた。

 飯田橋と市ヶ谷の中間にある新見附橋の上から電車の線路を眺めると、一番お堀寄りを走る総武線の津田沼方面行きの線路が、飯田橋に向かう途中で大きく左に(=お堀側に)寄り、中野方面行きの線路との間隔を空けている。この間隔は飯田橋のホームに至るまで続くのだが、これが牛込駅を造るために設けられた間隔ではないかと言われている。
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 牛込駅の遺構として知られるもう一つの物は、線路の南東側に沿って続く土手にある。これはテレビ番組などでも取り上げられたりするのだが、飯田橋駅前へと続く土手道の一角に、両側を石垣に囲まれるようにして二軒の店が並んでいる場所だ。(店があるのはここだけというのも、よく考えてみると不思議。)この場所が、かつての牛込駅の入口だったそうなのである。
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 更に半年後、甲武鉄道の線路はもう一つ都心部へと進んだ。それが飯田町駅で、現在の飯田橋駅付近の急カーブから更に南へと急カーブを切って、行き止まりの駅になった。先ほどの石碑が示しているように、ホテルメトロポリタンエドモントが建っているあたりが、まさにその駅のある場所だった訳だ。

 飯田町という名前は、今や周辺の町名表示からは消えてしまったが、その名を残すものが一つある。飯田橋の駅から線路の南側を高架に沿って歩いていくと、JR東日本の変電所がある。その名称が、「飯田町変電所」なのだ。
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 ついでながら、甲武鉄道は子会社の鉄道会社を一つ持っていた。国分寺駅から北に別れて、東村山、所沢を経て川越まで、現在の西武国分寺線と新宿線の一部の前身となった川越鉄道だ。川越まで到達したのは飯田町の開業とほぼ同じ頃である。明治時代の地図を見ると、飯田町駅のあった場所には川越鉄道の名前も書かれているから、飯田町から川越までの直通列車も結構あったのではないだろうか。

 甲武鉄道のすごい所は、蒸気機関車が牽引する列車の運行だけに留まらなかったことだ。飯田町駅の開業から9年後、そこから中野までの区間を複々線化して、日本初の電車を走らせたのである。当時は二軸台車、つまり路面電車のような構造の台車しかなく、車両の両側に運転台があって単行運転だけを行うものだったのだが、甲武鉄道が製作したのは片側運転台で反対側に連結器をつけた電車だった。間接制御装置と直通エアブレーキも備え、二両連結での運転が可能だったのである。
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(大宮の鉄道博物館に展示されている、甲武鉄道製造の木造二軸電車)

 しかも、その電車線を更に都心へと伸ばすことを想定して、甲武鉄道は行き止まり駅の飯田町とは異なる場所に、電車線の飯田町駅ホームを設けた。それは現在の飯田橋駅からもう少しだけ水道橋寄りの、線路がカーブしていない場所にあった。明治42年作成の地図を見ると、牛込駅と共にその場所を確認することができる。
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 電車線は、その開業から4ヶ月後の大晦日に御茶ノ水まで延伸。その先は神田で官設鉄道に合流する構想だったそうだが、2年後の明治39年10月1日に、鉄道国有法によって甲武鉄道も国有化されることになった。この結果、甲武鉄道の電車線は、国が保有する最初の電車線、すなわち国電の元祖となった。(もちろん国鉄は戦後の組織で、当時は鉄道院の時代だったから、元祖「院電」と言うべきか。)

 後年、電車の運行が普及していくと、牛込駅と飯田町駅は間隔が短過ぎることもあって、両者が統合されることになった。それが現在の飯田橋駅(昭和3年開設)なのだが、おそらくは車両の編成が長くなるに従ってホームも伸びていったのだろう。今はホームが新目白通りを跨いで水道橋方向へと延びており、駅全体が急カーブの真ん中にある。ホームの端に立つと、その曲がり具合は奇観ともいうべきものだ。
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(新目白通りを跨ぐ飯田橋駅ホーム)

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(ホームから水道橋方の眺め)

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(同・市ヶ谷方の眺め)

 一方、電車線が通らない行き止まり型の飯田町駅は次第に貨物専用になって、戦後には紙を運ぶための大規模な倉庫(集配所)が作られたりした。国土地理院のHPにある昭和50年前後の航空写真を見ると、飯田町貨物駅の様子がよくわかるのだが、甲武鉄道の時代の転車台(蒸気機関車の向きを変える設備)などが残されていて興味深い。
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 なお、時代の変遷と共に貨物駅としての役割も激減し、飯田町駅自体が廃止になったのは平成11年3月のことである。

 ところで、現在の飯田橋駅があまりに急カーブで、ホームと電車の間が空き過ぎて危ないからと、駅全体を200mほど西側へ移す構想を、この7月2日にJR東日本が発表している。今度は駅西口の早稲田通りの直下を中心にして、直線型のホームがお堀側に突き出すのだという。要するに、その昔にあった牛込駅の場所に限りなく近づく訳だ。2020年の東京五輪までの完成を目指すのだそうだが、そうなると牛込駅の廃止から92年ぶりの復活ということになる。今度はホームからお堀を間近に見ることになる訳だから、なかなかいい雰囲気になることだろう。明治時代に甲武鉄道が新宿からここまで伸びてきた、その当時の牛込駅の様子を偲ぶことも出来るだろうか。

 飯田橋まで出てきたついでに、今も残る甲武鉄道の足跡をもう一つだけ見て行こう。それは、駅から高架の北側を水道橋方へ歩いていった先にある。神田川の流れがTの字になって、日本橋川が南へと流れる場所。その日本橋川に架かる、目立たないが重厚な鉄道橋が、小石川橋通り架道橋である。
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(小石川橋通り架道橋)

 分厚い鋼にリベットを幾つも打った重々しいトラス。よく見ると小さなプレートが取り付けられていて、Harkort社の名前と共に、1904年にドイツのデュイスブルグで作られたことがわかる。シンプルだが何とも風格のあるプレートだ。
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 1904年といえば明治37年で、この年の大晦日に飯田町・御茶ノ水間の電車線が開業しているから、まさにこの鉄橋は国有化前の甲武鉄道が架けた橋ということになる。それはちょうど110年前のことだが、今も現役の鉄道橋として活躍しているのは立派なものだ。そして、官営の八幡製鉄所が3年前の明治34年に設立されてはいたが、こうした鉄道橋などの鋼材はまだヨーロッパからの輸入に頼っていた時代であったことも、改めて教えてくれている。

 大通りから一本入った所で付近には人通りも少なく、いたって目立たない存在なのだが、この明治37年製の鉄道橋は、もっと注目されてもいいのではないだろうか。

春は「あけぼの」 [鉄道]


 あれは私が大学1年の時だから、1977(昭和52)年のことになる。

 高校時代に山岳部で一緒だった同期生のT君と二人で、8月の後半に東北の飯豊(いいで)連峰を目指すことになった。福島・新潟・山形の三県にまたがって雄大な山々がどこまでも続く、その懐の深さがいかにも東北らしい山域だ。

 東京からの交通手段は、上野発の夜行列車だった。当時の時刻表をめくってみた限りでは、23:50発の急行「ばんだい5号」か23:54発の「ばんだい6号」のいずれかに乗ったのだと思う。前者は山形行の急行「ざおう3号」、後者は仙台行の「あづま2号」に併結されていて、いずれも郡山で切り離され、磐越西線で会津若松まで行く列車だ。夏休みの時期とはいえ、会津若松行の二本の夜行急行が僅か4分間隔で運行されていたのだから、今となっては驚くばかりだが、それぐらい夜行列車にはニーズがあったということなのだろうか。

 会津若松には朝の5時過ぎに着き、そこで接続する下りの普通列車に乗り換えて、7つ目の山都という駅で降りた。駅前からは登山口までは、それに合わせたバスが出ていたはずだ。要するに、夜行列車に乗って人々がやって来ることを前提に、色々な物事が成り立っていた時代だったのである。

 1964(昭和39)年の東京オリンピックに合わせて東海道新幹線が開業し、その5年後には東名高速道路が全線開通したのに対して、私が飯豊山を登りに出かけた1977(昭和52)年の夏の時点で、東北地方はまだ交通インフラの整備途上だった。1972(昭和47)年に岩槻IC~宇都宮IC間で開業した東北自動車道が、この年にやっと宮城県の古川ICまで伸びた程度だ。東北新幹線にいたっては、開業まで更に5年を待たねばならなかった。東北では依然として国鉄の在来線が大動脈だったのだ。

 とはいえ、陸奥(みちのく)は長い。当時、昼間の電車で上野から青森までは、東北本線経由の特急「はつかり」で約8時間20分、常磐線経由の「みちのく」では殆ど9時間を要した。これでは昼間の時間が殆どつぶれてしまうから、この長い距離を夜間に移動することは理に適っていたのだ。1972(昭和47)年夏の列車ダイヤを見ると、上野から東北方面へは実に多くの夜行の特急・急行が走っていたことがわかる。
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(昭和47年8月の上野発青森行き夜行列車。太線が特急、細線が急行。星マークは寝台列車)

 寝台特急だけ見ても、青森行きは東北本線を走る「はくつる」が1本、奥羽本線経由の「あけぼの」が1本、そして常磐線経由の「ゆうづる」が4本の計6本もあった。(この内、いわゆるブルートレインは「あけぼの」と「ゆうづる4号」で、残りの4本は寝台電車583系。) 急行では東北本線経由の「八甲田」が1本、奥羽本線経由の「津軽」が2本、そして常磐線経由の「十和田」が5本だ。「十和田」のうち2本は寝台列車だった。

 常磐線経由の列車が多くを担っているのは、東北本線の首都圏区間が混雑していたからだろう。また、元々石炭の運送用に作られた常磐線は規格が上だったこと、勾配や急カーブが少ないこともあったようだ。

 それにしても、上野発青森行きの夜行の特急・急行が毎晩14本とは凄い。それはやはり、青函連絡船で北海道へと渡る人たちを見込んでのことだったのだろうか。
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(札幌までの当時の乗り継ぎ)

 青森や函館での乗り継ぎを調べてみると、やはり寝台特急の青森到着時刻は、最も効率的に青函連絡船と接続するように設定されている。特に、青森到着時刻が早い最初の2本(常磐線経由の特急「ゆうづる1号」と「ゆうづる2号」)なら、上野発がそれぞれ19:50と20:00で、札幌着は13:45だから、午後は現地で時間を使えることになる。

 もちろん当時も羽田・千歳間の航空路線はあって、朝の7時台から1時間おきにフライトが出ていた。航空料金は片道13,900円だった。飛んでいる時間は1時間15分だが、フライトの場合は前後に何かと時間を見込まなければならないから、朝の便で飛んで午前中に札幌でアポ、というのは案外難しかったのではないだろうか。

 それに対して、「ゆうづる2号」のB寝台・下段、青函連絡船の寝台、そして函館からの特急を利用すると、上野・札幌間の鉄道・連絡船料金の合計は7,910円(乗継割引料金)だった。それでともかくも13:45に札幌駅に着くのだったら、寝台特急の利用は意外と悪くない選択肢であったのかもしれない。(長旅で疲れそうではあるが。)

 そんな中で、上野発22:00のブルートレイン「あけぼの」は、青森行きとしてはちょっと不思議な時間設定の寝台特急だった。
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 奥羽本線経由だから、青森到着が10:19と、実に12時間19分もかかり、上野発の寝台特急の中では青森到着時刻が最も遅い。しかも、青森到着の4分前に青函連絡船が出てしまうから、次の船まで1時間50分も待たねばならず、北海道を目指す旅行者には向いてない。

 上野と大宮で首都圏の乗客を乗せた後は福島でも山形でも客扱いをせず、その代り4:36に到着する新庄以降の駅をかなり丁寧にフォローしている。秋田着が7:17だから、このあたりに朝一番に到着する上野発の夜行列車、というのが狙いだったのだろうか。

 そう思って調べてみると、やはりこの列車は上野・秋田間の臨時の寝台特急としてスタートしたらしい。そして1970(昭和45)年10月に定期列車に昇格した時から、上野・青森間になったという。その後、上野・秋田間が一往復増え、東北新幹線開業時のダイヤ改正(1982年11月)で東京・青森間が更に一往復の増便になった。つまり、最盛期は「あけぼの3号」まであったわけだ。

 それが、1988(昭和63)年に一往復が減り、1992(平成4)年に山形新幹線の建設工事が始まった時にルートが変更になった。

 山形新幹線は、奥羽本線の福島・新庄間を狭軌(1067mm)から標準軌(1435mm)に改軌したものだが、これによって在来線の列車はこの区間を走れなくなった。そのために、二往復あった「あけぼの」は一つが「鳥海」に改名されて、上越線回りで日本海沿いに青森へ行く寝台特急へと姿を変え、残る一本は東北本線の小牛田から陸羽東線経由で新庄へ行き、そこから奥羽本線を北上するようルートが変更されたそうである。(陸羽東線は電化していないから、この区間だけはディーゼル機関車が牽引したのだろう。)

 更に、1997(平成9)年に秋田新幹線が開業すると、陸羽東線周りの「あけぼの」は廃止になり、日本海ルートの「鳥海」が再び「あけぼの」へと改名された。これが現在の「あけぼの」の姿である。

 山形新幹線や秋田新幹線の登場によって、外に押し出されるようにその姿形を変えた「あけぼの」。だが、一日に16往復の秋田新幹線が運行され、更には2010(平成22)年12月に東北新幹線が新青森まで延伸されると、日本海回りで上野と秋田・青森を結ぶ「あけぼの」の守備範囲は益々狭くなっていった。
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 そして、今年3月14日(金)を最後に、「あけぼの」は定期列車としては姿を消すことになった。

 日曜日の朝6時55分、JR日暮里駅のすぐ北側にある陸橋から線路を眺め下ろしていると、上りの「あけぼの」がやってきた。北日本に強い寒気が居座り、日本海側で風雪が続く中、今朝も立派に定時運行だ。
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 6時58分に上野に着いた「あけぼの」は、7時11分に折り返しで上野駅を離れ、尾久の車両基地へ向けて、来た道を戻る。上野まで寝台車を牽引してきた機関車が今度は最後尾にある訳で、尾久までの間は機関車が後ろから客車を押して前に進む。この「推進運転」が見られるのも、あと一週間だけになった。
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(推進運転で上野駅から戻ってきた「あけぼの」)

 最後の上り「あけぼの」が3月15日の朝に上野に着くと、その26分後に東京駅の23番ホームでは、来年春に開業予定の北陸新幹線用に作られた新型車両E7系が先行デビューする。その両方が見られる日暮里駅前の陸橋には、今日にも増してカメラの列が出来ることだろう。

 「あけぼの」の姿が見られなくなるこの春。これで、定期列車のブルートレインは上野・札幌間の「北斗星」だけになる。

鉄路は神田へ [鉄道]

 
「江戸っ子だってねえ。」 「神田の生まれよ。」 「そうだってねえ。」

 浪花節に出て来る幕末期の侠客・森の石松が、舟の中で乗り合わせた江戸っ子との間でやり取りする有名なセリフである。石松の生年は不詳で、没年は桜田門外の変が起きた1860(安政7・文政元)年だそうだが、その当時、神田といえば江戸の本家本元のような町だったのだろう。

 東京に住むようになったのは父の代からだから、私は江戸っ子とは言えないが、一応「神田の生まれ」ではある。正確に言えば、神田駿河台にあった産院で昭和30年代の初めに生まれた。そして、その後も神田に住んだことはないものの、神田・御茶ノ水・神保町の三駅を結んで出来るトライアングルの中、つまり広義の神田は、子供の頃から何かと縁のあった地域だった。今でも我家の毎年の初詣先は、何はさておき神田明神と湯島天神になっている。

 今はオジサンになったから、神田というと用事があるのは駅周辺の飲み屋街ばかりだが、私にとっての神田というと、まずは万世橋である。かつてそこにあった交通博物館には何度も通ったので、万世橋の交差点で電車のガードを眺めると、今でも条件反射のように子供の頃のことを思い出す。当時は東京の街中にまだ都電があって、万世橋の一つ隣の須田町の交差点などは、色々な路線を走る都電が集まっていたものだった。
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(都電が残っていた昭和43年の神田界隈)

 よく知られているように、JR中央本線の前身は私鉄の甲武鉄道だった。明治22年に新宿を起点にして八王子までの鉄道路線を開業。それが新宿から東京の中心部へとレールを伸ばし、飯田町(現・飯田橋)までやって来たのが明治28年だった。更に明治37年には御茶ノ水駅が開業。それは、甲武鉄道がその先も鉄路を伸ばして、後の山手線となる官設鉄道と接続することが条件であったという。

 その甲武鉄道は2年後に国有化され、御茶ノ水駅からの延伸は工事が滞る。その間、昌平橋駅という仮設の駅が作られたそうだが、明治45年になって万世橋駅がやっと開業。中央本線の起点の駅になったという。万世橋駅のプラットフォームの跡は、煉瓦造りの高架橋と共に今も残っている。
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(旧万世橋駅の跡)

 このプラットフォーム跡を含む高架橋の南側に建つ真新しいJR神田万世橋ビル。ここが旧・万世橋駅の駅舎があった土地だという。ビルの前にはそのことを示す大きな写真が展示されていて、それによれば万世橋駅の駅舎は東京駅と同じ辰野金吾の設計による赤煉瓦造りの重厚な様式建築だったそうだ。鉄道の終着駅があり、すぐ隣は市電の集まる須田町だから、全盛期の万世橋は神田界隈では最も賑やかな場所だったのではないだろうか。
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(JR神田万世橋ビル前に立つ旧万世橋駅の写真。手前の銅像は日露戦争のヒーロー、広瀬武夫中佐)

 だが、2年後の大正3年には東京駅が開業。中央本線の線路は万世橋から更に東に延びて、大正8年には万世橋・東京間が開通。万世橋駅は終着駅としての使命を終えた。(なお、同じ年に現在の神田駅が開業している。)
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(大正時代に建設された万世橋・神田間の高架橋)

 「普通の駅」に格下げとなった万世橋駅は、4年後(大正12年)の関東大震災で駅舎を消失。昭和11年には東京駅の一角にあった交通博物館がこの場所に移転することになった。そう、私が子供の頃に通った交通博物館は、この場所にあったのだ。
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(交通博物館。確かに新幹線0系とデコイチが並んでいた)

 万世橋交差点から神田川沿いに昌平橋へと歩いていくと、右側の頭の上に総武線の大きな鉄橋が現れる。秋葉原方面からやって来た黄色い帯の電車が音をたててその松住町架道橋を渡り、続いて川を跨ぐ珍しい形の橋脚を持つ神田川橋梁で神田川を越えていく。その左の中央線電車は万世橋駅跡につながる煉瓦造りの高架を走る。そして神田川の上流方向に見えるコンクリート製のアーチ橋は聖橋だ。このあたり、東京の都心にありながらちょっとレトロな風景である。
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(総武線 秋葉原・御茶ノ水間の松住町架道橋)

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(橋脚の独特な形が印象的な神田川橋梁)

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(聖橋と地下鉄丸ノ内線)

 総武本線の終着駅だった両国駅から、その線路が御茶ノ水まで延伸されたのは、昭和7年のことだ。震災復興計画の一環としてその建設が進められたそうで、隅田川を渡る鉄橋、浅草橋以西の高架橋、先ほど見た松住町架道橋や神田川橋梁など、一連のものはみなこの時に建設されている。また、神田川に架かる聖橋も昭和2年に、やはり震災復興橋梁の一つとして建設されたものだ。関東大震災というのは、やはり東京の景色を大きく変えた出来事であったのだ。
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 昌平橋から神田川沿いに緩い坂道を登り、聖橋の下をくぐると、御茶ノ水橋の手前に東京メトロ丸ノ内線の御茶ノ水駅がある。ここは駅が神田川の左岸の縁にあるので、池袋方面行きの乗り場に下りる入口は、川岸の急斜面に駅舎が体半分を露出したような恰好になっている。開業は昭和29年。池袋・御茶ノ水間は、東京で戦後新たに開業した最初の地下鉄区間である。
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(神田川の縁に立つ東京メトロの御茶ノ水駅)

 学生の頃からこの駅は数えきれないほど使ってきたのに、つい最近まで知らなかったのだが、この駅舎を設計した人物は、戦前にあのル・コルビュジェのアトリエに学んだことがあるそうで、この駅舎もル・コルビュジェのモダニズムを受け継いだ建物なのだという。そう言われてみれば、四角い箱に窓が整然と並んでいる様子や、地上の高さの部分がガラス張りになっている箇所などが、確かにモダニズムと言えるのだろう。

 しかもこの設計者は、戦前の旧万世橋駅舎の跡地に移転してきた、あの交通博物館の設計も手掛けたという。戦前は万世橋に、そして戦後は御茶ノ水に建てられたモダニズム建築。広義の神田というのは、古くて新しい不思議なエリアである。

 なお、新刊書『東京鉄道遺産』 (小野田 滋 著、講談社ブルーバックス)は、東京に残るこうした各種の鉄道遺産の何たるかを知るために大変有益な本である。
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私家版 三丁目の夕日'64 (2) [鉄道]


 もう半世紀近く前、私が渋谷区内の小学校に通っていた頃のことだ。

 あれは5年生の時だったか、図画工作の授業で、「働く人」というテーマが与えられたことがあった。どんな職業でもいいから、人々が働く様子を絵に描いてみようという訳である。

 当時の区立の小学校だったから、一学級に四十数人がいたのだが、その内の9割方の子が水彩絵具で描き始めたのは、黄色いヘルメットを被り、掘削機やツルハシを持って土木工事に携わる人々の姿であった。先生がそのように誘導した訳でもないのに、大多数の子がイメージした「働く人」は見事なほどに一致していたのだった。

 考えてみれば無理もなかった。時代は昭和40年代の初め。東京オリンピックが終わってからも、渋谷の街ではあちこちに建設の槌音が響き、いたる所で道路が掘り返されていたのだ。だから、土木工事は学校の行き帰りに子供達が毎日目にするものだった。今は東急ハンズなどが並ぶ宇田川町の界隈は私の小学校からも近かったのだが、オリンピックを契機にして町並みが見る見る変わっていったことを覚えている。

 因みに、天邪鬼の私はその時に敢えて土木工事を題材に選ばず、山手線の最後部で車内アナウンスをしている車掌さんの絵を描いた。圧倒的なマジョリティーと同じことをするのが面白くなかったというよりも、幼い頃から汽車を見て育った「三つ子の魂」そのものだったのだろう。

 渋谷といっても、「スペイン坂」とか「文化村通り」などという地名はまだ全くない時代。PARCOも西武も勿論登場していない。渋谷駅の真上に建つ東横百貨店は、戦前からある関東では初のターミナルデパートだったし、現在のヒカリエの場所に建っていた東急文化会館とその最上階にあった五島プラネタリウムは、「モダンな渋谷」の象徴であった一方で、地下鉄銀座線のガード下にはアコーディオンを弾く傷痍軍人が立ち、路地裏に入れば夜鳴きそばの屋台がひしめいていた。高度経済成長の光と影が同居し、喧騒の中であらゆる物がごちゃ混ぜになったのが、渋谷という街だった。
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 新たなものが後から後から継ぎ足された、渋谷の「ごちゃ混ぜ感」を象徴するようなものが、渋谷駅の難解極まる構造だろう。平面図を見るだけでも、合計で8本の鉄道路線が集まる様子は壮観そのものだが、これらの駅が地上3階から地下5階に分かれているのだから、手に負えない。
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 下図は東京メトロのHP上にある渋谷駅の構内立体図である。無論これはメトロの部分だけだから、渋谷駅の全体図を作るためには、これにJR山手線と埼京線、東横線と井の頭線のホームに至る部分や出口の数々を書き加えねばならない。仕上がりは想像を絶する立体図になることだろう。
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 このカオスの中で、3月16日から東横線の駅が地下5階に移り、東京メトロ副都心線に直結することになる。新しい列車ダイヤはもう発表されていて、例えば渋谷駅に到着する東横線の上り列車が一番多い平日の朝8時台を見ると、24本の到着列車のうち渋谷で折り返しは4本だけ。副都心線の池袋または和光市まで乗り入れるのが計11本、西武池袋線への直通が7本、そして東武東上線への直通が2本となっている。横浜のみなとみらい線も含めれば5本の鉄道路線が、よくぞこれだけつながったものだ。

 これで通勤・通学が便利になる人々も多いと思われる一方で、乗換がかえって不便になるケースもあるようだ。とりわけ、渋谷で東横線からメトロの銀座線に乗り換えて表参道や青山一丁目まで乗っていた人々は、今後は圧倒的に半蔵門線へと流れることになるだろう。その半蔵門線は東急の田園都市線と直結していて、それでなくても平日の朝の混雑は大変な路線である。東急電鉄はそれらを予測して分散乗車を呼びかけているが、果たしてどうなるだろうか。
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 JR渋谷駅の東側、明治通りが走りバス・ターミナルのある広場の上にある、延々と長い横断歩道橋から、改めて渋谷駅を眺めてみると、東横線ホームのカマボコ形の屋根が印象的だ。周囲に新しいビルが次々と建ち上がる中で、東急東横店の古ぼけた躯体と東横線のカマボコ屋根だけは、もう半世紀近く前になる私の小学生時代のイメージをそのまま残している。そうだからこそ今日も大勢の利用客で忙しない東横線のこのターミナルがあと数日で使われなくなることが、どうしても信じられない。そして、いずれ再開発が始まって、このカマボコ屋根自体がいつか姿を消してしまうことも。
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 地下5階の東京メトロ副都心線のホームに降りてみると、3月16日から代官山まで地下を走る東横線の新しいルートは、もうできている。まだ見ぬ先へと続く線路は、この街の新しい時代の象徴なのかもしれない。東横線と副都心線の直結によって、また新たな混乱が起きるのかもしれないが、渋谷には昔からカオスが付き物だ。それによって、この街はまた新種のエネルギーを放出していくことだろう。
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 私は中学を受験して、その後渋谷から引っ越しをすることになったので、この街に住んだのは7年足らずのことだった。小学校の同級生たちとは、もう長い間会っていない。米屋の子、鰻屋の子、電気屋の子・・・、地域の商店街から通っていた同級生も大勢いて、下校後は鍋島松濤公園で一緒に遊んだりしたものだが、そういう昔の商店街も全く姿を消してしまった今、彼らはどうしているのだろう。

 気がつけばすっかり日が暮れた渋谷の街。今夜は何だか独りで飲みたくなった。

私家版 三丁目の夕日'64 (1) [鉄道]


 渋谷という街の名前は、私にとっては小学校の鐘の音のような響きを伴っている。

 東京オリンピック開催の前月、私はこの街の小学校に大阪から転校してきた。二年生の二学期が始まる時である。ジャイアンツの野球帽一色のクラスの中で私一人が南海ホークスのマークを付けていて、当初は絵に描いたような村八分に遭ったことを、以前にもこのブログに書いたことがある。

 オリンピックに向けた大規模なインフラ整備の一環として自治体にも色々な予算がついたのか、私が通うことになった小学校は、元の場所から移転して、当時としては最新鋭の鉄筋コンクリート3階建の新校舎になったばかりだった。すぐ隣の渋谷区庁舎や渋谷公会堂とワンセットのようにして、オリンピックが始まるまでに建てられたのである。

 区立の小学校ながら、いわゆる「越境」が珍しくなかった。私の学級でも電車通学をしていた子が4~5人はいたと記憶している。いずれも東急の沿線に住んでいたので、たまに彼らの家に遊びに行く時は、渋谷駅から東横線に乗ることになった。因みに、その東横線渋谷駅も東京オリンピックの年に建て替わったものだった。渋谷は、オリンピックを契機にしてその姿が最も大きく変わった街の一つだったのだ。

 渋谷から東横線の各駅停車に乗ると、最初の駅が代官山。子供の頃はここで降りたことがなく、従ってその当時の駅の姿や駅前の様子を知ることはなかった。その代わりに覚えているのは、プラットフォームが短いために中目黒寄りの電車二両分がトンネルの中に入ってしまい、その車両だけはこの駅でのドア開閉をしなかったことだ。それは、井の頭線の神泉駅とよく似ていた。

 現在の代官山駅は、中目黒方のトンネル内にプラットフォームを延伸し、渋谷方にあった小さな踏切を廃止してその方向へもプラットフォームを延伸したために、昔のような「ドアカット」は解消されているが、それは時代が平成になってからのことである。
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 その代官山駅が、再び大きく変わろうとしている。今年の3月16日から東横線の渋谷駅が地下に移り、東京メトロ副都心線と直結するため、東横線は代官山駅の渋谷方で地下に潜り、そのまま渋谷まで地下を走ることになるからだ。

 地下の新ルートは既に出来ていて、3月15日の終電が通った後、代官山駅構内の途中から新ルートに至る部分を僅か4時間ほどで整備するのだという。STRUM工法(Sifting Track Right Upper/ Under Method)と呼ばれるもので、鉄道の既存ルートの真上もしくは真下に新ルートを予め建設しておき、新ルートへの接合部分を切り替え日に短時間で作り上げてしまう、日本独自の技術なのだそうである。直近では、昨年夏の京王線調布駅の地下化の際にも採用されたという。

 Xデーの3月16日が目前に迫った今、渋谷から一駅乗って代官山で下りてみると、駅全体が工事現場のど真ん中にあるかのようだ。プラットフォームから線路を見下ろすと、その線路の下に明らかに何らかの物が既に作られているのが見え隠れしている。プラットフォーム自体も今は仮の姿であるようだ。そして、プラットフォームの渋谷方のすぐ先に、鉄骨で門構が建てられている。
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(代官山駅下り用プラットフォームから渋谷方を眺める)
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(既に設置された門構をくぐって入線する電車)

 東急電鉄のHPには、代官山-渋谷間 約1.4kmの地下化工事の概要が図解されている。
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 これによれば、新しいルートは代官山駅プラットフォームの途中から渋谷方が下り勾配になり、現在の渋谷1号踏切の手前で地下に入る。従って3月16日の未明に、下り勾配が始まる地点から地下に入る地点までの現在のルートを切り取り、鉄骨の門構の上にそれを載せておき、地下に入る線路を整備するということなのだろう。(プラットフォームもその下り勾配に合わせたものになるはずだ。) 始発電車が走る前に試運転も必ず行うから、当日の工事は文字通り時間との戦いとなるのだろう。
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 代官山の駅前から線路に沿って渋谷方向へ歩いていくと、道は下り坂が続いている。右手に渋谷1号踏切。東横線の新ルートはそこでは既に地下に入っているので、この踏切は廃止になるそうだ。
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 線路に沿って更に坂道を下ってガードを潜り、道路が線路の右(南)側に回り込むと、その先にJR山手線・埼京線の線路を跨ぐ歩道橋がある。その上から渋谷方向を眺めると、JRの線路をオーバークロスする東横線のトラス橋が目の前だ。双方の電車が縦横に行き交うこの眺めも、3月16日からはもう見られない。この鉄橋もいずれ姿を消すのだろうか。
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 この横断歩道橋からもう少し渋谷方向に、東横線の高架が渋谷川と並行する場所がある。大正15年に丸子多摩川・神奈川間で営業運転を開始した、東京横浜電鉄(当時)の線路が渋谷まで延びたのが昭和2年の夏。現在の高架がその当時の面影をどれほど残しているのかはわからないが、このアングルから眺めた東横線にはどこか懐かしさが漂っている。ファッショナブルな今の渋谷のイメージとは正反対の、何ともくすんだ色合いの風景だが、それに出会えたことが妙に嬉しい。私が子供の頃は、鉄道の沿線というとこんな眺めが多かったように思う。
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 明治通りに出て渋谷方面に向かうと、やがて並木橋の交差点。左側には自動車用の新並木橋と、歩行者用の並木橋が渋谷川の小さな流れを渡っている。東横線の開業当初はこのあたりに並木橋駅が設けられていたそうだ。渋谷駅から僅か500mほどの距離で、戦後すぐに廃止になったという。

 並木橋まで来れば、渋谷の駅前はもう目と鼻の先だ。私が子供の頃からは大きく姿を変えたとは言え、渋谷駅の周辺は私にとってはセピア色の思い出が今も残る懐かしい場所である。せっかくここまで来たのだから、今日はもう少しだけタイムスリップを続けてみよう。

(To be continued)

富士山麓の轍 (3) [鉄道]


 御殿場-甲府-松本を鉄路で繋ぐ構想をもって免許出願を行ったものの、御殿場-甲府間について免許が下りないまま、明治23年の経済恐慌によって構想自体が無期延期となってしまった「甲信鉄道」。『工學會誌』第百十一巻(明治24年3月刊行)に掲載された工学士・佐分利一嗣の論文から、明治政府の鉄道局が「妥当ならざる」と結論づけた御殿場・甲府間のルートを概観してみたい。

 官設の東海道鉄道・御殿場駅を出発すると、甲信鉄道のルートは「新橋、保土澤、川柳、萩原、印野等の諸村を通過す」とあるが、この間の10マイルほどの多くは田畑の間であり、平均して17‰の勾配で行けるとしている。地名の記載を順に追っていくと、勾配緩和のために二ヶ所ほどスイッチバックを想定したように思えるが、真相はどうだろうか。

 印野から篭坂峠までの12マイルは山林で、現在の陸上自衛隊東富士演習場の近くを回るようにして、篭坂峠へと上がる箱根裏街道(現在の国道138号線)に合流していくのではないかと思える。そして、篭坂峠そのものは長さ半マイル(約800m)ほどのトンネルで越えるとしている。
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(篭坂峠付近)

 篭坂峠を越えると、山中湖畔を経て富士吉田までは高原平野だからルートは比較的平坦だ。そして吉田からは河口湖方向に坂を上がり、現在の国道138号線と同様のルートで鳴沢地区を経由。樹海で有名な青木ヶ原で大きく右カーブして西湖西端の根場という集落へとたどり着く。「数個の村落と森林平野の間を過ぎ地勢平夷ならざるも七十分の一(=14‰)の勾配を以て通すべし。」とある。
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(富士吉田から根場へ)

 さて、ここからが核心部だ。根場の北側には御坂山地が東西に走っている。1500~1700mクラスの山々が連なっており、根場から見ると大きな壁のようだ。この山を越えるのに佐分利の出した案は、「五十五分の一(=18‰)の勾配を有する長さ2,700mの隧道を貫通す」るというものだ。山の向こう側は下り道が続くから、このトンネルも北側が低い片勾配のトンネルにして標高を下げておこうという訳である。
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(鍵掛トンネルと「斜面鉄道」)

 その当時、これがどれだけ型破りなプランだったのかを、私たちは理解しなければいけない。

 日本で初めての鉄道山岳トンネルが、しかも日本人だけの手によって完成したのは明治13年のことで、そ れは東海道本線・逢坂山トンネル(665m)だった。そして、明治17年には長さが2倍の北陸本線・柳ヶ瀬トンネル(1352m)が完成。だが、長さが2000mを越えるトンネルとなると、明治33年の篠ノ井線・冠着トンネル(2656m)や明治34年の中央本線・小仏トンネル(2574m)の開通まで待たねばならなかった。明治20年の時点で2,700mのトンネルを掘るなどというプランは、やはり当時の常識を遥かに超えたものだったのだろう。それに、長大トンネルは蒸気機関車の煙が立ち込めるから、機関士にとっては危険なものでもあった。

 だが、仰天するのはそればかりではない。

 「斯くて鍵掛の隧道を出てより芦川に達するに、延長2,600m、勾配十三・五分の一(=74‰)の斜面鉄道を用い以て鴬宿に達する」

 「斜面鉄道」とは聞き慣れない言葉だが、急勾配を登るための特殊な仕掛けを持った鉄道という意味であろうか。因みに、信越本線の碓氷峠(横川・軽井沢間)に導入された有名なアプト式鉄道が開業したのが明治26年だったから、甲信鉄道にゴーサインが出ていたら、ここが本邦初のアプト式鉄道になったのだろうか。(因みに、碓氷峠の最大斜度は66.7‰だった。)

 鍵掛トンネルの北側出口から芦川渓谷の鴬宿までの下り道。この区間だけアプト式鉄道にするのなら、機関車の付け替えが必要になったことだろう。そのスペースを作り、水と石炭をそこまで運ばねばならない。山の北斜面で日陰になり、冬ともなれば相応に積雪のある所だ。この「斜面鉄道」が実現していたとしたら、それはそれで維持管理が大変だったはずである。

 そして、鴬宿から先は、芦川の狭い峡谷を下る。急カーブ、急勾配の連続でトンネルも幾つか必要だ。佐分利の計算では平均して四十四分の一(=22.7‰)の斜度になるという。
 「要するに芦川の両岸は全線中至難の地なるが故に勾配隨て急にて、二個のスイッチバックを要する、実に止むを得ざるものなり。」

 そうやって延々と峡谷を下り、やっと甲府盆地の縁に出たところが市川大門だ。そこから甲府までは現在のJR身延線と同じようなルートになるのだろうが、このようなプロセスで御殿場から甲府へ列車を走らせるのだとしたら、誠にご苦労さまなことだ。加えて、長大編成の列車を走らせたり、将来的に複線化を図ったりというのは、極めて困難であったに違いない。
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(芦川渓谷沿いのルート)

 当時の日本にはまだ例を見ない長大トンネルと斜面鉄道、そしてスイッチバックが二箇所も必要な渓谷沿いの山下り。甲信鉄道の構想に対して鉄道局が首を縦に振らなかったのも想像がつこうというものだ。

 甲信鉄道の構想は潰えたが、佐分利一嗣は同じ時期に他の数多くの鉄道敷設計画に参画していたようで、その中で実現を見なかった計画は甲信鉄道だけに留まらない。そして一時期は成田鉄道の社長も務めたという。

 明治の日本人には、現代の我々には想像のつかないバイタリティーがあったのだと、改めてそう思わざるを得ない。


富士山麓の轍 (2) [鉄道]


 明治20年という早い時期に建設の免許出願が行われた、御殿場-甲府-松本を結ぶ「甲信鉄道」構想。その4年後の刊行になる『工學會誌』第百十一巻に掲載された工学士・佐分利一嗣の論文『甲信鐵道』には、その起業の沿革が詳しく述べられている。

 東京・京都を結ぶ幹線鉄道は東海道ルートか、中山道ルートを取るべきか。明治新政府の中でも意見が割れたこの問題は、どうせインフラ投資を行うならば開発の進んでいない地域に投下するのが効果的という考え方から、明治16年にいったん中山道ルートに決まったが、山間部を通るために建設費用が膨大になることから、明治19年に東海道ルートへの変更がなされた。

 中山道鉄道が来なくなったことを契機に、信州松本地方の発起人が松本から諏訪経由で甲府に至る鉄道建設を発意。これに、甲府から御坂山地を貫き、御殿場に出て東海道線との接続を果たそうとする山梨地方の発起人が合流し、東京の発起人とも合同したのが甲信鉄道構想の始まりであったという。

 著者の佐分利は明治20年2月から3月にかけて現地調査を実施し、ルートを確定。私設鉄道条例に基づいて同年5月26日に発起人が甲信鉄道会社(資本金450万円)を設立し、御殿場・松本間の鉄道敷設を請願。7月11日に仮免状が下り、18ヶ月以内に線路の実測を行って図面を調整し提出せよとの指令を受けた。これに従って佐分利らは計画ルート上の本格的な測量を実施し、翌21年3月に完結。図面の最終調整と工事予算の見積り、事業の採算性の精査等を経て同年9月21日に最終的な免許申請を提出している。
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(甲信鉄道の計画ルートの内、甲府・御殿場間)

 ところが、同年11月に内閣より沙汰があり、「甲信鉄道の設計を鉄道局にて調査したところ、妥当と認めかねる件があるので、今後更に同局と協議の上取り計らうこととすべし。」との内容であった。以後、甲信鉄道の技師たちは鉄道局と協議を重ねたが、「開業後の収入は予算より少なく、実際の工費は予算より多額となり、遂には収支不償の難に陥るのではいか。」という鉄道局の懸念は払拭できない。

 結局、翌22年の9月9日に内閣より通知があり、「甲府・御殿場間の計画は妥当でないので、なお詳細調査を続けるか、または既設鉄道に接続するための別ルートを選定し改めて出願すべし。」として松本・甲府間だけの免許が下ることとなった。甲信鉄道側は大いに驚き、佐分利も
 「今に及んで甲府御殿場間の線路妥当ならずと云うが如きは従来取運の事跡に対して実に不審の至りに堪えず、疑問百出大いに其了解に苦しみたり。」
と憤懣をぶつけている。

 だが、甲信鉄道の計画ルートを地図上で眺めてみると、当時の鉄道局の懸念にも無理からぬものがある。

 御殿場から富士吉田を経て御坂山地の南側までは、既に見たとおり明治30年代には鉄道馬車が開通した地域であるから、勾配を緩和するためのスイッチバックの導入や、篭坂峠を越えるトンネルの建設などは必要であったとしても、鉄道敷設が技術的に不可能という地域ではないだろう。ところが、御坂山地をトンネルで越え、富士川の支流である芦川の狭い谷に沿って甲府盆地を目指すルートは、どう見ても相当な難所である。(佐分利はここに長さ2.7kmの長大トンネルを掘ったり、急勾配を上下するための「斜面鉄道」を提案したりしているのだが、これらの点は、後でもう少し詳しく見てみたい。)

 松本・甲府間の免許だけでは甲信鉄道側も工事に着手する訳に行かず、甲府以東のルートについて同22年の暮から再び調査測量を開始。佐分利はその結果を取りまとめ、図面を調整して政府に最終的な出願を今まさに行おうとしていた明治23年3月のことだった。
 「恰(あたか)も我国経済社会の恐慌に遭遇し、凡百の営利事業は其途に苦しみ、更に新事業の興ることなきの時勢に際せしを以て暫く其取運を止め休養再び時機の至るを待たんと欲し、遂に今日に及べり。」

 明治23年は、資本主義下の日本が初めて経済恐慌を経験した年として知られている。当時、国内では私設鉄道の開設がブームになっていたが、この恐慌によって数々の鉄道建設計画が冷や水を浴びせられた。甲信鉄道もその一つになった訳だが、前年にもし松本-甲府-御殿場の全区間にゴーサインが出て、建設途上でこの恐慌に巻き込まれていたらどんなことになっていたか、それを思うと甲信鉄道はアンラッキーであったとばかりも言えないような気がする。

(To be continued)

富士山麓の轍 (1) [鉄道]


 富士急行の河口湖駅に降り立つと、空が広い。北には三ツ峠山、南には大きな富士。ホームの先端の構内踏切から眺める富士に向かっては、いつもシャッターを切ってしまう。富士山に日本一近い駅は、ここから二つ手前の富士山駅(旧:富士吉田駅)なのだそうだが、この河口湖駅も同じくらい、富士の高嶺が間近に聳えている。

 駅を出ると正面がバス乗り場、右側がタクシー乗り場。そしてそのタクシー乗り場の後方に一両のレトロな電車が展示されている。モ1型と呼ばれる、両運転台式の15m車だ。現在の富士急行の前身にあたる富士山麓電気鉄道が昭和4年に開業した、その当時の電車である。(但し、開業当時は大月・富士吉田間の鉄道で、河口湖まで線路が延びたのは戦後のことだ。)
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 大月から桂川の流れに沿うようにして、富士登山の玄関口・富士吉田へ。この地域に鉄道が登場したのは20世紀になってから、明治でいうと30年代の後半からのことである。それも、馬車鉄道からのスタートだった。

 現在の中央本線となる官設鉄道のレールが、八王子から山と谷を越えて大月まで延びたのは1902(明治35)年の秋。すると、翌年の年明けには大月と現在の都留市を結ぶ富士馬車鉄道が開業。これより前の1900(明治33)年に開業していた都留馬車鉄道(下吉田-篭坂峠)ともいずれ接続することになるのだが、この二つの馬車鉄道はレールの幅が異なるために乗換えが必要であったという。

 その不便を解消するために、1921(大正10)年に両社は合併して軌間を統一。電化も行なって富士電気軌道という会社になり、馬車鉄道からは卒業したのだが、軌間が狭いままでは輸送量も知れていた。加えて、大月・富士吉田間に片道2時間を要したという。

 そこで新たに設立されたのが、富士山麓電気鉄道だった。1926(昭和元)年に会社を作り、富士電気軌道から全路線の譲渡を受けた上で、官設鉄道と同じ軌間(1,067mm)の線路を新たに敷設して1929(昭和4)年に同じ大月・富士吉田間を開業している。冒頭に挙げたモ1型電車が登場したのもその頃のことになる。同区間の所要時間が半分になったというから、鉄道としては大きな前進だったのだろう。

 大月駅の標高が358mで、富士山駅は809m。その間の営業キロ数が23.6kmだから、この区間の平均斜度は19.1‰という計算になる。河口湖駅(標高857m)までの残り1.6kmも同様の勾配だ。実際に大月から富士急の電車に乗ってみると、この路線は最後まで一本調子の上り勾配の連続である。名物の「フジサン特急」の列車ダイヤを調べてみると、大月・富士山間の所要時間は最短で37分。営業キロ数から割り算すると表定速度は38.3km/hだから、トロトロと走っている印象があるのは仕方のないことだろう。それぐらい、今でも急勾配の鉄道なのだ。
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 ところで、この路線の前身の一つだった都留馬車鉄道。その営業区間は明治33年の開業当初から下吉田・篭坂峠間であったと、文献にはある。つまりこの馬車鉄道のレールは、明治の30年代に下吉田から富士吉田を越えて山中湖の南の篭坂峠まで続いていたのだ。(但し、富士吉田・篭坂峠間は昭和2年に廃止。) そして更に調べてみると、篭坂峠から南にも、かつてはレールが存在していたという。

 官設の東海道鉄道・御殿場駅が開業したのは1889(明治22)年の2月。すると、その9年後の明治31年に御殿場駅前から北に向かう御殿場馬車軌道が開業し、そのレールが明治35年には篭坂峠まで延びた。(但し、大正7年に廃止。) ということは、既に見た富士馬車鉄道・都留馬車鉄道の歴史と合わせてみれば、明治36年から大正7年までの間は大月から富士吉田・篭坂峠経由で御殿場まで、馬が曳く鉄道が延々とつながっていたことになる。
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 広大な富士の裾野をトコトコと走る鉄道馬車。間もなくロシアとの戦争が始まろうかという時代でも、富士山麓はそんな風に牧歌的な世界だったのかと思うと何だか不思議だが、実は、こうした鉄道馬車が登場する10年以上も前に、この地域に本格的な、つまり動力車による鉄道を敷設しようという実に驚くべき構想があった。明治20年代の初めの頃のことである。

 「甲信鉄道」と名付けられ、明治20年に明治政府の鉄道局に敷設免許の出願がなされたその鉄道は、御殿場・甲府・松本を結ぶ計画だった。私は中学生の頃に鉄道ファン向けの雑誌を通じて、かつて「甲信鉄道」の構想があったことを知ったのだが、先週の日曜日に三ツ峠山に登り、富士山麓の広大な景色を楽しんでいるうちに、もう40年以上も前になる中学時代の記憶が何とはなしに甦ってきたのである。

 明治20年というと、現在のJR中央線はまだなかった。東京市内と八王子を結ぶ私鉄・甲武鉄道の設立が認められたばかりの頃で、実際に新宿・八王子間が開通したのは2年後の明治22年のことである。無論八王子以西の、山また山の甲斐国へと至る鉄道の構想などはまだ何の形もなかった。

 そんな時期に免許出願がなされた甲信鉄道。御殿場駅から甲斐と信濃を目指したこの鉄道の構想は、今ではインターネットでその原典にあたることが出来る。明治時代に設立された学術団体である工学会が発行した『工學會誌』の第百十一巻(明治24年3月)に掲載された、工学士・佐分利一嗣による「甲信鐵道」という論文である。

①これまで、東京・横浜間を皮切りに日本各地で鉄道の敷設が政府によって進められたが、それらの大半は本邦の南海岸に沿った鉄道であり、東山道や北陸道の沿線地域はその恩恵に浴していない。

②とりわけ甲信両国の地勢は四方が山また山の連続で、道路は甚だしく険悪で水利も悪く、「人肩馬背を以てするの外は殆ど運輸の便なきにより、興るべき産業、振るうべきの事業共に進歩を遮断せられ」、出入りする貨物や人の往来は急なニーズのあるものに限られている。

③それらの地域の不便を解消する鉄道を敷設することは、兵事軍略の点からも必須である。

などの点を理由として、
 「東海道鉄道線路を駿河国御殿場に分れ、甲斐国甲府を経て信濃国諏訪より同国松本に至るは即ち其第一歩なり。」
と、甲信鉄道建設の趣旨を高らかにうたっている。

 結論から言うと、この「甲信鉄道」l構想が日の目を見ることはなかった。御殿場・甲府間のルートが技術面及び採算面から疑問視され、認可が下りなかったのだ。そして、明治25年に鉄道敷設法が制定されて、政府が建設を進める幹線鉄道としての中央本線のルートが定められ、明治30年代の半ばには八王子から甲府へと官設鉄道の線路が伸びることになった。

 だが、『工學會誌』に遺された佐分利一嗣の論文は、今読んでみても実に興味深い内容である。彼の構想を実際の地形図に落とし込んでみると、色々と面白い発見があるのではないか。

(To be continued)

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