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雪のあとに - 奥多摩・浅間嶺 [山歩き]


 日曜日の朝8時34分、定刻に武蔵五日市駅の高架のホームに降り立った私たち6人は、ホームの最後部からの眺めに思わず歓声を上げた。

 線路のすぐ向こうの山の木々が新雪を纏い、全ての落葉樹が霧氷のように白く染まっている。しかも、その背後は澄みわたった青空だ。
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 まるで、どこか北国のスキー場にでも来たかのような眺め。冬の山歩きのためにこの駅は何度も利用してきたが、こんなに素晴らしい雪景色に出会ったことはない。改札口を出て、9時発の路線バスを待つ間も、駅前広場の片隅で私はこれを飽かず眺めていた。
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 やがてやって来たバスに揺られること30分と少々。上川乗のバス停で私たちが降りると、まだ朝の光が直接当たらない谷の中の集落は凛とした冷気に包まれて、見事な雪景色の中にあった。
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 浅間嶺(せんげんれい、903m)への登山道を示す道標が、5センチほどの雪を被っている。積もったばかりの柔らかい雪だ。
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 昨夜は関東地方の南岸を低気圧が進んだ。東京も「日付が替わる頃から雨、所によっては雪」との予報が出ていたのだが、都心部は雨にもならなかった。それが、奥多摩では若干の降雪になっていたようだ。しかも、低気圧が通り過ぎるに従って冬型の気圧配置に戻り、早朝から青空が広がり始めたのだ。
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09:40 上川乗BS → 11:00 浅間嶺展望台

 直前まで軽い降雪があり、登山を始める頃には冬の青空。そんなタイミングで山歩きが出来るとは、今日の私たちは何と幸せなことだろう。浅間嶺への登山道に足を踏み入れて間もなく、目の前に広がり始めた雪景色は、今までに出会ったことのある奥多摩の山の風景とは全く異なるものだった。
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 更に幸いなことに、今朝は風がほとんどない。そして、日が差せば暖かい。こんなに素晴らしい山の雪景色に囲まれているというのに、歩いている間も特に手袋を必要としないほどなのだ。だから、日当り日の良い場所では、降ったばかりの雪がすぐに融けていくだろう。あと何時間かすれば、同じ場所の雪景色もずいぶんと変わったものになってしまう筈だ。そうであれば、今、この瞬間の山と森の姿を、しっかりと自分の記憶に焼き付けておくことにしよう。
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 歩き始めてから1時間15分で、浅間嶺展望台直下の東屋のある場所に到着。後は、新雪を踏んで一登りだ。
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 午前11時ちょうど、浅間嶺展望台に到着。奥多摩の御前山や大岳山のピークは雲を纏っていたが、北側に並ぶ山々の眺めは何度見てもいいものだ。そして、その山並みの更に北側に並ぶ鷹ノ巣山、雲取山、そして飛龍山へと続く奥多摩・奥秩父の主稜線を、今回も遠く眺めることができた。
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(浅間嶺展望台から大岳山方面の眺め)

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(雲取山から飛龍山へと続く遠い山並み)

 昼食は、T君が持って来た冷凍の鍋焼きうどんセットと私が持って来た野菜スープ(→ルーを投入して最終的にはカレー・スープに変身)をそれぞれのコンロで温める。雪の山々を眺めながら暖かい昼食をとる贅沢。空には雲が浮かび、それによって太陽の光が遮られる時だけは寒さを感じるのだが、それだけ太陽の光がパワフルだということなのだろう。
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 考えてみれば、三日前に立春を迎えたので、冬至と春分との中間点を今はもう過ぎていることになる。光の春という言葉は、今日のような天候のためにあるのかもしれない。
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12:00 浅間嶺展望台 → 12:20 人里峠 → 12:48 一本松

 風のないピークで昼食と山々の眺めを楽しんだ後は、いつものように浅間尾根を歩こう。東屋のある所まで降りて、山道を西方向へと辿る。ここからしばらくは山道が浅間尾根の北側を行くので日陰になり、例年この時期は雪が融けずにそれなりの深さで残っている。手軽にスノーハイクを楽しめる、いいコースだ。
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 特に、人里(へんぼり)峠に達する手前で右手の展望が広がる場所を通る時が楽しみだ。遥かな雲取山に向かって雪の山々が続く。今眺めているこの雄大な景色の殆ど全てが実は東京都内だということは、登山者も殆ど意識することがないのではなかろうか。
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 人里峠から尾根道を更に進み、藤倉からの登山道と合流する一本松まで、登山地図には所要50分とあるところを、私たちは快調に歩いて30分で到着。衣類の調節を手早く終えて、直ぐにまた歩き始めた。

12:50 一本松 → 13:10 数馬分岐 → 13:40 檜原街道出合 → 13:55 数馬の湯

 一本松を過ぎると、山道が尾根の南側に回るようになる。そうなると日当りが良い場所では残雪がなく、山道は秋の終わりのままのような姿だ。日向と日陰。その僅かな違いで山道の様子がこんなにも変わるのが何とも不思議である。
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(日向と日陰の境)

 ここから数馬分岐までの間に、私の好きなスポットが二箇所。一つは、右手に展望が広がる最後の場所で、そこからの御前山の姿が実に堂々としている。
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 もう一つは、数馬分岐のすぐ手前で山道が南に向かってトラバースする時に左手に見える、自分が歩いて来た方向の眺めである。
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 右奥には東京都と山梨県の県境になる笹尾根が東方向へと連なり、生藤山あたりまでが見えている筈である。これもまた全て東京都内の眺めなのだ。そして、北斜面に雪を残した寡黙な山々の姿が、実に味わい深い。

 一本松からちょうど20分ほどで数馬分岐に到着。後は南に下ればとんとん拍子に人家が近づいて来る。道は途中から舗装道路になり、膝が痛くなるような下り坂を過ぎて橋を渡り、檜原街道を15分ほど歩けば数馬の湯だ。快調に歩いて来たので、私たちは予定よりも1本早いバスに乗れる時刻に到着することになった。浅間嶺から数馬の湯までで2時間を切ったというのは、私たちにとっては新記録ではないだろうか。
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 今日の6人の中に、雪の浅間嶺と浅間尾根を歩くのは初めてというメンバーが二人いたのだが、彼女たちが二人とも、今日のコースはとても楽しかったと語ってくれた。

 軽い降雪の直後という絶妙のタイミングであったこともあるのだが、山道の雪を踏みながら半日を過ごす中で彼女たちが感じ取ってくれたのは、この山域が持つしみじみとした味わいと、冬だからこそ出会うことのできる、地味で穏やかながらも凛とした山々の姿だったのではないだろうか。そして何よりも、山の冬は草木や動物がそれぞれの方法で風雪に耐えていく試練の季節だ。そうした厳しい季節だからこそ、生き物たちの姿に私たちは命の輝きを感じるのではないだろうか。そんな思いを山仲間と共有することができたとしたら、企画をした私にとっては冥利に尽きることである。

 奥多摩は冬がいい。それも、雪を踏んで歩くのがいい。もう何度も経験しているけれど、そのことを改めて思った。


続・海が見える山道 - 熱海・玄岳 [山歩き]


 成人の日の三連休の中日。湘南地方は朝から風のない穏やかな晴れの日である。

 時刻は9時少し前。熱海行き電車が小田原を出ると直ぐに、左の窓一杯に明るい海が広がった。右手は山とミカン畑。左手の海との間のいくらもない平地をなぞるようにして電車は進み、幾つかのトンネルを越えて行く。小田原から二つ目の根府川駅は、進行右手の席に座っていると、下り線のホームの向こうには海しか見えない。そして、そんな構図がなぜかとても懐かしい。

 この区間を走る電車から見える海の眺めにノスタルジーを感じるのは、子供の頃の夏休みの思い出か。或いはまた、芥川龍之介の短編『トロッコ』を読んだ遠い記憶によるものか。

 「小田原熱海間に、軽便鉄道敷設の工事が始まったのは、良平の八つの年だった。良平は毎日村外れへ、その工事を見物に行った。工事を――といったところが、唯トロッコで土を運搬する――それが面白さに見に行ったのである。」

 こんな書き出しで始まる『トロッコ』のモデルは、東海道本線の熱海ルートが大正時代に建設される前にこの区間を細々とつないでいた豆相人車鉄道だ。4・5人の乗客を乗せた車両を人が押して進むという、世界にも他に例のない鉄道が小田原・熱海間を結んだのは1896(明治29)年。この区間に3時間半ほどを要したが、それでも人力車や駕篭よりは速かったという。
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(豆相人車鉄道 - 神奈川県のHPより拝借)

 「軽便鉄道敷設の工事が始まった」というのは、この人車鉄道が蒸気機関車による軽便鉄道に転換したことを指しているのだろう。社名も1905(明治37)年に熱海鉄道になり、軌間610mmの線路が762mmに改軌されて、1907(明治39)年に軽便鉄道として再スタート。その間の工事の様子を主人公の良平は飽かず眺めていたことになる。

 やがて、1922(大正11)年に官設鉄道が小田原から根府川まで延伸すると、この軽便鉄道は並行する部分を廃止。そして翌年の関東大震災によって残る営業区間が壊滅的な打撃を受けたため、遂に廃業してしまったという。官設鉄道は1925(大正14)年に熱海まで更に延伸。それからの大工事によって1934(昭和9)年に丹那トンネルが開通すると、そのルートが東海道本線となり、鉄道交通の大動脈となったのは言うまでもない。

 午前9時15分、終点の熱海駅に到着。向かいのホームには伊東線経由でここまで乗り入れている伊豆急行線の電車が停まっていた。東急のお古の8000系がこれまた懐かしい。
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 初めから「鉄分」が濃くなってしまったが、ともかくも8人の山仲間が熱海駅に集合。すぐに接続する路線バスに20分ほど揺られて、今日の登山口となる「玄岳(くろだけ)ハイクコース入口」バス停に着いた。ハイクコースの入口といっても、山の東斜面に続く住宅地の中である。
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 昨年の12月6日、私たちは「沼津アルプス」を縦走。山の上から海を眺めて歩くことの楽しさを満喫することが出来た。それで味を占めたという訳ではないが、新年最初の日帰り山行も、山の上から海を眺め、初富士も眺めて、下山後には風呂に入り、その後は旨い魚で新年会という欲張りな計画にしてみたかった。そこで選んでみたのが、熱海から登る玄岳(799m)である。上りが2時間、下りが1時間という軽めのコースながら、伊豆半島の背骨まで上がるので眺めも良さそうだ。

09:50 玄岳ハイクコースBS → 10:05 登山道入口 → 10:35 熱海新道出合 → 11:05 氷ヶ池への分岐 → 11:15 玄岳

 事前に調べてみると、今日のコースは約11度の傾斜がほぼ一定して続く道のようだったが、実際に歩き始めてみると本当にその通りで、抑揚なく同じペースで登り続けていく道だ。この冬は異様に暖かく、今朝も早春のような陽気だから、まだ住宅地を抜け切っていないのに、早くも汗が出て来た。気がつけば辺りではもう梅が咲き始めている。
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 ちょうど15分で舗装道路が終わり、漸く山道へ。しかしその先も本当に一定の登りが続く。竹林を過ぎ、植林の中の登りが終わると、そこからは明るい雑木林になった。
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 トップを行くH氏がいいペースでリードしてくれ、歩き始めから45分で熱海新道をオーバーパス。計画より15分ほど早い。ここで一度、伊豆半島の背骨にあたる主稜線が行く手の彼方に見えていた。
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 すぐに展望はなくなり、再び雑木林の中の単調な登りが続く。山道が北を向いた時に、右手の木々の枝の向こうに海が広がっているのだが、一望できるような箇所はなく、黙々と登るしかない。

 先ほどの熱海新道のオーバーパスからちょうど30分後、やっと海の眺めの広がる場所に出た。熱海の街の向こうに真鶴半島が広がり、気温が高いためか少し霞んではいるが、その奥には大磯あたりまでの海岸線が見えている。
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 ここから先は背の高い木が急速に姿を消し、代わりに笹が足元に広がりだした。氷ヶ池への山道との分岐が直ぐに現れ、一面の笹に覆われた広い稜線に出ると、いきなり富士山が姿を見せる。左手には玄岳への最後の登りが待っていて、山頂までは10分足らずだ。私たちのテンションは一気に上がった。
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 それにしても広い眺めだ。北には箱根の神山が大きな姿を見せ、その左には金時山をはじめとする箱根の外輪山。少し離れて左に富士の高嶺があり、更に左には駿河湾がゆるやかに弧を描いている。
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 11時15分、玄岳山頂に到着。私たちは風を避けられる場所を選び、スープを温めながら山頂からの展望を満喫することになった。
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 それにしても、空には何と数多くのパラグライダーが浮かんでいることだろう。葛飾北斎がもし生きていたら、これを題材に現代版の富嶽三十六景を一枚加えていたに違いない。
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 そして、駿河湾の方に目をやると、沼津アルプスが堂々としていて実に立派だ。昨年の12月6日、これを縦走した私たちが強烈なアップダウンにバテバテになったのも無理はない。
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12:00 玄岳 → (往路と同じコース) → 13:03 玄岳ハイクコース入口BS

 広々とした眺めを楽しみながら軽い昼食を済ませた私たちは、正午に下山を開始。箱根へと続く笹の尾根を正面に見ながら玄岳を下り、登って来た道を戻る。伊豆半島の背骨の右に見下ろす明るい海。とても1月10日という厳冬期とは思えない何とものどかな、春のような眺めだ。
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 芥川の短編に登場する良平少年は、仲間と共にトロッコを坂の上まで押し上げ、次の下り坂を今度は重力を利用して一気に下る、その爽快感が忘れられず、ある日の午後、鉄道敷設工事の人夫たちを手伝ってトロッコを押し、随分と遠くまでやって来ることになった。季節は二月の中頃という設定である。

 「竹薮のある所へ来ると、トロッコは静かに走るのを止めた。三人は又前のように、重いトロッコを押し始めた。竹藪は何時か雑木林になった。爪先上りの所所には、赤錆びた線路も見えない程、落葉のたまっている場所もあった。その路をやっと登り切ったら、今度は高い崖の向うに、広広と薄ら寒い海が開けた。と同時に良平の頭には、余り遠く来過ぎた事が、急にはっきりと感じられた。」

 時刻はもう少し夕方に近かったのだろうが、この時に良平が見た「広広と薄ら寒い海」というのが今の季節本来の姿なのだろう。海が見えた場所は真鶴から根府川に向かう途中のどこかのようだが、この短編のハイライトである。

 日暮れが近くなり、二人の人夫から「われはもう帰んな。おれたちは今日は向こう泊まりだから。」と言われた良平は、やって来た線路の上を一目散に駆け出した。薄暗がりの中を走りに走り、家の門口に辿り着いた途端、良平は火がついたように泣き出してしまう。『トロッコ』は、そんなストーリーだった。

 今日の山道は終始一定の斜度だから下りも楽だ。良平少年のような寂寞感に囚われる必要もなく、50分ほどで山道が終わった。後は住宅地の中をいく舗装道路を少し下るだけだ。山が迫り、遠くに海が見えて、辺りには柑橘の木。いかにも湘南らしい風景の中を歩くのは楽しい。
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 いいペースで玄岳を往復して来たおかげで、予定よりも30分早いバスに乗れたため、私たちは13時半前に熱海駅に到着。伊豆山の日帰り温泉でゆっくり汗を流すことが出来た。山歩きそのものは3時間足らずだが、充実した半日だった。山道から海を眺めるというのは、やはりいいものだ。

 「良平は二十六の年、妻子と一しょに東京へ出て来た。今では或雑誌社の二階に、校正の朱筆を握っている。が、彼はどうかすると、全然何の理由もないのに、その時の彼を思い出す事がある。全然何の理由もないのに?――塵労に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している。」

 芥川龍之介の『トロッコ』の結びはこうだったことを、私は長らく忘れていた。何やら意味深な終わり方だ。確か中学一年の国語の教科書に載っていたはずだが、当時の私たちはこの結びから何を感じ取っていたのだろう。十三歳やそこらでは、人生のほろ苦さ、ほの暗さのようなものは、まだろくに解らなかったはずなのだが。

 それから月日は巡り、今日一緒に山を歩いた8人のメンバーは、全員が今年還暦を迎えることになる。その年の最初の山歩きで、私たちは山の上から明るい海の眺めを楽しむことができた。『トロッコ』の良平少年には申し訳ないが、この先に「塵労に疲れ」ることがあったとしても、今日の思い出はそこから再び立ち上がるための活力として、大切にしたいと思う。

 汗を流した後に温泉から眺めた伊豆の海は、午後も穏やかだった。

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海が見える山道 - 沼津アルプス [山歩き]


 日曜日の朝8時15分。沼津の駅前から乗った伊豆長岡駅行きの路線バスは、私たち5人の山仲間の他に2・3人を乗せて、のんびりと走り始めた。

 市街地を抜けて狩野川を渡り、のどかな道を南に向かって走っていくと、ポコポコとした里山の連なりが左手に見え始めた。バスが走るにつれて、山は近づいてくる。その主稜線は道路に沿うように延々と続いているのだが、まるで住宅地の裏手から急に沸いて出たかと思うほど、その山肌は急傾斜だ。そのうちに沼津御用邸記念公園の緑が右手の家々の後ろに見え始め、それを過ぎると明るい海が広がった。

 小さな漁港の前のバス停で、釣竿を持った一人の乗客が下車。窓から右を眺めると、海に向かった堤防の上に結構な数の太公望たちが座っている。山へ行くためのバスに釣り人と一緒に乗ったのは、考えてみれば初めてのことだろう。やがてバスは東に向きを変え、右手の海と左手の山の間が一段と狭まったところで多比(たび)というバス停に着いた。
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 私たちがこれから歩く「沼津アルプス」。その名前は以前から聞いたことがあった。主だった五つの山の連なりで、その最高峰ですら標高400mに満たない低山。それらの集合を「アルプス」と呼ぶのはさすがに大袈裟だろうと思っていたのだが、調べてみると案外と骨のありそうなコースであることがわかった。全部歩けば沿面距離が約12km、累積標高差は上り下り共に1,140mほどになるという。とにかく急なアップダウンの繰り返しなのだ。今回は元々別のコースを予定していたのだが、ちょっとした経緯があって、沼津アルプスにトライしてみることが直前になって決まった。さて、今日はどんな山旅になるのだろうか。
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08:40 多比バス停 → 09:15 多比口峠(3分休憩) → 09:27 大平山(5分休憩)

 バス停から山を背にした住宅地に入っていくと登山道の道標があり、民家の間の急坂を上っていくと、あたりはミカン畑になった。これから歩く山の稜線が間近に見え始めるのだが、低山なのにこれがなかなか立派な風格である。
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 あたりにはミカン、夏ミカン、カキなどが実り、藪ではカラスウリが鮮やかな色彩を見せている。人々の暮らしのすぐ背後にある里山の風情が、何だかとても懐かしい。

 バス停から歩き始めて20分余り。ミカン山の間を急傾斜で登って来た舗装道が終わり、この日初めての沼津アルプス仕様の道標が現れた。ここから先はいよいよ山道である。
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 山道が始まっても、傾斜のきつさは変わらない。せっせと上っていくと、10分ほどで多比口峠に着いた。水を飲み、呼吸を整えてから大平山(356m)への上りに取りかかるのだが、これがまたきつい。それでも山のご褒美はあるもので、峠の少し上では愛鷹山(あしたかやま)の向こうに頭を出した大きな富士山を眺めることができた。私たちはいつも甲斐の山に行くことが多いから、宝永火口を真正面にした駿河の富士を見上げるのは、本当に久しぶりである。
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 そこから更に10分ほどきつい上りを辛抱すると、樹林に覆われた大平山の山頂に到着。この山が沼津アルプスの南端と私は認識していたのだが、山頂には地元の山岳会の手によるものと思われる道標があって、それによればこの先にまだ「奥アルプス」と呼ばれる山域があるという。そして実際に、私たちが山頂で小休止を取っている間にも、その奥アルプス側から何人かの登山者が上がって来た。沼津アルプスも意外と奥が深いのだろうか。
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09:32 大平山 → 10:02 多比峠 → 10:15 鷲頭山(15分休憩)

 先ほどの急な上りを今度は下って再び多比口峠へ。この先もこんな上り下りが続くことになるのだが、この時点での私たちにはまだ元気があった。
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 多比口峠から先は痩せた稜線が小刻みなアップダウンを繰り返す山道となり、これが結構面白い。岩の上から展望が開ける箇所もあって、箱根の山々がよく見えている。
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 そして、多比峠に着くと、そこから先に強烈な急登が待っていた。急斜面を殆ど直登するようなコースで、タイガー・ロープが張られている。つらい登りだが、ひたすら我慢。その代わりというべきか、振り返れば先ほど登った大平山がなかなか立派だ。
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 10分少々の我慢で、山道の先の空が明るくなり始めた。そこからもう一登りで小さな草地のピークに到着。それが鷲頭山(392m)だ。今日のコースで初めて、山の上から海が見えた。しかも駿河湾の向こうには白銀の南アルプスが見えている。とりわけ、聖岳から赤石岳、悪沢岳に至る南アルプス南部の3,000m峰の堂々とした山容が素晴らしい。予定よりも30分ほど早く着いたので、私たちは眺めの良いこのピークで少しのんびりすることにした。
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10:30 鷲頭山 → 小鷲頭山 → 11:12 馬込峠 → 11:05 志下山 → 11:50 徳倉山(40分休憩)

 鷲頭山を下り始めるとすぐに、小鷲頭山というピークがある。果たして山と言えるかどうかもわからない、稜線の途中の小さな盛り上がりなのだが、ここが鷲頭山よりも更に眺めが良い。綺麗な円弧を描く駿河湾の向こうに富士山と南アルプスが勢ぞろい。先ほどバスで通った沼津御用邸記念公園の緑も眼下に見えている。
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 ここからもアップダウンが続き、しかもその一つ一つの傾斜がきつい。自分一人だとメゲてしまいそうだが、今日は仲間たちと来ているから何かと気が紛れる。そのうちに現れた馬込峠を過ぎて、またしばらくきつい上りを我慢すると、志下山(しげやま、214m)という小さなピークに到着。そこから先は海の景色が一気に広がり、山道の傾斜も緩くなって、海を眺めるプロムナードのようになった。

 何しろ標高200m程度まで下りて来ているので、海との距離が近い。初冬の穏やかな日曜日。のどかな海を見下ろしながら山道を歩くとは、何と幸せなことだろう。「奥駿河パノラマ」という看板が掲げられた場所からの眺めは、この世の楽園かとも思えるほどだ。
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 志下坂峠からはもう一度我慢の上りがあり、富士山が正面に見えるようになる。振り返れば、鷲頭山からアップダウンを繰り返してきたコースが実際の標高以上に立派に見えている。
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 いつしか海の眺めと別れて再び森の中へ。緩やかに下り続けた後に再び急登があり、それを上りきると草地の山頂に出た。私たちが昼食を予定していた徳倉山(256m)だ。今日は朝が晴れでゆっくりと下り坂になる天候。私たちがこの徳倉山に着くまで、富士山はどうにかその姿を見せ続けてくれていた。
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 強烈なアップダウンが続く道を3時間も歩けば、私たちもさすがに空腹になる。スープを温めて昼食にしよう。この徳倉山は、ここだけ登りに来る人々も多いようで、家族連れなどで山頂は賑わっていた。

 富士の高嶺と箱根の山々、駿河湾、そして背後には伊豆半島となると、私がどうしても連想してしまうのは、「国を盗んだ男」北条早雲(1432 or 1456~1519)のことである。

 今川家の若き嫡男・竜王丸(後の氏親)の伯父として駿河にやって来た早雲が拠点とした興国寺城は、現在のJR東海道本線・原駅の北方になる。沼津から見れば西の方角だ。

 領地では税を四公六民という低率に留め、地頭として国人・地侍層を直接掌握した早雲。それが、足利将軍家の盲腸のような存在だった伊豆・韮山の堀越公方を攻め滅ぼしたのが1493(明応2)年のことだ。守護でもない男が伊豆一国の事実上の支配者となったこの事件が、東国における戦国時代の嚆矢とされている。その堀越公方の「御所」があったのは、私たちが今朝登った大平山から南東方向へ僅か3kmほどの場所である。
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 5代目の鎌倉公方・足利成氏が関東管領(上杉家)と激しく対立してその拠点を古河に移し、約30年にわたって関東を二分する争乱となった「享徳の乱」。京都の将軍・義政は成氏に代わる鎌倉公方として、自らの異母兄になる政知を送り込むのだが、東国は依然として成氏と関東管領の勢力が強く、政知は鎌倉に入れない。やむなく彼は韮山の堀越に留まるのだが、そのうちに成氏と関東管領は和睦をしてしまい、政知は伊豆一国を支配するだけの「公方」となった。それが堀越公方である。

 それにしても、さしたる手勢も持たず、韮山の小高い丘に僅かばかりの御所があるだけだった堀越公方が、なぜ伊豆一国を支配出来たのか。更に言えば、堀越公方家で起きた内紛の制圧を理由にそれを急襲し、公方家を滅ぼしてしまった余所者の早雲が、なぜその後の伊豆国を支配することが出来たのか。

「早雲は、伊豆を一朝にして得た。
 得た、といっても、
『領土』
といえるのかどうか。かれが戦国の幕を切っておとしたとしても、まだ室町の体制はつづいている。京の将軍、関東(古河)の公方、関東の両管領(山内上杉氏と扇谷上杉氏)、守護といった体制のなかで、一私人が一国を『領土』にするという思想はこの世には存在しない。
(中略)
 伊豆は本来、山内上杉氏が守護であった。ただ山内上杉氏が伊豆に対して守護らしい民政はせず、堀越に足利氏がくると、それに伊豆を譲ったかのようにして、いわば捨てていただけである。
 守護でなければ、国主ではない。守護でもない早雲が、伊豆の国主としてはふるまえないのである。」
(『箱根の坂』 司馬遼太郎 著、講談社文庫)

 早雲は甥にあたる今川氏親に被官していた。氏親は駿河の守護であり、今川家は足利家の分家のそのまた分家だ。その氏親が、内紛で正当な公方が存在しなくなってしまった堀越・足利家の事態をひとまず鎮め、堀越公方の支配地を管理するために早雲を遣わした、という建前で伊豆を「盗る」ことの理屈付けを行い、その後は興国寺城下で行ったのと同じように、税を低くして民政に注力し、早雲は伊豆国の人心を得ていった、というのがこの小説のストーリーである。

 当時の関東は、享徳の乱こそ終わっていたものの、両上杉家が犬の噛み合いのような抗争を続けていて伊豆どころではなかった。そのことも幸いしている。

 今日の私たちが駿河湾や南アルプスを眺めているのと同じように、早雲の居城であった興国寺城からは、海の向こうの伊豆の山々とその手前の沼津アルプスがよく見えていたはずである。そして、伊豆を盗った2年後の1495(明応4)年に小田原を一気に奪った、その時に越えていった箱根の山々も毎日のように眺めていたことだろう。今、私たちの視界の中にある山や平地の中でそんな歴史が刻まれていったことを思うと、興味は尽きない。
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12:30徳倉山 → 12:49 横山峠 → 13:06 横山(3分休憩) → 13:26 八重坂峠

 徳倉山を下る。またしても急な下りだ。段差の大きな階段状になっていて、山の急斜面を一直線に下りていく。右側に張られたタイガー・ロープの助けを借りながら、慎重に下ろう。昼食をとって少し腹が重くなったことに加えて、ここまでのアップダウンの繰り返しで膝がそろそろ悲鳴を上げそうだ。

 下りきったところが横山峠で、あたりから野武士でも出て来そうな、素朴な味わいの峠の風景である。
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 そして、再び急な登り返し。15分程度のものなのだが、それに耐えて横山(182m)の頂上に着いた時には、メンバーの間でもだいぶ疲労の色が濃くなっていた。
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「横山の登りが一番きつかった。」と、今日どこかですれ違った登山者が語っていた。彼らにとっての登りは私たちにとっての下りだ。ということは、今日一番の下りがこれから始まるということか。

 冒頭に掲げた断面図でもわかる通り、横山を過ぎると標高差150mほどの下りが待っている。それも、コースの中では最も急角度だ。私たちは残る元気を振り絞って下り始めたのだが、またしてもそれはタイガー・ロープに頼りながらのとんでもない下りになり、それが20分ほど続いた。

 13時26分、八重坂峠に到着。ここで縦走路は一旦道路に出て、それを西方向にしばらく下っていくことになる。比較的交通量のある道路で、沼津駅行きのバスも通っている。
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 沼津アルプスの全山縦走にはあと一つ、香貫山(かぬきやま、193m)が残っている。沼津駅には最も近い山なのだが、現在の位置は標高15mぐらいだから、香貫山へはその高さの殆ど全てを登り返さねばならない。私たちの間には、香貫山はもういいかなというムードが既に漂い始めている。

 しかも、この道路から香貫山に向かう山道の分岐の向かい側にはバス停があって、一時間に一本のダイヤなのだが、ちょうどあと2~3分で沼津駅行きのバスがやって来るようだ。これがダメ押しになって、私たちは全員一致で縦走の打ち切りを決めた。このバスに乗れば14:00には沼津駅に着く。開いている店を見つけて、旨い魚で一杯やろう。

 12月最初の日曜日。天候は穏やかで、この季節にしては暖かい一日だった。「アルプス」に名前負けしない強烈なアップダウンには苦しめられはしたものの、山道を歩きながら海を見下ろし、富士山や南アルプスを眺めるという、冬の低山ならではの楽しみを満喫することができた。香貫山が一つ残ってしまったが、ここは駅から近く、公園にもなっている場所だから、また来る機会があるかもしれない。

 バスの中から後ろを振り返ると、今日歩いて来た沼津アルプスの稜線が住宅地の後方に続いていた。


暖かな霜月 - 奥高尾・小仏城山 他 [山歩き]


 11月21日(土)の午前8時10分、新宿から乗った京王線の準特急が高尾山口の駅に着くや否や、ホームの階段から改札口へと向かう大勢の人々の流れが出来て、まるで都心の朝のラッシュアワーのようになった。

 年間の乗降客数が300万人を優に超えるこの駅は、今年の春に新しい駅舎が完成し、先月には「極楽湯」という日帰り温泉施設までオープンしている。私自身はここに来るのは今年の2月以来だから、新装成った駅前の様子を目にするのは今日が始めてなのだが、まあ週末の朝早くから大変な賑わいである。

 勤労感謝の日の三連休。東京近郊の低山も紅葉の季節なのだが、天気予報によれば晴天を拝めるのはこの土曜日だけ。ならば高尾山の混雑も仕方がないか。既に長い列が出来たケーブルカーの清滝駅を尻目に、私は稲荷山コースの入口から山に入った。私の場合、高尾山は通り道で、その先の奥高尾の縦走路がお目当てなのだが。

 前夜は日付が替わる頃まで友人と飲んでいたので、四時間も寝ていない。そうなることは最初からわかっており、自分でも朝起きられるかどうか自信がなかったので、他の山仲間に声をかけることは敢えてしなかった。10月の下旬に富士山にほど近い三国山稜を彼らと歩いてから、もう一ヶ月。不義理をしているが、まあ仕方がない。今日は自分一人のトレーニングのつもりで奥高尾を歩こう。

08:18 稲荷山コース入口 → 08:45 稲荷山 → 09:30 紅葉台

 高尾山へとケーブルカーから最も離れている稲荷山コースが登山者も比較的少ないかと思っていたが、今日はどこも同じようだ。最初のうちから登山者の列が出来ている。何人も追い抜いてみたものの、その先にもまた列が出来ているという具合で、追い抜くためについついペースが上がってしまう。30分足らずで稲荷山の展望台に着くと、遠景の朝もやの中に東京スカイツリーが見えていた。
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 先を急ぐ。稲荷山から先は傾斜が緩くなるので、これまたピッチが上がる。リング状の5号路と合流し、そのまま正面の階段を登り続ければ高尾山頂なのだが、ケーブルカーのあの様子では山頂の混雑は必定だし、私の場合は高尾山頂に立つことが今日の目的ではない。それはパスして5号路を左へ進み、紅葉台へ直接行こう。茶店の左手に展望の良い所があり、高尾山頂よりはずっと気分がいい。

 快晴の空の下、紅葉台からはお目当ての富士山と丹沢の山々が、いつものように見えている。スマホで撮影した写真を仲間たちにLINEで送ったら、次々に返信が届いた。とはいえ、山で「歩きスマホ」はいけないから、私からの更なる返信は次のピッチが終わってからにしよう。
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09:35 紅葉台 → 09:55 八丁平 → 10:10 小仏城山

 紅葉台を過ぎたあたりから、ようやく赤や黄に染まった木々が現れるようになった。そして、ここを通る時はいつもそうなのだが、北向きの下り斜面がぬかるんでいる。ここで尻餅をついて泥だらけになりたくないから慎重に通過。更に登っていくと、やがて眺めの良い八丁平に着く。このコースではここからの山の展望が一番ではなかろうか。
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(丹沢の大山と周辺の山々)

 富士の高嶺にカメラを向けながら、ちょうど一年前の同じ土曜日に、やはり一人でこのコースを歩いたことを思い出した。その時と比べてみると、今年は富士山の冠雪の量がずいぶんと少ない。
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(下は一年前の11月22日(土)に撮影したもの)

 東京都心の気象データを眺めてみれば歴然としていて、今年の10月・11月は平年より気温の高い傾向が続き、特に11月は異様なほどに暖かいのである。日中の最高気温が20度を超えた日が何日もあったのだから。
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 今日だってそうだ。私はこの時期なりの山の恰好をして来たのだが、これでは暑い。登山者の中でも、トレール・ランナー達はもちろんのこと、普通に歩いて登山を楽しんでいる人達の中にも半袖姿が何人もいる。これで11月の下旬だと言われても、どこかピンと来ないのだ。普段の生活も同様で、私はまだ夏の背広を仕舞えずにいる。そういえば、自宅の最寄り駅の前に立つ桜の木は、今朝もまだ葉が青々としていた。

 汗を拭きながら、植生保護のために整備された木道を登っていくと、小仏城山のピークに着いた。ここからの富士山も、私の好きな眺めの一つである。
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10:25 小仏城山 → 10:40 小仏峠 → 11:10 景信山

 小仏城山から小仏峠への下りも、山の北斜面なのでいつものようにぬかるんでいる。峠に降りる少し前、相模湖を前景にした富士山が見える箇所があって、いつものようにこれもチェック。
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 峠からの登り返しを頑張り、森の中から右手の展望が広がりだすと、景信山の山頂がもう見えている。だがこの日は山頂直下の登りが結構きつく感じた。これもまた、この時期にしては異様に汗をかいているからかもしれない。

 標高727mの山頂に立つと、さすがにカエデの紅葉が真っ盛りだ。茶店の屋根やベンチが落葉に埋もれている。そこから高尾山の方角を見下ろすと、山肌はまだ紅葉が始まりだしたばかりという感じで、やはり例年に比べればだいぶ遅いようだ。
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 茶店で名物のなめこ汁を頼み、持って来た握り飯1個で軽い昼食をとる。上々の天気。目の前の紅葉。冠雪の富士。景信山は一人でもこうして時々はやって来たくなる山だ。
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11:35 景信山 → 12:40 明王峠 → 14:15 相模湖駅

 陣馬山方面へのいつもの縦走路を進む。右手に見える奥多摩の山々が青空を背景に清々しい。やっぱり秋の山はいいな。
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 景信山の直下の下りに始まって、ここも決まってぬかるんでいる箇所があり、慎重に通過。ハイキング・コースだからと、スニーカーのような軽い靴でやって来る登山者も少なからずいて、案の定、ぬかるみの斜面で転倒して悲鳴を上げる姿も見かけてしまった。

 稜線上を愚直にたどれば四つのピークがあるのだが、今日はそれらの南側を回るまき道で勘弁してもらって、一時間強で明王峠へ。朝のうちは見えていた富士山が、いつも正午を過ぎてこの峠に着く頃には雲の中に隠れてしまうことが多いのだが、今日はまだその姿が見えている。視界が本当に良ければここから南アルプスも見えるのだが、さすがに今日はそこまでは行かない。
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 一人で来る山は、ろくに休憩を取らないことが多い。この明王峠でも富士山の写真を撮った他には水を少々飲んだぐらいで下山を始めることにした。

 山仲間たちと一緒の時は、ここから奈良子峠を経て陣馬の湯へ下ることが多いのだが、今日は久しぶりに相模湖駅へと下る山道を選んだ。稜線上を最初はどんどんと下る道で、一度舗装林道を横切ると、後は孫山のピークを過ぎるまで、植林の中のトラバース状のとりとめもない山道が続く。その区間がようやく終わって再びどんどんと下るようになると相模湖の湖面が見え始め、階段状の下りになると与瀬神社の境内に出る。墓地の上が見晴らしのよい高台になっていて、石老山と相模湖がよく見えていた。
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 与瀬神社の石段を降りて中央自動車道のオーバーパスを渡ると、5分も歩けば相模湖の駅だ。本日の歩行時間は約5時間20分。この時期にしてはずいぶんと暖かく、1ヶ月ほど前の山を歩いているような気分だった。

 もっとも、この先の天気予報を見ると、この三連休が終わるとようやく冬の寒さがやって来るという。23日の勤労感謝の日からの二週間が二十四節気の「小雪」で、その初候である26日頃までは「虹蔵不見(にじかくれてみえず)」といって、「雲が多くなり、陽射しも弱まって虹を見ることが少なくなる」時期にあたる。確かに明日からは天気が下り坂で水曜日頃には冷たい雨になるというから、ようやく暦に実態が追いついていくことになるのだろうか。

 あと一週間で霜月も終わり。その先は、いよいよ年末の足音が聞こえて来るのだろう。

 相模湖駅の裏山の紅葉をぼんやりと眺めながら飲み干した缶ビールの苦味が、普段にも増して爽やかだった。

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富士を間近に - 駿東・三国山稜 [山歩き]


 丹沢というのは、縮尺の大きな地図を眺めてみると案外と広い山域である。簡単に言えば道志川と相模川、そして酒匂川に囲まれた山々で、神奈川県の全面積の三分の一ほどにもなるだろうか。

 新宿から小田急線に乗ると、相模川を渡って本厚木に着く頃から進行右側の窓の外に大山や丹沢の表尾根が見え始める。10月24日(土)の朝、山仲間たちと共に新宿から乗った御殿場線直通の特急「あさぎり1号」の車窓にも、だいぶ秋の色合いを深めた丹沢表尾根が襖絵のように続いていた。この季節、晴れた日の朝は放射冷却で冷え込むものだが、今朝は妙に暖かく、これから山に登ろうというのに私は半袖姿である。

 渋沢を過ぎ、列車が四十八瀬川の谷を下って野に出ると、JRとの連絡線を渡って御殿場線の松田駅へ。乗務員が交代して単線鉄道をコトコトと走る。その時に右の車窓に見えている高松山(801m)や大野山(723m)も、言ってみれば丹沢の山々の続きである。

 それからトンネルを幾つか越え、酒匂川の谷が深くなると、やがて駿河小山駅に到着。ここで先着の山仲間2名が加わって総勢10名となった私たちは、予約しておいたタクシーに分乗。20分足らずで標高900mほどの明神峠に着くと、あたりは紅葉が始まりだしていた。今日はここから西方向へ「富士箱根トレイル」を辿り、三国山(1343m)、大洞山(1384m)、立山(たちやま、1309m)を経て籠坂峠まで10kmほどの山歩きを予定している。丹沢の続きの、そのまた続き。本当に最西部にあたる山々で、それより西にはもう富士山しかない。
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 お目当ては、昼食を予定している立山展望台からの富士の眺めなのだが、「よく晴れでお出かけ日和」という天気予報のわりには稜線の南側から次々にガスが上がり、今日はちょっと不思議な空模様だ。
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(明神峠を出発)

08:50 明神峠 → 10:00 三国山

 明神峠の少し右に簡易トイレが二つ置かれていれ、その奥にトレイルが続いている。足を踏み入れるとそこから先は緩い登り坂が続く。道路とほぼ平行に走っている道なのだが、傾斜も少なくて歩きやすい道だ。
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 所々の紅葉を愛でながら30分ほど歩くと、道路を渡っていよいよ三国山(1343m)への登りが始まった。
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 ここから三国山まで、標高差にして300m弱の登りなのだが、特に急登ということもなく、紅葉を楽しみながらの快適な山道だ。途中、送電線をくぐる所ではガスの彼方に菰釣山(こもつるしやま、1379m)の前後の稜線が見えていた。
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 そこから先は樹林の中の道が続き、遠くの展望はない。紅葉を眺めながら黙々と登り、出発から1時間強で三国山の山頂に着いた。相模、甲斐、駿河の国境になるから三国山という訳だが、ここが分水嶺とは思えないほど穏やかで地味な山である。
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10:05 三国山 → 11:00 大洞山 → 11:25 アザミ平

 三国山から先は尾根が一段と緩やかになり、広々とした森の中に枯葉の道がどこまでも続いている。今日のスタート地点の明神峠では紅葉が始まりだしたという感じだったが、標高1,300mを少し超えたこの稜線では、紅葉はもう終わりに近い。頭の上は青空なのだが、山肌には相変わらずガスが沸き、葉の落ちた森が白く煙っている。
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 山地図に記載のある楢木山(1353m)というピークはプレートもなく、それがどこだか気付かないうちに通過。その先の山道も引続き傾斜が緩いせいか、或いは昼食の場所に早く着きたかったのか、先頭を行くH氏のピッチが上がり、大洞山に着く頃には、三国山を出た時点での計画比20分近い遅れを完全に取り戻していた。
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(大洞山の静かな山頂)

 大洞山を過ぎて、山道が緩やかに下り続けるようになると、次第に木々の背丈が低くなって広い原っぱのような地形の場所に出た。そこがアザミ平だ。いいペースで歩いて来たので、計画より少し早くここに着いた。時間に余裕が出来たから、この場所で小休止を取ろうか。目の前に広がる畑尾山の山肌の紅葉がきれいだ。

 一休みしている間に、俄かにガスが晴れてきた。その途端に畑尾山の紅葉は見違えるほど鮮やかに変身する。青空も広がり始め、木の葉の赤や黄が一段とその青に映える。
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 その時、仲間の一人が叫んだ。
「あーっ、凄い!見えた!」
彼女が指差す方角を皆が一斉に眺めると、何と畑尾山の向こうに大きな富士山が頭を出していた。
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 このところ、この季節にしては気温の高い日が続いていたので、10月11日に今年の初冠雪を迎えた富士山も、その残りはだいぶ少ない。山頂の北側に少しばかり白が目立つ程度だ。それにしても、私たちが仲間と週末に歩くのは遠くから富士山を眺める山が多かったが、今日の私たちは首を反らせて富士山頂を見上げている。篭坂峠や山中湖にも近い三国山稜までやって来ただけあって、こんなに大きな富士に出会えたのだ。

11:35 アザミ平 → 12:00 立山展望台

 ここまで来れば、昼食を予定している立山展望台は近い。アザミ平を出て畑尾山の森の中へ。一段と深い落葉を踏みしめながら、私たちは今日最後の登りに取りかかる。畑尾山から立山にかけても実に穏やかな地形で、しみじみと秋の山を楽しめるコースだ。
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 森の中の立山頂上から山道が南に折れ、300mほどを緩やかに下ると、西側の展望が開けた小さな緑地に出た。そこが立山展望台だ。そしてお目当ての富士は、雲を纏いながらも何とかその山頂を見せてくれていた。

 さあ、それでは昼食にしよう。順調にやって来たから、計画上ではここで一時間ちょっとはゆっくりできる。私たちは鍋に湯を沸かし、キノコや長ネギ、ニラなどをたくさん入れたスープを作って、雲の中に見え隠れする秋の富士を眺めながら、のんびりとした一時を過ごした。
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「駿河にも富士、甲斐(甲州)にも富士、その裾なる山野は広大で、頂きは天に属している。
(中略)
 伊豆から北上して遠く甲斐に入るには、一筋の道しかない。伊豆の三島から北をめざし、駿河の駿東郡葛山(かつらやま)に出る。葛山は、愛鷹山の東麓の渓谷で、水田多く、源平のむかしからこの水田地帯が葛山氏という大族を育ててきた。
(中略)
 さらに北へのぼり、富士東麓の須走(駿河国)にいたる。須走より北にのぼれば、籠坂(加古坂)峠である。ここが、甲州境になる。峠をこえると、甲州の山中湖で、古道は湖西に沿っており、はるかに甲府に通ずる。」
(『箱根の坂』 司馬遼太郎 著、講談社文庫)

 立山展望台から雲間の富士を眺めながら、かつて北条早雲が籠坂峠まで兵を挙げた時のことを私はぼんやりと考えていた。今からちょうど520年前のことだ。その籠坂峠へは、ここから山道を下れば1時間とかからない。

 「― 宗瑞どのは、籠坂峠で威勢を張り、はるかに甲府を望んでもらいたい。」

 早雲の甥にあたる駿河の今川氏親は、西方を治めるために信州の諏訪氏と同盟を結んでいたが、その諏訪氏が隣接する武田氏からたびたび圧迫を受けたため、甲斐の東方を牽制するよう申し入れを受けた。その役目を、氏親は早雲に命じたのだった。あの武田信玄の祖父の時代である。

 「国境である籠坂峠付近は、甲州武田氏の勢力圏に入っていた。武田圏の最前線が須走氏であり、これに対する今川方の最前線が、葛山氏であった。」

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 早雲はその葛山氏を伴って須走氏を北に追い、籠坂峠に陣を張って武田勢を睨み続けた。さしたる戦闘もなく、早雲は一夏をこの籠坂峠で過ごすことになる。

 「明応四年乙卯八月、伊豆より伊勢入道、甲州へ打入り、かこ山(籠坂峠)に陣を張(はり)しも和睦にて引き返す。」

 甲州側にはそんな古文書が残されているそうだ。

 因みに、富士山の南東で噴火が起きて宝永火口が出来たのは、そのずっと後の1707年のことだから、北条早雲が籠坂峠から眺めた富士山は、今よりももっと純粋に成層火山の形をしていたのだろう。噴煙も上がっていたかもしれない。そんな富士を目の前にして籠坂峠に滞在を続けた早雲が、ちょっぴりうらやましくもなった。
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(なお、引用した上記の小説の中では、「小田原を取ろう」という肚を、早雲はこの籠坂峠で固めたことになっている。そして、ここまで引き連れてきた軍勢を解かずに、そのまま箱根の坂を越えることになるのだが、それは読んでのお楽しみ。)

13:05 立山展望台 → 13:50 籠坂峠バス停

 山を下りる。立山の山頂に戻った私たちは、その先の分岐から籠坂峠へと下る山道へ。流れのない沢筋のような道がずっと続いていて、落葉が深い。
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 山の上の方では木々の葉がほとんど落ちていたが、高度を下げるに従ってまだ残る紅葉が鮮やかになる。今日は早起きをして山に来て、やっぱりよかった。一緒に歩いているメンバーもみな、そう思ってくれていることだろう。
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 やがて山道が沢筋から抜け出すと、ほどなく山中湖村公園墓地の一角に出る。そのすぐ先はクルマが行き交う国道138号で、籠坂峠のバス停にはまさにコースタイム通りの45分で着いた。
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 北条早雲が武田勢を追ったのとは逆方向に、私たちは籠坂峠からバスで御殿場駅へ。そして近くの銭湯で汗を流し、予定通りの16時発の新宿直通「あさぎり12号」に乗車。乗ってしまえば18時前に新宿に着くから、実に楽なものである。今日もまた、いつもの山仲間たちと過ごした楽しい一日だった。

 これから山の紅葉は低山へと進んでいく。天気さえ良ければ週末の山歩きにはいい季節なのだが、今年はこの先、公用で週末がつぶれることが多く、次にいつ山に行けるかは現時点では未定だが、限られたチャンスをなるべくうまく捉えて行きたいと思う。

その高みに - 北ア・柏原新道~針ノ木岳 (4) [山歩き]


 眠れる時間があったのか、それとも寝付けずに時ばかりが経ったのか、何だかよくわからないうちに、針ノ木小屋の中では宿泊者たちの動きが始まり出した。腕時計のライトをつけると朝の4時半少し前だった。

 昨夜は正直言って寝苦しかった。大混雑の針ノ木小屋は、布団一枚を二人で分け合う状態。夏のピーク時だからそれぐらいは仕方ないのだが、大部屋の中が暑いのはこたえた。それに、何だか息苦しい。大混雑といっても、まさか部屋の中が酸欠状態になっている訳ではないのだろうが、私の呼吸は浅く、横になっているのに脈拍数がやけに多い。フレッシュな空気を吸いたくて窓を開けようと何度思ったことだろう。若い頃とは違って、標高2500m近辺の空気の薄さに自分の体が順応しにくくなったのだろうか。

 昨夜も窓越しに大きな北斗七星が見えていたから、今日も好天が続くことだろう。小屋の外からは早くもカメラを構えた宿泊者たちの声が聞こえ始めている。簡単に身支度をした後、H氏と私も外に出てみることにした。

 8月8日(土)の今日、日の出の時刻(東京)は4時54分だ。私がカメラを持って外に出たのはちょうど5時になる頃だから、針ノ木峠から展望できる高い山々は、朝の光の中で少しずつその色彩を取り戻しつつあるところだった。

 それにしても、針ノ木峠ほど方角のわかりやすい場所も他にないだろう。大雪渓が急傾斜で下っている方角が北で、そこには遠く白馬岳と鹿島槍ヶ岳、それに一昨日から歩いて来た岩小屋沢岳や鳴沢岳などの稜線が連なっている。
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 反対側に目を向けると、雲海の彼方に八ヶ岳や富士山、それに南アルプスの甲斐駒ケ岳などのシルエットが浮かんでいる。今日も本当にいい天気だ。
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(八ヶ岳のシルエット)

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(富士山と甲斐駒)

 5時10分を回ると、南の方角の山々の頂が朝日に輝き始める。野口五郎岳、水晶岳、赤牛岳が連なる稜線はその中でも標高が高いから、その輝きは早く、中でも赤牛岳の稜線の張り具合は実に堂々としていて印象的だ。朝日に赤く染まるその姿は、まさに「赤牛」といっていいだろう。
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 それでも、登山者たちの注目を一身にあつめるのは何といっても槍・穂高の朝焼けだろう。3000m級の山々だからその高さは群を抜いているし、天を突くような槍ヶ岳と、それに負けず劣らず尖って見える前穂高岳の姿は、いつまでも見つめていたいものだ。
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 私はそんな風にして朝一番の山々の眺めにいつまでも見とれていたのだが、その間に小屋の朝食の列に並んでくれたH氏のおかげで、私たちは朝食の第1クルーに入ることが出来た。予定では朝食を終えて6時半に出発としていたが、これなら6時には出られそうだ。一昨日から楽しんできた山々の眺めともお別れで、きょうは早くも下山日である。

06:05 針ノ木峠 → 06:44 雪渓に乗る → 07:28 雪渓から上る → 08:00 大沢小屋

 さあ、下りよう。

 針ノ木峠からは、ザラザラの急斜面を九十九折れに下る道だ。未明のうちから雪渓を登って来たのか、この道をもう上がって来る登山者がいた。下ってくる私たちは、このザラザラの山道で落石を起こさないよう注意が必要だ。

 谷に向かって下って行く、その正面の彼方に鹿島槍や爺ヶ岳が見えている。このまま下り続ければ、それはいずれ手前の尾根の向こうに姿を隠してしまうだろう。そう思うと、ちょっと心残りだ。
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 今は真夏なので、この谷の上部に雪渓はなく、ザラザラの九十九折れが終わると、沢の右岸を下る岩がゴロゴロとした山道が始まる。谷の幅はどんどん狭くなって、針ノ木峠から30分ほどで「ノド」と呼ばれる最も狭い場所を通過。下の方に雪渓が見えてきた。
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 国土地理院の地図だと、山道はこのあたりから沢の左岸を回るように書いてあるのだが、今回の夏道は右岸をそのまま下り続け、やがて雪渓への取りつきへと至る。この地点へは針ノ木峠から40分ほどで着いた。
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(ここから雪渓の上を歩く)

 ここでH氏と私はアイゼンを装着。私は念のためピッケルを持って来た。雪渓に乗って下り始めると、その表面は細かく波打っているし、それほどの傾斜ではないから滑落するようなことはないものの、ちょっとしたバランスを取るのにピッケルがあるとやはり楽である。
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 それにしても、針ノ木峠大雪渓は北斜面だから日陰が続き、下から吹き上げてくる風が涼しい。それに好きな場所を歩けるから、続々と登って来る登山者たちとのすれ違いに気を使う必要もない。私たちは順調に歩き続け、雪渓の上に乗ってから40分ほどで左岸に上がる箇所に着いた。
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(あの雪渓を下りてきた)

 アイゼンを外し、再び山道へ。ところが、ここからしばらくは大きな岩を乗り越えたり、木の根っこが大きく張り出したり、或いは大きく登り返したりするような、山道というよりは自然の地形のままのようなルートがしばらく続き、予想外に体力を使うことになる。私たちは下山をするだけだからいいが、逆コースでこれから大雪渓を登っていく登山者たちにとっては、雪渓歩きの前にこの悪路はしんどいことだろう。そんな山道がすこし穏やかになった頃、ふいに大沢小屋が森の中に現れた。
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08:25 大沢小屋 → 09:27 扇沢駐車場

 昨日、新越山荘から4つのピークを越えて針ノ木小屋に到着した時、その後の行程として、実はこの大沢小屋まで下ってしまおうかという腹案がH氏と私にない訳でもなかった。何しろ針ノ木小屋は大混雑と聞いていたので、疲れてはいたが大沢小屋まで下った方が宿泊のコンディションはずっと良いのではないかと考えたからだった。(実際に昨日の大沢小屋の宿泊者は4人だけだったそうだ。)

 まあそれでも、昨日ここまで下りることにした場合には、午後の蓮華岳往復はなかった訳だし、今朝の針ノ木峠から眺めた山々の朝焼けに出会うこともなかった訳で、当初計画通りの行動で正解だったのではないかと思う。

 それはともかく、今朝針ノ木小屋を計画より30分早く出られたことと、雪渓下りも順調だったことから、私たちが大沢小屋に着いたのは計画より1時間も早い。それならば、ここで少しゆっくりさせていただこう。小屋のラジオからは甲子園の高校野球の実況が流れていた。

 大沢小屋でだいぶゆっくりした後、私たちは扇沢への登山道を再び歩き始めた。あと1時間ほどだし、時間には充分な余裕があるから気楽なものだ。

 小屋を出てわりと直ぐに、左手からやってくる明るい沢をわたり、再び森の中へ入った後、しばらくすると今度はその森の中を流れる小さな、しかし水量豊かな沢に出た。この沢の水が名水だそうなので、私たちは持ち帰り用にペットボトルでその水を汲んだ。柔らくて透明な、確かに素晴らしく美味しい水だった。

 ここまで下りてくると、さすがに暑さも増してくる。三日間の山旅も終わりに近い。緑のきれいなブナの森を抜けて明るい沢に出ると、昨日歩いて来た山の尾根が上の方に見えている。青い空に夏の雲、まぶしい岩稜と鮮やかな緑、そして谷の残雪。今回のコースを象徴するような眺めだ。真夏の北アルプスをこんな風に無垢に楽しめたのは、いつ以来のことだろう。私が小学生だったら、今眺めているような景色を夏休みの絵日記にしたかもしれない。
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 やがて森が終わって視界が開けると、立山黒部アルペンルートの舗装道路に出た。左には山を貫く関電トンネルの入口が見えている。私たちはそれとは反対方向の扇沢へと向かい、屈曲した道路をショートカットする山道を辿って、9時半少し前に扇沢に着いた。一昨日からの三日間、素晴らしい山旅だった。
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(扇沢の登山道終点。右奥に関電トンネルのトロリーバスが見える)

 停めていた私のクルマに戻り、荷物を載せて出発。文明の利器とは何とも便利なものだ。扇沢から大町温泉郷の「薬師の湯」へ一直線に向かい、30分後には露天風呂で私たちはゆっくりと汗を流していた。

 温泉を出て、私たちは東京への帰路を走る。この日は正午近くになっても山にはガスが上がらず、北アルプスの山々がよく見えていた。私はハンドルを握っていたのでつぶさには見ていないが、大町市の中心部から高瀬川の橋を渡るところでは、右の車窓にこんな山の景色が広がっていたはずである。
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 長年の夢が叶い、それも絶好の天候の下で、針ノ木岳周辺の山々から剱岳を眺めた山旅が終わろうとしている。コースの選定にあたってはかなり私の自我を通してしまったが、それに全面的にお付き合いいただいたH氏と、私たちが出かけるにあたって色々と気遣いをしてくれたT君。二人の山仲間には改めて心から御礼を申し上げたい。

【追記】

 この記録をアップしている今、私は熱いコーヒーを飲んでいる。それは今回の下山日に大沢小屋の先の沢で汲んで持ち帰った水を沸かして、家内がいれてくれたコーヒーだ。いつもと同じブレンド・コーヒーなのだが、今日は非常に透明感があって、すっと体の中に入って来るような実に美味しいコーヒーで、実はいれてくれた家内が私以上に驚いている。これも山の恵みの一つなのだが、こんな湧水が日本の至るところで得られるのだから、私たちの祖国の自然は何ともありがたいものである。

その高みに - 北ア・柏原新道~針ノ木岳 (3) [山歩き]


 8月7日(金)、朝5時少し前に新越山荘を出発し、鳴沢岳(2641m)、赤沢岳(2678m)、スバリ岳(2752m)、針ノ木岳(2821m)と4つのピークを越えてきたH氏と私は、針ノ木峠(2541m)にある山小屋に11:20に到着。そこでジョッキ2杯ずつの生ビールを飲んですっかりリラックスしている。もう宿泊の手続きも済ませてしまったから気楽なものだ。

 この峠は北側・南側それぞれに展望が良いから、小屋の外のベンチでそれを眺めているだけでも楽しい。真昼になってあちこちから盛んにガスが上がり、色々な山が見え隠れするのも、それはそれでいかにも夏山の気分である。

 気がつくと、丸太を積み上げた場所をベンチ代わりにして、H氏は昼寝を決め込んでいる。私は南の方角をただぼんやりと眺めていた。槍や穂高、野口五郎岳などは色々な山の上から展望したことがあるのだが、ここから見るとその手前で大きなアップダウンを続ける、しかし些か地味な山々を一つ一つ目にすることは今回が初めてだった。北葛岳(2551m)、七倉岳(2509m)、船窪岳(2303m)、不動岳(2595m)、南沢岳(2625m)、そして烏帽子岳(2628m)といった山々のことである。
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(針ノ木峠から南方向の眺め)

 白馬岳(2932m)の周辺から爺ヶ岳(2670m)にかけて、北アルプスの主稜線は概ね南北方向に走っているのだが、その爺ヶ岳から針ノ木峠を経て前述の烏帽子岳あたりまでの区間、北アの主稜はS字のような形に屈曲している。そして烏帽子岳を過ぎると、野口五郎岳(2924m)を経て三俣蓮華岳(2841m)までの区間は主稜があまり大きく屈曲することなく、概ね南西方向に尾根が走っている。
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(S字状に屈曲した北アルプスの主稜線)

 私たちが今立っている針ノ木峠はちょうどそのS字の中央部分だから、昨日から私たちはそのS字の上半分をなぞって来たことになる。北アの主稜が黒部峡谷側に大きく突き出した箇所で、それが針ノ木岳で東へ大きく向きを変える。だから今日は立山・剱の眺めが抜群に良かったし、針ノ木岳以降はそれまでとは異なる山々が見えている。となれば、今回は歩かないS字の下半分のことも、ちょっぴり気になるところだ。何しろ北アルプスの中でも最もローカル線の部分で、登山者も少ない山域なのである。

 針ノ木峠の東側に聳える蓮華岳(2799m)のピークは、ここからは直接見えてはいないのだが、その蓮華岳から南へ、次のピークの北葛岳までは標高差500m以上を下り、そして250mほどを登り返さなければならない。「蓮華の大下り」と呼ばれている箇所で、北アの主稜の中では屈指の標高差である。そこから先もアップダウンの連続で、野口五郎岳までのルート(沿面距離にして約21km)の断面図を眺めてみると、北アルプスの主稜の中では最も標高が低い区間ではあるものの、登ったり降りたりという有様が本当に鋸の歯のようだ。
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 七倉岳から少し下ったところにある船窪小屋は、不便な場所にあるのに食事が素晴らしいということで、一部の登山者には根強い人気があるそうだが、そこから先は下山後の交通が極めて不便な地域なので、登山者も少なく、また高瀬川に連なる沢の崩壊が激しいために道も荒れていると聞く。(この針ノ木峠から見ても、不動岳の手前で東側の谷が崩壊している様子は何とも痛々しい。)

 こんな風に、針ノ木峠の前後は北アルプスの中で最も奇妙な地形になっているのだが、それを敢えて利用して厳冬期の山越えを敢行した武将が戦国時代に現れた。言うまでもなく佐々成政(1536~88)のことである。

 信長に仕えて越中の一国守護となった成政は、信長が本能寺に斃れた後、清洲会議では柴田勝家に与し、賤ヶ岳でその勝家が敗死すると、一旦は頭を丸めて秀吉に降伏したものの、小牧長久手で秀吉・家康間の合戦が始まると、今度は家康方について加賀の前田領を攻撃。ところが、家康・織田信雄が秀吉と和睦してしまったために孤立無援となった成政は、家康に再起を促すべく、越中富山から浜松へと自ら出向くことになった。時は天正12(1584)年の11月下旬、今の暦なら12月の下旬にあたる。

 西は前田利家、東は上杉景勝とそれぞれ敵対していた以上、富山から浜松へと向かうのに通常の交通路は使えない。成政が選んだのは、厳冬期の北アルプスを越えて信州に出ることだった。成政の「さらさら越え」と呼ばれる山越えは、越中の常願寺川の上流・立山温泉からザラ峠を越えて五色ヶ原に至り、それから黒部峡谷に降りて針ノ木谷を遡るというものだったという。それを12月の下旬から始めたというのだから、暮も正月もあったものではない。察するべきは家臣たちが味わった艱難辛苦であろう。
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(佐々成政の「さらさら越え」の想定ルート)

 成政らが針ノ木谷から信州に出たルートには二説あるようだ。針ノ木峠に上がって大雪渓を降りたというものと、それよりも標高差の少ない蓮華岳・北葛岳間の鞍部を経て北葛沢を降りたという説だ。(但し、後者のルートについては、現在は山道が存在しない。)

 地図を眺めながら考えてみれば、富山県側から歩いて黒部渓谷を横断するとしたら、それは現在の黒部湖よりも上流側の、いわゆる「上ノ廊下」でなければ渡河は不可能だ。そして針ノ木峠以南は、北アルプスの主稜の中では最も標高が低い部分である。今の感覚からすれば無謀にしか見えない成政の「さらさら越え」も、戦国時代に冬の北アルプスを越えるとしたら、たとえ僅かでも可能性のある殆ど唯一のルートであったに違いない。

 それにしても、針ノ木峠から大雪渓を見下ろすと、相当な急斜面だ。(明日は私たちもそこを下るのだが。) 今は真夏だから上部雪渓はもう消えているが、12月末なら峠に至るまでこの斜面には全て積雪があったはずである。アイゼンもピッケルもなしに、成政の一行はどうやってそれを降りたのだろうか。
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 時計は午後の2時半を回っていた。午睡から目覚めたH氏は、何だか所在なさげだ。私もそうだが、ジョッキ2杯の生ビール(及びその後の休憩)は、水分補給と同時に疲労回復にも効果があったようだ。アップダウンが続いた午前中の縦走で疲労感の大きかった脚も、すっかり軽くなっている。それならば、水と雨具だけ持って蓮華岳を往復して来ようか。

 私たちは、針ノ木峠から東へ、砂礫の斜面を登り始めた。スバリ岳や針ノ木岳周辺の岩稜とは異なり、ここは山全体がザラザラとした地質で、山の形ものっぺりとしている。体内からアルコールが全部抜けた訳ではないから私の歩みはゆっくりだが、ともかくも蓮華岳まで行ってみようという気力が戻って来たのは幸いだ。計画した以上は全てのピークに登り、その高みに立って周囲を見回してみたい。やっぱり私たちは猿に似ているのかなあ・・・。
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 それまでの起伏に富んだコースに比べて、蓮華岳に向かってはとりとめのない登りが続くのだが、地図上で2754mの三角点があるピークに達すると傾斜が緩くなって、最終的な蓮華岳のピークが明確に見えてくる。そして、砂礫の山道には次第にコマクサの花が姿を見せ始めた。
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 それから歩みを進めること更に30分。午後4時少し前に蓮華岳の誰もいない山頂に私たちは着いた。ガスに覆われているので遠くの山の展望はない。ここから再び立山・剱が見えれば・・・とも思ったが、それはまたの機会にしよう。それにしても、昨日の入山時には、「このところ毎日、正午を過ぎると雷が鳴るので注意するように。」と言われたのに、結果的に昨日も今日も午後の雷雨はなく、今も上空はよく晴れている。
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(ひっそりとした蓮華岳東尾根)

 登りは1時間ほどだった道を40分足らずで駆け下って、私たちは針ノ木小屋に戻った。それは、午後5時から始まる夕食にちょうど良いタイミングだった。
(To be continued)

その高みに - 北ア・柏原新道~針ノ木岳 (2) [山歩き]


 山小屋の朝は早い。夜明けを待たずに行動を開始するパーティーもいるので、まだ暗いうちから部屋の中では動きが始まる。そんな物音に私たちが目を覚ましたのは、8月7日(金)の午前4時を少し回った頃だった。

 今日は蓮華岳を越えて船窪小屋を目指すと昨日言っていた、私たちより2歳年上の登山者は予定通り朝4時に小屋を出発したのか、彼が寝ていた場所はきれいに布団が畳まれていた。私たちも起き出して出発の準備を始めよう。朝食を口に入れながら談話室の窓を開けると、黒部の谷を埋める雲海の向こうに、まだ目覚めぬ剱岳の大きな姿があった。
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 荷物をまとめて小屋の外に出ると、昨日の午後はガスに覆われていた針ノ木大雪渓がすっきりと見えている。まだ日の出の時刻を迎えたばかりだが、空は快晴。これなら今日一日、多くの山々の眺めを楽しめそうだ。

04:56 新越山荘 → 05:46 鳴沢岳

 体を軽くほぐしてから、午前5時少し前に私たちは出発。今日はここ新越山荘から、名前の付いているものだけでも4つのピークを越えて針ノ木峠まで行き、そこから空身でもう1つのピークを往復してくる予定。長い一日になりそうだ。
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 歩き始めてから幾らも経たないうちに、針ノ木峠の向こうに槍ヶ岳がひょっこりとその頭を見せ始めた。振り返れば、白馬岳から鹿島槍ヶ岳までの山々が朝の光の中にある。幾多の山が刻々とその表情を変えていく、一日の中で最も素晴らしい時間帯である。
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 更に尾根道を登り、少し黒部側に巻いた所で、ハイマツの上に朝焼けの剱岳が姿を現した!
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 これが見たくて、私はここにやって来た。日本で一番好きな剱岳をこの方向からじっくり眺めたくて、このコースを一度歩いてみたいと若い頃から思い続けてきた。それが、還暦一歩手前の今年、同行してくれているH氏のおかげもあって遂に実現したのだ。私はただ息を飲んで、剱岳のモルゲン・ロートを見つめていた。

 立山と剱岳が見え始めてからは、尾根道の両側の景色がどんどんと広がっていく。順調に高度を稼ぎ、出発から50分ほどで鳴沢岳(2641m)の山頂に到着。そこには北アルプスのありとあらゆる山々を眺める360度の大展望が待っていた。
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 私たちと同様に新越山荘に泊まっていた2~3のパーティーも順次この山頂に上がってきて、この素晴らしい眺めを共に喜び合った。本当に、これ以上ないような快晴の夏の朝である。そして、ここから眺める剱岳はまた一段と堂々たる姿で、まさに岩の殿堂というべき風格を見せている。
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 南を向くと、今日これから歩く針ノ木峠までの縦走路が見えている。先はまだまだ長いが、ともかくも頑張って歩くことにしよう。
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05:56 鳴沢岳 → 06:53 赤沢岳(~07:13) → 09:08 スバリ岳

 鳴沢岳から次のピークの赤沢岳(2648m)までは、今日のルートの中ではアップダウンが比較的穏やかな区間だ。それでいて両側の眺めは抜群に良いから、まさに稜線漫歩といった感じである。新越山荘では真正面に見えていた剱岳に代わって、立山が次第に主役に踊り出て来るようになる。立山というと、室道から見上げた台形の衝立のような姿をポスターなどでよく見かけるが、こうして信州側から眺めた立山は実にいい。内蔵助谷の豊富な雪が実に涼しそうだ。山肌をよく眺めてみると、アルペンルートのロープウェイの駅が上下共に見えている。
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 1時間ほどで到着した赤沢岳も同様に眺めが良く、ここからは黒部湖の湖面が見え始める。20分ほどの休憩を取って展望を楽しんだ後、私たちは再び出発。いよいよ今日の縦走路の核心部へと進んで行くことになった。
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 私たちは今、長野・富山両県の境になる尾根に立っている。白馬岳から延々と南に伸びる北アルプスの主脈。その内、針ノ木岳あたりまでは後立山(うしろたてやま)連峰と呼ばれるのだが、江戸時代になって、そうした山々に加賀藩が黒部奥山廻りという見廻り役を置いたことはよく知られている。

 「黒部奥山廻りは、加賀藩がその領地である北アルプス山中の木材討伐や鉱物、動植物などの違法採取を取り締まったものである。石油が燃料としても資材としても世界を席巻する以前は、その役割のほとんどを木材が担っていた。燃料であり資材でもある木材を提供する『山』とはそのまま藩の財産であり、人々が生活の糧を得る場でもあったのである。」
(『百年前の山を旅する』 服部文祥 著、新潮社)

 江戸時代の初期、幕府は各藩に対して領地の絵図を作成して提出させたという。幕府が各藩の石高や交通経路などを把握するためのものではあったが、それは逆に各藩にとっては自国領の範囲を幕府に認めてもらうチャンスでもあったようだ。特に山深い地域では隣の藩との境も山の中だから、空の上から地形を俯瞰する手段のない時代に国境は明確ではなく、「言った者勝ち」になりやすい。

 「加賀藩は立山山頂から見える範囲を領地と主張し、絵図にして江戸幕府に申請するため、積極的に奥山の把握行動を開始する。絵図提出開始の翌年、慶安元年(1648年)には、芦峅寺(あしくらじ)の三右衛門親子に黒部奥山の状況を聞き、藩の役人を遣わして調査をさせている。これが奥山廻りの事始めである。」
(引用前掲書)

 考えてみれば、「後立山」というネーミング自体が加賀藩の目線に立っている。今では前述のように白馬岳周辺から針ノ木岳あたりまでが「後立山」だが、元々は鹿島槍ヶ岳のことを指す山名であったそうだ。(同様に白馬岳は「大蓮華」と呼ばれていたそうで、これも加賀藩の側からの呼び方であるという。)

 「ともあれ、加賀藩が精力的におこなった黒部奥山廻りが功を奏して、立山の山頂から見える黒部川の流域は加賀藩領になる。元禄十年(1697年)の奥山廻役宗兵衛記録内、正徳二年(1712年)内山村平三郎手記には『はりの木谷峯を境信州越中御境』(針ノ木岳を信州と越中の境目とする)とわざわざ明記されている。」
(引用前掲書)

 定期的に役人に奥山廻りをさせることで、加賀藩は今でいう「実効支配」を狙ったのだろうか。いずれにしても、山の尾根を歩くことが隣の藩との国境争いに結びついていたのだとすれば、奥山廻りの仕事も相応に緊張感を伴うものであったのだろう。それに比べれば、近代登山の時代になって、ただ展望を楽しむために県境の尾根を歩いている私たちは何ともお気楽なものである。
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(黒部湖を見下ろす縦走路)

 縦走路を進むにつれて、立山の南方に続く薬師岳の姿が少しずつ大きくなっていく。氷河による浸食で造られたという、スプーンですくった跡のような谷の形が印象的な、とても雄大な山である。
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 このあたりからは、尾根の西側(富山県側)は緩斜面であるのに対して、東側(長野県側)は切り立った地形になって、左手の谷の崩落が進む箇所が多くなる。
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 それにしても、この赤沢岳~スバリ岳(2752m)間は2ピッチの距離と高低差があり、登りが意外としんどい。一時間ほど歩いた所で一度休憩を取り、歩いてきた道を振り返ると、昨日から幾つものピークを越えて来たことが改めてわかる。
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(越えてきた山々)

 これぞ縦走の醍醐味なのだが、それにしても私たちはなぜ好き好んでこのようにアップダウンを繰り返すルートを選んだのだろう。

 それは、自分でもわからない。理屈は抜きにして、ただシンプルに、あの高みに登ってヒョイと景色を見回してみたいという、猿のような物見高さが先天的に自分のどこかにあるからではないか。そんな風に考えるより他はないのだが、年を取るにつれてその物見高さに体がついて行かなくなり始めていることは、残念ながら認めざるを得ない。今日のコースも若い頃だったら涼しい顔してガンガン登り続けたのだろうけれど、今は針ノ木岳がなかなか近づいて来ないことに、正直なところ一抹の焦りすらある。まあ、還暦の一歩手前なのだから仕方がないか。
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 そんな風にちょっと弱気になりながら、私たちはスバリ岳への最後の登りを詰める。そして、赤沢岳から2時間近くをかけて、ようやくスバリ岳の山頂に立った。黒部湖を見下ろすこのピークは、今日のコースの中では恐らく眺めは一番ではないかと思う。
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 信州側から涼しい風が吹き上げて来るのは助かるのだが、私たちはずいぶんと喉の渇きを覚えた。朝から太陽の光を浴び続けてきたことも疲労につながっているかもしれない。これから針ノ木岳を越えて針ノ木峠に着いた後、果たして蓮華岳に登り返す元気が残っているだろうか。

09:20 スバリ岳 → 10:20 針ノ木岳(~10:30) → 11:20 針ノ木小屋

 丘に上がり過ぎて頭の上の皿が乾いてしまった河童のようになりながら、私たちは本日4番目のピーク、針ノ木岳(2821m)を目指す。早朝からピーカンが続いてきたが、午前9時を過ぎるとあちこちの山肌からガスが湧くようになった。縦走路の先に続く針ノ木岳のピークもそうしたガスに見え隠れしている。針ノ木谷の東側では特にそれが顕著で、蓮華岳は完全に雲に覆われてしまった。
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(針ノ木岳にガスがかかる)

 そうなると、針ノ木峠から蓮華岳を往復してくるインセンティヴが、私たちからは更に失われていくことになる。何よりも、針ノ木小屋では生ビールを売っているそうだ。既に結構消耗しているのに、その生ビールを振り切ってまで蓮華岳を目指すというのは、もはや選択肢としてはあり得ないのではないか。針ノ木岳への最後の登りを頑張りつつ、私たちの頭の中はそうした方向へ急速に傾いていった。

 標高差120mを下り、そして標高差200mを登り返す行程に約1時間を要して、私たちは遂に針ノ木岳に到着。盛んにガスが上がる中、槍ヶ岳と穂高の山々が辛うじて見えていた。
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 登山計画書ではこのピークで30分の昼食休憩を予定していたのだが、陽に照らされて暑いし、1時間足らずで針ノ木小屋へ降りられるならその方がいい。私たちは小休止に留めることにした。その一方で、朝からずっと眺め続けてきた立山・剱岳の眺めとも、ここでお別れになる。名残惜しいが、今一度その雄姿を自分の目に焼き付けておこう。(剱岳に向けて、私は朝からいったい何十回シャッターを切ったのだろう。)
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(剱よ、さらば)

 針ノ木岳からの下りでは、岩稜というよりも砂礫のザラザラとした斜面が待っていた。滑らないよう足元に気をつけながらぐんぐんと下っていくと、やがて直下に針ノ木小屋が見えるようになった。かなりの急角度だ。
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 そして11:20に針ノ木小屋に到着。宿泊の手続きを済ませた私たちは、小屋の食堂に上がってお目当ての生ビールにありつく。それが喉元を過ぎた時の至福感に、私たちはもう気絶寸前だ。大変申し訳ないが、その時点で蓮華岳のことは、私たちの間ではどこかへ行ってしまっていた。
(To be continued)

その高みに - 北ア・柏原新道~針ノ木岳 (1) [山歩き]


 ふと目が覚めると、窓の外では夏山の朝が始まろうとしていた。

 8月6日(木)午前5時、北アルプス山麓の扇沢駐車場。標高は1430mほどで、立山黒部アルペンルートのトロリーバスの駅が、私たちが車を停めた位置のすぐ上にある。前夜の11時頃ここに着いた時は、夜空に満天の星が輝き、その中央に横たう天の川が見事だった。それを眺めて翌日以降の好天を期待しつつ、山仲間のH氏と私は、クルマの中で軽く寝酒をひっかけてから仮眠を取っていたのだった。

 朝の光がそのボリュームを増して刻々と鮮やかになる山の緑を眺めながら、私たちは車中で朝食や着替えを済ませ、午前6時過ぎに今回の登山を開始することになった。今日はこれから柏原新道を登って種池山荘に上がり、そこから稜線伝いに岩小屋沢岳(2630m)を越えて新越山荘までのコースを歩く。
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06:22 柏原新道入口 → 07:12 ケルン → 09:37 種池山荘

 舗装道路を10分ほど下って橋を渡ると、その先のすぐ左が柏原新道の入口だ。そこに立っていた係員に登山計画書を提出。「最近は連日、正午を過ぎた頃から雷が鳴り出すので、行動は早めに。」とのアドバイスを受けた。
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 そしていよいよ登山道へ。それは森の中を最初からぐんぐんと登っていく道なのだが、実によく整備されていて歩きやすい。だが、都会では最高気温35度が当たり前の今年は、山の麓でもだいぶ気温が高いようだ。H氏も私も歩き始めて早々に汗まみれになってしまった。

 それでも、50分ほどで最初の目標であるケルンに到着。このあたりからは左手の視界が開け、針ノ木谷の全景を眺めることができる。そして、種池山荘から岩小屋沢岳へと続く稜線の緑が何と若々しくきれいなことだろう。
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 空の青と山の緑、雪渓の白。種池山荘の姿が少しずつ大きくなるにつれて、あの尾根を更に進んで行く時に展開するであろう風景に、胸の中の期待は高まるばかりだ。今の気分を音楽で表すとしたら、それはもうこれしかない。エドヴァルト・グリーグ(1843~1907)の組曲『ホルベアの時代より』のプレリュードである。その躍動感溢れる弦楽合奏が、晴れた夏の日の北アルプスにぴったりのイメージなのだ。
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(尾根の上に種池山荘が見える)

https://www.youtube.com/watch?v=aCFN3058jzM

 やがて山道は爺ヶ岳(2670m)へと向かう尾根の西斜面をトラバースするようになり、緩やかながらも着実に高度を上げて行く。途中、南北に走る小さな尾根が近づくと種池山荘は一度姿が見えなくなるのだが、その尾根を巻きながら一登りすると、その小屋はあっけないほど近くに現れた。
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 9時37分、種池山荘着。9時を過ぎたあたりから山のあちこちでガスが湧き始め、種池山荘からは爺ヶ岳が見え隠れしている。そして足元ではチングルマの穂が朝露に濡れていた。
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09:55 種池山荘 → 11:37 岩小屋沢岳 → 12:23 新越山荘

 柏原新道は、上りも下りも登山者が多いが、その殆どはこの種池山荘から主稜線を北東へ、鹿島槍ヶ岳(2889m)、或いはそれを越えて五竜岳方面の山々を目指す人々だ。五竜も鹿島槍も百名山の一つだから、それも道理である。その一方、私たちが今日これから主稜線を南西へと向かうコースは、登山者の数がぐっと少ない。実際に種池山荘から歩き始めてみると、何やらローカル線に入ったような気分になる。だが、このコースを一度歩いてみたいと私は長年思い続けてきた。それが今日まさに始まろうとしている。
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(種池は実に小さな池だ。)

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 それにしても、なだらかな尾根道だ。それも両側が多くの草に覆われ、実に多彩な高山植物の花が咲いている。山の尾根というよりも、ちょっとした草原といった方がいいかもしれない。しかも、100%の快晴よりも、今日のように時としてガスに煙るような風情が、この山域には相応しい。
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 種池山荘から40分ほども歩いた頃だろうか、尾根沿いの山道が少しずつ黒部側へと寄り始め、右手に鹿島槍ヶ岳が大きく聳える箇所があった。鹿島槍というとあの独特の形をした岩だらけの双耳峰がトレードマークだが、ここから眺める鹿島槍は実に緑豊かで穏やかだ。
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 そして次の瞬間に、私が心待ちにしていた景色が目の中に飛び込んできた。山道が黒部側に完全に寄ったために、黒部峡谷を隔てた向こう側に立山剱岳が姿を現したのだ!
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 鮮やかな山の緑の彼方に連なるこの立山と剱の瑞々しい青を、いったい何と表現したらいいのだろう。この森にもあの山にも、そして流れていく霧の中にもきっと神様がいる。日本人ならば何の疑いもなく、誰もがそう感じることだろう。足を止めて、いつまでも眺めていたい風景だ。今日はやはりここへやって来てよかった。

 先ほどの『ホルベアの時代より』のプレリュードに続いて、私の中では第二曲のサラバンドが流れ始めた。ゆったりとした弦楽の響きが深い森の中を思わせる。その曲想に合わせるように、穏やかな山道はそれからも続いた。

https://www.youtube.com/watch?v=y1_WqkRS95U

 種池山荘から歩くこと約1時間40分。なだらかな道なので途中で休むこともせずに、私たちは本日最高地点・岩小屋沢岳(2630m)の静かな山頂に着いた。その間、すれ違った登山者は4~5人ほどだっただろうか。下界から種池山荘までの、柏原新道のあの盛況ぶりとは実に対照的。こんなに素晴らしい展望に恵まれて花も多いのに、なぜ登山者がこれほど少ないのか、本当に不思議なことだ。
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 ここまで来れば、本日の目的地・新越山荘までは1時間もかからない。前夜の寝不足や朝の最初のピッチの暑さ、入山初日ゆえの荷物の重さなどもあって、私たちには相応の疲労感があったのだが、穏やかな山並みや足元に咲き乱れる山の花に励まされながら歩き続けた。
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 12時半少し前に新越山荘に到着。小さいながらもなかなか好感の持てる山小屋だ。宿泊の受付を済ませ、H氏が持ってきてくれた小屋への差し入れを渡すと、逆に缶ビールを頂戴することになってしまい、恐縮至極。ともかくも部屋に荷物を入れ、飲み物・食べ物を持って小屋の外のベンチへ。次々に上がってくるガスのために針ノ木谷方面の眺めはないが、一緒になった登山者たちとも話が弾み、アルコール類のおかげですっかりいい気分になって、私たちは午後の一時を過ごした。

 私たちもそうだが、小屋に無事到着したことを皆がそれぞれ家族にメールで報告すると、
 「都会は暑くて死にそう!」
という答えがそれぞれに返ってくるようだ。それに引き換え、私たちは標高2465mの涼しい風に吹かれつつ、昼間から酒を飲んでいる。何と罪作りなことだろう。(笑)

 その後、15時頃から部屋で一眠りすることにした後、17時から夕食。そして就寝の仕度をしていた頃、談話室の窓を開けると、再び素晴らしい光景に出会った。午後も盛んに湧き上がっていたガスが下に降りて雲海のように黒部の谷を埋め、日没後の最後の残光の中に剱岳がそのシルエットを見せていたのだ。
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 今日一日、山や谷、そして深い森の様々な表情を私たちに見せてくれた山の神様に感謝を捧げつつ、そして明日眺めることが出来るであろう山々の姿に期待を膨らませつつ、私たちは小屋の煎餅布団の上でそれぞれに眠りに落ちていった。
(To be continued)

変わらずにいること - 丹沢・塔ノ岳 [山歩き]

 
 山道を登り始める。

 ゆっくりと歩みを進めるたびに、登山靴の底から伝わってくる土と岩と木の根の感触。鼻をくすぐる草の匂い。近くを流れる沢の水音。そして頭の上には深い森の緑と夏空の輝き。それらの全てが、何と懐かしいことだろう。
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 7月11日(土)の早朝、山仲間のH氏と私は久しぶりに丹沢にやって来た。小田急線の渋沢駅に7時前に集合し、タクシーで県民の森へ。そこから歩き始めて小丸尾根を登り、塔ノ岳(1481m)までのコースを歩いて足慣らしをするつもりだ。

 梅雨の季節だけあって、このところの天気は傘マークばかり。それが、この土日は台風の影響で梅雨の時期の気圧配置が一時的に崩れ、西日本は雨だが関東地方は夏空が広がって暑くなるという。そんな予報が出て山へ行こうという話がH氏とメールのやり取りで決まったのは、前日の金曜日のことだった。
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 小丸尾根を登る。7時40分過ぎにこの尾根に取り付いてからまだいくらも経たないのに、私たちは早くも汗まみれだ。天気予報の通り、朝からどんどん気温が上がっているようで、湿度も高く、おまけに森の中は風が吹かない。扇子を持って来なかったことが悔やまれるが、この暑い季節にそういう忘れ物をするあたりが、自分でもブランクを感じるところだ。何しろ3月の中旬に釜トンネルから雪を踏んで上高地を訪れて以来、私にとっては実に4ヶ月ぶりの山歩きなのだ。こんなにブランクが空いてしまったのは、直近6年間にはなかったことである。
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 思えば、この4月からはずっと仕事が忙しかった。週末にかかる出張も多く、5月の連休も殆どをそれに費やしてしまった。加えて、自宅マンションの管理組合の関係で引き受けざるを得ない仕事が増え、週末も何かと時間を取られている。そんな訳で、今年は山の新緑を眺める機会もないまま、気がつけば今はもう梅雨の末期だ。いつもの山仲間たちにも不義理が続いている。

 汗を拭き、水分を補給しながら山道を歩き続ける。塔ノ岳への登山道は何と言っても大倉尾根がメジャーで、上り下りの登山者も多いのだが、かなり人の手が加えられていて木道や石段などが多く、有り体に言えばあまり風情がない。それに対して小丸尾根はもっと素朴な登山道で、登山者もずっと少なく、ひっそり感がある。そして、同じ高度を稼ぐにしても、小丸尾根の方がはるかに歩きやすいのだ。

 足元に姿を見せた山のキノコ。木漏れ日に輝く鮮やかな緑。鳥のさえずり。樹林の中の黙々とした登りだが、そんな山道を愚直に歩いて行くことの楽しさ、何よりも山の中にいることの幸せを、改めて思う。
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(タマゴタケ)

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 登山道入口から一時間足らずで、「小丸まで1,000m」の標識に到着。そこからは山道が尾根の左側に出る時に鍋割山稜の一部が見える。上空はよく晴れているのに沢筋からどんどんガスが上がるという、丹沢特有のパターンが今日も始まっていて、山は白い世界の中だ。それでも、カンカン照りの中を登るよりはいいだろう。
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 更に一時間ほど登って、9時40分頃に小丸に到着。ガスに包まれて遠くの展望はないが、そのガスが少しの間だけ晴れた時に、夏の濃い青空がのぞいた。あたりの若々しい緑との鮮やかなコントラストが、やはり7月の山だ。
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 鍋割山稜の上に出たので、山道の傾斜は緩やかになった。丹沢では植生保護のために木道が整備されている箇所が多いのだが、この尾根道もその一つである。
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 20分ほど歩くと、右側から登山者の声が聞こえてくる。大倉尾根との合流地点・金冷シだ。このあたりからは左手に丹沢の最高峰・蛭ヶ岳(1673m)が見えてくる。目的地の塔ノ岳の山頂まで残り20分ほど。そして最後の階段状の登りをひと頑張りして、ちょうど10時半に私たちは塔ノ岳に着いた。

 小丸尾根登山口からここまで、標高差1,200mほどの登り。4ヶ月のブランクを埋める足慣らしとしては骨のあるコースで、足が攣ったりしないか心配がなくもなかったのだが、まずは順調にここまで来ることができた。それに、昨日一日晴れていたので、山道が思っていたほどぬかるんでいなかったのも幸いだった。
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(塔ノ岳頂上から眺める蛭ヶ岳と不動ノ峰)

 丹沢の「丹」は、古朝鮮語で「深い谷」を意味するという。そして沢はまさに谷を刻む渓流のことだから、丹沢という名前は山の尾根の形よりも谷の深さに注目した地名だと言えようか。確かに丹沢は昔から沢登りのメッカで、私の高校時代には今頃の季節になると山岳部で沢登りの日程が必ず組まれていた。そして、丹沢の勘七ノ沢などの遡行をしたものだった。

 晴れれば暑くなる今頃は、冷たい沢の水を浴びながらの遡行は涼しく、大きな荷物を背負っていないから体の動きも軽快で、実に楽しいものだった。何よりも、岩登りの基礎を先輩方から教わったのは、当時の自分にとっては実に新鮮なことだったのである。

 そうやって沢を詰め、最上部の草付を慎重に登り、花立あたりで尾根に出て昼食。その時も、丹沢ではあちこちの谷からガスがムクムクと湧き上がり、今日のような眺めが広がっていたことを、おぼろげながらも今思い出している。あの頃からもう40年余り。還暦の一歩手前になった私自身は、当時から変わった部分とちっとも変わらない部分とが斑(まだら)模様なのだが、少なくとも塔ノ岳から眺めるガスの中の丹沢は、少しも変わっていないのではないだろうか。
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(ガスが湧く鍋割山稜)

 11時10分、昼食休憩を終えて、私たちは大倉尾根の下りに取り掛かる。先ほどの金冷シまで戻って大倉尾根に入ると、稜線が痩せた「馬の背」では知らない間に岩場を迂回する木道が設置されていた。この尾根はとにかく登山者が多いから、安全のためにはこうした手当てが必要なのだろう。
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 塔ノ岳から30分も下ると花立山荘に着く。周辺のベンチは多くの登山者で満席だ、このあたりはカンカン照りになると上りも下りも辛い所だが、幸いにして今日はガスが強い日差しを遮ってくれている。それでも私たちは汗でびっしょりだ。

 木の階段の多い大倉尾根だが、ここから堀山の家までの間には小さな岩がゴロゴロしていて荒れ気味の箇所がしばらく続く。これだけ登山者が多いにもかかわらず、大倉尾根は何だか歩きにくい。昔のボッカ訓練のイメージが残っているからか、自分の中で大倉尾根のイメージが何十年経ってもいっこうに改善しないのは、残念なことだ。

 それはともかく、12時10分に堀山の家に到着。実は、大倉尾根の下りはここからが長く、まだあと1時間半ほど歩かねばならない。そして、この時間になっても塔ノ岳を目指して登って来る登山者と頻繁にすれ違う。

 高度が下がると、その分だけ暑さが増してくる。行動中に補給した水分は全て体の外に出て行ってしまった感じだ。大倉尾根の最後の部分はいささか飽きてしまったが、足が攣ることも膝が痛くなることもなく、13時50分に私たちは大倉バス停に到着。まずは、失われた水分を別の飲み物で補給することにした。
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 元気を取り戻した私たちは、タクシーで渋沢方面へ。スーパー銭湯で汗を流した後、渋沢駅北口近くの路地裏の店で更に一杯やることになった。

 私たちの学生時代は、小田急の渋沢駅は今のような立体構造ではなかったし、そもそも大倉行きのバスは南口から出ていた。(その頃に北口があったのかどうかは覚えていないが。)下山後にビールを飲むこともなく、新宿行きの電車に乗ったら最後、汗くさい姿のままひたすら眠りこけていたはずだ。

 それから思うと、今日の私たちは、少なくともこんなバス・ロータリーなどなかった北口の路地裏にある居酒屋で、風呂上りの爽快さを体一杯に感じながら、よく冷えた秦野の地酒を楽しんでいる。時代は変わったものだ。それだけに、今日歩いた丹沢の山々が昔とちっとも変わらずにいたことが、妙に嬉しかった。

 冷奴やおしんこをツマミに四合瓶を空けた後、H氏と駅の改札口で別れ、私は上り線のホームへ。その時、小田急ロマンスカーのLSEが下り線を通過して行った。東京五輪の前年に登場して一世を風靡した小田急NSE。そのスタイルをしっかりと受け継いだのがこのLSEである。そのレトロな車体が、初めて丹沢を歩いた高校時代を再び思い出させてくれた。
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 今日の山歩きのフィナーレに、神様は粋な計らいをしてくれたものである。

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