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備忘録 (3) [自分史]


7月14日(土) 暑い夏

 関東甲信地方についていうと、今年(2018)年は「6月6日頃に梅雨入りした」との気象庁発表から4週間足らずで、「6月29日(金)頃に梅雨が明けた」との宣言がなされた。要するに7月を待たずに梅雨が明けた訳で、その早さは史上1位タイの記録だそうである。

 とにかく暑い夏になった。当時の気象データ(毎日の平均気温)を改めて眺めてみると、東京都心では6月半ばの10日間ほどを除いて、6月・7月は略一貫して平均気温が平年より高かったのだ。毎日の平均気温の5日移動平均を平年値と比べてみると、6月の平均は+0.5℃だが7月は+3.3℃にもなっている。
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 そして東京都心の最高気温がこの夏初めて35℃を超えた7月14日(土)、この日の最高気温が「観測史上1位」または「7月として1位」を記録した観測地点が日本各地で続出。気温を表す気象庁の地図グラフは真っ赤になった。
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7月21日(土) 江戸の夏色

 「朝顔市・ほおずき市」と言えば夏の代名詞。東京・文京区の伝通院では、その広々とした境内で朝顔市が、そして坂道を降りた源覚寺(通称・こんにゃくえんま)では、猫の額のような敷地の中でほおずき市が行われる。例年なら梅雨明け前後のタイミングになるのだが、今年は7月を待たずに梅雨が明けてから既に三ヶ月が経過。35℃近くになる日が何日も続いて、もうとっくに8月を迎えたような気分。それでも朝顔の涼しげな藍とほおずきの鮮やかな朱は、いずれも江戸の夏の色。これを眺めてちょっと気分を換えるのはいいものだ。
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8月14日(火)~17日(金) 田んぼと里山

 暑い夏だが、今年は仕事の関係で会社のお盆休みの間も工場へ出張。外国人技師を交え、設備メンテナンスの作業をサポートすることに。

 工場から車で10分も走れば、周囲は自然色豊かな田園風景。東北地方も暑い夏の日が続いたようだが、青々とした水田とその向こうに見え隠れする里山の眺めは、なぜかとても懐かしい。「日本むかし話」にでも出て来そうな、こんな風景に囲まれて数日を過ごしただけで里心がついて、東京に帰るのが何だか勿体ない気になってしまうのだから、人間とは不思議なものである。
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8月24日(金) SL大樹

 ちょっとした出張で朝から栃木県の日光市へ。午後に本社で会議があったので、文字通りトンボ帰りの出張だったのだが、現地での用事を済ませて東武日光線の下今市駅に戻った時、前年から運行が始まった「SL大樹」がちょうど到着したところだった。
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 これは全くの偶然で、こんな列車があることも認識していなかったのだが、何という幸運か、山陰本線の長門市駅から運んできたという転車台に乗って向きを変える蒸気機関車C11をじっくりと眺めることが出来た。
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 以前の会社の上司だった「鉄ちゃん」にメールをしたら、「下今市へ出張だなんて、出来過ぎだろ!」と言われた。
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8月25日(土) ダイヤモンド雲取山

 土曜の午後の散歩の仕上げに文京シビックセンター25階の展望台へ。西の空が晴れていて、シルエットになった山並みの向こうに日が沈む様子を眺めていた。

 日没の方角から考えて、何となくそうではないかなと思っていたのだが、帰宅してからPCソフト「カシミール3D」で調べてみたらドンピシャリ、その日はシビックセンターから見て奥多摩の雲取山(2017m)の山頂に日が沈む、言わば「ダイヤモンド雲取山」の日だったのである。
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 以前にも西新宿の東京都庁からダイヤモンド富士を眺めた時に、太陽が山頂にさしかかった次の瞬間にその光が上下二筋に分かれることを知ったのだが、それと同じことが雲取山の場合にも見られた。
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 太陽と山が織りなす束の間のドラマ。ちょっといいものを見させてもらった。
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9月3日(月)~8日(日) ドイツ出張

 現地の設備メーカーとの打ち合わせのため、工場の若手3人を連れてドイツへ出張。空路でデュッセルドルフに入った後、イーサーローンという小さな街で3日を過ごす。日本では台風21号が西日本を縦断し、また北海道で大きな地震が起きた、ちょうどその頃だった。
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(デュッセルドルフの繁華街。ヨーロッパはどこかのんびりしている)
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(ホテルの屋上から眺めるイーザーローンの街)
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(イーザーローンは人口6万人の小さな街)

 今回連れて行った3人の若手(よく考えてみたら、彼らと私は30年近く年が離れている!)の内の2人は、そもそも海外へ行くこと自体が初めて。地方に生まれ育ち、地元の学校を出て直ぐにモノ作りの現場に入り、ずっとそこでやって来た人達だから、自分に海外出張の役目が回って来ることなど想像もしていなかったことだろう。けれども彼らは私が思っていた以上に外国という環境にもスムーズに順応し、何よりも現地での仕事には終始目を輝かせながら一生懸命取り組んでくれた。そのことが私には一番嬉しかった。
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(私たちが訪れた現地の設備メーカー)
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(訪問先の社食)

 滞在中に現地の設備メーカー2社を訪れ、一緒に作業をした、その経験は彼らにとってきっと大きな糧になることだろう。日本のモノ作りの将来を担う若い世代。これからも世界を自分の目で見る経験を出来る限り積ませて上げたいと、心からそう思っている。
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 最後の仕事が終わった金曜日の夕方は、ケルンの大聖堂を見学し、土曜日は夜のフライトまでの間、デュッセルドルフの旧市街をゆっくりと見て歩いた。若手3人の爽やかな笑顔が私にとっての励みになった、心に残る出張であった。
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9月19日(水) 安全祈願祭

 二週間前にドイツへ出張して、現地の設備メーカーと具体的な打ち合わせを重ねた、そのことと関連するのだが、発注して来年やって来る設備を据え付ける、その事前準備のための色々な工事がこれから始まる。それに先立ち、地域の八幡神社から神主さんに来てもらい、工場内の一角で安全祈願祭を執り行った。
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 神主さんが祝詞を上げ、私も「玉串奉奠」を行う。神棚の向こうにおわすのは何という名の神なのか、その名前も存じ上げないけれど、その神に頭を下げ、柏手を打って工事の安全を祈願。でも日本の神さまは一神教のように全知全能の神ではないし、教義もなければ修行もない。我々からすれば救済を求める相手では決してないのだが、その代わりに、私たちが誓いを立てたことをきちんと実行しているか、日頃からお天道様に恥じない生き方をしているか、目には見えないけれどそうしたことをいつも見守ってくれる神さまなのだ。
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 だとすれば、今日の安全祈願祭とは工事を安全に進めることを我々が神さまに誓う場であり、そうであればこそ、それらの工事の安全を実現してく主体は外ならぬ私たち自身なのである。

 「ご低頭ください」という声に従って神さまに頭を下げ、祝詞を聞く私たちの胸の中はこれからの抱負に満ちている。この国に生まれ育ってよかったと、心の底からそう思った。

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備忘録 (2) [自分史]


 諸般の事情で今年(2018年)の4月15日以降6ヶ月にわたって中断していたこのブログ。前回記事にて予告した通り、その間の出来事をごく簡単なダイジェストの形にして、備忘録の代わりとしたい。

4月22日(日) 奥多摩・浅間嶺

 中学・高校時代の同級生たちをはじめとする総勢6名で奥多摩の浅間嶺(せんげんれい、903m)へ。この山には何度も登ったが、新緑の季節は特に素晴らしい。
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 それぞれのメンバーにとっても久しぶりの山歩きだったので、武蔵五日市駅からタクシーで峠の茶屋まで上がり、浅間嶺のピークから浅間尾根を経て数馬の湯までののんびりハイキング。穏やかに晴れ渡った春の一日、奥多摩の山の良さを改めて満喫。還暦から2年を過ぎた私たちには、だんだんとこうした山が身の丈に合って行くのだろう。
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5月2日(水) 変わり続ける渋谷

 連休の間の工事で東京メトロ銀座線・渋谷駅手前のガードで線路の付け替えが行われるというので、風景が変わってしまう前に現地を撮影。
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(工事の後は、左に用意された線路を走るんだろう。) 

 渋谷駅前というと、長い工事が昔からつきものだったが、今もまた大規模な工事が続いている。私が子供の頃、1964(昭和39)年のオリンピックで渋谷の街はその様相が大きく変わったが、2020年の次回オリンピックを前に、またその姿を変えようとしている。まあ、この独特のカオスが渋谷の魅力の一つでもあるのだけれど。
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5月5日(土) 都留市・高川山

 四連休後半の土曜日。あまりに天気がいいので、富士山の眺めを目当てに山梨県都留市の高川山(976m)へ単独行で出かけることにした。
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 昨年の4月25日に膵臓がんの手術を受けてから1年。高尾山へのリハビリ登山も含めて、日帰りの山歩きはこれで5回目だが、ソロで行くのは初回。そのことには家内も相応に心配していたのだが、今までに何度も歩いたことのある山で、転がり落ちるような箇所もなく、登山者も相応にいる山だからと説明。私自身もここで事故を起こして人様に迷惑をかける訳にはいかないので、低山といえども慎重に歩いた。
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 楽しみにしていた富士の眺めは申し分なく、緑のシャワーを浴びているかのような爽やかな登山道が、強く印象に残った。
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5月20日(日) 初夏の都心

 実家の母親が5月の初めに骨盤を骨折。連休が明けてからようやく入院する病院が決まり、暫くは母の見舞いが続く。風薫る5月。病院は麻布十番からほど近く、週末の見舞いの帰りに家内とグラス一杯のスパークリング・ワインを楽しむ機会も出来た。
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 母もこの秋には87歳。実家での一人暮らしはさすがにもう無理だ。妹の一家とも話し合いながら、その後の週末は老人ホームを見て回ることが続いた。春先から気温が高めの今年。街中では例年より早くツツジが咲き終わり、いつの間にか紫陽花の季節になっていた。
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6月2日(土) 戦艦三笠

 海軍記念日から一週間遅れで横須賀の戦艦三笠を見学。朝から天気晴朗にして波穏やかな、見事な五月晴れで、三笠の威容と海軍旗の鮮やかな紅白が青空によく映えていた。
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 日清戦争の後、来るべきロシアとの対決を念頭に艦隊の近代化を図るべく、1898(明治32)年9月に英国ヴィッカース社に発注された三笠。それは建造に2年半を要し、1902(明治35)年3月に英サウザンプトン港で日本海軍に引き渡された。アマゾンで物を買うのとは訳が違い、完成した戦艦を日本に送り届けてくれたりはしない。海軍は自分で取りに行く必要があったのだ。

 だから、将官から水兵に至るまでが英国へ行き、自分で操舵して、スエズ運河経由2ヶ月の期間をかけて日本に帰還した。あの時期、水兵に至るまでが自分の目で外国を見て来たというのは、実に貴重な体験であったことだろう。
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 三笠はその翌年に連合艦隊の旗艦となり、更にその翌年の1904(明治27)年2月には、遂に口火を切った日露戦争において旅順口攻撃に出動している。バルチック艦隊を撃破したあの日本海海戦がその翌年の5月27日であったことは言うまでもない。つまり、戦艦三笠は日本に運ばれてからこんなスピード感を持って実戦で活躍するまでになったのである。
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 三笠の艦内を見て歩き、艦橋に立ってみると、「坂の上の雲」ではないけれど、明治維新からまだ40年も経っていない小さな日本がこのような戦艦を駆使してロシアと対決したことに、改めて大きな感慨を持たざるを得ない。明治の人は、やはり偉かった。
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 それに引き換え、戦艦三笠を見学した今年の6月2日というと、国内では例の「モリカケ問題」の追求に野党もマスコミも血眼になっていた。海の向こうでは米朝開戦も止む無しかと言われるほど北朝鮮問題がエスカレートする中、シンガポールでの米朝首脳会談がセットされ始めた、ちょうどそんな頃だったというのに。

 世界の情勢がこんな時に、国会で延々と時間を使うべきことは「モリカケ」なんかじゃないだろう。戦艦三笠の艦橋の上で、私は心の底からそう思ったけれど、少し冷静になって考えてみると、日露戦争の「成功体験」が全てではないし、むしろそれに対する過度な礼賛がその後の日本の進路を誤らせたことも事実。現代の我々はその歴史を踏まえ、なおかつ現代の視点もしっかりと持って、この国の将来のことをもっと真面目に考えよう!
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7月7日(土) 三線軌条

 品川から金沢八景を経由して新逗子まで京急を利用する機会があり、京急逗子線の「三線軌条」を初めて見学。要するに標準軌(1435mm)と狭軌(1067mm)の各電車を相乗りさせるために、片方のレールを共用にして計3本のレールが敷かれた区間のことだ。
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(神武寺駅の品川方。分岐器から向こうが三線軌条)

 昭和23年、戦時統制下の産物だった「大東急」から小田急・京王・京急が分離するのと前後して、横浜市金沢区の旧海軍工廠の跡地に東急が車両工場(現・総合車両製作所)を建設。東急は狭軌だが工場の目の前の京急は標準軌であるために、そこから京急新逗子線を経由し、神武寺駅の手前で分かれてJR横須賀線(狭軌)の逗子駅に至る専用線を敷設するという事情があった。その専用線と京急新逗子線が重なる区間が三線軌条なのである。
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 金沢八景駅のホームから眺めてみると、新逗子線から京急本線へと至る標準軌の線路と、三線軌条のまま車両工場へと至る線路とを切り分ける分岐器が複雑な構造をしていることがわかる。
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 更には、途中の六浦駅で標準軌の京急の車輛が停車した時にホームとの間隔が空き過ぎないよう、それまでは一番ホーム寄りのレールを狭軌と標準軌の共用レールにしていたのを、六浦駅の前後だけはホームから一番遠い線路が共用レールになるように狭軌の電車を誘導する装置が設置されている。
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(六浦駅の品川方。狭軌の電車を線路の左寄りから右寄りに誘導する装置)

 こんな風に工夫が必要な三線軌条。それは首都圏では京急逗子線だけでしか見られない。何につけても実物を見るというのは興味深いものである。
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備忘録 (1) [自分史]


 今年4月15日付で記事をアップして以降、新たな記事を掲載することなく既に半年が経過してしまった。

 その間、どうしても書けない事情があった訳ではないし、書くことがなかった訳でも全くない。

 確かに会社の仕事は前年度よりも忙しさを増していた。素材メーカーである私の会社が、将来に向けて或る大きな決断を下し、中小企業としての会社の身の丈との比較では随分と大きな設備投資を行うことになった。今年の春先はその意思決定の最中にあり、契約を締結して夏前からはそのプロジェクトが実際に動き始めたため、立場上かなりの時間を取られたのは事実である。

 もう一つには、年老いた母をこれ以上都内の実家に一人にさせている訳にいかなくなり、いわゆる老人ホームに入居してもらうためのプロセスに、真夏頃まで殆どの週末の時間を充当せざるを得ないという事情があった。これも致し方ないことだ。私と同じ年恰好なら、多くの方々にも同様の経験があることだろう。

 他方、自分の健康状態はというと、昨年の4月25日に受けた膵臓がんの手術から、早いもので一年が経過していた。昨年末に抗がん剤の服用(いわゆる化学療法)が終了してから半年が経った今年6月21日に、主治医による初回の経過観察を受診。幸いなことに「がんの転移は無し」、「特段心配な点も見られない」との所見をいただき、もちろん手術以前よりも生活態度を改めてはいるが、日常生活には特段の制約もなく、普通の生活を送っていた。手術を受けたばかりの昨年の同時期には、その「普通の生活」に戻ること自体が想像も出来なかったのだから、何と幸いなことだろう。
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 とはいうものの、病気をする以前のように物事に全力疾走をすることには、自分の中にまだためらいがあった。手術を受けた後の初回の診察の中で主治医から言われた、
「これからは十分な睡眠を取ることと、ストレスを溜めないことを約束してください。」
という言葉が、ずっと頭の中を離れずにいたのだ。虚心坦懐に振り返ってみれば、昨年の初めまでの私は、会社の仕事、我ながら目一杯取り組んでしまった自宅マンションの管理組合の仕事、そして実家対応などに追われ、無意識の内に自分の中にストレスを溜めこんでいたかもしれない。

 もちろん管理組合の理事からは昨年の手術の前に退任させてもらったが、会社の仕事が以前よりもずっと忙しくなった今、自分の生活に少しブレーキをかけるとしたら、それはブログを書くのをしばらく止めることだった。

 更にもう一つ言えば、ちょっとした事情があって友人から求められ、今年の年初からfacebookを始めたことだ。最初は勝手がよくわからなかったが、「習うより慣れろ」で始めてみると、友人たちとの間で素早く情報を共有するにはかなり手っ取り早いツールであることがわかった。もちろん写真なども掲載できるので、色々な反応が結構ビビッドに返って来る。それが結構面白くもあり、自分の身の回りのことを書き留める手段として、いつの間にかfacebookが主役に踊り出ていた。
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 そうなのだが、私は次第にfacebookの限界を感じるようにもなっていった。コミュニケーション・ツールとしては確かに手っ取り早いけれど、そこで交わされる内容はいささか底の浅いものであることが多い。「今どこで何を食べてる」的な話は私の好むところでもないし、かといってあまり長文のやり取りには馴染まないツールだ。例えば或る本を読んだり、或る絵画に出会ったりした時に、自分にはどんなことが印象に残り、どんなことを感じて、更に何をどう考えたのか、そうしたことをある程度以上のボリュームの文章にまとめるには、facebookはあまり適していないと言わざるを得ない。

 普段の生活の中には、刹那的な思いや出来事がたくさんあることは事実で、それを他人とやり取りすることは結構なのだが、還暦を過ぎた私にとっては、色々な物事に出会った時に自分が何をどう考えたのか、その記録を残しておきたいという思いの方が遥かに強い。そうしておかないと記憶はどんどん薄れてしまうからだ。

 そんなことから、自分としてはやはりfacebookとブログを使い分け、自分史的に書き留めておきたいことを取捨選択して、やはりブログと向き合って行かねばならないと思うようになった。

 まずはこの6ヶ月のブランクを埋めることから始めねばならない。それこそfacebook的に、貼り付けた写真にちょっとしたコメントを加えるだけになってしまうだろうが、次回の記事でその6ヶ月の埋め合わせをすることにしたい。
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続・冬は北へ (3) 津軽鉄道 [自分史]


 1月22日(月)、青森県・大鰐温泉の朝は氷点下13度まで下がった。

 「この冬一番の冷え込みです。こっちの気候に慣れてる筈の私でも、今朝は『うわぁ、寒っ!』って思いましたもの。」

 ホテルのフロント係の女性が肩をすくめながらそう言って笑った。朝8時に迎えを頼んだタクシーは、後部トランクが凍結して開かないと、ゴマ塩頭の運転手さんが四苦八苦している。移動性高気圧は東へ去ったが、オホーツク海と日本海中部にそれぞれ低気圧があって、東北地方の北部は緩い気圧の尾根が東西に延びた形になっているため、夜は晴れたのだろう。それが放射冷却をもたらしたという訳だ。ホテルのロビーから眺める池も、今朝は完全に凍りついている。

 折角のリゾートホテルだから朝はゆっくりしたかったのだが、今朝は弘前発08:49の快速「リゾートしらかみ2号」に間に合うように、ホテルを出なければならない。朝食は少し急ぎ足にならざるを得なかったのだが、その代わりに神様からの素晴らしいご褒美があった。タクシーが大鰐温泉の中心部を抜けて国道7号に入り、岩木川の支流が造る狭い谷から津軽平野に出ると、津軽の名峰・岩木山(1625m)の大きな姿がフロントガラス一杯に広がったのだ。しかも、山頂までくっきりと見えている。
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 厳冬のこの時期に何という幸運。昨年の一月下旬にも家内と私は弘前を訪れているが、その時の岩木山にはガスが終日かかり、中腹から上は見えなかった。それだけに、今日のこの眺めには大感激だ。

「この山が風を防いでくれるから、津軽には米もリンゴも育つんですよ。」

 タクシーの運転手さんは、そう語る。津軽平野の西に忽然と盛り上がったような岩木山。周囲には他に高い山がないため、その裾野の広がりの優雅さがひときわ印象的だ。30万年前頃から噴火と山体崩壊を繰り返し、現在のスカイラインが形成されたのは1万年前頃のことだそうだ。いつまでも眺めていたい山である。

 予定通り8時半過ぎには弘前駅に到着。駅のコインロッカーに荷物を預け、私たちは五能線を走る「リゾートしらかみ」に乗車。40分足らずで五所川原に着いたら、そこから私鉄の津軽鉄道に乗ることにしている。タクシーの中からはあれほどすっきりと見えていた岩木山の山頂は、列車の中からその姿を追いかけた時にはもうガスの中だ。やはり、山というのは朝早くに眺めるべきものなのである。

 その岩木山の山裾を見つめ続けているうちに、間もなく五所川原に到着する旨の車内放送が流れた。先頭車両に乗っていた私たちは、運転席の右側の窓から正面を凝視。ゆっくりと近づいて来た五所川原駅の構内は、何とも懐かしい昭和の雰囲気に満ちている。
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そして、ホームに降り立つと、跨線橋の向こうの津軽鉄道の小さなホームには、お目当てのストーブ列車が私たちを待っていた。
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 左から、ディーゼル機関車DD350、客車のオハフ33、津軽21型気動車、そして最後部になぜか雪かき車キ100の姿が。機関車の左に見えている古い気動車は、既に廃車になって留置線に置かれている旧国鉄のキハ22である。(昨日乗って来た秋田内陸縦貫鉄道を走っていたこともあったそうだ。)

 この編成の中で、客車には2台の石炭焚だるまストーブが暖房用に設置され、冬の風物詩として観光客の人気を集めている。(但し、乗車には400円のストーブ券が必要だ。) 平日にもかかわらず、今日もこの客車の席がほぼ埋まっている。そんな中で私たちがストーブの近くに席を取ると、先ほどまで乗って来た五能線の「リゾートしらかみ」が、秋田を目指して発っていった。
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 9:32 津軽中里行きのストーブ列車は定刻に発車。2台のだるまストーブのおかげで、車内は暖かい。同乗している女性アテンダントによる沿線の観光案内が早速始まると共に、ワゴンによる車内販売も同時にスタートした。言うまでもなく、車内で楽しむ酒やスルメ、そして津軽鉄道グッズなどの販売である。
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 そこで買い求めたスルメは、もちろん車内のストーブで焼いてくれるのだが、女性アテンダントは実に手際よくそれをこなしている。私たちを含めてかなりの乗客が途中の金木駅で降りるので、乗車時間は30分足らず。その間に次々とスルメを焼くのだから彼女は結構忙しいことになる。

 僅かの時間ではあるが、それでもこのスローでレトロなストーブ列車に揺られ、スルメをかじりながら常温の酒で一杯というこの一時は、なかなか得難い経験である。
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 9:58 五所川原から12.8kmを走ったところにある金木駅に到着。ホームの様子は何やら映画「鉄道員(ぽっぽや)」の一コマでも見ているかのようだ。
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 私たちはここで下車し、街の中を700mほど歩いて「斜陽館」を見学。言うまでもなく、太宰治(1909~48)の生家だった旧津島家の大邸宅である。太宰の実父で戦前の衆議院議員も務めた大地主・津島源右衛門が1907年に建てた木造二階建て、入母屋造り、宅地面積が680坪の邸宅で、今は国の重要文化財に指定されている。太宰はここに生まれ、自らが旧制青森中学に進学するまでの間、この家で育てられたそうだ。(上京後は共産党の活動に手を染めたりしたために、彼は郷里から勘当されている。)
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 館内では案内係の男性が30分ほどの時間をかけて一階・二階それぞれの様子を詳しく説明してくれた。或る部屋では太宰の時代のマントを羽織って写真を撮れたりするのだが、ここで冬の今は床が冷え切っていて、靴を脱いで屋敷の中を歩いていると両足が芯から冷えて来る。太宰が暮らしていた当時、全部で19部屋もあるこの屋敷では、一体どれほどの量の薪を燃料に使ったのだろうか。

 この大きな屋敷の中をそれなりにゆっくりと見学させていただき、来た道を通って駅に戻ると、上りのストーブ列車が程なくやって来た。先ほど乗って来た列車が終点の津軽中里で折り返して来たものである。
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 津軽に鉄道がやって来たのは、意外に古い。官営鉄道として奥羽本線の青森・弘前間が開業したのは1894(明治27)年の12月だ。鉄路はそれから南に延びて、1992(明治35)年には秋田に達した。
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 次いで、鉄路は津軽半島地域にも延びていく。1918(大正7)年9月、奥羽本線の川部(弘前から2つ青森寄りの駅)と五所川原を結ぶ私鉄の陸奥鉄道・五所川原線が開業。それは大正時代が終わるまでの間に、日本海に面した鰺ヶ沢まで延伸していた。

 他方、秋田県の能代から海岸線沿いに北上する官営鉄道の能代線の建設が1908(明治41)年から順次進んでおり、1926(大正15)年の暮には秋田・青森両県の県境に近い岩館までが開業していた。そして、国は能代線と五所川原線を一体の鉄道として管理することを企図し、1927(昭和2)年6月に陸奥鉄道を買収。1936(昭和11)年に日本海側で南北の線路が繋がり、ここに現在の五能線が全通することになった。

 この陸奥鉄道の買収に際し、株主たちには当初の出資金の2倍を超える金額が払われたそうだ(額面50円の株式に対して115円!)。だが、昔の人は偉かったと言うべきか、巨額の金を手に入れた陸奥鉄道の株主たちは、「この資金で郷里にもう一つ鉄道を造ろう。」という意見でまとまる。そこで翌1928(昭和3)年に設立されたのが、津軽鉄道株式会社なのである。同社は直ちに鉄道建設に取り掛かるが、岩木川沿いの湿地は地盤が緩く、想定を越える難工事になった。そのためにかなりのコストオーバーランになったようだが、ともかくも1930(昭和5)年11月に五所川原・津軽中里間20.7kmが全通することになった。

 因みに、1930年というと太宰が21歳の年だ。それよりも前、彼は中学入学と共に実家を離れているから、この津軽鉄道開通には縁がなかったことになる。後の1945(昭和20)年に彼が東京から疎開して来た時には、この鉄道に乗ったのかもしれないが。

 こうしてスタートした津軽鉄道。だが、結果的に昭和恐慌の真っ只中で開業したために、当初は業績が振るわず苦労したようだ。地域の乗合バス事業を次々に買収して収入源を確保し、何とか危機を乗り越えたが、色々あって戦後はそのバス事業も手放している。

 金木駅から雪原の中に細々と続く単線鉄道のレール。今から88年前の津軽鉄道の開業時も、こんな風景だったのだろうか。
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 津軽鉄道が公表している直近の財務諸表は2年前の2015年度のものだが、それによると鉄道事業は▲25百万円の営業赤字。これに対して15百万円ほどの補助金を得ているが、最終損益は▲5.3百万円の赤字である。バランスシートには▲65百万円の累損を抱え、純資産は36百万円だから、このペースで赤字が続くと、7年後(→現時点からは5年後)には債務超過に陥ってしまうことになる。

 五所川原駅ではJRから津軽鉄道に乗り換える際にも跨線橋に改札口がないから、そうした乗客に対しては車掌が車内で改札を行っている。その際に使われるのは、乗車駅と降車駅の欄に車掌がハサミを入れる、昔懐かしい補助券だ。そして有人駅で発売する切符は、これまた昔ながらの硬券である。かつて鉄道が開通した頃から殆ど何も変わっていないようなこうした姿は、私たちからすればいつまでも残して欲しいと思うが、ビジネスの現状を見る限り、よほどの観光需要に支えられない限り、存続は非常に厳しいのではないか。そういえば、昨日・一昨日と回って来た田沢湖温泉郷や秋田縦貫鉄道がアジアからの観光客を引き付けていたのと比べると、今日は中国語も韓国語もかなり限定的にしか聞こえて来ない。
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 11:29 ストーブ列車での往復も終わり、私たちは五所川原駅に戻って来た。JRに隣接する津軽鉄道・津軽五所川原駅の駅舎は、いたって簡素である。
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 それから私たちは雪が舞う五所川原の中心街を歩き、海産物を扱う市場でゆっくりと昼食。食堂で買った丼飯を魚屋の前に持って行き、好みの刺身を注文するスタイルで、これがなかなかいい。そして、食堂のテレビのニュースでは、予報通り東京で大雪が始まり出したことを頻りに伝えていた。
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 食後は津軽鉄道直営の店でコーヒーを楽しみながら、五能線の列車を待つ。私たちが乗る13:20発の弘前行きが出ると、その次の列車は2時間51分後だ。それもまた、五能線の味わいである。
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 昨年に続いて、今年もまた真冬の東北を家内と旅した。厳しくも美しい自然。人と人の触れ合いの素朴な温かさ。そして、そこかしこに残る懐かしい日本の姿。冬の東北がまた一つ好きになった旅が終わろうとしている。

 川部駅で進行方向が逆になり、列車が弘前へと近づいていく時、窓の外には再び岩木山の大きな姿があった。
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続・冬は北へ (2) 秋田内陸縦貫鉄道 [自分史]


 1月21日(日)、田沢湖高原温泉郷のホテルで朝早く目が覚めた。窓の外は雪が舞っている。家内と私はそれぞれ朝の入浴に出かけ、少しゆっくりしてから朝食へと向かった。家内は昨夜の露天風呂で久しぶりに星空を眺めて楽しんでいたという。そうであれば、ここまでやって来た甲斐があったかな。

 8:30発の送迎バスでホテルを出発。9:00少し前に田沢湖駅に着き、暫くしてやって来た秋田新幹線の「こまち1号」に乗ると、9:34に角館に着いた。「大人の休日倶楽部パス」は新幹線も乗り放題だから楽なものだ。
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 角館では次の予定まで一時間近くの時間がある。今日は曇り空だが風がなく、北国ながらそれほどの寒さは感じない。せっかくだから、観光案内所に荷物を預けて、街中を少し歩いてみよう。家内と私は角館総鎮守の神明社という神社へと向かった。駅からは15分ほどの距離である。
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 中世の時代に角館の中心が今の市街の北部の古城山にあった頃から、その山の鎮守の神として人々に崇められていたというこの社。江戸時代の明暦期に佐竹北家によって現在の場所に移されたという。実際に訪れてみると、天照大神をお祀りし角館総鎮守と呼ばれるだけあって、境内はなかなかの風格を持っている。

 私自身、昨年に膵臓がんを患い、開腹手術や抗がん剤治療という経験をしてからは、家内と二人で神社を訪れることが多くなった。これから先、食生活を含めて健康には十分留意していくつもりではあるが、将来がんの転移が起きるのかどうか、こればかりはまだ何とも言えない。けれども、たとえどんなことがあったとしても、自分の命が続く限りは真っ当に生きて行こう。角館の天照大神にも、そのことを誓った。
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 神明社から角館の武家屋敷街へ向かうように歩いていくと、道の左側に立派な蔵を持つ味噌・醤油の蔵元があった。日曜日の朝10時を回ったところだが、開店しているようなので店内を覗いてみることにした。
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 江戸時代の明暦期以降、角館は佐竹氏の分家・佐竹北家による統治が続いたが、その佐竹北家の初代・佐竹義隣が京都の公家・高倉家からの養子であったことから、角館には多くの京文化が取り入れられ、「みちのくの小京都」と呼ばれるように独特の雅やかな文化が育まれて来た。今回訪れた老舗の蔵元にもクラシックな雛壇が飾られ、生け花も実に立派だ。家内も私も暫くの間、目の保養をさせていただいた。
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 角館には3年前の秋に家内と二人で訪れたことがある。http://alocaltrain.blog.so-net.ne.jp/2015-11-14 あの時に美しい紅葉に包まれていた武家屋敷の家並みは、雪の時期の今はどんな様子だろうか。街の中をまだ歩き続けていたい気持ちも十分にあったのだが、次の列車の時刻が迫っている。私たちは再び駅へと向かった。

 JR角館駅の北側に隣接して、小さな鉄道の駅がもう一つ。その駅舎も「小屋」と呼んだ方がいいぐらいのサイズだ。この角館とJR奥羽本線の鷹ノ巣を結ぶ全長94.2kmの単線鉄道、「スマイルレール秋田内陸線」の愛称を持つ秋田内陸縦貫鉄道である。

 私たちは角館を11:02に出る急行「もりよし2号」に乗るつもりで、「こんな冬の真っ只中にこのローカル線に乗ろうというもの好きなんてそんなにいないよ。」とタカを括っていたのだが、何と改札口の前に行列が出来ていて、しかもここでもマンダリンが飛び交っている。慌てて乗車券を買い求めて構内へ。たった一両のディーゼルカーはほぼ席が埋まり、危うく立席になるところだった。そして、改めて車内を眺め回してみると、乗客の半数以上はアジア系の外国人である。
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 昨日の田沢湖周遊といい、今日の秋田内陸線といい、この時期の日本観光としては相当ニッチな行先である筈なのだが、この盛況ぶり。いやはや、外国人によるインバウンドの観光需要には、私たちの想像を超えたものがあるようだ。

 そもそも日本人の中だって、地元の人々と鉄道マニアを除けば、秋田内陸縦貫鉄道という名前を知っている人はそんなに多くはないのではなかろうか。この鉄道の原型は、旧国鉄の阿仁合(あにあい)線(鷹ノ巣⇔比立内(ひたちない))と角館線(角館⇔松葉)という二つのローカル線である。
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(秋田内陸縦貫鉄道のルート)

 前者は日本三大銅山の一つだった阿仁鉱山から鉱石を運ぶために戦前に建設され、戦後に阿仁合から比立内まで延伸された。そして後者は、もうすっかりモータリゼーションの時代に入っていた1970年に開通し、列車は一日三往復だけという、生まれながらの超ローカル線だった。そして、両者を繋ぐ山岳区間の延伸工事が当時の鉄建公団によって続けられていたのだが、1980年の国鉄再建法の施行によって角館線と阿仁合線の段階的な廃止が決まったことから、鉄建公団の工事も中断。それを地元自治体の出資による第三セクターが引き継いで、JR発足直前の1986年に再スタートしたのが、この秋田内陸縦貫鉄道だ。未成区間が完成して全通したのは1989年4月のことである。

 降雪の中を、たった一両の急行「もりよし2号」は定刻に発車。ディーゼルエンジンの重厚な音を響かせながら、列車は白一色の景色の中をトコトコと走り始めた。乗客はそれを眺め、シンプルに喜んでいる。雪を見ることのない国からやって来た人達には、この北国のいささかクラシックな単線鉄道に乗ること自体が、非日常のわくわくするような体験なのかもしれない。
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 とは言え、この鉄道を取り巻く環境は非常に厳しい。沿線地域は「全国一の高齢化県」といわれる秋田県の中でも有数の高齢化地域だ。旧国鉄から引き継ぐ前年の1985年と比較すると、2010年の時点で沿線の人口は6割近くも減った。その傾向は勿論今も続いていて、それはこの鉄道の輸送実績に直接影響している。
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(秋田内陸縦貫鉄道の一日当り乗客数)

 一日当りの乗客数を月別に見ると、稼ぎ時は例年8~10月なのだが、そこは年々苦戦していると言わざるを得ない。だが不思議なことに12~2月の冬場だけは、少しずつではあるが輸送実績がコンスタントな改善傾向にあることがわかる。乗客の絶対数は年間で最も少ない時期なのだが、その季節の実績が意外と底堅いのだ。それは、例えば今日のような冬場の外国人旅行者によって下支えされていると見ることは出来ないだろうか。1月下旬から2月中旬と言えば、例年旧正月の時期である。

 戸沢という駅を過ぎて全長約5.7kmの真っ直ぐな十二段トンネルを抜けると、阿仁マタギ駅に到着。先ほどのトンネルによって分水嶺を越えたので、ここから先は米代川水系の阿仁川の渓谷を眼下に眺めることになる。両方の窓からの眺めは一段と山深く、雪に覆われたモノトーンの世界。こんな中を単線鉄道がダイヤ通り正確に運行されていることが、何だか不思議に思えて来る。
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 やがて、列車は阿仁合駅に到着。ここで台湾人の結構大きなグループが下車していった。このあたりはかつてのマタギの文化が残る地域。真冬の今はとりたてて景勝地がある訳でもないから、台湾からやって来た人達はきっと何らかの体験型観光を楽しみにやって来たのだろう。

 最近では「地方の活性化のために外国人観光客のインバウンド需要を上手く取り込もう。」ということが良く言われているが、その割には、彼らが日本の何に価値を見出しているのか、どんなことに魅力を感じているのかを、私たちは実のところあまり良くわかってはいないのではないか。今日、この列車に乗っている外国人たちも、決して鉄道マニアのように「乗り鉄」をしに来た人たちではないはずで、それでもこうして座席の半分以上を彼らが占めている。結局は私たち日本人が、祖国の風土や伝統文化をもっとしっかりと理解すべきなのだろう。それは自分自身への反省を込めてのことでもあるのだが。

 阿仁合を過ぎて、どうやら鉄路は下り勾配が続き始めたようだ。ディーゼルエンジンを稼働させた力走ではなく、空走をしていることが多くなり、静かな室内にカタンカタンという線路の継ぎ目の通過音だけが心地よく響いている。私は運転席の右側の窓に陣取り、雪の中に細々と続く鉄路を子供のように見つめ続けていた。
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 13:02 列車は定刻通りに終点の鷹巣駅に到着(JR奥羽本線の駅名表記は「鷹ノ巣」だが、秋田内陸線の駅名は同じ読みで「鷹巣」と書く)。そこで奥羽本線の弘前行がやって来るまで9分の待ち合わせなのだが、鷹ノ巣駅は何にもなくて寒い。空には雲を通して白い太陽の姿があるのだが、光の暖かさは伝わっては来ない。駅舎の外壁に掲げられた温度計は、ちょうど0度を指していた。
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 程なくやって来たのは二両連結の弘前行の電車。ロングシート車両なので通勤電車のようだが、これから大館を経て秋田・青森両県の県境へと向かうので、沿線風景は寂しい限り。奥羽「本線」とは言いながら列車ダイヤは一時間に一本あるかないかといった頻度だから、ローカル線色の極めて濃い区間である。

 それまでの道中にスマートフォンで受信したメールに返信したり、ミラーレス一眼で撮影した何枚もの写真を整理したりしているうちに、列車は青森県に入る。そして14:04に大鰐温泉駅に到着。寒々としたホームの向こう側では、弘南鉄道大鰐線の車両が発車を待っていた。
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 田沢湖駅から列車を乗り継いで来た私たちの旅も、今日の行程は終わりに近い。チェックインの時刻にはまだ少し早いが、私たちはタクシーで今夜宿泊予定のリゾートホテルに向かうことにした。設備はいいホテルだから、まだ部屋には入れなくてもロビーでゆっくりさせてもらおう。
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 広々としたロビーで特製の「りんご茶」を楽しみ、部屋に案内された後はこのホテルの名物の「りんご湯」につかり、私たちは津軽の夕暮れ時をのんびりと過ごすことにした。
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(To be continued)


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続・冬は北へ (1) 田沢湖 [自分史]


 1月20日(土)、天気はゆっくりと下り坂に向かっていた。

 冬型の気圧配置が崩れ、前日の午後から東北地方を覆っていた移動性高気圧が東に抜けて、弱い気圧の谷が日本海から近づいて来る。今朝のニュースで解説されていたのは、そんな天気図だ。私たちが目指している秋田県の田沢湖のあたりは、スポット天気予報によれば正午頃まで晴マークで、午後からは曇、そして夕方からは乾雪が降ることになっている。
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 こういう気圧配置の時は、東京は移動性高気圧からの東風で雲の出ることが多い。事実、10:20に東京駅を出た秋田新幹線「こまち13号」の車窓に広がる沿線風景は、北へ行くほど青空が多くなり、雪を纏った那須連峰や安達太良山、吾妻連峰、そして宮城蔵王がよく見えていた。

 11:54 仙台駅を発車。これからいよいよ東北地方の北半分へと入って行くのだが、高気圧が遠ざかっていく過程にあるから、車窓から眺める山の姿も、山頂まで含めてそのスカイラインは確認出来るものの、その輪郭も色彩もだいぶ淡くなりつつあった。12:10を少し回り、くりこま高原駅を過ぎて車窓の主役に踊り出た栗駒山(1626m)の姿も、どこか淡色水彩の絵を見ているかのようだ。
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 12:57 北海道新幹線の新函館北斗へ向かう「はやぶさ13号」から切り離されて、盛岡駅を離れた「こまち13号」は田沢湖線に入る。その時、右側の車窓に雄大な岩手山(2038m)の姿が。天気が崩れる前に何とか間に合った!
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 私はこんな風に、相変わらず窓の外の山の眺めに見とれてばかりだが、本来の趣旨に戻ると、今日は家内と二人で一年ぶりの旅行に出ている。

 昨年は4月初めに私の膵臓がんが見つかり、大急ぎで入院・手術、そして術後の療養と抗がん剤による治療という、人生始まって以来の大病への取り組みで、あっという間に過ぎてしまった一年だった。比較的早期の発見と適格な処置のおかげで、12月末の診察でその後の転移が起きていないことが確認されて抗がん剤の服用が終わり、半年後に経過観察を受けるだけの身になったことは本当に幸いだったが、ともかくも家内には大きな心配をさせてしまい、とりわけ術後の療養期間には手間をかけてしまった。ようやく、相応に自由の身となった今、JRの「大人の休日倶楽部パス」を利用して、東北の温泉で家内にも少しゆっくりしてもらおう。去年の暮に二人で計画して、今回の旅を決めていたのである。

 列車が雫石駅を出た頃、走って来た方向をふり返ると、岩手山の山頂はもう雲に隠れている。つい10分ほど前に車内からカメラを向けたのがラストチャンスだったのだ。いよいよ気圧の谷が近づいて来ている訳だが、今日の本当のお目当てである秋田駒ケ岳(1637m)はこの後に姿を見せてくれるだろうか。

 窓の両側の景色が一段と雪深くなり、奥羽山脈を横断する仙岩トンネルを抜けると、列車は秋田県に入る。間もなく田沢湖駅に到着。時刻はまだ13:10頃なのだが、曇り空の下ではもう少し夕方に近いような印象を受けてしまう。駅舎から外に出ると、さすがに寒い。
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 列車JR田沢湖駅に着いた時刻から15分の接続で、田沢湖一周の路線バスが出ている。それに乗り込んだのは私たちを含めて10人ほどなのだが、そのうちに気がついたのは、その中で日本人は私と家内の二人だけで、他はみなアジアの国々からの観光客だという事実だ。広東語やマンダリンが聞こえてくる。確かにこの先には秘湯として今や超人気の乳頭温泉や、私たちの目的地である田沢湖高原温泉、更には新玉川温泉などがあって、雪を眺める冬の温泉ツアーは外国人の間でも人気が高いのだろうけれど、それにしても、京都でも北海道でもなく田沢湖にやって来た彼らは、間違いなく日本観光のリピーター達なのだろう。

 駅前から生保内(おぼない)地区を抜けてしばらく北上を続けたバスは、やがて国道を左に折れて田沢湖畔へと近づき、そこから時計回りに田沢湖を一周。その途中、二ヶ所の景勝地でしばらく止まってくれる。丸い田沢湖を時計の文字盤に見立てると、凡そ8時の位置に「たつこ像」というこの地の伝説の女性の銅像が立つ場所があり、バスは約20分停車。私たちは歩いて湖岸に向かう。そして、そこで待っていてくれたのは、私が今回一番のお目当てにしていた秋田駒ケ岳の全容だった。
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 今日は極めてゆっくりと天気が下り坂になるパターンで、等圧線の間隔が広く、この時期にしては珍しいほど風がない。日本一の水深(423m)を誇る田沢湖の湖面は冬でも凍ることがなく、風がないから湖面は文字通り鏡のようだ。天気が何とか持ちこたえた上に、「逆さ駒」というおまけまで付いて、ここまでやって来た甲斐があった。寒がりの家内もすっかりその眺めに見とれている。そして外国人の観光客たちは、それこそ「自撮り棒」を持って大変なはしゃぎようだ。
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 乗客の全員を再び乗せてバスは出発し、続いては田沢湖のほぼ最北端の位置にある御座石(ござのいし)神社の前で10分ほど停車。この神社は600年ほど前の室町時代に、熊野権現を信奉する修験者が修験の地としてこの場所を選んだとのご由緒があるそうだ。事代主神(ことしろぬしのかみ)・綿津見神(わたつみのかみ)といった記紀に登場する神様と共に、この湖の竜神がご祭神とされている。中央の神様とローカルな神様とが合祀されているのはよくあることなのだが、それにしてもこの御座石神社は実にシンプルだ。鳥居の向こうには何もなく、ご神体は湖そのもの。簡素なこと極まりない信仰のかたち。これが日本なのだ。
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 ご由緒書きによれば、三神のご神徳は開運厄除、勝利成功、そして美貌成就だという。私と家内がそれぞれ何をお祈りしたのかはともかくとして、昨年の私の大病の後に、縁あってこのお社を訪れ、二人で田沢湖に向かって手を合わせる機会を持つことが出来た。何はともあれ、昨年以来多くの方々に助けられ、支えられて来たことに深い感謝を捧げつつ、この先も自分なりに真っ直ぐに生きていくことを誓わせていただこう。

 再びバスに乗り、田沢湖駅へと戻る間に、それまで見えていた秋田駒ケ岳はもうすっかりその姿を隠してしまった。電車の中から眺めた岩手山に続き、田沢湖畔から眺めた秋田駒ケ岳の姿は、先ほどの撮影時がラストチャンスだったのだ。そう思うと、今日は何か「持ってる」のかもしれない。15:00少し前に田沢湖駅に到着すると、そとはもう雪が舞っていた。

 暖房の効いた田沢湖駅の待合室の中には、周辺の地形を表した立体地図が展示されていてわかりやすい。途中二ヶ所での小休止を含めて田沢湖を時計周りに一周して来た私たちは、この後はホテルの送迎バスで秋田駒ケ岳の山裾を北上し、田沢湖高原温泉郷へと向かう予定だ。
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 送迎バスが来るまで30分以上の時間がある。駅前の土産物店を眺めていたら、見たこともない缶詰が目にとまった。
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 「熊の缶詰」とは何とも面妖な名前だが、ラベルを読むと、要するに醤油、味噌、生姜、砂糖、赤ワインで熊肉を煮込んだものだそうで、この近辺で獲れた熊を使っているという。そんなに量産出来るものでもないのだろうから結構なお値段だが、風変わりなお土産にはなるのかもしれない。

 やがてホテルのマイクロバスがやって来て、定刻に駅前を出発。国道341号を北上し、右に折れて県道271号に入ると、標高が上がるにつれて路上の雪は深くなる。右手の秋田駒ケ岳の西斜面にはたざわ湖スキー場が広がっているのだが、雪が舞っている今は山の上にガスがかかり、殆どホワイトアウトしているような状況だ。
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 駅からおよそ30分。16:10過ぎに、雪深い田沢湖高原温泉郷のホテルに到着。今日は東京駅発が10:20というゆっくり目のスタートだったが、田沢湖観光を済ませてこの時刻に投宿できるのだから便利なものである。夕食までにはまだたっぷり時間があるから、旅装を解いて早速温泉を楽しむことにしよう。
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 スキー客も数多く宿泊するこのホテルでも、アジアの国々の言葉が飛び交っていた。

(To be continued)


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感謝 [自分史]


 12月28日、木曜日。会社が御用納めになるこの日の東京は、朝からくっきりとした冬晴れの空が広がっていた。朝の通勤電車の窓から見えた富士山の姿には、まさに「屹立」という言葉が相応しい。山の南東側には雲が渦巻いていたから、強い北風が吹きつけているのだろう。いよいよ真冬の到来である。

 朝から机の周りの片づけに取り組んでいた私は、昼前に会社を抜けて再び電車に乗り、途中の駅で家内と落ち合う。そして東京湾岸の駅に降り立ち、地上の改札口を出ると、硬質ガラスのような冬の青空の下にいつもの病院の建物の姿があった。

 「これはこれでなかなか美味しいじゃない。」

 野菜カレーを口に運びながら家内が微笑む。再診受付と血液検査を済ませた私は、院内にあるレストランで家内と昼食をとっていた。丸の内のお堀沿いに本拠を持つ有名レストランがこの病院の中にも店舗を出している。この病院にお世話になることになったのが今年の4月。それから既に9ヶ月の月日が流れたことになるのだが、このレストランで食事をしたのは今回が初めてだった。

 「ここでこんな風に普通の食事が出来るなんて、入院していた頃は想像も出来なかったからなあ・・・。」

 讃岐うどんをすすりながら、私もちょっとした感慨に囚われていた。そもそもこの病院にお世話になること自体が、今年の春を迎える前は想像すら出来なかったことだったのだから。
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 今年の4月5日に、高校時代の同級生S君が院長を務める都内の消化器内科クリニックでたまたま胃カメラを吞んだ時、前後して行われた超音波エコー検査で膵臓に病変らしきものがあることが判明。初期の膵臓がんが疑われ、S君がこの病院への入院と手術を大急ぎで手配してくれて、4月25日に開腹手術を受けることになった。そのイキサツと以後の経過については、既に何度かこのブログにも記載してきた。

 術後は延べ25日ほど入院し、7月中旬からは、今後のがん転移の可能性をゼロに近づけるために抗がん剤服用を開始。二週間服用して一週間は休み。それを8サイクル繰り返すというプログラムで、それが先週の12月21日で終了。その前日の20日にCT検査を受け、今日は主治医からその結果の説明を聞く予定になっていた。13:30から執刀医で消化器外科のA.S.先生、続いて14:00からは抗がん剤治療の指導をしていただいた消化器内科のT.S.先生の診察予定なのだが、年内最後の診療日とあってか院内は普段より混雑しているから、なかなか時間通りには行かないだろう。
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 「膵臓がんを疑う」という所見をS君から聞いたのは、もちろん私にとっては思いも寄らぬことだった。自覚症状が何もなかったから仕方がないのだが、膵臓がんというのはそういうものだそうで、だからこそ発見が遅れ、しかも進行が速いために、判明した時には手遅れで手術も出来ないというケースが非常に多いという。「がんが見つかってから半年ほどで亡くなってしまった」というような話は膵臓がんであることが多い。ところが私の場合は、全くの偶然ながら比較的早い段階で見つかったので、今なら手術が出来るという。事態の重大性が自分でもまだ十分飲み込めていないが、ともかくも旧友S君や執刀医A.S.先生の所見に全面的に従って、私は開腹手術を受けることにした。5月の連休に入る直前、新緑のきれいな頃だった。

 膵臓の半分と脾臓、胆嚢、二つある副腎の片方、そして周囲のリンパ節を切除した上で、膵臓の切除面に小腸を被せるように繋ぎ替えるという、5時間にわたった開腹手術。問題の膵臓がんはステージ2で、切除した部位の中のチェックポイント68箇所中、2箇所に転移があったという。従って、術後2ヶ月ほどが経過した頃から、今後の転移の可能性を極力ゼロに近づけるべく、抗がん剤の服用を一定期間続けることになった。そして、一般論として膵臓がんは予後も良くないケースが多いということも言い含められた。

 還暦になってから初めてこのような手術を経験することになった私にとって、開腹手術とは想像以上に体への負担が大きいものだということを、私はそれから思い知らされることになる。特に小腸をいじれば必ずそうなるとのことなのだが、手術以降なかなか下痢が治らず、当分の間は食欲も湧かず、カステラと牛乳ぐらいしか喉を通らない。加えて季節は次第に暑くなる時期だから、体は汗をかく。6月8日の退院後から比較的早く職場に復帰はしたものの、栄養失調と脱水症状で体が思うように動かず、正直言って電車の中で立っていることさえ辛いような状態だった。

 しかも、そんな状態が続く中で7月中旬から抗がん剤の服用が始まると、その副作用の辛さが上乗せになる。私の場合は抗がん剤の量を調整することで副作用はそれでも軽い方だったのだが、味覚障害が最初の頃は激しく、何を食べても美味しくなく、それでなくても細い食が更に細くなってしまう。手術から3ヶ月の間に体重は14kgほども減ってしまい、体から筋肉が随分と失われてしまったことに気分が落ち込んだ。

 こんな状態がいつまで続くのか、回復することはあるのか、いずれは歩くことさえ出来なくなってしまうのではないか・・・。先の展望がなかなか見えなかった7月末頃が、自分にとっては一番辛い時期であったと今にして思う。がんの宣告を受けてもつとめて深刻には受け止めず、「それもまた運命。ジタバタしても仕方がない」と考えてきたつもりだった私も、次第に「遠からずやって来る死」を意識し始めることになる。エンディング・ノートを作らねばならないかなと考えるようになったのも、この時期だ。そして、頻りにバッハのオルガン曲を聴くようになっていた。
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 体調が少しずつ安定の兆しを見せたのは、8月のお盆の時期を過ぎた頃だった。抗がん剤の副作用としての味覚障害は続いているものの、食欲がそれなりに回復し始めていた。まだ思い出したように下痢が起きたりはしていたのだが、オフの時間に起き上がって何かをすることが以前よりも楽になり始めてもいた。そして、自分にとって少し自信がついたのが、8月最後の日曜日に上毛電鉄の名物電車デハ101を見に、北関東まで半日の乗り鉄&撮り鉄に一人で行けたことだった。
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 これぐらいの時期に体力の回復が始まることを見越してのことだと思うのだが、三週間に一度の経過観察の時に、内科医のT.S.先生から「そろそろ適度な運動を行うことも心掛けて下さい。」とアドバイスを頂くようになった。それに従って、おそるおそるジョギングを始めてみる。最初はまず2km、次は2.5km、問題がなければその次は3km、という風に徐々に距離を伸ばしていった。始めてみると、痩せて体が軽くなった分だけ走りやすい。まだ残暑の続く頃だったが、体を動かして汗をかくことの爽快さを私は久しぶりに思い出していた。そして、9月下旬には2泊で東北地方にある我社の工場へ出張。10月最初の日曜日には、山仲間のH氏が付き添ってくれて、高尾山を徒歩でゆっくりと往復することが出来た。毎日の通勤電車で座る席を探す必要もなくなり、立っていることには問題がなくなっていた。
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 会社の仕事が俄かに忙しくなり始めたのも、この秋になってからのことだった。11月の上旬には社長と共にドイツへ一週間の出張。今のビジネスクラスはフル・フラットの座席なので、往復のフライトも特段辛いことはなく、現地でも(食べ物には用心する必要があったものの)大きな支障はなかった。そして、日曜日の日帰りの山歩きにはその後2回ほど出かけることになる。抗がん剤の服用は続いていたが、自分ががん治療中の身であることをあまり意識しなくなっていた。
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(ロンドン・ヒースロー空港)

 もっとも、術後をこんな風に過ごすことが出来たのは、何といっても家内が全面的にサポートしてくれたことのおかげである。手術によって膵臓の半分を失った訳だから消化能力は落ちており、私にはなるべく脂質の少ない食事を続ける必要があった。そうなると、特に最初のうちは食べられる物が限定列挙されるような状態なのだが、家内は色々と工夫を凝らして、私の体に極力負担のない、それでいて単調なメニューにならないよう配慮を重ねてくれた。そして、社食では揚げ物などが多くて心配だからと、毎日の弁当も用意してくれた。更には、三週間に一度の経過観察にも必ず同行してくれたので、医師のコメントを常に二人で共有することが出来た。

 実父を胃がんで失っている家内は、私が膵臓がんの宣告を受けたことを当の本人よりもずっと深刻に受け止めていた筈で、きっと多くの不安を抱えて来たことだろう。それでも、二人の子供たち共々、私の前ではつとめて明るく振る舞ってくれた。そのことには何と言って感謝したらいいのだろう。私の体調がなかなか安定せずに苦しんでいた頃も、家内には決して我儘は言うまいと、私は心に決めていた。
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 時計は既に14:00を回っている。しかし、首から吊り下げている呼び出し用の機器は沈黙を続けたままである。今日は診察が終わったら会社に戻り、17:00からの納会で社員に向けて一言述べた上で乾杯の発声をしなければならない。ここから会社までは一時間近くかかるが、はたして間に合うだろうか。そんなことが少し気になりだした14:30過ぎに、呼び出し機が震えて「診察室51-7へお入り下さい。」というメッセージが小さな液晶画面に表示された。予約の順番とは異なり、消化器内科の診察が先になったようだ。

 「今日はA.S.先生の診察が遅くなっているようなので、私の方から先に説明しちゃうことにしました。」

 いつもの穏やかな語り口で、内科医のT.S.先生の診察が始まった。机の上のモニターには、先週の水曜日に受けたCT検査の画像が映し出されている。

 「A.S.先生からもあらためて説明があると思いますが、CTの画像からは、がんの転移は見られませんね。特に心配なところもありません。今日の血液検査の結果にも特に問題はありませんから、TS1(抗がん剤)による治療は予定通りこれで終了になりますね。後は今後の経過観察のタイミングについて、A.S.先生からお話があるでしょう。」

 「食事については、今後も脂質の多い物や甘い物(果物を含む)を摂り過ぎないよう注意することと、消化器の動きを活発にする意味で、適度な運動には積極的に取り組んで下さい。」

 今年の7月以降、三週間毎に経過観察の診断を受けて来たから、T.S.先生も私たち二人の様子はよくわかっておられる。

 「まあ奥様の前ですから、アルコールは一応その・・・、飲まないに越したことはないですが・・・、お屠蘇ぐらいなら・・・。」

と、ニコニコしながら慎重に言葉を選び、「まあ、上手くやって下さい。」ということを言外に匂わせていた。

 こういう内容だったので、T.S.先生の診察は10分ほどで終了。この夏以来お世話になったことへの心からの謝礼を述べて、私たちは診察室を出る。それから15分ぐらいして再び呼び出し器が震え、今度は消化器外科で私の手術をして下さったA.S.先生の診察室へ。膵臓がんの手術では日本で最も多くの数をこなしておられる外科医のお一人である。

 検査結果の説明内容はT.S.先生と同じで、今後は4~6ヶ月毎に経過観察を行う旨のお話があり、次回は来年6月21日に決まった。血液検査とMRI検査を行い、検査に続いてA.S.先生の診察を直ぐに受けられるそうだ。今回の件で文字通り私の命を救って下さった先生に深々と頭を下げて、私たちは病院を後にした。
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 現時点でがんの転移はみられず、抗がん剤治療がひとまず終わった。今後は4~6ヶ月毎の経過観察。朗報である。それを聞いて確かにホッとしたことは事実だ。けれども、そのことに飛び上がって喜ぶというよりも、寧ろかえって身の引き締まる思いがした、というのが私の偽らざる心境だった。

 私が膵臓がんの宣告を受けて以来、本当に多くの方々に助けられ、支えられて、ここまで来ることが出来た。何といっても、病変の早期発見とその後の処置に尽力してくれた旧友S君、入院の前後から幾多の心遣いをしてくれた山仲間のH氏とT君、日曜日の礼拝のたびに私の回復を神に祈ってくれたという旧友Y君をはじめ、私のことを心配していただいた全ての皆さん。そのご厚意の数々があらためて胸に沁みる。仕事を通じて親しくなったドイツの設備メーカーの機械技師のPさんは、クリスマスイブの日曜日にわざわざメールを送ってくれた。
 We wish you for the next year all the best and especially the most important “health”.
そして、きっと大きな不安を抱えていたに違いないのに、常に明るく振る舞ってくれた私の家族・・・。私は何と幸せな環境にあるのだろう。

 これらの御恩に報いるために私がこれから行うべきことは、自分に与えられた命が続く限り、曲がったことをせずにしっかりと生きて行くことだろう。目先の検査結果はともかく、大事なのはこれから先のことである。多くの皆さんに支えられて来たことを背広の内ポケットに大切にしのばせて、前を向いて行こう。

 病院の外に出ると、15:30の太陽はもうだいぶ傾いていたが、鮮やかな冬晴れは続いている。この春以来何度も通った駅までの道を、もちろん家内と手を繋いで歩いた。

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願いと祈り [自分史]


 10月9日(月)、三連休の最終日の東京は前日に続いて季節外れの夏日となった。私は午前中から既に二つの用事をこなし、今は家内と二人で四谷の駅前を目指して歩いている。地表付近の天候がどうであれ、太陽の動きはきっちりと暦通りだから、午後4時に近くなると早くもその光には赤みが差してきて、その限りではいかにも秋なのだが、歩いていると半袖でも汗ばむような陽気とのミスマッチが何だか不思議だ。

 JR四谷駅の麹町側に出ると、目の前が上智大学のキャンパスだ。その駅寄りの角地に建つカトリック麹町聖イグナチオ教会。かつては主聖堂のクラシックな姿がこの辺りの景観のシンボル的な存在だったのだが、老朽化により1997年に取り壊され、1999年に現在の楕円形の建物になった。それからもう18年も経つのだが、旧聖堂が姿を消して以降、四谷の駅前を通りかかったことがなかった訳ではないはずなのに、今の聖堂を改めて見つめてみるのは、もしかしたら今回が初めてだったのかもしれない。
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 その楕円形の姿がどこか音楽ホールのような主聖堂を左に見ながら敷地の中を進むと、正面に植え込みの緑が豊かな低層の建物があり、二階のテラスのような場所から旧友のY君が手を振りながらこちらを見ている。私もそれに手を振って応え、家内と共に外階段から二階へと上がる。そして、久しぶりにY君と握手。「元気そうでよかった。」と彼は再会を喜んでくれた。Y君の奥様にもお目にかかり、建物の中へと案内される。そこは、マリア聖堂。丸屋根の部分に据えられた円形の大きなステンドグラスは、旧聖堂から引き継がれたものだそうだ。
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(写真は教会のHPから拝借)

 Y君は大学時代のゼミの同期生である。卒業後、就職も同じ業界で、お互いの結婚式にも呼び合った仲だ。それに会社では共に国際部門を長く経験したので、以後も何かと連絡を取り合って来て、海外でも会ったりしたものだった。その彼が私のブログを見て見舞いのメールをくれたのが今年の7月末のことだった。私が膵臓がんの手術を受けてからちょうど三ヶ月が経過した頃である。

 「驚きました。(中略)ブログでは出社されているようなので少し安心しましたが、この人生の困難に立ち向かわれているのを知り、まずは貴兄への神のご加護を強く祈っております。以前お話ししたように私はカトリック教徒です。」

 そんな風に書かれていて、以後も毎週日曜日に教会で私のために祈りを続けてくれているそうである。彼からメールを貰った時期はまだ私の体調が安定せず、大幅に痩せて体力もすっかり落ちてしまった頃だったから、心の底から私のことを心配してくれたY君の友情が、言葉の真の意味で身に染みる思いだった。

 Y君は中学・高校時代を神奈川県のカトリック系の学校で過ごしている。その後、留学や駐在勤務でメキシコ・スペインといった国々を経験しているから、カトリックという信仰が深く根付いた社会の在り方をつぶさに見て来たはずである。そんな彼が日本に帰って来た後、思うところあってカトリックの洗礼を受けたというのは、私から見れば不思議なことではないのだが、それは何も知らない門外漢にはそう見えるというだけのことで、実際に入信するということは彼の人生の上では大きな決断であったことだろう。

 8月以降もY君と何度かメールをやり取りする間に、彼はイエズス会司祭の英(はなふさ)隆一朗という神父さんの存在を教えてくれた。英氏は聖イグナチオ教会で精力的に活動し、日曜日毎のミサはもちろんのこと、週二回のキリスト教入門講座なども開いていて、非常に多忙な方であるようだ。その英神父がインターネット上に立ち上げた「福音 お休み処」というブログの冒頭には、こんな記載がある

 「主イエスは次のように仰せになりました。

 『疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる』(マタイ11章28節~29節)と。

 この聖句を読むたび、心がほっとします。現代社会の中で、重荷を負って、疲れ果てている方々がおられるのではないでしょうか。私自身も重荷に耐えきれなくなったり、疲れ果ててしまうことがたびたびです。しかしながら、イエスのもとで休み、イエスに学びながら、魂の安らぎを得て、また立ち上がる力をいただきます。

 このブログを通して、疲れた人や重荷を負っている人が主のもとで休みをとり、主から学び、また立ち上がって歩んでいく手助けをしたいと思っています。」 http://hanafusa-fukuin.com/

 このブログは彼が行った日曜日のミサの説教の音声ファイルやテキスト画面にもアクセス出来るようになっている。Y君にはこの英神父の講話を他の教会で聞く機会があり、「何か腹に自然に落ちる話をされる人」だと思ったそうだ。今の日本のカトリック教会において、こういう話が出来る神父さんは本当に少ないのだという。その英神父が祝日の10月9日(月)に「いやしのミサ」を聖イグナチオ教会で開くことになった。

 「このミサは、病気のいやしという特別な意向のためにささげられるミサです。ご自身が病気の方や、親族・友人のいやしを願われる方はどうぞご参加ください。いやしのミサの後に、個人的にいやしの祈りを祈る時間が設けられます。」

 Y君はこのお知らせを上記のブログで見つけ、わざわざ私に声をかけてくれたのだった。「貴兄の信条に反するかもしれませんが、祈りは呼びかけに結びつくかも知れません。彼は心に響くことを語れる人だと思います。」とも書かれていて、私自身の常日頃の考え方にも配慮をしてくれた上でのことだった。

 Y君ご夫妻に挟まれる形で私たち夫婦が聖堂内の椅子に着席。午後4時からミサは粛々と始まった。幾つかの讃美歌が歌われ、英神父が聖書の一節を読み上げ、一同が祈りを捧げる。そして信者の代表が聖書の朗読を行った後、いよいよ英神父の説教が始まった。

 病を得たということは、あなた個人にとっては苦しみではあるが、そのことによって逆に、病もなく日常を平穏に過ごすことの有難さに気づくことが出来る。そして、同じように病を得た人々の苦しみを理解することも出来る。それは神から与えられたあなたの役目なのだ。病を得た人はその治癒を願い、神に祈る。聖書の中でイエスは多くの病人をいやした後、「あなたの信仰があなたを救った」と言っている。神が必ず救ってくださるという確信、神から力と恵みを与えられていると考える謙虚さ、病が治癒することへの希望、そして信仰。それらによって願いは真の祈りとなる・・・。

 ごく簡単に言ってしまえばそんな内容だったと記憶している。
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 今日、このミサに列席する機会を得るまで、正直言って私は願いや祈りというものをあまり深く考えたことがなかった。日本人だから多分に神道や仏教の考え方の影響を受けているのだろうが、それでも何かを神仏にお願いする・・・例えば浄土教のように、諸々の苦しみからの救済を求めてひたすら阿弥陀仏にすがる、というような考え方が好きではなかった。むしろ神道のようにこれからの自分の行動に誓いを立て、それを神様に見守っていただくと考えること、或いは禅宗のようにあらゆる執着を捨てて泰然と生きて行くことの方が、自分にはしっくりと来るものだった。神仏が万能であるとは信じておらず、それに頼ったりすがったりするのは人間として弱い考え方だとすら思っていたのだろう。

 今回、Y君は「いやしのミサ」に誘ってくれたことに加えて、英神父が書いた『祈りのはこぶね』という小さな本を私のために買っておいてくれた。100ページ足らずの分量で文章も極めて平易なので、一晩で読めてしまうものだが、英神父の当日の説教の内容とこの著書の内容とを合わせて復習してみると、今まで私が気づいていなかったことが明らかになった。それは、願いや祈りが本当に意味するところは何かということである。

 「願うことを嫌う人もいる、それは何か他力本願で、人間の努力を軽んじているように見えるからだ。
 本当の願う祈りは、他人任せや努力の放棄を意味していない。むしろ願う祈りには、懸命の努力が伴うものなのだ。例えば、病人がいやしを願っているとしよう。その病人がいやしを願いながら、薬も飲まず、医者の注意も聞かず、養生もしないなら、その人は本当に願っていると言えるだろうか。本当に願う祈りをしているならば、薬を飲み、養生して、自らの努力と実践を通して治ろうとするだろう。願う祈りとは他人任せにすることではなく、自分の全力を傾注して事に向かうことなのである。
 願う祈りは、自分の今の課題を示し、向かうべき具体的な方向を示してくれる。」

 『祈りのはこぶね』を読み始めると、早々にこんな記述が出て来る。参ったな、と私は思った。神仏などにはすがらないぞ、と思っている自分は、それではどんな努力をしているというのか。

① あなたの心の中に、どのような願いがありますか。願っていることを書き出してみてください。
② それがかなえられることをどれほど強く願っていますか。強く願っているものから順番に、番号をつけてみましょう。
③ そのためにどのような努力や実践をしているか、ふりかえってみてください。

 『祈りのはこぶね』の各章にはこんな設問も用意されていて、自分を客観的に見つめるためには、確かにそういう作業が必要なのだろうと考えさせられる。そして本書を更に読み進むと、祈りとは人々の願いや嘆きを具体化するものであり、今日がどんな一日であったかを思いおこすことであり、たとえそれが苦難に満ちたものであったとしても、願いに先立って感謝を捧げるチャンスであり、そして悔い改める機会でもあることが平易に説明されていく。
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 科学上の理屈だけから言えば、病気が治ることと願いや祈りとは直接の因果関係を持つ訳ではないのだろう。けれども、私が膵臓がんの手術を受け、今も定期的な経過観察に通っている病院では、現状を確認するための設問が20個ほど用意されていて、患者はタブレット端末を通じて回答を入力することになっているのだが、それらの設問の半分ぐらいはメンタルな事項に関するものである。今の体調が今の気分や人とのコミュニケーション、そして仕事への取組み姿勢などにどのような影響を与えているか、といったことを尋ねるものなのだ。

 「がん患者への最良の薬は、自分ががん患者であることを忘れることだ。」という指摘もあるぐらい、がん治療にはメンタルな部分のケアが重要なのだそうだが、考えてみれば、それは英神父が易しく説いてくれる願いや祈りにも繋がるものであるのかもしれない。

 既に述べたように、今までの私は願い事が叶うよう神仏にすがるという考え方を好まず、祈るということをあまりして来なかったように思う。願っていることが実現するよう自分が努力するのは当たり前のことだが、そこから先はなるようにしかならない訳で、それがどんな結果であっても泰然として受け止めるのが男のあるべき姿だと思っていた。

 自分の機嫌の良し悪しで人との接し方を変えたり、人に愚痴をこぼしたりするのは嫌いだったし、仮に何かの不幸に襲われた場合にも他人からの慰めは不要で、結局は自分自身で悲しみ・苦しみを呑み込み、乗り越えて行くしかないと思っていた。そして、その過程で溜まったストレスは、例えば親しい友人たちとの酒の席や、時に山歩きをすることで自分なりに発散していたつもりだった。

 けれども、自分がこうして病を得るという経験をしてみると、色々なことを独りで呑み込もうとするのではなく、逆にそれらを素直に吐き出してみることで自身を客観的に見つめることが出来るのではないか、ということを考えさせられたように思う。言い換えれば、粋がらず自分の弱さにもっと正直になれ、ということだろうか。そんな悩みや苦しみを素直に吐露すれば、自分の周りにはそれを一緒に聞いてくれる家族や友がいてくれる。そして、そうした悩みや苦しみのない日々の到来を願い、祈り、その実現に向けて努力を続ける時、私たちの背後には神の存在がある、と考えるのが信仰というものなのだろう。
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 最後の讃美歌が歌われ、「いやしのミサ」の一連の進行が終わったところで、個人的にいやしの祈りを行う場が設けられ、希望者が英神父の前に二列に並び始めた。車椅子に座った人、杖を突く人々など様々だ。実は、Y君は私が膵臓がんの手術を受けた身であることを事前に英神父にメールしてくれていて、神父は私のためにも祈りを捧げて下さるというので、Y君ご夫妻に導かれる形で私と家内もその列に加わることになった。

 やがて私の番が回って来たので、家内と二人で英神父に一礼。私は次のように話した。

 「私は今年の4月に膵臓がんの手術を受け、今も抗がん剤の服用による治療を受けています。この先、がんの再発・転移が起こるのかどうか、今はまだ何とも言えませんが、たとえ何が起ころうとも、自分の命の続く限りは精一杯生きようと思っています。」

 頷きながらそれを聞いていた神父は、その両手を私の頭に置き、暫くの間何事かを唱えていたが、最後にこのように語ってくれた。

 「あなたの今の考え方は、神が一番喜んでおられると思います。是非それを大切にしてください。」
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 マリア聖堂の中でのミサを体験した一時。私のために様々な心遣いをしてくれたY君ご夫妻に改めて感謝しつつ建物から出ると、5時半に近くなった外はもうすっかり夕暮れを迎えている。私たち4人はそれから四谷駅近くの喫茶店でコーヒーを飲みながら、暫くの間なごやかに語り合った。

 思えば大学を卒業してから既に36年。時には青臭い議論も含めて本当に色々なことを語り合って来たゼミの同期生同士。それがお互いにこの歳になり、夫婦一緒に今日こうしてこのような時を過ごしていることの不思議さと有難さ。人間、歳をとるということにも大切な意味があるものなのだ。熱いコーヒー以上に、Y君ご夫妻の温かいご厚意がはらわたに深く染みた。

 午後6時を過ぎ、四谷駅でY君ご夫妻とお別れをして、私たちは地下鉄のホームへと歩く。Y君のおかげで、私にとって神様の存在が少し身近になったかもしれない。ともかくも、余計な肩の力を抜いて病と向き合い、自分自身の弱さをもう一度見つめながら、今ある生をしっかりと生き抜いて行こう。

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再会(開)の秋 [自分史]


 「膵臓がんとは穏やかじゃない、大事(おおごと)じゃないですか。ショックです。(中略)日本へ帰国したら、とにかくご連絡します。何としてもお会いしたい。」
 
 中学・高校時代の級友だったA君からそんなメールを貰ったのは、9月13日の早朝のことだった。

 A君はもう30年以上もカナダのトロントで暮らしていて、日本とカナダの文化交流を深める仕事を一貫して担ってきた。私が今、高校クラス会の幹事をしていて、11月に開く予定のクラス会関係のメールを彼にも送った時、海の向こうからのA君の参加はなかなか難しかろうからと、今年の4月以降に私の体について起きたこともそのメールを通して伝えておいた、それに対して反応してくれたのである。彼はたまたま親御さんの介護の関係で9月27日から一週間ほど東京に滞在する予定にしており、その間に是非会いたいとのことだった。

 A君も私も、区立の小学校から受験をして同じ中学に入り、高校でも同じクラスだったから、長い付き合いである。電車通学が始まった中学時代、彼は五反田から、私は渋谷からそれぞれ山手線に乗って学校へと通った。だから、帰り道に渋谷まで一緒になることが多かった。A君は最近、故石岡瑛子のポスターの展覧会をトロントで手掛けていて、往年の渋谷PARCOに関連した作品に囲まれているうちに、私たちが共に通学していた頃を思い出したようだ。「ハチ公口の方へ下車していく貴兄の学生服の後ろ姿が石岡ポスターと重なるような気がします。」とも書かれていた。

 昭和40年代の半ばというと、東京五輪大会に続く高度経済成長によって渋谷の街の様相が一変した時代である。建設の槌音は絶えず、朝の駅の混雑は殺人的。その一方でPARCOに象徴されるような新しい消費文化も芽生えていたが、それとは対照的に、駅のガード下ではまだ傷痍軍人がアコーデオンを奏でていた。そんな風に時代の光も影も共に鮮やかで、独特のゴチャゴチャ感の中から絶えずエネルギーを発散し続けていたのが渋谷という街だった。私たちはそんな時代に中学・高校時代を共に過ごしたのである。
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 高校に進んだ時、A君と私は山岳部に入部した。やはり中学で同級だったT君も入部したので、山岳部の私たちの代は中学の同級3人になった。普段は学校の中でのトレーニングや装備の点検と扱い方の習熟などが部活動の中心だが、年に6回ほどあった合宿では山の中にテントを張って暮らす訳だから、山岳部とは一つの生活共同体であり、運命共同体とも同義語のようなものだった。そして、前述のように私たちの代の同期は3人だけだったから、この3人が喧嘩をしてしまっては共同体そのものが成り立たない。私たち3人の間ではそれぞれが最も力を発揮する領域を自ずと棲み分けるようになり、「三本の矢」ではないが私たちなりにバランスを保ちながら、山での運命を共にしていたのだった。今から思うと、山の中という非日常を舞台にして実に貴重な体験をさせてもらったものである。

 今回、そのA君をいたく心配させてしまったのは私が送ったメールのせいなのだが、ともかくも来日中に是非会いたいと言ってくれているのだから、これは是非T君にも声をかけよう。社会に出てからは随分と長い間、T君も私も山からは遠ざかっていたが、8年ほど前から他の同級生たちにも声をかけて度々一緒に日帰りの山に出かけるようになり、年に1回ぐらいは泊まりでも山へ行っている。その繋がりから、中学同級のOさんも紅一点でA君との会にジョインしてもらうことになった。

 9月30日(土)の夕刻。表参道から少し路地裏に入ったところにある少々隠れ家的な居酒屋に席を取り、私たち4人は三々五々集まった。

 「やあ、どうもどうも。」
 「久しぶり!元気そうで何より。」
 「変わらないねー。」
 「今回は心配かけて申し訳ない。」

 顔を合わせた時に第一声として何と発すべきなのか、事前にはそれなりに悩んでいたものの、会ってしまえば、そこからはもう成り行きに任せるより他に自分をコントロールしようがない。というより、旧知の仲間の間では儀礼など最初から無用なのだ。中学を卒業して今年でちょうど45年になるのだが、そんな時空を一瞬のうちに飛び越えて、私たちは昔の教室の中の私たちに戻った。

 Oさんも含めて私たち四人は、当然のことながら卒業後はそれぞれに異なる道に進み、異なる分野で人生を過ごして来て、還暦を過ぎた今も幸いなことにそれぞれの仕事を続けている。だからこそ、同じ話題一つをとってみても思考のアプローチはそれぞれに異なるし、そこには各自が歩んできた人生が自ずと裏打ちされている。まるで一つの山を四つの異なるルートから登っているようで、ああ、なるほど、そういう見方もあるんだということを教えられて、何とも刺激的なのだ。そして、そんな風に自由闊達に意見を交わし、異なる考え方を認め合うリベラルさが、私たちの学校の校風でもあった。「昔の教室の中の私たちに戻った」というのは、基本的にそういう意味である。
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 思い出話の中心は、何といっても高校一年の秋合宿のことだった。1972(昭和47)年の10月10日前後のことだ。私たちの高校は二期制だったので、前期と後期の間に一週間程度の秋休みがあった。例年その時期に高校山岳部は縦走合宿を組んでいたのである。その年の計画は、南アルプスの3,000m級の山を三つ越えるという野心的なものだった。

 前夜に中央本線の最終の長野行き普通列車に乗って、甲府で下車。予約していたタクシーに分乗して南アルプスの玄関口・広河原に到着。そこのコンクリート製の東屋に寝袋を敷いて短い仮眠を取り、早朝から山を目指した。二年生の部員が多かったので、引率のOBも含めて私たちは総勢14名ほどのパーティーになっていた。
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(1972年10月 高校山岳部秋合宿のルート)

 初日は極めて順調。好天の中、広河原から白根御池を経て日本第二の高峰・北岳(3193m)に登り、更に進んで北岳山荘の前で幕営(当時は「北岳稜線小屋」という名前だったはずだ)。25kgほどの大荷物を抱えながら、初日にいきなり標高差1,500mのルートを登り切ってしまった。勿論、山の上からの眺めは申し分なかった。

 第二日、この日も終日好天。二つ目の高峰・間ノ岳(あいのたけ、3189m)を越え、三峰岳を経て新たな尾根へと入る。仙丈ヶ岳(3034m)と塩見岳(3047m)を結ぶ「仙塩尾根」と呼ばれるこのルートは実に山深く、南アルプス北部では最深部といっていいだろう。素晴らしい秋の紅葉と豪華な山の眺めの中を私たちは歩き続け、北荒川岳(2698m)を越えた南側の尾根上に幕営地を選んだ。今では幕営禁止になっているはずの場所だが、少し下ると水場があったのではないかと記憶している。尾根の西側は崩壊の激しい地形だった。

 異変が起きたのは三日目の朝だった。二年生の一人が寝袋の中から起き上がらない。高熱を発して意識がなくなっていたのだ。山に入る前、冷え込んだ広河原で仮眠を取った時に風邪を引いたのを、そのまま登山を続けたために風邪をこじらせて肺炎を起こしたようだった。よりによって、ここは南北いずれも3,000m級の山が立ちはだかっており、意識のない病人を下山させる術は私たちにはない。直ぐに救援を求めねばならなかった。

 私たちは三日目に予定していた行動を中止し、救援を求めるための二人一組のパーティー三つを編成。それぞれが直ぐに出発した。第1組は塩見岳を越えて塩見小屋へ。第2組は少し戻って新蛇抜山から大井川の源流へ下り、池ノ沢小屋へ。そして第3組は前日歩いてきたルートを戻って熊ノ平小屋へと走る。総勢14名の所帯だからこそ、こうした手分けが出来たのだ。そして、極めて幸いなことに同行のOBの一人が医大生で、病人にずっと付き添い、水に溶かした解熱剤を意識のない本人の口にスプーンで入れる等の処置をして下さった。

 私は二年生のMさんと第3組として熊ノ平小屋へ急いだ。この日も終日好天で、真っ青な秋空の下、燃えるような紅葉に包まれていたはずなのだが、事情が事情だけにそれを楽しんでいる余裕はなかった。それでも、これは後から知ったことなのだが、結果的にはこの熊ノ平小屋から無線で農鳥小屋を経由してメッセージを伝えてもらったことが、下界への第一報になったようだ。

 第1組と第3組はそれぞれ山小屋への連絡を済ませて幕営地に帰還。第2組は池ノ沢小屋からそのまま沢沿いの山道を二軒小屋まで下り、静岡へ出ることになっていた。その日の午後、静岡県警のヘリが私たちの幕営地を目指して飛んで来て着陸を試みたが、無理だったようで引き返して行った。その夜は二人ずつ二時間交代で看病。医大生の先輩は殆ど眠らずにおられたのではなかっただろうか。
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(北荒川岳幕営地付近の地形図。星印が幕営地の位置)

 第四日の早朝、東の方角からヘリの爆音が聞こえて来た。皆がテントを飛び出すと、農鳥岳から南へ延びる山の尾根を越えて、一機のヘリが一直線に私たちの上空をめがけてやって来ようとしていた。ハイマツを掻き分けて高い場所に上り、皆で大きく手を振ると、ヘリは明らかに私たちを視認していた。そして、轟音を立ててテントの近くに着陸。それは陸上自衛隊のヘリだった。何と、茨城県の土浦から飛んで来てくれたという。中から乗員が現れて、燃料が限られているので素早く行動するよう求められ、私たちは寝袋に包まれたままの患者を急いでヘリの真下に運ぶ。すると、それはテキパキとした手順で収容され、ヘリは静岡市内の病院を目指してあっという間に飛び去って行った。

 物事の展開のあまりの速さに、私たちはしばらくの間茫然としていたのかもしれない。だが、少なくとも病人の救助は何とか叶った。私たちは笑顔を取り戻し、テントを撤収して行動を再開。その幕営地からよく見えていた塩見岳のピークを越えて、三伏峠の小屋の前で幕営。入山から四日目のこの日も奇跡的に好天が続いていて、やっと景色を楽しむ余裕が持てた私たちは、塩見岳からの山の眺めを胸に刻んだ。
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(塩見岳山頂から、越えて来た山々をふり返る ー カシミール3Dにて再現)

 翌日の第5日はさすがに雨。だが、この日は三伏峠からの下山だけである。山道が終わってからの8kmの林道歩きは辛かったが、ともかくも東京に帰り着くことができた。ヘリで静岡市内の病院に収容された先輩は、そこでしばらく療養されており、日曜日に皆で静岡までお見舞いに行ったことをかすかに覚えている。世の中の多くの方々のお世話になってしまったが、ともかくも全員無事のハッピーエンドを迎えられたのは何よりだった。そしてこの出来事への反省から、高校山岳部では山へ持って行く医薬品リストや応急マニュアルを整備し、部費を集めてトランシーバーを購入することになったのだった。無論、合宿場所の選定にあたっても、緊急の際のエスケープ・ルートなどが常にチェックの対象になった。

 あの時に患者への応急処置と私たちが取るべき行動について、一貫して的確な判断を下された医学生の先輩は、その後は大学病院に勤められ、日本における救急医学の第一人者になられた。そして、あの時に発病された先輩は、そのことがきっかけになったのかどうか、自らも医学部に進まれ(しかもその大学では山岳部に所属されて)、神奈川県で今も医師として活躍を続けておられる。当時高校一年生だったA君・T君・私の三人にとっても、この秋合宿での体験が色々な意味で人生の「肥し」になったことは確かである。

 思い出話は尽きないが、時間には限りがある。私たちは表参道の居酒屋での会をお開きにして、渋谷駅までゆっくりと歩いた。そして、制服姿で通学していた当時とはまるっきり変わってしまった渋谷駅のハチ公口で、再会を期してハグを交わす。生きている限り、この友情は大切にして行きたい。
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(あの幕営地からずっと見えていた塩見岳)

 翌10月1日(日)の朝8時前、京王線高尾山口の駅前で5ヶ月ぶりに山仲間のH氏と再会。昨夜のA君との会でも一緒だったO女史を含めた三人での軽い山歩きにこれから出かける。

 この春に私が膵臓がんの手術を受けることを知らせて以来、H氏には何かにつけて気遣いをしていただき、入院中も色々と励まされたものだった。退院後も7月末頃まで私は体調が安定せず、そもそも運動はまだ制限されていたのだが、8月の後半から次第に食欲と体力が回復し、ちょっとしたジョギングが出来るようにもなっていた。無論、週末の山歩きも術後は封印したままだったのだが、リハビリを兼ねてそろそろ軽いコースならどうか、ということでH氏が約3時間の高尾山往復に誘ってくれたのである。今日は朝から秋晴れのいい天気だ。

 平坦な舗装道とは異なり、形状の複雑な山道を歩くにはちょっとしたコツが要る。高尾山なんて何ほどのことはないと思いがちだが、こうして久しぶりに山に入ってみると、高尾山の稲荷山コースはこんなに木の根が張った山道なのだということを改めて認識することになった。
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 リハビリ目的だから、息が上がらないよう、とにかくゆっくりと歩く。今まではすっ飛ばすように歩いていた山道も、こうして一歩一歩踏みしめるように歩いてみると、あたりから聞こえて来る秋の虫の音や木漏れ日に輝く緑が何とも愛おしい。
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 コースタイムよりも若干ゆっくり目の計画を立ててはみたが、自然体で歩いていると、コースタイムほども時間はかからない。8時に高尾山口を出て、稲荷山で長めの休憩を取りながらも、9時40分には高尾山頂の少し先にあるモミジ台に着いてしまった。計画上、今日はここまで。私としてはまだ腹五分にも満たない感じではあるが、ゆっくりゆっくりと活動の幅を広げていくのがリハビリの極意であるようなので、初回はこの程度にしておくべきなのだろう。今日はよく晴れて、丹沢連峰の眺めが爽やかだ。標高600m近辺の低山でも、それなりの秋が始まっていた。
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 お目当ての富士山だけは何となく雲の中である。それに、まだ冠雪が始まっていないので、見えていたとしても少し迫力に欠ける。次に来る時にはその頂上付近の雪を眺められるだろうか。
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 モミジ台のベンチでフルーツを食べながら展望を楽しんだ後、どこかの動物園のような賑わいの高尾山頂を経て下山路へ。木曜日に降った雨が日陰ではまだ十分乾いておらず、下りは滑りやすいので、予定していた琵琶滝コースはやめて、舗装された薬王院の参道を下る。コンクリートを踏みながらの下山は味気ないが、それでも今の私には両側の山の緑がありがたい。手術を受ける前も、今年に入ってからは忙しくてずっと山に行けてなかったから、山歩きは実に10ヶ月ぶりのことになる。その分だけ、自分には山の緑への飢餓感があったのだろう。年間3百万人が訪れる今や一大観光地の高尾山だが、目を向けてみればまだまだ緑は豊かだ。そんな緑に久しぶりに触れた半日。今日はH氏に感謝である。
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(混雑する高尾山頂にも、それなりの秋が。)

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 膵臓がんの手術を受けてから5ヶ月と一週間。今現在は(メニューは選ばざるを得ないものの)概ね人並みの量の食事が摂れるようになり、それなりに体力も回復して、会食や国内出張、そして今日のように軽く体を動かすイベントにも参加出来るようになった。この春以来会えなかった人々、出来なかったことに対して、この秋は私にとって「再会」、そして「再開」の時である。オーバーペースにならないよう、自分の体を客観的に見つめながら、人々や物事とのご縁を大切にして行こう。

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Fさんを悼む [自分史]


 8月9日(水)、ここ最近にしては少々遅くまで会社に残っていた。還暦を過ぎたこの歳になっても、どうしてもその日の内にやっつけておかねばならない仕事というのが時にはあるものだ。集中してPCに向かっているうちに、つい時を忘れてしまった。

 帰宅してシャワーを浴び、晩飯をつまみながら日経新聞の夕刊に目を通していると、直近の物故者に関する追想記事が2面に載っていた。そして、そこにあった顔写真を見た次の瞬間、もう30年近く前の遠い記憶が私の中に次々と甦り始めた。その写真は、私が30代のまだ前半だった頃にロンドンの現地法人でお世話になったFさんの、トレードマークとも言うべき笑顔だった。そのFさんが亡くなられたのは約2ヶ月前、今年の6月半ばのことである。
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 ロンドンの金融街、シティ。その南端にあるCannon Street駅で地下鉄を降りて、私が現地法人のオフィスに「初出勤」をしたのは、1988年4月25日(月)の朝のことである。その日から一年間、私は東京の本社からの業務トレーニーとして、そこにお世話になることになっていた。当時の私は新卒入社の8年目。前々年の5月に結婚し、前年11月には長男が生まれたばかりだった。

 当時の会社には「勤務地希望調査」という制度があって、各々の社員が現在の部署で仕事を続けたいのか、或いは異動の希望があるのか、後者の場合にはどんな分野の仕事をしたいのか、その希望を(一応ではあるが)職制を通じて人事部が定期的に吸い上げる仕組みになっていた。以前の部署で海外とはおよそ無縁な仕事を4年近く続けていた私は、この勤務地希望調査で「国際業務」と「市場関連業務」に手を挙げていた。その数年前から私の会社が属する業界では、外圧によって規制緩和が段階的に始まっており、会社としても国内の伝統業務ばかりに拘ってはおられず、「海外」と「市場」にも強くなる必要があった。そういう時代が早晩やって来るのなら、私も若い内にそれを経験しておきたかったのである。

 そんな希望を出していた私を、当時の部署の部長であったIさんは精一杯後押しして下さったようだ。その結果、1988年2月の中頃に人事部から異動の内示が私にあり、4月からロンドンの現地法人で一年間の業務トレーニーに出よとのこと。

 そのロンドン現法とは、規制緩和が日本で今後も更に進み、業界と業界を隔てる垣根が取り払われた時のために、既にそうした規制のない英国で垣根の向こうの仕事の経験を積んでおくことを目的に、1970年代に設立されていた。垣根の向こうとはまさにマーケットを相手にする業務。ならばロンドン現法での業務トレーニーとは、要するに「国際業務」と「市場関連業務」を同時に勉強して来いという訳だ。あまりの「願ったり叶ったり」に、私はしばらく茫然としてしまった。

 異動の内示を受けて、改めて部長のIさんに挨拶をすると、
 「いやあ、おめでとう!ロンドン現法の社長はF君だろう? 君のことを宜しくって、今度手紙を書いておくよ。」
と言って下さった。「筆まめ」で有名だったIさんも、ロンドン現法を率いる社内きっての国際派Fさんも、共に私が卒業した高校の大先輩だった。

 Bank of Englandからは目と鼻の先にある大きなビルの上層階。その社長室で初めてFさんと対面した。眼光鋭く、極めて理路整然とした語り口、しかし人柄は実に穏和で、その人懐っこい笑顔が大きな魅力、というのが私の受けたFさんの第一印象だった。

 「私は入社してから7年間、ずっと国内の仕事ばかりしていたので、『海外』や『市場』はまだ何にも知りません・・・。」
 「だからトレーニーとして来たんでしょ? 遠慮することはない。わからないことは先輩たちに何でも質問してみなさい。皆忙しそうにしてるけど、聞けばちゃんと教えてくれるから。聞けるのは今だけだよ。」

 Fさんにそんな風に励まされて、ともかくもロンドンでの私の第一歩が始まった。
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(ロンドンの金融街・シティ)

 ロンドン現法は、日本からの派遣社員が20名、現地スタッフが約200名の大所帯だった。それにもかかわらず、社長のFさんは現地スタッフ一人ひとりの顔と名前をよく把握しておられ、オフィスの中では分け隔てなくあらゆるメンバーと気さくに接しておられた。最近の言葉でいう「上から目線」とはおよそ無縁の人で、いつも私たちと同じ高さから語り掛け、多くのヒントを与えて下さったのである。

 そして、「弁舌爽やか」とはこの人のことを言うのかと思うほど、実に明快で説得力のある話し方。しかもFさんの英語は日本語のそれと同等かそれ以上に雄弁で理知的なのだ。わかりやすくて知的だから誰もがFさんの話を聞きたがり、誰とも気さくに接してくれるから日本人・外国人を問わずFさんの周りには自然と人の輪が出来る。それがFさんのお人柄だった。Fさんを知る人はおそらく全員が、こんな所に限りない魅力を感じていたはずである。短い期間ではあったが、ロンドン現法の末席のそのまた末席からFさんの薫陶を受けたことは、私にとってかけがえのない財産になった。

 1988年といえば、その頃の日本は空前の株価バブルに酔っていて、いわゆるジャパン・マネーがロンドン市場を席捲していた。株価が上がるからワラント債の発行ラッシュで、ロンドンでは毎週のように日系銘柄のワラント債の調印式が開かれていた。そのおかげで現地の日系社会も羽振りが良かったのだが、その年の夏を過ぎると昭和天皇の容態悪化が本国から連日伝わるようになり、「歌舞音曲の自粛」はロンドンにも及び始める。日系企業の派手なパーティーなどは潮が退くようになくなった。

 そんな中、Fさんが6年にわたる現法社長の任務を終えて東京の本社に帰任されることになった。10月の終わり頃だっただろうか、自粛ムードの真っ只中で私の会社は現法社長交代パーティーを敢えて開き、歴史のあるロンドンのホテルに多くの取引先・関係先を集めた。無論、日系社会のためだけのパーティーでは全くなく、極めてオーソドックスな内容だったから、何ら誹りを受けるようなものではない。そして会場では日本人・外国人を問わず、実に多くの人々がFさんとの別れを惜しんでいた。
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(Fさんの社長交代パーティーが開かれたロンドンのホテル)

 それから、歳月は流れた。本社に帰任されたFさんは当然のように役員に選ばれ、最後は会長にまでなられた。そして私が香港に駐在中の、あれは2001年の初夏の頃だったと思うが、Fさんが中東への出張の帰りに香港に寄って下さったことがあった。おそらくフライトの乗り継ぎの関係で香港経由の帰国になって、それなら会社の拠点に寄ってみようということになったのだろう。

 本社の会長が来るともなれば、拠点長が空港まで出向き、会長様御一行をお迎えして道中をご案内するのが普通なのだろう。だが、お伴も連れず我が身一つで中東を歴訪されていたFさんは、香港拠点長のMさんに予めこう伝えていたという。
 「香港での出迎えは要らない。空港に車を回して、ドライバーがわかるようにだけしといてくれればいい。後は自分でホテルにチェックインしてからオフィスへ顔を出すよ。」
 実際にそうやってFさんは独り飄々とオフィスに現れたと、後になってMさんの秘書が語っていた。

 拠点長のMさんがFさんを連れて、オフィスの中を一回り。現地スタッフ達と打ち合わせをしていた私たちの部署のドアが開いた。
 「ここはプロファイのチームで、あそこにヘッドのK君が座っていますよ。」
Mさんの声が聞こえた次の瞬間、私は10年ぶりぐらいにFさんと目が合った。

 「あっ、Fさん。すっかりご無沙汰しています!」
 「いやあ、どうも暫く。それにしても君、相変わらず血色が良くて元気そうだねえ。」
 「ありがとうございます。まあ、ご覧の通りの酒池肉林の香港ですから、おかげさまで栄養だけは足りてます。(笑)」

 Fさんの近くへ行って挨拶をした私は、半袖ポロシャツにチノパン、首から携帯電話をぶら下げた全くの現地スタイル。今日はFさんが来られるから背広にネクタイ、という発想は私たちにはなかった。そして、Fさんもお互いにフランクな接し方を寧ろ好まれた。

 ついでながら、ここまで「Fさん」と綴って来たように、私の会社では人を肩書では呼ばないのが伝統だった。上下の垣根が低く、虚礼が実に少なく、相手が部長だろうが役員だろうが「〇〇さん」と呼んで、社内ではどこでも自由闊達な議論をしていた。そして、Fさんはまさにそういう社風を象徴するような人だった。

 翌日の朝はFさんが宿泊していたホテルに集まり、6人ほどでFさんを囲む朝食会。ここでも和気藹々と色々な話題に花が咲き、相変わらずのFさんの人を惹きつけるお話を皆が楽しく拝聴することになった。どんなに偉くなられても決して威張るところのない、気さくなFさんのお人柄は本当に昔のままだった。
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 その翌年の春、私の会社と他2社との合併が正式にスタートした。以前の会社としては最後の会長となったFさんは、その合併を機にご退任。程なく外資系企業の日本法人の会長へとスカウトされた。内外に知己の極めて多かったFさんのことだから、まさに引く手数多だったのではないだろうか。

 だがそれから数年を経て、Fさんは病魔に襲われることになった。それも、英国の高名な物理学者スティーヴン・ホーキング博士と同じASL(筋萎縮性側索硬化症)という原因不明の難病だった。筋肉の萎縮と筋力の低下が進んでいく病気で、Fさんはやがて言葉を発することが出来なくなった。スカウト先の会長職を辞されたのは致し方のないことだった。

 あの弁舌爽やかなFさんが言葉を話せなくなってしまった。周りの者でさえ何とも残念に思ったのだから、ご本人にとってはさぞかし不本意なことだったろう。けれどもFさんはそれを筆談にかえ、やがてそれも出来なくなると視力入力のパソコンなども駆使して、世の中に色々なことを発信し続けたという。最新の技術に常に興味を持ち、病床にあっても常に前を見続けておられた。

 「病床で書いた英語のスピーチの表題は『A POSITIVE LIFE』(前向きな人生)。これ以上にFさんをよく表している言葉もない。」

 日経新聞の追想録は、こう結んでいる。

 以前にも書いたことだが、私はこの春に初期の膵臓癌が見つかり、4月の終わりに開腹手術を受けた。それから3ヶ月が経過した今の時点で、体の回復具合は想定の範囲内にあり、各種の検査を通じて現時点で転移は見られないとの医師の話だ。そして、将来の転移リスクを可能な限り減らすべく、今月からは抗がん剤の服用が始まっているが、その副作用との兼ね合いを図って行かねばならず、将来のことも考えると、まだまだ不安は拭えないというのが本音のところだ。けれども、難病の中にあっても終始前向きであり続けたFさんの写真を眺めていると、癌の一つぐらいでクヨクヨしていてはダメなんだと、あの忘れようもない笑顔がそう教えてくれているように思う。
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 2017年6月19日没、80歳。Fさんの「お別れの会」は、お盆明けの8月21日に東京のパレスホテルで行われるそうである。

 合掌

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