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大津にて (3) [歴史]

 
 土曜日の夕方に京都に集まり、大学時代のゼミの同期生たちと楽しく過ごした、その翌日の日曜日。私は京都から在来線に乗って滋賀県の大津を初めて訪れ、ちょっとした一人旅を楽しんでいる。

 広い境内を持つ古刹・園城寺(三井寺)では、桜の開花を待つばかりの山の静寂さをかみしめ、更に北方向へ1キロほど歩いた弘文天皇陵新羅善神堂では、日本古代史が激動期を迎えていた壬申の乱(672年)の前後のこの国の姿に思いを馳せていた。

 新羅善神堂から緩い坂道を降りると、県道の反対側に京阪電鉄石山坂本(いしやまさかもと)線大津市役所前とい小さな駅がある。前々日の3月16日までは「別所」という名前の駅だった。「別所」というと、別の場所という一般的な意味の他に、

①(仏教関係用語で)本寺の周辺にあり、修行者が草庵などを建てて集まっている地域。平安後期から鎌倉時代にかけ浄土信仰の興隆とともに盛んになった。
②新たに開墾した土地。(以上、『三省堂スーパー大辞林』より)

という意味があるようだが、平安時代の初期に比叡山延暦寺と袂を分かつ形で智証大師円珍の門流が三井寺にやって来た、その歴史と何か関係があるのだろうか。(もっとも、昭和2年にこの鉄道路線が開業した時の駅名は「兵営前」だったようだが。)
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 その大津市役所前駅の短いホームで待つことしばし、比叡山の山並みを背後に、石山寺行きの二両連結の電車がトコトコとやって来た。そして、左右にカーブを切りながら琵琶湖疎水を渡ると三井寺駅、そこから道路の中央を走る路面電車区間になって、程なくびわ湖浜大津駅に到着する。(ここも前々日までは名前が「浜大津」だった。)ここは京都方面に向かう京阪電鉄京津線との乗換駅で、石山寺行き電車の到着に合わせて、電留線から京津線・太秦天神川行きの四両連結の電車が反対側ホームに入線して来る。今日はこの路線に乗ることを楽しみにしていた。
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(左が石山坂本線、右が京津線の電車)

 明治13年に官設鉄道の大津・京都間が開業した時、そのルートは東海道沿いに急勾配で逢坂山の斜面を登り、山科盆地を南西に横切り、更に稲荷山の南を回り込んで京都に向かう大回りのルートだったこと、そして、長大トンネルを掘れるようになった大正10年に現在の大津・京都間のルートが開業したことは、前々回にこのブログで述べた通りである。しかし、その官設鉄道の新ルート開業を待たずに、大津と京都を手っ取り早く結ぼうという鉄道業者が現れた。官鉄の京都駅は京都の伝統的な繁華街からは随分と南に外れており、官鉄はルートが大回りなだけでなく、京都駅自体が不便な場所にあったのだ。

 それが明治39年設立の京津電気軌道で、大正元年に浜大津と京都の三条大橋を結ぶ10kmの路線を開業した。たったの10km?と思ってしまうが、両者の間は遠回りをしなければそれぐらいの距離なのである。
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 この京津電気軌道を前身とする現在の京阪電鉄京津線(「きょうつせん」ではなくて「けいしんせん」が正しい読み方だそうだ)。見ての通りの四両連結の電車なのだが、これが大津市内の路面電車の区間、逢坂山を越える山登り区間、そして京都市営地下鉄に乗り入れる地下鉄区間という三つの顔を持つ、極めてユニークな鉄道なのである。

 びわ湖浜大津駅を出発した電車は、直ぐに大通りの交差点を半径43mの急カーブで左に曲がり、琵琶湖を背に、路面電車として大通りを登って行く。日本の軌道法では列車長が最大30mと定められているが、この路線では特例でこの長さを超える四両連結の電車が走ることが認められているそうだ。そして700m弱の路面電車区間が終わると、今度はこの路線で最も急な半径40mの右カーブで専用軌道に入り、上栄町駅に停車。いよいよ山岳路線が始まる。
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(路面電車区間を走る京阪京津線の電車)

 上栄町駅を出ると、そこからは急カーブで速度制限が20km/hの箇所が連続する。そして、車内にいると気がつかないのだが、人家に近い急カーブの箇所では、車輪と線路が軋む音を緩和するために水煙を上げるスプリンクラーを作動させているそうだ。

 程なくJR東海道本線の線路をオーバーパスして右カーブ。そして今度は左カーブで国道161号を横断すると、逢坂山トンネルまでの間は国道1号の下り(京都方面行き)側に沿ってゆっくりと勾配を登り続ける。最大で61‰の急勾配は箱根登山鉄道の80‰に次ぐ国内第二位、アプト式の大井川鉄道井川線の90‰を加えても第三位というから大変な難所なのである。
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(京阪京津線の山越え部分)

 そして、この区間のハイライトがいよいよやって来る。名神高速道路の下を潜って間もなく、半径45mの右急カーブで逢坂山トンネルへと入って行く箇所だ。長さ約250mのトンネルの中も上り勾配が続いていて、それを抜け出た先がピークになる。今度は線路が国道1号の上り(大津方面行)側に並行するようになり、勾配を下り始めて直ぐに大谷駅に到着する。この駅自体が40‰の急勾配の途中にあるために、私は気がつかなかったのだがホームのベンチは勾配に合わせて左右の脚の長さが異なるという。
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 大谷駅の北側には「百人一首」で有名な蝉丸(せみまる)を祀った蝉丸神社。蝉丸は生没年が共に不明で、皇族の血統を持っていたという噂があること、盲目ながら琵琶の大変な名人だったこと、そしてこの逢坂に住んでいたことぐらいしかわかっていないようだ。

 「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも逢坂の関」

 平安時代の昔から、この逢坂越えが東西交通の要所であったことをこの歌は示しているのだが、東京に生まれ、その後も基本的には東京で育った私には、「箱根の山は天下の険」なら肌感覚はあっても、「逢坂山」には今までどうも具体的なイメージが湧かなかった。それだけに、鉄道が大津と京都を結ぶ時代になってからも「逢坂の関」が引続き難関であったことを、今回乗ってみた京津線の電車が文字通り身をもって教えてくれたように思う。

 さて、大谷駅を出た電車は、今までの山越えの区間とは異なり、わりと直線部分が続くルートで山科盆地へと下りて行く。四宮駅からは殆ど平坦になり、JR山科駅の直ぐ南にある京阪山科駅に停車。この場所を初めて「山科」と名乗ったのは大正元年8月に開業したこの京津線の駅なのだが、後の大正10年8月に官鉄東海道本線のルート変更で山科駅がここに設置されると、京津線の方は「山科駅前」駅に変更となった。官と民との関係は常にそういうものであるようだ。

 京阪山科駅を出ると直ぐにS字カーブでJRの線路を潜り、電車は平成9年から始まった京都市営地下鉄東西線への乗り入れのために地下へと潜って行く。そして最初の停車駅が御陵(みささぎ)である。(以前のルートは京都の三条までずっと地上を走っていた。)ホームが地下2階と3階に分かれた駅で、地上に出ると幅の狭い県道が走っている。

 この駅で降りた理由は、その駅名にあった。「御陵」とは付近にある天智天皇山科陵のことだ。今朝、大津の三井寺や弘文天皇御陵、新羅善神堂を訪れ、私があれこれと想像を巡らせていた、あの天智天皇の陵墓とされている場所である。

 前回の記事で少し触れたが、663年に白村江で唐・新羅連合軍に惨敗を喫した中大兄皇子は、4年後の667年に近江大津京に遷都し、翌年に即位。後に「天智」の諡号を贈られる天皇となるのだが、その即位から4年足らずの672年の年初(旧暦では671年の年末)に崩御。その事情について「宮中での病死」を示唆する日本書紀の記述に対して、「遠乗りに出たまま行方不明となり、仕方がないので沓が落ちていた場所を陵墓とした」との噂を記載した文献が存在。しかも現に宮内庁が今も管轄している「天智天皇陵」が近江大津の地から山々を隔てた山科の地に存在するのだ。それならば、大津から京都へ戻る道すがら、是非立ち寄ってみようではないか。
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 電車を降りた御陵駅から県道を大津方向へ500mほど戻ると、道の左側にその陵墓の入口がある。そこからは森の中に石畳の道が真っ直ぐ続き、それを更に500mほど進むと、歴代天皇特有の形をした陵墓が現れる。背後は深い森で、訪れる人など誰もいない。まさに静寂だけが支配する空間だ。その静寂に包まれながら、私は改めて考えてみた。
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 近江大津京と天智天皇山科陵の間には、比叡山から南へと続く幾多の山々によって隔てられている。その当時、この山々に入り込んで大津京から山科へと抜けて行く山道があったとしても、「馬で遠乗りに出る」ルートとは考えにくい。天智天皇が本当に馬で遠乗りに出かけたのならば、それはやはり逢坂の関を越えて行く通常のルートだったのではないか。だとすれば、平安京はおろか平城京もまだ開かれていない時期に、山科には何の用事があって立ち寄ったのだろう。
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(再掲)

 この出来事が「遠乗りに出かけて行方不明になった」のではなく、「遠乗りの途中で暗殺された」という説を取るのなら、「沓が落ちていた」という場所は本当に暗殺現場の近辺だったのか。そうでないなら何処だったのか。そして、天智のものと伝えられる陵墓が、明らかに地縁のある近江大津ではなくてなぜ山科の地にあるのだろうか。

 いずれにせよ、山科の陵墓からは近江大津京も琵琶湖も眺めることは出来ない。にもかかわらずこの地に天智天皇の陵墓が造られたのであれば、何等かの事情があって、「霊魂を鎮めるために事故(もしくは事件)現場付近に取り急ぎ陵墓を造る」ことが優先されたということではないだろうか。そして、天智の「崩御」から幾らも経たないうちに壬申の乱が始まったことから考えると、天智が「遠乗りに出かけたまま帰還しなかった」事故または事件の背景に、天智への対抗勢力としての大海人皇子(後の天武天皇)の存在が多分にあったのではないか・・・。

 恐らくは本人にとって不本意な形で葬られたのであろう天智天皇。だが、時代が明治に入り、都としてのステータスを失って衰退を始めた京都に対する「復興プロジェクト」として琵琶湖疎水の建設が始まり、三井寺の直ぐ南を取水口として山を貫くトンネルに入ったその水路は、山科盆地で再び地上に姿を現し、この天智天皇山科陵のすぐ北側を回り込むようにして京都へと流れている。天智天皇の崩御から1200年余り。琵琶湖疎水の開通が琵琶湖と天智天皇とを再び繋ぐことになったのだから、歴史というのは何とも不思議なものである。
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 京都から立ち寄った大津への半日の旅。それは私にとって久しぶりの、足で歩く歴史旅であり、なおかつ大好きな乗り鉄の旅でもあった。京阪京津線は車両の更新時期が迫る中、赤字路線であるためにその将来が取り沙汰されているようだが、是非存続して欲しいものである。そしてそのためにも、遠からずまた乗りに出かけることにしよう。

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大津にて (2) [歴史]


 琵琶湖を東に見下ろす山の斜面に広い境内を持つ、天台寺門宗総本山の長等山園城寺(通称、三井寺)。この古刹を初めて訪れた私は、桜の開花を待つばかりの境内の様子を楽しみながら、遥かな古代史に思いを巡らせている。

 園城寺のHPでこの寺の歴史を調べてみると、次のような記載がある。

 「667年に天智天皇により飛鳥から近江に都が移され、近江大津京が開かれました。672年、前年の天智天皇の永眠後、大友皇子(天智天皇の子:弘文天皇)と大海人皇子(天智天皇の弟:天武天皇)が皇位継承をめぐって争い、壬申の乱が勃発。乱に敗れた大友皇子の皇子の大友与多王は父の霊を弔うために『田園城邑(じょうゆう)』を寄進して寺を創建し、天武天皇から『園城』という勅額を賜ったことが園城寺の始まりとされています。勝利を収めた大海人皇子は再び飛鳥に遷都し、近江大津京はわずか五年で廃都となりました。」

 サラッと書かれているが、これは日本古代史の中でも特筆すべき激動の時代に関する事柄なのである。

「万世一系」とは言うものの、遥かな古代には色々あったと思われる皇統の系譜。応神天皇(第15代)、継体天皇(第26代)、欽明天皇(第29代)らの登場の経緯については昔から数多くの議論があるところだが、その欽明天皇以降の皇統の中では、やはり天智天皇(中大兄皇子)が存在した時期が大きな激動期である。
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 中大兄皇子は626年に舒明天皇の第二皇子として誕生。乙巳の変(645年)と呼ばれる宮中クーデターで蘇我宗家を滅ぼし、異母兄の古人大兄皇子を謀反の疑いで葬ったのは弱冠19歳の時だ。以後、叔父の孝徳天皇の下で皇太子として難波に遷都。一連の改革(いわゆる大化改新)に着手するのだが、その8年後に何故か飛鳥板葺宮に群臣を連れて戻り、これに同行しなかった孝徳が翌年に一人寂しく崩御したため、妻の前・皇極天皇が斉明天皇として重祚。息子の中大兄皇子は引続き皇太子として政権を支えていたところ、その5年後の660年に、唐・新羅連合軍の侵攻による百済滅亡という大事件が起こる。

 事件の報に接した斉明天皇・中大兄皇子は、百済の再興を図るべく援軍を西方に送るのだが、自ら九州に赴いた斉明女帝は筑紫・朝倉の地で崩御。中大兄皇子は皇太子のまま称制を執り、朝鮮半島に出兵するも、663年に白村江で唐・新羅連合軍に大敗を喫してしまう。

 衝撃を受けた皇子は、やがて起こり得る唐・新羅の日本侵攻に備えて北九州の各地に防塁を築くと共に、都を近江大津京へと遷した(667年)。その都の位置は、この園城寺から琵琶湖の左岸を2km足らず北上したあたりだ。確かに比叡山から南に続く山並みが都の西側に連なり、西からは攻略を受けにくい地形ではある。そして、この地に遷都した翌年(668年)に中大兄皇子はようやく即位に至る。これが天智天皇だ。そして「弟」の大海人皇子が皇太弟となった。

 母親であった斉明女帝の崩御から約6年半、中大兄皇子はなぜ即位をせずに称制を続けたのだろう。そして、西からの敵を防ぐのに適した地であるとはいえ、彼が遷都先として近江大津の地を選んだのはなぜだったのか。

 日本書紀によれば、天智天皇(中大兄皇子)と天武天皇(大海人皇子)は、同じ舒明天皇を父、皇極(斉明)天皇を母とする兄弟とされている。天智が兄で天武が弟だというのだが、実に奇妙なことに天武の生年に関する記載が日本書紀には全くないため、今でも生年不詳なのだそうだ。そして、古代においては近親結婚が特に珍しくもなかったとはいえ、(記紀の記述が正しければ)兄の天智は自分の娘を4人も天武の妻に送り出しているというのも異常なことである。

 だが、考えてみれば日本書紀は天武の息子の舎人親王が編集責任者となり、天武の孫の元正女帝の治世(720年)に完成した官製の「国史」である。そして、全体の中では天武の業績に関することが大きなボリュームを占めており、その編纂には官製プロパガンダという意図があったことは否定できないだろう。だとすれば書かれていることの全てが真実とは限らない、いや、むしろ多分にフィクションが含まれているのではないか、という考え方に私は賛成したくなってしまう。

 そう考えると、天武天皇礼賛の史書の中に本人の生年に関する記載がないのは何とも奇妙なことであり、天武の出自を「天智の弟」とする上で何かしら都合の悪い部分があったのではないか、と疑いたくもなるものだ。それに加えてもう一つの大きな謎は、天智天皇の崩御に関する経緯である。
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 日本書紀によれば、天智天皇は病を得て死の床につく。(そうであれば、その場所は近江大津京の宮中だったと考えるのが自然だろう。) そして「弟」の大海人皇子を枕元に呼び寄せて後事を託すのだが、暗殺を警戒した大海人皇子は「皇后が即位して大友皇子(=天智の第一皇子)が執政を行えばよい」として辞退し、直ぐに頭を丸めて吉野に下ったという。それぐらい、大友皇子と大海人皇子との関係は緊迫したものだったのだろう。そして、672年に天智が崩御すると、大友皇子は朝廷で後継に立つのだが、実際に即位したかどうかは定かでないという。「弘文天皇」という諡号が贈られたのは実に明治3年のことである。

 ところが、天智の崩御から400年も後の1094年になって、比叡山の僧・皇円の編纂によるものとされる「扶桑略記」の中に、
 「天智天皇は山科の里へ遠乗りに出かけたが、そのまま帰って来なかった。山中深く探しても行方がわからず、仕方がないので沓が落ちていた場所を陵墓とした。そこは山城国宇治郡山科郷(現・京都市山科区)の北山である。」
との記載があることから、天智の崩御は宮中での病死ではなく、近江大津から離れた山科の地での暗殺だったのではないかとの見方も少なくない。「扶桑略記は後世の書なのだから、そっちの方がフィクションなのでは?」との反論も成り立つが、それにしては不思議なのが、現に山科には宮内庁管轄の「天智天皇山科陵」が存在し、考古学的にも文献資料的にもほぼ確実な天皇陵とされていることだ。

 既に触れたように、天智の第一皇子の名前は大友皇子だ。園城寺の寺域を含む大津の一帯は、継体天皇と共に越の国から移住して来たとされる漢系渡来人の氏族・大友村主(すぐり)家の本拠地であり、その「大友」の名を冠した皇子は、大友村主家の支持を受けていたのではないかという。だとすれば、大友皇子の父親であり、明らかに百済救済に利害が絡んでいた天智天皇自身も大津に何らかの地縁があり、だからこそ都を遷す場所に選んだのではないか。

 そう考えると、もし天智天皇が宮中で病死したのなら、その陵墓は近江大津京の近くに置かれるのが普通ではないか。それがなぜ、大津京も琵琶湖も見えない山科の地にあるのか。そうなると、天智天皇の崩御に関しては、日本書紀よりもむしろ扶桑略記の記述の方に説得力があるように思えてくる。この山科の天智天皇の陵墓には、今日この後に足を運んでみようと思っている。

 園城寺の前の道路を北へ1kmほど行くと、大津市役所のすぐ先に「弘文天皇御陵参拝道」という石碑が立っている。天智天皇の崩御の後、時を経ずして大友皇子と大海人皇子の間で武力衝突が始まった。日本古代史上で最大の内乱とされる壬申の乱(672年)である。そして、この戦いに敗れた大友皇子は大津の地で自害に及んだ。
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 先に触れたように明治になってから大友皇子には弘文天皇という諡号が贈られたため、市役所の裏手にある彼の陵墓は「弘文天皇陵」なのだが、付近には「皇子山」という地名が今でも残っている。やはり大友皇子は即位していなかったのか。それとも、在位中の天皇を討ったとなれば逆賊になってしまうので、大友皇子はまだ即位していなかったように見せかけるために、天武が敢えて「皇子山」と呼ばせたのか。ともかくもその参道(といってもただの路地)を上がってみると、ひっそりとした「弘文天皇陵」が春の陽を受けていた。
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 そして、その弘文天皇陵の直ぐ近くに、新羅善神堂という、園城寺が管理しているお堂がある。南北朝時代に建てられたそのお堂と、その中に安置された平安時代(11世紀)の作になる新羅善神坐像(秘仏)は何れも国宝なのだが、とてもそうは思えないほど目立たない、言葉を選ばずに言えば捨て置かれたような場所にある。そこへ行く道も舗装すらされておらず、観光客など誰もいない。非公開なので門の外から眺めるだけなのだが、新羅善神という神様がここに祀られているというのが、これまた大きな謎である。
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 冒頭に引用した園城寺のHP上の文章を再掲する。

 「672年、前年の天智天皇の永眠後、大友皇子(天智天皇の子:弘文天皇)と大海人皇子(天智天皇の弟:天武天皇)が皇位継承をめぐって争い、壬申の乱が勃発。乱に敗れた大友皇子の皇子の大友与多王は父の霊を弔うために『田園城邑(じょうゆう)』を寄進して寺を創建し、天武天皇から『園城』という勅額を賜ったことが園城寺の始まりとされています。」

 先に触れたように、天智天皇と天武天皇が(日本書紀の記述のように)本当に兄弟だったのかどうかは、かなり怪しいと言うべきだろう。その天武が壬申の乱に勝利して、大友皇子は滅び、大友の子(与多王)が父の霊を弔うべく、言わば自分たちの氏寺を建てたいと申し出て(686年)、天武がそれを許可した。敗者の霊をも丁重に弔う日本の伝統はこの時代にもあったというべきなのかもしれないが、考えてみれば、大友の父(天智天皇)は、唐・新羅連合軍によって滅ぼされた百済の再興を目指して朝鮮半島へ出兵までした人物である。その霊を弔う寺に、なぜわざわざ新羅の神様を祀ったのか。それは、園城寺の中興の祖・円珍が唐に留学した帰りの船で嵐に遭い、そこに新羅善神が現れて一行は救われたので、以来この寺の守り神になったと伝えられるのだが、それも後から加えられたフィクションの可能性だってなくはない。

 この新羅善神の存在を天智親子の「怨霊封じ」という風に読み解くかどうかはともかくとして、壬申の乱の勝者と敗者の間の微妙な関係が、その後の園城寺の歴史の中にも投影されて来たと考えるべきなのだろう。

 なお、天智と天武の関係は、その後の天皇家の系図にも少なからず影響を与えている。前掲した天智・天武以降の皇統系譜を天智の血統か、或いは天武の血統(天智系との混血を含む)なのかで色分けしてみると、次のようになる。
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 天武の系統はなぜか男子が早逝することが多く、次世代が育つまで女帝が中継ぎを務めることが度々あった。奈良時代に女帝が多いのはそのためだが、更には大仏建立の頃の聖武天皇は男子に恵まれず、娘の孝謙(道鏡事件の際に重祚して称徳)天皇を以て、その血統が途絶えてしまう。

 称徳の後を受けて即位したのは天智の孫にあたり、なおかつ天武の血が入っていない光仁天皇で(その時点でかなりの老人だった)、その光仁と百済系帰化人・高野新笠との間に生まれた桓武天皇の即位を以て、皇位は名実共に天智の血統に戻ったことになる。(しかも再び百済と繋がっているところが興味深い。) そして、その桓武以降、日本の天皇家は1000年以上にわたって京都に定着することになる。

 更に言えば、歴代天皇を仏式に祀り、それゆえに御寺(みてら)と呼ばれる京都の泉涌寺では、天武から称徳までの天武系の8代7名の天皇だけ位牌がないという。途中で途絶えた天武の系統だけが何か異質なものとして扱われているかのようだ。それもまた、天武の出自の謎に繋がっているのだろうか。

 なお、ここまで「園城寺」と記載してきたが、この寺は三井寺(みいでら)という別名の方がずっとよく知られている。それは、この寺の金堂の近くに、「天智・天武・持統の三帝が産湯に用いた」という「三井の霊泉」があることに拠るものなのだが、これもまた、そういう「伝説」を敢えて用意する必要があるぐらい天武の出自には謎があることを、実は暗示しているのかもしれない。
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(色の濃い部分は各天皇の在位期間)

 それにしても、大津駅を起点に、ここまでよく歩いて来た。ここからは暫くの間、電車の座席に座って一休みすることにしよう。

(to be continued)

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大津にて (1) [歴史]


 3月18日(日)午前8時過ぎ、私はJR京都駅2番線ホームに停車していた東海道本線の上り列車に飛び乗った。8時7分発の快速米原行き。スマホで時刻表を調べてみたら、兵庫県と岡山県の県境に近い上郡駅を今朝の5時10分に出て、山陽本線と東海道本線をもう3時間近くも走り続けて来た列車だ。

 程なく発車時刻を迎え、列車はゆっくりと京都駅を離れていく。その時、私の中にはまだ昨夜の余韻が少なからず残っていた。大学時代のゼミの同期生たちと8人で京都に集まり、楽しく過ごしていたのである。

 私たちの母校は東京にあるのだが、ゼミの同期生のK君が今では京都で会社の社長を務めている。彼自身、西陣で生まれ育った生粋の京都人なのだ。私たちが大学を出たのはもう37年も前のことだが、ゼミの同期生たちとは今でも年に2回ぐらいは集まっている。京都で仕事をしているK君には、そのたびに用事を作って東京へ出て来てもらっていた。そうであれば、たまには我々が京都へ足を運んでみよう。そんな話が出たのが昨年の秋。それから話はどんどん具体化していって昨夜の集まりになった。
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 もっとも、実際に京都に集まるとなれば、場所のセッティングや宿の手配などは現地にいるK君に全てをお願いせざるを得ない。結果的に彼には大きな手間をかけることになってしまったのだが、もうあと一週間もすれば桜も開花という季節に、西陣の老舗料亭での一次会、そして祇園のバーでの二次会を私たちは大いに楽しむことが出来た。京都の夜に、女性が隣に座る訳でもなく、カラオケもなく、男8人がひたすら語り合うというのはいささか硬派な過ごし方なのかもしれないが、これもまた私たちのグループの持ち味なのだろう。

 大学を出た頃には、それから37年後に同じメンバーでこんな機会を持つことになるなんて想像も出来なかった。それから皆が社会に出て、メンバーの大半が海外赴任を経験し、それぞれの人生を精一杯生きて来た。そして全員が還暦を過ぎた今、こうして昔と同じように様々なことを語り合える。長い年月を経た今もなお、お互いにそんな間柄でいられるというのは何と幸せなことだろう。
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 そんな余韻をまだ半ば引きずったままの私を乗せた米原行き快速電車は、間もなく闇の中へと吸い込まれた。京都の清水寺の1kmほど南で東西に山を貫く、長さ1865mの東山トンネルである。それを抜けると窓の外には山科盆地の眺めが広がり、程なく山科駅に到着。再び出発して左カーブを切り、湖西線と別れると直ぐにまた次のトンネルに入る。これが長さ2325mの新逢坂山トンネルだ。それを抜けると軽い右カーブになり、列車は直ぐに大津駅ホームに滑り込むことになる。

 ホームに降り立つと、その京都寄りの先端部からは先ほどの新逢坂山トンネルの大津側出口が直ぐ近くに見え、その上に逢坂山の東面が立ちはだかっている。その時に一つのシンプルな疑問が湧き起った。

 自分が知る限り、新橋・横浜間の鉄道開通は明治5年、京都・神戸間は明治10年だ。そして東海道本線の全通は明治22年だから、大津・京都間もそれ以前に開通していた筈である。しかし、そんなに早い時期に長さが2km前後にもなる鉄道トンネルの建設が出来たのだろうか?
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(大津駅ホームから眺める逢坂山とトンネル)

 これは後で調べてみて知ったことなのだが、大津・京都間の開業は明治13年だった。当然、そんな時期に長大トンネルを掘る技術はない。だから京都・大津間の鉄道は今とは別ルートだったのである。

 急勾配が苦手という宿命を背負ってきた鉄道。全国いたる所に山あり谷あり急流ありの日本でその鉄道を建設するためには、様々な工夫を凝らしつつ現実の地形と折り合って行かねばならない。「逢坂越え」もその典型で、大津側からの当初のルートは今よりも南側、旧東海道に沿って25‰の急勾配を登り、長さ665mのトンネルで逢坂山を越え(旧逢坂山隧道)、その後は山科盆地を南西に横切った上で、伏見稲荷大社のある稲荷山の南を回り込み、現在のJR奈良線・稲荷駅から京都を目指すというものだったのだ。大津・京都間を結ぶものとしてはいかにも大回りだが、難関の逢坂越えに加えて、地盤が軟弱とされた東山を避けるという意図もあったようである。
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 なお、このルートを建設する過程で、665mの逢坂山トンネルは、外国人技師の力に頼らずに日本人だけで完成させた日本初の山岳トンネルとなったという。明治13年といえば西南戦争の後だ。深刻な財政難に陥っていたはずの明治新政府も、よく頑張ったものだと思う。そして、新逢坂トンネルと東山トンネルを伴う現在のルートに変更となったのは大正10年。勾配も緩和されてスピードアップに大きく貢献したことだろう。現代の私たちは、この新ルートよりも南側を走る東海道新幹線で通過してしまうことが多いから、かつての逢坂越えの苦労を想像する暇もなく京都に着いてしまう。やはりたまには在来線で旅をしてみるものである。

 さて、大津駅で降りた私は駅前ロータリーに出た。考えてみれば、私が物心ついてから滋賀県に足を踏み入れるのはこれが初めてのことである。観光案内の地図を見ていたら、駅から歩いて直ぐのところに露国皇太子遭難の碑があるという。おお、明治24年のあの大津事件の現場なのか。それは是非とも見てみよう。

 駅前から琵琶湖に向かって大通りを下って行くと、大きな交差点の先の路地に、あまり目立たない石碑が一つ。「比附近露国皇太子遭難之地」とある。その前の道は旧東海道だそうだ。
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 日露戦争の時にはロシア皇帝だったニコライ二世が、まだ皇太子の時代に日本を訪れたことがあった。シベリア鉄道の東側起工式に出席するために軍艦ではるばるやって来た皇太子は、その途中に九州経由で神戸に寄港。京都を訪れ、そこからの日帰り観光で琵琶湖にも足を延ばしていた。その途上で、沿道の警備をしていた津田三蔵巡査が突然サーベルを抜いて皇太子に襲いかかり、頭部を負傷させるという事件が起きたのだ。津田は日頃から日本に対するロシアの行動に不快感を募らせており、ニコライの訪日も敵情視察が目的だという思いがあったそうだが、外国の皇族に対してテロ行為を起こしたこの津田への刑事罰は、死刑なのか無期懲役であるべきか、政界と司法界を巻き込む大論争となったのがこの大津事件である。

 東海道沿いの現場付近は、当時は人通りで賑わっていたのだろうが、日曜日の朝ともあって今はひっそりとしている。

 その旧東海道をそのまま西に進み、だいぶ行ったところで右に折れて琵琶湖に近づくように歩いていくと、やがて琵琶湖疎水の取水口が現れる。琵琶湖の水を京都まで引いて京都市民の水道用水とする他、水運や水力発電によって新たな産業を興すために建設された水路。それは、明治になって首都機能が東京に移り、衰退を続けていた京都の復興プロジェクトでもあった。
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(琵琶湖疎水の取水口。前方が琵琶湖の方向)

 琵琶湖側の取水口から水路を作り、長いトンネルで山を貫いて、明治23年に第一疎水が完成。更には京都の蹴上(けあげ)で大きな落差を利用して水力発電を行い、その電力を利用して舟を京都側から琵琶湖側に持ち上げるために長さ640mのインクライン(傾斜鉄道)を建設。それらの運転開始は翌明治24年というから、まさにニコライが大津を訪れた年のことである。(もう一つ言えば、この蹴上で発電した電力を利用して、明治28年に京都電気鉄道が京都・伏見間で営業を開始。日本で初めて電車を走らせたのである。)これに続いて第二疎水の建設も行われ、それが完成したのは明治45年のことであった。
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(京都市上下水道局のHPより拝借)

 先人たちは偉かった! 取水口から山へと向かっていく琵琶湖疎水を眺めながら、そう思う他はない。
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 疎水を渡って更に歩いて行くと、道はやがて大きな参道と交差する。そこを左に向かえば有名な園城寺(三井寺)の入口が待っている。

 長等山園城寺。言うまでもなく天台寺門宗の総本山である。平安時代の初期、第五代天台座主・智証大師円珍(814~891、空海の甥にあたるそうだ)によって天台別院として中興された。

 開祖・伝教大師最澄(766~822)亡き後、日本天台宗では第三代天台座主・慈覚大師円仁(794~864)と円珍の二人が抜きんでた存在となるのだが、その二人の間での仏教解釈の違いから後の世代の中で争いが起こり、比叡山延暦寺は円仁門流が多数派を占めたため、円珍派は山を下りることになる。その時に彼らが拠ったのがこの園城寺だった。
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(園城寺の入口に立つ仁王門)

 以来、山門派(延暦寺)と寺門宗(園城寺)は対立を続けることになる。四宗(円・密・禅・戒)兼学を旨とする山門派に対して寺門宗は四宗+修験の五法門を唱えるというが、両者の対立の原因がそれだけのことなのかどうか、私にはわからない。

 仁王門の横から境内に入り、石段を登ると国宝の金堂が正面に聳えている。延暦寺との対立の中で園城寺は焼き討ちに遭うことも数多く、この金堂も16世紀末に秀吉の遺志を継いで再建されたものだそうだ。
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 山の東斜面全体が寺域であるような園城寺。広々とした境内を歩き回るには相応の時間が必要だ。重要文化財の三重塔、同じく重文の釈迦堂、毘沙門堂などを見て歩くと、それぞれに山の自然と一体化したような落ち着いた佇まいが立派である。明治の初めに来日し、この国の自然と伝統美術をこよなく愛して岡倉天心(1863~1913)を支援した米国人アーネスト・フランシスコ・フェノロサ(1853~1908)やウィリアム・スタージス・ビゲロー(1850~1926)が眠る墓も、この境内にあるそうだ。
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 それにしても、昨日の土曜日の京都の大混雑とは対照的に、園城寺の境内は何と静かなことか。
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 琵琶湖を望む観音堂からは、甍の向こうに比叡山の山並みが見えている。山門派・寺門宗の争いといっても、この距離の中でのことだったのだ。箱庭の中での争いごとのようで、何だか微笑ましくもなってしまう。辺りの桜の木では蕾が大きくなっていて、あと一週間もすればこの山でも開花が始まりそうだが、その時に訪れたならば、どんなに素晴らしい眺めが待っていることだろう。
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 さて、この園城寺は平安時代初期の智証大師・円珍が中興の祖であることについて先に触れたが、それ以降の寺門宗としての歴史もさることながら、私にとってより興味が湧くのは円珍の時代以前の、この寺の創建に係わることである。

(to be continued)

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ワルツと戦争 [歴史]


 2018年を迎えた。

 元日の朝、自宅マンションのベランダに出てみると、例年通り午前7:04頃にビルの右肩から新年初めての陽が昇る。大晦日は曇り空の一日だったが、今朝はすっきりと晴れている。こうして初日の出を眺めるのは、やはりいいものだ。
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 毎年元日は、午後に我家と妹の一家が都内の実家に集まり、母と早めの夕食を共にしている。今年は姪が年末からNYへ転勤になったので一人欠けたが、それでもこれまでと同じように母を囲んで賑やかに一時を過ごすことができた。

 共に23区内に住んでいて、クルマを使えば実家まで我家からは約40分、妹の家からは30分足らずなのだが、母にとって4人の孫たちはいずれも社会人になっているから、母の前に全員揃った姿を見せることが出来る機会は、一年の中でも滅多にないことだ。それだけに、独り暮らしの母にとっては元日の集まりを最も楽しみにしているのだろう。今年も元気で、心穏やかに過ごしてくれればと思う。
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 実家での元日の集まりを終えて帰宅すると、これも例年と同じようにウィーン・フィルハーモニーの「ニューイヤー・コンサート」のライブ中継が始まっている。今年の指揮者はイタリア人のリッカルド・ムーティー。私の学生時代、彼はまだ30代の後半で、フィルハーモニア管弦楽団で指揮をとる実に颯爽とした姿が印象的だったのだが、そのムーティーが今年喜寿を迎えるとは・・・。私も同様に歳をとる訳だ。

 ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートといえば、演奏プログラムのトリはヨハン・シュトラウス2世の「美しき青きドナウ」、そしてアンコールは彼の父親であるヨハン・シュトラウス1世の「ラデツキー行進曲」と決まっている。毎年変わらないのに、会場内は割れんばかりの大拍手。特にラデツキー・マーチに合わせて聴衆が手拍子で参加する時の場内の盛り上がりは元日の名物だ。いつになっても伝統を守り続ける、その「変わらなさ」が、世界が認めるウィーンの音楽文化の価値なのだろう。
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 このラデツキー・マーチは1848年の出来事に由来する。ナポレオン戦争後のウィーン体制に対して民族主義・自由主義を求める政治運動が欧州各地で激化し、「諸国民の春」と呼ばれた1848年、当時オーストリア帝国の領地であった北イタリアで起きた革命運動を鎮圧したヨーゼフ・ラデツキー将軍の軍功を称えて、ヨハン・シュトラウス1世が作曲したものだ。興味深いことに、その時に23歳の若者だった息子のヨハン・シュトラウス2世は市民革命側が優勢と考え、革命勢力を支持する作曲活動を行ったために宮廷との間に距離が出来てしまったという。(その後、彼は革命運動に嫌気がさして宮廷との関係を再構築するのだが。)

 この、明るく躍動的なラデツキー・マーチとは対照的に、優雅で気品のあるウィンナー・ワルツの「美しき青きドナウ」。だが対照的なのはその曲想だけでなく、実は時代背景も正反対なのだ。それは1848年の革命運動から18年後、オーストリアがプロイセンとの戦争に敗れた1866年の普墺戦争に由来している。

 神聖ローマ帝国の名の下で国土が小さな領邦国家に分かれ、国家統一が遅れていた現在のドイツ。その統一をオーストリア帝国内のドイツ人居住地域まで含めるのか、そうではないのか、そのあたりの路線を巡ってプロイセン帝国とオーストリア帝国が対立。両者が共同で戦ったデンマーク王国との戦争で勝ち取った北方の州の管理方法を巡って、遂に両者は干戈に及ぶのだが、1866年6月15日に始まったこの戦争は「鉄血宰相」ビスマルク率いるプロイセンが大勝し、8月23日には休戦。以後はプロイセンがドイツ諸邦の盟主として国家統一へと突き進んで行くことになる。

 ヨハン・シュトラウス2世の「美しき青きドナウ」が世に出たのは、この屈辱的な敗戦の翌年の1867年だった。ウィーン男性合唱協会からの依頼に基づく合唱曲で、「プロイセンに敗れたことはもう忘れて、楽しく愉快に行こう!」という趣旨の歌詞が用意された。そして、どういう経緯からなのか、その歌詞の内容とは全く無関係な「美しき青きドナウ」という題名が付されたという。だが、合唱曲としての評判は今一つであったようで、ヨハン・シュトラウス2世は程なくオーケストラ演奏のみのバージョンを発表。これが大成功を収め、後に「オーストリアの第二の国歌」と称されるまでになった。宮廷での華やかな舞踏会をイメージするような優雅なこのワルツだが、作曲された背景には、峠を過ぎて坂道を転げていくハプスブルク帝国の姿があったのだ。
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 1867年といえば、その年の秋の日本では、旧暦の10月14日に「最後の将軍」徳川慶喜が京都の朝廷に大政奉還を奏上。これに対して薩長の巻き返しによる王政復古の大号令が12月9日に発せられ、年が明けた1868年の1月3日には鳥羽・伏見で遂に戊辰戦争が始まる。薩長軍が掲げた「錦の御旗」によって戦意を失った慶喜は軍艦で江戸に逃げ帰り、そこから先は「勝てば官軍」の展開となって、3月13日には西郷と勝が会談。おかげで江戸の街は戦禍を免れ、9月には明治改元。そして明治天皇が京都を離れて江戸へとやって来る。要するに、大政奉還から一年足らずの内に日本は大変革を経験することになったのだ。ちょうど今から150年前のことである。
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 その時代から50年後の1917年、日本は大正時代の半ばに差しかかっていたのだが、ヨーロッパは再び大きな動乱期を迎えることになる。

 その時点で、1914年のサラエボ事件(オーストリア皇太子暗殺事件)に端を発した第一次世界大戦の勃発から足掛け4年。近代国家同士がそれぞれの全国民を巻き込んで総力戦を戦うという史上初めてのスタイルの戦争。しかも戦車や航空機、毒ガス等の新兵器が登場して膨大な戦死者・負傷者を出すことになった。こんな戦争を4年も続ければ、どんな国でも疲弊してしまい、厭戦気分が高まろうというものだ。事実、この年の3月にはロシアで革命が起こり、皇帝ニコライ2世が退位を余儀なくされてしまう。その後、この革命はレーニンの指導によって更に先鋭化し、11月には共産主義に基づくソヴィエト政権が樹立される。史上初の共産主義国家の誕生である。他方、1914年の開戦以来大陸の戦争には不介入方針を続けてきた米国が、この年の4月にドイツに対して宣戦を布告。戦局はドイツ・オーストリア側にとって急速に不利になっていく。
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 明けて1918年の1月、ウィルソン米大統領が「14箇条の平和原則」を発表。後のパリ講和会議の基調とすべき事項を早々と宣言して、戦後の国際秩序を米国が仕切ろうとする姿勢を見せる。そして11月にはドイツ国内でも兵士の反乱から革命が起きて、皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命。ドイツは遂に休戦を宣言し、ここに第一次世界大戦がようやく終結。その翌日にはオーストリアが共和制へと移行し、ハプスブルク王家による支配は遂に終焉を迎えた。

 この年の7月にはロシア前皇帝のニコライ2世とその家族がソヴィエト政権によって処刑されていたから、前年11月のソヴィエト政権の誕生から僅か1年の間にロシア、ドイツ、オーストリアの三国で帝政が姿を消してしまったことになる。そして、ともかくも戦争は終わったが、疲弊した英国に代わって世界の中心に踊り出たのは米国だった。1867年から68年にかけての日本と同様に、1917年から18年のヨーロッパでは、何かのきっかけで始まり出した変革が驚くほどの速さで欧州各地を一気に駆け巡ったのだ。
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 因みに、第一次世界大戦といえば日本にとっては対岸の火事であったと受け止めてしまうことが多いのだが、実は日本も少なからずその影響を受けている。何といっても大戦景気が続いたために物価が上がり、しかも米英から頼まれてソヴィエト政権への干渉、すなわちシベリア出兵を行うことになったために米価が更に高騰し、それが富山県を震源地とする「米騒動」を誘発することになった。そうした事態に的確に対処出来ず、大きな批判を浴びた寺内正毅内閣はやむなく退陣。そして「平民宰相」原敬に組閣の大命が下り、陸相・海相を除く全ての大臣が立憲政友会の党員という初の本格的な政党内閣が誕生。以後、五・一五事件が起きる1932年までの間、日本は従来の藩閥政治に代わる政党政治の時代を迎えることになった。これも、1918年のヨーロッパがもたらした大変革の1ピースと捉えるべきなのだろう。
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(陸相・田中義一、海相・加藤友三郎以外は政党人だった原内閣)

 それでは、日本の明治維新から150年、そして第一次大戦終結前後のヨーロッパの大変革からちょうど100年、明けたばかりの2018年はどのような展開を見せるのだろうか。

 既に過去形で語ることになった2017年。振り返れば、シリア情勢に端を発した難民問題と、それを排斥する極右思想の広がり、無差別テロの横行、揺れ動く中東情勢、太平洋を挟んだ米中の派遣争い、そして北朝鮮問題など、何れも2016年から抱え続けて解決の方向性が見えないままになっていた世界の諸問題が、年初からの「トランプ旋風」によって一層ややこしくなってしまった、そんな一年ではなかっただろうか。

 その一方で世界レベルでの歴史的な低金利が続き、この何年か巨額の緩和マネーが供給されてきたこともあってか、世界経済は総じて底堅く、IoT(物のインターネット)やAIをはじめとするITの世界は着実に進歩を続けており、政治面での国際情勢がどうであれ、ITを通じた第四次産業革命は今後も一段と加速しそうな勢いである。けれども、行き過ぎた株主資本主義や経済のグローバル化がもたらした格差の拡大は社会の分断をもたらし、「資本主義の限界」が指摘されている。

 加えて吾々が決して目を逸らしてはならないのが、人類の経済活動が自然環境に与え続けて来たインパクトの深刻さだ。世界各地で今までに例を見ないような規模の自然災害が相次いで発生しているのは、決してそのことと無縁ではないだろう。
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 それらを踏まえて2018年を展望する時、先に述べた今から150年前の日本、そして100年前のヨーロッパの史実が示唆するものは、旧制度がもはや存続不能な状態に陥ると、それが崩壊して大変革が起き、周辺国を巻き込んでいく、そのスピードは私たちが一般に想像するよりも遥かに速いものだ、ということではないだろうか。

 来年の元日にウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートを再びテレビ鑑賞する際に、きっと変わることなく演奏されるであろう「美しき青きドナウ」を、私たちはどのような気分で聴くことになるのだろうか。少なくとも、「あの戦争の惨禍を忘れよう」という150年前のスタイルは御免蒙りたいものである。

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帝都の治水 [歴史]


 記録的短時間大雨情報という言葉を、この夏はずいぶんと頻繁に聞くようになった。

 気象庁の「大雨警報」が出ている時に各地の気象台から発表されるもので、その雨が、
 ● 数年に一度しか起こらないようなもの
 ● 一時間に100ミリ前後の猛烈な雨が観測されたもの
というのが凡その基準になっているそうだ。

 2013(平成25)年から運用されているが、現在までの月別の発表件数を調べてみると、今年(2017年)7月の44件(但し26日現在)というのが断トツの数字になっている。やはり、「最近よく聞くなあ。」という印象と合っているのだ。8月・9月の台風シーズンを前にしてこれだから、今年は年間の発表件数が過去最高になるのではないか。
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 一時間に100ミリなどという途轍もなく激しい雨が降ると、直ぐに気になるのは河川の氾濫だ。雨量が多い上に総じて河川が急傾斜な日本では、昔から各地で水害の発生が年中行事のようなものだった。今夏も、九州北部豪雨の際に筑後川とその支流の氾濫が周辺地域に大きな被害をもたらし、直近では秋田の雄物川の氾濫が注目を集めたばかり。現代ですらそうなのだから、明治以前の日本では多くの地域にとって治水が何よりも重い行政上の課題であったはずである。そして、大雨のたびに暴れ川となる河川に橋を架けるのは大変な事業だったことだろう。

 幕末期に歌川広重が残した『江戸名所百景』を見ると、江戸の隅田川に架かる千住大橋・両国橋・新大橋などの様子が巧みに描かれている。橋はどうしてもそこに人が集まるから、色々な意味で要所になりやすい。中でも両国橋の西詰などは当時の江戸で最大の繁華街だった。
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 その一方で・・・と思うことが一つある。隅田川に架かる橋の周辺のこのような賑わいに対して、それよりも川幅の広い荒川の流域はどんな様子だったのだろう。空の上から眺め下してみると、東京湾に流れ出る数々の河川の中でも荒川は有数の大河で、特に河口近くの川幅が広い。それなのに広重の錦絵の中に荒川の様子がちっとも出て来ないのはなぜなのか。残されているのは「逆井の渡し」という、荒川の西を流れる小さな川の鄙びた風景だけである。
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 答は簡単で、広重の時代、いや明治時代を通してみても、東京の下町に荒川という河川は存在しなかったからである。

 1910(明治43)年8月というと、日本が大韓帝国を併合する韓国併合条約の調印を月末に控えていた頃である。梅雨前線の南下によって5日頃から雨が降り続いていたところへ、11日に房総半島をかすめて太平洋に抜けた台風と、14日に駿河湾から甲府、更に群馬県西部へと抜けた台風とによって関東各地に集中豪雨が発生。この結果各地で河川が氾濫し、東京も含めた関東南部は未曾有の規模の水害を被ることになった。明治43年の大水害と呼ばれるものである。

 奥秩父の甲武信ケ岳(2475m)直下を水源とする荒川は、秩父盆地を貫いて寄居で関東平野に出ると、熊谷付近から次第に南を向き、現在のJR川越線の指扇・南古谷間で入間川を合わせた後、概ね南東方向に東京湾を目指す川である。昔から河道が安定せず、増水時にはその名の通り暴れ川になることで有名だった。その荒川が、利根川と共に明治43年8月にも暴れまくったのである。

 「山間部では山崩れを発生させ、家屋や田畑、橋や道路などの埋没・流失を招き、そして川へ大量に流れ込んだ土砂や流木は、濁流とともに堤防を決壊させました。明治以降、荒川最大の出水となるこの洪水は、利根川の洪水と合わせて埼玉県内の平野部全域を浸水させ、東京下町にも甚大な被害をもたらしました。記録に残る埼玉県内の被害は、破堤945箇所、死者・行方不明者347人、住宅の全半壊・破損・流失18,147戸、床上浸水59,306棟、床下浸水25,232棟にものぼりました。」
(国交省関東地方整備局 荒川上流河川事務所HPより)

 入間川と合流した後、当時の荒川は今よりももっと大きく蛇行を繰り返しながら、東北本線・荒川橋梁あたりで現在の隅田川の河道を通っていた。つまり、この時代までの江戸・東京にとって、荒川=隅田川であり、千住大橋あたりまでを荒川、そこから下流を隅田川と呼んでいたのである。蛇行が多いのは普段の川の流れが遅い地形になっているからであり、大雨による増水時にはそれが氾濫の原因になった。

 「埼玉県内では、県西部や北部に人的被害が多く、床上浸水被害が県南や東部低地に多かったのが特徴です。交通や通信網も遮断され、鉄道は7~10日間不通。東京では泥海と化したところを舟で行き来し、ようやく水が引いて地面が見えるようになったのは12月を迎える頃だったそうです。」
(同上)

 この年の水害損失額は当時の国民所得の3.6%にあたる112百万円にのぼり、明治時代としては最大の水害であったという。あの荒川の水がそのまま隅田川に流れ込む構造になっていたのだから、大雨の際にこのような水害が起きるのは避けられなかったのだろう。だから、「江戸名所百景」に登場する隅田川も、実際には広重が描いたようなのどかな情景ばかりではなかったに違いない。
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(現在の墨田区役所付近の隅田川の洪水。川の対岸は山の手側。)

 この未曾有の水害を受けて、明治政府は素早く動いた。時の首相兼蔵相・桂太郎が大蔵省秘書官に直々に命じて予算面における治山治水計画の骨格を作らせ、それを内務省に持って行って15年計画の具体案を発案させたという。先に大蔵省が金の算段を済ませたものであれば、内務省の具体案も話が取りやすいという訳だ。この水害発生時に、桂自身は軽井沢の別荘で静養中だったという。ところが大洪水によって鉄道も電信も不通となり、桂は東京と連絡がつかないまま現在の信越線・篠ノ井線・中央本線経由で帰京せざるを得なかった。その道中で水害の様子を目の当たりにした桂は、治山治水を急がねばという意を強くしたそうで、実際に工事は翌明治44年から早速始まっている。

 水害を防ぐための治山治水計画の内、首都・東京における対策は何といっても荒川の水を隅田川から切り離すことであり、そのために4つの案が出されたという。
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(荒川の水を隅田川から分離する計画案-国交省関東地方整備局 荒川下流河川事務所HPより拝借)

 第1案は、千住大橋の下流側で隅田川を分流させる新たな河道を建設する案だ。工事区間が最も短くて安価だが、これより上流部分の水害予防策にはならず、メリットが少ない。

 これとは逆に第2案はもっと上流の、入間川との合流地点あたりから荒川を早くも分流させてしまう案である。確かに水害は防げるだろうが、新たな河道の工事区間が極めて長く、なおかつそれが東京・山の手の市街地を縦断せざるを得ないので、実現性には乏しい。

 第3案と第4案は基本的に同じで、赤羽の岩淵地区付近に水門を設置し、そこで荒川を隅田川から分流させて中川の河口に繋げるというものである。それが日光街道の宿場町・千住の北を経由するのが第3案、南を回るのが第4案という訳だ。結局は新たな河道用の用地取得が比較的容易な第3案が採用された。これが、今となってはその名を語られることもなくなった荒川放水路である。
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(明治42年の赤羽・岩淵地区。当時、今の荒川の流れはなかった)

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(現在の赤羽・岩淵地区)

 ところで、この明治43年の大水害の11年前の8月27日に、東京・本所区と栃木県足利町を結ぶことを創立の趣意とした鉄道会社が、北千住と埼玉県・久喜の間で鉄道の営業を開始していた。現在の東武鉄道伊勢崎線の黎明期である。同社の社史には、「2時間間隔で1日7往復の混合列車を運転した。」とある。(混合列車とは客車と貨車とを併結させた列車のことだ。) そしてその3年後には、鉄路は北千住から吾妻橋(現・とうきょうスカイツリー駅、つまりその時点での東京側の終点)まで伸びていた。(無論、電化はまだ先の話である。)

 明治42年(つまり大水害の前年)作成の地図で北千住付近の様子を眺めると、確かに現在の荒川は皆無で、隅田川の流れだけが存在している。そして、明治29年の暮に日本鉄道の土浦線として開業していた現在のJR常磐線の線路を、北千住駅の北方で東武鉄道がオーバーパスする様子が描かれている。(その構造は現在も同じなのだが、当時は両鉄道共に、あたり一面の田んぼの中に建設された築堤の上を走っていたことが、その地図から見てとれる。)
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 ところが、明治43年の大水害を踏まえた「荒川放水路」の建設計画が世に出されると、東武鉄道伊勢崎線のルートが2ヶ所で変更を迫られることになった。
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 その一つが、この「田んぼの中のオーバーパス」だ。大正8年作成の地図では、このオーバーパスが荒川放水路計画ルートの真ん中に位置していたことが明確にわかる。あたりの水田は既になくなったようだが、荒川放水路(の予定地)にはまだ通水がなされておらず、昔の道路がそのまま残っていたりしている。
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 この荒川放水路を避けるために東武鉄道がルート変更を行ったのは1923(大正12)年7月、つまり関東大震災の僅か2ヶ月前のことだった。今度は北千住の先から荒川放水路を鉄橋で渡り、小菅の監獄に最も接近したあたりで左カーブを切りながら常磐線を越えている。(勿論、常磐線も新たに鉄橋を建設し、僅かではあるがルートが変わった。) つまりオーバーパス地点が旧線より北東側に移り、そこから先も西新井駅までのルートは旧線より北東側に変更となったのだ。そして、翌1924(大正13)年10月に新ルート上で小菅・五反野・梅島の3駅が新たに開業している。

 もう一ヶ所のルート変更は、北千住から南の鐘ヶ淵駅までの箇所である。S字状の線形の内、右下の部分の膨らみが荒川放水路の中央部にまでかかってしまうので、鐘ヶ淵駅の北側で直ぐに左急カーブを切り、荒川放水路の土手の淵に沿って北千住に向かうルートに変更する必要があったのだ。そして、土手に沿って走る部分の北端に堀切駅を開設。それは上述の小菅・五反野・梅島の開業と同日であった。
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 1911(明治44)年から工事が始まった荒川放水路の開削。それは総延長22kmにわたって川幅455~582mの河道を開削するもので、そのルート上にある土地の買収の総面積は11平方キロ、移転した住戸は約1,300戸に及んだ。地面の掘削や川底の浚渫によって掻き出した土量は東京ドーム約18杯分にもなり、その内の55%は両岸の築堤に使用されている。新たに4本の鉄道橋と13本の道路橋が架けられ、既存の河川との接点には3ヶ所の閘門と7ヶ所の水門が設置された。掘削や土砂の運搬をまだ人力に頼る部分も多く、大変な工事であったようだ。(途中、1923(大正12)年に関東大震災が発生し、築堤などに被害が出た一方で、通水前の河道は周辺住民15万人の避難場所にもなったという。)

 数多くの困難を経て、1924(大正13)年10月に赤羽の岩淵水門が完成すると、いよいよ通水を開始。工事開始からちょうど20年目にあたる1930(昭和5)年に、荒川放水路は竣工となった。総工費31.4百万円は、今の価値に換算すると2,300億円に相当するという。そして(上流にダムや調整池が整備されたことの効果は勿論大きいが)、これ以降現在に至るまで、荒川放水路の決壊は一度も起きていない。

 荒川放水路の開削が行われたこの20年間は、日露戦争終結の6年後から満州事変勃発の前年にかけての期間である。その前半には第一次世界大戦による好況期があったものの、その後は戦後不況に関東大震災、そしてニューヨークの株価大暴落に端を発した昭和金融恐慌と重なっている。日本にとっては苦しいことの多い時期であったが、一方でこの開削工事は失業者の受け皿としての公共事業にもなったのだろうか。

 明治43年の時点であのような大水害が起きたほど、帝都東京の治水が脆弱であったことにも今更ながら驚かされるが、それを受けた荒川放水路の開削は、この20年を逃しては出来なかったのかもしれない。勿論、今とは違って用地の確保にも工事の方法にも荒っぽい面はあったのだろうが、大都市のインフラ整備は何といっても政治家の決断力とリーダーシップにかかっているのだ。新聞紙上に「豊洲」・「築地」という文字が躍るたびに、私はこの20世紀初頭の開削事業のことを思い浮かべている。

 今や、人口の河川であることは殆ど認識されなくなった荒川放水路。1965(昭和40)年には正式に荒川の本流と定められ、以後「放水路」という言葉は消滅している。

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女帝の暑い夏 [歴史]


 7月10日(月)、カラ梅雨気味の首都圏は猛烈な暑さに見舞われた。太平洋高気圧が一時的に勢力を増し、あの九州北部豪雨をもたらした前線は、今は朝鮮半島の中部まで押し上げられている。首都圏は朝から真夏の干天で、最高気温のランキングには館林37.1℃、熊谷35.4℃、甲府34.4℃、東京・練馬33.8℃と、お決まりの地名が並んでいる。
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 私が子供の頃、昭和30年代の終わりから40年代の前半にかけては、いくら真夏といっても東京で気温が30℃を優に超える日が何日も続くなどということは、あまりなかったように思うのだが、古代の日本では、今頃はどれぐらい暑かったのだろうか。

 今から1372年前、すなわち645(皇極天皇4)年の7月10日というと、旧暦では6月12日にあたる。現在の奈良県高市郡明日香村では朝から大雨だったそうだ。

 この日は、新羅・百済・高句麗の三国から貢物を持参した使者を迎える「三国の調」の儀式が飛鳥板葺宮の太極殿で予定され、皇極天皇に従って大臣・蘇我入鹿も入朝することになっていた。この機を捉え、かねてより専横を極める蘇我氏の打倒を画策していた中大兄皇子・中臣鎌足らがクーデターを挙行し、宮中で入鹿を殺害。その翌日には入鹿の父・蘇我蝦夷を屋敷の中での自決に追い込み、蘇我本宗家は滅亡した。言うまでもなく、これが後に「大化の改新」と呼ばれる一連の改革の口火を切ることになった「乙巳(いっし)の変」である。入鹿を討つために太極殿の柱に隠れていた中大兄皇子も、蒸し暑さに汗びっしょりではなかっただろうか。因みに、斬り殺された入鹿の死体は外に放り出されて雨に打たれたという。

 この時の天皇は前述の通り皇極天皇(594~661年)だ。皇室史上では推古天皇に続く二人目の女帝であり、しかもこの乙巳の変で一旦皇位を退いてから10年後に斉明天皇として再び即位、即ち重祚(ちょうそ)となった初めての天皇である。更に言えば、皇統系譜の中ではそれほど血筋が良いとも言えないのに皇位に就くことになった、ちょっと不思議な天皇なのだ。
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 第29代の欽明天皇以降、6世紀~7世紀前半に登場した歴代天皇の系図を眺めてみると、欽明天皇から敏達天皇へと世代交代が行われた後は、敏達 → 用明 → 崇峻 → 推古という兄弟間での皇位継承が続いた。(それ以前の応神王朝や継体王朝においても、兄弟間で皇位が継承された前例はある。)だが628年に推古天皇が崩御すると、敏達天皇の直系の孫にあたる舒明天皇が即位。皇位が一世代飛ぶのは異例なことだ。更に言えば、舒明の后となり、後に皇位に就く皇極の出自は歴代天皇とはいささか異なっている。

 皇極の父は、敏達の皇子(の一人)である押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)と、どの天皇の子孫なのかよくわからない漢王の妹・大俣王との間に生まれた茅淳王(ちぬのおおきみ)だ。そして母親は、欽明天皇の皇子(の一人)である櫻井皇子と名前も出自も未詳の女性との間に生まれた吉備姫女である。だから、皇極自身は皇統の系図の中では極めて傍流と言うべきものだ。それが、夫・舒明の崩御を受けて皇位を継承し、女帝となったのである。

 一般に家系図というものは世代間の関係を見るためには適しているが、時間軸がないので誰がいつからいつまで生きたのか、誰と誰が同時代の人間なのかといったことを読み取ることが難しい。そこで、前述の期間について歴代天皇の生存期間と在位期間を年表の中に図示し、そこに家系図的な処理を加えてみると以下のようになる。
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 敏達・用明・崇峻・推古という兄弟の中では、推古女帝の寿命の長さが突出している。何しろこの時代に74歳まで生き、在位は35年にも及んだのだ。その間に、生きていれば有力な皇位継承者だったはずの厩戸皇子(用明天皇の皇子、いわゆる「聖徳太子」)は既に病没していた。(蘇我氏も馬子から蝦夷を経て入鹿へと世代交代している。)推古の次が敏達の孫の世代に飛んだのは、そうした推古時代の長さが大きな原因であったのだろう。

 そして、敏達の孫の舒明が在位12年の後に48歳で崩御。その時点での後継者候補は、舒明と蘇我法堤郎女(ほほてのいつらめ)との間に生まれた古人大兄皇子、厩戸皇子の息子・山背大兄王(共に生年不詳)、そして舒明と皇極の間に生まれた中大兄皇子(当時15歳)だった。そうした有力候補がいる中で、皇位はなぜか后の皇極へと継承された。

 その皇極は3年半ほど皇位にあったが、645年、自分の目の前で蘇我入鹿斬殺のクーデターが起きると、たちまち降板して同母弟の軽皇子に譲位。これが第36代の孝徳天皇となる。それまでの皇位継承は前天皇の崩御を受けて行われていたから、皇極 → 孝徳は日本で初めての譲位となった。それにしても、傍流の皇極のそのまた弟が、よくぞ天皇になれたものである。

 クーデターから一週間後の7月17日(新暦)、日本史上で初めて年号が立てられ、この年が大化元年となった。孝徳は新たに造営した難波長柄豊崎宮を都とし、「大化の改新」としての諸々の制度改革が行われる。だが、それらを実質的に仕切ったのは皇太子の中大兄皇子だったのだろう。その皇太子は653年に都を飛鳥に戻すことを孝徳に建議。だが、それを退けた孝徳は一人難波宮に取り残されてしまい、失意の内に翌年病没したという。既に述べたように、その後は皇極が61歳で重祚して斉明女帝となった。
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(今は耕作地に囲まれた飛鳥の宮殿跡)

 推古天皇の在位期間である6世紀末から7世紀の初めというと、隋・唐という統一王朝が中国に現れ、その覇権が周辺地域に及んでいくという、東アジアにとっては激動の時代の始まりであった。それでも、中国から海を隔てた日本としては遣隋使を、次いで遣唐使を送り、というように「まずは中国に学ぶ」というスタンスでよかったのだろう。ところが皇極天皇以降の時代になると、唐帝国の覇権によって朝鮮半島が動乱の時代を迎える。「三韓」の中で最も劣勢に立たされていた新羅が生き残りを賭けて親唐路線に転換し、唐が進める「遠交近攻」戦略に敢えて乗っかることで、高句麗や百済への対抗を始めたのだ。

 そして、斉明天皇としての即位から5年。660年に唐と新羅が連携して百済に侵攻。百済国王が捕虜になってしまった。蘇我氏の時代から日本とは親交のあった百済は日本に救援を要請。放っておけば唐の覇権が日本に直接迫りかねない事態となった。

 これに対し、斉明女帝は直ちに百済の要請を受け入れ、中大兄皇子、大海人皇子(後の天武天皇)らを引き連れて難波から瀬戸内海を西走。伊予の熟田津(にきたつ)や博多を経由して筑紫国朝倉の朝倉橘広庭宮へと進む。661(斉明天皇7)年5月9日(新暦の6月11日)のことだった。しかし、その朝倉では宮の建築のために付近の神社の木を無断で伐採したことから、神様の怒りに触れて宮殿が倒壊。鬼火が出没し、病が流行したという。そして、既に68歳の高齢に達していた斉明は、この年の7月24日(新暦の8月24日)に朝倉宮で崩御した。それは、きっと暑い夏の日であったのだろう。唐・新羅連合軍に対して日本軍が惨敗した白村江の戦(663年)の2年前のことである。

 この朝倉橘広庭宮は、今月の九州北部豪雨で大分県日田市と共に甚大な被害を受けた福岡県朝倉市に位置している。(正確な場所はまだ比定されていないようだが。)朝倉は日田方面から西方へ流れる筑後川が形成した平野の北端にあり、標高300m前後の丘陵の南斜面を後背地とする、いかにも有史以前から人々が住みついていたであろう地形の中にある。斉明天皇も宮殿からこの肥沃な平野を眺めおろしていたことだろう。
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 その朝倉が、今年7月5日(水)に前例のないほどの豪雨に見舞われた。北上して来た梅雨前線に南からの湿った空気が吹き込み、この日一日だけで516ミリという、7月一か月の平均雨量の1.5倍近くの雨が降ったのである。(朝倉と並んで大きな被害を受けた大分県日田市ではこの日一日で336ミリ、ちょうど7月一か月の平均雨量に匹敵する量だった。)
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(2017年 九州北部豪雨 朝倉と日田の雨量)

 こうなると、北側の丘陵から筑後川の支流が幾つも流れ出るのどかな地形がかえって災いし、市内の各地で土砂崩れや河川の氾濫が相次いだ。道路の冠水で一時的に孤立した地区が幾つもあったのは、報道されている通りである。
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 今年の首都圏はカラ梅雨だが、本来ならば7月は大雨の季節。乙巳の変や斉明天皇の筑紫遷幸の経緯を紐解きながら、私たちの遥かな祖先も、この国のこうした気候の下で歴史を刻んで来たことを改めて思う。

神社の下の急カーブ [歴史]


 よく晴れた土曜日の昼下がり。小田急の代々木八幡駅で電車を降りた私は、しばしホームの片隅に佇んでいた。

 新宿から乗って来た電車が出発し、右カーブで駅を離れて行く。そして、今度は反対側のホームに上りの電車がやはりカーブを切りながら入線。この駅は本当に急カーブの真ん中にあることを改めて実感する。
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 新宿と小田原を結ぶ小田急電鉄小田原線は、昭和2年4月の開業である。部分開業をせずに最初から全線を一気に、しかも完全電化路線として開業した。当初から「小田原急行鉄道」を名乗ったのは、東京のターミナル駅と観光地・小田原を短時間で結ぶというコンセプトがはっきりしていたからなのだろう。

 開業の翌々年には映画『東京行進曲』の主題歌が大ヒット。
 「♪ シネマ見ましょか お茶のみましょか いっそ小田急で逃げましょか ♪」
という歌詞で「小田急」の略称が一躍有名になったそうだが、それぐらい、昭和2年に登場した小田急の電車はモダンな存在であったのだろう。(もっとも、「いっそ・・・」という逃避行を連想させる「週末温泉特急」を小田急が走らせたのは、それから6年後の昭和10年のことなのだが。)

 その小田急小田原線は、急行鉄道の名前の通り、新宿を出てから多摩川を渡る手前までの区間は、線路が比較的真っ直ぐ引かれていて、首都圏の他の私鉄と比べてもカーブの少ない路線である。ところが、その唯一の例外が代々木八幡駅の周辺だ。新宿を出た電車が南新宿・参宮橋を過ぎてしばらく南下すると、その先で半径203mの右カーブで代々木八幡駅に至り、環状6号(山手通り)をくぐり抜けた地点で進路はほぼ90度右(=西)向きに変わっている。そして今度は左カーブで代々木上原駅に至り、その後は多摩川の手前の狛江まで殆ど一直線だ。
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 代々木八幡駅付近では、特急ロマンスカーも制限速度45㎞/時でこの急カーブを進まなければならない。こんなルートがなぜ必要だったのか。それが子供の頃から不思議だった。この付近の地図を見ると、参宮橋駅からもっと直線的に代々木上原駅に向かうとしたら、現在の代々木八幡駅の北側を通ることになり、そこにはちょうど代々木八幡神社の境内がある。それを横切るのは余りに畏れ多いからという理由で、神社の南を大きく迂回したルートにしたのだろうか。
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 市街化が進んで建物が立ち並んだ大都市では、地図を見ても地表の凹凸がよくわからないので、標高データを5mメッシュで表示した国土地理院の「デジタル標高地形図」を使ってこの付近の地形を観察してみよう。この地図は1/25,000のスケールだから、色分けによってかなり細かい地表の形状も浮かび上がって来る。
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 新宿駅から南南西の方角へ、台地の上を走る甲州街道。その南側には、川によって台地が刻まれた谷が幾つかあって、代々木八幡神社のある場所はその谷の上、つまり台地が岬のように南へ突き出したような地形になっている。小田急線のルートは、参宮橋駅付近からこの「岬」の東側の谷に沿って南方向へ下り、「岬」の突端で大きく西へ回り込んで別の谷を遡り、代々木上原駅へ向かっていることがわかる。

 この「岬」と谷はかなり顕著な凹凸で、もし小田急線のルートを直線的にするために「岬」を南西に横切るとしたら、神社には畏れ多い以前に、切通しやトンネルを幾つか築かなければならなかった筈だ。東急東横線の代官山・中目黒間、或いは京王井の頭線の神泉駅付近のようなトンネルがあったかもしれないと思うと興味深いものがあるが、当時の小田原急行鉄道の建設にあたっては、それが許されない事情があったのだろう。

 それでは、小田急線が建設される以前のこの付近は、どんな様子だったのだろうか。明治42年の測量に基づいて大正2年に作製された地形図を眺めてみると、デジタル標高地形図に谷の地形が表れていた参宮橋駅~代々木八幡駅間には、河骨川という小川が流れていたことがわかる。
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 水生植物のコウホネが数多く自生していたことから名付けられたというこの川は、台地から南に突き出た「岬」の先端でもう一つの小川と合流している。その合流地点が現在の代々木八幡駅だ。そこからは「宇田川」と名を変えて南東方向へと流れ、渋谷駅に至っている。言うまでもなく渋谷川の上流の一つで、今も残る「宇田川町」という地名はここから来ている訳だ。

 代々木八幡駅から外に出て、かつては河骨川の流域だった道路を北方向に歩いていくと、小田急線の線路沿いに「春の小川の碑」が建てられている。
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(「春の小川」の歌詞が刻まれた石碑)

 「♪ 春の小川はさらさらいくよ ♪」
という、誰もが知っているあの唱歌は大正元年の作だそうだが、作詞者の高野辰之はこの河骨川の流れから着想を得たという、そのことに因んで建てられた石碑。今ではその小川も暗渠になって姿は見えないから、そののどかな風景は想像も出来ないが、そこに昭和の時代になって鉄道が通ったのだから、「岸のスミレやレンゲの花」もさぞかし驚いたことだろう。

 その石碑の近くにある踏切から行く手を眺めると、坂道の上に代々木八幡神社の杜が見えている。デジタル標高地形図で見た「岬」にあたる箇所だ。
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 神社までは坂道をけっこう登ることになる。代々木八幡駅の標高が22m、そして神社は標高35mを少し超えている。境内のすぐ南側にはかなり深い切通しの路地があるぐらいだから、この付近に鉄道を通すとなれば、かなり大規模な土木工事になったに違いない。やはり小田急線は台地の「岬」の突端を迂回せざるを得なかったのだ。

 緑深い代々木八幡神社の境内と社殿は、よく知られた神社の割には質素だ。ご由緒によれば、その創建は1212年というから鎌倉時代の初期である。源氏将軍の二代目・頼家の側近であった男の家臣が、頼家の暗殺(1204年)の後にこの地に隠遁。主君を弔う生活を送っていたところ、ある日の夢の中に八幡神が現れたので、鶴岡八幡宮から勧請したのが始まりなのだという。
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 1199年に源頼朝が落馬によって急死。これには北条氏による暗殺説もあるそうだが、続いて二代目・頼家も追放の後に暗殺され、執権職に北条時政が就いた。頼朝死去の翌年には梶原景時が、そして頼家暗殺とほぼ同時に比企能員が謀殺されている。北条氏がライバルを次々と倒していった時代。追手から逃れる立場の人間が隠れ住むほど、代々木八幡宮の周辺は草深い土地であったのだろうか。
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 神社の境内からは、昭和25年に始まった調査で縄文時代の住居跡が見つかったという。今から5000年ほど前の時代の遺跡だというから、地球温暖化で海水面が上昇した、いわゆる「縄文海進」の後期にあたる。現在よりも暖かく、海が陸地の奥まで入り込んでいた頃、台地が南に突き出した代々木八幡のあたりは住みやすい場所だったのだろう。境内の一角には復元された当時の住居が展示されている。
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 八幡宮の参拝を終えて、目の前の山手通りをぶらぶらと降りて行けば小田急の駅だ。そしてそこから東方向へ歩いて行って自動車通りを渡ると、代々木公園の入口がある。原宿駅や明治神宮の参道に隣接した東側の入口は多くの人々が行き交うのに対して、こちらの入口は実に静かなものである。

 夏の終わり頃には例のデング熱騒ぎがあって、この代々木公園も一時は閉鎖されていたのだが、蚊の季節が終わった今は再び公開されている。そんな経緯があったからか、穏やかによく晴れた土曜日だというのに、今日の代々木公園はこの季節にしては入場者が少ないようだ。
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 高い山で見かける紅葉ほど鮮やかではないが、代々木公園の紅葉もそれなりに見頃になってきた。そういえば、神宮外苑の「いちょう祭り」もこの週末から始まる。吹く風が日を追って冷たくなるこれからが、東京はいい季節だ。
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 芝生の広場の彼方に広がる明治神宮の深い杜。先ほど見た明治42年測量の地図には、明治天皇の在位中だから当然のこととして明治神宮はまだ存在していない。かつて彦根藩主・井伊家の下屋敷だったその場所は、維新の後に皇室の御料地となり、前述の地図にも「南豊嶋御料地」の名前が見える。大正時代に入っても、そのすぐ北側では春の小川がさらさらと流れていたのだから、周辺にはのどかな田園風景が広がっていたのだろう。

 ここから目と鼻の先にある渋谷区松涛町に国木田独歩が一時的に住んだのが、明治29年。その時に記した日記をもとにした随筆『武蔵野』に描かれた野の風景は、このあたりのものなのだろうか。
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 その御料地の西側に隣接する原っぱ(現在の代々木公園)は、明治42年に帝国陸軍の練兵場になった。周辺には農地が続いていたが、練兵場から舞い上がる土埃がひどくて度々問題になったそうだ。それが戦後すぐに進駐軍に接収され、米軍将校用の家族宿舎が建てられた。いわゆるワシントン・ハイツである。接収が解除されたのは昭和36年で、それに続く東京オリンピックの選手村として、大半の施設がそのまま転用されたそうである。

 代々木公園の紅葉の中を歩きながら、私は子供の頃のことを思い出していた。父の転勤で一家が大阪から東京に越して来て、渋谷区に住むことなり、私は二年生の二学期から区立の小学校に転入した。まさに東京オリンピックが開催される直前のことである。その家はNHKの放送センターにも歩いて直ぐだったから、このあたりは放課後によく遊んだ場所だった。(そういえば、オリンピックの後になっても、地元ではまだ「ワシントン・ハイツ」という呼び方が残っていたものだった。)

 私はその小学校を卒業したのだが、中学からは電車で他地域へ通学していたし、その後も家の引越が二度あったりしたので、それからはこのあたりとも縁がなくなってしまった。そして平成の世に入り、その小学校は統廃合の対象になった。校舎はそのまま残っているが、名前は全く別物になった。

♪ 代々木の宮にほど近く わが学び舎は建てられぬ
みことかしこみ朝夕に 学びの道に勤しまん

その名もゆかし松涛の 響きも常に通うなり
松の操を身に締めて 互いに睦み励みなん

窓より遠く仰がるる 富士の高嶺を鑑とし
誠の道を本として 国の恵みに報いなん ♪

 大正時代の創立になるその小学校の校歌を、卒業して46年になろうかというのに、私は何故かまだ覚えている。今から思えば、たいそう立派な歌詞だ。当時の小学生がどこまでその意味を理解していたかはともかくとして、なんと重みのある日本語なのだろう。

 周囲に高い建物がなかったあの頃は、この原っぱで遊んでいた時にも富士山が見えていたのかもしれない。少なくとも、西の空が夕焼けで真っ赤になる時刻まで、よく遊んだものだった。草野球で特大のホームランを打った床屋の倅は、今はどうしているだろうか。

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 セピア色の思い出に包まれているうちに、原宿駅前の賑わいが目の前に近づいてきた。


猫と新聞 [歴史]


 9月13日は、猫の命日だそうである。

 名前すらない野良の黒猫なのに、これほど有名になった猫もいないだろう。言うまでもなく、夏目漱石の小説『吾輩は猫である』の主人公のモデルになった猫のことである。たまたま迷い込んだ家の主が、後に日本を代表する文豪になったのだから、何とも幸運な猫だったと言うほかはない。

 この時、漱石の家は東京の千駄木にあった。当の漱石は英国留学中に強度の神経衰弱に陥り、その留学生活を二年余りで切り上げて帰国していたのだった。猫がここに住み着いたのはその翌年の1904(明治37)年というから、漱石が37歳の年である。

 遠路帰国の甲斐なく、漱石の神経衰弱は東京で再発する。その症状を和らげるために、俳人の高浜虚子から小説を書くことを勧められた漱石は、さっそくこの黒猫を題材にした小説を執筆。それが正岡子規の門下の「山会」で好評を得たために、翌1905(明治38)年の1月に、雑誌『ホトトギス』に掲載された。当初は1回読み切りのはずが、好評を受けて続編が執筆されることになり、翌年8月まで計11回の連載になったことは良く知られている通りだ。
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 この小説の中では、1906(明治39)年の8月にこの猫が死んでいる。最終回の第11話で、客人が飲み残したビールを舐めて酔った挙句に水の入った甕に落ち、そこから出られなくなって命を終えたことになっている。

 だが、実在の黒猫はそれから2年ほど生きて、1908(明治41)年の9月13日に死んだそうだ。それが本当の「猫の命日」で、漱石はそれから親しい知人たちに猫の死亡通知を出したというから、かの文豪もそれなりのペット・ロスに陥ったのだろうか。

 漱石は1867(慶応3)年1月5日の生まれである。その4日後に睦仁親王(明治帝)が弱冠16歳にして皇位を継承している。前年の12月25日に孝明天皇が崩御した、そのことを受けての践祚だった。幕末日本の歴史はそれから高速回転を始め、漱石が1歳の誕生日を迎えた時には、鳥羽伏見で戊辰の戦が始まっていた。そしてこの年が明治元年となるのだから、漱石にとって「明治の日本」は殆ど同い年なのである。

 現在の東京メトロ・早稲田駅の近くで生まれた夏目金之助。生家は力のある名主の家であったそうだ。だが、五男坊の金之助は幼くして養子に出され、その養父母は後に離婚。7歳の時に生家に戻るのだが、その養父が後々まで生家と対立するなど、家庭環境は複雑だった。それは後の漱石の人格形成にも影を落とすことになる。
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(生家に因んで名付けられた早稲田の「夏目坂」)

 それでも、彼の学才は早くから認められていたようだ。11歳で一ツ橋中学(後の東京府立一中)、17歳で大学予備門(後の第一高等学校)、そして23歳で帝国大学文科大学英文科へと進むのだから、当時の日本では最高の教育環境に身を置く幸せは持っていた。そうした学生生活の中で、一高時代に学内で正岡子規と出会う。「漱石」というペンネームは、後にこの子規から譲り受けたものだ。

 漱石は26歳で帝大を卒業し、東京師範学校の英語教師を勤めるのだが、この頃からメンタルな疾患を抱えるようになり、東京を離れて伊予・松山や熊本で教職生活を送ることになる。熊本時代に妻を娶ったが、必ずしも円満な生活ではなかったようだ。

 そして、4年間の熊本生活を経て、33歳で英国へ留学。文部省から英語の研究を命ぜられたものだったのだが、滞在中に神経衰弱が悪化、留学生活には2年余りでピリオドを打つことになる。文部省が帰国命令を出した頃には、「漱石発狂」の噂が流れていたというから、症状はかなり深刻だったのだろう。そして、帰国後の一高や帝大での講師生活もうまくいかなかった。
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(夏目漱石の生涯)

 生家と養父との間でゴタゴタが続き、21歳になるまで夏目家への復籍が遅れるという複雑な家庭環境。近親者の相次ぐ夭折。そして、インテリ故の悩みなのか、日本人が英文学を学ぶことに対して日々つのっていく違和感。加えて、肺結核を患ったこともある病弱な吾が身への失望もあったことだろう。

 更に言えば、漱石が帰京した翌年(1904年)の2月にはロシアとの戦争が始まっている。漱石37歳。本来ならば人生の中でも体力・気力共に最も充実している時期に、自分は精神を病み、体も弱い。しかも国内は国を挙げての戦争モードだ。もし私が同じ境遇に置かれていたなら、きっと漱石以上に虚無的になっていたのではないだろうか。

 千駄木の夏目家に一匹の黒猫が迷い込んできたのは、そんな時だった。

 「大和魂(やまとだましい)!と叫んで日本人が肺病やみのような咳(せき)をした」

 「起し得て突兀(とっこつ)ですね」と寒月君がほめる。

 「大和魂!と新聞屋が云う。大和魂!と掏摸(すり)が云う。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。独逸(ドイツ)で大和魂の芝居をする」

 「なるほどこりゃ天然居士(てんねんこじ)以上の作だ」と今度は迷亭先生がそり返って見せる。

 「東郷大将が大和魂を有(も)っている。肴屋(さかなや)の銀さんも大和魂を有っている。詐偽師(さぎし)、山師(やまし)、人殺しも大和魂を有っている」

 「先生そこへ寒月も有っているとつけて下さい」

 「大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答えて行き過ぎた。五六間行ってからエヘンと云う声が聞こえた」

 「その一句は大出来だ。君はなかなか文才があるね。それから次の句は」

 「三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示すごとく魂である。魂であるから常にふらふらしている」

 「先生だいぶ面白うございますが、ちと大和魂が多過ぎはしませんか」と東風君が注意する。「賛成」と云ったのは無論迷亭である。

 「誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇(あ)った者がない。大和魂はそれ天狗(てんぐ)の類(たぐい)か」

 連載「我輩は猫である」の第6回の有名な一節である。1905(明治38)年10月刊行の『ホトトギス』に掲載されたというから、この年5月の日本海海戦の勝利だけでなく、9月のポーツマス講和条約締結や日比谷焼き討ち事件の顛末も漱石が知っての上での一節なのだろう。国が大事な時にこんな斜に構えたような物言いはけしからん、という意見もあるだろうが、そんな時だからこそ、多様な言論が尊重されるべきなのだろう。

 この連載物が人気を集めたことから、2年後の1907(明治40)年に、漱石は全ての教職を辞して朝日新聞社に入社。職業作家としての道を歩み始めることになる。『虞美人草』、『坑夫』、『夢十夜』、『三四郎』、『それから』、『門』、『彼岸過迄』、『こゝろ』、『道草』、『明暗』・・・。これらの作品は、いずれも朝日新聞社に移ってからのものだ。

 もっとも、3年後には胃潰瘍を煩い、療養先の修善寺で、一時は危篤にまで陥る。この時は一命を取りとめるのだが、結局胃潰瘍は不治の病となって漱石を苦しめ続け、職業作家生活10年目の1916(大正5)年12月9日に、漱石は49年と11ヶ月の生涯を閉じることになった。
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(漱石終焉の地・早稲田南町に建つ漱石の胸像)

 その漱石を社に迎えてから、今年で107年。朝日新聞社が未曾有の危機に直面している。二つの『吉田証言』を巡って危機の種を自ら蒔いたのだから、自業自得としか言いようがなく、もしも自らの主義主張に合わせてニュースを捏造し、自らの主義主張に合わない意見を排除する意図があったのだとすれば、報道機関としては全くの自殺行為だ。第三者の手を借りてでも真相を明らかにし、地道に信頼回復を図っていくより他はないだろう。(世の中がそのための時間を与えてくれればの話だが。)

 一方で、伝統的に政府与党に批判的だった新聞を、これを契機に潰してしまおうというような言動が世の中に散見されるのは残念なことだ。私自身、朝日新聞の「年来の主義主張」に与するものでは決してないが、世の中が一方向に傾いた時に健全な復元力が働くよう、意見が違っても主張すべきことを主張できるような仕組みは、社会の中にきちんと維持されていなければならないと強く思う。「朝日が起こした問題」は糾弾されても、「政府を批判すること」や「異なる意見を述べること」自体を封じてはならない。

 猫の頭を撫でながら、雲の上の漱石は今の日本や東アジアをどう見ているのだろうか。もしかしたら、「誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇(あ)った者がない」ナショナリズムについて、再び何か呟いているのかもしれない。

辛いピーナッツ [歴史]


 7月の中頃に、いつもの山仲間たちと山梨県の三ツ峠山に登った帰り、新宿行きのホリデー快速の車内でボックス席を確保し、皆でビールを飲んでいた時のことだ。メンバーの一人のH君が、ちょっと珍しいおつまみを皆の前で披露してくれた。彼が上海に出張した折に、街中で買い求めたものだという。

 縦長の小さな袋に印刷されているのは、「麻辣花生」という真っ赤な四文字と、ピーナッツと赤唐辛子を混ぜ合わせた写真。要するにピリ辛の落花生なのである。
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 早速食べてみると、それは単なる「ピリ辛」ではなく、もっとインパクトが強烈で、舌が痺れるような辛味があった。これは、四川料理などによく使われる「花椒」、要するに山椒の辛さだ。そもそも「麻辣花生」の麻とは、痺れるという意味を持つのだそうである。

 しかし、これは美味いツマミだ。いくらでもビールが進む。私はこの「麻辣花生」が気に入ってしまって、今月の初めに広東省の深圳へ出張した際に、同じ物がないかと探してみたところ、現地のセブンイレブンでこれと殆ど同じようなものを見つけた。それも、「セブンプレミアム」というオリジナル・ブランドとして売っていたのだった。名前も同じ「麻辣花生」。中国では売れ筋の商品なのだろう。
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 袋の背面に、落花生の産地は山東省の煙台(簡体字では烟台)と書いてある。H君が教えてくれた物も、やはり煙台産の落花生だった。調べてみると、煙台は大粒の落花生の産地として有名なのだそうだ。そもそも落花生に限らず、山東省は中国で最も農業の盛んな地域で、野菜や果物の出荷量は中国一なのだという。もちろん、青島を中心に第二次産業も大きな集積を持っていて、工業面でも中国有数の省になっている。現地に進出している日本企業も数多い。
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 青島といえば中国を代表するビールの産地だが、言うまでもなくそれは、青島市の西側に広がる膠州湾をかつてドイツ帝国が租借地としていたからだった。

 19世紀の後半、英仏に遅れて植民地獲得競争に乗り出したドイツは、本国との間の海上貿易路、すなわちシーレーン確保の観点から、世界各地に海軍基地を設けることを優先したという。その観点から中国沿海部で彼らの目にとまったのが、青島の西隣にハート型に入り組んだ膠州湾であった。1861年(まだドイツ統一の前)に清国との間で貿易を始めた時から、プロイセンは中国沿海部を調査し、いつか膠州湾を占領して東洋艦隊を配備しようと考えていたというから、帝国主義とはそういうものだったのだろう。

 それから36年後の1897年11月に、山東省西部でドイツ人宣教師二人が殺害される事件が起きると、ドイツはすかさず膠州湾に海兵隊を上陸させて威嚇し、実際に砲火を交えることなく清国兵を駆逐してこの入江の一帯を占領。翌年3月には清国に条約を結ばせて、膠州湾の99年間の租借を認めさせた。(清国にしてみれば、この事件の前々年の「三国干渉」で遼東半島の日本への割譲を免れた、そのことでドイツに売られた「恩」が高くついたことになる。)
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 その膠州湾に接する青島でビールの生産が始まったのは1903年のことだそうだが、膠州湾租借地を運営するにあたり、当時のドイツはこれを世界の植民地の模範とすべく生真面目に取り組み、ハード、ソフトの各種インフラ整備に努めた結果、元は小さな港町だった青島は中国の中でも極めて整然とした街へと発展したという。何事も綺麗好きのドイツ人のことだから、中国によくある雑然とした街にはしたくなかったに違いない。

 だが、ドイツの租借地としての歴史は僅か16年で終わることになる。その膠州湾に突如として係わりを持つようになったのは、当時の日本だった。

 1914(大正3)年6月28日にボスニアの首都サラエボで起きたオーストリア・ハンガリー帝国皇太子夫妻の暗殺事件を契機に、7月28日にオーストリアがセルビアに向けて宣戦布告。第一次世界大戦が始まった。7日後の8月4日に英国がドイツに対して宣戦を布告し、8月7日には英国大使より、青島駐留のドイツ東洋艦隊の通商破壊に対抗するため、日本に対独参戦を求める申し入れがあった。日英同盟に基づいてのことだ。(実はその後、英国との間では揺れ戻しが色々とあったようだが。)

 8月10日の元老会議で、日本は対独参戦の方針を決定。ドイツに対して最後通牒を発する。それは、膠州湾租借地の全てを、3年前の辛亥革命によって出来たばかりの中華民国に返還すべし、という内容だった。そして8月23日に最後通牒の期限が切れると、日本はドイツに宣戦布告を行ない、9月2日に山東省龍口に陸軍を上陸させた。今からちょうど百年前のことである。

 青島での実際の戦闘は、10月31日に始まっている。攻撃側は日英両軍を合わせて5万2千人、青島を守るドイツ軍の守備隊は5千人。膠州湾内に封じ込められることを恐れたドイツの東洋艦隊が青島から脱出したこともあり、この攻防戦は最初から勝負が見えていたようだ。日本にとっては初体験となる航空機による空中戦もあったそうだが、この戦いは砲撃による青島要塞の破壊でケリがつき、11月7日にドイツ軍は降伏。延べ8日間の戦闘で、日本:270名、英国:160名、そしてドイツには183名の戦死者が出たという。
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 ところが、ドイツに代わって日本が占領した膠州湾租借地を中華民国にいつ返還するかが、早々に問題となった。直ちに戦時占領を解除して自分たちに引き渡すべし、とする袁世凱の中華民国。それに対して、日本の戦争の相手はドイツであり、軍事占領したものを中華民国に返還するか否かは、戦時国際法上からもドイツとの講和条約で決める話だ、というのが日本の立場だった。(但し、その講和がいつのことになるのかは、この時点では全く見えていない。) 日本軍が膠州湾租借地だけでなく、膠済鉄道や青島税関の占領を続けていることについても、中国側からの抗議があった。

 事態を打開すべく、日本は袁世凱大総統との直接交渉に臨む。そこで中国側に提示したのが、1915(大正4)年1月18日の、いわゆる対華21ヵ条要求である。「欧州列強が第一次世界大戦で身動きの取れない間に、日本が火事場泥棒のようにして中国に無理難題を突きつけた」として、後世になっても指弾されることが多く、その後の中国における反日運動の発火点になったとされる日本のアクションである。

 第1号 山東省
 第2号 南満州及び東部内蒙古(旅順、大連、満鉄等の租借期限の延長)
 第3号 漢冶萍公司(中国最大の製鉄会社)の合弁に関する事項
 第4号 中国の領土保全(沿岸部を他国に割譲しないこと)
 第5号 その他(中国政府の顧問雇用等)

 大きく分けて上記の5項目があり、それぞれに条項が幾つかあって、14ヵ条の「要求」と7ヵ条の「希望」を合わせて21ヵ条という訳だ。この内、第1号の山東省については、

 ① 山東省においてドイツが保有していた権益を日本が継承すること。
 ② 山東省内の土地、及びその沿岸の島嶼を他国に割譲、貸与しないこと。
 ③ 芝罘または龍口と膠済鉄道とを結ぶ鉄道の敷設権を日本に与えること。
 ④ 山東省内の主要都市を、外国人の居住・貿易のために自主的に開放すること。

という内容の四ヵ条になっている。

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(袁世凱との交渉を担当した外相・加藤高明)

 当時の日本は第二次大隈重信内閣の時代だった。前年(1913年)2月の「大正政変」によって成立した第一次山本権兵衛内閣が、この年の初めに突如表面化したシーメンス事件によって倒れ、棚ボタ式に大隈の所に転がり込んで来た政権だった。

 その政権発足から三ヶ月で勃発した第一次世界大戦。財政難と不景気に喘いでいた大隈内閣にとって、それは「天佑」であったに違いない。(事実、それからの日本は多大な大戦景気を享受することになった。) しかも、勝てる戦で膠州湾の租借地をドイツから奪えるならば、建前はともかく、その美味しい権益を今後もキープしておきたいというのが大隈内閣のスタンスだったのだろう。だから、21ヵ条の冒頭は、ドイツに与えた膠州湾の99年間の租借権益を日本に継承させよ、というものだった。

 「膠州湾をドイツから取り上げた後、中国に返すつもりなど最初からなかったのだ。」 そう言われてみれば、おそらくそうだったのだろう。その中国では3年前の辛亥革命(1911年)で清朝は倒れたが、生まれたばかりの中華民国の基盤は弱く、国内はひどく混乱している。そんな中、天佑で膠州湾を押さえることができた。この権益をしっかりと継承すると共に、日露戦争で将兵の多大な血を流し、ポーツマス条約でロシアから譲り受けた南満州や東部内蒙古地域での権益延長もこの際明確にしておきたい、というのが日本の立場だったのだろう。

 いずれにしても、延べ4ヶ月、計25回の交渉を経て、第5号以下を削る形で決着。その時に中国側から「要求ではなく、最後通牒の形にして欲しい。」との要請があったので、1915(大正4)年5月7日に日本からそれが発せられ、5月9日に中華民国がそれを受諾することで条約が成立している。

 ところが、締結された条約の内容を袁世凱が歪曲誇張してリークし、「とんでもない内容の最後通牒を日本から突きつけられ、条約締結を強要された。」というポーズを取ったために、日本の「対華21ヵ条要求」は中国の国内で人々の憤激を呼び、海外からも批判を集めるようになる。袁世凱には、そうした反日感情を梃にして中華民国大総統から皇帝の座に就くという魂胆があったとされるが、ともかくも袁世凱が日本の「最後通牒」を呑んだ5月9日が、この時以来中国の「国恥記念日」となった。反日運動の起点と呼ばれる所以である。

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(最後は皇帝になりたかった袁世凱)

 そして、史上初の総力戦となった欧州の世界大戦で欧州各国が手一杯で、山東省の問題どころではなかった一方で、中国への進出に一番出遅れていて「門戸開放・機会均等」を主張していた米国が、日本の対華21ヵ条要求への批判を強めたことも、日本にとっては大いに不利だった。

 上記のように、袁世凱は対華21ヵ条要求を自分の地位のために利用したようだが、一方で要求の中から最終的に削られた第5号の一部は、袁世凱との政争に敗れて日本に亡命していた孫文の「日中盟約案」と符合するものだというから、孫文は日本の力に期待を寄せていたのだろう。

 現代の視点から見れば、或る国に対して外国が租借権を要求することは、それ自体が「帝国主義的」、「侵略的」であるのかもしれない。だとすれば、自己の地位のために対華21ヵ条要求を敢えて呑んだ袁世凱も、その要求の一部と符合する内容の「日中盟約案」を考えていた孫文も、(繰り返しになるが現代の視点から見れば)中国「国民」を代表するものではなかったことになる。その時点での中国の「民意」がはっきりしていればの話だが。

 更に言えば、対華21ヵ条要求から4年後のパリ講和会議(1919年)においても、「民族自決」というコンセプトは欧州に対してのみ適用されるものだった。アジアやアフリカに数多くの植民地があった時代に、そうした地域まで含めた「民族自決」を認めるような国際社会はまだ出来ていなかったのだ。

 そもそも、中華民国が成立したばかりのあの混沌とした中国で、「国民の総意」とは一体何だったのか。もっと言えば、中国の「国民」とは誰だったのか。それを現代の国民国家の視点で論じるのは無理というものだろう。(今の中国の政治システムも、「民意」とは何かが見えないことに変わりはないのだが。)

 だから、同講和会議ではドイツの膠州湾租借地は日本に譲渡されることになり、中国の民衆はそのことへの失望と反発を強めた。しかしながら、その後の中国における反日運動の激化や、米国を中心とした日本批判の圧力の高まりを受けて、結局1922(大正11)年に、日本はやむを得ず膠州湾を中国に返還することになる(いわゆる「山東還付」)。膠済鉄道沿線の鉱山などへの一部権益が残るのみで、国際的な批判ばかりを受けるという、日本にとっては散々な結果となった。そして、時代が昭和に入ると、山東出兵(1927~28年)の形で山東省は再び日中対立の舞台になっている。

 来年の5月9日は、この対華21ヵ条要求を袁世凱が呑んだ「国恥記念日」が百周年を迎える。そのことは、現在の日中間の政治的な駆け引きの一つとして利用されることだろう。だが、特定のプロパガンダに乗せられることなく、我々は史実を冷静に踏まえていきたいものである。

 それにしても、山東省・煙台産の「麻辣花生」は美味い。美味いけれども、噛みしめるほどに、何とも辛い。

梅雨は戦の季節 [歴史]


 6月の第二週が終わろうとしている。

 今週もよく雨が降り、湿度の高い日が続いた。そして、夏至まであと一週間だから、梅雨の合間に青空が広がると、輝く太陽はとても高い位置にある。この週末は梅雨も中休みのようで、晴れて暑くなるとの予報。サッカーのW杯ブラジル大会が始まったので、この週末は山歩きを企画していないが、雨が続いたから、行ったとしても山道はどこもコンディションは良くないことだろう。まあ、テレビ観戦を主体に週末のスケジュールを組み立てるのが無難なところかな。
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 6月は雨の季節だが、近世以前の日本では、そんなことにはおかまいなしに案外と大きな戦が行われてきたようだ。

 例えば、木曽義仲が数百頭の牛の角に松明をつけて放ち、10万に及ぶ平家の軍勢を壊滅させたという1183年の倶利伽羅峠の戦いは、ユリウス暦では6月2日のことだ。鎌倉時代の初期に後鳥羽上皇が幕府の転覆を狙った承久の乱が始まったのは、1221年の6月5日である。

 織田信長が今川義元の本陣に奇襲攻撃をかけた、有名な桶狭間の戦いは1560年の6月12日。信長と家康の連合軍が鉄砲の連続射撃で武田の騎馬隊を壊滅させた長篠の戦いは、1575年の6月29日。そして、その信長の命運が尽きた本能寺の変は、1582年の6月21日である。

 更に言えば、この6月から7月初めにかけての鬱陶しい季節に、実にダイナミックに日本の歴史が動いたのが、1333年だった。言うまでもなく、鎌倉幕府が滅亡したプロセスのことである。
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(激動の1333年。日付は全てユリウス暦換算)

 火種は西国にあった。

 鎌倉幕府打倒の陰謀が事前に発覚し、密かに都を脱出した後醍醐帝が山城国笠置山で挙兵、その皇子・護良親王や河内の「悪党」・楠木正成らがこれに呼応したのが、前々年の9月(元弘の変)。だが程なく帝は捕えられ、正成が籠城戦を続けていた赤坂城は11月に陥落。翌年4月には帝が隠岐へ流罪となる。倒幕の炎は消えたかに見えた。

 だが、姿をくらましていた正成がその年の暮に河内国金剛山の千早城で再び挙兵。摂津国で六波羅の軍勢を撃退するなどの功を挙げる。年が明けて1333年。幕府方は大軍を派遣して千早城を取り囲み、3月8日から攻防戦が始まるのだが、立てこもる僅か千人の正成軍に対して、『太平記』によれば「百万人」とされる幕府の大軍が容易に城を落とせない。そのことが各地に伝わり、倒幕の機運を高めることになった。

 その間に播磨国で赤松則村(円心)が挙兵して倒幕勢力を糾合。そして4月9日に後醍醐帝が隠岐を脱出し、伯耆国の船上山で倒幕の綸旨を全国に発するようになると、幕府も六波羅へ援軍を送らざるを得ない。「病気」と称して千早城の包囲戦から離脱していた足利尊氏が、幕府の命を受けて鎌倉を発つのが5月11日。だが、尊氏には胸に秘めたものがあり、この時点で幕府の命運は尽きていたといえるだろう。

 5月18日、尊氏の軍勢は三河国矢作に到着。承久の乱の時の功績によって、足利の三代目が三河守護職に就いて以来の縁故地だ。尊氏はここで一族郎党を集め、祖父・家時の置文を読んで倒幕の決意を明かしたとされる。そして、5月30日に入京。それから丹波国篠村に向かい(ここも足利氏の所領だった)、その八幡宮で倒幕の兵を挙げる。尊氏は赤松円心や佐々木道誉らと共に洛中を攻め、六波羅探題は6月19日に壊滅した。

 今のような通信手段のない時代に、どうやって時期を示し合わせたのか、六波羅滅亡の翌日には北関東で新田義貞が挙兵。手勢は僅か150人だったというから、その時点でどこまでの勝算があったのかはわからないが、結果的には道中で雪崩をうつように加勢が現れ、破竹の勢いで鎌倉を目指すことになった。

 一週間後の6月27日には多摩川の分倍河原で幕府軍を撃退。その3日後にはもう鎌倉での攻防戦が始まっている。そして、7月4日に鎌倉の東勝寺で、最後の得宗・北条高時ら一門が自刃し、鎌倉時代はここに幕を閉じた。後醍醐帝の隠岐脱出からまだ三ヶ月と経っていないのだから、時代は猛烈なスピードで展開したことになる。
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 それにしても、モンゴルが二度目に攻めて来た1281年の「弘安の役」から僅かに52年。日本の未曾有の危機であった元寇に立ち向かった民族の英雄・北条時宗の、その孫の代で北条の世は潰えた。なぜ半世紀という短い時間に滅亡の道をたどったのだろうか。

 二度の元寇は撃退したが、新たな領地を得た訳ではなかったので、功あった者にも恩賞を与えることが出来ず、不満が渦巻いたこと。分割相続を繰り返したことで、武家の零細化が進み、借財に苦しむようになったこと。その対応策として発した1297年の「永仁の徳政令」も、逆に「貸し渋り」を招いたこと。そして、折悪しくそんな世に登場した「虚け者」の当主・北条高時・・・。滅亡の原因として語られるのはそんなところだ。

 だが、本来ならば鎌倉将軍の下に御家人衆が横一線という体制であった筈の鎌倉幕府において、元寇という一大事のために北条家が名実共にトップに立たざるを得なくなった。その北条宗家でその後の世代交代がうまく進まなかったことも、大きな要因だったのではないだろうか。
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(北条氏の歴代執権。丸数字は就任順)

 時宗の父・北条時頼が赤痢にかかって第5代執権を辞したのは、嫡子・時宗がまだ6歳の時だった。この時は一族の中から一世代前の赤橋長時が執権職を継ぎ、8年後にその長時も病に倒れると、更にその一世代前の北条政村が第7代の執権に就いた。そして1268年1月に蒙古の国書が届くと、そこで権力を北条宗家に戻すべく、18歳になった時宗に執権職を譲っている。その間に時宗は政村の連署(執権の補佐役)を務めるなどして帝王学を学んでいたというから、これは世代交代の一つのあり方だったのだろう。

 ところが、その時宗は二度の元寇で全身全霊を使い果たしたかのように、1284年に34歳の若さで夭折。この時点で嫡子・北条貞時は14歳なのだが、彼には兄弟がおらず、また時宗の時代における長時や政村のような一族の中の有能な年長者もいなかった。未知数のまま執権に就いた貞時の側につく御内人(みうちびと)が実質的な権限を握るようになるのは必然なのだろう。そうした権力闘争の中で、1285年に霜月騒動が起きて安達泰盛が倒され、それによって権勢を誇った平頼綱も1293年に倒された。

 永仁の徳政令が出たのはその4年後のことだから、世は既に傾き始めていたのだろう。そして更に4年後の1301年に貞時は執権を辞任。ハレー彗星が現れたことが凶兆と受け止められたのだという。この時点で高時はまだ生まれておらず、執権職は再び一族の中での持ち回りになった。
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(時宗以後の北条の世)

 その15年後、四代の執権を経て北条高時が第14代執権に就任。久しぶりに北条宗家に執権職が戻ってきたのだが、貞時から高時の後見役に指名された長崎円喜とその息子・高資が権勢を強めていた。そして、執権・高時の時代はそれからの10年間で終わる。1326年、「病」のため24歳の若さで出家した高時。田楽や闘犬に遊び興じた「虚け者」として描かれるのはこの時期のことだ。
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(天狗と共に踊り狂ったとされる北条高時)

 高時は「最後の執権」と思われがちだが、最後の得宗(北条宗家の当主)ではあっても、最後の執権ではない。高時の後には一族の中から金沢貞顕が執権となるも、僅か11日で辞任。結局、幕府滅亡までの最後の7年は、一族の赤橋守時が執権職にあった。守時の妹が足利尊氏に嫁いでいたのだから、これも皮肉な巡り合わせというべきだろう。

 政権担当までの準備期間を用意された時宗とは異なり、それがなかったために御内人が実質的な権力を握り、他の御家人との対立を招いてしまった貞時・高時の時代。現代のような民主主義の時代でなくとも、後継者の政権担当能力にひとたび疑問符がついてしまうと、人心が離れてしまうのは意外に早いものなのだろう。それは、民主主義国家はもちろんのこと、そうでない政治体制の国々にとっても、大きな脅威である筈だ。

 それから681年が過ぎて、現代の我々は、地球の反対側で開かれる4年に一度のサッカーの祭典に国を挙げて夢中になっている。それぐらい、世の中の森羅万象が瞬時に世界に伝わる時代。為政者たちにとっては、便利なようでいて、実は何とも厄介な世の中になったのではないだろうか。

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