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この一週 [季節]


 季節は二月末から三月の頭。晴れた日の太陽の光はだいぶ力強くなってきたが、吹く風はまだ冷たく、木々の枝は依然として裸のままだ。冬のコートがなかなか手放せないが、それでも時々春の兆しがひょっこりと姿を現したりする時期である。

 七十二候では雨水の末候にあたり、「草木萠動(草木が芽吹き始める)」と名づけられた時期なのだが、そう思って見ると、我家のベランダで鉢植えにしているピノ・ノワール種のブドウの木に、小さな芽が幾つも出ていた。家族は既にスギ花粉の飛来を感じるようで、家内も子供たちも鼻をグスグス言わせ、目の痒みを訴えている。春を待ちわびて外を歩き回っているのは、相変わらず鈍感力だけで生きている私ぐらいのものだ。

 毎年そうなのだが、この時期になると日々の寒暖の差が大きくなり始める。この一週も、毎日の気温の変動がかなり激しく、通勤には二種類のコートを使い分けることになった。それもまた、春を待つ楽しみの一つなのかもしれない。
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【2月28日(土)】 晴一時曇

 よく晴れた土曜日、山仲間たちと6人で奥高尾をせっせと歩いた。

 実施の四日前に急に思い立ち、健脚組だけに声をかけたのだが、そんなショート・ノーティスにもかかわらず6人が集まることになった。高尾山口から稲荷山コースで高尾山に上がり、小仏城山から景信山を経て陣馬の湯までの約15km。山地図上のコース・タイムは6時間ちょっとなのだが、それを50分短縮して歩こうというアグレッシブな計画。とにかくせっせと歩き続けることが条件になる。

 8時16分に京王線の高尾山口駅に集合。メンバーの一人にハプニングがあって到着が遅れ、ケーブルカーを利用して追いかけてもらうことにして、9時半過ぎに高尾山頂で6人の顔ぶれが揃った。風の穏やかな快晴で、富士山もスッキリと見えている。だが、それよりも私たちの目を引いたのは、山頂付近に雪を抱いた丹沢の主脈の堂々とした姿だった。特に最高峰・姪ヶ岳が立派である。
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 この時期の低山は、日当たりの良い山道は乾いているのだが、日陰の部分は夜間に降りた霜が昼の間に融け出してぬかるみになっている。高尾山から西に向かう最初の下りがまさにそんな箇所が続く。ぬかるみに足を取られないよう慎重に、なおかつハイ・ペースで歩き続け、10時半過ぎに小仏城山に到着。ここからも富士山がきれいに見えていた。
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 山道は北に向かい、小仏峠に下りた後に再び登り返して11時半に景信山に到着。全員がよく頑張っていて、意欲的な計画に対してここまでは本当に予定通りだ。茶店で名物のなめこ汁を注文して昼食を楽しんだ後、奥高尾縦走路を更に西へ。ここはもう何度も歩いた山道だが、堂所山のまき道を過ぎて底沢峠に至る手前で、奥多摩の大岳山や御前山、そしてその奥の雲取山方面の山並みを展望できる箇所がある。「草木萠動」の都会とは違って、山はまだ冬の装いのままだが、雑木林の色合いにどこか春の兆しが見えたような気がした。
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 予定の時刻に明王峠に着き、短い休憩を取った後、奈良子峠から陣馬の湯に向けて下山を開始。この下山道は日当たりが良く、ぬかるみもなくて実に歩きやすい道であることも手伝って、全員のペースは更に加速。陣馬の湯(陣谷温泉)に到着した時刻は、意欲的な計画を更に15分ほど短縮したものになった。

 陣谷温泉で檜風呂をゆっくりと楽しみ、マイクロバスでJR藤野駅まで送ってもらい、直通の快速電車で新宿へ。いつもの居酒屋での反省会も含めて、超高速で物事が進む充実した一日だった。

【3月1日(日)】 曇のち雨

 よく晴れて暖かかった前日とは大きく変わり、曇り空の肌寒い日曜日。午前中に実家の母の様子を見に行った後、午後1時半からマンション管理組合の会議に出席。2時間半ほどの会議の議事録作成を仰せつかる。これからの大規模修繕の方向性を検討していく、そのキックオフとして重要な会議になった。

 この日の夜は家内と娘が連れ立って観劇に出かけたので、夕食は息子と二人だ。今が旬のヤリイカを刺身にして、前週の出張時に仙台で買い求めてきた地酒で息子と一杯。これは真鶴(まなつる)という銘柄を世に送り出している宮城県北部の酒蔵のものだ。山廃仕込ながらスッキリした味わいがあり、常温で季節の食材と共に楽しむには最高である。やっぱり、日本はいいなあ。
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【3月2日(月)】 快晴

 前夜の雨が上がり、朝から快晴。最高気温も14度まで上がり、街中では梅の花が盛りだ。

 3月の声と共に会社の中も何かと忙しくなっていく。だがそれは、間もなく終わろうとしている年度の締めくくりというよりも、4月以降の新しい年度に向けての前向きな仕事、新たなチャレンジに関する事項が中心なので、気分は悪くない。

 「石走る垂水の上のさわらびの萌え出ずる春になりにけるかも」

 万葉集の時代からそんな風に詠われて来たようなそんな春を、我社も皆の力で迎えたいものである。

【3月3日(火)】 曇一時雨

 暖かかった前日からは一転して、火曜日は最高気温が10度に届かず肌寒い一日。

 ひな祭りの日なので、我家の夕食に家内は春らしい色彩の散らし寿司を用意してくれたのだが、当の娘は期末月で会社の仕事が忙しいようだ。私よりも遅く10時過ぎに帰宅して、それからの夕食になった。
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【3月4日(水)】 曇時々晴

 寒暖の大きなギャップがこの日も続く。前日の肌寒さとは対照的に、今度は最高気温が17.5度まで上がる4月下旬の陽気。南風が強く、花粉症持ちの人たちは暖かさを喜んでばかりもいられないようだ。

 夜になって帰宅すると、我家の食卓に今年初めてのホタルイカが並んだ。今から30年以上も前、私が社会人になった時の最初の任地が富山だったこともあり、春先のホタルイカは私の好物中の好物なのである。

 といっても、酢味噌を合わせる伝統的な食べ方にはなぜかあまり興味がない。最近ではアヒージョ風にしたり、パルメザン・チーズ、ニンニクの微塵切り、パン粉と共にオーブンで焼いたりといったレシピもあるようだが、ホタルイカをさっと茹でただけのあの食感を大事にしたいから、なるべくならそれ以上に熱を加えたくない。

 という訳で、目下のところ私が気に入っているのは、ワイン・ビネガーとオリーブ・オイルでマリネにするか、或いは胡麻油と少量の醤油で和えて七味唐辛子を挽いたものである。
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 今週は月・火ともドライで過ごしていたのだが、ホタルイカが食卓に登場したこの日の夜は、さすがに缶ビールを開けてしまった。

【3月5日(木)】 晴

 前日ほどではないが、この日も暖かさが続く。東日本大震災の3.11が近づくにつれて、日々配信されるニュースも震災のメモリアル関連のものが多くなりだした。思い出してみれば、4年前の今日は東北新幹線の盛岡・新青森間が開業し、E5系「はやぶさ」が颯爽と登場した日だったのだ。その日は土曜日だったから、私は日暮里駅北側の架橋から上りの「はやぶさ」の一番列車をカメラに収めたものだった。

 最高速度300km/hを誇るE5系だったが、その登場から7日目に発生した東日本大震災のために、東北新幹線自体が4月下旬まで運休になってしまった。震災が全ての原因ではないが、それ以来私の会社にとっても辛い時期が長く続いた。

 けれども、昨年の後半からそのアゲンストな環境にもようやく変化が現れ、会社は今、前向きな忙しさの中にある。この夜、結構遅くまで仕事をしたのもそんなことの一環なのだが、この会社の新しい歴史を作るつもりで、ともかくも邁進して行こう。

【3月6日(金)】 曇

 この日から七十二候は啓蟄の初候・「蟄虫啓戸」に入る。冬篭りの虫が外に出て来るという意味だ。前日からまた少し気温が下がり、啓蟄と呼ぶにはやや肌寒い日となったが、地中の虫が動き出す時期ではあるのだろうか。

 この日の夜は大学時代の友人たちとの約束があって、江東区森下の「みの家」で桜鍋を囲んだ。音頭を取ってくれた友人は、この季節だから企画したという訳でもなかったのだろうが、桜鍋の語感と馬肉の鮮やかな赤色が啓蟄の夜には合っていた。
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 今日の仲間たちと知り合ったのは大学二年の教養ゼミの時だから、考えてみれば37年も前のことになる。そんな歳月が過ぎたことが信じられないほど、このメンバーが集まれば昔のままの皆に舞い戻る。私自身、昨年は色々な事情から飲み会に出席できなかったので、彼らとは1年ぶり。そんなこともあって、この日は夜更けまで賑やかに過ごし、旧友たちから元気をもらったように思う。それはまた、我々にとっての啓蟄であったのかもしれない。

【3月7日(土)】 曇時々雨

 最高気温が10度に届かず、再び冬に戻ったような土曜日。曇り空に朝から小雨が混じっている。今週の中では、火曜日のひな祭りの日に次いで寒い日だ。

 とはいうものの、日本気象協会の現時点での予想では、東京都心の桜の開花は3月26日だから、あと三週間足らずで東京も桜の季節を迎えることになる。毎年この時期になると、そのカウントダウンに気分が高揚していくものだ。

 三週間後はまた一段と忙しくなっていそうな頃だが、春という季節は概してそんなもので、新しく色々なことが駆け足でやって来る。その慌しさにまみれるのも、春の楽しみの一つかもしれない。

 ダウンジャケットは、そろそろお蔵に入れようかな。

旧正月 [季節]


 2015年2月18日(水)。今日は旧暦の大晦日にあたる。中国では今日から年末年始の長い連休になるから、私の会社でも中国向け営業担当のセクションは、さすがに今日は静かな一日だった。

 昨日は広東省深圳の現地法人の総経理から「年末挨拶」のような電話をいただいたが、深圳でも街の中はもうクルマが少なくなって、バスに乗ると目的地にやたらと早く着いてしまうと言っていた。総経理は家族を連れて故郷の北京でお正月を過ごすそうだが、国中がそうした「民族大移動」なのだから、さぞかし大変なことだろう。

 月の満ち欠けの1サイクルを一月とする太陰暦。そのままだと太陽暦に対して1年で11日短いから、年によって閏月を設けることで太陽暦とのズレを補正してきた。だから、太陽暦をベースにした二十四節気のそれぞれが毎年ほぼ同じ日であるのに対して、その太陽暦から見た太陰暦の1月1日は、年によって日付が異なるのだが、それは大寒(1月21日頃)の翌日から雨水(2月19日頃)の当日までの幅の中で動いている。
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 大寒の翌日から雨水までというと31日間だから、その両端を比較すれば日の出の時刻が24分、日の出の方位角が10.7度ほど違うから、同じ元日でも年によって太陽の見え方は違ったはずである。大寒の翌日は七十二候では「款冬華(ふきのはなさく)」だから、凍てつくような寒さの中で蕗の花がひっそりと咲いている頃だ。太陽暦の元日よりももっと寒い時期だろう。
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 太陽暦を座標軸にしている現代の私たちから見ると、このように二十四節気の中を旧正月が毎年動くのだが、見方を逆にして旧正月に座標軸を置くと、二十四節気の方が毎年動くことになる。大寒と雨水の中間にある立春は、旧正月より早く来たり後に来たりする訳だ。日本でも旧暦を使っていた明治5年まではそうだった。

 (ふる年に春立ちける日よめる)
 年の内に春は来にけり一年を去年とや言はむ今年とや言はむ (在原元方)

という古今和歌集の巻頭の歌はまさにそのことを言っているのだが、今年もこのパターンである。それも、雨水が旧正月に重なるという、雨水が最も早くやって来る(現代の私たちの目線では、旧正月が最も遅くやって来る)ケースである。

 明日、2月19日の七十二候は「土脉潤起(土脈潤い起こる)」だから、雪が雨にかわり、大地に潤いが行きわたる時候である。今夜の関東地方が冷たい雨が雪にかわるという予報で、土脉潤起とは逆のベクトルのようだが、西高東低の冬型が長続きせずに、こうして周期的に雨が降るようになったのだから、寒さの季節ももう少しの我慢なのだろう。

 二十四節気と同様に中国オリジナルで、現代の私たちにも馴染みが深いのは、十干十二支の干支(えと)である。

 古代の中国では10日間が一つの時間単位になっていて(今でも「旬」という言い方が残っている)、その10日の一つ一つに甲・乙・丙・丁・・・という名前が付けられた。それが十干である。一方の十二支の方は、モノの本に寄れば、木星が地球を一周するのが約12年なので、空の方角を12に分けて、それぞれに動物の名前を付したのがその始まりなのだそうである。この十干と十二支が組み合わされて、60年を1サイクルとする年の数え方になったのは言うまでもない。60年たって元の十干十二支に戻るのが「還暦」という訳だ。

 十干十二支は、やがて陰陽五行説と結びつき、「木・火・土・金・水」と陰・陽を表す「兄(ね)」と「弟(と)」の組み合わせと対応するようになった。
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 今年、2015年は「乙未(きのとひつじ)」である。乙は「木の陰」で未は「土の陰」。木と土の組み合わせは「木剋水(木が土の養分を奪う)」という「相剋(克)」の関係にあるといわれる。「水生木(水が木を生じる)」というような「相生」の関係とは逆で、何かを滅ぼしてしまうことを示しているそうである。

 羊という字は「吉祥」の祥と同じ読みだから、中国人にはおめでたい動物である。いつも群れをなして暮らす穏やかなイメージがあり、家畜として特に中国の北の方の生活には欠かせないものだ。それが乙(きのと)と組み合わさることで相剋の世になるとは、一体いかなることなのか。

 もっとも、今年に入ってイスラム国の姿が世界中を脅かし、テロと空爆の応酬が更なる憎悪を招いていることを考えると、この陰陽五行説にも何やら含蓄がありそうである。

 そんなことを考えながら、今月の初めに深圳に出張した帰りに香港に立ち寄った時、街の中でちょっと面白いディスプレイを見つけた。旧正月を二週間後に控え、繁華街は干支の飾り付けで一杯だったのだが、この時に出会った羊たちは、今までに見たこともないカラフルなものだったのだ。
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 私たちは普段、羊は白いものだと決めつけている。真っ先に黒い羊を思い浮かべる人がいたとしたら、それは相当な変わり者だと思われることだろう。英語でも”black sheep”といえば集団の中での厄介者というような意味である。

 そこへ行くと、香港で出会った羊のディスプレイは実に多彩だ。こうして眺めていると、その多彩さには何の不思議もないし、いいや羊は本来白いものだと言う方が野暮というものだ。そして、私たちが生きていく世の中というものも、多彩であることに対してそのように寛容であるべきではないのだろうか。外見はどんな色をしていても、お互いに羊として認め合うことは出来るはずだ。しかし同時に、そこには羊の群れの中で守るべき最低限のルールがあることもまた、忘れてはならないだろう。

 出張先の異国で思いがけず出会ったパステル・カラーの羊たちに、ちょっぴり救われたような気分になった。

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山の上のロウバイ [季節]


 立春を過ぎても、寒い冬が続いている。

 天気予報を見れば、北陸地方は雪マークばかりだ。私が以前に長く勤めた会社の初任地が北陸の富山だったので、同期入社で今も働いている女性にお見舞いのメールを送ったら、その翌朝(2月10日)こんな返事が返ってきた。

 「土曜(2月7日)の夜から降り続き、今朝も降っています。長靴で歩いて、なんとか雪が入らない位です。」

 そんな北陸地方とは対照的に、関東平野では冬の晴天が続いているが、北風が何とも冷たい。けれども、建国記念の日の2月11日(水)には一旦その寒さが緩み、日差しの暖かい穏やかな天候になるという。その日は、実家の母をクルマに乗せて秩父・長瀞の宝登山(ほどさん)へロウバイを見に行く予定にしていたのだが、暖かい一日になってくれるのなら好都合だ。

 家内を乗せてクルマを飛ばし、都内の実家に着いたのは、朝のちょうど8時半だった。それから母を乗せ、すぐ近くの大泉ICから関越自動車道に上がると、渋滞もなく実に順調だ。花園ICまで30分強。そこで降りて国道140号(彩甲斐街道)を西へ。寄居を過ぎてから、カーナビに従って皆野寄居有料道路に入る。長いトンネルで山を越えるこの道は秩父地方へのショートカット・コースだ。

 皆野長瀞ICで降りると、今度は国道140号を北上することになり、程なく秩父鉄道の長瀞駅前の交差点に辿り着く。そこを左折して坂道を上って行けば、宝登山ロープウェイ山麓駅前の駐車場だ。私たちは9時45分頃に到着して第二駐車場に停めることが出来たのだが、その後にも次々とクルマが上がって来て、あと10分もすればそこも満杯になりそうな勢いだった。
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 ロープウェイの乗り場まで、母を連れてゆっくりゆっくりと坂道を上がる。ロウバイが見頃になった上に、今日は暖かい日和だから、宝登山を訪れる人は多いだろう。ロープウェイは既に7分間隔のフル操業だが、それでも搭乗待ちの長い行列が出来ている。待ち時間は30分ほどと言われたが、それぐらいの我慢は、今日なら仕方がないか。

 待ち時間は結果的には30分までにはならずに私たちの順番がやって来て、しかも母を座らせることが出来た。所要時間5分程度の短いロープウェイなのだが、眼下の景色を眺めていると、驚いたことに駐車場待ちのクルマの長い行列が、何と長瀞駅前の交差点のあたりまで続いている。私たちも朝ぐずぐずしていたら、今頃はまだあの列の中にいたのかもしれない。早めに行動を始めたのは幸いだった。

 ロープウェイの山頂駅から外に出ると、山の上だというのに風がなくて本当に穏やかな日和だ。早くもロウバイ園から花の芳香が漂って来る。それよりも、南から西にかけての展望が広がっていて遠くの山々がよく見えている。中でも目を引くのが、特異な形をした両神山(1723m)だ。大学生の頃に日帰り強行軍で登ったことがあるのだが、その姿通り骨のある山だったという印象が残っている。
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(遠景・右が両神山、左が甲武信ヶ岳)

 更にその左には、雲取山(2017m)から西へ、甲武信ヶ岳(2475m)までの山々が連なっている。いわゆる「奥秩父」の山々なのだが、なるほど、宝登山の方角からこうして眺めると、秩父の遥か後方にこれらの山々が聳えている。「奥秩父」という言い方は、秩父から南西方向を眺めた時の言い方であることを改めて認識することになった。
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(彼方に連なる奥秩父の山々)

 ロウバイ園に向かう道に少し傾斜があるので、家内と私で母の前後を固めるようにして歩く。入口の斜面には福寿草の花があちこちで温かい陽の光を浴びている。
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 そして、そこから続くロウバイ園は、本当に今が見頃だ。それも、最盛期ではなくてまだ蕾を幾つも残している様子が実にいい。
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 青空によく映えるロウバイの花の鮮やかな黄色を楽しみ、その芳香に酔いながらゆっくりゆっくりとロウバイ園の緩やかな坂道を登ると、宝登山の山頂の標識がすぐ先にあった。母を連れて、まさかここまで歩いて来られるとは思っていなかっただが、ロープウェイを利用せずに山麓から自分の足で登って来たと思われる人々も山頂には大勢いて、なかなかの賑わいだ。そこからも、両神山がよく見えていた。
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 その両神山を眺めていた時、私のすぐ右から、妙に聞き覚えのある元気な声が耳に入って来た。そして、声の主の方を向いた次の瞬間、私はもう声を上げていた。

 「Iさんですよね!お久しぶりです。」
 「おお、もしかしてK君? いやあ久しぶり。それもこんな所で。」

 Iさんは私の高校山岳部時代の一年先輩だ。卒業以来、山でご一緒したことは殆どないのだが、夜の集まりなどでたまにお目にかかることもあった。直近でお会いしたのは3年ぐらい前のことだろうか。今日はご夫妻で来られていて、天気の良い日にはこうしてお二人で外を歩くことが時々あるそうだ。

 挨拶も早々に、Iさんと私は奥秩父の山並みを指差しながら、どれがどのピークかという話をしていた。Iさんの代は、高一の春合宿(3月)で、今ここから見えている雲取山から甲武信ヶ岳までの間を縦走している。その時のことにも話題が及んだ。

 「そうそう、毎日雪ばっかりで大変な縦走だったなあ。」

 その奥秩父の山々を彼方に望む宝登山の山頂で、思いがけずIさんにお会いするとは、何という奇遇なのだろう。山の神様も実に粋な計らいをしてくれたものである。
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(遠景・左のピラミダルな山が武甲山)

 山の上で一時間ほどを過ごした私たちは、ロウバイ園の一角で一休み。母が用意してくれたお手製の稲荷寿司を食べてお腹を満たす。それからゆっくりとロープウェイの駅へと戻ると、正午を少し過ぎた頃だった。

 ロープウェイの山麓駅に下りると、これから宝登山に上がる人々の朝にも増して長い列が出来ていてびっくり。今からロープウェイに乗るには二時間待ちだそうだ。そして、駐車場の前には依然としてクルマが長蛇の列をなしている。この混雑に巻き込まれなくて本当によかったと再び思いながら、私たちは帰路に向かった。
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(梅とロウバイの競演)

 秩父は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の東征伝説に関連した言い伝えが各地に残っている。雲取山の北方の麓にある三峰神社、秩父市内の椋神社、そしてこの宝登山の麓の宝登山神社などは、いずれも景行天皇の御世、つまり日本武尊東征の時代の創建とされている。記紀の記載にある通り、日本武尊が甲斐から雁坂峠を越えて上州へ向かったとすれば、三峰神社や椋神社、そして宝登山は概ねその通り道になるし、その東征の過程で日本武尊が山の姿を八日間見続けたことから、「八日見山(ようかみやま)」が「両神山(りょうがみやま)」になったという説もあるぐらいだ。
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 仮にこの東征伝説が、日本武尊に象徴される大和朝廷による東国支配の過程を神話化したものだとして、甲斐から標高2082mの雁坂峠を越えて秩父に入り、更に無数の山々を越えて上州へと向かうルートはいったい何を意味しているのだろう。地図も道路もない時代とはいえ、なぜこんなに山ばかり越えるルートを選んだのだろうか。

 秩父は盆地の南側を奥武蔵の高い山々に阻まれ、さらにその先に奥多摩や奥秩父の山並みが東西に走っているために、外の世界とのアクセスは東の寄居方面に限られてきた。1998年に雁坂峠の下を貫くトンネルが開通するまで、山梨県側への自動車交通はなかったぐらいだ。それだけに、景行天皇の時代に雁坂峠を越えたというのは途方もない話で、宝登山の山頂から山々を眺めてみると、その「途方もなさ」を実感せざるを得ない。そうなのだが、古代人のバイタリティーには、実は我々の想像を超えたものがあったのではないかと思わないでもない。大海原のような秩父の山々を眺めていると、こちらの気分もどこか雄大になっていくから不思議なものだ。

 ともあれ、文明の利器のおかげで楽をさせてもらっている私たちは、帰路の途中に「道の駅」で地元の野菜を買い求めたりしながら快調に高速道路を走り、午後2時半には実家に戻ることが出来た。ちょうど6時間の遠出。今が旬のロウバイの花を楽しみ、母にも喜んでもらえた。普段とは違って坂道の上り下りがあったから少し疲れたかもしれないから、今週の後半はゆっくりしてもらうことにしよう。
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 宝登山にはロウバイ園に隣接して大きな梅園もある。梅はまだごく一部しか咲いていなかったが、それも遠からず見頃になることだろう。また機会を見て出かけてみようと思う。

 なお、宝登山の山麓では杉の植林が既に真っ赤になっている箇所が幾つもあった。花粉症持ちの方々はご用心を。

江戸の正月 [季節]


 年が明けた。

 元日の朝、我家では朝食前に神田明神と湯島天神へ初詣に行くのが恒例になっている。朝8時頃に家からクルマを飛ばせば、蔵前橋通りの神田明神裏参道下までは10分ほどだ。両方にお参りして9時過ぎには家に戻って来られる。今年はアベノミクスへの期待が大きいのか、神田明神は朝早くから大賑わいだったが、それとは対照的に湯島天神が拍子抜けするぐらい空いていた。少子化で受験生が減っているのだろうか、などとつい考えてしまう。

 前日の大晦日の夜、食事が終わってから私は迂闊にも眠り込んでしまって、今回は除夜の鐘を聞きそびれてしまった。(一度目が覚めたのは午前2時前だった。) 昔だったら、そんなことは決して許されなかっただろう。

 「昔は一年のケジメとして、一家の家長は、大晦日の夜から神社に出かけて、寝ないで新年を迎えるのが習わしでした。そのころ、家族は主として自分たちが住んでいる地域の氏神を祀っている神社にお参りしていました。」
(『日本人のしきたり』 飯倉晴武 編著、青春出版社)

 大晦日の徹夜だけではない。世帯主は年男として正月の行事の一切を取り仕切らねばならなかったのである。

 「年男は、室町幕府や江戸幕府では、古い儀礼に通じた人が任じられましたが、一般の家では、主として家長がその任に当たり、しだいに長男や奉公人、若い男性が当たるようになっていきました。

 年男は正月が近づいた暮れの大掃除をはじめ、正月の飾りつけをしたり、元旦の水汲みをしたり、年神様に供え物をしたり、おせち料理を作るなど一切を務めました。とにかく年男にとって正月は、猛烈に忙しい時期でした。」
(引用前掲書)

 そう、年神様という概念も、今では殆ど失われてしまったものの一つだろう。新年の神様で、一年の幸せをもたらすために、初日の出と共に降臨されるという。その際に神様への目印として玄関前や門前に木を立てたのが、門松の始まりなのだそうである。

 現代の都市生活では、こうしたお正月のしきたりも年々風化して、我家のおせち料理も極く象徴的なものだけを用意するようになっている。まあ、年に一度しかご馳走が食べられない時代でもないから、そのあたりは合理的に考えていいのかもしれないが、例えば江戸時代に人々はどのような正月飾りをして新年を迎えたのだろうか。

 我家の最寄り駅から都営地下鉄の大江戸線に乗って、清澄白河駅で下車。外に出て2~3分歩くと、深川江戸資料館という施設がある。江戸時代の深川の町並みを再現したセットが有名で、年末年始の今の時期は「江戸庶民の年中行事再現『正月飾り』」という催し物が行われている。正月の2日・3日もオープンなので、家内と二人で行ってみることにした。和服を着ていくと入場料が100円引きになるというので、今日の家内は着物姿である。
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(深川江戸資料館に再現された深川の町並み)

 館内を進むと、地下に下りていく階段があり、再現された昔の町並みをそこから見下ろすことができる。三フロア分ぐらいの高さの中に作られた、結構広い空間だ。
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 その階段を下りた所にあるのが、この界隈では大店(おおだな)になる肥料問屋である。正面の軒先に注連縄(しめなわ)が張られ、一対の立派な門松が立てられている。その門松が今の物とはいささか様子が違っているのに、まず驚く。
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 斜めに切った三本の竹筒の周りを松の枝で囲み、下部を藁で覆ったのが現在の門松のイメージだが、江戸時代のものは枝をつけた背の高い竹が中心に立てられている。(写真のように立派なものは、裕福な家に限られたそうだが。)

 「松が飾られるようになったのは平安時代からで、それまでは杉なども用いられていたといいます。松に限られるようになったのは、松は古くから神が宿る木と考えられていたたためで、この時代の末期には、農村でも正月に松を飾るようになったといわれます。さらにここに、まっすぐに筋を伸ばす竹が、長寿を招く縁起ものとして添えられました。」
(引用前掲書)

 肥料問屋を過ぎて、船着場に近い船宿を除いてみると、今度は酒樽にたいそう立派な正月飾りが施されている。伊勢海老の飾りと大きな昆布が印象的だ。
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 一方、庶民が住む長屋の様子を見てみると、狭くて質素ながら、どの住居にも神棚があって、注連縄と繭玉が飾られている。お札はこの近くの富岡八幡宮のものだ。
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 そして、座敷には雑煮の用意が。お正月といってもいたって質素なものである。
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 長屋と長屋の間の路地には共用の井戸。そこにも注連縄が張られていて、昔は神様をお迎えする場所が生活上のいたる所にあったことがわかる。
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 それにしても、しばし江戸時代にタイムスリップしたような感覚を楽しめるこの施設は面白い。そこに正月飾りの数々を加えた今の時期は、そうやって年神様をお迎えしていた時代の体温のようなものを感じることが出来るのでなおさらだ。着物姿の家内は時代劇のヒロインにでもなった気分なのか、ご機嫌である。
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(お正月には凧を売る露店があちこちに出ていたという)

 1657年の1月18日(ユリウス暦では3月2日)に発生してから3日間で江戸の街の大半を焼き尽くしたという明暦の大火(いわゆる振袖火事)。その後、隅田川の東側への新市街の形成を促すために、1659年(または1661年)に両国橋が架けられた。これよりも先に、隅田川と行徳を結ぶ運河として家康の時代から小名木川の開削が進められていた。この小名木川の北側に深川村が誕生したのは1596年のことだそうである。

 以後、干拓による新市街地の形成が南に向かって進み、「深川」も南へと広がっていく。その工事の無事を祈願してのことなのだろう。永代島と呼ばれていた場所に1627年に勧請されてきたのが富岡八幡宮だ。その周辺は文字通りの門前町になり、門前仲町の名前が今も残っている。幕末期の文久年間に作られた絵地図でも、この富岡八幡宮のすぐ南、現在の永代通りがほぼ海岸線のようになっているから、深川の南端が八幡さまであった訳だ。

 時代は進み、元禄時代になると、隅田川には新大橋(1694年)と永代橋(1698年)が相次いで架けられた。深川は江戸・日本橋エリアへのアクセスが格段に良くなり、栄えて行くことになる。
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(歌川広重が描いた新大橋(左)と永代橋(右))

 因みに、江戸城松の廊下で刃傷沙汰となった赤穂事件が起きたのが1701年の3月14日。そしてその年の8月13日に、吉良義央は本所への屋敷替えを幕府から命じられた。現在の両国駅の南側で、本所といっても深川と隣接するような所だ。そして、吉良邸討ち入りを図る赤穂浪士たちは、富岡八幡宮の近くの店に出入りして密議を重ねていたというから、深川もなかなかホットな場所だった訳だ。
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 更にそれから約80年後、吉原で出版業に成功していた蔦屋重三郎が、1783年に日本橋への進出を果たした。その場所は現在の小伝馬町のあたりだ。深川出身の山東京伝滝沢馬琴の作品は、その蔦重の耕書堂を通じて世に出された。新大橋や永代橋を渡って、彼らは耕書堂との間を足繁く往復していたことだろう。

 深川江戸資料館を出て南方向へ歩いて行けば、門前仲町の交差点まではいくらの距離でもない。1月3日の今日、いわゆる「モンナカ」は大変な人出だ。歩道には無数の屋台が並び、富岡八幡宮も深川不動尊も参詣者の長蛇の列が出来ている。

 よく晴れて日差しは暖かく、風のない穏やかな午後。山東京伝や滝沢馬琴のことを思った訳ではないが、まだ散歩を続けたかった家内と私は、永代橋を渡って日本橋まで歩いてみることにした。自分の足を使うことで、江戸の街の距離感も解ろうというものだ。
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(永代橋を渡って中央区へ)

 今も庶民的な門前仲町界隈とは対照的に、隅田川を越えて中央区に入ると、永代通りの両側には無機質なオフィス・ビルが立ち並び、正面には日本橋COREDOが見えてくる。今から1時間ほど前には、その隣の大手町では箱根駅伝の10区を走る選手たちが次々にゴールインしていた筈である。青山学院大学の初優勝に、沿道は大いに盛り上がっていたことだろう。

 昔も今も、江戸は正月から賑やかな街である。

太陽の復活 [季節]


 12月25日、午前6時過ぎ。窓の外では南東寄りの空にようやく赤味が射し始めた。朝が早いビジネスマンはもう動き出している時間だが、東京都心部の道路はまだかなり薄暗い。
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 天文データによれば、皇居の吹上御殿の位置から見た今朝の日の出は午前6時48分だそうだ。不思議なもので、12月22日の冬至を過ぎても、朝の日の出の時刻は更に遅くなり続ける。(今日は冬至の日よりも2分遅い。)元日にはこれが6時50分になり、1月13日までそれが続く。日の出が再び早くなり始めるのは翌14日からだ。

 一方で、日の入りの時刻はそれとはサイクルが少しずれていて、11月29日から12月13日までの15日間が16時26分と一番早く、冬至の日の日没はそれより4分遅い。要するに、冬至は「日の出の最も遅い日」でもなければ、「日の入りの最も早い日」でもないのだが、日の出から日の入りまでの「昼の時間」が一番短くなるのは(=9時間44分)結果的に12月18日から26日までの9日間になり、冬至はその期間のちょうど真ん中の日に当たる。
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 「暖冬傾向」という三ヶ月予報とは裏腹に、今年は12月に入ってから全国的に寒い日が続いた。宮城県にある我社の工場に出張する機会もあったが、私が訪れた日の前々日が吹雪だったようで、工場周辺にはこの時期にしては珍しく雪が残っていた。

 冬の寒さがやって来ると、外に出るのは億劫になるものだ。そのために、最近は私もいささか運動不足を感じている。現代の生活においてすらそうなのだから、住居も衣類も粗末で暖房の手立ても極めて限られていた昔の人々にとっては、冬の寒さはさぞかし身に凍みたことだろう。ところが、それにもかかわらず暮も正月も戦が続いた年が、今から700年近く前にあった。西暦1335年。「武」という字が不吉だからという周囲の反対を押し切って後醍醐天皇が改元した「建武」の2年目の年である。

 足利尊氏らが京都の六波羅探題を、新田義貞らが鎌倉を攻めて北条の世が潰えた1333(元弘3)年の初夏からちょうど2年。後醍醐帝の親政が早くも破綻をきたし、各地で武士の不満が渦巻く中で、北条高時の遺児・時行が7月に信濃で反乱の火の手を上げて鎌倉を目指した。世に言う「中先代の乱」である。

 尊氏の名代として急ぎ駆けつけた弟・足利直義の軍は破れ、鎌倉は反乱軍の手に落ちる。この危機を座視してはいられない尊氏は、後醍醐帝の許可を得ないまま鎌倉に進軍し、速やかにこれを奪回。時行を信濃へ敗走させるのだが、直ちに京都へ帰還せよという天皇の命令に尊氏はもはや従わず、鎌倉に居座って独自に恩賞を与え始めた。建武の新政への明らかな反逆である。これが旧暦の10月15日。今の暦に直せば11月1日のことだ。
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 この年の暦には閏10月があったので、11月というと今の暦からは1月半ほどずれることになる。後醍醐帝から足利尊氏・直義の追討令を新田義貞が賜ったのは11月19日。ユリウス暦では年が明けて1336年の1月2日だから、季節は真冬だ。当初は鎌倉の寺に隠遁していた尊氏だったが、新田軍が箱根に迫ると俄かに陣頭指揮を取り、義貞の実弟・脇屋義助率いる主力部隊を足柄峠付近の竹ノ下で撃退。これが12月11日、新暦では1月24日になる。

 足柄峠は標高759m。両軍が激突したのは寒さの厳しい頃である。まして、新田軍は京都からはるばる進軍して来たのだから、兵卒たちは厳冬期に野宿の毎日だったのだろう。暖かい食事もどれほど口にすることが出来たのだろうか。今月(12月)の13日に、私は同じ箱根の三国山(1,102m)近辺の尾根をかつての山仲間たちと歩くことがあったのだが、その日は強い寒気が入り込んで尾根の上は風が強く、寒さに震えた半日だった。そのことから想像を巡らせれば、箱根竹ノ下の戦はさぞかし過酷な環境下にあったことだろう。
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(寒かった今年12月13日の箱根)

 足柄峠で総崩れとなった新田軍は西へと敗走。その報せを受けて、足利軍を背後から追うべく、鎮守府将軍・北畠顕家が軍勢を率いて陸奥国・多賀城を発ったのが12月22日。すなわち新暦の2月4日である。彼らが南下した奥州街道は厳寒で、雪の蔵王や安達太良山を見ながらの行軍だったはずである。

 そして、箱根・竹ノ下の戦いから20日後の建武3年春正月、当時の暦のまさに元旦の日に、朝廷軍の名和長年・結城親光らが、近江国の勢多で足利直義・高師泰の軍勢と合戦に及んだ。足利軍は箱根から進撃を続け、主戦場がいよいよ京に近くなった訳だ。そして10日後の1月11日(新暦では2月23日)に、尊氏は一旦入京を果たしている。
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 「兵農分離」などが行われる遥か以前の時代。戦は農閑期に行うものだという事情があったとしても、当時の暦での暮も正月もなく大規模な戦闘が続いたというのは何とも異様なことだ。しかも、上記の尊氏入京で戦乱が収まった訳では全くなく、むしろそれから半年間は北九州までの地域をも巻き込んでの戦乱が、ジェットコースターのようなスピード感で展開していくことになる。そうまでしても争いに決着をつけ、時代の歯車を前に回さねばならなかったところが、まさに乱世なのだろう。

 そんなことを考えながら、昨日のクリスマスイブは、私も息子もそれぞれ早めに仕事を切り上げて帰宅。娘は休暇を取っているので、平日では久しぶりに夜の食卓に一家四人が揃った。丸鶏をシンプルに焼いたものをメインにして、飲み物はお手軽なロゼのCAVA。ささやかなご馳走を楽しみながら、色々な話題に花が咲いた。やはり一家団欒はいいものだ。
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 あと二日で私も年内の御用納めを迎える。そしてそれが終わると、翌27日からは、先に述べたように昼間の時間がボトムを脱して、毎日少しずつだが長くなり始めることになる。寒さの季節はまだまだ続くけれど、太陽の復活がようやく始まるのだ。そのことを励みに、この冬を元気に生きていこう。

晩夏 [季節]


 9月14日(日)、私にしては朝寝坊だが、6時少し前に目が覚めた。ベランダに立つと、東の方角の空がまぶしい。頭の上には雲がプカプカ浮かんでいるが、全体としてはきれいな青空だ。日曜日にこんな晴天を迎えたのは、何週ぶりのことだろうか。

 今日が晴天になることは、週間天気予報を見てわかっていたから、久しぶりに山歩きに出かける手もあった。何か計画して山仲間たちに声をかけてもよかったのだが、つい仕事の忙しさにかまけて手がつかなかった。9月の中旬だから晴れればまだ暑いし、敬老の日の三連休の中日だから、どこへ行っても混んでいるだろうな、という思いも頭の中のどこかにはあった。

 ならば、ソロで出かけるか。それも考えて前夜に一通りの準備までしたのだが、自分でも不思議なほどテンションが上がらない。遅くまで本を読んだりしていて、結局目が覚めたときには、本来起きるべき時刻を1時間近くも過ぎてしまっていた。予定の電車にはもう間に合わない。

 ソロの計画だから、私が寝坊をしたことで他の誰かに迷惑をかけた訳ではないが、まがりなりにも山へ行こうとして寝坊をしたのは、今回が初めてだ。それぐらい、気乗りがしていなかったのだろう。自分に正直になれば、久しぶりの晴天の日曜日は家内と過ごしたいという気持ちの方が強かったのだ。

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 「今日は本当にいいお天気。あなたがいるんだったら、どこかの公園へ行ってのんびりしたいな。」

 朝食を摂りながら、家内もそう言い出した。28年も一緒にいるから、お互いに考えることは似たようなものだ。天気の良い休日は、簡単な食べ物と少しばかりのワインを持って公園に出かけ、緑の中で過ごすのが、いつの間にか私たちのライフ・スタイルになっている。

 とはいえ、このところのデング熱騒ぎで、代々木公園や新宿御苑は残念ながら閉鎖になっている。どこかいい代替地はないかなと、コーヒーを飲みながら二人で地図帳を眺めているうちに、ある場所に目がとまり、そこへ行ってみることに決まった。私たちにとっては初めての場所だ。

 それならば、コーヒーを飲み終えたら出かける支度を始めようか。再びベランダに立った時には、外は夏が戻ったかのように強い日差しが照りつけていた。虫除けもさることながら、これは日焼け止めも塗らないといけないかな。

 区内のコミュニティー・バスに乗り、最寄りの駅からメトロに乗ると、それは東急目黒線に乗り入れていて、目黒から二つめの武蔵小山駅には11時半前に着いた。駅前の商店街(都内最大のアーケード商店街であるらしい)をちょっと覘いた後、住宅街の中を北西方向に歩いていくと、10分足らずで目的地に到着。「林試の森公園」である。都立公園ながら無料なのが嬉しい。
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 「林試」の名前が示す通り、ここは明治時代に林野庁の林業試験場として使われた場所だった。それも、明治の初めに北区・西ヶ原に設けられた農商務省の樹木試験所から、明治33年に樹木を移植したそうだ。それだけでも110年以上の歴史があるので、公園の中には背が高くて立派な樹木がとても多く、今日のように日差しの強い日には、この緑陰の深さがありがたい。

 その林業試験場は昭和53年につくば市へ移転。そして、跡地が東京都に払い下げられて現在のような公園になったのは、平成の世になってからのことだ。園内には、そのことを示す石碑が建てられていた。
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 芝生の上でゆっくり出来る場所を目指して園内を歩いていくと、大きな大きなプラタナスの樹に何度も出会った。街路樹などで見かけるものとは大違いで、幹の太さといい葉の繁り方といい実に堂々たるものだ。これを眺めるだけでも、この公園を訪れる価値は十分にあるだろう。
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 園内のほぼ東半分を歩いたところに、ちょっとした芝生の広場があった。木陰を選んでシートを広げ、私たちはのんびりとした時間を楽しむことにする。あたりには親子連れの姿もあり、ちょうどお昼時だからそれぞれ楽しそうに食事を始めている。どんな時代にも、それは微笑ましい光景だ。
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 「うーん、やっぱり外は気持ちがいいな。ここまで来てみてよかったね。」

 仰向けになって広い空を眺めながら、家内は上機嫌だ。考えてみれば、家内はこの夏、遠出をしていない。

 私は八月の初旬に山仲間と二人で二泊三日の登山を楽しんできたが、家内はずっと普段通りにこの夏を過ごして来た。お盆の週には会社も三日ほど休みになったが、その時期は、遠出をして帰省の行き帰りの渋滞に巻き込まれるぐらいだったら、静かな都心を楽しむ方がずっといい。更に言えば、その頃からこの夏は天候不順が続いていたのだった。

 家内にしてみれば今日は本当に久しぶりの、緑の中で過ごす休日なのだ。そして、二人で決めた場所でご満悦な様子が、私には嬉しい。さあ、持ってきた食べ物と飲み物でゆっくりしよう。
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 芝生の上での二人の時間を楽しんだ後、園内をもう少し歩いてみると、中ほどに小さな谷があり、そこを流れる小さな沢のほとりにミズヒキが小さな赤い実をつけていた。

 かひなしや水引草の花ざかり (正岡子規)

 晩夏というべきか初秋というべきか、ミズヒキはまさにこんな時期の季語だ。公園の中ではいまだにミンミンゼミやツクツクホーシが鳴いているが、明らかにその声量は盛りを過ぎている。
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 もう少し先へ行くと、今度は彼岸花が一列になって咲き始めている。そうか、あと9日で秋分の日だ。9月になっても猛暑が続いた昨年や一昨年と違って、今年の9月は比較的涼しいのだが、いつもの年と全く同じように、彼岸花はちゃんとこの時期なりの姿を見せている。いったいどのようにして体内時計が働いているのだろうか。
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 公園の西半分を歩いてみると、これもまた立派な木々が多く、緑陰はいよいよ深い。それが深いからこそ、木漏れ日に輝く緑が何とも鮮やかだ。都会の中でこんな風に緑を楽しめる、それこそが最高の贅沢なのだろうとも思う。そして、南門の近くには樹齢二百年という大きなケヤキの樹が並んでいた。
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 「秋の終わり頃になったら、また来てみようか。」
 「この大きなプラタナスの黄葉は、見てみたいね。」

 ここでも私たちは同じことを考えていた。公園で過ごす休日。一年の中でのクライマックスは、やはり晩秋なのだ。落葉を踏みしめながら、林試の森の巨木を見上げ、澄んだ青空を眺めることができたら、どんなにいいことだろう。その頃には、午後の陽がもっと赤味を帯びているはずだ。デイパックの中には、暖かい飲み物を入れて行こうか。

 武蔵小山の駅に戻り、メトロに乗り入れる電車に乗って私たちは都心に戻る。飯田橋で降りて神楽坂を上っていくと、向こうから秋祭りの御神輿がやって来た。そういえば、この週末はあちこちの神社でお祭りが行われているはずだ。
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 よく晴れた一日。気温も上がり、外を歩いた私たちはそれなりに汗もかいた。それでも、午後4時の太陽の輝きは、真夏のそれとはやはり異なるものだ。

 ゆっくりと、しかし着実に、次の季節が始まろうとしている。

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30年に一度 [季節]


 日曜日の朝、我家では近くのスーパーへ一週間分の食糧の買い出しに行くことが習慣になっている。山歩きなどの予定が入っていない限り、私は家内に同行し、運転手兼ポーターを務めることにしている。若い頃は買い出しにはあまり興味がなかったのだが、スーパーの店頭を眺めることは、それはそれで世の中を知ることにもなるものだと、今は思うようになった。

 「今はお野菜が高くて、とってもじゃないけど買えないわ。」

 日曜朝市の野菜売り場を眺めながら、家内が溜息をついている。確かに、レタスや小松菜、ホウレン草などの葉物野菜は、8月以降ずいぶんと値上がりをした。一家四人、野菜が好きな我家としてはつらいところだが、今は暫くの我慢だ。食卓には、相対的に値上がりの度合いの少ない野菜が並ぶようになった。

 このところの野菜の値上がりの原因は、何といってもこの夏の天候不順である。東京では太陽が照りつける炎暑の日が何日もあり、お盆を過ぎても寝苦しい夜が続いたから、今年は普通の夏とそれほど大きな違いはなかったような印象があるが、気象庁のHPから「地域平均データ検索」を利用して、日本の各地域ではどんな夏だったかを調べてみると、この8月が「平年とそれほど変わらない夏」だったのは関東以北だけで、北陸・東海地方から西では軒並み「冷夏」、「多雨」そして「日照不足」の8月だったことがわかる。

 月別の平均気温を見てみると、九州を除いて、6月と7月はどの地域も平年より平均気温が高かったのに、8月は東日本と西日本でその傾向が大きく異なり、北陸・東海以西はみな気温の低い8月になった。特に九州北部と中国地方では平年を1℃以上下回っている。
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 次に特徴的なのが、西日本の多雨だ。8月の降水量は、北陸と九州北部で平年の2倍強、中国地方で276%、そして四国と近畿で4倍に近い数字になっている。これらの地域では6月・7月はむしろ平年よりも月間降水量は少なかったのだから、なおさら8月は特異だったことになる。
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 雨が多かったことは、8月の日照時間にも影響している。近畿地方では平年の53%、四国では同47%、九州北部では同43%、そして中国地方では同39%しか日照時間がなかった。冷夏、多雨、日照不足。これでは、葉物を中心に野菜の値段が上がるはずである。
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 とりわけ中国地方はこうした天候不順の象徴のようだった。8月の平均気温が平年比でマイナス1.3℃というのは、長雨でコメが不作になり、タイ米を緊急輸入することになった1993年以来のことだ。要するに直近20年間で一番の冷夏だったのだ。8月の降水量が平年比276%というのも同じく1993年以来のことになる(その年は平年比279%)。そして、中国地方の8月の日照時間が平年比僅か39%というのは、1980年以来の記録である。(この年は、5月18日に米・ワシントン州のセントへレンズ山が大噴火を起こし、その噴煙が北半球の空を広く覆った。それが原因かどうかは知らないが、この年は顕著な冷夏となった。)

 その中国地方で、今年8月には二つの大きな水害が発生した。8月17日(日)の早朝に発生した京都府福知山市の洪水と、8月20日(水)の未明に発生した広島市北部での土砂災害である。

 今年の梅雨明けは中国地方が7月20日、そして関東地方が21日と、ほぼ平年並みだった。しかし夏空は長続きせず、特に8月5日(水)頃からは停滞前線が日本列島にかかるようになった。そして、8月9日(土)・10日(日)は大風11号が西日本を縦断。9日に予定されていた「夏の甲子園」の開会式が11日に順延となったほどだった。

 この台風襲来の週末に福知山市ではかなりの雨が降り、8月に入ってからの累積降水量が平年の2倍を超える200ミリに達していた。そして、その一週間後の8月16日(土)から17日(日)にかけて、梅雨前線が居座る気圧配置の下で、福知山市は更に300ミリを超える大雨に見舞われ、ついに水害が発生することになる。
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 この時の経緯は、福知山市のHPにかなり詳しく説明されている。一時間ごとの降水量のデータ(気象庁)と合わせて眺めてみると、事態が一気に深刻になったのは16日の19時頃から17日の未明にかけてであることがわかる。とりわけ、日付が替わった頃からの雨の降り方は凄まじく、一時間に最大で50ミリを超える猛烈な雨が6時間も続いたことがはっきりと示されている。
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 降水量が1ミリというのは、1平方メートルの平らな地面に高さ1ミリの雨が降ることだから、水の量としてはちょうど1リットルである。従って一時間で50ミリの雨とは、1平方メートルの地面に一時間で50リットルの降水があったということだから、これは途方もない大雨だったという他はない。16・17の両日の福知山市の降水量は計335ミリに達し、8月1日からの累積降水量はその時点で平年の実に8.2倍となった。そもそも8月1ヶ月の降水量が平年では126ミリほどなのに、2日間で335ミリなのだから、ただただ驚くばかりだ。

 短時間にこれほどの雨が降れば、河川の氾濫や土砂崩れの発生は避けられない。福知山市では16日の深夜から翌朝にかけて広い範囲で水害が発生。いたる所が水に浸かった様子が繰り返しテレビの画面に映し出されていた。道路の被災が149路線で延べ210ヶ所、河川の被災が家屋への浸水が約2,500棟、農地の冠水680ha、事業所の浸水が1,000事業所というから、本当に大きな災害である。
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 一方、広島市安佐北区三入のアメダスのデータによると、台風11号が来る前の8月5日から6日にかけてこの地域に強い雨があり、8月に入ってからの累積降水量が150ミリに近づいていた。平年の8月1ヶ月の降水量に匹敵する雨が8月の最初の6日間で降ったことになる。一方、その直後の台風襲来の週末も、そして福知山で大規模な水害が発生した16・17日の週末も、三入には大雨はなかった。とはいうものの、ほぼ毎日幾何かの雨は降り、8月18日(月)が終わった時点での8月の累積降水量は約230ミリで、同じ時期の平年比では2.9倍になっていた。
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 そして8月19日(火)。この日は梅雨前線が少し北に押し上げられたが、本州の東から西へ張り出した高気圧の縁に沿って、中国地方には南西方向からの湿った空気が入りやすい気圧配置になっていた。
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 この日の広島は、未明から日没までの間は殆ど雨がなかった。夜になって少し降り始めたが、特に問題になる量ではない。それが、日付が替わって、20日(火)の午前2時頃から俄かに雨脚が強まり、午前3時台には80ミリ、4時台には101ミリという猛烈な雨が降った。安佐南区及び北区の山の斜面で大規模な土砂崩れが発生し、住宅を押し流したのが、ちょうどこの時間帯と符合するようだ。
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 死者72名、行方不明2名。家屋の損壊が130軒(内24軒は全壊)。家屋への浸水は292軒。土砂崩れが170箇所、道路の被災が290箇所。福知山のように激しい雨が6時間も続いた訳ではないが、8月の初めを中心に平年の3倍に近い雨が降り。山の斜面も地盤が緩んでいたのだろう。それが20日未明の激しい雨で遂に土砂崩れを起こしたと見るべきか。他方、都市の拡大と共に新たな住宅地が山の斜面に近づいて行った、そのことの是非も問われていくのだろう。
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 そして、そのように多くの死者が出たこともあって、メディアの報道はもっぱら広島の土砂災害にフォーカスが当たっているようだが、福知山の水害は降水量の面でも被害を受けた地域の広さの面でも、それ以上に甚大な災害であった。そのことも私たちはしっかりと認識する必要があるだろう。

 広島や福知山をはじめとして、西日本の各地に災害をもたらした今年8月の雨。気象庁の異常気象分析検討会は、9月3日の臨時会合で、この夏の西日本の記録的な大雨や日照不足について、「30年に一度の異常気象」であるとの結論を出した。太平洋高気圧の張り出しが弱かったことや、赤道付近の海面水温が平年より0.5~1℃高く、温かくて湿った空気が南から西日本に入り込みやすかったことなどを、その理由に挙げている。また、地球温暖化による水蒸気量の増加も原因の一つであるそうだ。

 本当に30年に一度なら、私があと30年も生きることはないだろうから、今夏ほどの異常気象をもう体験することはないのかもしれない。そう思って記事にまとめてみたのだが、「30年に一度」を今後ももし体験するようなことになったとしたら、地球の将来はいよいよ心配だ。


暑い!暑い! [季節]


 5月最後の週末は、大変な暑さになった。

 前週の後半あたりから、週末が暑くなりそうなことは天気予報がさかんに伝えていたから、ある程度は覚悟していたものの、本当に梅雨明け後のような夏空がやって来ると、やはり体の方がびっくりしてしまう。

 例えば、梅雨明けを7月の下旬とすると、それは夏至から一ヶ月と何日かが経った頃である。それが、6月1日となると、夏至まであと三週間というところだ。そこに梅雨明け後のような夏空がやって来ると、太陽の位置は今の方が高いから、日差しや紫外線の強さには大変なものがある。

 今回は、5月31日(土)と6月1日(日)の両日、高気圧が東から張り出して日本列島をすっぽりと覆う気圧配置が続いた。梅雨をもたらす停滞前線が日本の南に押し下げられている点は梅雨明けとは異なるのだが、いずれにしても日本中がカンカン照りになるパターンで、気温は上がりやすい。気圧傾度が極めて小さいから風が吹かないのも、暑さの原因になりやすい。
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 東京都心では、土曜日の午前11時には気温が30度を超え、17時までその状態が続いた。この日の最高気温31.6度は5月の観測史上1位の記録を塗り替えている。それは、他の多くの観測地点でも同様だった。夜になってもなかなか涼しくならず、部屋の窓を開けっ放しにしても寝苦しい。一夜明けた翌日の日曜日もまた見事な快晴で、朝から気温がぐんぐんと上がる。10時10分には早くも30度を超えた。そして、正午前に記録した33.1度がこの日の最高気温になった。
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 この時期、平年値(1981~2010年の平均)では、5月末でも最高気温は25度ぐらいである。そこへ二日続けて30度を超える日が突然やって来たのだから、体がその暑さについて行けないのも当然なのだろう。今週末はたまたま日帰りの山歩きの企画をしていなかったが、行っていたら体が悲鳴を上げていたのではないだろうか。今年はこれからエルニーニョ現象が発生する確率が高いそうで、そうなると冷夏の到来が予想されるのだが、春分の日以降の東京都心の気温の推移を見てみると、特にこの5月は気温がだいぶ高めで、ひとまずは暑い初夏だったことになる。
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 突然やって来た真夏のような日。けれども、せっかくの週末に、暑いからといって家の中にこもっていては勿体ない。朝のジョギングをはじめとして、私はいつものように外に出たい。日曜日の午後、王子の飛鳥山へアジサイの花を見がてら、家内と二人で「お札と切手の博物館」へ足を伸ばすことにした。入場無料で、「富士百景 - お札・切手に見る日本の象徴 -」という特別展を今日までやっているのである。明治以降の日本のお札や切手に描かれた富士山の姿が、少しでも涼を運んでくれるだろうか。

 メトロに乗って王子駅で降り、外に出た途端に目が眩みそうになった。時刻は13時半を回った頃で、風がなく、広々とした明治通りは頭の上から照りつけられている。駅から北方向に数分も歩くと、早くも独法・国立印刷局の王子工場が現れ、その一角に博物館の建物があった。石神井川の水流と、それが隅田川へと繋がる水運を利用し、渋沢栄一らが中心となって王子の地に抄紙会社(王子製紙の前身)が設立されたのは1873(明治6)年のことだ。3年後には工場が完成して生産を始めたが、その同時期に大蔵省紙幣寮の抄紙局が隣接地に建てられ、紙幣や郵便切手の印刷を始めることなった。そういう意味では、王子は日本のお札や切手の発祥の地なのである。

 博物館に入ると、エアコンの効いた一階と二階に常設展示があり、二階の一角が今回の特別展示になっていた。入場無料ながら訪れる人の数は少なく、展示物をゆっくりと見ることができる。但し、何と言っても本物のお札や切手を展示しているから、そういう箇所での写真撮影はご法度だ。

 そのコーナーで最初に目を引いたのは、初めて富士山が登場した明治6年発行の5円札だ。紙幣といっても、日本銀行の設立は明治15年だから、この時点ではまだ日銀券ではなく、前年の太政官布告により制定された国立銀行の制度に基づく紙幣である。
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 まだ王子の抄紙局は建てられていないから、この紙幣の印刷は米国に依頼をしたそうだ。絵柄はお江戸日本橋と、その彼方に姿を見せている小さな富士だ。戦後の五百円札に描かれた「雁ヶ腹摺山からの富士山」などと違って、ここでは富士の高嶺もまだ脇役である。

 その5円札に続いて私の印象に強く残ったのは、1899(明治32)年に発行された英貨建の公債の券面である。ロンドンにて募集され、額面1千万ポンド、期間55年、横浜正金銀行、パース銀行、香港上海銀行、チャータード銀行を引受シンジケート団とするものだった。
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 日本政府としては26年ぶりの外債で、汽船に乗って日本にやって来る外国人の目線を意識したのか、券面に描かれているのは駿河湾の方向から見たと思われる富士山だ。その2年前に、日清戦争で清国が支払った賠償金をもとに、日本が金本位制に移行していたとはいえ、維新成立から30年そこそこの東洋の島国に対して期間55年の国債がよくぞ消化できたものである。

 その日本は日清戦争で財政規模が拡大し、公募公債や増税が国内の民間セクターを圧迫していた。外債発行による内債償還や、政府による私鉄の買い上げ(=鉄道国有化)による民間への資金のリサイクルを求める声が高まっていたというが、そんな中で明治32年に募集が行われた外債は、内債償還目的でもなければ、鉄道国有化のための資金調達でもなかった。

 海外市場からの野放図な資金調達は通貨を膨張させてインフレを招くという考えから、この時代のポリシーとして外債発行は「関税収入による元利払の範囲内」とされ、新たな生産につながり、将来的に海外から金を稼ぐ事業に資金使途が限定されたのである。具体的には、この外債の資金使途は北海道の鉄道インフラの建設が中心であったようだ。世界規模での低インフレと低金利がいつの間にか当たり前になっている今の時代に、時には振り返ってみたい明治の歴史である。

 この明治の外債とは対照的に、現在の日本国債(円建て)に描かれた富士は山梨県側からのアングルで、かつての五百円札の絵柄によく似たものだ。(もっとも、私たちが国債の現物を見る機会はまずないのだが。)
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 そして、1987(昭和62)年の国鉄分割民営化の時に存在した新幹線保有機構が発行した政府保証債の券面にも、200系新幹線の後ろに富士山が描かれていた。(これはさすがに静岡県側からの富士なのだが。) そんな風に、今も昔もこの国を象徴し、その姿を見た時になぜか襟元を正したい気持ちになるのは、やはり富士の高嶺なのだろう。
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 二階建ての小さな博物館の、そのまた一角を使った展示なのだが、お札と切手の博物館の「富士百景」は、想像していた以上に楽しめる企画であった。なお、常設コーナーには世界の様々な紙幣が集められており、第一次大戦後の超インフレ時代に発行されたドイツの1兆マルク紙幣や、同様に第二次大戦直後にハイパーインフレに見舞われたハンガリーの10垓ペンゲー紙幣(10垓は10の21乗、つまり1兆の10億倍)などの実物も見ることができる。

 博物館のエアコンと富士百景でしばし涼んだ後、自動ドアが開けば外は再び炎天下だ。それからJRのガードをくぐって飛鳥山公園の麓へと歩いていくと、線路際では名物のアジサイが花を開き始めていた。このところの暑さで少し水を欲しがっているような様子ではあったが、暑い中でも涼を運んでくれる花の色である。
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 階段を登って飛鳥山公園に上がった私たちは、売店でアイスキャンディーを買い求め、木陰のベンチでちょっと一息。今日は日曜日だから、この緑豊かな公園には小さな子供を連れた家族が多く、30度を超える暑さと相俟って、なんだかもう夏休みの季節になったかのような気分だ。
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(飛鳥山公園には、無料の「アスカルゴ」で上がることもできる)

 一息入れた後は、汗をかかない程度にのんびりと飛鳥山公園の中を歩き、王子の駅へと戻る。それから再びメトロに乗って飯田橋へ。地上に出て神楽坂をゆっくりと登っていくと、ここもまた夏休みのような日曜日の午後だ。坂道の両側に並ぶ店には、「昼から飲めます」という看板があちこちに出ていて嬉しい限りだ。

 休日に家内と散歩に出ると、神楽坂に足が向かうことが多い。結婚してから最初の10年間をこのすぐ近くで暮らし、我家の子供たちもそこで育ったから、今もなお私たちにとっては東京の中のふるさとのような街なのである。古さと新しさが奇妙な形で同居する独特の街の個性があって、いつ訪れても面白い。家内も私も大好きなエリアの一つだ。

 今日は季節外れの暑さの中を、家内は王子のニッチな博物館まで付き合ってくれた。そして、一緒に神楽坂まで出てきたからには、ここで一杯やらない訳にはいかない。坂に面したオープンテラスのある小さな居酒屋にいつものように席を取り、注文すべきものを注文した。そして、それは2分後には席に運ばれてきた。

 日曜日の午後3時半。外はまだカンカン照りが続いている。ともあれ、ずいぶんと早くやって来た夏の日に、二人で乾杯をしよう。

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サクラサク [季節]

 春、三月。

 桜の蕾が日々大きくなり、いつしかそれが緑色を帯び、そしてその先端にピンク色が見えるようになると、いよいよ開花も時間の問題だ。そのファイナル・カウントダウンの時期になると、毎年のことながら私たちはわくわくするものだ。

 今年も、3/23(日)の夕刻に家の近くを歩いていて、或る桜の枝の蕾がもうそんな時期を迎えていることに気がついた。その時点では、東京の桜の開花予想日は3/28(金)だったのだが、平年に比べても気温の高い状態が続いていて、開花の時期は少し繰り上がる可能性が大きいと、気象予報士が繰り返し伝えていた。
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 そして、その翌々日の3/25(火)、東京の最高気温は20度を超えて、靖国神社の桜の開花が宣言された。平年より一日早いという。今年の冬は東京でも二度の大雪があるなど、寒さが厳しかった印象があるのだが、三月の中旬から一気に気温が上がったために、桜の開花準備も平年並みのペースに追いついたということなのだろうか。
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 昨年も一度調べたことがあるのだが、桜の開花メカニズムにはまだわからないことが多々あるものの、春になって花を咲かせるためには、真冬の寒さと春の暖かさの両方が必要であるらしい。前者は「休眠打破」と呼ばれるのだが、この本格的な寒さによって桜の木々は目覚めるそうだ。そして、後者の暖かさが開花のタイミングを決めるのだという。そこで一つの仮説として知られるのが、「積算気温」という考え方だ。簡便法として、2/1からの日々の最高気温の数値を累計していくという方法がある。その累計値が600度を超えたあたりが桜の開花日の目安になるというのだ。

 試しに、2012年から今年までの3年について、東京都心の気象データを使ってこの作業をしてみると、以下のグラフのようになる。
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 今年は一昨年の2012年と殆ど同じレベルの、平年の積算温度を下回る寒い冬が続いていたが、3月中旬から急激に気温が上がり、3/25に積算気温が600度を超えた。そして、ちょうどその日に桜の開花が宣言されている。

 2000年以降、今年までの15年について、東京で2/1以降の積算温度が600度を超えた日と桜の開花日とを比較してみると、15年間の平均で両者の差は0.8日。つまり、積算温度が600度を超えた翌日にはソメイヨシノが開花したことになり、年によって差のバラツキも比較的少ないことから、両者の間にはかなりの相関関係がありそうだ。
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 また、気象庁が桜の開花日を発表している関東地方の8都市について、今年の積算温度と開花日を調べてみると、下表の通りだ。積算温度が600度に到達した日から桜の開花に4日を要した銚子を除いて、7都市では両者の差が1日以内。東京、宇都宮、前橋、横浜、甲府では600度に到達したその当日に開花日を迎えている。
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(赤字は600℃に到達した日、ピンク地は開花日)

 私は同年代の山仲間達と週末日帰りの山歩きを楽しむことが多いのだが、この積算温度による手法を当てはめてみると、例えば山梨県の大月では今日(3/31)あたり、桜の開花を迎えているのではないだろうか。今後、毎日が平年並みの気温で推移するとすれば、東京の小河内(奥多摩湖)は4/10頃、山梨県の河口湖では4/13頃が桜の開花時期になるだろうか。

 桜の開花が早かった昨年は、4/14(日)に奥多摩の浅間嶺(せんげんれい、903m)を訪れて、山頂の桜が辛うじて残っていた。今年は東京都心の開花日が昨年より9日遅いから、浅間嶺の桜は4/19・20の週末あたりが見頃になっているだろうか。そんな山行をタイムリーに企画したいものである。もちろん、春はお天気次第なのだが。

 3/25に開花日を迎えた後も、東京では気温が平年を上回る日が続き、街中の桜はみるみる開花が進んだ。3/28の夜に私は会合があって上野公園のすぐ近くを訪れたのだが、金曜日の夜に桜が見頃となった上野の山は、花見客で大変な賑わいであった。

 そして迎えた土曜日は朝から気温がぐんぐんと上り、桜の開花が更に進む。同じ桜並木を眺めても、朝と夕方では花の量が全く違って見えたほどだった。
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 この時期、私たちは一斉に咲く桜の花に目を奪われがちだが、よく見れば東京の街中にも小さな春があちこちで始まろうとしている。草や木によってそのペースは実に様々なのだが、少しずつ広がっていく輪唱のようにして、街には緑が甦り、花々に彩られていく。
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 そしてひとたび近郊の山を歩けば、一言に新緑といっても、それはミクロに見れば驚くほど種類の多い草木の若葉によって構成されていることがわかる。そしてその総体が一つの春の山なのだ。一即多、多即一といえば仏教的になってしまうが、そんな春の多様さが、私は好きだ。

 明日からは4月。色々なことがリセットされて、新たに物事が始まる月だ。そうした浮世の慌ただしさにかまけていると、私たちはつい無意識に時を過ごしてしまいがちだが、やっと巡ってきた春を、今年こそしっかり見つめて行きたいと思う。

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冬と春の狭間 [季節]

 前週のことになるが、2月22日の土曜日の午後、久しぶりに家の近くの植物園を訪れた。

 何せ、直近は二週続けての週末の大雪だった。その前は、1月から週末には何かと予定が入り、自分一人の時間がなかなか取れなかった。この日も朝から都内の実家で一つ用事があったのだが、それは昼前に片付き、夕方まで少し時間が出来た。それならば、ちょっと植物園まで足を延ばしてみようか。そういえば、今年はまだ梅を見ていなかった。

 植物園の正門から、いつものように正面の坂道を登ると、その先にソメイヨシノの木が並ぶ広場がある。もちろん桜の花の季節はまだ先なのだが、木々の様子にも足元の芝生にも、冬枯れのピークを通り越してかすかな春の兆しが垣間見えるような気がした。この日の明るくて穏やかな太陽の輝きがそう思わせてくれたのだろう。
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 その奥の分類標本園には、先週の大雪の跡がまだ少し残っていたが、融け残った雪と明るい太陽の取りあわせは、この季節ならではのものかもしれない。
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 東京都心について言えば、今年の冬は例年よりも寒さの厳しい日が続いていたような印象があるのだが、昨年12月22日の冬至以降、先週末までのちょうど二ヶ月間の気象データは以下の通りだ。
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 この期間について、毎日の気温を平年値と比べると、冬至(12/22)から小寒(1/5)までの二週間は、元日が暖かかったことを除けば、総じて平年よりも気温が低めだった。その次の小寒から大寒(1/20)までの二週間は更に平年より寒い日が多く、今冬の寒さを象徴しているようだ。その後、大寒から立春(2/4)までは、今度は一転して暖かい日が多く、とりわけ1月の後半は平年よりだいぶ気温の高い日が続いた。(私も1月最後の週末は京都でかなり暖かい日を過ごした。)

 それが、立春の翌日から気温は一気に急降下し、二度の週末が大雪に見舞われたが、雨水(2/19)を過ぎてからは平年並みの気温に戻りつつあり、冬と春がせめぎ合っているようだ。二十四節気とはよく出来たもので、確かに二週間毎に季節が動いているように見える。

 一方、冬至からの毎日の日照時間を累計してみると、大寒から立春までの暖かかった期間に晴天が続き、平年よりも日照時間が長めに推移していたが、その後の二度の大雪もあって、2月末の時点では累計時間が平年と同じになった。日差しの総量では平年並みの冬が続いているといえるだろう。

 この植物園は、江戸時代には幕府が設けた小石川養生所だった。その頃からある井戸の近くには一本の寒桜の木があって、毎年この時期に濃い桜色の花が咲く。今年はそれがもうピークをやや過ぎた様子だった。ということは、二度の大雪の前から咲き始めていたのだろうか。寒い冬こそ元気に花を開く。その様子は見ていて気持ちがいいものだ。
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 冬と春の狭間で、吹く風は冷たいけれど太陽の輝きに力強さを感じ始める今頃の季節。私にとっては、ガブリエル・フォーレ(1845~1924)の室内楽を聴くことが私的な歳時記のようになっている。それも、彼の晩年の作品になる二つのピアノ五重奏曲(Op. 89及び115)を選ぶことが多い。重厚な音の重なりが流れるように展開していく弦楽四重奏に、細かな装飾音と共に絡まっていくピアノ。短調のメロディーと弦楽の渋い響きにピアノが淡い彩りを添えているところが、不思議なほど東京の今の季節感にマッチしているのだ。
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 代表作の「レクイエム」で知られるフォーレは、牧師の家庭の生まれだそうである。音楽家の家系ではなかったが、幼い頃から教会のオルガンに触れるうちに、その楽才を見出されていったという。宗教音楽学校に通うことになり、グレゴリオ聖歌や対位法など、古典をしっかり教わったそうだが、そこで出会った師がカミーユ・サン=サーンス(1835-1921)だった。

 19世紀という時代を俯瞰してみると、リヒャルト・ワグナー(1813-83)やロベルト・シューマン(1810-56)、そしてフレデリック・ショパン(1810-49)らは、フォーレにとって一世代前の音楽家たちである。ヨハネス・ブラームス(1833-97)や、師と仰ぐサン=サーンスは一回りぐらい年上だ。当然のことながら、ロマン派音楽の影響は大きかったことだろう。(フォーレが残した前奏曲、夜想曲、舟歌などのピアノ曲は、どこかショパンを意識したようなところがある。)

 卒業後は教会のオルガニストなどを務める一方、サン=サーンスやセザール・フランク(1822-90)らと共に「国民音楽協会」の創立に参画。彼が26歳の時だ。それはちょうど普仏戦争の年で、フォーレは歩兵部隊に従軍を志願したこともあったそうである。

 やがて、サン=サーンスの後任としてパリのマドレーヌ寺院のオルガニストとなり、51歳でパリ国立音楽院作曲科の教授に就任。その時の教え子の一人が、あのモーリス・ラヴェル(1875~1937)であったという。

 19世紀後半から20世紀の初頭まで、後期ロマン派の時代から近代音楽の登場までの期間を音楽家として生きたガブリエル・フォーレ。20世紀を24年も生きたのに、軸足はどこか19世紀的だ。その点、活躍の時期がかなり重なっているクロード・ドビュッシー(1862~1918)とは随分と対照的なのだが、それでもそうした新しい音楽を批判することもなく、教育者として古典から同時代のものまで幅広い題材を取り入れて、多くの後進を育てた、そこに功績を見るべきなのだろう。そして、彼の作品に一貫してみられる独特の気品、高雅な精神世界には、時代を超えて愛すべきものがある。
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 カリンの林を抜け、針葉樹林の林を過ぎると、植物園内の道は坂道をおりて日本庭園の池に出る。そして、その先にはお目当ての梅が咲いていた。

 多くの木々が一斉に開花する桜とは違い、梅は木によって咲く時期が様々だ。誰に導かれる訳でもなく、寒風の中にただ一人花を開き、微かな芳香を放つ。そんなところが、とりわけ禅僧たちに愛されてきたのだろう。この園内でも、梅の木々はどれもみな実にマイペースだ。それがいい。
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 先に挙げた二つのピアノ五重奏曲は、いずれもガブリエル・フォーレが聴覚障害を患ってからの作品だという。音が歪んで聞こえるという障害。彼のように極めて繊細かつ微妙な和音を追求していった作曲家にとって、それはもしかしたら、音が全く聞こえないことよりも辛いものであったかもしれない。だが、この二つの作品を聴いても、彼がそんなハンディーキャップを背負っていたなどとは想像することが出来ない。とりわけ最晩年の作品になる第二番は、他者の追随を許さない孤高の美しさに満ちていて、私たちの心の内面に迫る。だからこそ、一人で過ごす時間に聴きたくなるのだろう。

 それは、この国の風物に譬えれば、寒風の中に一人咲く梅の木であるかもしれない。
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 明日は3月を迎えるが、寒さがまた戻って来るそうだ。暖かい季節の到来を楽しみに、冬と春の狭間を歩いて行こう。

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