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禁ヲ解ク (2) [宗教]


 「お釈迦さま」として崇められるゴータマ・シッダールタ。その生年には諸説があるようだが、学校の教科書ではひとまず紀元前563年頃とされている。

 ヒマラヤ山脈の麓、現在はネパール王国の領内になるルンビニーの地に王族の子として生まれ、16歳で結婚。何一つ不自由のない生活を送っていたが、心の内に深い苦悩を抱え29歳で出家。様々な苦行を経て、35歳の時にガンジス河中流域のブッダガヤーで悟りを開く。以後、80歳で入滅するまでの45年間は、各地で穏やかに過ごしつつも説法を続ける日々であったという。

 インドに毎年やって来る雨季。その4ヶ月ほどの間を、釈尊は弟子たちと一つの場所に籠って過ごしたそうだ。新たに姿を現わした草木や小動物を踏みつぶさないためのもので、雨安吾(うあんご)或いは夏安吾(げあんご)と呼ばれた。サーヴァッティー(舎衛城)という地のジェータ園林はその代表的な場所で、「祇園精舎」の名で知られている。
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 釈尊がその祇園精舎で過ごしていた或る日のことである。

 「一人の容色麗しい神が、夜半を過ぎたころ、ジェータ林を隈なく照らして、師(ブッダ)のもとに近づいた。近づいてから師に敬礼して傍らに立った。そうしてその神は師に詩を以て呼びかけた。

 『われらは、(破滅する人)のことをゴータマ(ブッダ)におたずねします。破滅への門は何ですか? 師にそれを聞こうとしてわれらはここに来たのですが、――。』」
(『ブッダのことば スッパニパータ』 中村 元 訳、岩波文庫)

 釈尊の前に現れたのがいったい何の神様なのか、私にはわからないが、釈尊はその神に対して、「破滅する人」のパターンを12例も挙げていく。その内の8番目と11番目は、それぞれ次の通りだ。

 「女に溺れ、酒にひたり、賭博に耽(ふけ)り、得るにしたがって得たものをその度ごとに失う人がいる。――これは破滅への門である。」

 「酒肉に荒(すさ)み、財を浪費する女、またはこのような男に実権を託すならば、これは破滅への門である。」
(引用前掲書)

 なるほど、酒や女に深入りしてはいけないということか・・・と、ここだけ読めばそうとも取れるのだが、この同じ祇園精舎で別の機会に、五百人の在家信者の前で釈尊はこうも述べている。

 「次に在家の者の行うつとめを汝らに語ろう。このように実行する人は善い<教えを聞く人>(仏弟子)である。(中略)

 ① 生きるものを(みずから)殺してはならぬ。(中略) = 不殺生戒 
 ② (中略)なんでも与えられていないものを取ってはならぬ。不偸盗戒
 ③ ものごとの解った人は婬行を回避せよ。(中略)不淫戒
 ④ (中略)何びとも他人に向って偽りを言ってはならぬ。(中略)不妄語戒
 ⑤ 飲酒を行ってはならぬ。(中略)不飲酒戒
(引用前掲書)

 以上の五項目は五戒と呼ばれ、仏教の在家信者が守るべき根本的な行動指針とされている。ということは、酒に深入りするかどうかという程度問題ではなくて、飲酒という行為自体がダメなのだ。しかも、この不飲酒戒について、釈尊は更に次のように述べている。

 「この(不飲酒の)教えを喜ぶ在家者は、他人をして飲ませてもならぬ。他人が酒を飲むのを容認してもならぬ――。
 これは終(つい)に人を狂酔せしめるものであると知って。
 けだし諸々の愚者は酔のために悪事を行い、また他の人々をして怠惰ならしめ、(悪事を)なさせる。
 この禍いの起るもとを回避せよ。
 それは愚人の愛好するところであるが、しかし人を狂酔せしめ迷わせるものである。」
(引用前掲書)

 いやあ、手厳しいなあ・・・。お釈迦さまはこんなにはっきりと、酒を飲んではいかんと仰っている。もはや解釈の仕方云々の話ではなく、酒を「般若湯」などと呼び換えて済むようなことではないはずだ。

 人類の文明の中に酒が登場するのは、今から4000年ほど前のことだそうである。果物や穀物が何らかの条件下で偶然に発酵し、それを飲んでみたら案外旨かったということから、その発酵条件の再現を追及したことが酒造りの始まりなのだろう。そして、先に引用した『スッパニパータ』は仏教の初期に編纂された最古の仏典の一つとされている。お釈迦さまが生きていたのは、酒の生産量はまだずっと少ない時代だったはずだが、それでも彼がここまで口を極めるぐらい、酒の害というものは既に世の中に蔓延していたということなのだろうか。
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 釈尊の入滅(紀元前483年頃)から150年以上が経過した紀元前4世紀の初めに、チャンドラグプタ王があの広いインドを史上初めて統一してマウリア朝を樹立。前3世紀の中頃のアショーカ王の時代に王国は最盛期を迎える。征服活動の過程で多くの犠牲者を出した王は仏教に深く帰依し、全土に84,000ものストゥーパ(仏塔)を建てたという。仏典の大々的な編纂も行われるのだが、前2世紀にその王朝は衰退。ちょうどその頃から西北インドにギリシア人が進出し、次いで騎馬民族のクシャーナ族が侵入してインダス河の流域に新たな王朝を築いた。

 1世紀から200年間ほど続いたこのクシャーナ朝は、2世紀半ばのカニシカ王の時代にピークを迎えるのだが、実はこのクシャーナ族のインド侵入に際しては相当な殺戮が行われたらしい。そして、彼らの王国が成立した頃から、ガンダーラとマトゥラーという二つの地域でインド史上初めて仏像が登場するのである。釈尊の入滅から凡そ500年後のことだ。

 クシャーナ族の侵入によってインド各地で毎年繰り広げられた征服と殺戮、そして略奪。そんな乱世が続き、人々が仏教に求めるものが変わっていったのが、そうした仏像誕生の背景にあったとされる。個々人の心の安寧よりも、繰り返される戦乱からの救済が人々の切実な願いなのだと。なるほど、この世に大乗仏教が登場したことには、そんな悲惨な背景があったのか。
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 そうした中で、2世紀後半のインド南部に天才的な学僧が現れた。龍樹(りゅうじゅ、ナーガールジュナ、150~250年頃)である。紀元前後に成立したとされる般若経典をもって「空(くう)」の考え方を深め、大乗仏教を伝統的な上座部仏教に対抗し得るものに体系化したという。「八宗の祖」とも言われ、彼より後の大乗仏教の各宗派は、程度の差こそあれ龍樹の影響を受けているのだそうである。

 その龍樹が残した著作の一つが、『摩訶般若波羅蜜経』の注釈書で全100巻にも及ぶという『大智度論』で、その後の中国や日本の仏教界に大きな影響を与えたという。但し、その原典は残っておらず、西域僧の鳩摩羅什(くまらじゅう、クマーラジーバ、344~413年(異説あり))の手による漢訳があるだけだそうだ。(鳩摩羅什の名前だけは学生時代の教科書にも載っていたが、こんな大仕事をしていたとは・・・。)

 その『大智度論』の中で、龍樹は先に挙げた仏教の五戒について、なぜそれらが戒めとされているのかを詳しく解説しているそうだ。まず、酒には「穀物酒」、「果実酒」、「薬草酒」の三種類があるとした上で、世間一般では「百薬の長」などとされている酒は、
 「身体に益となる点はとても少なく、害になることが大変多いのだから、飲んではならない。それは、美味い飲物だけれど中に毒が混じっているようなものだ。」
と述べているという。

 そして更に、
 「酒は三十五の失(とが)あり。」
として、数々の経典の中に記された酒の弊害を集約したダメ押しがあるそうだ。今は便利な世の中で、それもネットサーフィンで眺めることが出来る。

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 最初の10項目を見ただけで、私などは早くも打ちのめされそうだ。龍樹が生きた2世紀後半から3世紀という時代のインドで、酒がどこまでポピュラーになっていたのかは想像もつかないが、酒の弊害のトップがもう既に「散財する」となっていることが驚きである。

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 次の10項目では、13~20までが他人を尊敬しなくなることだ。酒を飲むと無礼かつ尊大になるのは、古今東西変わらないのだろう。

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 その次の10項目も、思い当たるフシが多々あるのは認めざるを得ない。特に、自分がどうなるかということよりも、他人から疎まれる、信用されなくなるという部分は、ともすると自分では気がつかないことだろう。

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 残りの5項目の中では、最後の二つが極めつけだ。う~む、ここまで言うか。

 伝統的な上座部仏教の立場からは、菩薩が衆生を救済するという大乗仏教は「ご利益仏教」に成り下がったという批判があるようだが、それでも龍樹の頃の大乗仏教は、このように明確に「不飲酒戒」を掲げている。だが、そうした大乗仏教が日本に伝わった後、この不飲酒戒はどこかへ行ってしまった。
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 そして、話は私自身の極めて小さなことに立ち戻る。今年10月末に内臓に小さな手術を受けて以来、医師の指示に従ってちょうど5週間、35日続いた私の禁酒生活。明後日からはそれが解禁になるのだが、果たしてそれを喜んでいいのやら。

 私は仏教の在家信者ではないが、お釈迦さまがあそこまで仰ることは解らぬでもない。この国では、酒が何かと人間関係の潤滑油の役目を果たしており、社会に出てからの私もそうやって過ごして来た。それはそうなのだが、いつまでもその延長線上にいていいものか。この歳になって体験した35日間の貴重な禁酒体験を、無駄にせぬように生きるべきではないのか・・・。解禁日を前にして悩みは尽きず、迷いはふっ切れず、答は到底出そうにない。

 よしあしの なにはの事は さもあらばあれ 共に尽くさむ 一杯の酒 (良寛)

禁ヲ解ク (1) [宗教]


 大学四年生になった頃、イスラム教の聖典であるコーランの和訳を、少しばかり読んでみたことがあった。

 信心を起こした、ということでは決してない。知人にムスリムがいて薦められた、という訳でもない。ただシンプルに、イスラム世界というものに不思議な興味が湧いていたのだった。

 何といっても、私の高校時代にはエジプト・シリアとイスラエルの間で第四次中東戦争が勃発し、それが第一次石油危機へと発展。日本では洗剤やトイレットペーパーの買占め騒ぎに繋がった。そして大学時代にはイランでイスラム革命が起こり、それまで西側諸国の支援を受けてきたパフラヴィー国王が国外に逃亡するという大きな出来事があった。その混乱でイランの原油生産が止まり、世界は再び石油危機に直面。とにかく世界は中東地域に揺さぶられ続けていたのである。

 同時代史がそんな風だったから、それまでは全く馴染みのなかったイスラム世界について多少なりとも理解を深める必要があると、大学卒業もそろそろ近くなった当時の私は考えていたのだろう。キリスト教徒における聖書以上に、ムスリムたちにとって欠くことの出来ないコーランとは一体何なのか。和訳は世の中に出ていたから、ともかくもそれに目を通してみようと。
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 イスラム教の世界では、アラビア語のコーランが正真正銘の聖典であり、他の言語に翻訳されたものはコーランとは認められないのだそうだ。従って、アラビア語が理解できない限り、本当にイスラム教を理解したことにはならないのかもしれないが、少なくとも和訳を読む限りでは、コーランは思いのほか平易な書きぶりになっている。仏式のお葬式の時に坊さんが読み上げるお経が、何のことやらさっぱりわからないのとは対照的に、コーランは妙に平易な聖典である。

(なお、今ではインターネット上に、日本ムスリム協会の手によるコーランの全訳が掲載されているから、本を買わなくてもいつでも読むことが出来る。)
http://www2.dokidoki.ne.jp/racket/koran_frame.html

 イスラム教というと、「豚肉を食べない」とか「酒を飲まない」というようなことを私たちはすぐに連想するのだが、それは例えばコーラン第5章の「食卓章(アル・マイーダ)」を紐解けば、何を食べてよい・いけないということが事細かに書かれている。なるほど、これが「啓示宗教」と呼ばれる所以で、神様のご指示は実に明快かつ具体的なのである。
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 「あなたがた信仰する者よ、誠に酒と賭矢、偶像と占い矢は、忌み嫌われる悪魔の業である。これを避けなさい。おそらくあなたがたは成功するであろう。」
(第5章 90節)

 「悪魔の望むところは、酒と賭矢によってあなたがたの間に、敵意と憎悪を起こさせ、あなた方がアッラーを念じ礼拝を捧げるのを妨げようとすることである。それでもあなた方は慎まないのか。」
(同 91節)

 イスラム教において酒を飲むことが禁じられていることの具体的な根拠は、これらの記載にあるとされているようだ。ところがその一方で、コーランの中の別の章では、天国についてこんな風に書かれている。

 「主を畏れる者に約束されている楽園を描いてみよう。そこには腐ることのない水を湛える川、味の変わることのない乳の川、飲む者に快い(美)酒の川、純良な蜜の川がある。・・・」
(第47章15節)

 「(信仰の)先頭に立つ者は、(アッラーの)側近にはべり、至福の楽園の中に(住む)。昔からの者が多数で、後世の者は僅かである。(彼らは錦の織物を)敷いた寝床の上に、向かい合ってそれに寄り掛かる。永遠の(若さを保つ)少年たちが彼らの間を巡り、(手に手に)高杯や(輝く)水差し、汲みたての飲物杯(を捧げる)。彼らはそれで、後の障を残さず、泥酔することもない。また果実は彼らの選ぶに任せ、種々の鳥の肉は、彼らの好みのまま。大きい輝くまなざしの美しい乙女は、ちょうど秘蔵の真珠のよう。・・・」
(第56章10~23節)

 何ともハーレムな世界が約束されているのだが、そこには美酒がいくらでも流れていて、いくらでも飲むことができ、しかも泥酔することがないという。現世では酒はご法度だが、天国では飲み放題という訳で、ムスリムたちも本音は酒を好きなだけ飲みたいということなのだろうか。
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 ではキリスト教ではどうかというと、それについては更に浅学なので、私には正確なことは何一つ書けない。或るクリスチャンに話を聞くと、
 「キリスト教では飲酒そのものを禁じている訳ではないが、酔ったり依存したりすることは禁じられている。本人次第だが、自分をコントロールするのは難しいから、飲まないのが賢明。」
という答えが帰って来た。

 なるほど、そういえばイエス・キリストは水を葡萄酒に変えたり、有名な「最後の晩餐」では杯を取って、「これは私の血である。」と言って弟子たちに与えたりしている。教会や修道院でワインを寝かせているシーンは映画の中にも出て来るし、中部イタリアには、中世にヴァチカンへの旅をしていたゲルマン人司教が、その土地のワインの素晴らしさに感銘を受け、宿屋の看板に”Est! Est!! Est!!! (これ! これ!! これ!!!)”と思わず書きつけたのがそのまま銘柄の名前になった、という白ワインが今でもあるぐらいだ。

 日本とは違って水の悪いヨーロッパでは、飲み水の代わりにワインなどを飲む習慣が遥かな昔からあったのだから、キリスト教が酒の存在そのものを否定してきたとも考えにくい。飲むのは構わないが、酔って自己を失ったりアルコール依存症になったりするかどうかは、あくまでも自己責任ということなのだろう。
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 なぜこんなことを書き連ねているのかというと、自分の体の事情でこの一ヶ月ほど酒を全く飲んでいなかった、それが3日後には解禁になるからである。

 十二指腸に出来た腫瘍を内視鏡で切除する手術を10月末に受け、12日間入院。手術の前日から刺激物とアルコール類は摂取しないよう、医師から指示が出ていた。そしてその手術は無事に終わり、その後の経過も順調だったことから、先月の19日に受けた外来診療で、執刀医からあと二週間でアルコールも解禁とのご沙汰が出た。手術からちょうど5週間、連続35日間の禁酒というのは、社会に出てからは勿論のこと、自分の大学時代にもなかったのではないだろうか。

 入院の直前までは、この禁酒期間はさぞかし憂鬱なのだろうと思っていたのだが、実際に始まってみると、意外に淡々と日々が過ぎていった。医者から禁じられているのだから、と思えばあっさりと割り切れる。ノン・アルコール・ビールの助けを借りてはいたが、どうしてもアルコール入りの本物のビールを飲みたいという衝動にかられることもなく、寝つきが悪いなどということも全くないのは、自分でも不思議なぐらいだ。むしろ、酒のない生活というのは、これはこれで快適でさえある。

 そして更に不思議なのは、酒の解禁日が近づくにつれて逆に自分が不安にかられていくことだった。故あって酒のない生活をしばらく続けてきた自分は、自由の身になって箍(たが)が外れたらどんな風になってしまうのだろう。コーランがムスリムたちに飲酒を戒めていることには、やはり深い意味があるのではないのか、と。

 ただ単純に、手術の前の自分に戻るだけでいいのか?そのことを自らに問いかけ始めた自分が、ここにいる。
(To be continued)

八幡さま [宗教]


 京都・大阪間の地形は、北東から南西へと流れる川が作ったものと言えるだろう。

 京都の嵐山から南へと下ってくるのが桂川。宇治から西へと流れてくるのが宇治川。そして奈良盆地の方から北上して来るのが木津川。三方向から来た河川が、こんもりとした二つの山に挟まれた地点で一つに合流し、「淀川」となって南西の大阪湾へと流れて行く。京都・大阪間の地形の臍(へそ)ともいえるような場所だ。
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 その二つの山のうち、川の右岸にあるのは「天下分け目の天王山」。本能寺で信長を討った明智光秀と、四国攻めから踵を返した羽柴秀吉の両軍勢が激突した場所として知られる。もっとも、実際に戦闘があったのはこの山の東側の湿地帯であったそうなのだが。

 そして、三つの川を挟んだ反対側が男山。その山頂には神社があって、遥かな昔から人々の信仰を集めてきた。徒然草や今昔物語などにも名前が登場するそのお社は、石清水八幡宮。周囲は平地なのに突然ここだけ山の盛り上がりがある、何とも不思議な場所である。

 大阪の淀屋橋から京阪電車に揺られて約40分。八幡市(はちまんし)の駅を降りると、すぐ目の前に男山の緑が迫る。駅前のロータリーを過ぎて右へ折れると、商店が続くその先が神社の入口だ。大きな一ノ鳥居の真ん中には、「八幡宮」とだけ書かれた額束。シンプルだが無言の風格を感じる空間である。
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 古来、この男山の山頂近くには涸れることなく水の湧き出る泉があり、石清水社として人々に拝まれてきたという。それはいかにも日本古来の神さまのあり方なのだが、そこに九州の宇佐神宮から八幡神が勧請されてきたのは、清和天皇の御世になる860年のことだそうだ。

 そのずっと以前から、宇佐には渡来人である秦氏の一派が住んでいたという。自称、「秦の始皇帝の後裔」なのだそうだ。渡来後も、その暮らしぶりは大陸の匂いを残していたのだろうか。

 「仏教渡来の世紀である六世紀の半ば過ぎ、宇佐のかれらの集団のなかで、
  『八幡神』
という、異国めいた神が湧出した。」
(『この国のかたち 五』 司馬遼太郎 著、文藝春秋)

 それは欽明天皇32年(571年)のことだそうである。そして湧出した時、「われは誉田天皇(ほんだのすめらみこと)である。」と名乗ったとされる。誉田天皇とは第15代応神天皇のことだから、実在の人物の神霊が現れたことになる。

 「最初から人格神だったことで、当時の他の古神道の神々と異なっており、このあたりにも異文化を感じさせる。さらには、この名乗りによって、大和の宮廷は無視できなくなった。」
(前掲書)

 仏教伝来と同時期に現れた八幡神は、その仏教の普及に一役買うことになる。寺を建てる時、その鎮守の神さまとして八幡神が勧請されたというから、仏教側にしてみれば、相性の良い神さまが何ともタイムリーに現れたものである。そしてその後に神仏習合が進んでいく中で、八幡神は仏僧の形で描かれ(僧形八幡)、「八幡大菩薩」などと呼ばれるようになった。

 「この神は風変りなことに巫(シャーマン)の口を藉りてしきりに託宣をのべるのである。それももっぱら国政に関することばかりで、よほど中央政界が好きな神のようであった。」
(前掲書)

 中央の政治に係わるといえば、奈良時代の後期に、天皇になろうとした道鏡の企みを排する託宣を和気清麻呂に与えたのは宇佐の八幡神だった。そして今度は平安時代初期の859年、宇佐を訪れていた奈良・大安寺の僧侶に新たなご託宣があった。
 「吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん。」

 新しく拓かれた平安京。その鬼門(北東)に位置するのが比叡山だとすれば、裏鬼門(南西)の方角に屹立するのが男山だ。自らの意思によって、八幡神は宇佐からその男山へと勧請される。元からあった石清水社は摂社となり、八幡神が男山の主となった。以来、王城守護の神さまとして石清水八幡は篤い信仰の対象となり、歴代天皇の行幸、上皇の御幸は240余度にも及んだという。

 一ノ鳥居をくぐると、境内はまだしばらく平らで、頓宮を過ぎると右手に高良神社がある。これも石清水の摂社の一つで、よく知られている通り『徒然草』にその名前が登場する神社だ。このあたりの地域の氏神様でもあるという。
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(高良神社の鳥居)

 仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて(=心残りに思っていたので)、ある時思ひ立ちて、ただひとり、徒歩より詣でけり。極楽寺、高良などを拝みて、かばかりと心得て(=これだけだと思って)帰りにけり。
 さて、かたへ(=仲間)の人に会ひて、「年比思いつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎてこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん(=いったい何があるのかしら)、ゆかしかりしかど(=興味はあったけれど)、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず。」とぞ言ひける。
 少しのことにも、先達はあらまほしき事なり(=指導者というものが必要なのだ)。
(『徒然草』 第52弾)

 高校時代の古文の教科書にも載っていたこの話、なるほど、実際に現地を訪れてみると、この仁和寺の法師がいかに勿体ないことをしたのかがわかる。高良神社は、それはそれで賑わっていたのだろうけれど、石清水八幡宮そのものは、まだこれから参道を登って山の上まで行かねばならないのだ。

 その参道は森の中へと続く道で、それをせっせと登る。健康のためにここを歩くことを日課にしているようなお年寄りも見かける。順調に高度を稼ぎ、木々の間から見える民家はどんどん小さくなっていく。1月25日の今朝は結構冷え込み、吐く息も白いが、せっせと登っているうちに汗が出てきた。そして、下界から15分ほどで三ノ鳥居が現れ、本殿へとまっすぐに向かう石畳の平らな道になった。
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 左右に石灯籠の並ぶ石畳の道を進み、手水舎で手を清めて南総門の前に立つ。ここをくぐれば、いよいよ本殿の境内の中に入ることになる。その本殿は南総門からも見えているのだが、両者は一直線には並んでいない。(本殿がやや西を向いている。) それは、本殿への参拝が終わって南総門を出る時に、本殿に対して真正面にお尻を向けることがないように計算されているのだそうだ。
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 南総門をくぐる時に一礼をして、本殿に向かう。堂々たる社殿だ。そして拝殿の左右の柱に取り付けられた、矢をかたどった巨大な飾りが目を引く。こんな神社は今までに見たことがない。
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 八幡神がここに勧請されたのは、前述のように860年のことだ。それが清和天皇の御世であったから、八幡神は源氏の氏神となった。この石清水で元服して「八幡太郎」を名乗った源義家は、その象徴といえるだろう。その後、頼朝は鎌倉の鶴岡に八幡宮を建てるに際し、八幡神をここから勧請した。源氏の血筋である足利尊氏が北条を討つ、その旗揚げを行った丹波の篠村八幡宮も、やはり石清水から八幡神が勧請された神社である。

 源氏の氏神になったことで、八幡神は「武運の神様」としての色彩を強めていったのだろう。ここ石清水八幡宮の「名物」といえば、八幡御神矢だ。

 「八幡大神様の用いられる御矢は、破邪顕正・一発必中(邪悪な敵をうち払い、正しきを守り、狙った的に必ずあたる)の霊験(れいげん)あらたかな御神矢(ごしんや)として様々な奇瑞を顕し、多くの古典にも登場します。その故事にちなみ、当宮では八幡大神様の御神威がこもった厄除開運・必勝・家内安全・商売繁盛の「おふだ」として授与しています。」
(石清水八幡宮のHPより)

 要するに、普通の神社の「おふだ」に相当するものが、ここでは矢なのだ。元旦から節分までは初詣の期間とされているから、1月下旬の今はまだその期間に入る。境内では若いカップルが御祈祷を受け、その八幡御神矢を授かっていた。

 仁和寺のお坊さんもいつかは行ってみたいと思っていたという石清水八幡宮に、私は今回やっと足を運ぶことができた。八幡市の駅から歩いてきたが、ケーブルカーもあるので、それを利用すれば片道わずか3分だ。
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 今では八幡社が全国に44,000社もあって、私たち日本人にとっては最も身近な神社の一つなのだが、ここ石清水八幡は、他のどの八幡社よりも印象的だ。そのいささか武張った姿を眺めながら、八幡大神が新たに平安京の守護役を買って出た、まだ武士という言葉もなかった時代のことを、ちょっぴり思ってみた。

神さまと向き合う日 [宗教]


 2014年1月1日、午前零時。NHKテレビの「行く年来る年」と共に、我家は一家四人で新しい年を迎えた。

 大晦日の月齢は28.1だから、針のように細い月が日没時に西の空低くにかかり、それはすぐに沈んでしまったはずだから、今夜は殆ど闇夜のようなものだ。近くの寺の除夜の鐘の音だけが夜空に響き、彼方に聳え立つ東京スカイツリーには、展望台の下に2014の文字が見えている。

 ともかくも、一家四人でつつがなく年明けを迎えることが出来た。そのことを喜び合った後、家内と私は近所の寺へ真夜中の初詣に出かけることにした。大晦日はどうしても、夕方わりと早くから食事を始めてしまうから、その時に飲んだ酒からも、この時刻にはもう醒めている。このまま眠ってしまう前に、少し体を動かしたいという思いもあった。

 家内と二人、家の前の坂道をゆっくりと登り、大通りを15分ほど歩いていくと、交差点の左手に寺の山門が見えて来る。今夜はライトアップが施されていて、いつになくその山門は立派だ。無量山傳通院寿経寺、徳川家康ゆかりの寺である。
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 私たちと同様、年明け早々の初詣に訪れている人々も多く、山門の先には拝殿に向かって行列ができていた。篝火(かがりび)が明々と境内を照らし、拝殿もライトアップされて夜空に浮かんでいる。今夜の傳通院はやはり特別だ。左手の鐘楼堂では、家族連れで除夜の鐘を突く人々の列が続いている(但しこれは有料)。

 傳通院のご本尊は阿弥陀如来だそうである。(浄土宗のお寺なのだから当たり前か。)

 厳しい修行の末に悟りを開いて如来になられた阿弥陀さまは、本来であれば純粋に尊敬の対象なのだろう。ところが、浄土教系の宗派が「ただ念仏を唱えるだけで、修行をしなくても極楽往生が出来る」と説いて在家信者を集めたものだから、極楽往生を願う人々にとって、そのことを頼み込む対象になった。だが、世の中から戦乱がなくなった江戸時代以降は、人々の阿弥陀さまへのお願い事も、極楽往生ばかりではなくなっていった筈である。
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 現代の私たちは、初詣の際に実に様々なご利益をお願いしている。だが、そのために傳通院にお参りしても、それらは阿弥陀さまとは本来何も関係のないことだし、そもそも拝んでいる相手が阿弥陀さまであることも、私たちはまず意識することがない。「ここはお寺だから柏手は打たない」というぐらいの配慮がせいぜいのところだろう。

 ならば、私たちは仏様と日本の神さまとを本質的には区別していないのだろうか。そういえば、初詣で神社とお寺をハシゴすることは普通にあるが、場所によってお願い事を使い分けたりはあまりしていない筈だ。多くの受験生たちは湯島天神へお参りに行くが、ついでに寄った他の寺社には入試合格のお願いをしないのかというと、そんなことはないに違いない。とすれば、私たちの意識の中にある仏教の諸仏は、実際にはこの国に古来おられる八百万(やおよろず)の神々の一部に過ぎないのではないだろうか。

 しかも、そうした日本の神様を祀る神社を訪れる時も、八百万の神さまの中のどなたを拝もうとしているか、その神さまの名を意識することは、まずない。「ない」と言えば、日本の神道は「ない」ことだらけの宗教だ。

 「神道では教義というものがほとんど発達していない。(中略)一般の人たちがそれを実践することで救いを得られるような、そうした分かりやすい教義が神道の世界では生み出されていないのである。」

 「私たちが神社で祈りを捧げるとき、『家内安全』や『商売繁盛』、あるいは恋愛や結婚の成就、学校への合格が実現されることを願う。けれども、この祈願だけで終わってしまい、神社やそこに祀られているはずの神は、それ以上救いのための手立てを与えてはくれない。」

 「さらに神道は、人生の根本的な問題に対する究極的な答えを与えてくれるわけではない。宗教は一般に、人々の悩みや苦しみの解決に役立つことをその役割としているが、こと神道に限っては、それを期待することができないのだ。」

 「一般の参拝者は、拝殿まで入ることができても、本殿や正殿のなかに足を踏み入れることはできない。もっとも、たとえ本殿や正殿のなかに入っても、直接神の姿を見ることはできない。神の姿を象った神像なども存在せず、あるのは、神が宿っているとされる鏡や御幣などの依代だけである。」

 「神道や神社は、その中身を探っていけばいくほど、決定的なものがない。あってしかるべきものが欠けているという事態に直面する。
 その点では、神道という宗教の本質は『ない』、あるいは欠けているというところにあると言いたくもなってくる。」
(『神道はなぜ教えがないのか』 島田裕巳 著、ベスト新書)

 そういう宗教だから、私たちは神さまにお願い事をするといっても、全くの他力本願で福を得ようとしている訳ではない。この世の中の殆どのことは、自分で努力しなければ成就しないことばかりだ。それを十分承知の上で、私たちは寺社へお参りにいく。お正月にはそうするものだし、受験日が近くなれば改めて参拝をする。そして、無事に合格したらお礼参りに再び訪れる。そんな時の神さまは、私たちにとっては近寄るのも畏れ多い崇高なものというよりも、目には見えないが普段から私たちを見守っていてくれる、どこか「ご先祖さまの霊」に似たような存在ではないだろうか。
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 そして、日本の神道が他の宗教と最も大きく異なるのは、実在の人間が死後になって神さまに祀り上げられることだろう。キリスト教では殉教者や大きな業績を残した宗教者などが「聖人」として信仰の対象になっているが、誰を聖人とするかは教会側が決めている。それに対して我国では誰を神さまとして祀るかということには原則も権威もなく、徳川家康や豊臣秀吉をはじめ、様々な人物が神さまになった。

 そればかりではない。明治2年の6月に明治天皇の思し召しによって建てられた東京招魂社は、(官軍側に限られたものであるにせよ)幕末維新の戦役で国事に殉じた軍人・軍属を英霊として祀ったものだ。明治12年には「靖国神社」に改称され、以後の戦役のたびに英霊が追加されてきた。現在246万柱を超える英霊のうち、213万超が太平洋戦争、19万超が日中戦争によるものであるという。「英霊が眠る」とよく言われるが、彼らは全て靖国の祭神なのだから、ここは墓地ではなくて神社なのである。とすれば、その神さまは他の神社の神さまよりも更に、「ご先祖さまの霊」に近いものだろう。それも特定の氏姓に限るのではなく、より広く緩やかな「ご先祖さま」の概念である。

 こういう経緯で成立した神社だから、靖国を訪れてその拝殿に向かった時に、私たちが手を合わせて胸の中で思うことは、他の神社にお参りした時とは自ずと異なるものになる。そして、手を合わせる対象はそこに祀られている英霊だけでなく、戦時中に空襲などで命を失った一般市民のご先祖さまたちにも思いが及んでいる。その時に湧き上がる厳粛な思いは、安倍首相も私たちも、基本的には変わらないのではないだろうか。
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 戦後68年間、民主主義の下で私たちには思想信条の自由が保障され、法の支配の下で公正な社会作りを目指してきた。私たちが受けた教育の中で、靖国には参拝するものだと教えられたことなど一度もないし、戦前の日本を意図的に美化するような教育を受けたこともない。(事実はむしろその逆だった。) にもかかわらず、お正月にこれほど多くの人々が靖国神社を訪れ、拝殿に向かって長蛇の列を作る。それをもって「日本社会の右傾化」だとするのは、何とも的外れな主張と言わざるを得ない。

 外国人には解り難いに違いないが、私たちにとっての、拝殿の向こうの神さまとはこういうものなのだ。神道の形式を取ってはいるが、「祖先崇拝」の要素を多分に含んだものである。英霊を祭神として祀っているとしても、その一人一人が西洋的な意味で「神格化」されている訳では決してない。春夏秋冬、折に触れて参拝し、何かを報告し、何かを誓い、この国や世界の平安を願い、そんな私たちのことを見ていて欲しいと思う、そういう対象なのだ。

 そして、そういう民族の伝統と、20世紀の戦争への反省とは、それぞれ別の事柄である。

 元日の未明に傳通院に初詣をし、帰宅して一眠りした後、朝日が昇ってからは一家で神田明神と湯島天神へ。そして三日には家内と二人で谷中の七福神巡りをして、最後に靖国神社を訪れた。中でも七福神は、目には見えない他の神さまとは違って、例外的にご神像が置かれている。そのわかりやすさと現世利益の生々しさが、いかにも庶民信仰の対象である。

 初詣に出かけた神社では、どこも数多くの参拝者が長い列を作っていたが、神さまの前だから、その列も粛々と進む。坪鈴を鳴らし、二礼二拍手一礼。たった一枚のお賽銭ながら、つい何かとお願い事を託す。(それは殆どの場合、家内の方が多い。) その一つ一つを聞いておられるのかどうかはともかく、谷中の青雲寺の恵比須さまは、釣り上げた鯛を抱えて今年もどこかユーモラスな表情だ。
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 数多くの神さまにお参りをしたお正月。日本に生まれてよかったと、改めて思った。

仏に満ちた宇宙 [宗教]


 事前にそういう内容の長期予報が出ていたから、ある程度の覚悟はしていたのだが、今年の夏は、とにかく暑い。

 8月12日(月)から14日(水)まで、会社の夏期一斉休暇があったので、前週の土日を含めると私は五連休になった。昔から我家では、夏のお盆の時期は遠出をせず、静かな都心を楽しむことが常だったから、今年もそのパターンに終始したのだが、それにしてもこれほど暑くてどこにも行く気がしなかった年も珍しい。

 中でも11日(日)は、東京都心で観測史上初めて最低気温が30度を下回らなかった日として記憶に残ることだろう。この日は我家の家族と妹の一家が揃ったので、実家の母を招いて外でランチをした。マイカーでの移動だったし、ランチの場所は都心の高層ホテルだったから、東京都心の最高気温が今年のレコードの37.3度となったこの日の暑さは、実はそれほど体感していない。午後のわりと早い時刻に雷雨になったので、その直後はスッと気温が下がったのだが、それが止むとまた気温が34度近くまで上がったことが、何より今年の夏を象徴している。

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(休みの間は暑かった!)

 休みの日に天気が良ければ外を歩き回ることが多い私も、さすがにこの休みの間は屋内で過ごしてばかり。そのおかげで家の中の片づけが思った以上にはかどったりもしたのだが、まあそれでも、休みの最終日になると、家内と短時間でもどこかへ行こうかという話になり、青山の根津美術館へ出かけることにした。今は『曼荼羅展 - 宇宙は神仏で充満する!』という展示会を開催中である。「夏のひととき、崇高で力強い、仏画の宇宙をご体感ください。」というコピーに、何となく魅かれるものがあった。根津美術館というと、毎年決まった季節に公開される尾形光琳の燕子花図で有名だが、根津嘉一郎のコレクションには仏教美術も数多く含まれており、今回のような展示企画が珍しくない。
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 午前11時少し前、ここ数日の間では暑さもまだマイルドなうちに、メトロを乗り継いで根津美術館へ。その入口に続く長い竹垣と玉砂利への打ち水が涼しさを演出してくれる。
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 展示室に早速掲げられた、大きな曼荼羅。いうまでもなく仏教、それも密教において、その世界観や仏の悟りの境地などを幾何学的な構図の絵にしたものだ。それが二つ対になった「両界曼荼羅」というのが最も有名で、二つの異なる経典をもとに、大日如来を中心に数多くの尊像が秩序正しく並び、それぞれに仏の世界観を表しているという。「金剛頂経」に基づく「金剛界曼荼羅」と「大日経」に基づく「大悲胎蔵曼荼羅」の二つである。
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(金剛界八十一尊曼荼羅)

 仏の世界観といっても、曼荼羅に描かれている一つ一つが何なのかは、じっくり説明を受けないと私などにはわからないが、古代の日本に密教が入って来た頃、人々はこうした曼荼羅のありがたさについてどんな解説を聞いたのだろう。書籍や映像で実に数多くの事物を知る機会のある現代人とは違って、古代や中世に人々が曼荼羅などを見る機会などは極めて限られていたはずだ。そのミステリアスな世界に、現代の我々よりも遥かに強い感受性と想像力を持って、当時の人々は引き込まれていったのではないだろうか。

 「真言密教は自らの思想を曼荼羅で表す。曼荼羅の中央には大日如来がいて、大日如来がいかに千差万別の姿をもつ個々の仏に具現するかを示す。この点、周辺の仏が中央の毘盧遮那仏と同じ姿で現される華厳とは異なる。いってみれば、多の一といっても、華厳では一が強調されるのに対し、密教では多が強調される。多を強調することは個体性の重視であり、密教は欲望や感覚を強く肯定する。」
(『梅原猛、日本仏教をゆく』 梅原 猛著、朝日文庫)
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(大日如来以外の尊像が中心になることも。これは愛染曼荼羅)

 密教といえば、日本に伝えられたのは9世紀の初め頃。いうまでもなく最澄(767~822年)と空海(774~835年)の活躍による。最澄は還学生(げんがくしょう)、空海はより長期の留学生(るがくしょう)として入唐。それぞれに仏法を学んで帰国するが、密教の奥義を深めたのは空海の方であったそうだ。

 奈良仏教が鎮護国家のための仏教であったとすれば、都が平安京に遷った頃に仏教に求められたのは呪術的な要素であったという。当時は怨霊が本気で恐れられた時代。折しも平城天皇と嵯峨天皇の対立により「薬子の変」が勃発。この政争に敗れた平城一家の怨霊が嵯峨天皇の心痛の種になるのだが、空海は真言密教の呪術によってこれを見事に鎮魂し、嵯峨天皇の厚い信頼を得たという。

 数々の加持祈祷があり、護摩の煙の向こうの暗闇にご本尊がおわす密教。何やらオカルト的なその姿が(貴族が主体ではあったが)当時の人々の信仰を集めたのも、もっともなことだろう。仏教の世界観をビジュアル化した曼荼羅も、その大道具の一つであったに違いない。

 「原始仏教以来の根本原理の一つに無我の原理がある。一切の存在は自我のような固定的な実体性をもたないというものである。言いかえれば因果性を離れた永遠の存在はありえないということである。この原理が大乗仏教では『空』とよばれ、やはり最も中心の原理とされる。ところが、密教の絶対者大日如来は永遠の宇宙的実体であり、それまでの仏教の仏が究極的には空に帰するのと根本的に異なっている。瞑想のなかで自我がこの宇宙的な大日如来と一体化することにより、自我も絶対性を獲得できるというのである。(中略)ともかくも従来の仏教の無我・空のもつ現世否定性が消えて、密教においては顕著な現実肯定性が支配するようになっている。」
(『日本仏教史』 末木文美士 著、新潮文庫)

 「(中略)ちょうど最澄が戒律に対して大乗と小乗の区別を厳しくたてたように、空海は密教以外の教えを大乗も小乗も一緒にして顕教とよび、密教と顕教とを峻別して究極の真理性を密教にのみ認めている。」
(前掲書)

 「密教の絶対者大日如来」という部分を理解していないから、私はただ漫然と曼荼羅を眺めるしかないのだが、前掲書の著者の指摘を汲み取れば、空海の真言宗に代表される密教の登場は、日本の仏教史上において一つの大きなマイルストーンであったのかもしれない。
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(大日如来像)

 更にいえば、真言密教によって日本古来の神様と外来の仏とが融合したことも、特筆すべきことだろう。

 「東寺の境内にある鎮守八幡宮は平城一派の人々の怨霊の鎮魂のために空海が建てたものとされるが、そこに空海が造ったという僧形八幡神像がある。僧形八幡像というのは宇佐八幡の主神、応神天皇が僧形になったものであり、これほど神と仏の合体を明らかに示すものはない。」
(『梅原猛、日本仏教をゆく』 梅原 猛著、朝日文庫)

 この展示会にも「垂迹(すいじゃく)曼荼羅」の実例として、春日大社や日吉山王神社の祭神を垂迹神(本地仏が神の姿で現れたもの)として曼荼羅風に描いたものが展示されていた。日本人の「神様仏様」という思考回路は、このあたりから出来上がったものなのだろうか。

 それにしても、根津美術館は涼しい。平日だったから館内も適度に空いていて、曼荼羅の数々を、時にはベンチに腰を下ろしながら、家内と二人でゆっくりと眺めることができた。仏画の宇宙が涼を運んでくれたかどうかはともかくとして、我々の祖先が残してくれた精神世界と向き合ってみるのも、たまにはいいものである。

 一時間ほど滞在した美術館から外に出る。時計は正午を回ったところだった。

 「暑いなー。」
 「お腹空いたね。」

 曼荼羅の宇宙から現実に戻った私たちは、体が欲するものを満たすために、メトロの駅へと再び向かった。
 

禅宗の革命 [宗教]


 黒地の画面いっぱいに描かれた、額の長い男の半身像。僧衣の赤色と野太い輪郭の黒が印象的だ。男は異様なほどのギョロ目で、その眼光は鋭い。「直指人心 見性成仏」などという賛が書かれているから、これは禅画なのだが、それにしては男の顔はどこかコミカルだ。
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 江戸時代中期の禅僧・白隠慧鶴(はくいんえかく、1685~1768年)が描いたこの男は誰あろう、禅宗の開祖、菩提達磨(ホーディダルマ)、つまり達磨さんである。

 現在の静岡県沼津市に生まれた白隠は、15歳で出家。19歳で全国行脚に出て、24歳の時に信州・飯山で正受老人から厳しい指導を受け、ある時に悟りを得る。やがて神経を病むことになったが、それを呼吸法で克服。京都・妙心寺の末寺にあたる地元の寺で僧としてのスタートを切った白隠は、いつしかその妙心寺の第一座となり、後進の指導にあたるようになった。

 悟りを得た後の厳しい修行を重視し、在家信者の指導にも精力的にあたり、一万点を超えるとされる書画を残し、八十余年の生涯を生き切った、「臨済宗の中興の祖」白隠。彼の作品をまとめて紹介する展覧会が、東京・渋谷のBunkamuraで開かれている。優れた企画である。

 個々の作品が寺の中に置かれているのと違って、これだけの数の白隠の作品が並ぶと、それは紛れもなくアートになる。驚くべきことに、白隠は誰かに絵を習ったようなことはなく、全て自己流なのだそうだが、構図といい筆遣いといい、剛毅なようでも実は繊細な気配りが随所に感じられ、見ていて思わず唸ってしまう。
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(これもまた達磨)

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(「一富士二鷹三なすび」 鷹は羽だけというのがご愛敬)

 臨済宗では、お師家(しけ)さんから修行僧に対して与えられる、「公案」という問いかけが重視されるという。いわゆる「禅問答」と呼ばれるもので、論理を超えたその内容は傍目にはチンプンカンプンなのだが、白隠が残した大きな業績の一つが、古代から伝えられてきた多数の公案を整理・体系化して、教育のプログラムを確立したことにあるそうである。

 「両手を打ち合わせれば音がする。では、片手ではどんな音がするのか。」

 これは、白隠オリジナルの「隻手音声(せきしゅのおんじょう)」という有名な公案である。もちろん私にはその意味するところは解らない。仏教の入門書にはそれ相応の解説が載ってはいるが、それで解ったつもりになってはいけない。要は、こうした公案をきっかけにしながら己(おのれ)を見つめ、しかもそれに没頭する(「なりきる」という言葉がよく使われる)のが禅というものなのだろう。
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 仏教の入門書といえば、以下のようなエピソードが必ず出て来る。

 釈迦はある時、北インドの霊鷲山で説法をすることがあった。ありがたいお話があるというので多くの弟子たちが集まったのだが、釈迦はいつまでたっても口を開こうとしない。そのうちに梵天(ブラフマン、仏教の守護神)がきれいな蓮の花を捧げると、釈迦はそれを手に取って無言のまま人々に示した。誰もその意味がわからない。すると、弟子たちの中で唯一人、高弟の摩訶迦葉(マカカーシャパ)が釈迦の意を悟って微笑む。そして釈迦はやっと口を開いた。

 我に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙(みみょう)の法門あり。
 不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)にして、
 摩訶迦葉に附嘱す。

 私には、正しい仏法の教えの真髄である涅槃妙心(悟りの不思議な心)と実相無相(物事に執着しない自分自身)という微妙な教えがある。
それを今、文字によらず、言葉によらず、心を通して摩訶迦葉に授けた。迦葉よ、頼んだぞ。

 「拈華微笑(ねんげみしょう)」という話で、釈迦の教えは、こうして迦葉へ、そしてその次の弟子へと、「以心伝心」で継承されていったという。そして、釈迦から数えて28代目になる弟子が、白隠が何度も描いた達磨さんである

 達磨は西暦520年に中国に渡り、山奥の少林寺で岩壁に向かって9年間も座禅を続けたとされる。その間、弟子を取らなかったが、自らの左肘を切り落として求道への決意を示した神光慧可(じんこうえか)だけが入門を認められた。そして、達磨が慧可に残した

 「釈迦から伝わった正法を授け、その印として袈裟を与える。私の教えは五つの葉となって栄えるだろう。」

との言葉の通り、達磨の6代目の弟子・大鑑慧能(だいかんえのう)の登場以降、唐王朝の時代に中国の禅宗には五派(臨済、曹洞、潙仰、雲門、法眼)が形成され、そのうちの臨済宗と曹洞宗が長年にわたって法門をつないでいくことになる。
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 唐王朝も末期に近づき、中国の政情が不安定になると、日本は遣唐使を廃止(894年)。このため中国仏教とは疎遠な時期がそれから続き、いわゆる国風文化が発展していくのだが、再び中国仏教との接触が深まっていくのは12世紀の後半ことになる。中国では宋王朝が北方からの異民族の侵入に悩まされ、日本では貴族から武士へと政治の担い手が替わりつつあるという、共に動乱の時代であった。

 この、宋代の末期から元の時代、そして更には明王朝が興った頃にかけて、臨済宗の系譜だけを見ても、日本からは多くの僧が中国に渡り、そして蘭渓道隆や無学祖元のような中国僧が日本に招かれた。その過程で日本の臨済宗には14の宗派が形成されることになる。(これら14派にはそれぞれの本山がある。)
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 ただ、禅宗は日本では新興の仏教であったために、既存の天台宗などとの摩擦を避けることに当初は配慮せざるを得ず、特に臨済宗は同じく新興勢力である鎌倉幕府にアプローチしてその存在を確立していった。それを受けて鎌倉五山が定められ、次いで室町時代には京都五山が定められた。そうしたプロセスを経て、臨済宗はこの国のエスタブリッシュメントになっていく。

 ところが、その臨済宗の中にも野党的な系譜があった。五山には入らない大徳寺や妙心寺の系統だ。南浦紹明(“大応国師”)、宗峰妙超(“大燈国師”、大徳寺の開山)、そして関山慧玄(“無相大師”、妙心寺の開山)の三人から一文字ずつを取って「応・燈・関の一流」と呼ばれる系統で、いずれも権力に媚びず、厳格清貧、純粋な禅を貫いた人々だ。そして、面白いことにこの野党の方がその後の歴史の中でしっかりと法脈をつなぎ、他を圧倒してしまった。それを可能にしたのが白隠の存在だったのである。
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(白隠が描いた大燈国師(部分))

 「臨済宗の寺院は現在七千ほどあるが、その半分の三千五百ほどの寺院は妙心寺派に属する。白隠は妙心寺の末寺の僧であるが、驚くべきことには、この白隠の禅が妙心寺、大徳寺ばかりか、『五山之上』の南禅寺や、天龍寺などの京都五山、及び建長寺や円覚寺などの鎌倉五山をも席巻し、現在の臨済禅の老師はすべて白隠の系統に属する。江戸時代に禅仏教において革命が起こったといわなければならない。」
(『梅原猛、日本仏教をゆく』 梅原猛 著、朝日文庫)

 中国も日本も動乱の時代であった、臨済禅が日本に伝わった頃とは異なり、白隠の生きた江戸時代中期は平和の続いた時期で、徳川幕府が定めた寺請制度によって、仏教寺院というのはある意味でリスクのない存在になった。日本の仏教が葬式仏教化したと言われる所以だが、そんな時代に登場し、制度に安住せずに敢えて禅宗に「革命」を起こした白隠。その存在は、ともかくも戦争のない時代に慣れ切ってしまった現代の私たちに多くの問いを投げかけているように思う。

神様が命じた断食 [宗教]

 ‘90年代半ばの、ある年の夏のことである。私は仕事でマレーシアの首都クアラルンプールを訪れていた。現地の或る政府系企業を相手にしたビジネスがあって、当事者間での契約書の調印セレモニーに出ることが目的だった。

 ホテルの小ぶりなパーティー・ルームに数十人が集まり、まずは参加各社の代表者たちによる契約書への調印作業。それがテキパキと終わり、すぐ隣のレセプション会場に全員が移動したのは、予定より少し早い時刻ながら、それでもKLの街に夕暮れの迫る頃だった。

 この手のレセプションでは、乾杯はシャンパンと相場が決まっている。お酒を飲めない人はジンジャーエールか何かだ。いずれにしても、調印自体は滞りなく終わったのだから、もう何時でも乾杯に入れる態勢にあった。

 すると、レセプションの主催者を代表してその政府系企業の幹部が空のシャンパン・グラスを手に壇上に立ち、にこやかに語り始めた。浅黒い顔に口ひげをたくわえた、いかにもマレー人の風貌である。
 「皆さんのご協力のおかげで、調印は無事に終わりました。しかし、予定より早く終わったのでまだ日没には少しだけ時間があります。従って、まずは空のグラスで乾杯だけを始めましょう。」

 会場では誰もが事情を察しているから、特に違和感もない。ともかくも空のグラスで乾杯の真似事だけをして、しばらくはテーブルの上のビュッフェにも手をつけず談笑をすることになった。要するに、この日はイスラム教におけるラマダン(断食月)の真っ最中だったのである。
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 ラマダンという言葉の本来の意味は、「イスラム暦の第9月」なのだそうだ。その一ヶ月は日の出から日没までの間、飲食を絶つべしというのが、コーランにも記載のあるムスリムが守るべき五つの行の中の一つなのである。(その代わり、日が沈んだらいくら飲み食いをしても構わない。) そしてイスラム暦は純粋な太陰暦で、一年が354日ほどだから、太陽暦との間ではラマダンの時期も年々ずれていく。

 なぜ15年ほども前のクアラルンプールでの出来事などを思い出したかというと、今年は7月20日から始まったラマダンが、ロンドン五輪の開催期間と完全に重なってしまったからである。イスラム諸国から五輪に参加する選手たちは、大会期間中もラマダンを続けるのだろうか。もしそうだとしたら、それはさすがに競技結果にも大きな影響があるだろう。まして高緯度の英国へ行けば、夏は昼間の時間がとても長いのだから。

 だが、「信仰告白」、「礼拝」、「喜捨」、「断食」、「巡礼」の五行は神様が決めたことで、コーランにもその記載があるのだから、信者はそれを守らなければならない。「今月は大会中だから、僕はラマダンを来月に回そう。」などということを信者が勝手に決めることはできないのである。ならば、選手達はどうすればいいのだろう。

 そんなことを何となく考えていたら、関連する記事がやはりネットにも出ていた。ムスリムとして断食を守らなければならないという思いと、競技に勝ちたいというスポーツマンとしての心理の間で、選手たちは苦悩し、揺れ動いているというのである。エジプトなどでは、「大会に参加する選手は断食を免除される」という宗教見解がわざわざ出されたという。私たち日本人には、ちょっと想像の及ばないことである。
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 私はかつて、香港からアジアの各国へ出かけて行って仕事をすることが多かったのだが、マレーシアやインドネシアなどへ出かけるたびに、イスラム教のプレゼンスの大きさを認識したものだった。そして同時に、そのことが不思議でならなかった。

 イスラム暦では、一ヶ月の始まりは新月の日の日没である。要するに日が沈んでから一日が始まるわけだ。(そう言えば、イスラム諸国の国旗には三日月と星が描かれていることが多い。) そして豚肉を食べず、酒を飲まず、未亡人の救済のために一夫多妻を認めている、イスラム世界のそうした姿は、「砂漠の宗教」そのものである。それが、13世紀以降に東南アジアへの浸透が始まったという。広く明るい海があり、雨も多く、熱帯林の緑豊かなこの地域で、なぜ砂漠の宗教がこれほどまでに根付いたのだろう。私はそのことについて、今もなお納得できる説明に出会ったことがない。

 ムスリムにとって何よりも大切なコーラン。それはアラビア語で書かれたものでなければコーランとは認められないという。ならば、インドネシアやマレーシアのムスリムはアラビア語が皆わかるのだろうか? 私はある時、仕事の上での会食で一緒になったインドネシア人にそのことを尋ねてみた。答えはこうだった。
 「全員がアラビア語を理解できる訳ではもちろんないけれど、敬虔な人は勉強して、アラビア語のコーランを読んでいますよ。」
 このあたりがイスラム教のイスラム教たる所以だろう。

 それでも、東南アジアにおけるイスラム教のあり方は、サウジやイランのそれとは大きく異なるものだ。お祈りで生産活動が止まるわけではないし、女性はベールを被っても顔をしっかりと出している。何よりも、世俗の政治は政府と議会が行なうものであって、そこに「宗教指導者」が口を出すことはない。政治の最高責任者はあくまでも大統領や首相だ。「何事もコーランに忠実に」という立場から見ればケシカランということになるのかもしれないが、啓示宗教でありながらこうした「緩さ」があちこちに見られるところが、やはりアジアのフレーバーなのかもしれない。
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 一般に、国の近代化が進み、経済社会が発展して日々の暮らしが豊かになり、そして国民の間に教育が普及するにつれて、人々は「神様」から離れていくものであるらしい。先進国はどこもおしなべてそういう歴史をたどってきたと言える。新たな科学技術の開発やビジネスに成功することが世俗の「幸せ」を実現する主体になると、神様の居場所はなくなってきたのだ。

 ところが、そんな時代にムスリムだけは世界中でその人口が増え続け、「原理主義」的な信者も増えているという。軍事力を背景にした開発独裁型の政権が倒れ、代わりにイスラム政党が台頭する国々も出てきている。お釈迦様もキリストも忘れられつつある中で、アッラーの神だけは、まだまだ元気なのだ。

 日の出から日没までの間に続ける断食。それを一ヶ月も続けるというのは苦しいものであるらしい。飢えや渇きは人間にとって切実な苦しみである。だが、それをわざと我慢することで、断食を命じた神様のことを考える。ポイントはそこにあるようだ。そしてそれは、食べる物もない貧しい人々の苦しみを体感し、彼らへの支援を考えることにもつながるという。「格差社会」の中でひとりイスラム教が元気な理由は、このあたりの明快さにもあるのだろうか。

 「アラブ首長国連邦(UAE)から参加する柔道のヘミード・ドリエ選手(19)は、『私が何をしようと、断食をしようとしまいと、アラーの神は私とともにある』 『一番大切なのは神を信じてベストを尽くし、勝っても負けても神に感謝することだ』と話している。」
(『断食守るかメダルか、ラマダン中の五輪に悩むイスラム選手』 CNN.co.jp 7月24日8時42分配信記事より)

 一神教の世界は私たち日本人の大多数にはいささか縁遠いものだが、時にはこうした神様のあり方について考えてみるのも、いいかもしれない。

帰り道 (2) 立石寺 [宗教]


 仙台から快速電車に揺られてほぼ一時間。JR仙山線の山寺駅で降りると、吹く風がさらっとしていて心地良い。空の青も山の緑も一段と濃いようだ。ホームの上で思わず深呼吸を一つした。

 駅の前には小さな広場。振り返れば駅舎は和風のレトロな建物だ。その前にあるクラシックな郵便ポストが建物によくマッチしていて、何やら金田一探偵が頭を掻きながら改札口を出て来そうである。
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 再び前を向くと、川の向こうに山の尾根が横たわり、岩の上に小さなお堂が乗っている。宝珠山阿所川院立石寺、通称「山寺」。一言でいえば、山の南斜面全体が一つのお寺なのだ。山の中にある幾つもの建物を結んで、境内には延々と石段が続いている。
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 参拝が出来るエリアで一番上にある大仏殿と奥之院までは、ここから徒歩で往復2時間かかると駅員さんは言う。次に乗る予定の山形行きの電車まで、私には1時間23分しかないが、早足で歩けば何とかなるだろう。こんな時のために、普段から週末の山歩きに出ているのだから。
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 駅前から橋を渡り、道路沿いの商店街を通り抜けて境内へ。天台宗のお寺だからまずあるのは根本中堂だ。そしてその先に日枝神社があるのも、日吉大社が比叡山延暦寺の守護神となっているのと同じである。そして山門からいよいよ山の中へ。あたりには老若男女が大勢・・・と言いたいところだが、「若」は残念ながら少なくて、バス旅行のお年寄りが圧倒的に多数である。

 立石寺を訪れるのは、私にとっては学生時代の夏以来、実に35年ぶりのことだ。あの夏は確か、梅雨明けと共に穂高の山の中で暮らした後、お盆の頃から旧友のT君と飯豊連峰に登った。その帰りに山形市内の彼の下宿に転がり込み、そこで何日かを過ごしている間に、電車に乗って山寺へ来たのである。

 忘れてしまっていることは多いものだ。山の中に続く石段をせっせと登りながら、当時の記憶を私は手繰り寄せようとしている。だが、石段を延々と登ったことや、大きな岩が断崖絶壁を作っていたことは概念として覚えていても、具体的にどんな姿かたちだったかという記憶はちっとも甦ってこない。何せ若い頃のことだ。目に映るものが今とは違っていたのだろう。穂高でも飯豊山でもT君と一緒だったから、立石寺に来ても、この岩壁は登れるだろうかなどと良からぬことを二人で考えていたのかもしれない。
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 立石寺のご由緒は9世紀に遡り、清和天皇の勅願に基づいて慈覚大師円仁(794~864年)が860年に開いたとされる。

 円仁は最澄の愛弟子で、838年から約10年間にわたり唐に留学。帰国後すぐに第三代の天台座主に就任した。日本天台宗はその後二つに分かれて対立し、第五代座主・円珍の系統が比叡山を下りて三井寺を根拠とする「寺門派」を形成するのだが、いずれにしても、この円仁・円珍の存在によって日本天台宗は姿を変え、密教の要素が大きく取り込まれていくことになる。

 「最澄そのものは『法華経』の強い信者であったが、仏教が国家鎮護の役割を引き受けるときに、やはり加持祈祷によって呪力を発揮する真言密教がどうしても必要であった。しかし密教の理解において最澄は空海に劣り、空海に教えを請わねばならなかった。それゆえ最澄の弟子たちは密教を本場の唐で学び、密教においても天台宗を真言宗の上に置こうとする強い願望をもった。」
(『梅原猛、日本仏教をゆく』 梅原猛 著、朝日文庫)

 確かに、日本に伝わった仏教に9世紀になって密教が入って来ると、寺は次第に平地から山の中に入り、伽藍配置も大陸風の左右対称ではなくて、自然の地形を活かした変幻自在なものになっていく。護摩を焚き、加持祈祷によって呪力を発揮したり魔を封じたりするためには日本的な「おどろおどろしさ」が必要で、仏教伝来以前から日本人が神威を感じてきた山や岩、杉の木立といった舞台が必要だったのだろう。

 立石寺の境内(というよりも、山の中)の石段を登っていくと、生い茂る草の中に石仏や墓が点々としていて、一人の日本人として私の心に深く響くものがある。仏さまもご先祖さまの魂も、この鮮やかな草の緑と木洩れ日の中におられるのだという思いは、理屈抜きに私たち日本人のものだろう。そうしたことは、35年前の私には見えていなかったのかもしれない。
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 石段を登り続けていくと、山の中腹に仁王門があり、お年寄りのグループはひとまずそこまでが目標のようだ。その先をなおも登り続けると、やがて山道が左に分かれ、大きな岩の上に建てられた五大堂という眺めのよいお堂にたどり着く。
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(五大堂からの眺め)

 絶壁の上の五大堂。山を上がってきただけのことはあって、吹く風が実に爽やかだ。眼下には谷沿いの家並や仙山線の線路が箱庭のように見えている。行く手には県境の山々が連なり、その向こうは仙台市である。6月に入ったばかりの東北の空と山の緑に、心を奪われる。
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 ここまで来れば、奥之院まではほんの一登りである。足早に歩いてきたのでさすがに汗が出てきた。だが、ここまで上がって来るのは参詣者の全員ではないから、上に行くほど境内は静かである。そして森の緑がひときわ鮮やかになった。松尾芭蕉がこの地を訪れ、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」という名句を詠んだのは、今の暦では7月13日のことだそうだが、確かにあと一月もすれば、この森は蝉の大合唱になることだろう。

 尾根のスカイラインがだいぶ近づき、最後の階段を登ると、大仏殿と奥之院が並んでいた。一般の人が上がれるのはここまでで、ここから先は修行者しか入れないそうだ。
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(山寺の奥之院)

 慈覚大師円仁が入唐の間に持ち歩いたという釈迦如来像をご本尊とする奥之院。私はその前で両の手を合わせる。35年前にここへ一緒に訪れた旧友T君の父君が、先月の上旬に亡くなられた。何よりもまず、そのご冥福をお祈りしよう。ご不幸があって以来T君とは会っていないが、元気を取り戻してくれているだろうか。併せて、この一年半余りの間、彼が一生懸命に父君の介護に取り組んできたことに、改めて敬意を表したいと思う。

 そして今日は、小田原で私の祖母の四十九日の法要が営まれている。四月の半ば、祖母は104歳の誕生日の当日に、曾孫たちとお祝いのケーキを前に記念写真を撮ったあと、眠るように息を引き取ったという。私は初孫だったから、のんびりとした性格で優しかった祖母との思い出は多い。そのことにも、手を合わせて深く頭を下げたい。

 山を下る。往復2時間と言われたが、境内に入ってここまで30分ほどしかかかっていないから、電車の時間までに降りるのは楽勝だ。その分、山全体が寺というこの場所の雰囲気を楽しみながら、山道をおりることにしよう。

 明治の人は足腰が丈夫で、祖母は80歳を過ぎてから叔父たちに連れられてこの山寺を訪れ、奥之院まで自分の足で登り続けたという。そして歴史が好きで、寺のご由緒や史跡の説明書きなどがあると、立ち止まっていつまでも読んでいたそうだ。そんな祖母のDNAを、私は少しでも受け継いでいるだろうか。

 次の山形行き電車がやって来る20分前に、山寺の駅前に戻った。

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(to be continued)

聖なる金曜日 [宗教]

 4月5日、木曜日。仕事を終えて帰りの電車に乗ると、夜空に月が上がっているのが、窓からよく見えた。 満月まであと二日ほどの明るい月である。一昨日に日本列島を春の嵐が駆け抜けて空気がきれいになったのか、或いは新たに入り込んだ寒気のせいか、春先によくある朧月夜ではなくて、今夜の月は実に冴え冴えとしている。

 仕事がいつもより少し遅くなったのは、夕方からドイツの相手とやり取りをしていたためだった。現地では明日の金曜日から翌週の月曜日までが祝日になるから、必要なことは相手との間で今日中に済ませておかねばならない。そんな事情もあって今日は少し忙しくなったのだが、目標としていたことは何とかクリアーすることが出来た。

 仕事を終え、ちょっとした安堵感と共に眺める夜空の月。そこでふと我に帰った。明日から始まるヨーロッパの祝日。よく考えてみれば、今夜の月が大きいのは当たり前のことなのだ。

 「春分の次の満月に続く日曜日」

 これが、キリスト教における「復活祭(イースター)」の定義だそうである。今年は4月7日(土)が春分の後の最初の満月だから、その翌日の8日(日)がそれにあたる。
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(イスタンブール、カーリエ博物館に残るフレスコ画の「主の復活」)

 神の子イエスは、エルサレムに向かう道すがら、弟子たちに不吉な予告をした。私は都で十字架にかけられ、三日目によみがえるだろうと。

 エルサレムではちょうど、モーセの時代の「出エジプト」を祝う「過越しの祭」のためにユダヤ人たちが続々と集まっていた。イエスが12人の弟子たちと共に行った「最後の晩餐」も、この過越しの祝いの食事なのだが、食事の半ばに「あなたがたの一人が私を売り渡すだろう。」とイエスが発言したこの晩餐が、エルサレム入城から四日後の木曜日のことだったとされる。

 そして晩餐の後、イエスはゲッセマネのオリーブ山の上で最後の祈りを捧げ、その後に追手によって捕らえられる。夜間のことだ。そして尋問を受け、笞打たれ、茨の冠・十字架と共に市中を引き回された上、ゴルゴタの丘で磔刑に処されたのが金曜日の夕方だった。キリスト受難の日である。(この日は、欧州各国の言語では「聖なる金曜日」という意味の言葉で呼ばれるのだが、英語だけは”Good Friday”という。ちょっと不思議な感覚である。)

 処刑が金曜日の夕方というのは、実はユダヤ人にとっては大きなことであるそうだ。ユダヤ教では、金曜日の日没から土曜日の日没までが安息日なのだ。それは神様が決めたものだから従わねばならず、人々は一日中外出することなく、神様を想って静かにしていなければならない。だから、弟子たちは処刑後のキリストを直ちに埋葬せねばならず、遺体の引取りを申し出たヨセフによって速やかに墓に入れられたという。

 そのキリストが「復活」したのは、彼の予告通り、十字架にかけられた日から三日目の日曜日のことだったとされる。遺体を弟子たちが盗みに来るのを恐れた総督ピラトが墓に番兵を立たせたが、その番兵たちが眠りこけている間にキリストが復活したと伝えられるものの、聖書にはそうした記載がないという。

 イエスの亡骸に香油を塗りに墓を訪れたマグダラのマリアは、石棚の上に埋葬布がまだ置かれていたものの、遺体がなくなっていることを知り、その場にうずくまって泣き始める。

 「女よ」
 だれかが彼女に呼びかけていた。
 「女よ」 朝のなかをつきぬけて耳にひびく、すきとおった声だった。
 「女よ、なぜ泣いているのか」
 泣きじゃくって息を荒げたマリアは目をあげ、園丁が来たのだと想った。
 「主がはこび去られてしまったからです」 彼女はすすり泣いた。「そしてどこに置かれているのかもわかりません」
 男は言った。「だれをさがしているのか」
 「ああ、あなたが彼をはこんでいったなら、どこだか教えてください。そうしたらわたしが彼を引き取りますから」
 マリアは立ち上がりながら言った。
 男は彼女の正面で立ち止まった──長く黒い髪が、涙をとおしてみえた。白い上着。ひげはきれいに剃られていた。
 しずかでなじみのある声で男は言った、「ああ、マリアよ」
 彼女は息をのんだ。
 目をこらすと、美しいひたい、愛する主イエスのカラスのように黒い髪と、ゆるぎない金色のまなざしがみえた。
 「ラボニ」 彼女はさけんだ。
 「しずかに、しずかに、子よ──しずかに」 イエスは唇に指をあてた。「今はわたしによりそうことはできない、まだ父のもとへのぼっていないから。しかしわたしの友人たちのところへ行って、わたしの父、あなたがたの父、わたしの神、あなたがたの神のもとへ、わたしがのぼってゆくことをつげなさい」
 (「小説『聖書』 新約篇」 ウォルター・ワンゲリン 著、仲村明子 訳、 徳間書店)

 キリスト教の祝祭は、大きく四種類に分けられるという。降誕祭に関するもの、復活祭に関するもの、聖母マリアに関するもの、そして天使・使徒・聖人に関するものの四種類である。この中で復活祭は極めて重要かつ大きな祝祭であり、キリストの復活から昇天までの40日間にわたるものだ。だが、クリスマスなどに比べると、日本では全くと言っていいほど話題にならず、「復活祭」の文字を目にすることもない。

 「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」
 (『コリントの信徒への手紙』)

 パウロがこう述べているように、キリスト教の信仰においては、ゴルゴタの丘で処刑されたイエスがその三日目に復活した、ここからがまさに肝なのだろう。だが、日本人がキリスト教に今ひとつ馴染めないのは、キリスト受難のむごたらしい話に人気がないことに加え、イエスは人類の原罪を一人背負って死んだので、そこで人類は救済されたという考え方、神聖なるものとは「父と子と聖霊」であるという考え方などが難解極まりないことだろう。(もっと言えば、その「父と子と聖霊」が三位一体であるかどうかについて延々と論争を続け、異端を迫害してきたことなども、違和感を覚えやすいところだ。)

 「春分の次の満月に続く日曜日」という定義からすると、復活祭は早くて三月下旬、多くの場合は四月の前半だ。緯度が高いヨーロッパでは、日の出・日の入りの時刻の一日当たりの変化が日本よりも速いから、暗く長い冬が過ぎて春が来ると光がどんどん明るくなり、花や緑が一斉にやって来るような印象を受ける。だから、キリスト教の信仰に加えて、イースターは人々にとって待ちに待った春を象徴するものなのかもしれない。モーセの出エジプトを祝う過越しの祭りやキリストの復活。人類はやはり、春になると活動的になるものなのだろうか。

 今年の復活祭、東京の桜はまさに満開の時期を迎えようとしている。今年も巡ってきた花の季節。私たちも時間を無駄にせず、活動的になりたいものだ。
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合掌 [宗教]

 今週は低気圧を繋ぐ前線が日本列島を横断し、東京も雨模様の日が続いた。福島県や新潟県では大雨の被害が相次いでいる。その前線は朝鮮半島にもかかり、韓国でも記録的な大雨で多数の死者が出たそうだ。梅雨明け直前に戻ってしまったような気圧配置のもとで、7月も終わろうとしている。
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 先週亡くなった義母の葬儀を週初に終え、水曜日から我家は通常の暮らしに戻った。

 報せを受けてからは物事が慌しく進み、あれよあれよという間に葬儀の場を迎えることになったが、その一連のプロセスが終わり、やけにあっさりと普段の生活に戻ってみると、この一週間の出来事はまるで覚めてしまった夢のようだ。そして、それまで姿かたちのあった義母は、もう遺影の中で微笑み続けるだけの存在になってしまった。人の生とは案外あっけないものだと、改めて思わざるを得ない。

 義母の葬儀は、義父の家系の代々の墓がある都内の日蓮宗の寺で行われた。山手線の内側だから交通の便は悪くないが、駐車スペースも殆どないこぢんまりとした寺で、本堂を葬儀に、書院を親族の控室に使うと、もうそれで殆ど一杯である。木造の本堂は向かって正面の戸が開け放たれるから、エアコンが効果をもたらすような構造ではなく、扇風機が二つ回っているだけだ。声を張り上げてお経を読み鐘を叩く住職は汗だく。じっとしている私たちも、汗を拭き拭きの参列。通夜の時間は外が薄墨色に黄昏れていき、告別式ではお堂の外から聞こえてくる蝉の声。そのあたりが、いかにも夏の葬儀である。

 日蓮宗だから、住職が「南無妙法蓮華経」を唱えながら入堂することから葬儀が始まる。イントロが終わると、住職は故人の棺の傍らに坐り、故人に語りかけるようにして読経を続けるのだが、例によってその中身は私たちにはさっぱりわからない。(故人にもきっとわからないだろう。) 「この世の一切は空である」と説く大乗仏教。そのお経を上げることがどうして死者の供養になるのか、それを論理的に考えてみたこともない。しかしながら、厳かな雰囲気の中で執り行われる仏式の葬儀は、私たちにとっては昔から空気のように当たり前のものである。

 「死者の法要に仏教が関与することは仏教伝来以来早い段階から見られるものであり、日本にいたるまでの各地の仏教にも等しく見られるものであるが、仏教の機能がそれを主とするようになったのは、日本のみの現象であり、それも江戸時代にまで下る。」

 「(江戸時代に導入された)寺壇(じだん)制度はもともとはキリシタン禁制のもとで、住民がキリシタンでないことを証明するために、宗門人別帳を作成し、それが同時に戸籍の役割を果たしたものであった。このように寺壇制度は寺院を江戸幕府の末端の行政機構として使おうというもので、実際その機能を有効に果たすとともに、それが仏教寺院の存在根拠となったのである。」

 「その中で、生者のみならず、寺院が墓地を維持し、死者の戸籍ともいうべき過去帳を管理することによって、死者との接点という役割をも果たすようになった。そして、寺院の活動は、次第に葬儀と死後の法要を中心とする葬式仏教に依存するようになっていった。」

 「幕府が倒れ、寺院の活動が自由になれば(寺壇制度は)解体してしまいそうだが、そうはならず、明治以後も檀家制度は残り、法要を中心とする葬式仏教は生き残った。(中略)むしろ寺院と檀家の利害が一致することによって存続してきたものである。」

 (以上いずれも、末木文美士 著 『仏教 vs. 倫理』、ちくま新書)

 日本の仏教がいわゆる「葬式仏教」になった経緯は、こういうことなのだろう。
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 「この世の一切は空である」という考え方、そして「誰でも仏になれる」という如来蔵・仏性の思想は大乗仏教の大きな特徴である。

 「魔や外道は、生死やいろいろな見解に執着するが、菩薩は決してそれらを捨てずに、しかし執着しない。 (中略) 生死の苦と涅槃の平安が別のところにあるわけではない。そもそも生死と涅槃というように、二元論を立てること自体が間違っている。両者が分けられないこと、それが『空』ということだ。」

 「如来蔵・仏性説によれば、心は本来清浄なものであり、それが煩悩に覆われているだけだという。だから、煩悩の曇りを拭い去っていけば、次第に清浄な本性が姿を現すことになる。今の自分が持っていない何か新しい資格を獲得するわけでなく、自分の中にある仏の本性を現実のものとして現し出していけばよいという非常に楽観的な発想にもとづいている。」

 そうした大乗仏教において最も重要な経典の一つとされる『妙法蓮華経』は、歴史の教科書にも登場する鳩摩羅什(くまらじゅう、344~413)によって漢訳されたものだが、前掲書の著者によれば、そこには「他者を代表する釈迦」が登場し、「一切衆生は他者なしには存在し得ないこと」、「他者との関わりは無限の過去から未来へと及んでいること」が説かれ、更には釈迦の入滅後に、死者としての仏とどう関わることが出来るかが述べられているという。そこにあるのは、究極の他者としての死者の存在である。

 「死者の不在は、まさしく不在という事実によって、無限の重さをもってのしかかってくるのを、どうしようもないであろう。死者は無言のメッセージによって語りかけ、不在という事実を突きつける。生者は、不在で無言の死者と関わらなければならない。死者との関わりは、確実になされているのであり、それは決して思い込みや幻想ではない。」

 「生者が死者と関わるのであれば、逆にいえば、死者もまた生者と関わるということである。(中略) 死者は虚無に落ち込むのでもなく、生者から隔絶して永遠に生きるのでもない。死者がそうであるならば、<死>とは、生の限界にぶつかり、生から転落することであるというよりも、むしろ生者から死者への転換と考えるのが適当ではあるまいか。」

 義母の棺の傍らに坐って読経をしていた住職は、例えばこんなことを今は亡き義母に語りかけていたのだろうか。

 それでは、釈迦が入滅した後、死者としての仏と私たちはどう関わることになるのか。

 「仏が亡くなり、過去の存在となったからといって、仏から離れることができるわけではない。仏はその不在をもって迫る。その不在の仏に代わるものは『法華経』である。『法華経』と関わることによって、はじめてその人は「如来使」として、仏との関わりを新たにしうるというのである。」

 このあたりは経典を書いた側にやや我田引水の感じがなくもないが、そもそも宗教とはそういうものなのだろう。

 重度の認知症を患い、もう何年も専門病院に入ったままだった義母とは、結局15年以上も会わぬままになってしまった。家内は週に一度そこに通って半日を過ごすことを習慣にしていたが、相手に認知してもらえない以上、家内にとって母親は事実上いなくなってしまったようなものだった。そういう意味では、義母の他界とは、形式が実態に追いついたと言い換えられるのかもしれない。
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 厳かに葬儀が終わり、棺が斎場に運ばれると、そこから先は本当にあっけないものだ。義母は文字通り、遺影の中で微笑み続けるだけの存在になってしまった。そして寺に戻れば、つい先ほどまであった祭壇はものの見事に片付けられていた。

 最後まで立ち会ってくれた親戚一同との会食。それは思いのほか賑やかなものになった。故人にまつわる数々の思い出話に花が咲く。葬儀が一通り終わった以上、ここから先は残された者たちが明るく元気に生きて行くことが、義母への最大の供養になるのだろう。

 家内が子供の頃は厳しい母親だったそうだが、私には常に心優しく接してくれた、元気だった頃の義母の人柄をふと思い出して、胸の中が静かに熱くなった。

 合掌。

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