SSブログ

護摩の炎 [宗教]


 日曜日のお昼時、この寒さにもかかわらず、池袋駅東口はいつものように人々の往来で賑わっている。世の中は大学のセンター試験の二日目。例年、今頃は決まったように強い寒波がやってくる。家内も私も、今日は厚手の防寒着に身を包んで出てきた。

 明治通りとTの字を成すグリーン大通りに沿ったバス停で待つこと数分、王40系統の西新井駅行きの都バスがやってきた。ここが始発で、私たちを含めて6人ほどの乗客を乗せるとすぐに発車。左折して脇道に入り、豊島区役所の手前を右折して明治通りに入ると、そのまま直進を続けて飛鳥山から王子駅前へ。そこから先は片側一車線の道路を北東方向へ走り続け、隅田川と荒川を渡ると足立区に入る。

 このあたりは周辺に鉄道がないから、このバスは枢要な交通機関らしく、人々の乗り降りはかなり頻繁である。だいぶ混み始めたなと思った頃、バスは片側一車線の狭い道を右折して環状7号線に入ると、程なく「西新井大師前」のバス停に到着。日曜日だから渋滞もなく、ここまで極めて順調に来たが、それでも池袋東口から40分はたっぷりかかる。百円玉2枚にしてはずいぶんと乗り甲斐のあるバス路線である。

 今年、我家では息子が数えで25の「本厄」にあたる。法科大学院を卒業するまであと一年余り。体を壊さず今年も勉学に勤しんで貰わねばならないので、厄除けでもしてもらおうかということになった。といっても、肝心の本人は「試験前だ」と言って今日も学校へ出かけてしまったので、代わりに家内と私がお札を頂いて来るしかない。
 厄除けといえばお大師様だが、「関東三大師」の中で我家に一番近いのは西新井大師になる。まだ訪れたことがないので、「散歩がてら」と言ってしまうと叱られそうだが、家内と二人で出かけてみることにしたのである。

 環七沿いのバス停から北方向へと路地を入ると、東武鉄道の大師前駅があり、お大師様への参道が左に向かっている。それをしばらく進むと参道は右に折れ、前方に山門が見えてくる。両側はいかにも寺社の前の商店街で、甘酒や草団子、煎餅などを売るお店が並んでいる。その山門をくぐると道の両側は縁日の屋台が続き、何とも賑やかだ。1月16日、私たちも含めて、訪れている人々はまだ初詣の一環といった感じである。
Nishiarai-Daishi 01.jpg
(西新井大師 山門)

Nishiarai-Daishi 02.jpg
(参道商店街で見かけたレトロな世界)

 「西新井大師」というのは通称で、正式には五智山遍照院総持寺という。真言宗豊山派の寺である。ご由緒は西暦826年にさかのぼり、それにはもちろん空海(弘法大師)が登場する。目の前の大きな本堂は昭和40年代に火事を出したために再建されたものだが、弘法様以来のご本尊はその火災を逃れ、今も安置されているという。
 境内の祈祷受付を見ると、次の護摩は13時半からだ。まだ30分近く時間があるので、私たちは北風を避け、甘酒で暖を取ることにした。
Nishiarai-Daishi 03.jpg

 指定の時刻の10分前に本堂の中に入ると、護摩を受ける畳敷きの場所は既に大勢の人々で埋まりかけていた。私たちは坐る場所を何とか確保して時を待つ。定刻になると、ズシリと重い太鼓が鳴り響き、12人の僧侶が壇上を取り囲むようにして坐る。緑色の袈裟を着た僧侶が4人ずつ左右に並び、紫の袈裟が3人と赤の袈裟1人が正面のご本尊を向いている。この赤い袈裟の僧侶のリードで読経が始まり、やがて一人の僧侶が立ち上がって、仏の智慧を象徴する水を張った鉢から、棹でその水を衆生に降りかける仕種を行う。(私には本を読んで得た知識しかないが、灌頂(かんじょう)という密教上の儀式の一つなのだろうか。)
 そして壇上では火が焚かれ、厄除けのお札がそれぞれ炎にかざされる。読経はなおも続けられ、密教に固有の、梵語をそのまま用いた我々には意味不明の言葉(これが真言と言われる)も聞こえてくる。その間に、衆生は今年最もお願いしたいことを仏に念じると良いとされる。護摩が終了するまで、概ね25分ほどであった。
Nishiarai-Daishi 04.jpg
(護摩を待つ)

 空海(774~835)は、改めて言うまでもなく極めてスケールの大きな人物である。祖先が日本武尊の東征に従った佐伯氏の生まれだという。なるほど、讃岐地方だけでなく、東国も含めて日本各地に弘法大師が掘ったとされる井戸があるのは、先祖伝来のフットワークの賜物なのだろう。この西新井大師も、弘法様が総持寺のお堂の西側で杖を突いたら新たに井戸が湧いたというのが、「西新井」という地名の由来だそうである。

 空海は早くからその才覚を現し、律令の制度として中央に設けられた「大学」に18歳で入学。儒教や漢文などを学んだが中退し、山岳修行を始めて山野を流浪したという。24歳から7年間ほどは消息が不明なのだそうである。だがその間も数々の書物を著し、儒教・道教に対する仏教の優位性を説くと共に、「大日経(だいにちきょう)」と呼ばれる密教の根本経典を極める決意を固める。そこに、中国留学のチャンスがやってきた。

 803年の3月に遣唐使船が出たが、嵐に遭って都に引き返し、船を修繕して翌804年5月に再出発。その際に空海は留学メンバーに選ばれ、大慌てで船に乗ることになった。前年の船が予定通り唐に着いていたら、次の遣唐使船は30年以上も後であり、唐では廃仏の嵐が吹き荒れていて、真言密教などは学べなかったかもしれない。
 その一方、804年に再出発した4隻は再び暴風雨に遭って互いにはぐれてしまい、内2隻は海没もしくは行方不明。前年からメンバーに選ばれていた最澄(766~822)が乗る第1船と空海の乗る第2船だけがそれぞれに大陸に漂着したというから、歴史というのは不思議なものである。

 「空海の身分は、留学生(るがくしょう)である。むこう二十年留まる。その二十年間の生活費が官給されてもいいのだが、それほどの給与はなかった。(中略)
 最澄の立場はちがっている。
 かれは天皇や皇太子、それに時の権勢家の庇護をうけていたために、皇太子(平城天皇)から贈られた金銀だけでも数百両という多額なものであった。かれは短期の還学生(げんがくしょう)であった。還学生とは完成度の高い僧がそれを命ぜられ、権威は後世の国立大学の教授よりもさらに大きい。(中略)
 最澄の仕合せのよさを、空海はしっていたであろう。」
(『空海の風景』 司馬遼太郎 著、中央公論新社)

 身分も立場も異なる最澄と空海の出会いはここに始まり、二人のライバル関係はその後も長く続くことになるが、ここでは省略する。だが、空海はその留学を二年で切り上げて帰国し、ちょうどその当時に即位した嵯峨天皇に気に入られたことで急速な「出世」を遂げる。そのきっかけの一つが、真言密教による怨霊の鎮魂であったという。

 「嵯峨天皇の同母兄、前代の天皇である平城天皇が復位を志して、薬子(くすこ)の変を起こした。薬子は自殺、平城天皇は幽閉されるが、この平城一家の怨霊の鎮魂が大きな政治的課題となる。空海は真言密教の得意とする呪術によって、みごとに平城天皇にまつわる怨霊どもを鎮魂したのである。」
(『梅原猛、日本仏教をゆく』 梅原猛 著、朝日文庫)

 神秘的な曼荼羅を掲げたり、護摩の煙と炎の向こうにご本尊が見えたりと、固有のおどろおどろしさのある真言密教は、日本人の伝統的な宗教心にマッチする部分があったのだろう。今日の厄除けの護摩も、「厄年だから一応やってもらおうか」と思った私たちは、嵯峨天皇の頃の日本人とあまり違わないのかもしれない。本堂の奥に鎮座されておられるご本尊は十一面観音だそうだが、観音様のご慈悲は、かくも大勢の衆生にも漏れなく及ぶのであろうか。

 それからお札をいただいて、私たちは西新井大師の裏門から外に出た。午後二時をだいぶ回ったところだが、空には雲が流れ、北風が冷たい。二人の影法師が早くも長くなり始めた。
 そこから住宅地の中を二十分ほども歩いて尾久橋通りに出ると、東京都の新交通システム「日暮里舎人ライナー」の西新井大師西という駅がある。道路の上に設けられた高架の駅で待っていると、小さな車体の電車がやってきた。
Nishiarai-Daishi 05.jpg

 汐留から出ている「ゆりかもめ」と同じように、高架の軌道を走る「日暮里舎人ライナー」は車窓の眺めが良い。日暮里行きの進行左側の席からは、荒川を渡る時に東京スカイツリーがよく見えていた。

 散歩がてらに「この国のかたち」をまた少し思ってみた半日だった。
Nishiarai-Daishi 06.jpg

いただきます [宗教]

 昨年の暮、我家の厨房に強い味方が現れた。家内から相談を受け、二人で実物を見に行って買い求めることにした、圧力鍋なるものである。

 通常の鍋では煮込むのに時間がかかる料理が、これを使えば驚くほど短時間で出来上がるという。しかも手間としては、具材を切って鍋に入れ、煮汁の材料(水、醤油、砂糖、塩、ブイヨンなど)を加え、蓋を閉めて火にかけ、圧力が上がったら決められた時間だけトロ火でその圧力を保つだけだとも。
 鍋を買い求めたその日の夕方、トリセツの後半部分に載っていたレシピに従って家内が「中華おこわ」にトライしてみたら、あっという間に、しかも極めて美味しく出来上がり、我家は大いなる驚きと喜びに包まれた。それ以来、この新兵器は連日の活躍を見せている。
1st take.jpg
(初めて出来た「中華おこわ」)

 圧力鍋は、大気圧以上の気圧の下で水を加熱すると沸点が上がるという原理を応用したものだ。高い圧力と沸点が得られることで、食材の火の通りがよくなり、短時間で美味しく調理が出来上がる。学生時代の山登りの合宿で、標高の高い(=気圧が低い)所で米を炊くと、沸点が下がるために米に芯が残りやすかった、それと正反対の効果が得られるという訳だ。

 2~3年前頃から、以前に比べて平日の帰宅時間が早くなった。歳をとると共に、商売の最前線で切った張ったを差配するよりも、後ろの方から社内の全体に目配りするような役回りになる。少し寂しくもあるが、サラリーマン人生とはそういうものだろう。
 だがその分、家で家族と共に晩飯を食べる機会が格段に増えることになった。単身赴任を経験した者なら誰もが痛切に思うことだが、家族と一緒に食卓を囲むとは、平凡ながらこれほどありがたいこともない。できることなら、子供たちが小さかった頃に、こういう時間をもっと作ってやりたかったと、今にして思う。
2nd take.jpg
(簡単に作れる「アサリとズッキーニのペペロンチーノ」)

 私は食べ物には元々興味のあるタチだ。それと、学生時代に山登りを続けていたので、炊事も含めて自分の身の回りのことを自分で整えることに、あまり抵抗はなかった。だから、香港での単身生活が始まった時、半ばサバイバルのような意識で料理作りを少しずつ覚えることになった。

 料理といっても、無論自分一人のためのものだから、作るものには偏りがあるし、そもそも食べ手が他にいないから、あまり大きなものは作る意味がない。だから、私が覚えたのはごく僅かなことである。
 とはいえ、素人なりに「旨い」と思えるものが出来上がると、それはそれで嬉しいものだ。しかしそれとて自分一人だと、30分かけて作っても5分もすれば食べ終わってしまう。そして、「美味しい」という喜びは、出来れば誰かと共に味わいたい。分けても決して半分にはならず、むしろ人の数だけ喜びが増える。「美味しい」とはそういうものだ。

 だから、帰国して再び家族と一緒に暮らすようになってからも、週末などには料理の真似事をしてきた。素人の手作りながら、家族も案外喜んでくれる。家内も外食は滅多にしたがらず、本当に身近な食材を使いながら、それでもちょっと美味しく、そして家族みんなで賑やかに食卓を囲むことが好きなので、いつの間にか土日の夕方は(家にいる限りは)家内と共に厨房に立つようなパターンになっている。
 そこに、新兵器として圧力鍋が加わったという訳だ。大学生の娘などは、このところ毎晩何が出て来るか楽しみにしながら帰って来るようになった。
3rd take.jpg
(モツ煮込みもレパートリーになった)

 食べることは楽しい。それも、家族や親しい友人と共にする食事は本当にいいものだ。だが、その楽しさにかまけていて、食事をすることの本来の意味を、私たちはつい忘れてしまいがちである。

 私たちはふつう、食事を始めるときに「いただきます」と言う。それは、私たちが生きていくために、食材となる動植物の命を奪って食べているのだから、不殺生戒があるにもかかわらず「命をいただく」ことを懺悔し、その奪った命の分まで精一杯「活かさせていただく」ことを誓うために唱えるのだ、と説明するのが仏教である。

 修行僧の集まる禅寺では、食事の前に「五観の偈(ごかんのげ)」という以下のような偈文(げもん)を唱えることが今も続いているそうだ。唐の時代の中国で始まり、後に道元(1200~1253)の著作『赴粥飯法』を通じて日本でも普及が始まったという。「食事の心構え」とでも言うべきもので、特に禅宗の専売特許ということではないようだが、日々の生活の一つ一つが仏の行であるとする道元の曹洞禅には確かにぴったりのイメージである。

 一には功の多少を計(はか)り彼(か)の来処(らいしょ)を量(はか)る。
  (この食材が採集され、調理されて自分のもとへ運ばれてくるまでの経過や人々の労苦をよく考える。)

 二には己が徳行(とくぎょう)の全欠を忖(はか)つて供(く)に応(おう)ず。
  (このようなありがたい食べ物を受けるに値する行いを自分がしてきたかどうかを振り返り反省する。)

 三には心を防ぎ過(とが)を離るることは貪等(とんとう)を宗(しゅう)とす。
  (心の汚れを清めて正しい状態を保ち、過ちを避けるために、貪(むさぼ) りの心を克服する。)

 四には正に良薬を事とすることは形枯(ぎょうこ)を療(りょう)ぜんが為なり。
  (食べ物とは、修行する自分の肉体を保持し養うための良薬としていただくものである。)

 五には成道(じょうどう)の為の故に今此(いまこ)の食(じき)を受く。
  (仏の道を成すために、この食べ物をいただく。)

 自己への反省と他人への感謝、そして他の命の尊重。この世の一切の物事(色)は因縁によって相互に結び付いており、「此があれば彼があり、此がなければ彼がない」という仏教の考え方からすれば、我々が食事をいただくということは、まさにこの「五観の偈」に要約された通りなのだろう。
 それは同時に、「いただきます」を言われることもないままに大量の食材が売れ残りとして捨てられ、必要もないような贅沢が「グルメ」としてもてはやされる、「自由」の意味を履き違えた今の世のあり方を、遥か昔に見抜いていたかのようでもある。

 「苦しみの本質が、『思いどおりにならない』ことなら、その原因たる欲望の本質は『思いどおりにしたい』ということであろう。当たり前のことだと言われるだろうが、ここは勘所である。私がこだわるのは、欲望は単に、言わば本能的に『したい』ことではなく、『思いどおりにしたい』ことなのだという一点なのだ。
 食欲と人は言う。腹がへったから食べたい。よくわかる話である。では、これと『おししいもの』が食べたい、ということとは同じことなのだろうか。違うであろう。おいしいものとは、おいしいと思ったものである。だから、人は『思ったほどおいしくなかった』と言いつつ、つぎのおいしいものを求めるのだ。
 ここで仮に『腹がへったので食べたい』を食・欲求と言うとすれば、まさしく『おいしいと思うものを食べたい』こそ、食・欲望と言うべきであろう。」
(『日常生活のなかの禅 - 修業のすすめ』 南 直哉 著、講談社選書メチエ)

 「美味しい」を人と共有することは楽しいし、共有したくても出来ないことに比べたら遥かに幸せだと思ってしまうのだが、それとても本質的には「思いどおりにしたい」という「欲望」に根ざした、放っておけば際限のないものであり、思いどおりにならなければ苦しむばかりのものであることは、私たちも今一度認識しておく必要があるだろう。

 山で寝泊りをすると、水や食料の大切さ、ありがたさを私たちは改めて認識するものだが、それぐらい普段の生活では食べ物に恵まれていることや、私個人について言えば、昔に比べて家族と共に過ごす時間が増え、今は毎日「いただきます」を一緒に唱えることが出来る、そのありがたさを忘れないようにしていきたいものだ。
 しかし、その「ありがたい」状態もまた「無常」であり、この先には老いやら別れやらの苦しみが必ずやって来るのだろうけれど、それでも縁あって生を受けた以上は生きていかねばならない。釈迦はそう教えてくれている。

 (年末年始に読んでいた前掲書は、今から10年ほど前に世に出たものである。当時私は香港にいたので、その存在を知らなかったのだが、もっと早く出会ってみたかった一冊である。)
06258211.jpg

豪と徳 [宗教]

 小田急線の新宿駅地下ホームから区間準急の電車に乗ると、代々木上原、下北沢、梅が丘に停車して、そこから先は各駅に停まる。その最初の駅が豪徳寺である。高架のホームを降りて改札を出ると、駅前広場も何もなく、「駅前商店街」の狭い路地が南に向かって細々と続いている。

 クルマも走らないようなその商店街を進んでいくと、やがて右側に東急世田谷線の線路が並走するようになり、二両連結の路面電車がのんびりと走っている。あたりは住宅街で背の高い建物は一つもなく、空が広い。
 ほどなく踏切のある道に出るが、線路を渡らぬように路地を選びながら引続き南へと住宅街の中を歩いていくと、ブロック塀に囲まれた緑の一画が左に現れる。それはかなり広大な土地で、葉の落ちた雑木林に混じって見事な松の木が見えている。背伸びをしてもブロック塀の中が見えないので、これは大きな公園か何かだろうかと思ってしまうが。実はそうではない。その塀に沿って東向きに進路を変えて尚も歩いていくと、やがて左手に立派な山門が現れる。
 大渓山豪徳寺、曹洞宗の名刹である。
Goutokuji 01.jpg
(豪徳寺の山門)

 山門をくぐって境内に足を踏み入れると、そこには「豪徳寺」の名に相応しい、骨太で剛毅な雰囲気が漂っている。正面の仏殿や右側の梵鐘がそれぞれに古風で堂々としていて立派だ。禅寺といっても、京都に残るいささか公家の世界に取り込まれたような諸寺とは雰囲気の異なる、いかにも関東の風である。

 元は臨済の寺であったらしい。応仁の乱がようやく終息を迎えたばかりの1480年、武蔵国では大田道灌がまだ存命の時代に、世田谷城主だった奥州吉良家の吉良政忠が伯母のために「弘徳院」という小さな庵を結んだのがその起源であるという。それが、戦国時代に曹洞禅に転じた。
Goutokuji 02.jpg
(仏殿)

 この寺の南側には世田谷城址が残されているが、その城の中枢部はむしろこの寺の位置にあったそうだ。やがて世田谷城は相模の北条氏の出城となるが、1590年の秀吉による小田原攻めで廃城となり、江戸期には彦根藩・井伊家の世田谷領となった。その第二代藩主・井伊直孝(1590~1659)が、井伊家の菩提寺に相応しい寺として伽藍を創建したのが現在の豪徳寺である。その寺号が直孝の戒名「久昌院殿豪徳天英居士」から来ていることは、よく知られている。

 家康の重臣として「徳川四天王」の一角に数えられ、赤い鎧兜で有名な精鋭部隊・「井伊の赤備え」を組織した彦根藩初代藩主・井伊直政(1561~1602)を父に持つ直孝は、次男として生まれ、しかも正室の子ではなかったそうだが、一旦は家督を継いだ長男では藩内がまとまらず、家康が直々にそこを差配して直孝に後を継がせたという。若い頃から、父・直政譲りの寡黙で剛直な、凄みのある人物であったようだ。

 直孝は秀忠の側近として仕え、大阪夏の陣で活躍。秀忠亡き後は家光の後見役も務め、譜代大名ではトップの30万石にまで取り立てられた。それでもなお、戦国の世の剛毅な風を残していて、彦根城下では質素倹約を徹底させ、自身も極めて簡素で質実なライフスタイルを貫いたという。なるほど、戒名の中に「豪徳」という文字が残るわけである。そして、それを寺号としたこの寺は、広い敷地の中に一つ一つの伽藍が実に堂々としていて男らしいが、一方でそのなりには飾るところがなく、いかにも簡素だ。名は体を表わす、その典型ともいえる。

 だから、豪徳寺を訪れるには冬がいい。それも、北風がごうごうと鳴るような日が、この寺の雰囲気によく合っているようだ。その点、今日は一月初頭にしてはずいぶんと穏やかな晴天である。

 敷地内には直孝以下、井伊家歴代当主の墓があり、あの桜田門の変で暗殺された第13代・直弼の墓も残されている。そして、そうした藩主の墓に従うようにして、江戸で命を終えた彦根藩士やその家族の墓が300ほどもあるという。いずれも質素なものである。それが豪徳寺の味わいなのだが、そのことは寺の宗派が曹洞宗であることとも、決して無縁ではないだろう。
Goutokuji 03.jpg
(井伊直弼の墓)

 「禅問答」として知られる公案を論じ、騒々しい印象があることから「看話禅(かんなぜん)」と呼ばれる臨済宗とは対照的に、ひたすら座禅に取り組むことを宗旨とする曹洞宗は「黙照禅」と呼ばれる。修行をして本来の自己(仏心)に目覚めることを目指す臨済禅に対して、修行の結果として仏になるのではなく、修行そのものが仏の行なのだという曹洞禅。前者が鎌倉・室町の幕府権力に近付いて存在感を高めたのに対し、後者では「権力には近付かず、深山幽谷で修行に励め」という教えが受け継がれてきたのも、極めて対照的である。だから歴史的にも支持層が異なり、「臨済将軍、曹洞土民」などと呼ばれる。(あくまで個人的な印象であるが)曹洞宗の方に簡素で純粋なイメージがあるのは、こうしたことから来るのだろう。

 それにしても、禅宗は徹底して己(おのれ)を見つめる仏教だという風によく言われる。そして、禅宗が武士階級によって広く取り入れられたのは、命を賭して戦(いくさ)に臨む侍にとって、心を落ち着かせるものが禅であったからだという。

 「仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己をわするるなり。」
(『正法眼蔵』 道元 著)

 「普通われわれが『知る』と言う時には、それは『何であるか』を知ることを意味する。これに対して『ならう』とは、『習う』 『倣う』の文字が示唆するように、『どのようにするのか』、その仕方を『ならう』のである。だとするならば、禅師が『自己』を『ならう』ものだと言うとき、その『自己』は、ある存在が何であるかを決定する根拠のようなもの(それは『知る』ことの対象である)を言うのではなく、ある行為の仕方、様式のことであろう。つまり、意志し、反省し、決断する、主体としての様式のことである。
 そして、それが『仏道をならう』ことなのだと言われるならば、禅師の意味する『自己をならう』とは、『仏法にしたがって意志し、反省し、決断する仕方をならう』ことであり、僧侶としての、仏教者としての主体性を創造することにほかならない。ここにこそ、仏教の倫理的基盤がある。」
(『日常生活のなかの禅 -修のすすめ-』 南 直哉 著、講談社選書メチエ)

 そうだとすると、武士という、人を殺めることを仕事とする、つまり不殺生戒という仏教の根本的な戒律とは全く相容れない生き方をする人々が禅に取り組んだというのは、大いなる矛盾である。ただひたすらに坐り、それによって「仏道をならい」、仏教者として主体的に生きようとするのであれば、まずイの一番で殺生などできないからだ。それなのに、日本では中世以来、禅と剣は結び付いてきた。

 企業経営者や一流のスポーツ選手が時々禅堂にこもる、というようなことは現代においてもよく聞かされてきた話である。そして、「精神統一のために」、「心の安寧を求めて」などという言葉が大抵彼らの口から出るものだ。
 結局のところ、「仏教者として生きる」という肝心な部分はどこかへ行ってしまい、精神面でのリラックスをはかるための手段として禅が愛好されてきたというのが、(それが全てとは言わないが)大半のあり方だったのではないだろうか。原理原則論は抜きにして、こうした手段を融通無碍に拝借してきたというのが、この国の文化の一つの特徴なのだろう。
 その点で、大阪冬の陣では籠城する真田軍と激突して多数の兵を失い、夏の陣では城内に大砲を撃ち込んで秀頼・淀君を自害に追い込んだ井伊直孝が、一体どのような倫理的思考によって(後に豪徳寺と呼ばれる)曹洞の寺を建てたのか、そのあたりを想像してみるのも興味深いものである。
Goutokuji 04.jpg

 今日は午後になっても穏やかな冬晴れが続いている。年末年始の休みの最終日、年の初めにあたり、なぜか豪徳寺の、その名の通りの味わいをかみしめたくなって、久しぶりに足を運んでみたが、やはりここは気分がいいものだ。

 なお、この寺は招き猫伝説があることでも知られている。ある日のこと、井伊直孝がこの場所を通りかかった時、猫に招き入れられるようにして門内に入ると、結果的にそこで雷雨を避けることができ、更には和尚さんの法話を聞くことができたとう。直孝はそれをたいそう喜び、ここを井伊家の菩提寺にすることに決めたそうである。
 この伝説に因み、境内では招き猫の人形が売られているが、それは片手を挙げただけで小判を持たないシンプルなものである。「招福」とはあくまでも上記のような経緯であって、決してゼニカネではない。そのあたりもまた、豪徳寺の一つの味わいなのだろう。
Goutokuji 05.jpg

 さて、明日からまた仕事だ。

武蔵国の酉の市 [宗教]

 新宿から京王線の準特急でちょうど20分。府中の駅で電車を降りると、駅ビルの西側を南北に走るケヤキの並木が天を突いている。

 道路の両側に並び立つその木々はいずれも目を見張るほど幹の太い古木で、その素朴な味わいがいかにも武蔵野の参道である。今でこそ立派な駅ビルが建ち、京王線の線路は高架でこの並木を越えているが、1925(大正14)年にその前身である玉南電気鉄道が東八王子までの路線を開通させた頃には、小さな車体でせいぜい二両連結ほどの電車が、この並木道をおそるおそる渡るようにして走っていたにちがいない。

 古(いにしえ)の武蔵野の趣を今に伝えるようなその並木道を南へ数分歩き、旧甲州街道を横切ると、その先は緑深い神社の境内である。その名も大國魂(おおくにたま)神社。第十二代・景行天皇41年の創建というから、額面通りなら2世紀初め以来の歴史を持つ神社で、645年の大化の改新により武蔵国の国府がこの地に置かれたという。以後、「武蔵総社」として国司の祭事を取り仕切る神社となった。言わば、府中という町の歴史を象徴するような社である。
 先ほどのケヤキ並木は、「前九年の役」を平定した源頼家・義家父子が1062(康平5)年にケヤキの苗木千本を寄進したことに起源を持つという。なるほど、参道の成りが立派なわけだ。
Ookunitama 01.JPG

 11月最初の日曜日。今日はこの神社に酉の市が立つ日である。酉の市といえば、東京では浅草の大鷲(おおとり)神社や新宿の花園神社が有名だが、府中のそれはまだ見たことがなかったので、家内と二人で散歩がてら出かけてみようかということになった。
 時刻はちょうど正午になる頃。朝方は曇っていたが、今は半分ぐらい青空ものぞき、穏やかな良い日和になった。
 「ちょっと厚着をし過ぎたかしら。」
府中まで出かけると聞いて少し着込んできた寒がりの家内も、何だか拍子抜けのようである。

 その大國魂神社の境内には縁日の屋台が並び、酉の市に七五三のお参りも加わって大変な賑わいだ。酉の市の縁起物である熊手の売買が成立すると行われる、威勢のよい「三本締め」も奥の方から聞こえてくる。
 春を待つことのはじめや酉の市 (宝井其角)
江戸の町では冬の初めの風物詩とされた行事だが、今年はずいぶんと暖かい酉の日になった。
Ookunitama 02.JPG

 11月の酉の日は、日本武尊(やまとたけるのみこと)の命日なのだそうである。神話の中に出て来る「東征」で関東各地を転戦した彼は、現在の埼玉県久喜市にある鷲宮神社をはじめとする鷲(おおとり)神社と縁があったことから、この日に大酉祭が行われたのが酉の市の起源であるという。元々は農産物や農具が市に並ぶ農村のお祭りだったのが、江戸の町の発展と共に都市型の祭りになり、縁起物の熊手が売られるようになったようだ。いずれにしても関東の風習である。

 大國魂神社で酉の市が行われるのは、ここに鷲神社を勧請してきたからだ。南北に細長いここの境内には、中央の拝殿の右奥に小さな鳥居があり、そこが鷲神社になっている。だから、大國魂神社自体にお参りする人々と、酉の市の「熊手守り」を買い求める人々は、それぞれ別の列に並ぶことになる。
 例えば九州の宇佐八幡から京都の南の石清水八幡宮へ、そして更に鎌倉の鶴岡八幡宮へと八幡神が迎えられたように、「神仏の『分霊』(!?)を請(しょう)じ迎えること」を意味する勧請というのは、考えてみれば不思議なことだ。これによって神社の中に別の神社が同居したり、仏教のお寺の一角に神社が同居したりするのである。事実、この大國魂神社には鷲神社の他にも鳥居があって、酒造りの神様や水の神様も祀られている。八百万の神が寿ぐこの国は、そういうところが実に大らかだ。
Ookunitama 03.JPG

 では、大國魂神社そのものは何という神様を祀っているかというと、それは大国玉神(おおくにたま)である。古事記にはなく日本書紀だけにある表記で、この神様は他にも色々な名前を持っている。八千矛神(やちほこ、記紀共通)、大穴牟遅神(おおなむじ、書紀では国作大己貴命)、許葦原色許男神(あしはらしこお、書紀では葦原醜男)、宇都志国玉神(うつしくにたま、書紀では顕国玉神)、大物主神(おおものぬし、書紀のみ)。だが、記紀のどちらにも記載があって一番良く知られているこの神様の名前は、大国主神(おおくにぬし)だろう。出雲大社に祀られている、あの神様である。

 大国主神は、天照大神の弟・須佐之男命(すさのお)から数えて六代目にあたる。地上の「葦原中つ国」を統治していた、いわゆる国津神(くにつかみ)の代表的な存在で、天上の高天原にいた天津神(あまつかみ)から要求された「国譲り」を受け入れた神様である。
 大和朝廷によって平定された部族を象徴するものではないかとも言われ、出雲大社で安らかにしておられたはずなのだが、大國魂神社のご由緒に話を戻すと、景行天皇の41年(西暦111年?)の5月5日に大穴牟遅神(おおなむじ)としてこの地に降臨し、それを村人が祀ったという。
 天照大神や須佐之男命から数えて六代目の子孫が神武天皇とされ、景行天皇はその神武から数えて十二代目にあたるのだが、大穴牟遅神すなわち大国主神は前述のように須佐之男命の六代目の子孫だから、景行天皇の治世に大国主神が出現したとすれば、ずいぶんと後の時代になって姿を見せたことになる。
Ookunitama 07.jpg

 更にいえば、景行天皇の息子・日本武尊は、前述のように東征伝説の中で鷲神社と縁があったことになっているが、その鷲神社の「総本山」である久喜市の鷲宮神社に祀られる三体の祭神の一つが、これまた大己貴命すなわち大国主神なのである。(同じ大国主神を祀っているのなら、大國魂神社の一角に鷲神社を呼び、酉の市を開いても「違和感」はないのかもしれないが。)
 それにしても、出雲系の神様が単に大和朝廷によって征服された側を象徴するだけのものであるのなら、大和朝廷側の日本武尊はなぜ、東征の戦勝を祈願し且つその勝利を祝うのに、出雲系の神様を祭る神社に参拝したのだろう。

 それを言えば、景行天皇41年に大國魂神社が府中に開かれた後、天穂日命(あめのほひのみこと)という出雲国造の祖神になった神様の末裔が武蔵国造に任命され、代々にわたって社の祭務を担当してきたというのも、考えてみれば不思議なことだ。(天穂日命は天照大神の第二子で、「国譲り」の交渉のために高天原から派遣されたのに、大国主神の家来になってしまった神様である。)日本武尊が苦労して平定した関東・武蔵国の国造に、かつて征服された側の出雲系の末裔がなぜ任命されたのだろう。

 もっとも、全国の神社の8割は、出雲系の神様を祭る神社であるという。遥かな古代にこの国が統一されていった過程は、単に征服と被征服という二元論では捉えきれないものがあるのだろうか。確かにそれ以降の我国の歴史は、敵対する相手を徹底的に殲滅してしまうことの少ない歴史である。
 「うーん、何だかよくわからない話ね。」
 また日本の神様の話が始まったかという顔をしている家内と、屋台で買った「大阪焼」を二人で半分こした。
Ookunitama 04.JPG

 午後になって益々の賑わいを見せる大國魂神社を後に、そこから歩いて5分ほどのJR府中本町駅へ私たちは向かう。10分に一本の南武線の電車に乗ると、最初の駅が分倍河原。鎌倉幕府が倒れた時の古戦場で、駅前広場に立つ乗馬姿の新田義貞の銅像がホームからも見えている。周辺は広い敷地の工場である。

 そこから二つ目の谷保という駅で降りると、駅前ロータリーから北へ一本道が走っている。JR中央線の国立駅まで続く、約2キロの広い並木道。春は桜の名所としても有名な道で、両側は閑静な住宅地だ。
 穏やかな午後の陽に照らされながらのんびりと歩いていくと、やがて一橋大学のキャンパスが現れる。今日はその大学の文化祭に加えて「くにたち市民まつり」も開かれており、周辺はこれまた大変な賑わいである。並木道は歩行者天国になり、両側には青空市やらテントやらが並んでいる。大学の文化祭と市民まつりは、どこに境目があるのかわからないほどだ。住民の自治意識の高い国立市らしく、見ていても市民の手作り感のあるお祭りである。

 かつて農村の収穫祭のようにして始まった酉の市が、江戸の市内で都市型の祭りに変容していったように、「くにたち市民まつり」もまた、現代の酉の市とでも言うべきものだろうか。

 広いキャンパスの中に法科大学院の建物があり、その中には日曜日の今日も自習に出かけた我家の息子がいるはずだ。近くまで来てるよ、とメールでもしてみようかとも思ったが、こちらは遊んでいる身だし、シャイな奴だから、呼んでみたところでどんな顔をしたらいいのかわからないことだろう。やはり勉強の邪魔はしないでおこうと、家内と決めた。夜中に帰ってきたら、話でもしてやろう。

 国立の駅は、昨夜のJRの集中工事が終わり、上り線の高架のホームの運用が今日から始まっている。踏切のなくなった中央線の快速電車に揺られ、酉の市の熊手守りを手に、家内と私は半日の散歩を終えようとしていた。
 また少し、日本の神様のことを思ってみた半日だった。

Ookunitama 06.JPG

秋祭り [宗教]

 日没が早くなった。

 猛暑の名残りが続いているが、さすがに真夏の頃とは違って、午後を回ると太陽の光にどこか赤みが加わっていく。いつまでも30度を超える気温との間にはミスマッチ感があるが、一年の日時計は確実に歩みを進めているようだ。今日もよく晴れていたが、午後六時には暗くなった。考えてみれば、あと十日ほどで秋のお彼岸である。

 「夜中に英プレミア・リーグの中継があるから、11時までには家に帰るよ。」と言って、息子は今日も朝から法科大学院へ出かけていった。娘は大学のゼミ合宿で日曜日まで帰ってこない。子供達がそんな風だから、週末に家内と二人だけで過ごす時間も最近では珍しくなくなっている。

 今日も昼前に二人で池袋へ出て、そこからはそれぞれの時間の過ごし方をしていたのだが、4時頃までには家に戻り、簡単なツマミを作って、朝から冷やしておいたロゼワインを二人で楽しんでいた。今日も暑い一日だったが、気がつけば、もう日が暮れている。

 「せっかくだから、お祭りに行ってみようか。」
 「そうだね。ここんとこ何年も行ってないからなぁ。」

 今日と明日は、近所にある簸川(ひかわ)神社の祭礼である。普段はひっそりとした小さな神社なのだが、秋祭りだけは賑やかで、人がよく集まっている。中学生の頃までこの神社のすぐ近くに住んでいた家内にとっては、子供の頃からの氏神様のようなものだ。ほろ酔い加減で私たちは出かけることにした。

 すっかり暗くなり、土曜の夜で車も少ない千川通りをのんびりと歩いていくと、先の方の小さな四つ角の右側だけが賑々しい光で明るい。その路地には早くも屋台が出ていて、周囲からは子供の手を引いた人々が吸い込まれるように集まってくる。浴衣姿の子供たちも多い。小石川植物園の北西側に隣接した、狭い坂道の左側がこの神社の境内で、昼の蒸し暑さが残っているところへ、それぞれの屋台が火を使い、そこへ人々がひしめき合っているものだから、歩いている私たちは早くも背中に汗が流れ始めていた。

 アンズ飴や焼きそば、ベビーカステラなどの屋台を通り過ぎて鳥居のある階段を登ると、僅かばかりの境内がある。そこにも屋台が敷地を取り囲むようにして出ていて、中央では鬼太鼓のパフォーマンスが行われているところだった。この暑さの中、文字通り汗のほとばしる演奏である。
DSCN3145.JPG

 お祭りに集まる人々の大半は屋台がお目当てなのかもしれないが、本殿の前で参詣に並ぶ列も出来ていた。せっかく来たのだから、神様にご挨拶だけはしておこうと、私たちも列に従う。どこからともなく蚊取り線香の煙が漂う中、列はゆっくりと進んで、私たちも最前列に出た。

 二礼二拍手一礼。十円玉一枚でそんなにたくさんお願い事をしてもいいのかな?と思うほど、家内は長い間手を合わせている。子供達が大人としての進路を決めるのはこれからだから、親としては心配事が尽きないものだ。大それたお願いごとをするつもりはないが、高い所から私たちの行動をいつも見つめている神様に対して恥ずかしくないよう、真面目に生きていくことを誓いつつ、一家のささやかな幸せを願う。それはここに並ぶ人々にも、そして毎年の祭礼を続けてきた我々の祖先たちにも共通する思いであるのだろう。
DSCN3146.JPG

 よく考えてみると不思議なことだが、私たちが神社でこうして神様に手を合わせる時、祭壇の向こうにおわすのは一体何という神様なのか、それを問うことはあまりしないものだ。この簸川神社に祀られているのも、素盞鳴命(スサノオノミコト)、大己貴命(オオナムヂノミコト)、稲田姫命(イナダヒメノミコト)の3神なのだそうだが、それが意識されることは殆どないだろう。因みに稲田姫命は素盞鳴命の妻、大己貴命はその子孫で、大国主神(オオクニヌシノカミ)の別名である。

 この神社は孝昭天皇3年(473年)の創建とされる。孝昭帝は実在の天皇とは考えられていないのでその年代は割り引いて考えるとしても、意外と歴史の古い神社のようである。元々は現在の小石川植物園の中の水源地に置かれていたが、江戸時代になって現在の場所に移され、「氷川大明神」と呼ばれたが、明治期に「氷川神社」に名前を変え、更に大正時代に現在の「簸川神社」に表記を変えた、とある。いずれにしても、小石川村の鎮守の神様であったようだ。

 東京に暮らしていると、「氷川神社」という名前はよく目にする。この名前の神社は全国で261社もあり、中でも埼玉県に162社、東京都に68社があるという。これだけで既に88%である。(残りは福井県12社、福島県5社など) 関東の、それも荒川流域に集中して分布しているそうだ。「氷川町」、「氷川台」などという地名もあちこちに残っている。

 それらの「氷川神社」の本社は埼玉県の大宮駅からほど遠からぬ所に今も大きな境内を持つ氷川神社で、昔から武蔵国一ノ宮と呼ばれ、維新の後は官幣大社の社格が与えられた枢要な神社である。各地の氷川神社はここから御霊(みたま)を分けたもので、祭神はどこの氷川神社も先に挙げた3神である。
DSCN3151.JPG

 氷川神社は、武蔵氏という氏族が国造(くにのみやつこ)として関東に移り住んだ時に、一族の信仰を持ち込んだのがその始まりだそうだ。その武蔵氏は物部氏や大伴氏と同じ出雲系の出身で、「氷川」の名前は出雲国にある、かつて簸川と呼ばれた河川がその由来であるという。それは、中国山地を水源として宍道湖へと流れ込む現在の斐伊川である。

 ご祭神の素盞鳴命(スサノオノミコト)は天照大神(アマテラスオオミカミ)の弟で、悪行により高天原から出雲国へと追放された神様である。ヤマタノオロチを退治した伝説が残るが、そのオロチは氾濫を繰り返した斐伊川をイメージしたものであるという。斐伊川と同じように耕作には大切な河川であるが、やはり暴れ川でもあった関東の荒川を、武蔵氏が畏敬の念を持って祀ったのが氷川信仰の始まりである、と聞くと、それはそれで説得力がありそうである。

 素盞鳴命は高天原では散々悪行を働いたが、出雲に追放されてからはヤマタノオロチを退治し、草薙剱を得て天照大神に献じ、地元の娘(イナダヒメ)を娶るという、善悪を併せ持つ神様である。その猛々しいエピソードの数々から厄除けの神様として祀られてきた。それは、畿内に比べれば後発地域で気候風土も荒々しい関東には相応しい神様だったのかもしれない。いずれにしても、大和朝廷の時代の草深い関東が出雲とつながっていたあたり、古代史のダイナミズムを感じる話である。
DSCN3150.JPG

 「スサノオって、縁結びの神様じゃなかったっけ?」
 
 その昔、修学旅行で出雲大社を訪れたことがあるという家内は、そう記憶している。イナダヒメと結ばれたことから、確かにそういう神様としても崇められたようだ。高天原で悪行を繰り返し、下界ではヤマタノオロチと戦ったスサノオの姿が荒魂(あらみたま)だとすれば、イナダヒメとのロマンスはさしずめ和魂(にぎみたま)なのだろう。そういう両面を持っているのが、日本の神々なのである。それもまた、いい。

 夜店に集う境内の賑わいはまだ続いている。

 この簸川神社に限らず、二人でお祭りに出かけたのもずいぶんと久しぶりのことだ。もしかしたら新婚時代以来かもしれない。後はいつも子供達の手を引いていたから。

 昔ながらの的当てや金魚すくい、風船釣りなどの屋台を眺めながら、蒸し暑さが残る中にも、近づきつつある秋を思った。

不飲酒戒 [宗教]


 明日9月8日は、二十四節気の白露である。「野草に露が宿るころ」という意味で、暦通りならば朝早くにそんな光景が見られるのだろう。そして9月10日は富士山の初雪の平均日だが、猛暑がまだ続く今年は、いずれもまだしばらくはお預けなのだろうか。

 今朝は通勤電車の窓から、丹沢の山々を従えた富士の高嶺が久しぶりに見えていたが、東京は今日も最高気温が35度を超える猛暑日だった。近々富士に初雪が降るようなことは、ちょっと想像できそうにない。

 暑い夏が続いているが、実はこの八日の間、酒を飲んでいない。定期健診の一環で受けた大腸の内視鏡検査でポリープを少々取ってもらったため、医師の指示で今週の金曜日までアルコールはご法度になった。従って、このところ晩飯の時も飲み物はもっぱら烏龍茶である。

 思えば三十代・四十代は休肝日の少ない生活をしてきたし、その休肝日を自分なりにだいぶ増やすようになってきたこの数年も、夏の暑い頃はどうしても缶ビールに手を伸ばしてしまいがちであった。それを、よりによってこの気象観測史上最も暑い夏に一週間以上も止められるのだから、さぞかし辛いだろうと、検査を受ける前は正直憂鬱だった。

 ところが、禁酒期間が始まってみると、指折り数えて解禁日を待つといった感じではなく、これはこれで意外に淡々と日が過ぎていくのである。若い頃に比べて妙に執着心がなくなったのか、「飲みたいなぁ」と思うことも特にない。意図的に冷蔵庫に缶ビールの類を何も入れていないこともあるが、「無いなら無いで、いいではないか」と達観するようになった自分が、何だか不思議だ。

 太古の昔、果汁や蜂蜜などが自然発酵したものをたまたま飲んで酩酊し、その偶然を何とか再現しようとしたことが、人類における酒造りの始まりなのだという。その酒造り、日本列島では米から作る「どぶろく」が酒の始まりであるように思い込んでしまいがちだが、出土した縄文土器の形状から考えると、縄文人たちは果実酒を飲んでいた可能性があるそうだ。もちろんその後、大陸から稲作技術が伝わってからは、米を原料とする、より量産が可能な酒が中心になっていったのだろう。

 中国の史書『三国誌』の中の『魏書東夷伝』に、紀元4世紀になる頃の日本では、人々が葬儀の時にも酒を飲み、飲むとたちまち無礼講になる、というようなことが書かれているそうだ。いかにも我々と血のつながっていそうな、愛すべき祖先たちである。
rice wine.jpg

 さて、その日本が一つの国家を形成しようとする少し前に、大陸から仏教がやって来た。そこには、仏教徒としての自覚のもとに、やっていいことと悪いことを自分で判断し行動していく時の基準と、教団生活の中で「やってはいけないこと」と規定された色々なルールがあった。言うまでもなく、前者が「戒」であり後者が「律」である。そして、日本に伝わったいわゆる大乗仏教は、細かな規則である律よりも、仏教のより本質的な部分である戒を重んじる仏教であったようだ。

 お釈迦様によって示された仏教徒としての判断基準は、「五戒」と呼ばれる。
  1. 不殺生戒 (ふせっしょうかい) (ことさらに生き物の命を奪ってはならない)
  2. 不偸盗戒 (ふちゅうとうかい) (盗んではならない)
  3. 不邪淫戒 (ふじゃいんかい) (道ならぬ愛欲にふけってはならない)
  4. 不妄語戒 (ふもうごかい) (嘘を言ってはならない)
  5. 不飲酒戒 (ふおんじゅかい) (酒を飲んではいけない)

 上記の1から4は、その行為自体が罪であるから戒めるという「性戒(しょうかい)」であるのに対し、5は悪を引き起こす可能性が高いから戒める「遮戒(しゃかい)」として区分されている。つまり、飲酒という行為自体が悪である、或いは酒という存在そのものが悪であると言っている訳ではなく、人は元々過ちを犯すものであるのに、酒を飲むと益々過ちを犯しやすくなるから、そういう愚かなことはすべきでないという意味で酒を飲むことを戒めているのだそうだ。

 ともかくも、弥生時代の終わり頃から飲むとたちまち無礼講になっていた日本人に対して、「酒は飲まないように」と諭すお釈迦様の教えが入って来たのである。

 大乗仏教の中で釈迦本来の仏教の姿を最も良く残しているといわれる禅宗の系統の寺院では、
 「不許葷酒入山門」 (くんしゅさんもんにいるをゆるさず)
といって、酒を飲むことを強く戒めていた。酒に限らず、臭いが強く精力のつくもの(ニンニク、ネギ、ニラ等)も禁止されていたというから徹底している。いずれも修行の妨げになるという訳である。
007.jpg

 ところが、
 「飲み過ぎるのは確かに問題だが、適度な量の酒であればむしろ人間関係が円滑になるのだからいいじゃないか。」
と、お釈迦様が示された原則もなし崩し的に曖昧になっていくのが、いかにも日本である。不飲酒戒は最も守られない戒の一つになった。

 「酒飲むは罪にて候か。答う。まことは飲むべくもなけれども、この世のならい。」 (法然上人)

 「法然さんはなかなか話のわかる人じゃないか」と思わずニヤリとしてしまうが、こうした、良く言えば人間の弱さに対して寛容な、悪く言えば「何でもあり」のような浄土教の系統は言うに及ばず、禅宗系の寺でもいつの間にか、
 「酒は百薬の長ともいうのだから、健康のために少量なら飲んでもいいじゃないか。」
ということになり、「般若湯(はんにゃとう=智慧の湧き出ずるお湯)」などという呼び方でクロをシロと言いくるめるようになった。何のことはない、イノシシを「山クジラ」と呼んで、これは四ツ足ではないと言って鍋にして食べたのと同じことである。現実社会では酒が人間関係の潤滑油になっている以上、「適度な量なら」という「世間の常識」が宗教上の規範をも上書きしてしまうのが、この国の姿なのだろう。

 もっとも、酒飲みに「適度な量」をわきまえていて決してそれを踏み外さない人間などいるのかどうか。「ちょっとなら」、「もうちょっとなら」が積み重なって、いつの間にか限度を越えてしまうのが人間というものではないだろうか。

 かく言う私も、来週初には仕事の上での宴席があり、不飲酒戒は早晩破らざるを得ない。それもまた「世間の常識」を踏まえてのことである。仏教は実践してこそ意味があると言われるが、お釈迦様の教えに違わず生きることは、まことに難しいと言わざるを得ない。

 もっとも、こんな堂々巡りは酒を飲まない人から見れば何とも不思議な光景なのだろう。

 「次の星には酒飲みがいた。王子さまはこの惑星にほんの少しの間しかいなかったけれど、それでも彼はとても憂鬱な気分になった。
 『ここで何をしているの?』 と、たくさんの空(から)の瓶とたくさんの酒の入った瓶を前に黙って坐っている酒飲みに向かって、王子さまは尋ねた。
 『飲んでいるんだ』 と酒飲みは暗い声で答えた。
 『なぜ飲むの?』 と王子さまは聞いた。
 『忘れるため』 と酒飲みは答える。
 『何を忘れるため?』 と王子さまは、なんだかこの男がかわいそうになってきて、尋ねた。
 『恥ずかしいことを忘れるんだ』 と酒飲みは下を向いて打ち明けた。
 『何が恥ずかしいの?』 と、できれば手を貸したいと思いながら、王子さまは重ねて聞いた。
 『酒を飲むことが!』 それだけ言うともう酒飲みはまたかたくなに沈黙の中に籠もってしまった。
 王子さまは頭が混乱したまま、その星を出た。
 大人というのは確かにとてもとても変わった人たちだ、という思いをますます深めながら、王子さまは旅を続けた。」
 (『星の王子さま』 アントワーヌ・ド・サンテクジュペリ 著、池澤夏樹 新訳、集英社文庫)

根津の権現さま [宗教]

 5月15日(土)、快晴。朝早く目が覚めたので、今日もジョギングに出かけることにする。

 いつも決めているコースを走ってもよかったのだが、今朝は少し趣きを変え、根津神社へ向かった。我家からはゆっくり走っても20分ほどである。境内の一角にあるツツジ園で有名なのだが、5月の連休一杯まで行われていた「つつじまつり」に今年は行きそびれていた。

 4月の天候不順をもたらした、シベリアの寒気が南に降りやすい気候のパターンがその名残りを見せたようで、今週は例年よりもかなり気温の低い日が続いた。木曜日には上越国境の谷川岳で雪が降ったという。だから、雨上がりの今朝も青空の下で冷たい空気が残っていたが、走る者にとってはそれが心地よい。我家から登り坂と下り坂を二つずつ越えて、緑に覆われた根津神社に着いた。
DSCN2747.JPG

 土曜の朝の7時前だから、境内に姿を見せているのは近所の早起きなお年寄りぐらいのものだ。朝日が背の高い木々を照らし、宝永3年(1706年)の創建になる社殿はその影の中にある。将軍綱吉の治世の最晩年。富士山が噴火して宝永火口ができた、その前の年のことだから、建てられてから三百年を超えている。本殿、拝殿から楼門に至るまでの7棟が国の重要文化財である。

 「今から千九百年余の昔、日本武尊が千駄木の地に創祀したと伝えられる古社で、文明年間には大田道灌が社殿を奉献している。」

 根津神社の「ご由緒」にはそう記されている。日本武尊と大田道灌の組み合わせとは恐れ入るが、これに従えば神社は当初、今よりも少し北方にあったことになる。それを、将軍綱吉が兄・綱重の子・綱豊を自分の世継に定めた時、氏神である根津神社に土地を献納し、「世に天下普請と言われる大造営」を行ったのが、今も残るこの神社の社殿なのだそうである。大空襲を受けた都心にありながら、よくぞ今まで残ったものだと思う。
DSCN2744.JPG

 江戸時代に作られた地図を見ると、この神社は「根津権現」と記されている。赤坂の日枝神社も、古地図では「日吉山王大権現」である。「ごんげんさま」という言葉は、それこそ時代劇などにもよく出て来るが、それが何なのかを私達が意識することは、ほとんどないと言っていいだろう。

 権現とは、仏教の尊格が日本の神々の姿を借りて人々を救うために現れたものとされる。インド生まれの仏教には、それがやがて他の地域へと信仰が広がっていく中で、その土地古来の宗教や思想と融合する大らかさがあった。飛鳥時代にそれが伝わった日本では、最初こそ日本古来の神々との衝突があったものの、神と仏は急速に習合・融合していく。平安時代には、仏教の本来の尊格(本地仏)が、仮に日本の神の姿になって現れる(垂迹)とする、いわゆる「本地垂迹」という思想になった。

 その代表的なものが、日枝山(比叡山)の山岳信仰と日本古来の神道、そして天台宗が融合した山王神道なのだろう。大山咋神(おおやまくいのかみ)という、「大いなる山の神」が主たる祭神なのだが、それは釈迦の垂迹であるとされ、天台宗と延暦寺の守護神ともされた。「比叡山の王」であり、釈迦が姿を変えた大山咋神、それが「山王権現」だということになる。

 先に名前の出た大田道灌は、江戸城の守護神としてこの神様を勧請して日枝神社を建てている。そして、大山咋神は徳川家の氏神にもなったようだ。江戸時代の根津神社はその山王神道の神社であり、根津の町の「ごんげんさま」であった訳だ。だが、明治初期の「神仏分離令」によって釈迦と大山咋神は別物になり、権現という言い方は一時禁止もされたようである。

 ともあれ、大山咋神が「大いなる山の神」であるならば、明日の日曜日に山へ行く予定の私としては、一言仁義を切っておかねばならない。拝殿に向かって二礼二拍手一礼。神様が何と仰せられたかは知る由もないが、明日は気をつけて山へ行って来よう。
DSCN2741.JPG

 その根津神社をあとに、私は更に30分ほどジョギングを続けて家に戻った。午前7時半。土曜の朝はまだ始まったばかりである。せっかく神様に挨拶をして一日が始まったのだから、今日という日を有意義に使いたいものだ。

花の季節 [宗教]

 
敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花 (本居宣長)

DSCN2487.JPG

 今年もまた、桜の季節である。東京では4月1日に桜の満開が宣言され、この週末は花見盛りとなった。だが、今日の日曜日も天気予報が伝えていたほどの晴天にはならず、文字通り「花曇り」と「花冷え」の、花見にはいささか肌寒い一日となった。我家の前の桜並木も、今年の花見客は例年より静かである。

 私たち日本人が桜の開花に寄せる思いは独特のものだ。まだ若葉も何一つない枝から薄桃色の花が、ある時一斉に咲き始め、みるみるうちに街や野山を染めていく。その不思議さは、この国におわす八百万の神のなせる業という他はない。

 「サクラの語源については諸説あって定かでない。『咲くうららか』がつまってサクラになったとか、稲の精霊を意味するサと、神座(かみくら)のクが結びついてサクラとなったという説などいろいろとあるが、情緒的には咲くうららか説に軍配を挙げたいような気もする。」
(柳 宗民 著、『日本の花』、筑摩書房)

 稲の精霊や神座に語源を求める節があるぐらいだから、サクラという言葉はずいぶんと古くからあるのだろう。ついでながら、桜という字はもちろん中国から伝わった漢字だが、あちらでは日本でいうサクラではなく、ユスラウメを指す文字なのだそうである。

 サクラがそれぐらい古い言葉だとすれば、古来、我々の祖先たちは桜の花に心を揺さぶられていたのだろうとつい思ってしまいがちだが、中世までは花鳥風月の移ろいを楽しむ余裕があったのは貴族階級だけで、庶民も春の花見を楽しむようになったのは江戸時代になってからのようだ。

 花を愛でる、ということで思い出すのは、仏教関係の本を読むと必ずといっていいほど言及されている、お釈迦さまにまつわる「拈華微笑(ねんげみしょう)」というエピソードである。

 ある時、釈尊はインドの霊鷲山(りょうじゅせん)で、大梵天王(仏教の守護神)から金色の花を捧げられ、弟子たちに対して説法をお願いされた。釈尊はその花を持って講座に上がり、花を弟子たちに示しただけで一言も言わず、ずっと皆の顔を見ている。誰もその意味がわからない。すると弟子の一人の摩訶迦葉(まかかしょう)だけがその意味を悟って微笑した。釈尊は「吾に正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)、涅槃妙心、実相無相、微妙(みみょう)の法門あり。不立文字(ふりゅうもんじ)、教外(きょうげ)別伝、摩訶迦葉に付嘱す。」 (私には、文字では表せない、言葉では述べられない仏の真理がある。その真理を迦葉、そなたに譲ったぞ。) と言った・・・。

 日本における曹洞宗の始祖・道元が著したあの難解な書物・『正法眼蔵』の名はここから来ており、この「拈華微笑」の説話が禅宗の始まりとされているのだが、それにしても、釈尊が示した花を見て迦葉はなぜ微笑んだのか。

 「花をみたとき、にっこりと笑う心。花の美しさに自然に微笑む心、この心こそ人間誰もが持っている仏心です。 (中略)
 花をみて笑える心は、食欲、色欲、財欲、名誉欲、睡眠欲などの強烈な人間五欲のほかの心です。その、ほかの心が花をみてにっこりと笑わせる。人間にとって一番純粋な心、清らかに澄んだ心が笑わせる。
 なんぼ花をみても銭もうけにはならん。デートの代わりにもならん、腹もふくれん。が、それでも花をみて笑える。どんな貧乏のどん底におっても花をみて笑える。こういうすばらしい心が人間には在るのです。それが人間の本心だと分かることが仏教じゃ。 (中略)
 きれいだなぁ。喜ぶ、その心を仏さまに捧げとるんだ。花を、ではない、花みて笑う心を、仏さまに差し上げとるのです。
 この仏心こそ人間性の原点だと分かるとき、心の目が開く。開けるとどうなるか。華道の宗家がこういっている。
 “石も花 垣も花 華台も花 鋏も花 水も花 生けられる草木ももちろん花 生ける姿も花なり”
 ここまで到れば、絢爛たる百花ばかりでなく、松の緑、樹木の葉、一切の新緑も様相一変。道端の岩も石も土も、ありとあらゆるものが花となる。何をみても花だ。そう分かれば朝から晩まで笑いはとまらん。笑ってばかりいなくてはならん。」
(高瀬 広居 著、『仏音』、朝日新聞社 より 臨済僧 山田無文の言葉)

 何しろ不立文字なのだから、釈尊が迦葉に伝えた「仏の真理」が何かを文字や言葉で表すことは出来ない。上に引用したのは、あくまでも無文さんの一つの解釈なのだと考えるべきなのだろう。だが、親が自分の幼子をいとも簡単に殺めてしまうような、何とも殺伐とした今の世相の中で、「花をみて笑える心」に立ち戻ってみることが、我々には必要なのかもしれない。
052.JPG
(京都・仁和寺)

 今は満開の桜も、来週には散る。しかし、その後にも次々に春の花はやって来る。むしろ、同じ花が一斉に咲く桜とは違い、「山花開いて錦に似たり、澗水湛えて藍の如し」(『碧巌録』)というように、これからの季節は山に様々な花が咲いて錦のようになる。その多様性が楽しいのである。

 今週末は天気が今ひとつ芳しくなかったので、月に二回程度を目指している友人達との山歩きは来週以降に延期となった。次の週末の幸運を祈りたい。

禅宗の気分 [宗教]

 私達日本人が、何かの機会にふと京都を訪れてみようかと思うのは、なぜだろう。

 日本の街の多くが、その景観において、文化のありようにおいて、無残という他はないほど特色を失ってしまった中で、空襲を受けなかった京都には古い日本の姿が残っている、そのことは確かにある。では、私達が京都に求めるその「古い日本の姿」とは何か。京料理、舞妓、和服の文化・・・と人によって興味の対象は異なるだろうが、人々の関心の大半は寺社仏閣に向けられているはずだ。
008.JPG
(東寺)
 
 建物や仏像には国宝や重要文化財が数多く、中には世界文化遺産に登録されている寺社もある。そうした「格付」に弱いところが我々にはあるのも確かだ。しかし、それだけではないだろう。仏教への信仰心が篤い訳でもないのに、或いは思想としての仏教に造詣が深い訳でもないのに、これだけ多くの人々が京都のお寺を巡るのはなぜか。私なりに考えれば、それは外来の文化である仏教を取り入れた我々の祖先たちが、それを消化し、日本人の伝統的な美意識に合ったものへと融通無碍に改編していった、そのことを目で見たり肌で感じたりすることで、一種の安心感を得ようとしているからではないだろうか。

 会社から休みをもらい、家内と娘を連れて、週末に引っ掛けて二泊三日で京都を訪れた。我家にとっては11年ぶりの京都。そのことを決めた背景は、上に述べたようなことが自分の中にあったのかもしれない。

 京都といえば清水寺だが、その清水さんの宗派は北法相宗(きたほっそうしゅう)といって、元々は奈良の興福寺と同じ系譜である。いわゆる南都六宗の一つだが、そういうことは参拝者にはあまり意識されていないだろう。そのご本尊は十一面千手観音だが、本堂の脇には大きな大黒様も祀られていて、どちらを拝んでいるのかよくわからないところが日本的でもある。

 横長の本堂に1,001体の千手観音立像がずらりと並ぶ三十三間堂は天台宗の寺である。一方、京都駅の南西に大きな五重塔を持つ東寺(教王護国寺)は真言宗の総本山で、金堂の中の薬師三尊や十二神将、講堂の中で我々を圧倒する立体曼荼羅はやはり壮観である。共に、こういう雰囲気はいかにも密教のものである。

 仏像を見に行くならこうしたお寺がいい。だが、京都の特色は何といっても禅寺だろう。鹿苑寺(金閣)、慈照寺(銀閣)、南禅寺、大徳寺、龍安寺、妙心寺、天龍寺・・・、これらはみな臨済宗の寺である。それも、鎌倉にある臨済の諸寺が、初期の禅寺が持つ質実な味わいを残しているのに対して、室町時代に権力に組み込まれた京都の臨済宗は、武家の文化が公家化したのと同様に、禅寺といってもどこか優雅で美的に洗練されている。

 京都駅から南東の方角にある東福寺。広大な敷地に現在も25の塔頭を擁する臨済宗の大きな寺である。境内には三つの谷があり、そのうちの真ん中の谷に架かる通天橋からの紅葉の眺めがつとに有名なところだ。鎌倉時代に、時の摂政であった九条道家が、九条家の菩提寺として「京の新大仏寺」を建てることを発案。東大寺と興福寺から「東」・「福」の二文字を取り、1255年に大伽藍が完成したという。開山は日本で初めて天皇から国師の号を贈られた禅僧・円爾弁円である。
013.JPG
(東福寺)

 臨済宗の始祖・栄西(1141~1215)は1168年と1187~1191年の二度も宋に渡った人で、禅を学び日本に持ち帰った。当時の京都では延暦寺の天台宗が強く、帰国した栄西は布教のプロセスを極めて慎重にたどる。1198年に『興禅護国論』を表した後、新興勢力である鎌倉将軍家に近付き、1214年には時の将軍・実朝に健康食品として茶を勧めている(『喫茶養生記』)。そういう時代背景の中で、東大寺と興福寺を超える「京の新大仏寺」の建設を、それも禅僧を開山とする前提で1236年に始めたというのは驚くべきことだが、当初は天台・真言・禅の三宗兼学としてスタートしたというから、やはり叡山の虎の尾を踏まぬ配慮をしたのだろう。

 実際に東福寺を訪れてみると、三つの谷を擁する自然の風景の中に寺の佇まいが溶け込み、その中に架かる通天橋も、芽吹きの始まった楓の木々の奥に見え隠れする方丈も、まるで自然の中の一つであるかのようだ。

 一般に禅寺は簡素な形(なり)をしていて、余計なものがない。回遊式の庭園の代わりに枯山水の石庭を造り、「無」を眺める。仏像にはこだわらず、代わりに始祖の肖像画などを床の間に掲げることが多い。禅とは解脱を求めるための方法論なのだが、徹底して己(おのれ)を見つめ、自己の外側に何物も求めない。(「無事」という言葉は、自分の外に何かを求める気持ちが完全に止んだ状態をいうのだそうだ。) 全ては自らに由ると考える。だから、道場での修業は日常生活そのものであり、経典を読むよりも、作務と座禅を一心に行うことが求められる。それは辛いことだが、曹洞宗の始祖・道元が「人みな仏法の器なり。」と述べたように、修行に取り組めば人間誰もが持つ仏性(如来蔵ともいう)によって悟りは開ける、という考え方が禅宗には元々あるようだ。
057.JPG
(龍安寺)
039.JPG
(天竜寺)

 今から13年前、私がまだ香港に駐在していた頃、その香港が中国に返還された翌日に「アジア通貨危機」が始まった。或る金融商品のカラクリの中で米国の投資銀行が引き金を引いたことが発端とされるが、ともかくもそれまで新興工業国として「アジアの時代」などともてはやされていたタイ、マレーシア、インドネシアなどの通貨が突如として売り込まれ、それはフィリピンや韓国にも飛び火した。

 外貨借入によって経済成長を謳歌していたこれらの国々は、緊急融資を頼んだIMF(国際通貨基金)によって緊縮財政を強要され、公的部門の圧縮と景気の急降下から各国ではリストラが相次いだ。米国のウォール街は、「アジアの時代」の頃はアジア向け融資の仲介で儲け、通貨危機になると今度はリストラのアドバイザーとして「一粒で二度美味しい」思いをするのだが、私は香港からこうした国々を見つめ、IMFによって押し付けられる「グローバルスタンダード」に対し、否定されるアジアの価値観とは何だろうということを考えるようになった。しかし、それにしてはアジアの文化をよく知らないし、そもそも日本の文化についても余りにも知識がない自分に気がついた。そして興味が湧いたのが、アジアの特徴の一つである仏教文化である。それから色々な本の乱読が始まったのだが、そのことを通じて学んだことの一つが、アジアの中で禅宗が最も普及し、その思想が最も民族の血肉となったのが日本であったということだ。そしてその伝統は、日本の衰退が懸念されている今こそ、何としても大切にしていきたいと思う。

 桜の開花を迎えたというのに、京都は真冬のような寒さが続いていた。鴨川の橋から北を眺めると、比叡の山々はまだ雪景色である。穏やかな春爛漫が待ち遠しいが、こればかりは思い通りになるものではない。待つこともまた楽しみの一つと考えればいいのだろう。要は自分の気の持ちようである。

 そういえば、こんな歌があった。

 極楽は西にもあらず東にも北(来た)道さがせ南(皆身)にぞある

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。