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海と山と湘南カラー - 幕山・南郷山 [山歩き]


 「子供の頃の、それも記憶に残る一番古い部類の思い出を、何か一つパステルで描いてごらん。」

 そう言われたら、皆さんは何を描くだろうか。

 私の場合、それはきっと湘南のミカン山の風景になる。母の実家が小田原から二つ東京寄りの国府津にあり、就学前の小さな頃は随分と長い間逗留させてもらうこともあった。子供心にも気候が穏やかでのんびりとした土地だった。南側は一面の大きな海で、その後背地にはミカン山が続いており、冬でも鮮やかな緑の葉とミカンの実の優しいオレンジ色が青空によく映えていた。祖父母にとっては私が初孫だったから随分と可愛がってもらったものだが、そんな頃の象徴として記憶に残るのが、ミカン山の平和な風景なのだ。

 母の実家の北側には東海道本線が走っていた。私は祖父母に手を引かれ、多くの列車が行き交う様子を線路端で飽きることなく眺めていたものだった。戦後の東海道本線では、私が生まれる前の1950(昭和25)年に80系電車(いわゆる「湘南型」の電車)がデビューし、緑とオレンジの鮮やかなツートンカラーが戦後の新時代の一つの象徴になっていた。私が幼少の頃には、急行などの優等列車が1958(昭和33)年登場の新型電車153系に置き換えられつつあったのだが、普通列車では80系がまだまだ健在であった。それらを毎日眺めていた私にとっては、ミカン山の風景と80系電車のツートンカラーのイメージがまさに重なっている。
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 「黄かん色」(濃いオレンジ色)と「緑2号」(濃い緑色)のツートンカラー。「湘南色」と呼ばれるようになったこの色使いは、元々「よく目立ち遠くからも識別が可能」という理由から採用されたもので、湘南のミカン山のイメージというのは、実は後付けの理由であるそうだ。それでもこの湘南色の塗装は以後の国鉄の中距離用電車にも引き継がれ、全国各地の直流電化区間で見ることが出来た。それは現在のJRの電車の側帯としても使われている。また、川崎球場を本拠地としていたプロ野球・大洋ホエールズは、この湘南色に似たツートンカラーのユニフォームを一時期使用していたものだった。
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 2018年1月7日(日)、同年代の山仲間たちとの年初の日帰り山歩きは、私の音頭取りでコースに湯河原近郊の幕山(625m)と南郷山(611m)を選んだ。年初の寒い時期だから日差しの暖かい地域の低山を選び、久しぶりに山から海を眺めてみようという趣向だ。箱根の外輪山から続く山並みが北西側に連なっているために、富士山は見えないのだが、木々の葉が落ちた冬は相模湾から伊豆の東岸にかけての海の眺めが広がる山である。そして、私にとっては幼い頃の記憶を呼び覚ましてくれるような湘南のミカン山の風景が楽しみだ。
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 小田原から熱海行の電車に乗り換えると、そこから二つ目が根府川駅。昔からそうだったのだが、ホームからただシンプルに海の眺めが広がる、愛すべき無人駅である。ホームに設置されたフェンスの上辺と海の水平線とがちょうど重なり、朝日に照らされた海面がちょっと不思議な、けれども私にとってはどこか懐かしい風景だ。
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 根府川の駅を出て二つのトンネルを過ぎ、列車は程なく三つ目の真鶴隧道へと入る。実はここから真鶴駅までのルートは1972(昭和47)年から変更されたもので、それ以前は1924(大正13)年に開通した時の、現在よりも海よりのルートを3つのトンネルで真鶴に向かっていたのだ。私は進行左側の窓から目を凝らして見ていたのだが、真鶴隧道の手前には旧線の様子を見ることが出来なかった。旧線ではその付近に赤澤隧道の入口があり、それは海側の側面にアーチ型の窓が幾つも開いていて、そこから海の景色が見えるという、「眼鏡トンネル」の愛称と共に東海道本線の名物になっていた。私の幼少の頃の記憶にも明確に残っている。
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 ネット上では、廃線跡を訪れることが好きな人たちによって、この旧線の3つのトンネルの探訪記が幾つも掲載されている。今日の私には探訪の時間がなく、真鶴隧道の暗闇の中で幼い頃の記憶をたどるのみである。

 さて、8:53の定刻に湯河原の駅に降り立ち、今日のメンバー7人が揃った。今日の趣旨は乗り鉄ではなくて山歩きである。先を急ごう。

 登山口の幕山公園までは駅から路線バスを利用する予定だったのだが、乗り場に行ってみると、発車待ちのこのバスが結構混んでいる。私たちは2台のタクシーに分乗することにして、10分ほどで幕山公園のバス停に着いた。天気は上々。風もなく、東京よりも暖かい。そして青い空を背景に幕山の姿が大きく見えている。
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 9:15に登山開始。登山道はこの幕山の麓にある梅園への入口から始まる。関東有数の梅の名所だから、その時期になれば多くの人々で賑わうのだろう。今はまだ1月の初旬だから閑散としているのかと思いきや、意外に多くのクライマーたちが幕山の岸壁に取り付いていた。ここはロック・クライミングの練習場としても有名なのである。
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 幕山へは標高差425mほどの登り。梅園が終わり、その先の植林の中を歩く部分も直ぐに終わって、そこから先は落葉樹の森なので、今の季節は見通しが良く、空が明るい。順調に登って正味65分ほどで幕山の山頂に着いた。私たちの他には登山者が1人・2人といった静かなピークだ。見渡す空が一段と碧い。
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 小休止の後、山道を進む。標高差125mほどを下り、白銀林道を横切って森の中に入ると、やがて右手に自鑑水という小さな池が現れる。今から838年前、石橋山で平家打倒の挙兵をするものの敗れた源頼朝がここで自害を図ろうとしたが、池の水に映ったのは天下を平定した自らの姿であったことから自害を思いとどまったという伝説が残る。仲間のT君が近寄ってみたが、池の近くは底なし沼のような状態で、とても自らの姿を映す所までは近づけないという。或いはその当時からだいぶ水量が減ったのだろうか。
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 自鑑水から登山道を更に進むと、国土地理院の地図には載っていない林道の工事中で、地図通りの山道が一旦途切れている。森の中に張られたテープを見ながら、本来の登山道を私たちは何とか見つけたが、一般的にはこのルートファインディングはやや難しいのではないだろうか。
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 本来の山道を更に進むと、やがて南郷山の尾根に向かって竹が茂る中を直登する箇所が始まる。これがちょっとした緑のトンネルで、気分が変わって面白い。標高差40mほどを一気に登り詰めれば緩やかな尾根の上に出る。
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 11:20に誰もいない南郷山の小さなピークに到着。幕山からは40分ほどだ。相模湾を見下ろす暖かい日だまりで、こんなに穏やかな日和ならゆっくりと昼寝を決め込みたくなる場所だ。さあ、昼食にしよう。
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 この時期の山は寒いから昼食は何か暖かいものを作ろう、というのが当初からの計画で、湯を沸かして「鍋キューブ」でスープを作り、卸し生姜に斜め切りのネギ、エノキダケ、竹輪、市販の水餃子、それに「鍋ラーメン」を投入すれば出来上がりだ。眼下の海の眺めは遠く房総半島まで広がっている。H氏持参の「お屠蘇」で乾杯し、暖かい昼食をとりながら、私たちは至福の一時を過ごした。
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 気がつけば1時間を少し過ぎるほど、私たちは山頂での大休止を楽しんだことになる。さて、山を下ろう。ここから先は真鶴半島を見下ろした後、ゴルフ場の縁を通ってミカン山の中を下る1時間程度のコースだ。そしてその後は日帰り温泉が待っている。

 山頂から下り始めた途端に、海の景色が大きく広がる。今日はこれが楽しみだった。真鶴半島や伊豆の東岸、そして彼方の海に浮かぶ初島と伊豆大島。年が明けて一昨日には寒の入りを迎えたというのに、眼下に広がる湘南の海は何とも穏やかだ。いつまでも眺めていたい風景である。
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 その後、山道はしばらく山の南面をトラバース状に下るので、この海の眺めを連続して楽しめる。その後は尾根を下る道になるのだが、落葉が積もっていて滑りやすい下りだ。そして、不幸にもそこでメンバーの一人が左足首を捻って傷めてしまった。皆が持ち寄った物で応急手当をしたが、本人が痛がっている様子からすると、このまま予定していた山道を下り続けることは現実的でない。だが、不幸中の幸いというべきか、その場所から再び歩き始めて直ぐに、舗装道の白銀林道に出た。この林道を下りながら、可能なところまでタクシーに来てもらうことを考えるべきだろう。
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 本人の荷物を他のメンバーに担いでもらい、そして本人にはメンバーの一員の肩を借りて歩いてもらうことにして、私は皆よりも先に林道を早足で下る。携帯電話の電波は通じるが、自分たちの居場所をタクシー会社に理解してもらえる所までは行かねばならない。15分ほど、殆どジョギングのようにして下ると、林道にゲートが下りていてクルマの通行が遮断されていた。タクシーを呼ぶとしてもそこまでしか入れない。その先は「さつきの郷」という園地なのだが、オフシーズンの今は人っ子一人いない場所だ。私は道路を更に下り、湯河原美化センターという施設の前まで来て漸くタクシー会社と連絡を取った。やがて2台のタクシーが来てくれたので、先ほどのゲートのある場所まで上がってもらうと、それからさほど時間がかからずに仲間たちが順次到着。足を痛めた本人もよくここまで歩いてくれた。

 という訳で、ハプニング発生のために予定していた下山行程は途中で打ち切りとなったが、ともかくも私たちは湯河原駅前に戻り、怪我をした本人には自力で帰りの電車に乗ってもらうことが出来た。とはいえ、中学・高校時代の同級生たちを中心に週末日帰りの山歩きを始めるようになってから、今度の春で丸9年になろうとする中、山での行動中に怪我人が出たのは今回が初めてである。同じ時間だけ私たちも年齢を重ねて来た訳だから、昔は出来たのに最近は出来なくなってきた、というようなこともゼロではない筈だ。そして、下山中の転倒はもっと大きな事故にも繋がりやすい。今回のことを踏まえて、私たちはより慎重に、そして行動計画には余裕を持って山へと望む必要があるだろう。(今回も決して下山を急いでいた訳ではないのだが。)

 私の幼い頃の記憶に残るミカン山の穏やかな景色。けれど、それだって決して侮れない存在であることを、湘南のミカン山はこの歳になった私たちに教えてくれたように思う。

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難を転じて - 生藤山・陣馬山 [山歩き]


 「おっ、ようやく朝日が出たな。」

 山仲間のT君が電車の窓の外を眺めながら呟いた。

 12月10日、日曜日。東京の日の出は午前6時39分だ。その日の出の17分前に新宿から乗った中央特快に揺られ、私たちは山を目指している。今朝5時半過ぎに家を出た時、もちろん外は真っ暗で、下弦の月が空高く昇っていた。冬至まであと12日。一年で最も夜明けが遅い時期である。

 途中の国分寺でK氏が合流。そして立川で大月行の普通列車に乗り換える時に、鎌倉から長駆やって来てくれたK女史が合流して今日のメンバーが揃う。上野原駅で下車し、タクシーで石楯尾(いわたてお)神社の前に着いたのが7時45分頃。あたりの集落では東向きの里山にようやく朝日が当り始めた頃で、さすがに冷え込みが厳しい。畑は霜にびっしりと覆われていた。
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 生藤山(990m)への登山口へと向かう舗装道の両側には、やけにシュールな案山子が立っている。まだあたりが多少薄暗いこともあって、私は本物の人影かと一瞬思ってしまったほどだが、カラスもなかなか賢いから、これぐらいのことをしないと追い払えないのだろうか。
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 やがて舗装道が里山への入口に差し掛かったところで生藤山への山道が左に分かれ、植林の中を佐野川峠まで標高差にしてちょうど300mほどの登りが始まる。地形としては西向きの谷の中を上がっていくので、今の季節だとほぼ一日を通して太陽を拝めない場所だ。それだけに寒さは一段と厳しく、手先が何とも冷たい。
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 今日はこれから佐野川峠へ上がり、その後は尾根伝いに三国山(960m)・生藤山(990m)・陣馬山(857m)を経て陣馬の湯(陣谷温泉)まで約12.5km、標高差が上り約1,300m、下り約1,400mのコースを歩く。もう何度も歩いたことがあるので様子はわかっているのだが、今年の4月25日に膵臓がんの手術を受けて以来、私にとってリハビリを兼ねた山歩きは今日が3回目。前回(11月3日)は相模湖方面から小仏城山・景信山を経て小仏バス停へと下りる8km程度のものだったから、今回は私にとってハードルを一段上げたことになる。このところの体調から考えれば歩き通せると確信はしているが、ともかくも自分の体の様子を注意深く確認しながら歩くことにしよう。
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08:06 登山道入口 → 08:37 佐野川峠 → 09:00 甘草水 → 09:23 三国山

 佐野川峠を目指して山の斜面をつづら折れに登って行く山道。最近になって植林に手が入れられているのか、以前よりも谷の中が幾分明るくなったような印象がある。傾斜はわりと一定していて、ともかくも植林の中を黙々と登って行く道だ。今日、私は4人パーティーの先頭を歩かせてもらうことにして、自分のペースで登る。山へ行く時はいつも同じで、歩き始めは体が慣れるまで登りが少し辛いが、しばらく我慢すれば自分なりの「巡航速度」が出来てくる。特に息が上がることもなく登り続け、頭の上に見えていた山の尾根が右手から近づくと、佐野川峠はすぐ先だ。

 日陰の寒い谷を登り続け、日の当たる尾根に上がったとたんに体一杯に感じる太陽の暖かさ。懐かしいその感触は、学生時代に本物の冬山をやっていた頃を思い出させてくれる。その当時とは山のグレードを比べるまでもないが、あれから40年ほどが経った今もなお山を歩いていることの幸せを、改めて思う。
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 尾根に上がれば一転して山道の傾斜も緩くなり、太陽の暖かさも手伝って私たちの会話も弾む。談笑しながら歩くうちに桜の名所でもある甘草水のベンチに到着。ここからもお目当ての富士山が見えるのだが、藪を通しての眺めだったのでごく短い休憩にとどめ、更に20分ほど登って三国山の山頂に出た。

 春や秋ならば三国山の山頂は多くの登山者で賑わっているが、今日は師走の第二日曜日。それに上野原からの路線バスに乗った場合よりも30分早く登山を始めたので、山頂には私たち以外に二人ほどしか登山者がいない。そのひっそりとした山頂で、今までにこの場所から眺めた中で最もクリアーな富士山の姿を、私たちは見つめ続けた。
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 青く澄んだ冬空の下、西の方角には雪を抱いた南アルプスの悪沢岳(3,141m)、赤石岳(3,112m)、そして奥聖岳(2,979m)が見えている。こんなに素晴らしい天気になるなら、もう少し山梨県の中央部に近い山から南アルプスを眺めてみたかったな。そして、こんな日に限って望遠レンズを持って来なかったことを、私はいささか後悔していた。
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09:33 三国山 → 09:41 生藤山 → 10:32 山の神 → 11:35 和田峠 → 12:10 陣馬山

 三国山からの富士山の眺めは実に素晴らしいのだが、じっとしていると再び手がかじかんで来る。先を急ぐことにしよう。山道を進むと、すぐ先に生藤山のピークに上がる道と巻き道とが分かれている。ここから先はさしたる展望もないピークが幾つか続くアップダウンの大きな箇所で、それらを全部巻き道でパスしてしまってもいいのだが、「生藤山には行ってみようよ。」とT君が言うので、今日のコースの最高峰に敬意を表して直登コースを選ぶことにした。ここだけはちょっとした岩稜になっていて面白いのだ。

 そして、生藤山のピークに上がって後ろを振り向くと、ちょうど富士山の方角だけ展望が開けていた。私たちは再び、富士の眺めにしばし見とれる。「〇〇と煙は・・・」と言われそうだが、やはりピークには上がってみるものなのだ。
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 生藤山から先しばらくの間は、細かなアップダウンはあるものの概ね水平な山道だ。このあたり、春先は新緑が目にも鮮やかで私はとても好きなコースなのだが、日陰になる箇所では先週あたりの雪がまだらに残っていて、寒々とした冬景色だ。それでも山道が南側に回り込めば角度の低い日差しが眩しい。落葉を踏みしめながらのんびりと歩き続けたい道である。
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 連行峰という名のピークを巻き道でやり過ごすと、山道は大きく下降を始める。それを概ね下りきったところで生藤山からほぼ1時間を経過したので、小休止。今日は日本海の低気圧に向かって弱い南風が吹くパターンなので、関東南部は小春日和。山の上も日なたは随分と暖かい。小休止の間に眺めた落葉樹の森も、初冬というよりは晩秋の佇まいだ。
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 そこから先は和田峠まで、何ともとりとめのない森の中のコース。特にカメラに収めたくなるような眺めもない。独りで歩く時はトレール・ランニングのようにすっ飛ばして行きたくなる箇所なのだが、今日の私はまだリハビリ第3弾の最中だから、それは止めにして引続き巡航速度で歩く。

 11:35に和田峠に到着。小休止の後は、陣馬山のピークへ今日最後の登りが待っている。距離は700mほどのものなのだが170mほどの標高差があり、その取り付きから急な階段が始まる。まあ、それでも30分足らずの我慢だ。
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 三ヶ所に分かれた階段を登りきると一気に展望が開け、草原状の陣馬山頂への最後の登りになる。振り返れば奥多摩の大岳山(1,267m)がだいぶ大きくなってきた。
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 今朝、そこから富士山を眺めた生藤山が、広い谷を隔てた向こう側に見えている。私にとってのリハビリ第3弾の今日の山歩き。ここまで特に問題もなく歩いて来られたのは何よりだ。
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 山頂の茶店のそばに、ちょうどテーブルが一つ空いている。私たちは荷物を降ろし、用意してきたオニオン・スープを温めて昼食を楽しむことにした。明るい太陽に照らされて、背中は暑いぐらい。ここまで気温が上がれば、富士山はムクムクと沸き上がる雲に隠れてしまってもおかしくないのだが、今日はすこぶるご機嫌がいいようで、正午を回った今もその堂々としたピークを見せてくれている。何とも良い山日和になったものだ。
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13:05 陣馬山 → 14:20 陣谷温泉

 山を下る。今日のコースがありがたいのは、下山ルートが比較的短くて、降りれば温泉が待っていることだ。陣馬山頂から景信山方向へ山道を少し進むと、栃谷尾根を下る山道が直ぐに右に分かれる。瞬く間に階段状の下りが始まり、とんとん拍子に降りて行く。私たちも、ここまで来たからには早く温泉に入りたいという思いが既に頭の中を占めているので、4人とも快調に山道を下った。

 山頂から40分ほどが経過したところで、植林の中を下る山道が終わり、茶畑や柚子の木が並ぶ集落の上部へと出た。奥多摩から奥高尾・陣馬あたりの山歩きは、山から下りて来て出会う山里のどこか懐かしい風景に出会えることが嬉しい。
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 今年4月25日に私が膵臓がんの手術を受けてから、今日で7ヶ月半。医師から示されている予定では、夏から続いた抗がん剤の服用によるいわゆる化学療法も、残すところあと10日余りとなった。幸い、秋を迎えてから体力が目に見えて回復し、今日のようなコースを特に問題なく歩くところまで何とか漕ぎつけることが出来たのだが、それを待っていたかのように仕事も忙しくなって、先月は結果的に月の半分を国内外へ出張していた。

 「大きな手術を受けた身なんだから、これからは健康第一。仕事は程々にね。」

 多くの人々がそう言ってくれるのだが、マンパワーが決して潤沢ではない会社の実情は何も変わっていないのだから、現実的には自分が責任を持つことからそう簡単に手を抜けるものでもない。先週あたりは根を詰めたパソコン作業を続けたことで、肩や背中の張りが結構辛くなっていた。

 それがどうだろう。今日こうして同い年の山仲間たちと初冬の低山を楽しく歩き、遥かな富士を眺め、そして山里の懐かしさに包まれながら和やかに半日を過ごしただけで、このところ溜め込み始めていたストレスはもうどこかへ行ってしまったようだ。肩もすっかり軽くなっている。やはりそれが山歩きの効用と言うべきものなのだろう。最良の時間を与えてくれた穏やかで美しい日本の国土と、いつも心優しい山仲間たちに、改めて感謝を捧げたい。
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 山里を更に下って行くと、民家の石垣に南天が鮮やかな紅の実を結んでいた。

 その読みが「難を転ずる」に通じることから、縁起物として用いられて来た南天。がんの手術を受けた私などは、特に良く拝んでおくべきものなのかもしれない。

 確かに、自分にとって今年の4月以降は大きな試練ではあったが、以前と比べてスリムになったことで体を動かしやすくなってはいるし、膵臓が半分になってしまったものの、家内のサポートを受けて日々の食事に大きな注意を払いながら過ごして来たことは、以前よりもずっと健康的な生活に繋がっている。知人・友人たちと飲み歩くことがなくなったことには淋しさがあるものの、逆にそれが自分の時間の使い方の見直しにつながったことは前向きに捉えるべきなのだろう。

 南天の実にあやかって、来年もしっかりと生きていこう。

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リハビリ第二弾 - 小仏城山・景信山 [山歩き]


 11月3日(金)午前7時45分、JR新宿駅12番ホームで中央特快の下り電車を待っていると、小田急デパートの向こうに青空が覗いていた。
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 今朝6時前に起きて自宅マンションのベランダから外を眺めた時には、まだ空全体が薄雲に覆われ、東京スカイツリーの先端は靄(もや)の中に隠れていたのだが、太陽が昇るにつれてそれは解消し、爽やかな秋空が広がるようになっていった。

 昨日まで日本列島を覆っていた移動性高気圧は既に当方海上に去り、次の高気圧はまだ中国大陸にある。朝鮮半島から北海道にかけて低気圧の前線が連なり、関東地方の南東には別の低気圧が北東方向へ移動中。日本列島全体が明らかに気圧の谷の中にあるような天気図を見せられた時、私の知識では一面の青空が広がるような天候は全く導き出せないのだが、天気予報のアプリを開くと、スマホの画面には晴マークが並んでいる。やはり文化の日は晴天の特異日なんだなあ・・・。
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 7時51分、高尾行きの電車が到着。4号車の前寄りのドアから乗車すると、山仲間のH氏とK女史が並んで座っていた。それぞれ大船・鎌倉から東京駅経由で今日の山歩きに参加してくれたのだ。(と言うより、そもそも今回の山行を企画してくれたのがH氏だった。)途中の国分寺駅ではKさんが乗車。そして高尾で乗り換えた小淵沢行の普通列車ではS女史とH君ご夫妻、そしてT君が待っていて、これで今日の8人のメンバーが揃った。

 考えてみれば、私がH氏以外のメンバーと顔を合わせるのは今年になって初めてのことだ。1~3月は忙しくて山へ行けず、4月以降は私が膵臓がんの手術を受けたことで山歩きは封印状態だった。10月最初の日曜日にH氏がごく軽いウォーキングに誘ってくれて、稲荷山コースから高尾山をゆっくりと往復。それが私にとって山歩きの初回のリハビリだったので、今日は第二弾ということになる。相模湖の東から東海自然歩道の山道で小仏城山(670m)に上がり、小仏峠へ降りてから景信山(727m)へ登り返し、小仏バス停へと下るコースで、距離にして7km弱。標高差の累計は上りが約720mで下りが約630m。私は何度も歩いたことがあるから、今日の自分の体調をチェックする上でもちょうどいい。
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09:20 城山登山口 → 10:30 小仏城山

 JR相模湖駅から路線バスで5分。千木良バス停で降りて、登山道の起点の所にある茶店で名物の草餅を買い求め、いよいよ出発。今日は高校山岳部の同期・T君がトップを歩き、リハビリ中ということで私は8人一列の真ん中を歩かせてもらうことになった。久しぶりに再会したメンバーがそれぞれに私の体調を気遣ってくれる。何ともありがたいことだ。
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 尾根に取りついた後、山道は杉の植林の中を黙々と登るコースになる。私のリハビリのために今日の計画は小仏城山までのコースタイムに10分を加えたものにしていて、先頭のT君は計算し尽くしたように計画通りのペースを作ってくれる。そのおかげで、慣れ親しんだコースを私は何の問題もなく登って行くことが出来た。
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 樹林の中から頭の上に広がる青空は一段と鮮やかさを増して完璧な快晴になった。尾根沿いに順調に高度を稼ぎ、南西側の展望が得られる所では、富士の高嶺が頭を見せている。このところの晴天続きで頂上付近にも冠雪はなく、何とものどかな富士の眺めだ。「いい天気だなあ・・・」 私たちは口々に今日の幸運を喜び合った。
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 登山口から小仏城山まで標高差470mほどの登り。山頂に近づくにつれて、始まり出した紅葉が私たちの目を楽しませてくれる。暖かい日差しに照らされたその優しい色合いに何と癒されることだろう。眺めているだけでも私にとっては最高のリハビリになりそうだ。
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 歩き始めてからちょうど1時間を過ぎ、樹林の中ながら空が広くなってきた。登りで息遣いが荒くなるようなことも全くなく、私は土の山道を踏みしめる感触の懐かしさを楽しませてもらっている。そして、草むらの中の最後の登りを過ぎると、いつものように小仏城山の山頂の片隅にポンと出た。左手に大室山を従えた大きな富士の姿も、これまたいつもの通りだ。お疲れさま!茶店のベンチでひとまず小休止を取ろう。
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 東京の街中では、ケヤキやハナミズキの葉が少し色付いて来たかなという程度だが、標高670mの城山山頂付近では鮮やかな紅葉がもう始まっている。同じカエデの樹でありながら、赤・黄・緑の葉が同時に並んでいるというのも不思議なものだ。15分間の小休止の間、私たちは今年最初の紅葉見物を決め込んだ。
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10:45 小仏城山 → 11:35 景信山

 小仏城山から先は、まず小仏峠まで標高差120mほどの下りが続く。北斜面なので日当たりが悪く、晴れた日でも山道がぬかるんでいることが多い。念のためスパッツを付けて降りていったのだが、今日はかなり乾いていて、歩くのに困ることは何もなかった。天候といい山道のコンディションといい、今日は何だか出来過ぎている。小仏峠まで下り切る前に、左手に富士山のビュースポットがあって、眼下の相模湖とセットになった眺めが素敵だ。このあたりの低山では風も殆どなくて実に穏やかな好天なのだが、富士山の宝永火口から上の左肩には雲が沸いているから、それぐらいの高山になると西風が強いのだろうか。
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 小仏峠からは180mほどの登り返しが始まる。距離は短いながら最初の登りが少し急なのだが、ここも今回は実に快適に登って行ける。トップのT君がペースを上げた訳ではないけれど、メンバーも皆しっかりと歩けるので、小仏城山を出てからの区間は計画よりも所要時間を短縮することになり、城山から50分で景信山に到着。東京地方では久しぶりに晴れの週末となった今日は、景信山の山頂も多くの登山者で賑わっていて、二つある茶店はいずれも大忙しだ。私たちは上の方の茶店でベンチとテーブルを確保し、45分間の昼食休憩を楽しむことにした。
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 膵臓がんという、放っておけば命に係わるような病気をしたのは、私の生涯で今回が初めてのことだ。その原因は、おそらく一つではないだろう。元々胃腸は滅法強い方だったし、風邪をひくことも殆どなかった。我ながら酒も飲み、食べることには人一倍の好奇心があることを自認していた。そして、自分が責任を持つ仕事にはつい夢中になってしまうタチでもあった。他方、自分の持つ「鈍感力」もまた自認するところで、うまくいかないことがあってもあまりクヨクヨせず、ストレスも溜め込まない方だと自分では思っていた。けれども、膵臓という、普段から声を上げることのない臓器に病変が起きたことについて自分なりに振り返ってみると、体への刺激が強い食べ物・飲み物を摂取することが多過ぎたり、或いは自覚することのないところで少なからずストレスを溜めていたりしたことがあったのではないだろうか。

 手術を受けた後しばらくしてから主治医の経過観察を受けた時に、「これからは二つのことを必ず励行して下さい。一つは、必要な睡眠を取ること。もう一つはストレスを溜め込まないこと。」と言われたことがあった。それ自体は極めて明快なことなのだが、現代の我々の生活の中ではそれを守れないことが案外と多いものだ。既に還暦を過ぎた私も、会社の経営に責任を持つ立場にある以上は仕方がないことながら、スケジュールに追われるような生活は嫌だなと思いつつも、例えば携帯電話が繋がらずインターネットにも接続出来ないような環境に放り込まれると逆に不安を感じるように、いつの間にかなってしまった。

 けれども、気のおけない山仲間たちと総勢8人で、こうして東京近郊の低山を歩き、身近な紅葉を眺めているだけで、間違いなく今の私は浮世のことから自由でいられる。そして何の損得もなく、山の中で一時を過ごしていることの幸せを仲間たちと共有できる。ただそれだけのことが何とありがたく、何と心穏やかになれることだろう。

 仕事優先の生活からは当分離れられそうにないし、仕事に責任を持つ以上、それはまだ頑張るつもりだ。しかしながら、そこをもう少し器用に立ち回りながら、親しい仲間たちと山へ行くことに私の中でもっと明確な意思を持ってプライオリティーを上げていくべきではないのか。景信山の山頂で皆がそれぞれに持ち寄った食べ物を楽しみながら、多分に我田引水ではあるが、そんなことを考えていた。
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12:20 景信山 → 13:05 小仏バス停

 山を下りる。東京方面の平地を見下ろす景信山からの広々とした眺めも、今はすっかり秋色になった。正午を回ったばかりなのに、秋の陽はもう微かに赤味を帯びている。
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 山頂から下り始めたところで、右手に丹沢山地の眺めが広がっていた。この奥高尾一帯は、晴れた日には丹沢の優れた展望台なのだ。いつまでも眺めていたかったが、遠からずまた来ることにしよう。
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 バスが走る道路まで標高差380mの下り。トップのT君のペースはいつの間にか上がっていて、20分ほども下った頃には山道が尾根の左を巻き、左下から中央自動車道を走るクルマの音が聞こえ始めた。そうなると下界も直ぐで、程なく舗装道路に出る。後はそれを下って行けばバス停は近い。結局、予定より30分早いバスに乗れることになり、高尾山口駅前に13:40頃に着いた。駅に直結する新しい温泉施設「極楽湯」は大変な混雑だったが、下山後の風呂はやはり有難いものである。

 同行のメンバーそれぞれの私への暖かい心遣いを噛みしめながら過ごした半日。おかげさまで、当の私は何らの支障なく今回のコースを楽しませていただいた。この先も決して背伸びすることなく、T君が語ってくれたように「慌てず、焦らず、諦めず」を旨として、私の山歩きのリハビリを続けて行こうと思う。

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二神の山 - 筑波山 [山歩き]


 画面上部に大胆に描かれた、翼を広げる大鷲。その鋭い眼が見下ろすのは江戸の雪景色。「深川洲崎十万坪」と題された何ともダイナミックな構図のこの錦絵は、言うまでもなく歌川広重の『名所江戸百景』を代表する作品だ。
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 洲崎は現在の東京メトロ東西線・木場駅の南東側で、江戸時代は海岸線だった場所だ。この絵は海側から洲崎を眺め下ろしているから、背後に描かれた雪の山はどこかといえば、この方角に見えるのは一つしかない。言わずと知れた筑波山である。男体山(871m)と女体山(877m)の二つのピークがあり、東京の都心から眺めると、確かにこの絵の通り双耳峰のように見えている。

 日本百名山に選ばれた山の中では最も標高の低い山で、ケーブルカーもロープウェイもあるから、筑波山へ行こうと思えばいつでも行ける。そう思うと、実はなかなか行かないものだ。私の山仲間たちもそうだったはずである。

 しかし、大海原のような関東平野の中にそこだけ900m近くも隆起した異様な姿を持ち、だからこそ古来人々に崇められ、その山域全体がイザナギ・イザナミの神を祀る筑波山神社の境内になっているこの山には、いつかは登ってみたいと思っていた。更に言えば、私たちが卒業した中学・高校は、卒業のずっと後になって「筑波」という地名と縁が出来ることになった。その点からも、筑波山にはどこかで一度、それも出来れば同期生の山仲間たちと行ってみたいと思っていたのである。
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 12月11日(日)の朝7時に秋葉原駅を出る「つくばエクスプレス」(TX)に乗車。これから山へ出かけるというのに、山仲間たちとの集合場所が秋葉原というのも何だか不思議な気分だ。

 初めて乗るTX。北千住までは各駅停車だが、そこから先の快速区間はぐんぐんと加速し、八潮の手前で地上に出ると、あっという間に中川や江戸川を越えて埼玉県最初の駅・南流山に到着。ここで武蔵野線と、そして次の流山おおたかの森で東武野田線(アーバンパークライン)とそれぞれ交差した後、利根川を渡って茨城県の守谷駅へ。関東では稀有な非電化の私鉄・関東鉄道常総線の線路を見下ろしながら、更に北上を続ける。直流で走ってきたTXはここから交流に切り替わるのだが、デッドセクションの通過時に車内灯が消えることもなく、実に滑らかに交流区間へと入った。窓の外では、筑波山の姿がさすがに大きい。
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 秋葉原から僅か45分でつくば駅に到着。そこから筑波山シャトルバスに40分ほど揺られると、筑波山神社前のバス停に着く。そこからは関東平野の彼方に朝の富士山が姿を見せていた。
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 山の方を眺めると、赤い大鳥居の向こうに筑波山の西側のピーク(男体山)が思っていたよりも高く聳えている。
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08:45 筑波山神社 → (御幸ヶ原コース) → 10:20 御幸ヶ原 → 10:35 男体山頂上

 いよいよ出発。まずは筑波山神社の参道を上がり、拝殿で二礼二拍手一礼を済ませてからケーブルカーの乗り場方向へと進む。その先が登山道の入口だ。辺りには、もう終わったかと思っていた紅葉がまだ残っていた。
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 登山道は基本的にケーブルカーのルートに沿った道で、常緑樹の森の中を登っていく。筑波山は火山ではない筈なのだが、それにしては大きな岩がゴロゴロした山道だ。時にケーブルカーの線路がすぐ隣に迫ると、それが案外急傾斜なことに気づく。いったい何パーミルあるのだろう。風情はだいぶ異なるが、私が香港に駐在していた頃、ヴィクトリア・ピークに上がるケーブルカー(ピーク・トラム)に沿った急階段の道をよく歩いたことを思い出した。
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 それにしても、登山道は案外としっかりした登りが続く。標高1,000mに満たない低山といえども侮れないものだ。傾斜の一番きつい箇所では時代劇に出て来る砦のような土留めが施されている。気分は楠木正成の千早城か、或いは赤坂城か。
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 そんな中、私たちは殆ど休憩も取らずに登り続け、概ねコースタイム通りの1時間35分ほどで御幸ヶ原に着いた。あたりは展望台のようになっていて、筑波山よりも北側の山と平地の眺めが広がっている。一番目立つ山が加波山(709m)である。
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 御幸ヶ原からは西側にこんもりとした男体山のピークが見えている。そこまでは10分足らずの登りである。
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 そのピークはとても狭く、筑波山神社の男体山御本殿が占めているので、木々に遮られることなく下界を眺められるのは一人か二人分ぐらいのスペースしかない。しかし、眼下に広がる関東平野の眺めは何とも広大だ。矢印の位置に見えている富士山から右へ、大菩薩や奥多摩、奥秩父など、いつもは通勤電車の窓から手に取るように眺めている山々が、ここでは遥かな彼方に連なっている。
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10:40 男体山頂上 → 11:07 女体山頂上(10分休憩) → (白雲橋コース) → 11:50 弁慶岩(20分休憩) → 12:55 筑波山神社

 男体山から再び御幸ヶ原へ降りる、その名前からはもう少し草原のような地形を想像していたのだが、地面は舗装され、ケーブルカーの駅や展望台、土産物屋、軽食屋などが並んでいる。いささか風情に欠けるが、昔からの観光地とはそういうものだろう。その一帯を過ぎて再び始まった山道をしばらく進むと、筑波山名物「ガマの油」の売り口上がこの前で考案されたというガマ石があった。
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 やがて山道は狭くなり、そして岩が多くなり、女体山御本殿の建物を囲むようにして山頂へと向かう。そのピークは男体山よりずっと広く、登山者たちが大きな岩の上に立って下界の眺めを楽しんでいた。私たちもその一員となって最前列に出ると、南東方向には霞ヶ浦が輝いている。
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 富士山は辛うじてその姿をまだ残しているが、丹沢方面から盛んに沸き上がる雲に、間もなく隠れてしまうことだろう。
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 歩いて来た方角をふり返ると、男体山が火山でもないのにきれいな円錐形の山体を見せている。なるほど、歌川広重もこのピークを少しデフォルメして描いていた訳だ。
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 女体山から白雲橋コースと名付けられた山道を下る。時刻が11時を過ぎ、お昼までに山頂を目指すパターンが多いのか、この山道を登って来る人々が案外多く、岩場が続く所では結構な列が出来ている。老若男女、年齢層も様々で、やはり筑波山は人気があるようだ。

 眺めてみればその名の通りの大仏石。大きな岩と地面との間がトンネルのようになった弁慶七戻りなど、このコースは奇岩が色々とあり、変化に富んでいて面白い。大きな岩がゴロゴロした道を下るので膝が痛くなるが、低山ながらもなかなか手応えのある山である。私たちはその弁慶七戻りのすぐ先にちょっとした休憩場所を見つけ、昼食を取ることにした。真っ青な冬空と、いかにも神社の奥山の独特な雰囲気。木漏れ日を浴びながら、私たちは筑波山の持ち味を噛み締めていた。
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(その名の通りの大仏石)

 筑波山といえば、ずっと不思議に思っていたことが私にはあった。1864(元治元)年にここで尊皇攘夷の兵を挙げたという水戸天狗党のことである。

 元治元年というと、その前年には長州による攘夷決行、生野の乱、天誅組など尊攘派による激発事件が相次いだが、京都では「八月十八日の政変」で公武合体派の巻き返しを喰らい、尊王攘夷運動は早くも転機を迎えていた。明けて元治元年、水戸藩内で保守派と激しい対立を続けていた藤田小四郎ら尊攘派の急進グループ(人の意見を聞かず偉ぶっているので「天狗党」と呼ばれた)が藩を脱し、攘夷の実行を幕府に迫るとして3月27日(太陽暦では5月2日)に筑波山で挙兵に及んだ。当初は60数名でスタートしたものが、最盛期には1,400人にも膨れ上がったという。

 前年に京都で一敗地に塗れた尊攘派の長州がこの年の7月に蛤御門の変を起こしたのも、この天狗党の挙兵に意を強くしたためだったそうだが、やがて幕府は天狗党への追討令を出し、那珂湊で幕府軍に敗れた天狗党は11月から京都に向けて西走を開始。頼みの綱は京都にいた水戸藩出身の一橋慶喜だったが、慶喜はむしろ自らその追討に向かう。12月17日、天狗党は敦賀で遂に投降し、800人超が捕らえられ、その内の352人が処刑されたという。

 その天狗党が挙兵の場所に筑波山を選んだのはなぜなのだろう。確かに現代のように公共の広場などはない時代のことだから、多くの人数が集まれる場所といえば寺社の境内ぐらいだった筈だ(一揆の集合場所も大抵はそうだった)。だがそれにしても、筑波山頂とは言わないまでも筑波山神社だって標高は二百数十メートルあり、麓の平地からはそれなりに坂道を登り続けなければならない。それなのに、挙兵の地としてなぜここを選んだのだろう。

 昼食の時にそんなことを考えながら、もう一度山の中を見渡してみると、広い関東平野の中で突如として隆起したこの山の中には、何か独特の雰囲気があり、山全体が神社の境内であることにも、自然と頷けるものがある。まして、この山に祀られているのはこの国の開祖であるイザナギ・イザナミの二神だ。そうだとすると、この山で挙兵に及んだ天狗党の志士たちには、筑波山の神威にあやかりたいという思いがあったのではないだろうか。
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(天狗党を描いた『武田耕雲斎筑波山之図』)

 私たちが昼食を楽しんだ場所から筑波山神社までは、距離にして2kmほどの下りなので、歩き始めれば直ぐに着いてしまう。実際にこの日の私たちは、上りこそコースタイムとほぼ同じだったのだが、下りはかなり快調で、13時前、つまり予定より30分ほど早く降りて来てしまった。山道が終わった所でふり返ると、鳥居の彼方に男体山のピークが見えている。ケーブルカーやロープウェイがある山とは思えないほど、その佇まいが厳かだ。やはり神様の山なのだろう。
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 行けそうで行けなかった筑波山。やっとその機会を作ることが出来た。そして実際に自分の足で歩いてみて、やはり行ってみて良かったと思っている。同行してくれた同期生たちにはただただ感謝である。

 おそらくこれが、年内最後の山歩きになることだろう。来年もまた、元気に山へ出かけたいものだ。

青と緑 - 燧ヶ岳・会津駒ヶ岳(3) [山歩き]

 
8月7日(日)

 午前3時50分起床。車中泊だった前夜とは違い、旅館の布団ではさすがによく眠れた。

 昨日に続いて今日も山を目指す私たちは、洗顔を済ませて荷物の確認を開始。桧枝岐村の七入地区にある七入山荘は登山者の利用も多く、私たちのような早出組が他の部屋からも起き出していた。

 七入山荘は桧枝岐村の中心地区からは離れているが、とても快適な旅館だった。昨夜の食事では地元の山菜の数々を楽しませていただいたが、中でもヤマブドウの天麩羅は珍しく、爽やかな酸味が印象的だった。同じく地元産のイワナの塩焼きも実に美味。テーブル毎に同じおひつのご飯を分け合うのもどこか山小屋風だ。そして今朝も、私たちのように朝の早い登山者には、朝食用のおにぎり弁当を4時半からフロントに置いてくれる。日程に余裕があれば、是非もう一泊したくなる旅館だった。

 そのおにぎり弁当を受け取って、私たちは4時半過ぎに車で出発。夜明けの桧枝岐村を走り抜け、会津駒ヶ岳登山口のバス停のある角を左折して林道を上がり、実際の登山口の直前にある駐車場を目指した。カーブの連続する林道の途中には道路脇に駐車スペースが何箇所かあるのだが、私たちは何とか最上部の一角に停めることが出来た。

 おにぎり弁当を半分だけ食べて、いよいよ出発。前日の燧ヶ岳登山の疲れは幸いにして残っていない。そして、今日もまた素晴らしい天気になりそうだ。

05:15 最上部の駐車場 → 06:45 水場のベンチ

 車を停めた場所から林道の続きを歩いていくと、左側に長い鉄梯子があり、そこから会津駒ヶ岳への山道が始まる。
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 火山特有の大きな岩がゴロゴロしていた昨日の燧ヶ岳とは対照的に、今日は実に穏やかな山道で歩きやすい。山麓には大きなブナの木が続き、その濃い緑が夏空によく映えている。
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 とはいえ、早々にしっかりとした登りがあるので、自分の体が本当に目覚めるまでは辛抱しなければならない。最初の30分に一汗かいたところで5分休憩。そして、展望のない樹林の中を引き続き黙々と登り、登山口からちょうど1時間半でベンチのある休憩場所に着いた。近くに水場があるようだが、飲み水は多めに担いでいるので、水場の確認はパス。それにしても汗が出る。
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06:55 水場のベンチ → 07:55 展望の良いベンチ

 10分休憩を取ったベンチから再び歩き始めて10分、木々の間から会津駒ヶ岳の稜線が見え始める。今日のコースは登るにつれて傾斜が緩くなるので、このあたりからは歩くのも楽だ。そして足元ではオヤマリンドウの鮮やかな青が涼しさを運んでくれる。
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 やがて、山道の周りの植生が樹林から草地へと移り始め、木道が現れるようになると、その直ぐ先の眺めの飛び切り良い場所にベンチが用意されていた。先ほどのベンチからちょうど1時間だ。
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 この日初めてその全容を現した会津駒ヶ岳が目の前に。そして、そこからの稜線を左に辿ると、駒の小屋の三角屋根が見えている。足元にはキンコウカが咲き乱れ、あたり一面が穏やかな草原だ。いつまでもそこで過ごしたくなる景色である。時間に余裕があるので、空の青と夏山の緑を私たちはゆっくり楽しむことにした。
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08:12 展望の良いベンチ → 08:30 駒の小屋

 ベンチを後にして木道を更に進むと、一登りで展望が一気に開けた。駒の小屋直下の登りは、前後左右どちらを向いても、実に素晴らしい眺めだ。

 私たちの背後には帝釈山や田代山など、福島県と栃木県の県境を成す山々が連なっている。
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 左手には、昨日登った尾瀬の燧ヶ岳が天を突くように聳え、右の後方には同じく尾瀬の至仏山が立派だ。空と山、草原と池塘。何と素晴らしい組み合わせなのだろう。
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 そして行く手には駒の小屋の三角屋根と会津駒ヶ岳の丸い山頂。まるでお伽話の世界の中にいるような気分だ。
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 そんな四方八方の眺めを楽しみながら、8時半ちょうどに駒の小屋に到着。今日はこれから会津駒ヶ岳を越えて中門岳までを往復する予定だが、戻って来たらここで是非ゆっくりすることにしよう。
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08:35 駒の小屋 → 08:52 会津駒ヶ岳

 駒の小屋から山頂に向けて草原の中を緩やかに登る。程なく山道は山頂直下の西側をトラバースしていくのだが、そこからの南側の眺めが素晴らしい。駒の小屋の後方に燧ヶ岳から日光連山までの山々が勢揃いだ。
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 そして、山頂へと続く階段が右手に現れ、標高差50mほどを登れば会津駒ヶ岳の山頂だ。雲一つない青空。緑が濃い。
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08:57 会津駒ヶ岳 → 09:35 中門岳

 先へ進もう。山頂から北西方向に尾根を下る木道を辿ると、直ぐに中門岳までの展望が広がる。穏やかな草原の中に木道がどこまでも続く、ちょっと日本離れした風景だ。そして、最初の鞍部へと下っていく途中ではニッコウキスゲが今日初めてその姿を見せた。
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 今年はこの山域には例年より雪が少なかったそうで、そのためか幾つかの池塘は涸れていたが、あたりでは至るところにミヤマリンドウが咲いている。いつまでも歩いていたくなる道だ。
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 こんな風に穏やかな草原の中の道だから、高山植物の花を愛でつつどんなにゆっくり歩いても、かかる時間は知れている。会津駒ヶ岳から40分ほどで、私たちは大きな池塘の前に着いた。
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 地形図を見ると、標高2060mの中門岳のピークはあと500mほど先のはずだが、道標には「中門岳(この一帯を云う)」と書かれている。まあ、どこがピークかわからないような穏やかな地形の中で、池塘の前が休むのにいい場所だから、ひとまずここに道標が置かれ、ベンチが用意されたということなのだろう。こういう「ゆるい」感じがこの山には相応しい。私たちもゆっくりすることにしよう。

 それにしてもいい天気。あたりの森からは、ポケモンではなくてムーミンやスナフキンがひょっこりと現れるのではないだろうか。

10:00 中門岳 → 10:50 駒の小屋

 中門岳の池塘の前で30分近くのんびりと過ごした後、私たちは来た道を戻る。こんなに素晴らしい景色とお別れしてしまうのが何とも名残惜しい。後ろを何度も振り返りつつ、草原の中の木道を辿った。
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 予定よりも一時間以上早く行動してきたので、時間には余裕がある。駒の小屋のベンチではT君が熱いコーヒーをいれてくれた。空の青と夏山の緑を眺めながら、アルミの食器でゆっくりと味わうブラックコーヒー。シンプルながら何と贅沢なことだろう。

11:20 駒の小屋 → 12:55 最上部の駐車場

 会津駒ヶ岳から中門岳にかけての眺めを存分に楽しんだ私たち。後は山を下り、温泉で汗を流して東京に帰るだけだ。そうなれば、一気に降りよう。昨日の燧ケ岳のように大きな岩がゴロゴロした山道ではないから、下りも楽なはずだ。T君が先頭に立って、コースタイム2時間20分の道を私たちは1時間半ほどで駆け下った。
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 最高の天気に恵まれ、燧ヶ岳と会津駒ヶ岳からの展望を存分に楽しんだ今回の山行。写真も数多く撮ることになったが、その中での一番のお気に入りを、今回の記録の最後に掲げておくことにしたい。それは、駒の小屋から下山を始める直前に撮った、山の上での最後の写真である。
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 空の青と山の緑。日本の山岳風景の原点は、もしかしたら信州のアルプスよりも、東北の山々にあるのかもしれない。

青と緑 - 燧ヶ岳・会津駒ヶ岳(2) [山歩き]


8月6日(土)

 車の中での睡眠は途切れ途切れだった。

 尾瀬・燧ヶ岳(2356m)の北麓にある御池駐車場は、標高1500mだから上高地と同じ。5センチほど開けておいた運転席の窓から入って来る外気は思いの外冷たく、車内でシュラフ(寝袋)を被っていた私は、そのために何度か目を覚ました。

 そして、午前4時。T君が起き出した物音で私も再び目を覚まし、朝の支度を始める。車の外に出ると星々は急速にその姿を消しつつあり、尾瀬御池ロッジの向こうの空が明るくなり始めていた。これは素晴らしい天気になりそうだ。
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 T君が湯を沸かしてくれて、カップ麺で手短に朝食を済ませる。荷物を確認し、水を多めに持って、4時55分に駐車場を出発。燧ヶ岳への登山道に入る。ヘッドライトはもう点灯しなくてもいい明るさになっていた。

04:55 御池駐車場 → 05:45 広沢田代

 御池駐車場からしばらくは森の中の木道が続いていたが、それが終わるといきなり急登が始まる。それも、大きな岩がゴロゴロとしている上に、山からの湧水が豊富であちこちにぬかるみが出来ている。
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 これから登る燧ヶ岳は火山で、最後の噴火は1544年頃というから室町時代の末期、鉄砲伝来の翌年ということになる。それならば岩がゴロゴロとしていても不思議はないが、その火山の山麓がこれほど緑豊かであるのは、冬の間にこの地方に降り積もる多量の雪の賜物なのだろう。

 最初のピッチから急登が続くのは辛いが、我慢して登り続けると次第に傾斜が緩やかになり、広々とした草原状の地形に出る。そこが広沢田代だ。鮮やかな夏の緑が草原いっぱいに広がり、池塘が朝の光に輝いている。私が楽しみにしていた空の青と夏山の緑の組み合わせが、早くも始まった。
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05:50 広沢田代 → 06:35 熊沢田代

 短い休憩を取ってから出発。草原の中に続く木道は再び森の中に入り、しっかりとした登りが続く。そして30分ほどで後ろを振り返ると、明日登る予定の会津駒ヶ岳(2133m)が、その大きな姿を見せていた。
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 それから一登りで再び草原状の、広沢田代よりも更に雄大な眺めが広がる熊沢田代に出た。二つの池塘の間に木道が続き、彼方には燧ヶ岳のピーク(の一つ)が見えている。
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 ここには池塘の前にベンチが用意されているので、ゆっくり出来る。そこから西側を眺めると、越後駒ヶ岳(2003m)をはじめとする越後三山がきれいに並んでいた。
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06:45 熊沢田代 → 08:12 俎嵓

 眺めの良い熊沢田代で10分休憩を楽しんだ後、再び出発。ここから先は植生もだいぶ低くなって来るので、見晴らしの良いポイントが続く。振り返ると先ほどの熊沢田代が早くも眼下に見えている。
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 なおもしっかりとした登りが続くので、ここが今日の正念場。太陽も昇って暑くなり始めた。汗を拭き拭き、ともかくも頑張ろう。

 やがて、もう一度後ろの展望が開ける箇所があり、会津駒ヶ岳がほぼ目の高さになった。先ほどの熊沢田代はもう遥か下に小さく見えている。
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 そこから先は、日光連山が左前方に見えるようになった。男体山(2486m)、大真名子山、小真名子山、そして女峰山は、仙台へ出張する時に東北新幹線の車窓から何度も眺めているのだが、今日はそれらの山々をちょうど反対側から眺めていることになる。
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 熊沢田代から登り続けてほぼ1時間半。双耳峰から成る燧ヶ岳の東側のピークである俎嵓(まないたぐら、2346m)に私たちは到着した。
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 その少し前に首相官邸から国民宛のLINEメッセージがスマホに入り、広島への原爆投下の日にあたる今日は8時15分から1分間の黙祷を捧げて欲しいとのこと。ちょうど山頂に着いたばかりの私たちは、眼下に広がる山河の眺めに向かって頭を垂れた。71年前のこの日の広島にも、今日のような夏空が広がっていたはずである。
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(昭和20年8月6日の天気図)

 さあ、それでは、山頂からの大展望をしばし楽しむことにしよう。

俎嵓からの展望

 まず目の中に飛び込んで来るのは、尾瀬沼の全容とそれを取り囲む山々だ。正面に聳える一番高いピークが日光白根山(2578m)。私たちが立っている燧ケ岳は福島県内にあり、ここより北の日本では最も高い山なのだが、栃木県まで含めると日光白根山が一位になる。
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 そこから目を右の方に転じると、尾瀬ヶ原の向こうに至仏山(2228m)が穏やかな山容を見せている。
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 更に右へと首を回していくと、燧ヶ岳のもう一つのピークである柴安嵓と、その右奥に並ぶ巻機山平ヶ岳八海山、越後三山などの新潟県の山々を眺めることが出来る。
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 それにしても、何という快晴だろう。私たちは俎嵓からの大展望を30分ほども楽しんだ後、もう一つのピーク・柴安嵓へと向かう。それは50m降りて62m登り返すことになるのだが、15分程度のものだ。

柴安嵓からの展望

 柴安嵓からは、尾瀬ヶ原と至仏山が真正面に位置している。その至仏山の右後方に谷川岳の姿も。上越国境付近も今日は完璧な快晴のようだ。
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(矢印のピークが谷川岳)

 至仏山の左奥に並ぶのは、上州の武尊山(ほたかやま、2158m)。なかなか堂々とした容姿の山である。その武尊山と至仏山のちょうど中間の彼方にうっすらと高い山が見えている。あれは何だろうとT君と話していて、その場では結論が出なかったのだが、帰宅してからカシミール3Dで調べてみたら、何とそれは浅間山(2568m)だった。
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 その武尊山の左の彼方には、同じく上州の赤城山(1828m)が見え、その更に左には日光連山の南端にあたる袈裟丸山(1961m)や皇海山(すかいさん、2144m)のピークが並ぶ。
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 こうして燧ヶ岳の二つのピークから360度を眺めまわしてみると、見えるべき山は全て見えているのだが、残念ながらその殆どの山に私は登ったことがない。これまでは東京から西の方にばかり目を向けてきたが、関東と東北の接点にあたる地域にも、いい山がたくさんあるようだ。還暦になった今、山に登れる人生があと何年残っているのかは知る由もないが、自分にとって課題はまだたくさん残っているといっていいだろう。
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(柴安嵓から俎嵓に戻る)

10:15俎嵓 → 12:50 御池駐車場

 真夏にもかかわらず視界がかなり遠くまで利いたこの日、私たちは燧ヶ岳の二つのピークで結局2時間ほども過ごすことになったが、山頂では折りたたみ傘を日傘に使っていたほどで、これ以上長居をしていたら益々日焼けをしてしまう。10時15分に下山を開始して、来た道を下った。

 下山路で印象的だったのは、やはり熊沢田代の眺めだろうか。真昼の太陽の下、熊沢田代の池塘は朝の早い時刻とはちがって、空の青を鮮明に映し出していた。
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 地上の楽園ではないかと思えるような場所なのだが、この日に宿泊した旅館の女将の話によれば、天候の悪い日には、この熊沢田代は立っていられないほど風の強い場所なのだそうだ。今日のような好天ばかりが大自然の姿ではない。それはわかっているのだが、私にとって今日の熊沢田代は思い出に残る楽園であった。
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 大汗をかきながら御池駐車場に帰着。隣接する「道の駅」で冷たい飲み物を買い求めて水分を補給。この日に予約してある旅館のチェックインまでにまだ時間があるので、T君の発案で私たちはここから西の奥只見湖を眺めにクルマを飛ばした。(そもそもこの国道352号は奥只見ダムの建設のために開かれた道路なのだ。)
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(奥只見湖)

 御池駐車場から新潟県方面へ20kmほどを走り、奥只見湖が眼下に見える所で遊覧船の尾瀬口の乗り場を見つけたので、様子を見て来ることにした。そこからは一日3便の船が出るようだが、そこまでのアクセスも非常に限られたダイヤのバスしかなく、利用はしにくいのかもしれない。カンカン照りの中、船着場には人っ子一人いない。そこからは、先ほど登って来たばかりの燧ヶ岳が、双耳峰を持つ特異な山容を見せていた。
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(只見川と燧ヶ岳)

それから私たちは車で桧枝岐方面へと戻り、御池駐車場からヘアピンカーブを下って、今夜の宿泊場所である七入山荘へと向かった。
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(To be continued)

青と緑 - 燧ヶ岳・会津駒ヶ岳(1) [山歩き]

   
 8月5日(金)の午後5時過ぎ、旧友T君が運転する車は東北自動車道の西那須野塩原ICを降り、国道400号を山に向かっていた。

 遅れていた関東甲信地方の梅雨明けを気象庁が発表したのが7月28日(木)。東北南部も翌29日に梅雨明けとなったのだが、今年は梅雨前線の北上型ではなく消滅型での梅雨明けで、宣言の後も日本の北半分では上空に寒気が残ったために天候の不安定な日が続き、特に東北地方以北では連日の大雨となっていた。

 T君と私は、当初の予定では8月3日(水)午後の出発で夏山に出かけることにしていたのを、直前になってその日程を2日後ろにずらすことに決めた。その甲斐あって、今日は関東地方にも元気な夏空が広がり、午後3時に新宿西口でT君と集合した時には都心も大変な暑さで、登山用の荷物を抱えてT君の車に乗り込んだ私は汗まみれになっていた。

 午後5時半頃、国道400号沿道のファミレスで夕食をとる。少し早めだが、ここから先の道中にはそういう場所も殆どないようなので、今のうちに済ませておこう。ついでに隣のコンビニで今夜の寝酒と明日の朝食を調達することにして、午後6時過ぎに私たちは再び車を走らせた。

 T君と目指す今年の夏山は、燧ヶ岳(ひうちがたけ、2346m)と会津駒ヶ岳(2133m)の二座である。いずれも南会津の最南端にあり、特に燧ヶ岳の場合はそのすぐ南側の尾瀬沼が福島県と群馬県の県境だ。今夜はその燧ヶ岳の北側の登山口がある国道352号の御池駐車場に車中泊の予定で、先ほど夕食をとった場所からそこまで、山の中を抜け、平家の落人伝説のある桧枝岐(ひのえまた)村を経て、まだ97kmほどを走らねばならない。
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 栃木県側から南会津へ。これから走る97kmはその大半が山の中の道である。それもそのはずで、地図を眺めてみると、那珂川、利根川、そして阿賀野川の三つの流域にまたがるルートなのだ。従って、必然的に分水嶺の山々を越えていくことになる。これから順に国道400号、121号、352号を走るのだが、日暮れの時刻とも重なって、沿道の風景はどんどんと寂しくなっていった。
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 塩原温泉郷を過ぎて、那珂川流域から利根川流域へ、栃木県の中で最初の分水嶺を長大トンネルで超える。それが1988年に竣工した全長約1.8kmの尾頭(おがしら)トンネルだ。その建設を推進した地元政治家・渡辺ミッチーの銅像が塩原側に立っているのだそうだが、私たちはそれに気づかぬまま通過してしまった。

 トンネルを出ると、ほどなく国道121号と合流。そこから先は国道400号、121号、352号が重複する区間で、道路脇には三つの国道のプレートが縦に並ぶ全国でも珍しい標識を見ることができる。地図を見ると、東武鬼怒川線と会津鉄道との間を繋ぐ野岩鉄道の線路がほぼ並行して走っているはずなのだが、夕闇の迫る中、それは車窓からは見えない。
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 やがて、短いトンネルを越えるといよいよ福島県に入る。同時にそれは、利根川流域を越えて阿賀野川の流域に入ったことを意味している。文字通り、関東と東北の境といっていいだろう。

 沿道はすっかり寂しくなった。国道といいながらもセンターラインのない箇所が多く、車の通行量は極めて少ない。そして携帯電話の電波も入らない。そんな地域にも「道の駅」があったりするのだが、この時刻にはもう店を閉じていて灯もない。なおも走り続けると、やがてT字路の上を単線鉄道のアーチ橋が横切る箇所に出た。桧枝岐へはそこを左折することになる。国道400号及び121号とはそこでお別れで、これからは352号独自のルートだ。
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(写真はGoogleのストリートビューによる)

 夜の闇はいよいよ濃くなり始めたが、道路の左側に並行する鉄道の架線がかろうじて見えている。先ほど見た野岩鉄道の続きで、この区間は会津鉄道の線路である。旧国鉄・会津線を引き継いだ三セク鉄道だ。会津若松方面から会津田島までは戦前に開通しており、今見ている会津滝ノ原(現・会津高原尾瀬口)までの区間が完成したのは昭和28年だった。

 一方、鉄建公団が進めていた野岩線(国鉄日光線・今市⇔会津線・会津滝ノ原)の建設が、国鉄再建法の施行によって凍結されたため、既に着工していた新藤原・会津滝ノ原間の建設を三セクの野岩鉄道が引き継いだのが昭和57年。この区間はJR発足の前年の昭和61年秋に会津鬼怒川線として開業し、4年後の平成2年には会津鉄道の南端が電化されて、東武鉄道からの直通列車が会津田島まで運行されるようになった。要は、大正11年の改正鉄道敷設法の別表に記載された予定線「栃木県今市ヨリ高徳ヲ経テ福島県田島ニ至ル鉄道」が、68年の歳月をかけて、東武鬼怒川線と接続する形で実現したことになる。

 なお、旧国鉄・野岩(やがん)線及び野岩鉄道というネーミングは、「下野国」(栃木県)と「岩代国」(福島県会津地方)を結ぶことに由来するのだそうである。

 さて、日はとっぷりと暮れて、国道352号に並走していた会津鉄道の築堤も見えなくなった。対向車も殆どない寂しい道を走り続け、幾つかの集落を抜けると、再びT字路に。それを左折すれば、いよいよ桧枝岐村へのラストスパートだ。
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 宵闇の中を15kmほど走ると旅館の灯の数々が現れ始める。だがそれもしばらくの間だけで再び深い闇が始まり、道路も上り坂に入った。七入(なないり)という地区で、標高が1,000mを少し超えた所だ。それからはヘアピンカーブが続き、高度をぐんぐんと上げていく。そして、その坂道をほぼ登り切る手前で左側の駐車場へと道が分かれた。450台ほどのキャパを持つ御池(みいけ)駐車場。ここが今夜の目的地だ。時刻は午後8時10分になろうとする頃だった。

 車を停めて外に出ると、頭上にはたくさんの星が出ていた。考えてみれば、一昨年の夏から今年まで、私にとっての夏山は三年連続で前夜が駐車場での車中泊だ。そして、一昨年の鳥海山も昨年の北アルプス・扇沢も、駐車場では今夜のように星空がきれいだった。これならば、明日もきっと好天に恵まれることだろう。空の青と夏山の緑が楽しみだ。

 後部座席を倒して寝る場所を作り、T君と二人で寝酒の缶ビールを開けると、程なく私たちは眠りに落ちていた。
(To be continued)


束の間の夏富士 - 三ツ峠山 [山歩き]


 週末の早朝、JR新宿駅から中央特快に乗って山を目指す。中央線の眺めも案外久しぶりだなと思って調べてみたら、この方面に出かけたのは4月の下旬に生藤山~陣馬山へ行って以来、2ヶ月と3日ぶりのことだった。

 山の緑が日々甦る、あの素晴らしい春先の時期から季節は巡り、今は夏至を過ぎて梅雨の真っ只中。それでも、たまには今日のように梅雨の晴れ間もやって来るもので、電車の窓からは丹沢の向こうに残雪の殆どない富士山がくっきりと見えている。

 立川で普通列車の大月行きに乗り換え、八王子で今日の山仲間7人全員が揃った。梅雨の晴れ間に三ツ峠山(1,785m)から夏富士を眺めてみよう。一週間前にそんな内容の声掛けをして始まった今日の山行。途中で当日の天気予報に傘マークが付いたりして気を揉んでいたのだが、結果的には晴天に巡り会えることになった。メンバー皆の日頃の行いの良さに、まずは感謝である。

 小仏トンネルを越えて、しばらくぶりに眺める沿線の山々。梁川駅と鳥沢駅の間で一箇所だけ、近くの山の稜線の向こうに三ツ峠山のピークが見える箇所があって、大きなアンテナが立つその特異な形の山頂が、今朝も一瞬だけ姿を見せた。私たちが目指すあたりも天気は上々のようだ。

 7時48分、終点の大月駅に到着。富士急行線への接続がわずか3分なので今までは慌しかったのだが、昨年からSuicaが富士急にも導入されたので、そこは随分と楽になった。河口湖行き電車の発車前に、側線に停車中の新しくなったフジサン特急の写真を撮ることも出来たほどだ。国鉄時代の「パノラマエクスプレス・アルプス」を利用した初代車両の後継車として2014年から運用が始まった、かつての小田急ロマンスカー20000系(RSE)電車である。
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 季節の良い頃ならば、日曜日の朝のこの電車は登山客で賑わうのだが、梅雨の最中の今日はそれも少なく、代わりに洋の東西を問わず外国人の観光客が多い。6月の下旬ともなれば海外では学校も夏休みに入っているから、これからが旅行シーズンだ。そんな彼らにとってお目当ての富士山が、下吉田を過ぎるといよいよ大きな姿になった。

 富士山駅で進行方向が変わり、08:43河口湖駅に到着。反対側のホームには、この4月にデビューしたばかりの「富士山ビュー特急」が停まっていた。JR東海の371系を譲り受け、あの水戸岡鋭治氏のデザインによって改造を加えた車両である。
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 先ほど大月で見た小田急の20000系も、この371系も、かつては小田急線から御殿場線に乗り入れる特急「あさぎり」として運用されていた車両である。御殿場線で富士山の南側を走っていた両者が、今度は富士山の北側を走る富士急行線で再び顔を揃えたのだから、これは奇妙な縁というべきだろう。

 河口湖駅の構内踏切からは、富士の高嶺が大きく見えている。朝早くはこんな風なのだが、これから気温が上がるにつれてその周辺にムクムクと雲が湧き出すことになる。私たちが山の上に辿り着く時刻まで、あの夏富士は姿を見せていてくれるだろうか。
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 駅からはタクシーに分乗。標高約1,300mの三ツ峠登山口駐車場まで運んでくれるので、三ツ峠山の頂上まで上りの標高差は485mほど。ゆっくり歩いても1時間半程度である。マイカーならばこのルートの往復になるのだが、今日の私たちは三ツ峠山を越えて西桂町側へ、下りの長いルートを歩くことにしている。

9:20 三ツ峠登山口駐車場 → 10:30 四季楽園 → 10:45 三ツ峠山(開運山)

 三ツ峠登山口駐車場からの登山道はジープが走るような道で、いつものことながら面白みに欠ける。それを淡々と登り続け、ベンチを過ぎてもう一登りすると山道が左に向かい、傾斜が緩くなる。秋の晴れた日などには南アルプスの峰々が見えるのだが、その方角には早くも雲が湧いている。今日は暑くなりそうだが、私たちの頭上も夏空が適度に雲に遮られていて直射日光が当たらないのは幸いだ。
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 途中、左手の草むらでアヤメが鮮やかな色の花を見せている。
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 「花びらの基の部分の模様が網目状なのがアヤメ、白いのがカキツバタ。」とT君が説明してくれる。(因みに、それが黄色なら花菖蒲。) なるほど、そう言われてみれば、尾形光琳が残した有名な屏風絵は、あれは確かにアヤメではなくてカキツバタだ。
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(尾形光琳 作 「燕子花図屏風」)

 やがて山道が二つに分かれるので左の方を進むと、三ツ峠山荘を通らずに四季楽園の前に直接出るので少しショートカットだ。そこから三ツ峠山への最後の登りに取りかかるところで、足元にオダマキがひっそりと咲いていた。
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 そして、お目当ての富士は見えるには見えているが、その山頂が雲に隠れてしまうのはもう時間の問題だった。この季節は、公共交通機関を使って山へ行くと、上に着く時刻には大体こういう展開になるものだ。
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 ザラザラで滑りやすい急斜面を登ることしばし。10:45に三ツ峠山(開運山)の頂上に着いた。この斜面を登っている間に、やはり富士山頂には雲がかかってしまったが、それでも開運山からの展望は広い。黒岳や釈迦ヶ岳をはじめとする御坂山地が長々と横たわり、本栖湖の湖面らしき輝きも見えている。まだ一時間半ほどしか歩いていないが、私たちは予定通りこの山頂で少しゆっくりと昼食をとることにした。
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 この山頂から広闊な富士の裾野を眺めていると、今から5百万年前にそこが海の中だったなどとは、およそ想像も着かないことだ。だがその時にも、御坂山地と丹沢の核心部は古い山脈として海の上に姿を見せていたという。

 やがて70~20万年前になると愛鷹火山小御岳火山が噴火活動を始め、土地が隆起して海が南へと後退。そして約8万年前には両火山の間で古富士火山が活動を始め、両火山を埋めるようにして高い山になる。その頃、古富士火山と御坂山地の間には大きな湖が出来ていたが、約1.1万年前に始まった新富士火山の噴火の溶岩流によってその湖が寸断され、現在の富士五湖が形成されていったそうだ。

 その後も富士山は活発な噴火活動を続けた。現在は広大な樹海が有名な青木ヶ原も、864年に富士北麓で発生した大噴火(いわゆる貞観大噴火)によって大量の溶岩が流れ出た場所だ。富士山の噴火がそんな風に活発であった時代に今のようなライブカメラがここに設置されていたら、この世のものとは思えない激しい噴火の様子が大迫力で映し出されたことだろう。そんな自然のスケールの大きさと比べれば、私たち人間の活動などは実に微々たるものという他はない。
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 (富士山生成の歴史については、このサイトがわかりやすい。)
 http://www.fujigoko.tv/mtfuji/vol1/fjhis01.html

11:20 三ツ峠山 → 12:23 八十八大師 → 13:10 股のぞき → 13:45 達磨石 → 14:30 三ツ峠グリーンセンター

 山を下る。

 三ツ峠山から四季楽園の前まで戻り、階段を下って屏風岩の下へ。梅雨の晴れ間の今日は、やはりクライマー達の数も多い。私も若い頃には岩登りの真似事をしたことがなくもないので、岩に取り付いている彼らの姿に一抹の郷愁を感じるのが正直なところだ。まあ、今では体も重くなってしまったから、こんな芸当はもう無理なのだろうけれど。
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 屏風岩を過ぎた頃に見かけたのがサラサドウダン。ツツジ科の一種で、山の岩地に育つ木なのだそうだ。今がちょうど花の見頃で、フウリンツツジという別名があるように、その花の形と赤紫色のアクセントが印象的な花である。
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 下り始めて1時間ほどの八十八大師にあるベンチで軽く休憩。私たちが下っているこのコースは、山頂からゴールの三ツ峠山グリーンセンターまでの標高差が1,200mを少し超える。タクシーで標高1,300mの地点まで連れて行ってくれた上りのルートとは対照的で、とにかく下りが長いのだ。それを下るだけでもやや飽きて来るのに、このルートを登って来る登山者が少なくないことには、頭が下がる。
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(八十八大師の石仏群)

 八十八大師から樹林の中をなおも下り続け、二股になった木の幹の間から晴れていれば富士山が見える「股のぞき」に到着。その富士の高嶺は完全に姿を隠してしまったが、あたりのヤマボウシの清楚な白が今は本当に綺麗だ。
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 更に下り続けて舗装林道に出ると、直ぐに再び森の中を行く山道が始まり、程なく達磨石に到着。そこからは舗装道をひたすら下る。下界では終わりかけているアジサイの花も、このあたりではなかなか見事な咲きっぷりだ。
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 その道路歩きも漸く終わり、予定より少し早い14:30に三ツ峠グリーンセンターに到着。振り向けば三ツ峠山の奇怪なピークが彼方に聳えていて、あんな所から降りてきたと思うと何だか不思議だ。
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 ともあれ、汗をたっぷりかいた私たちは今回も、風呂+生ビール+おつまみ3品+送迎バス=1,600円の「登山パック」のお世話になることにした。
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 6月26日というと、夏至を迎えてから5日後になる。富士急の三つ峠駅からホリデー快速を利用して新宿に18時過ぎに着いても、外はまだまだ明るい。一年で最も日の長い季節が雨の季節でもあるのはちょっと残念ではあるが、色々と工夫しながら、この時期を上手に楽しみたいものである。

 束の間の夏富士に、もう一度乾杯!

 (この山行を終えた翌日から一週間は浮世が多忙を極めてしまい、記事のアップが一週間遅れてしまった。仕事の方も、もっと能率を上げていかねばならない。)

神仏のご加護 - 箱根・明神ヶ岳 [山歩き]


 6月4日(土)の朝8時過ぎ。小田原で特急ロマンスカーを降りる。

 エスカレーターを上がって改札を出ると、駅の南口へと向かう広い通路があり、土曜日の朝も案外と人通りが多い。そしてJR東海道線の改札を過ぎるあたりまでは、どこのターミナル駅とも同じような現代風の造りなのだが、一番南の地上階にある伊豆箱根鉄道・大雄山線の乗り場に向かうと、一転してそこには昭和の匂いが残っていた。
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 天狗のお面を象った大きなディスプレイと、クラシックなホームに佇む三両連結の電車。自動改札にこそなっているが、この駅の様子は大正時代の終わりに開業した時とさほど変わっていないのではないだろうか。

 そんなレトロな空間に私たち5人の山仲間が集合。8時48分発の電車に乗ると、9時過ぎには終点の大雄山駅に到着。ちょうどいいタイミングで駅前から路線バスが出たので、9時半前には大雄山最乗寺の入口に着いた。このお寺の境内の奥にある登山口から歩き始めて明神ヶ岳(1169m)に登り、箱根の宮城野へと下るコースは、私にとっては3回目。だが、過去2回はそれぞれ1月中旬と3月中旬という時期で、幹の太い老杉に囲まれた最乗寺もまだ冬の装いだったから、今回初めて眺めることになった初夏の境内は若い緑に溢れ、厳かな雰囲気の中にも杉の森は実に明るい。
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 大雄山最乗寺は天狗信仰の山である。天狗というのは、元々は中国で凶事の予兆である流星のことを意味するものだったそうだ。天を駆ける狗(いぬ)というぐらいだから、流星といってもそれは火球のまま大地に衝突して大音響を発する隕石のことだったのだろう。日本でも舒明天皇の時代の出来事として、そういう隕石を天狗と呼んだ旨の記載が日本書紀に残されているそうである。

 ところが、そういう意味での「天狗」はその後の日本には定着せず、長いブランクを経て平安時代の末期になると、いつの間にか妖怪として登場するようになった。山伏の装束で赤い顔と長い鼻の異形という、私たちが普段イメージするあの天狗の姿である。それには中国伝来の密教や、日本古来の山岳信仰などの影響があるのだろう。しかも単なる妖怪としてだけではなく、天狗は山の神様の一種として崇められることにもなった。

 そもそも山は霊的な場所で、そこに入ると起きる不思議なことの数々は神仏の成せる業だ、というのが私たちの祖先の素朴な考え方だったようだ。だから、神社でもないのに、大雄山最乗寺の境内に入ると大きな杉の木に注連縄が張られている。ここから先の山の中は神域ということなのだろうか。
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 ともかくも私たちは拝殿の前に立ち、賽銭を投げて今日の登山の無事をお願いする。曹洞宗の寺だからご本尊は釈迦牟尼仏のはずなのだが、私たちが頭を下げた相手は山の神様の方であったに違いない。
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09:45 明神ヶ岳登山道入口 → 10:35 見晴小屋(10分休憩) → 11:08 神明水

 境内の南の端に大きな赤い下駄のディスプレイがあり、明神ヶ岳への登山道がその奥から始まる。今日の5人パーティーの先頭を歩くことになった私にとって、三週間半ほど前に突然の激しい目眩に襲われ、救急車で病院に搬送されて以来、今日が初回の山歩きである。あれから幸いにして目眩の再発はなく、普段通りに暮らしているが、果たして今日の山歩きにも神仏のご加護があるだろうか。
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 今週は木曜日と金曜日が快晴で、湿度が低くて風が爽やかな、本当に素晴らしい天気が丸二日続いた。その好天をもたらした高気圧が東に去り、今日は西からゆっくり天気は下り坂。関東地方が雨になることはないはずだが、朝の青空は次第に高曇りとなり、やがて低い雲が山々を覆っていくことになるだろう。確かに早朝の新宿は抜けるような青空だったが、午前10時近くになると、頭の上の空には薄雲が広がり始めている。

 日本の南岸には停滞前線が長々と横たわっており、今朝の天気予報によれば明日の日曜日には関東甲信地方も梅雨入りになりそうだという。とすれば、今日は梅雨入り前の最後の山歩きということになる。
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 深い杉の森の中を登り続け、登山口から約50分で見晴小屋に到着。丹沢の蛭ヶ岳周辺の山々が木々の間から見えている。そこで小休止を取った後、もう一登りで右手の森の中にリフトの設備が朽ち果てている場所に到着。かつて、或る観光会社が最乗寺から明神ヶ岳を経て箱根の宮城野まで、我々がまさに今日歩こうとしているルートに観光リフトを建設する構想があったそうだ。そして、途中まで建設されたところで計画が頓挫。そのまま放置された設備は赤錆だらけの姿を今も晒している。

 不思議なのは、打ち捨てられたリフト設備のワイヤーが木の幹を貫通している、そんな木があることだ。ワイヤーが貫通しているというよりも、後から生育してきた木がワイヤーにぶつかるようになり、やがてそれを呑み込んで成長を続けたというべきなのだろう。樹木の生命力は何とも逞しいものである。
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 そこから先は山道が森の中を出て一旦傾斜が緩くなり、見晴らしが良くなる。そのあたりの地形が冬の間は草木もなく広々としていて、まるで防火帯のようだったのだが、今回は鬱蒼と草木が茂り、だいぶ異なる様相だ。それがまた、この時期の山の味わいでもあるのだろう。

 緩やかな登りを続けて11:08に「神明水」という湧水に到着。ここも冬と違って深い緑の中だ。湧水には適度な冷たさがあった。
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11:10 神明水 → 12:20 明神ヶ岳

 神明水からは一旦登りが急になるが、その分だけ遠くの展望が開ける。このあたりの眺めはいつも楽しみなのだが、今回も相模湾の海岸線や丹沢の大山がよく見えていた。
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 防火帯のような地形はなおも続き、右手にはマメザクラの木が並ぶ。よく見るとマメザクラなりのサクランボが実っている。どれも直径が5~6ミリの小さなものだが、口に入れてみると渋みはなく、とても爽やかな酸味が広がった。
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 ここまでの山道、緑は豊かでも、花といえばごく僅かにアザミが咲いている程度だったが、ある程度の標高になるとヤマツツジが山麓に彩りを添えるようになった。
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 基本的には南西方向に山の尾根を登って来た登山道が、南に山を回りこむようになると、明神ヶ岳のピークも近い。最後の短い急登を頑張ると、俄かに風が強くなり、箱根外輪山の尾根に飛び出す。そして、目の前には箱根の神山(1438m)と大涌谷の展望が一気に広がる。このコースのまさにハイライト部分である。
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 天気はゆっくりと下り坂。標高1169mの明神ヶ岳はまだ雲の下だが、もっと高い神山の頂上は雲の中。不思議なことに、明神ヶ岳とあまり標高が変わらない金時山(1212m)もピークはガスに覆われている。本来ならばその金時山の後方に見えているはずの富士山の眺めは残念ながらないが、今日のような気圧配置ではそれは仕方のないことだろう。
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 いつ訪れても風の強い明神ヶ岳の山頂。私たちは生い茂るササを風除けにして昼食をとることにした。

13:00 明神ヶ岳 → 13:30 宮城野への分岐 → 14:30 勘太郎の湯

 明神ヶ岳からの下りは、右手に神山と強羅あたりの町並みを眺めながらの楽しい山道である。そして、左手の展望が広がる所では、相模湾の海岸線を眺め下ろすことができる。天気は下り坂といいながらも海がちゃんと見えているのだから、今日の私たちは恵まれているというべきだろう。
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 明星ヶ岳の方に向かって降りていくこの稜線上で、この季節らしい彩りを見せてくれるのがニシキウツギだ。ハコネウツギという名前の方をよく聞くが、植物図鑑によると、ハコネウツギは関東~東海地方の沿海地に自生するが箱根には少なく、山地に自生するのはニシキ(二色)ウツギなのだそうだ。確かに白と赤紫の二色の花を楽しませてくれている。
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 両側の展望と花を眺めながらの稜線歩きも30分ほど。明星ヶ岳から先の山々が見えるようになると、宮城野への下山道との分岐も近い。
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 分岐を過ぎると、山道はトントン拍子に高度を下げていく。下界が近くなる分、蒸し暑さも増して来る。頭の中は下山後の温泉とビールのことばかりが占めるようになるのがこのあたりだ。そして、分岐から30分も下れば別荘地の最上部に出るのだが、そこから別荘地の南端を下りていく山道が結構辛い。これなら、多少遠回りでも別荘地の中に入ってしまって、舗装された道を歩いた方がよっぽど楽かとも思う。

 その辛い山道も終わり、舗装道路に出ると、後は道標に従って近道を選んで行けば宮城野の日帰り温泉「勘太郎の湯」まで15分ほどだ。先ほど明神ヶ岳の山頂からほぼ真横に眺めていた箱根の神山は、もう随分上に仰ぐようになった。
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 既に記したように、三週間半前に急病を発した後、再開第一号となった今回の山歩き。幸いにして目眩の症状が再発することもなく、梅雨入り直前の山を楽しむことができた。それはきっと、山の神様のおかげなのだ。その意味では、パワースポットの大雄山最乗寺を登山口とする今回のコースを選んだのは正解であったのかもしれない。そして、T君をはじめ私の体調を気遣ってくれた山仲間の皆にも、もう一度お礼を申し上げたい。

 宮ノ下駅から乗った登山電車の両側に咲き乱れるアジサイの花を眺めながら、春夏秋冬があり山には神々がおわすこの国の風土と共にに生まれ育ったことの幸せを、改めて思っていた。


低山の春 - 生藤山・陣馬山 [山歩き]


 気がつけば4月も下旬に入った。朝早く立川から乗った中央本線の下り電車が高尾を過ぎると、線路の両側に迫り始めた山々の新緑が目にしみる。曇り空に時折薄日が差すような天気だが、山肌を覆う淡い緑の輝きがその分だけ柔らかくなって、いかにもこの季節に相応しい。

 山仲間たちと週末の山歩きに出かけるのも、ずいぶんと久しぶりだ。2月の上旬に奥多摩の浅間尾根でスノーハイクを楽しんで以来のことになる。今日が4月23日(土)だから実に2ヶ月半ぶりの山行。あの時の山の雪がすっかり消えて今は山肌で新緑が競い合っているのも道理である。

 私を含めた3人が先にJR上野原駅に着き、ウナギの寝床のような駅前ロータリーで待っていると、やがてH氏が到着。タクシーで生藤山登山口の石楯尾(いわたてお)神社に着いたのはちょうど08:30だった。ここから三国山(960m)、生藤山(990m)、陣馬山857m)を経て陣馬の湯まで、結構長いコースがこれから始まる。
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08:35 石楯尾神社 → 09:10 佐野川峠 → 09:45 三国山

 ここから陣馬山までのコースは私一人で何度か歩いたことがあり、様子はわかっている。歩き始めは畑の中の舗装道だ。この季節は民家の庭先や畑の中、そして里山の中腹に色とりどりの花が咲き、それを眺めながら歩くのが楽しみだ。
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 舗装道を左にそれて山道が始まる。植林の中をつづら折れに黙々と登っていく地味な道だが、ところどころに咲くヤマブキの花がいいアクセントになっている。山にはガスがかかり、湿度が高い。今日は相応に暑くなると聞いて、私は半袖のラガーシャツに薄いウィンド・ブレーカーという服装でやって来たのだが、この登りで早くもウィンド・ブレーカーを脱いでしまった。
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 先頭を行くH氏がいいペースで歩いてくれて、石楯尾神社からちょうど40分で佐野川峠に到着。そこから先は尾根道になり、傾斜はだいぶ緩やかなものになる。それを登っていくと、足元に桜の花びらが散らばりはじめた。ここから先には桜並木があるのだが、どうやら来るのが少し遅かったようだ。ベンチが用意された所の桜並木は殆どが葉桜だった。

 この桜並木を過ぎると三国山までは近く、佐野川峠を出てから30分ほどで三国山頂上に着いてしまった。昭文社の山地図だとこの区間は登り1時間となっているのだが、いくらなんでもそんな距離ではない。いずれにしても、山地図のコースタイムに準じて作った行動計画に対して「貯金」が出来た。晴れていれば富士山も見える三国山からの展望は霧の中だったが、かろうじて残っていたヤマザクラの花を眺めながら、私たちは一息入れることにした。
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09:55 三国山 → 生藤山・茅丸・連行峰(いずれも巻き道) → 10:42 大蔵里山 → 11:35 和田峠

 先を急ぐ。三国山からは所々に僅かな登りがあるものの、基本的には和田峠に向けて高度を下げていくコースだ。途中に生藤山(990m)、茅丸(1019m)、連行峰などのピークがあって、愚直に歩けばそれぞれのピークに上がる山道はあるのだが、そもそもが樹林の中のピークで展望が限られる上に、今日はこのガスの中だ。いずれも巻き道で勘弁してもらい、その分だけ山道の新緑や花を楽しませてもらうことにした。
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 三国山から先で目をひくのはミツバツツジだ。街中で見かけるツツジに比べれば花の色はずっと淡いのだが、新緑が始まりだしたばかりで冬枯れの色合いもまだ少し残る今頃の山では、この花の明るさは実に印象的である。
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 気がつけば、朝から続いていた霧がだいぶ晴れて、陣馬山へと続く山並みが木々の向こうに見え始めた。北の方角では青空も少しのぞき、鮮やかな新緑が一段とその輝きを増していく。そんな様子を眺めながら歩くのは実に楽しいものだ。
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 途中、大蔵里山(「おおぞうりやま」と読むらしい)という手書きのプレートのあるピークが樹林の中にあり、そこで一休み。冷凍して持ってきたミネオラ・オレンジを皆で分ける。汗をぬぐい、冷たいフルーツで喉を潤わせながら、印象派の点画のような春の山を眺める。今年もそんな季節がやって来た。
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 大蔵里山を過ぎて、山道は和田峠を目指して下り続ける。簡単に言ってしまえばとりとめもない道で、トレイル・ランナーになったつもりで一気に駆け下りたい気分にもなる区間だ。(実際に、反対方向からやって来たランナー達と何度もすれ違った。)

 最後はそれなりの高度差をつづら折れに下りて、11:30に和田峠に到着。八王子方向から上がってきてこの峠を越えJR藤野駅の方向へと下りていく舗装道を横切る場所である。

 和田峠というのは八王子側からの呼び方で、藤野側からは案下峠と呼ばれたそうだ。八王子の旧名である案下の二文字が示すように、小仏峠を越えるルートになる前の甲州街道はここを経由していたという。かつて武田と北条が覇を争った頃には北条方がこの峠を守っていたそうで、この先の「陣馬」という地名には両軍の戦いを連想させるものがあるが、このあたりが実際に戦場になった訳ではないらしい。(但し、八王子にある滝山城などでは激しい攻防戦が繰り広げられている。)

 現代の私達はレジャーとして山を訪れ、そのために整備された山道を歩いて展望を楽しんでいる。それに比べれば、軍事行動にせよ生活のための往来であったにせよ、中世・近世の人々が小仏峠や和田峠を歩いて越えるというのは難儀なことであったのだろう。和田峠のベンチで一息いれながら、その時代の峠道がどんな様子であったのか、私はしばし想像を巡らせていた。
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(和田峠に咲き残るヤマザクラ)

11:45 和田峠 → 12:10 陣馬山

 正午に近くなり、だいぶ腹も減ってきた。陣馬山の山頂まであと一頑張りだ。ここからは、階段続きだが歩行時間の短い「直登コース」と、それよりは時間がかかるが階段はない「平坦コース」の二つがある。後者を歩いたことがない私の選択に従ってもらい、今回は平坦コースを歩いてみることにした。

 陣馬山の北斜面を回り込むルートなので、植林の中で日当たりがなくぬかるんだ山道が続く。だが、その植林を抜けると目にも鮮やかな新緑が一気に広がる谷を上がるようになる。
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「平坦コース」の名のわりにはしっかりとした登りが始まるのだが、その分だけ頂上にも近づいていく。みるみる展望がひらけ、多くの登山者が集まる陣馬山の山頂にようやく着いた。

 このあたりでもヤマザクラは終わりかけていたが、朝の霧がだいぶ晴れて、奥多摩の方向に山の春景色がどこまでも続いている。そして、雲間から太陽が顔を出すと、その光は結構強烈だ。テーブルを確保して4人で昼食を楽しみながら、私は顔や両腕に早くも軽い日焼けを感じていた。
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(陣馬山頂から生藤山方面の眺め)

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(奥多摩方面へと続く山の春)

12:50 陣馬山 → 13:55 陣馬の湯(陣谷温泉)/ 14:40 → 15:30 JR藤野駅

 栃谷尾根を下る。その道標は陣馬山頂にはないのだが、景信山方面への山道を下っていくと、直ぐに右に分かれる山道が現れるので、それを下ればいい。陣馬山頂から景信山方面へは多くの登山者が歩いていくのだが、この栃谷尾根を下る人々は少ない。歩いてみると実によく整備された山道で歩きやすく、ここを下れば温泉があるのにこんなにひっそりとしているのは、何とも不思議だ。

 階段状の急な下りもなく、岩がゴロゴロしている訳でもなく、山の尾根に沿って快適に下っていく。山地図のコースタイムでは陣馬山頂から陣谷温泉まで50分。そんなに直ぐ着いてしまうのかと半信半疑だったが、確かに私たちは順調に下り、植林の中のつづら折れをやり過ごすと、下に茶畑が見えて来た。

 その茶畑の前にやって来ると、あたりには「日本昔ばなし」に出て来るかのような、のどかな山里の風景が広がっていた。この眺めが「相模原市緑区」の中だというのもちょっと不思議だが、何とも言えない懐かしさにあふれている。
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 このあたりから舗装道になり、民家の間を過ぎていく。私たちは快調に下りて来たつもりだったが、陣馬山頂から50分というのはどうやらこのあたりまでのことのようだ。陣谷温泉のある道路までは真っすぐ行かず、何度もカーブを切りながら遠回りして高度を下げていく。結局、陣谷温泉に着いたのは畑が現れてから20分ほど歩き続けてのことだった。

 何度訪れても、陣谷温泉の檜風呂はいいものだ。窓からは沢の向こうに一本だけヤマザクラの花が残っていて、風呂に浸かりながら桜を愛でるという本日の目標を何とか達成。里山の春は、やはり素晴らしい。

 計画よりもだいぶ早く降りて来たので、ここから15分ほど歩いた陣馬登山口バス停から出る藤野行きの次のバスにはまだ一時間以上もある。それを待つ意味はないから、私たちは藤野駅までの2kmを更に歩くことにした。途中の酒屋で缶ビールを買い、沿道の春の花々を愛でながらの一歩き。それもまた悪くない。道端ではタケノコやら山ウドやらを売っている。

 歩程は全部で15kmほどになったはずだが、淡い色彩に包まれながら低山の春を存分に楽しめた一日だった。


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