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花看半開 [季節]


 人間とは、幾つになっても肚が坐らないものだと、つくづく思うことがある。

 「花をみたとき、にっこりと笑う心。花の美しさに自然に微笑む心、この心こそ人間誰もが持っている仏心です。 (中略)
 花をみて笑える心は、食欲、色欲、財欲、名誉欲、睡眠欲などの強烈な人間五欲のほかの心です。その、ほかの心が花をみてにっこりと笑わせる。人間にとって一番純粋な心、清らかに澄んだ心が笑わせる。
 なんぼ花をみても銭もうけにはならん。デートの代わりにもならん、腹もふくれん。が、それでも花をみて笑える。どんな貧乏のどん底におっても花をみて笑える。こういうすばらしい心が人間には在るのです。それが人間の本心だと分かることが仏教じゃ。」
(『仏音』、高瀬 広居 著、朝日新聞社 より 臨済僧 山田無文の言葉)

 今から8年前、つまり2010年のちょうど今頃、桜の開花の時期に、かつて読んだことのある本のこんな一節を、このブログに引用したことがある。その引用部分は、仏教の入門書には必ず出て来る拈華微笑(ねんげみしょう)というエピソードについての一つの解釈の仕方なのだと個人的には理解しているのだが、そこで臨済僧が語っていることは決して難解なことではないと、その時の私は、少なくとも頭の中ではそう思っていた。五欲から解き放たれれば、人間はどんな時でも花をみて笑える。それはきっとそうなのだろうと。

 ところが、それから7年。つまり去年のちょうど今頃、私は「花をみて笑える心」どころか、花を眺める余裕すら失っていた。今から思い返しても、ああ花が綺麗だといって外を歩いた記憶が全くと言っていいほど無いのである。それどころではなかった。自分の生死にかかわることが自分の体の中で起きていた、そのことを知らされたのだった。

 「精密検査の結果、膵臓がんの疑いあり。一刻も早く手術を受けるべし。」

 高校時代の級友で内科医を務めているS君から、そんな所見があったのが昨年の4月12日。そしてその二週間後の4月25日には都内の専門病院で開腹手術を受けるという段取りが、あれよあれよという間に決まっていった。

 そこまで迅速な手配をしていただけたのは本当に得難いことで、S君をはじめとして手を尽くしていただいた皆さんには心から感謝を申し上げねばならない事柄なのだが、深刻な事態を迎えていることへの実感が、当の私には今一つ湧かず、「いつも全面的に信頼して来たS君の言うことだから、ともかくも彼が薦める通りにしていこう」ということしか考えていなかったように思う。

 「頭の中が真っ白になって、何も考えられなくなった」とか、「ショックで食べ物が喉を通らなくなった」とか、そういう事態に陥ることはなかったと、自分では思っている。

 膵臓がんは一般に発見が遅く、手遅れのケースが非常に多いので、発見から5年後の生存率ががんの中でも一番低い、要するに助からない病気である。その病に直面したことは確かにショックであり悲しくもなったが、だからといってジタバタしても仕方がない。最後はなるようにしかならないのだから、ともかくも主治医の指示に従い、自分の身を全て預けることにしよう。

 そこまでは気持ちの整理がついていたのだが、例年よりだいぶ早く桜の季節が終わった後、それに続く一年中で一番素晴らしい花の季節に、花を愛でることを全く忘れていた。結局のところ、私は肚が坐っていなかったのである。
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 S君の所見を受けてからの二週間はあっという間に過ぎ去り、4月25日が到来。開腹手術は(ほぼ予定通りだそうだが)5時間にわたり、その日の夜は病院の集中治療室で過ごし、体にまだ管が付いたままの状態で翌日の昼に病室に戻された。こんな体験をしたのは私の人生では初めてのことだ。それでも術後の経過は比較的順調な方で、5月の連休を迎えた頃には、二時間程度ではあるが点滴を外して病院の周辺へ外出することが許された。

 5月5日の祝日、窓の外は好天だ。見舞いに来てくれた家族と共に、入院後初めて病院の外に出て、隣接する緑地をゆっくり歩くことにした。風薫る5月。病院の急患入口の自動ドアが開いて外の空気を吸い込んだ時の心地よさ、そして次の瞬間に目の中に飛び込んで来た緑の眩しさは、今でもはっきりと思い出すことが出来る。

 窓ガラス越しに眺めるのとは全く違う、それは命の躍動とでも言うべきものだろうか。木の幹に体を預け、フレッシュで柔らかな緑の葉に手を触れてみると、命のいとおしさが脈々と伝わって来る。「生きている」とはこういうことなのだ。61歳を迎えたばかりの私は木々の緑にそう教えられていた。
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 その後も経過は比較的順調な部類のまま推移し、手術の日から16日目の5月10日に退院。その日を含めて5日ほど自宅で静養し、5月15日から会社への出勤を再開。それから二週間が過ぎたところで一度体調が悪くなり、再び10日ほど入院することになった。そして、血液検査の数値やCTの画像にも異常は見られなくなったので、6月8日に漸く退院。今から思えば、最初に退院した後にわりと直ぐ会社に復帰したのは、ちょっと頑張り過ぎていたのかもしれない。

 その後も日常生活において辛さのある日々が続いた。何といっても開腹手術というのは想像以上に体へのダメージが大きいものであるようだ。そして、ロクに物が食べられない状態が続き、いつまでたっても下痢が治らない。それに加えて、がん治療とはそういうものであるようだが、術後の体調回復が十分でないうちに抗がん剤の服用が始まり、これがまた色々な副作用を伴うことになる。

 夏が過ぎる頃までは、平日の帰宅後や週末には横になっていることが多く、さすがに気分が滅入った。体重が大きく減って筋肉も落ちてしまった今、もう昔のように元気に体を動かすことは出来ないのだろうか。真夏に咲く花が少ないこともあるのだが、そんな状態だった私は依然として花を愛でる心を失ったままだった。

 その後、初秋の頃から少しずつながら体力が戻り始め、食事の量もそれに合わせて増えていった。抗がん剤の副作用にもある程度体が慣れてきたのだろう。無理のない範囲で出張にも出るようになり、短いコースながら週末の山歩きも再開出来た。そして、抗がん剤の服用は予定通り年末で終了。以後は普通に生活していて、今年6月の経過観察を待つ身となっている。

 昨年の春以降をそんな風に過ごしてしまったからだろう。今年はまだ真冬の間から、例年にも増して花の季節が待ち遠しくなり、春の兆候を探しにカメラを持って外に出ることが多くなった。放っておけばそのまま死に至る病を得た私は、手術とその後の治療によって、ともかくも今こうして生きているということを有難くも実感させていただいている。そんな我が身にとっては、新たな命が輝き始める早春は何とも眩しいばかりだ。
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(1月28日 新宿御苑の寒桜と蝋梅)

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(2月4日 小石川植物園の梅園)

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(3月3日 浜離宮恩賜公園の菜の花畑)

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(3月24日 小石川植物園)

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(3月25日 皇居・千鳥ヶ淵)

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(3月27日 小石川・伝通院)

 花看半開 酒飲微醺 (花は半開を看(み)、酒は微醺(びくん)を飲む)

 『菜根譚』の中の有名な一節で、「満開の花より半開こそ見ごろであり、酒もほろ酔い加減がいい」と述べている。私も昨年の体験で、花や緑を眺めることによって湧き起る「命の愛おしさ」に少し敏感になっているからだろうか、『菜根譚』のこの一節が今更ながら心に響くように思う。物事は何でもmaximumがいいのではない。絶頂期よりも、そこに向かって物事が加速を続けている、言わば微分係数が最大になる頃が一番の見ごろだという訳で、命が最もその躍動感を見せるのが花で言えば五分咲きの頃であり、酒で言えばその旨さが一番わかる程度のほろ酔い加減がベストということだ。

 もっとも、桜に限っては五分咲きの頃だけではなく、散った花も、花と入れ替わるようにして甦る若葉も素晴らしい。
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(3月31日 練馬区・石神井公園)

 そして、桜よりも長く花を楽しめる桃。一つの木から多様な色彩の花が咲き、桜のような忙しなさがない。そのどこかのんびりとした穏やかさが、私は好きだ。
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(4月1日 新宿区・早大通りのシダレモモ)

 桜が終わると、それを待っていたかのように緑が甦る。新緑は何といっても5月が素敵だが、4月中頃の、本当に生まれたばかりのような若葉の輝きもまた格別である。
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(4月7日 小石川植物園)

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(4月8日 新宿区・戸山公園)

 そして、3月に平年より暖かい日が続いた今年は総じて草木の開花が早く、東京都心ではツツジが既に見ごろになっている。
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(以上、4月15日 文京区・根津神社)

 ひとまずは経過観察の身になったとはいえ、私が抱えた病気について今後のことはまだ何とも言えない。基本的に自覚症状の出にくい病気だから、体の中で進行していても自分ではわからないのだ。だから本当にまだ何とも言えない。だが、昨年の轍は踏まず、これからどんなことがあっても、「花をみて笑える心」を忘れないようにしたいものである。

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立春 [季節]


 2月4日(日) 立春。といっても、外はまだまだ寒い時期である。

 東京の都心部の朝は曇り空が広がっていたのだが、食後のコーヒーを飲みながら読みかけの本に目を通している間に天候が回復していたようで、ふと気がつくと窓のカーテンが明るい陽射しに輝いている。ベランダに出てみると、空の2/3ぐらいに青空が広がっていた。ならば、本の続きは後にして散歩に出てみようか。

 小さなデイパックを肩に、我家の近くにある植物園へ。ここも随分とご無沙汰してしまっている。いつものように正面の坂道を登って桜の広場に出ると、あたりの木々はひっそりと春を待っていた。
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 空が曇っていた朝こそ肌寒かったものの、正午を過ぎたばかりの今は南側の空が良く晴れていて、太陽の輝きが眩しくて暖かい。考えてみれば、今日が立春だから、太陽が一番低くなる冬至から1ヶ月半ほどが過ぎた訳で、春分までの道のりのちょうど半分が経過したことになる。
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 暦というのはよく出来たもので、毎日の平均気温の平年値(現時点で適用されるのは1981~2010年の30年間の平均値)が年間で最低になるのは、二十四節気のちょうど大寒の頃だ。それを過ぎてもまだ気温はなかなか上がらない一方で、南中時の太陽高度は冬至を過ぎてからは徐々に上がり始め、その後は次第に加速をつけて高くなっていく。太陽の輝きの眩しさと風の冷たさとの間のギャップ、すなわち「光の春」を一番感じるのが今頃だというのも、やはり理屈があってのことなのだ。
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 桜の広場からスズカケの林を過ぎ、針葉樹林を抜けて坂道をゆっくりと下ると、日本庭園の先にある梅林ではその1/4ほどの梅の木が既に花を開いていた。
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 ある時期になると多くの木々が一斉に開花する、まるで集団行動のような桜とは対照的に、梅の開花時期は木によって様々だ。そして、花の色にも個性があり、寒風・冬枯れの中で一人花を開き、微かな芳香を放つ・・・。座禅によって己(おのれ)を見つめ続ける禅宗では桜よりも梅が好まれるというのも、何だかわかるような気がする。
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 その日、東京の日中の最高気温は9.8度まで上がり、風のない穏やかな昼下がりを、私はこんな風に植物園の自然の中でのんびりと過ごしていた。そして、翌2月5日(月)は冷え込みが厳しかったものの、東京は引き続きよく晴れた冬の一日だった。ところが、その日から北陸地方では稀に見る大雪が始まっていたのである。

 日本列島が西高東低の冬型の気圧配置に覆われる時、等圧線の間隔が狭くて縦に並ぶものは「山雪型」、等圧線の間隔が広くて斜めに並ぶものは「里雪型」と呼ばれる。2月5日と6日の天気図を見ると、等圧線の間隔は広く、そして等圧線の方向がちょうど北陸地方の上空で斜めになっていた。これは平野部で大雪になるパターンだ。事実、北陸三県では雪が降り続き、特に福井県でそれが激しかった。県庁所在地・福井市の毎日の最深積雪量を見ると、2月4日時点で40cmだったのが5日には82cm(+42)、6日には136cm(+54)に急増、そして翌7日には147cmに達している。
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 147cmと簡単に言ってしまったが、よく考えてみればテニスコートの中央にある審判台の座面の高さが150cmだから、要するにあの審判台がほぼスッポリと埋まってしまう高さである。山の中ならともかく、市街地でその高さの積雪とは大変なものだ。

 2~3日の間にこれだけの量の雪が積もってしまえば、鉄道も道路も除雪が追いつかなくなるのは当然のことだろう。トンネルが多く、除雪のための仕組みを色々と備えた北陸新幹線は別として、在来の鉄道が軒並み運休となっただけでなく、特に福井県下で国道8号線をはじめとする道路交通にも深刻な影響が出て、極めて多数のクルマが立ち往生してしまった様子は、日夜報道されている通りである。

 「雪国」のイメージのある北陸地方だが、平野部で1メートルを超えるような積雪がずっと続く訳ではない。県庁所在地の福井市・金沢市・富山市をとってみれば、冬の間の積雪量は平年値ベースで20~30cm程度のものである。交通が寸断されて市民生活に大きな影響が出るような豪雪というと、近年では1980(昭和55)年の年末から翌81(昭和56)年1月中旬にかけての、いわゆる「五六豪雪」に遡ることになる。
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 この時は北陸三県で12月28~29日、1月5~6日、同13日及び15日と波状的にドカ雪となり、福井市では積雪が1月15日に史上最高の196cmに達している。金沢・富山でも程度の差こそあれ同じような状況だった。
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 五六豪雪の時の北陸地方は、実は12月から平年に比べてかなり寒い冬を迎えていた。気温が低いと降った雪がなかなか融けず、そこへ新たな雪が積み上がってしまう。福井市の場合、年明け後も平均気温が平年値よりかなり低い状態が2月中旬まで続いたために、1月15日に196cmに達した積雪が2月中旬までは1mを超えた状態で残ったのである。

 平均気温と積雪量の逆相関のような関係は今年も同じで、1月に何度かあった平年よりも低温になった時期に積雪量が多くなっている。そして2月に入り、五六豪雪時よりも更に寒くなったところへ里雪型の気圧配置になったことが、今回の豪雪をもたらしたのだ。注目すべきは、2月6日に福井市の最深積雪量136cmが五六豪雪の時の同日の積雪量に並び、翌7日にはそれを上回ったことだろう。局面的には「五六を超える豪雪」とも言えるのである。

 いささか昔話になってしまうのだが、大学を卒業して社会に出た最初の3年間を、私は富山市で過ごしている。着任をしたのは、ちょうどこの五六豪雪の雪がすっかり消えた4月の第3週のことだ。着いた翌日が穏やかによく晴れた日で、真っ白な北アルプスの立山や剱岳、そしてその北方にある毛勝山などが間近に見えていたことを、今でもよく覚えている。

 山が近く、豊かな自然に囲まれた富山市は誠に愛すべき街で、今から思えばその何とものんびりとした環境の中で社会人の第一歩を踏み出せたのは、大変に幸せであったという他はない。多くの人達に本当によくしていただいたので、私の記憶には楽しかったことしか残っていない。仕事のことはともかく、雪国の暮らしを実際に経験することはとても貴重なことで、実に多くのことを学ばせていただいたように思う。(そのおかげで、雪道でのクルマの運転にも一応の「免疫」が出来ていて、それが今の仕事でも役に立つことがある。) 以来、私の中では富山への愛着心をずっと大切にし続けてきた。

 その北陸が、あの時以来の豪雪に見舞われている。福井県でも2月8日のうちに何とか道路上でのクルマの立ち往生を解消したいとのことだが、その先の天気予報を見てみると、これから週末にかけて日本列島には気圧の谷がやって来て、2月11日(日)は全国的に雨。そして振替休日となる2月12日(月)には再び冬型の気圧配置となる見込み。そして想定される等圧線の形はまたしても里雪型だ。しかもその日から強い寒気がまた降りて来る。北陸はもう一度大雪への備えが必要になるようだ。
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 雪の季節での北陸の暮らしは懐かしいが、大雪に人々が難儀するようなことにはなって欲しくない。久しぶりに寒い冬となった今年だが、大雪もそろそろ手仕舞にしてはもらえないだろうか。

 日々の天気予報を眺めつつ、彼方の北陸の空に思いを馳せている。

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空虚な祝日 [季節]


 1969(昭和44)年7月20日というと、私が中学1年の夏の或る一日だった。私が通った中学の伝統行事であった「夏の海浜生活」、要するに臨海学校があり、私はこの日を挟む一週間を内房の富浦町で過ごしていた。この年は7月14日に関東甲信地方が梅雨明けを迎えており、とにかく毎日が真夏のカンカン照りだった、というのが私の記憶に残る冨浦での一週間である。

 この臨海学校にはとても長い伝統があって、私たちを指導してくれた先輩方(水泳部のOBが中心)はみんな褌(ふんどし)姿だった。海上に櫓(やぐら)を立てて飛び込みを教わり、日本の古式泳法を教わり、そして最後には生徒全員で4kmの遠泳。梅雨明け後の夏空の下でこんな毎日を過ごしたことは、もう半世紀近くも前のことなのに、今もどこかわくわくする思い出になっている。
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 さて、この年の7月20日は日曜日だった。臨海学校の真っ最中だったから当時の私たちに曜日の感覚はなかったが、実はこの日は、これから空の彼方で始まろうとしていることに世界中の人々が固唾を飲んでいた日曜日だった。サターンⅤ型ロケットで打ち上げられた米国の宇宙船コロンビア号が有人の月探査船イーグル号を切り離し、人類が史上初めて月面に降り立つという、いわゆる「アポロ11号計画」がそのクライマックスを迎えようとしていたのである。
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 イーグル号の月面着陸時刻は協定世界時の7月20日20時17分40秒。日本時間では翌21日の午前5時17分40秒である。当時としては当たり前のことながら臨海学校はテレビのない生活だったから、私たちはリアルタイムではこのニュースに接していない。しかしそれは引率の先生方から口頭で伝わり、当然私たち生徒の間でも話題になった。

 櫓の上から海に飛び込んで、しばし海の深さを全身に感じた後、再び海面に浮かび上がって息を大きく吸い込むと同時に視界に飛び込んで来る真っ青な夏空と白い雲。私たちがそんな日々を過ごしていた時に、その夏空の彼方では人類の新たな歴史が始まっていた訳だが、ともかくも7月20日といえば「夏の海」というのが、この時以来私にとって一種の刷り込みのようになった。そしてこの日は、関東甲信地方における梅雨明けの平年値でもある。

 それから四半世紀が過ぎて、1995(平成7)年の法改正で7月20日は国民の祝日になった。言うまでもなく「海の日」である。「国民の祝日に関する法律」によれば、「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」ことが祝日制定の趣旨なのだそうだ。然らば、それが何故7月20日なのか。それは、この日が戦前から「海の記念日」に定められていたことに基づくものだ。

 今ではあまり語られることもないが、明治5年から18年にかけて計6回にわたり、明治天皇による地方巡幸が行われた。その内訳は以下の通りである。
  第1回: 大阪・中国・西国巡幸(明治5年5月23日~7月12日)
  第2回: 奥羽・函館巡幸(明治9年6月2日~7月21日)   
  第3回: 北陸・東海道巡幸(明治11年8月30日~11月9日)
  第4回: 山梨・三重・京都巡幸(明治13年6月16日~7月23日)
  第5回: 山形・秋田・北海道巡幸(明治14年7月30日~10月11日)
  第6回: 山口・広島・岡山巡幸(明治18年7月26日~8月12日)

 この内、明治9年に行われた第2回の奥羽・函館巡幸は、とりわけ大きな意味を持っていたのではないだろうか。何しろ、東北各地と道南が戦場になった戊辰戦争の終結からまだ7年、廃藩置県の断行からは5年しか経っていなかったのだ。

 西南雄藩の出身者ばかりが光を浴びる新国家の中で、ひとえに損な役割を負わされることになった東北地方。とりわけ旧会津藩の人々は、移住の地としてあてがわれた陸奥・下北の地で大変な苦労を背負って来た。他方、新国家といってもまだ憲法もない頃だから、この段階の日本は「立憲君主制」とも言えず、ひとまず「王政復古」をしただけの状態だ。まずは明治天皇自らが東北各地を訪れ、その存在を民に知らしめること、そして戊辰の戦役以来の怨念が残る地において民を慰撫するというプロセスが、どうしても必要であったのだろう。この巡幸が東北地方と函館をセットにしていることが、何よりも戊辰戦争を強く意識したものであったことを示している。
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(福島県下桑野村の開墾地に到着した明治天皇)

 巡幸に先立って、まずは先発隊が行先の調査を入念に行っており、この奥羽・函館巡幸では参議・大久保利通が自らこの先発隊の指揮を執った。大久保はその調査結果を本隊並びに留守を預かる三条実美に報告し、巡幸の本隊は皇族をはじめ、岩倉具視・木戸孝允・大隈重信といった面々によって構成されたという。明治9年といえば西南日本で不平士族が不穏な動きを見せていた頃で、実際に10月には神風連の乱・秋月の乱・萩の乱などが起きている。そんな情勢の中、天皇巡幸のお供とはいえ新政府の高官たちが二ヶ月近くの間、よく政府を留守に出来たものだと思ってしまう。

 東北地方にはまだ鉄道がなかった時代。巡幸は基本的には馬車による移動だった。明治天皇御一行は現在の福島県・宮城県・岩手県・青森県の各地を巡った後、用意されたお召し船で函館へ渡り、帰路は三陸経由で横浜へ。この函館からの航海は三日連続の荒天だったそうだが、明治帝は最後まで泰然としていたとされる。

 この時のお召し船は明治丸と名付けられた鉄製汽船だった。明治の初年に各地に建設された洋式灯台のメンテナンスのため、灯台巡視船として新政府が英国に発注した船で、この巡幸の前年に日本に到着したばかり。要するに当時の日本にあった汽船としては最新鋭のものだった訳で、明治天皇を乗せたこの船が横浜港に無事到着したのが、明治9年の7月20日だった。これを踏まえ、昭和16年になって当時の逓信大臣・村田省蔵の提唱によって7月20日が「海の記念日」に制定されたのである。(と言っても祝日ではなく、国民を挙げてお祝いするような日ではなかったようだ。)
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(東京海洋大学に保存されている明治丸)

 「明治天皇が船で横浜に着いた、それだけのことでなぜ記念日に?」と言うなかれ。そこは私たちなりに当時の日本の姿を想像してみるべきだろう。

 武家諸法度によって大型船の建造が禁じられてから200有余年。明治の日本はともかくも必要な汽船を外国に発注せざるを得なかった。優先順位としては軍艦、次いで物資を運ぶための輸送船だった筈だ。明治天皇が明治丸に乗船した明治9年というと、洋式の汽船で人を運ぶというのはまだ極めて珍しかった頃で、事実明治丸は客船ではなく、前述のように灯台巡視船だった。そして、明治天皇が軍艦以外に乗船した初めての船だったのである。しかも、函館からの帰路は三日続きの荒天だった。「よくぞご無事にご帰還あそばされた」というのが、新政府の高官たちの心境ではなかっただろうか。

 そして、明治天皇が明治丸に乗船したそもそもの理由であるところの奥羽・函館巡幸。そのことの重さを、私たちは理解する必要があるだろう。

 伝統的に天皇は京都御所の外には滅多に出ず、御所の中でも御簾の向こうで姿の見えない存在だった。明治帝の先代・孝明天皇まではそうだったのだ。それが明治維新で日本が王政復古を迎えたために、天皇は俄かに近代国家の君主として洋装になり、必要な場合には民の前に姿を現すことが求められるようになった。しかも、今回の訪問地は戊辰の戦の怨念が残る奥羽・函館である。途中から軍艦ではない船に乗り、帰路は三陸沖の荒波を越えていく三日間の旅だ。この巡幸の実施に踏み切ることは、明治天皇にとっても大きな決断だったのではないか。その大きな使命を無事に終えて、明治天皇は7月20日に横浜港に降り立ち、帝都に戻ることが出来たのである。

 「市民革命」の本家本元のフランスでは、フランス革命とナポレオン戦争で5百万人近くの死者を出したと言われ、その後も王政と共和制とを行き来したために争乱が相次いだ。それに対して、日本の戊辰戦争による死者は約1万5千人だったそうである。そして、日本が1871(明治4)年に廃藩置県という「ただ一つの勅諭を発しただけで、二百七十余藩の実権を収めて国家を統一」し、駐日英国公使ハリー・パークスをして「ヨーロッパでこんな大変革をしようとすれば、数年間は戦争をしなければなるまい。」と驚嘆せしめた、その同じ年にフランスではパリ・コミューンの蜂起があり、一週間で2万人以上の犠牲者を出している。明治維新の少し前、米国では議会制民主主義の下で南北戦争(1861~64)が起こり、4年間で60万人超の死者を出した。更に同時期の中国は何をかいわんやで、太平天国の乱(1851~64)の死者数は2千万人を超えたとされている。

 明治天皇は奥羽・函館巡幸の道中において、沿道各県の県庁・裁判所・学校・工業関係施設・神社・墳墓など予め手配されていた箇所の視察に留まらず、農民の田植えの様子を見るために馬車を止め、田畑の開墾に関する農民の苦労話に耳を傾け、といったことにも意を用いたそうだ(無論、この機を捉えた天皇への直訴は固く禁じられていたが)。「中央集権国家」とか「近代天皇制」といったことをそもそも快く思わない人々には違う意見があるかもしれないが、生まれたばかりの明治国家が、ともかくもこうしたプロセスを経ることで地域間の確執を乗り越え、世界レベルで見れば極めて穏和に初期の地固めを進めて行ったことを、私たちは改めて認識すべきではないだろうか。天変地異が起きた場合も含めて、動乱期にあっても総じて日本の社会が安定していることは、今でも諸外国からの評価が極めて高いポイントの一つなのである。
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(田植えの様子を視察する明治天皇)

 この「海の記念日」がベースになった「海の日」は1996(平成8)年に施行された。(私自身はその年から海外赴任となったので、7月20日が休みになったという実感はなかった。)ところが、2003年に日本に帰任してみると、「ハッピーマンデー制度」とやらの法改正で、「海の日」は7月の第3月曜日になっていた。「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」という極めて漠然としたお題目だけが残ったまま、7月20日の「海の記念日」とは切り離されてしまったのである。

 「海の日」に関連し、海洋基本法には「国及び地方公共団体は、(中略)海の日において、国民の間に広く海洋についての理解と関心を深めるような行事が実施されるよう努めなければならない」という条文があるのだが、私たちが普通に暮らしていて、国や自治体がそういうことをしているという実感を持つことはまずないだろう(地域によっては「海の日」に関連したイベントがあるのかもしれないが)。明治天皇の奥羽・函館巡幸という歴史との繋がりが断ち切られてしまい、国民にとってはただ漫然と7月の第3月曜日が祝日になっただけ。要するにこれは単なる愚民化政策ではないのか。

 明治天皇のエピソードに因んだものであること、昭和16年という戦時体制下で制定された記念日がベースになっていることを忌み嫌う人々の言論を意識して、「海の記念日」との関係を敢えて希薄化させているのかもしれないが、それは本末転倒というものだろう。紀元節を「建国記念の日」、新嘗祭を「勤労感謝の日」などと言い換えているのと同根で、「国民の祝日」なのに国の歴史や伝統文化との繋がりをわざわざ見せないようにしている馬鹿げたやり方だ。これでは日本を知らない日本人を増やすだけである。

 さて、2017年の関東甲信地方は、「海の記念日」を待たず7月18日に梅雨が明けた。以後は連日の猛暑である。還暦を過ぎた私は、夏の海に行かなくなってもう久しいが、半世紀近く前に「海の記念日」を過ごした内房・冨浦の海は、今はどんな様子だろうか。

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パストラーレ [季節]

 
 11月13日、日曜日。東京の都心は穏やかな晴天の朝を迎えた。

 前日から移動性高気圧がぽっかりと私たちの上空を覆い、天気図はいわゆる小春日和のパターンなのだが、昨日は「小春」を少し通り越したような暖かさで、最高気温が18度に達していた。今日もそれと同じぐらいの過ごしやすい一日になることだろう。週末の穏やかな好天。何ともありがたいことである。
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 ベランダに出ると、鉢植えの草花たちが朝の光を浴びている。金曜日の朝は冷たい雨に濡れていたが、昨日の晴天でプランターボックスの土の表面も乾いている。いつも通りに水やりをしよう。

 小さなブドウの木に二房だけ残した実が、今朝は一段と濃い紫色を見せている。会社の同僚に分けてもらった、小さいながらもピノ・ノワール種の木で、ブルゴーニュ地方で育てられていたら、その畑の地名がそのままワインの名前になっていたことだろう。同僚が以前の仕事でヨーロッパに暮らしていて、ブルゴーニュの畑から分けてもらった木を持ち帰り、大宮市郊外の彼の自宅で育てていたものを、私が更にお裾分けを受けたものだ。我家の家族になって既に5年ほどが経ち、小さいながらもそれなりの風格が、この木には出て来たように思う。

 今年8月の初め、一時だけ真夏の暑さと日照りが続いた時に水やりが足りなくて、この木は殆どの葉を枯らしてしまった。どうなることかと思っていたら、それからがしぶとかった。8月の後半になって新しい葉が盛んに出て来た後、小さな実の房が幾つも姿を現したのである。日本よりも遥かに雨が少ない地域で遥かな古代から栽培が行われて来ただけのことがあって、やはりブドウの木の生命力は逞しい。通常の実りの時期には少し遅れたが、今年もまた私たちの目を楽しませてくれている。
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 家族と共にのんびりと朝食をとり、コーヒーを飲みながら一通り新聞に目を通した後、私は再びベランダに出て、空いている鉢にスミレを植えた。

 昨日の午後、都内の実家で一人暮らしをしている母の様子を見に行った時、今日と同じように暖かくて穏やかな日和だったので、母をクルマに乗せて近郊の大きな園芸店へ連れて行くことになった。これから冬の間は庭の色彩が乏しくなるので、母は毎年スミレを植えている。それを買いに行きたいと。今年ももう、そんな季節になった。

 我家のベランダも同様だから、私も母に倣ってみることにした。そして、植えてみると何だか家族が増えたような気分になるから不思議なものだ。ピノ・ノワールの木もそうだが、こうして同じ家に一緒に暮らすのも何かの縁である。間もなくやって来る寒さの季節にも、大事に育てていこう。
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 近くの寺で、正午を知らせる鐘が鳴った。外はワイシャツ一枚でも歩けるほどの暖かさ。せっかくの日曜日。久しぶりに近所の植物園へ散歩に行こうか。いつものようにテルモスに熱いコーヒーを入れ、ピクニック・シートと若干のお茶菓子を持って、家族と一緒に外へ。頭の上いっぱいに広がる青い空。その天を突くように、背の高いイチョウの木の黄葉が始まっている。

 植物園の一角にある緑地。桜の木が並ぶその場所には、小さな子供を連れた家族があちこちにシートを並べ、それぞれに秋の日を楽しんでいる。二人の子供が既に社会人になっている我家。家内も私も、こうした子育て真っ最中の若い人たちの様子に思わず目を細める、いつの間にかそんな年恰好になった。
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 これからいよいよ本格化する高齢化社会。国立社会保障・人口問題研究所が2013年に行った人口推計によると、65歳以上の人口が総人口に占める割合が、2010年時点では25%であったのが、2020年には33%、2030年には36%、そして2040年には41%に達するそうだ。逆に、15歳~64歳のいわゆる「生産年齢人口」は2010年時点では総人口の63%であったのが、2020年には57%、2030年には55%、そして2040年には51%にまで減るという。

 65歳定年を前提にすれば、社会の中で働き手になる人が2人に1人しかいない時代が四半世紀のうちにやって来る。そして、年齢上はこの私もあと4年半足らずで働き手ではない人に括られることになるのだ。そうだとすれば、私自身を含めてこれから高齢者になる世代は若い人たちに余計な負担をかけないよう、よほどしっかりしていないといけないし、何よりも国全体が思いっきり若い人たちに目を向けた政策をとっていく必要があるだろう。数多くの子育て世代が緑の公園で休日の一時を和やかに過ごす、こうした光景を私たちは何としても守って行かねばならない。
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 秋の公園の穏やかな景色の中にいて、私はこの週末に出会った1枚の音楽CDのことを思っていた。Neue Meisterというドイツのレーベルから送り出された新譜で、”ÜBER BACH”と題されたものだ。Arash Safaianというイラン人の作曲家がJ.S.バッハの器楽曲やコラール、カンタータなどを素材にした作品を考案し、ハンブルグを中心に活躍しているドイツのピアニストSebastian Knauerとチューリッヒ室内管弦楽団がこれを演奏している。
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 その中で、第170番のカンタータ「満ち足れる安らい、嬉しき魂の悦びよ」の第一曲のアリアが素敵だ。原曲はアルト独唱用のカンタータなのだが、ここではピアノと弦楽オーケストラが互いに寄り添う構成になっている。天国の安らかさを表現している何とも穏やかなパストラーレで、私の目の前に広がる今日の公園の風景が、まさにそれに相応しい。

 Arash Safaianは1981年生まれというから、まだ若い世代である。テヘランに生まれ、ドイツのバイロイトでワグナーのオペラを聴きながら育ち、ミュンヘンで作曲を学んだそうだ。しかもその間にニュールンベルクの美術学校で絵画も学んだというから、多才な人なのだろう。その彼にとってバッハの作品の数々は「最も純粋な形としての音楽そのもの」であり、「ニュートンの万有引力の法則と同じぐらい普遍的なもの」であり、「音楽の文法」でもあり、だからこそ「バッハの作品の幾つかを翻訳し直して、『バッハの音楽』に関する音楽を作曲してみようと思った」という。そこにあるのは、バッハの作品に対する大きなリスペクトである。

 イラクやシリアの内戦に伴う大量の難民発生と無差別テロの多発。そして、それを受けて世界の先進諸国が次々と内向きになっていく今の世の中。こんな時こそ、相手への敬意と寛容の精神が求められているのではないだろうか。そういえば、11月13日の今日は、昨年の秋に発生したパリ同時多発テロの一周年に当たる。

 午後2時を過ぎると、早くも太陽の光に少しずつ赤味がさして来た。この時期は日が傾くのが早い。風も少し出て来たかな。これから明日にかけて、ゆっくりと天気は下り坂になるようだ。

 桜の園の先にある針葉樹林を抜けて日本庭園に降り、出口に向かって歩いていくと、北米種のクルミの木が園内で一番の鮮やかな黄葉を見せていた。

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雨ばかり [季節]


 9月の第4週が終わろうとしている。

 敬老の日と秋分の日。同じ週の中に祝日が2日もあるというラッキーな週だったのだが、結果的には雨の日がずっと続いた。もっともそれは、今週に限ったことではない。東京について言えば、8月の中旬以降、今年はずいぶんと雨の日が多かった印象がある。

 雨というと、一年で一番雨量が多いのは梅雨の時期だと、私たちは勝手に思い込んでいる。しかし、札幌・仙台・東京・名古屋・大阪・福岡の各年の平年(=1981~2010年の平均)の月別雨量を調べてみると、実際にはそうではない。名古屋・東京・仙台・札幌では9月の雨量が一年で最も多く、中でも東京と札幌は10月の雨量も梅雨の時期より多いのだ。
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(平年の月別降水量)

 秋雨というと、
 犬痩せて山門寂し秋の雨 (正岡子規)
 お客といへば私一人の秋雨ふりしきる(種田山頭火)
のように、我々の季節感としては秋ももう少し深まった頃をイメージすることが多いのだが、実際には秋雨の中心は9月なのである。

 ところが今年の場合は、雨の多い9月がやって来る以前に異変が起きていた。東日本について地域別に各月の雨量を見てみると、総じて梅雨の時期は平年値を若干上下する程度だったのに対して、8月の雨量が各地で軒並み平年値の2倍もあったのだ。とりわけ北海道では、6月の雨量が平年の2.5倍に近い記録的な多雨となり、続く7月も平年値の1.3倍ほどの雨量であったのだ。
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(2016年の月別降水量の平年比。9月は14日までのデータ)

 北海道で6月・7月に雨が多かったのは、高気圧の張り出し位置が例年とは異なり、低気圧の通り道となったこと、その時期としては異例の強い寒気が次々にやって来たことなどが原因だという。そして、8月には東からの高気圧の張り出しが弱かったために、例年この時期なら西へ向かうはずの台風が、本州東方の海を北上して北海道へと向かった。8月17日に台風7号、21日に11号、そして23日には9号が相次いで道東に上陸し、各地で大雨。こんな事態はおそらく過去に例を見なかったことだろう。
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 更に8月の終わりには、”出戻り”台風10号がこれに追い討ちをかけた。関東の南東海上で8月19日に発生した10号は、25日までの間は南西方向へと進み続け、日本列島からは遠く離れていたのだが、26日からは方向を完璧に逆転させてほぼ元の位置へ戻る。そして、29日の午後からは少しずつ左カーブを始め、30日の夕刻に、気象観測が始まって以来のことながら三陸海岸に上陸。岩手県と北海道に大雨をもたらした後、日本海へと抜けてようやく温帯低気圧になった。(因みに、この低気圧はその後も更に左カーブを続け、北朝鮮に甚大な洪水被害をもたらしている。)
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(迷走した台風10号)

 上陸が3個に接近が1個。8月だけで4個の台風の影響を受けた北海道の被害は深刻だ。とりわけ交通インフラが大きなダメージを受けた。9月22日現在でも道内の多くの地域で道路の通行止めが続いている。
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(9月22日現在の道路通行止めの箇所)

 特に注目すべきは、北海道の中心部を背骨のように南北に走る山脈を道路や鉄道が越える箇所だ。具体的には、富良野や占冠(しむかっぷ)と帯広の間の山越えの区間である。そこには石狩山地から日高山脈へと続く山々が南北に連なり、西側には同様に夕張山地が南北に走り、上川地方・日高地方・十勝地方を隔てる分水嶺となっている。
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 これに対して、背骨を横断して東西方向に走るのが国道78号線と274号線なのだが、前者が狩勝峠付近で、そして後者が日勝峠付近でいずれも土砂崩れ等によって甚大な被害を受け、現在も通行止めが続いている。(このあたりでは目下のところ、道東自動車道が唯一通れる道路であるようだ。) そして、この付近を通る鉄道・根室本線が広範囲にわたって橋梁や路盤の流出で寸断され、「少なくとも11月末まで運転再開は困難」ということしかわかっていない。根室本線の富良野・芽室間の不通が続いているために、新狩勝トンネルを根室本線と共有している石勝線の特急列車も、札幌発のトマム止まりになっている。
https://www.jrhokkaido.co.jp/pdf/160923-1.pdf

 新狩勝トンネルの前後の根室本線をもう少しクローズアップしてみると、トンネルの富良野方には幾寅(いくとら)、帯広方には新得(しんとく)という駅がある。(幾寅駅は、健さん主演の映画『鉄道員(ぽっぽや)』で「幌舞(ほろまい)」駅としてロケに使われたことで知られている。)
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 幾寅と新得は共にアメダスの気象観測地点でもあるので、気象庁のHPから降水量のデータを拾ってみると、既に述べた通り今年の6月・7月の降水量は例年よりもかなり多く、この2ヶ月の累積の降水量が幾寅では平年の1.9倍、新得では2.0倍に達していた。そこへ追い討ちをかけたのが8月の4個の台風だ。これによって8月1ヶ月に幾寅で平年の3.5倍、新得では3.1倍の量の雨が降った。これほどのダメ押しがあれば鉄道が寸断されてしまったのも無理のないことだろう。
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(幾寅と新得:2016年8月の日別の降水量)

 根室本線の鉄路がこの区間に建設されたのは意外に早く、明治40年のことである。険しい地形の続く箇所だから、これまでにも自然災害による鉄道施設の損壊はあったのだろうが、今回ほどの大きな被害を受けたのは、来年で110年になるその歴史の中でも初めてなのではないだろうか。根室本線の他に、石北本線の上川・白滝間でも列車の運転見合わせが続いている他、高波による被害で昨年1月から運休が続いている日高本線の鵡川(むかわ)・様似(さまに)間は今回の一連の大雨で更に壊滅的な被害を受けたそうで、この区間はまさに廃線の危機に直面している。

 大雨の続いた北海道では、トウモロコシ、タマネギ、ジャガイモなどの栽培に大きな被害が出ただけでなく、根室本線や石北本線の不通によってそれら農産物の貨物輸送にも大きな支障が出ているという。貨物列車とトラックとでは一回に運べる貨物の量が格段に違うから、関係者にとってこれは非常に厳しいことだろう。こうした事態を目の前にして、交通インフラの大切さを私たちは改めて認識することになる。北海道は冬の訪れが早い。まして山間部では道路や鉄道の復旧工事も難儀を極めるはずである。順調な工事の進捗を祈るばかりである。
http://www.jrfreight.co.jp/common/pdf/news/20160901_taifu10.pdf

 シルバーウィークの最後の祝日となった9月22日(木)。この日は家内の誕生日なので、我が家では家族揃って午前11時の開店と同時に浅草の老舗の鰻屋に入った。(寛政年間の創業で、幕末期には勝海舟とジョン万次郎が連れ立って訪れたとされるお店である。) ところがこの日も朝から雨が結構強く、私たちが鰻重や白焼を楽しんだ後も浅草は土砂降りの雨。数多くの外国人観光客たちはビニールの雨合羽姿で天を仰いでいた。

 そして、週末。9月24日(土)も結局は昼から雨。それも一時はかなり強く降った。明日の日曜日は、東京地方の天気予報では少なくとも傘マークがなくなったが、さて、どうなることやら。

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身の回りの早春賦 [季節]


 2月最後の日曜日は、朝からきれいな青空が広がっていた。

 東京都心部の日の出の時刻は6時13分。明るくなるのが早くなったものだ。ベランダに出て深呼吸。実に気持ちの良い朝である。家内も含めて花粉症持ちの人たちはこれからが辛いシーズンになるようだが、鈍感力だけが取り柄の私は、いまだにそのアレルギーがない。元々が春生まれということもあってか、日々春に向かっていくこれからの季節は、一年の中でも一番好きなのだ。

 ベランダに並べた鉢植えに水遣りをしていると、ブドウの木に小さな春が始まっていることに気がついた。新芽はまだ硬い時期なのに、その一つから今年初めての若葉が姿を現し始めていたのである。
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 4~5年前に会社の同僚から枝を分けてもらったこのブドウ。品種は一応ピノ・ノワールで、実を結ぶのはごく僅かだが、葉はよく茂る。その緑が夏の間は涼しげで、秋の終わり頃には鮮やかな紅葉を見せてくれるのが楽しみだ。昨年の暮以来、木はまだ眠り続けていると思っていたのだが、中には気の早い芽もあるようだ。その仲間が、これから二つ三つと増えていくのだろう。

 朝食を済ませ、家内と二人で近所のスーパーへ週一回の買出しに。そして戻って来ると、10時からマンションの理事会。議題が結構あったので時間がかかり、閉会した時には午後の1時半を回っていた。それでも、外は晴天が続いている。前日よりは少し風があるが、日向は本当に暖かい。せっかくの日曜日。陽の高いうちに外を歩いて、東京都心の早春を楽しむことにしよう。

 近くのバス停から都バスに乗ると、道路も空いているので10分少々で上野広小路に着いた。そして、上野公園の方向へと歩いていくと、入口の大寒桜が満開で、多くの外国人たちが歓声を上げていた。
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 時刻は午後の2時半近く。一日の中で気温が最も高い時間帯だ。浴衣姿の西郷さんの銅像も、今日の陽気なら寒そうには見えない。そういえば今日は東京マラソンの開催日だから。ランナーたちも大汗をかいていることだろう。
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 上野公園にやって来たのには、訳があった。書道を続けてきた中学時代の友人が、上野の森美術館で開催されている「日本書研展」という展覧会に作品を出展していたのである。日本書道研究会の漢字部とかな部で師範以上の人々の作品だけを展示するもので、毎年開催されて今年で51回目だそうである。

 私の友人は、昨年秋の同会の「書心展」で最高賞の東京都知事賞の栄誉を受けたほどの腕前。それに対して私には書道の素養など全くないから、会場に入っても何となく気後れしてしまうのだが、こんな機会でもない限り書を眺めることもないから、余計なことは考えずに、ともかくも書と向き合うことにしよう。

 彼女の作品は、盛唐期の詩人・孟浩然(689~740年)の有名な「春暁」であった。

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 春眠不覚暁   春眠暁を覚えず
 處處聞啼鳥   處處(しょしょ)啼鳥(ていちょう)を聞く
 夜来風雨聲   夜来 風雨の聲(こえ)
 花落知多少   花落つること多少なるを知らんや

 この漢詩は最初の五文字があまりにも有名だが、その続きをちゃんと読むことは意外とないものだ。2月末という今の季節よりももう少し後の、本当に春の盛りの頃をうたったものなのだろうが、私たち日本人は季節を先取りすることが大好きだから、今の季節にこの漢詩を読んで春を待つというのも、なかなか素敵である。それにしても、こんな風に自在に筆を操れたらいいだろうなあ。

 孟浩然という人は、李白(701~762年)、王維(699~759年、または701~761年)と同時期の詩人で、彼らとは実際に交遊関係があったそうだ。そういえば、李白の「黄鶴楼送孟浩然之広陵」(黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之(い)くを送る)という詩は、高校時代の漢文の教科書にも載っていた。

 故人西辞黄鶴楼   故人西のかた黄鶴楼を辞し
 烟花三月下揚州   烟花三月揚州に下る
 孤帆遠影碧空尽   孤帆の遠影碧空に尽き
 唯見長江天際流   唯見る長江の天際に流るを

 これなどは旧暦の三月だから、本当に春も真っ盛りの頃の長江の景色なのだろう。李白より一回り年上の孟浩然が、湖北省の武漢にほど近い黄鶴楼から長江を下って遥か東方の揚州へと旅立っていく、その姿を楼閣の上から眺めている様子が目に浮かぶ。日本では物事の区切りが三月末になることが多いから、三月というのは別れの季節でもある。李白のこの詩に私たちが独特の感情移入をするのも、そんなことが背景にあるのかもしれない。(因みに、漢文の授業で「故人」とは「旧友」の意味であることを最初に教わるのが、大抵はこの詩である。)

 短い時間ではあったが、書の鑑賞を楽しませていただいた後、私は電車で飯田橋に向かい、神楽坂を経由して家までの散歩を続けることにした。春の兆しをもう少しの間楽しみたかったのだ。

 散歩の途中、地下鉄の検車区の近くの斜面では、吹く風に沈丁花が微かに香っていた。
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 昼間よりも少し風が出て来たようで、夕方を迎えて気温も下がり始めた。この後、夜中には一度雨になるようだ。

 春は名のみの 風の寒さや
 谷の鶯 歌は思えど
 時にあらずと 声も立てず
 時にあらずと 声も立てず

 昔の唱歌「早春賦」の歌詞を、私は思い出していた。大正二年に発表されたというこの歌は信州・大町の風景がモデルなのだそうだが、その歌詞は素晴らしい日本語である。

 氷解け去り 葦は角ぐむ
 さては時ぞと 思うあやにく
 今日も昨日も 雪の空
 今日も昨日も 雪の空

 そう、この時期は、春がやって来たかのような暖かい日があっても、また直ぐに元の通りの寒さに戻る。その繰り返しなのだが、これは辛抱強くやり過ごすしかない。

 そして、「早春賦」が素晴らしいのは三番の歌詞だ。

 春と聞かねば 知らでありしを
 聞けば急(せ)かるる 胸の思いを
 いかにせよとの この頃か
 いかにせよとの この頃か

 暦は春だと聞いていなければ、知らないでいたのに、
 春と聞いたからこそ待ち焦がれてしまう、胸の中の春への思いを、
 いったいどう晴らせというほどに、この頃の季節のじれったいことだろうか

 この歌が生まれてから既に一世紀。現代の私たちも当時の人々と同じ思いで、陽の長くなった空を見つめている。

 散歩を終えて我家に戻ると、山形産の「うるい」が夕方の食卓に上る。その瑞々しい緑が、何とも嬉しかった。

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申の年 [季節]


 2016年の年明け。東京は例年よりかなり暖かく穏やかな三ヶ日を迎えた。

 我家では元日の朝、朝食前に初詣を済ませることが長年の習慣になっているのだが、いつもの年と同じように朝8時15分頃に神田明神へ行ってみると、境内は既に大変な混雑だ。冷え込みがさほどではないから、どこの家庭も外へ出やすかったのだろうか。
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 ともかくも一家四人で明神さまに頭を下げ、一年の誓いを立てる。続いて回った湯島天神も長蛇の列で、幾らも離れていないこの二ヶ所のお参りに計1時間ほどを要することになった。

 三ヶ日の過ごし方は毎年ほぼ決まったようなものなのだが、今年は1月3日が特に暖かくなり、昼前から夕方まで、綿のセーター一枚で外を出歩けるほどだった。東シナ海にある移動性高気圧に覆われて、緩やかな南風。空は晴天。桜が咲く頃の陽気だとテレビでは盛んに報じている。この日が復路となった箱根駅伝の選手たちも大変な汗をかいたことだろう。

 調べてみると、この日の最高気温16.2℃というのは、1876年以降140年間の東京都心の気象観測データの中では過去2番目の記録である。
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(1月3日の東京都心部の気温 1876~2016年)

 過去最高記録は2000年の16.5℃なのだが、その当時私は海外駐在中だったから、それは体験していない。その次には1996年の15.6℃という記録があるが、その時のことは残念ながら覚えていない。我家では子供達がまだ小学二年と幼稚園生だった年だが、今年と同じように朝早く明神さまと天神さまへ初詣に出かけたはずである。そのお正月から、考えてみれば今年でちょうど20年。二人とも既に社会人になり、一方の私は今年還暦を迎えようとしている。月日が経つのは本当に早いものだ。

 昨年の二月、旧正月の時期に私は以下のようなことをこのブログに書いた。

 二十四節気と同様に中国オリジナルで、現代の私たちにも馴染みが深いのは、十干十二支の干支(えと)である。

 古代の中国では10日間が一つの時間単位になっていて(今でも「旬」という言い方が残っている)、その10日の一つ一つに甲・乙・丙・丁・・・という名前が付けられた。それが十干である。一方の十二支の方は、モノの本に寄れば、木星が地球を一周するのが約12年なので、空の方角を12に分けて、それぞれに動物の名前を付したのがその始まりなのだそうである。この十干と十二支が組み合わされて、60年を1サイクルとする年の数え方になったのは言うまでもない。60年たって元の十干十二支に戻るのが「還暦」という訳だ。

 十干十二支は、やがて陰陽五行説と結びつき、「木・火・土・金・水」と陰・陽を表す「兄(ね)」と「弟(と)の組み合わせと対応するようになった。chinese zodiac.jpg

 今年、2015年は「乙未(きのとひつじ)」である。乙は「木の陰」で未は「土の陰」。木と土の組み合わせは「木剋水(木が土の養分を奪う)」という「相剋(克)」の関係にあるといわれる。「水生木(水が木を生じる)」というような「相生」の関係とは逆で、何かを滅ぼしてしまうことを示しているそうである。

 羊という字は「吉祥」の祥と同じ読みだから、中国人にはおめでたい動物である。いつも群れをなして暮らす穏やかなイメージがあり、家畜として特に中国の北の方の生活には欠かせないものだ。それが乙(きのと)と組み合わさることで相剋の世になるとは、一体いかなることなのか。

 もっとも、今年に入ってイスラム国の姿が世界中を脅かし、テロと空爆の応酬が更なる憎悪を招いていることを考えると、この陰陽五行説にも何やら含蓄がありそうである。http://alocaltrain.blog.so-net.ne.jp/2015-02-18

 そして実際に蓋を開けてみると、2011年から続くシリア内戦は2015年になって一段と深刻かつ混迷の度合いを深め、欧州各国に大量の難民が押し寄せることになった。IS(イスラム国)の脅威は増幅し、ロシアをも含めた欧米諸国との間での空爆とテロが繰り返され、まさに憎悪が新たな憎悪を呼ぶ負の連鎖の一年だったことは確かだ。他方、アジアでは中国の対外拡張主義が周辺諸国との摩擦を呼び、更には米国との間で南シナ海での覇権を巡って睨み合いを始めた年となった。更には、そのような対立を背景に、世界中で過激なナショナリズムが勢いを強めた一年だったとも言える。

 そして年が明け、2016年は「丙申(ひのえさる)」だ。丙申は「火の陽」と「金の陽」。つまり火と金の組み合わせだから、「火剋金」で、再び相剋の年にあたる。ついでながら、来年の「丁酉(ひのととり)」も同じ「火剋金」の相剋だ。
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 十干十二支の60年サイクルでは、「相生」の年と「相剋」の年がそれぞれ24年、「比和」(同じ気が重なる年で、良い場合は益々良く、悪い場合は益々悪い年)が12年という構成なのだが、西暦でいうと1998年から2019年までの22年間は、その内の17年が「相剋」となる相剋ラッシュの期間なのである。そして、次の東京オリンピックが予定されている2020年になると、そこから「相生」が4年続き、2031年までの12年間に「相生」が10回という、今度は相生ラッシュの期間となる。世の中は、次の安定期に入るまでにもうしばらく動乱を続けるのだろうか。

 この60年サイクルをもう1サイクル前に戻すと、前述の「相剋ラッシュ」の22年間は1938年から1959年までの期間にあたる。第二次大戦勃発の前年からの22年間で、1940年・46年・54年の3年が「相生」、1949年と58年が「比和」で、他は全て「相剋」だ。そして今から60年前、つまり今年と同じ丙申の1956年は - 私の生まれ年だが -もちろん「相剋」の年だった。それは、第二次大戦の終結時点で一度固定された世界の姿が再び変わろうとし始めた年でもあった。

 この年の2月25日にソ連共産党第一書記のニキータ・フルシチョフが党大会で突如スターリン批判を開始。当のスターリンは3年前に死んでいたのだが、彼が君臨していた時代の個人崇拝、独裁政治、粛正の事実がソ連の体制側から公にされたことの衝撃は大きかった。事実、これが契機となって6月にはポーランドのポズナンで反ソ暴動が発生。10月にはハンガリー全土で市民による反ソ蜂起が起こり、ソ連軍の介入によって鎮圧されることになった(いわゆるハンガリー動乱)。
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 一方、中東のエジプトでは、この年の6月に大統領に就任したガマール・アブドゥール=ナセルが7月26日にスエズ運河の国有化を宣言。財政難に苦しむエジプト政府がアスワン・ハイ・ダムの建設費用を獲得するためという理由であったが、これに反発した英・仏・イスラエルとの間で10月にスエズ戦争(第二次中東戦争)が勃発。しかし、これは米・ソの力によって11月に停戦に持ち込まれた。この年の初めにはスーダンが英国から、モロッコとチュニジアがフランスからそれぞれ独立を果たしていたが、このスエズ戦争の顛末を米・ソに仕切られたことで、国際政治上の英・仏の衰退ぶりが一層露わになった。
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(スエズ運河国有化宣言を行ったナセル)

 そして我が日本では、この年の10月の日ソ共同宣言によってソ連との国交回復・関係正常化を実現。それはソ連嫌いの吉田茂から念願の政権を獲得した鳩山一郎の、吉田政治へのアンチテーゼだったとも言える。

 丙申の1956年とは、そういう年だった。
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(東京・日枝神社の申の置物の数々)

 暦はめぐる。2016年の丙申も、これまでの世界の枠組みを変えていくような何かが、再び起こるのだろうか。そんなことを暗示するかのように、新年のビジネスの初日となった1月4日(月)は、世界各国の株式市場で株価の大幅な値下がりが連鎖する一日となった。キーワードは米国景気、中国、そして中東情勢だった。

 少なくとも、退屈することのない一年になりそうである。

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大晦日 [季節]


 2015年が暮れようとしている。

 朝から大晦日としての家の中の色々なことを手伝い、午後は少しジョギングをして汗を流し、日が暮れて家族と年越し蕎麦を食べた後、毎年の大晦日の夜と同じように、私は自室で机に向かっている。

 紅白歌合戦を見る習慣を持たない私は、毎年最後に聴きたいCDを選んでパソコンで再生しながら机に向かうのが、もう長い間の決まりになっている。勿論、毎年の気分で選ぶものは変わるのだが、今年最後に選んだのは、グスタフ・マーラー(1860~1911)の第三番のシンフォニーになった。1896年に完成したが、初演は1902年まで待つことになった作品である。第6楽章まである大作で、普通に演奏すると1時間20分ほどかかる。私のお気に入りは、穏やかで甘美な主題を奏でつつ壮大な終局を迎える最終楽章である。それを、一年の終わりにどうしても聴きたかった。
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 公私共に忙しい一年だった。「私」の部分の多くは自宅マンションの管理組合の仕事で、これはまあ誰でもいずれお鉢が回って来るようなことだから仕方がない。だが、「公」の部分は忙しさが必ずしも成果に結びつかない一年でもあった。

 私の会社は典型的なB to Bのモノ作りの会社なのだが、今年は市場全体が昨年比で10%程度の縮小を余儀なくされた。同業他社の販売量が軒並み前年比2~3割減となる中、我社は得意分野である高付加価値の製品の提供と、大手には出来ない小回りの良さを武器にして、ともかくも販売量が前年比で落ちなかったのだから、そのこと自体は善戦だったというべきなのだろう。

 しかしながら、今夏から世界レベルで続いた工業用金属の大幅な価格下落により、収支の面ではいささか不本意な結果となった。顧客ニーズに懸命に応えているのに、我々のコントロールが及ばない要因によって会社の収支が大きく左右されてしまったというのは、何とも残念なことだ。

 私の会社にとって主要な原料となる工業用金属の価格が今年大幅に下落したのは、全世界でその需要の半分を占めるとされる中国の経済成長の鈍化傾向が誰の目にも明らかになり、しかも中国当局が発表する各種の経済指標・統計がいささか信憑性に欠け、国際商品市場が疑心暗鬼になっていることが原因だった。

 その中国は、これからどうなるのか。

 会社の仕事納めになった12月28日の夕方の納会で一言スピーチを行うことが毎年の役目になっている私は、国連統計の中からデータを拾ってグラフを作り、社員に示すことにした。それは、いわゆる国民所得計算における付加価値の金額を主要産業別に分類した国別データで、1970年から2013年までをカバーしたものである。私が比較したのは日本と中国だった。

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(産業別付加価値額の構成比 - 日本)

 1970年時点の日本において主要産業別の付加価値の構成比は、鉱工業が28%、電力・ガス業が25%であった。当時私は中学の二年生だったのだが、大阪で万国博が開かれたこの年の日本は公害問題が極めて深刻で、重化学工業を中心とした工場からの排煙や排水が各地で環境汚染を引き起こしていた。その対策を集中審議することになったこの年の暮の臨時国会は、別名「公害国会」と呼ばれたほどだった。

 それから43年。日本はその産業構造を大きく変えて、2013年の産業別付加価値の構成比を見ると、鉱工業は18%、電力・ガス業は16%に減っている。その代り、シェアが大きく増えて今や最大の項目になっているのは、「その他」で括られる産業分野である。情報通信、金融保険、各種専門サービス、教育などが主な分野だ。

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(産業別付加価値額の構成比 - 中国)

 一方の中国は1970年時点で農林水産業の付加価値額が全体の35%を占める国だったのが、「改革開放」の掛け声の下に90年代から急速な工業化が進み、2013年時点では鉱工業が29%、電力・ガス業が23%を占めている。要するに1970年当時の日本と同じような構成比なのだから、なるほど現在の中国各地の工業都市で大気汚染や水質汚染が極めて深刻になっているのも道理である。

 だからこそ、今の習近平政権は中国全体の産業構造を変えて「新常態」を目指すのだということを内外に宣言している。そうは言っても、鉱工業や電力・ガス業のところは既得権益を持つ国営企業が多いから、そう簡単には潰せないよ、という見方もあるのだが、中国は一党独裁の国だから、政府がやろうと思えばかなりのことを強引に出来るはずだ。中国の産業構造の改革(ないし改編)は、私たちが頭の中で想像するよりもかなり早いペースで進む可能性があるのではないだろうか。

 そんな訳で、現在の中国では、需要に対して供給能力が大幅に過多の重化学工業の分野はどこも不景気だが、それとは対照的にインターネット通販などは大変な勢いで伸びているという。単にモノをもっと作り、もっと売るということではなく、生活を便利で快適、かつ安心できるものにするような分野に大きなニーズがある。国民所得の向上によって一定水準以上の購買力がついてくると、社会のニーズはそれまでとは大きく変わっていくということなのだろう。

 とすれば、私たち日本のモノ作りの会社も、今までのB to Bの用途だけでなく、日本や中国の社会が少しずつ成熟していく中で新たな用途が生まれる可能性がある、そこを今まで以上にしっかりと見据えて行かねばならないのではないだろうか。会社の納会でそんなことを述べて、文字通り今年の仕事納めになった。

 パソコンに繋いだヘッドフォンから流れて来るマーラーの三番の最終章は、今日もまた甘美だ。そして、聴くたびに私にとっては新たなメッセージを感じるところがあるのが不思議だ。そして、それを探しにゆっくりと聴き込む時間が出来るのは、私の生活の中でいうと大晦日ぐらいのものである。
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 ボヘミア生まれのユダヤ人であるマーラーは、この三番を書き上げた翌年、周囲からの勧めもあってユダヤ教からカトリックへと改宗をしたという。ウィーン宮廷歌劇場の芸術監督に就任するにあたって考慮されたことだとの解説を読んだことがあるが、ユダヤ人への有形無形の差別というのは、当時のウィーンの伝統的な音楽界にも根強くあったようだ。そして、マーラーの没後20年ほどの時期に政界に登場したヒトラーは、その反ユダヤの思想からマーラーの音楽を徹底的に排除した。

 そして、そうした時代のことを笑えないようなことが、2015年の今年も世界各地で頻発し、異文化への憎悪はむしろ年々増幅されているようにも思える。

 来年こそは、そうした憎悪が憎悪を呼ぶ負のスパイラルには何とか終止符を打ちたいところだ。そして、より良い世の中を迎えるために、私たち一人一人に何が出来るのかも、よく考えていくようにしたい。

 今年お世話になった皆さんに改めて感謝を捧げつつ、新たな年を心穏やかに迎えよう。

東京のバトー・ムーシュ [季節]


 六月最初の一週間が過ぎた。5月の間に度々やって来た猛烈な暑さは一段落した代わりに、全国の天気予報には傘マークが並び始めた。実際にこの週は2日(火)に九州北部・南部、3火(水)に四国・中国・近畿の梅雨入りが発表され、早ければ5日(金)頃には関東以北も梅雨入りかと言われていた。

 ところが、5日の夕方から東京でも確かに雨が降り出したものの、その後の土日はいずれも「曇時々晴」のような天気。吹く風は心地よく、相応に日差しもあって、梅雨入りが宣言されることはなかった。特に7日の日曜日は本州中央部が移動性高気圧に覆わる天気図になり、週中までの天気予報で言っていたのとはだいぶ異なる、好天のパターンとなった。

 早くからそう言って貰えれば、仲間たちを誘って日帰りの山歩きを計画することも出来たのだが、当日の二日前になって天気予報が好転しても、それからでは間に合わない。「意外な」青空を眺めながら、「それだったら山へ行くことにしてればよかった。」とボヤきたくもなるのだが、そう言ってみても始まらない。それぐらい、この時期は天気予報が難しいのだろう。

 「それなら、気晴らしにどこかお散歩に行こうか。」

 ベランダから空を見上げていた私に、家内は気遣いをしてくれた。日曜日の午前中、家内は都心の或る大学で行われている「生涯学習講座」を聴くことにしていて、それが正午に終わる。私はその時間に家内を出迎えに行き、それから電車に乗って浜離宮恩賜公園に出かけることにした。今はその庭園内のハナショウブが見頃の時期である。

 JRの新橋駅から汐留を過ぎて更に南へ。浜離宮の入口までは歩いて600~700mほどだろうか。手入れの行き届いた大きな日本庭園で、外国人観光客向きのスポットだと思うのだが、新橋駅からの道路には目につくような表示がない。あたりの高層ビル群を繋ぐ陸橋が途中にあり、それを通らざるを得ないのだが、初めての人には解りにくい構造だ。更に浜離宮の直前では、道路工事中でちょっと複雑な回り道をする必要があるのに、その表示が全く目立たない。これでは外国人には不親切と言わざるを得ないだろう。
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(JR新橋駅から浜離宮への行き方)

 ともあれ、浜離宮の入口に着いた。大型の観光バスが3台ほど停まっていて、私たちの目から見れば派手な色使いの衣服をまとった乗客が、中から次々に降りてくる。そして、すぐに賑やかな中国語が聞こえてきた。これは今や、東京の主要な観光スポットではありふれた光景なのだろう。

 一人300円の入園料を払って庭園内に入ると、背後に林立する汐留の高層ビル群とは対照的に、驚くほど豊かな緑が広がっている。かつての将軍家の別邸だっただけに、その広さと風格は際立っていて、しかも園内は実に丁寧に手入れがされている。東京の都心によくぞこのような庭園が残されてきたものだ。
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 外国人観光客のお目当ては中央の池の中に建つお茶室で、そこからの庭園の眺めには「日本」を感じることだろう。私たちのお目当てのハナショウブも、実に上品な花を見せていた。
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 池に沿ってゆっくりと園内を回り、海側に出ると堤防が続いている。明治改元となる年の1月、鳥羽伏見の戦いで薩軍が掲げた錦の御旗によって戦意を喪失した将軍・徳川慶喜が、幕府軍を置き去りにして大坂から軍艦で江戸へ逃げ帰った、その時の軍艦が上陸したのがこの場所だ。幕末・維新期の江戸の歴史を語る上では実に重要なスポットなのだが、外国人にはちょっと難しいかな。

 今日、家内との散歩に浜離宮を選んだのには理由があった。この一角には隅田川ラインという水上バスの乗り場があって、それに乗れば隅田川を遡って浅草まで行くことが出来る。長らく東京に暮らしていても、「隅田川クルーズ」なんて意外と縁がないものだ。船の上で風に吹かれながら隅田川から東京を眺めてみるのも、ちょっとした気分転換になるのではないか。インターネットで予め船のダイヤを調べておいたので、私たちは定刻10分前の13:30に乗り場に行き、乗船券を買い求めた。日の出桟橋経由で浅草の吾妻橋まで一人740円、45分の船旅である。
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(隅田川ラインのルート)

 浜離宮と浅草という、訪日外国人にとっての代表的な観光スポットを結ぶ水上バス。運行会社(東京都観光汽船㈱)のホームページには”TOKYO CRUSE”という名前で宣伝されており、明らかに訪日外国人を意識したものになっているのだが、いざ浜離宮に来てみると、この水上バス乗り場への道標があまり見られない。運航ダイヤが多くはないのだから、より多くの人々に利用してもらうには、乗り場の位置と時刻表を園内の主要な場所に解りやすく掲げるべきだろう。
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(隅田川クルーズの船内)

 浅草からやって来た船が到着し、浜離宮で私たちを含めて20人ほどを乗せると、船は定刻に出発。それから5分ほどで日の出桟橋に着き、私たちは屋上デッキに上がって席を取ることにした。梅雨入り直前の時期だが今日は雨の心配もなく、デッキの上は風が心地よい。レインボー・ブリッジを後方に見ながら、船はいよいよ隅田川の河口へと進み始めた。
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 ここから浅草まで、船は隅田川に架かる全部で13本の橋をくぐるという。築地の魚市場を左に見るうちに近づいてくる最初の橋が、勝鬨橋(かちどきばし)だ。中央部が可動式になっているこの橋は昭和15年に完成し、昭和45年に開閉を止めたというから、可動橋としての歴史は僅か30年だったことになるが、船のデッキから見上げると、レトロにして立派な橋であることがわかる。
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 学徒動員によって築地の海軍経理学校に通うことになった私の父は、訓練のためにこのあたりでカッターを漕がされる毎日だったそうだ。その当時は一日5回、一回当たり20分ほど可動部が開いていたようだが、その時の父の目に勝鬨橋はどんな風に映っていたのだろうか。

 勝鬨橋を過ぎていよいよ隅田川の中に入っていく。聖路加病院のある高い建物を眺めているうちに、二つ目の佃大橋、続いて特徴のある橋脚を持つ中央大橋をくぐる。右手の佃島には川沿いに遊歩道が整備されていて、桜の木が多い。春のお花見の時期は(船のデッキはまだ寒いかもしれないが)眺めが素晴らしいことだろう。

 やがて、正面に優美なアーチ形の橋が現れ、その奥の彼方に東京スカイツリーが天を突いている。これが永代橋で、江戸時代に架けられた中では最も河口寄りの橋である。そういえば今年のお正月には、家内と深川を散歩した後に、この橋を渡って日本橋まで歩いたことがあったな。この橋の西詰は、神田川から分かれた日本橋川との合流地点でもある。
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 続いて、隅田川大橋の上を首都高9号深川線が走る二階建ての橋をくぐり、更に清洲橋をくぐると、右手から仙台堀川が合流。その次にやって来るのが新大橋。歌川広重が描いた錦絵「大はしあたけの夕立」でも有名な橋だ。江戸の街にとっては、両国橋の次に架けられた新しい橋だったという。

 その両国橋がいよいよやって来る。船に乗って川を遡る時の醍醐味の一つは、橋の中央の銘板を真近に眺めることだろう。両国橋のそれも、実に堂々としている。
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 両国橋のすぐ北側はJR総武線の鉄橋だ。関東大震災後の復興政策の一環として、昭和7年に開通した総武線の御茶ノ水・両国間。私たちの船がこの鉄橋をくぐろうとしていた時に、ちょうどタイミングよく電車がやって来たので、私たちと同じ屋上デッキにいた外国人たちが歓声を上げた。
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 それはいつのことだったか正確には思い出せずにいるのだが、我家の子供たちがまだ小さかった頃に、隅田川を遡る浅草行きの船に乗ったことが一度だけあった。ということは、もうニ十年以上も前のことになる。だが、その当時の隅田川の両岸は味気ない堤防と倉庫が続くばかりで、パリのセーヌ川を行く観光船・バトームーシュのような風情はなく、実に単調な船旅だった記憶だけが残っている。

 ところが、今回は随分と様子が変わっていた。最初に勝鬨橋をくぐって以来ずっと感じていたのだが、川の両岸にはきれいな遊歩道が整備され、その後ろにはマンションも数多く立ち並び、川を眺める窓を持ったレストランなどが幾つも出来ている。要するにこのニ十数年の間に、隅田川の両岸は工場や倉庫の街から人々が生活を楽しむ地域へと生まれ変わっていたのだ。”This is beautiful! Great!” 米国人と思われる乗客二人が私たちの隣で呟いていたが、私たちが普段あまり意識を持つことのないこんなところにも、今の東京は魅力があるのかもしれない。

 浅草まで、残る橋はあと四つだ。蔵前橋厩(うまや)橋を過ぎると、右手には東京スカイツリーがいよいよ高くなり、アサヒビールの特徴あるモニュメントが近づいてきた。
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 駒形橋を過ぎたところで船は速度を落とし、ゆっくりと吾妻橋へと進んでいく。それをくぐると直ぐに船着場が左にあり、45分間の船旅もいよいよ終わりである。14:25だからダイヤ通りの到着だ。そこでは大勢の人々が船を待っていたから、これから浜離宮や日の出桟橋、或いは別の船でお台場を目指す人たちがまだ大勢いるということなのだろうか。陸に上がると、浅草一帯も多くの外国人観光客であふれていた。

 浜離宮と浅草。この二つを船で結ぶのは、なかなか優れた観光ルートだと思う。そしてそれは、外国人向けの表示、案内などをもっと充実させれば、今より格段に多くの人々に利用されるのではないだろうか。今のままでは、せっかくの優れた観光資源をまだ十分活用しきれていないようで、ちょっと残念である。色々な面で、外国人から見た時の「解りやすさ」にもう少し意識を向けていけば、東京はもっともっと魅力ある街になるはずだと思うのだが・・・。

 日曜日の午後二時半。初夏の太陽はまだ空高くに輝き、私は45分間の乗船で少しばかり日焼けをしたようで、喉も渇いた。そうなると、頭に浮かぶことは家内と同じだ。私たちは吾妻橋を歩いて渡り、対岸のビア・レストランで喉を潤すことにした。それもまた、休日の楽しみの一つである。

 六月最初の日曜日、思っていたよりも晴れた。山には行けなかったが、いい気分転換に付き合ってくれた家内には感謝感謝である。

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(吾妻橋から眺める乗船場。後方を東武伊勢崎線の特急が走る。)

緑の中で [季節]


 5月の3回目の日曜日。外が明るくなった頃はまだ雲が多かったが、昼に近づくにつれて青空が広がっていった。太陽の光は力強く、街中の緑がいよいよ濃くなった。気温はかなり高めなのだが、大気は湿度が少なく、日蔭に入れば吹く風が心地よい。初夏の実に爽やかな陽気である。

 日曜日がこんな天気なら、山仲間たちに声をかけて近郊の山歩きに出かけたいところだが、今週も色々なことに忙殺されて、その準備をする時間もなかった。今日も、持ち帰った仕事があるにはあるし、明日の月曜日は早朝から出張に出るので、日曜日の全てを山歩きだけに使ってしまうのはちょっと厳しい。そんな訳で、今日は久しぶりに自宅の近くの植物園を訪れてみることにした。前回ここに足を運んだのは、もしかするともう2年以上も前かもしれない。

 この植物園に入るのに、以前は入場券を向かいのタバコ屋さんで売っていたのだが、知らない間に植物園の入口に自動販売機が出来ていた。昨年の消費税の増税を機に入場料も70円値上げになったのだが、その代わりというべきか、渡してくれる園内マップなどが少し充実したようだ。小さな子供たちを連れた家族が何組も、私と同時に園内へと入っていく。確かに今日は最高のお出かけ日和だ。

 正面の坂を登っていくと、5月の明るい太陽に照らされたソテツの濃い緑に早くも圧倒される。アンリ・ルソー(1844~1910)の描く南国の世界が突然現れたような気分になるのだが、この季節にはこうした照葉樹も緑が本当に鮮やかだ。
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 坂を登り切ったあたりにはカエデやイヌザクラが緑陰を作っている。その年の新緑を太陽に透かして見た時の柔らかい緑の輝きが、私は大好きだ。それを眺めているだけで、このところの仕事の忙しさも忘れてしまうことが出来る。
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 その先には広々とした桜の園があって、花見の時期には都内の名所にもなるのだが、深い緑に覆われた今の時期が、実は一年の中で最も素晴らしいと私は思う。もう既に何組もの家族連れが木陰にシートを広げ、思い思いに緑を楽しんでいる。本当にいい季節になった。
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 五代将軍綱吉の時代に、薬草を育てるために設けられた幕府の御薬園としてスタートした歴史があるために、この植物園の一角には今も薬草園があって、かつては薬草として活用された様々な植物を見ることが出来る。この季節はそこでも新たな緑が賑やかだ。

 この薬草園で今回は、ヤブレガサという面白い名前の植物に出会った。
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 キク科の植物なのだそうだが、円の中心から細く裂けたような形の葉が放射状に広がっている。なるほど、破れた傘と言われればその通りなのだが、実はもっと早い時期の、芽が出たばかりの若い葉が「唐傘お化け」のように閉じた形をしていて、更に「破れ傘」のイメージに近いのだそうだ。標識を読むと、血液循環や打ち身の薬になるという。そうした効用があることを、昔の人はどうやってつきとめたのだろうか。

 薬草園の隣には分類標本園があって、地味ながらここも色々な植物に出会える場所だ。植物には全然詳しくない私などは、植物園に来るたびに何か一つか二つ新たな植物の名前を覚えることが出来れば、それでいいと思っている。その点で、今回覚えてもいいなと思ったのはバイカウツギという木だ。茎が中空のために空木(ウツギ)と呼ばれるこの木の中で、梅の花に似た形の大きな花を咲かせる種類のものがバイカウツギと呼ばれるのだそうだ。
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 この季節になると白い清楚な花をたくさん咲かせるウツギは、私が好きな花の一つだ。中央アルプスの秀峰・空木岳(うつぎだけ、2864m)は、この時期に山の上部に残る残雪がウツギの花を思わせるのでその名が付いたという。そんなウツギの中にも、今日出会ったバイカウツギのように大きな花を咲かせるものがあるとは驚きだが、これもまたとても素敵な花だ。花は大きくてもウツギ特有の清々しさはそのままで、かすかに芳香も漂ってくる。

 分類標本園だから、ウツギが属するユキノシタ科の植物が一列に並んでいる。バイカウツギの奥に植えられていたのは、花がスミレ色のトリアシショウマと、それとは対照的に真っ白な花を咲かせるアワモリショウマ。本州中部以北に分布するものと中部以南に分布するものが仲良く並んでいる。
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 久しぶりに薬草園や分類標本園をゆっくり見て歩いた私は、爽やかな風に新緑が揺れるスズカケやユリノキの林を抜ける。武蔵野の雑木林の雰囲気を残したこのエリアは、ちょっとした里山の中を歩いているような気分になれる。この二ヶ月、仕事が忙しくて山へ行っていないが、やはり緑の中はいいなあ。
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 雑木林の一番奥からツツジの咲く坂道を降りて日本庭園に出ると、ここも親子連れが何組も訪れていて何とものどかな風景である。この植物園の住人なのか、猫が東屋の日陰で昼寝を決め込んでいた。
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 桜が咲いた頃から、今年は仕事が妙に忙しくなり、気がつけば5月も後半だ。この間にずいぶんと出張も続き、5月の連休は殆どを工場で過ごしていた。そして、一昨日に開かれた会社の定時株主総会で役員の改選があり、私の責任範囲が広がることになった。

 会社へのご奉公があと何年続くのかはわからない。一年一年が勝負なのだが、だからといって目先の成果を挙げることに前のめりになるつもりもない。山の上からこの先の縦走路を眺める時のように、遠い先の目標を見据えて、今やらなければいけないことに一つ一つ取り組んで行こうと思う。考えてみれば、会社の経営というものは長い長い縦走のようなものかもしれない。
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 植物園の中を反時計回りにほぼ一周。背の高いメタセコイアの林が見えてくると、園内の散策も終わりに近い。この林に今年も鮮やかな緑が甦った。この緑の中で空を見上げるのが、私は好きだ。

 散策を終えて、午後の用事を済ませたら、夕方は我家のベランダで緑を眺めながら家族と一緒に一杯やろうか。今は一年で一番素晴らしい季節だから。
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 さあ、明日の朝からまた出張だ。

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