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仏の国の通史 [美術]


 8月11日(金)、今年から始まった「山の日」のおかげで、お盆休みを合わせると会社は来週の水曜日まで6連休だ。

 私は今年の4月下旬に開腹手術を受け、今はまだそこからの養生過程にあるので、山の日といっても山歩きはまだ封印中である。もっとも、この夏は特に8月に入ってから天候不順が続いており、東京では何だかんだ毎日雨が降っている。この時期に山へ行っていたとしても、山頂から一望千里という訳にはいかなかっただろう。

 この日は夕方から家内と上野に出かけ、東京国立博物館で開催中の日タイ修好130周年記念特別展『タイ ~仏の国の輝き~』に足を運んでみた。

 私が1996年から2003年まで香港に赴任していた間、仕事でも家族旅行でもタイにはよく出かけたものだ。独特の民族文化を今も色濃く残した非常に特徴のある国で、どこへ行っても食べ物は美味しいし、暑さの中で万事ゆったりと物事が動いていく感じが好きだった。そして、私たち日本人にも親しみのある仏教が今なお非常に盛んだが、それは我が国のものとは随分と有り様の異なる仏教で、そこが何ともエキゾチックである。そんなタイに残された仏教美術の名品を通じて同国の歴史と文化に触れるという企画。東京メトロの車内で盛んに流れる広告を最初に見た時から、これは行こうねと家内と話していたのだった。

 東京国立博物館は毎週金曜日が21時閉館なので、遅い時間からでも展覧会を楽しめる。この日、私たちは17時半過ぎに入場。祝日の夕方だが、世の中はお盆の帰省の初日ということもあってか、博物館の中はガラガラで、実にゆったりと展示物を鑑賞することが出来た。
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 特別展の鑑賞を始めて感心したのは、展示物の説明と共に、タイという国の歴史そのものに関する説明が実にわかりやすいことだ。

 家に帰って高校時代の世界史の教科書をひっくり返してみると改めて気付くのだが、タイを含めた東南アジアの歴史に関する教科書の記述は、さながら中国史とインド史の谷間にすっぽりと落ちていて、極めて断片的にしか述べていない。だから、私自身も極めて不勉強なことに、タイという国の通史を全く理解していなかった。東南アジアにあって帝国主義の時代に欧米列強の植民地にならなかった唯一の国、という断片的な知識がかえって邪魔をして、遥かな古代からタイ人の王国が連綿と続いて来たかのようなイメージを勝手に持ってしまっていたのである。

 ところが、タイの地理を改めて整理してみればわかるように、この国の北部はユーラシア大陸の一部でインドシナ三国やミャンマーと陸続きだ。そして南部のマレー半島から南はマレーシアやインドネシア、そしてフィリピンなど島嶼部の多い国々との船での往来が古来盛んで、それはインドと中国を結ぶ海上交易のルート上にある。だから、古くはヒンドゥー教、その後はイスラム教の文化が入り込み、民族的にも華僑や印僑のプレゼンスが大きい地域だ。要するに、極東の島国に住む私たちとは比べ物にならないほど、タイは歴史上、周辺の民族に揉まれ続けて来たのである。

 チャオプラヤ川の肥沃なデルタが広がるタイの平野部には、BC36世紀にも遡るという世界でもかなり早期の農耕文明が興り(世界遺産にもなった遺跡あり)、AD6~11世紀にかけてチャオプラヤ川沿いのタイ中央部から北部にかけて都市国家が成立。これが世界史の教科書にも一応名前だけが載っているドヴァーラヴァティ王国である。これを形成したのはモーン族という、古くから東南アジアに居住していた、肌が浅黒くて目がギョロッとした民族だそうだ。
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 ついでながら、タイ国政府観光庁のHPには
「かつてはタイ族の起源は中国から南下した民族であるとされていましたが、以上のような先史時代の遺跡、またドヴァーラヴァティ王国やクメール王朝などの史料から、現在その説は否定されています。」
という風にきっぱりと書かれているところが面白い。「俺たちは中国人の末裔なんかじゃないぞ!」という気概を見せているようで。

 そのドヴァーラヴァティ王国では上座部仏教の信仰が篤く、造営された数多くの寺院に法輪が造られたという。「車輪が転がるように仏陀の教えが広まることを意味する」法輪が盛んに造られたのはこの王国の大きな特徴なのだそうだ。
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(7世紀に造られた法輪)

 その後、7世紀頃から現在のカンボジアでクメール族の王国が隆盛になり、ドヴァーラヴァティから独立して9世紀にはアンコール朝が成立。11世紀には強大になってタイ中央部も勢力下に治める。有名なアンコール・ワットが建設されたのは12世紀初めのことである。(このアンコール・ワットに象徴されるように、クメール族はなぜかヒンドゥー教の強い影響を受けていた。)
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 しかしアンコール朝の繁栄も長くは続かず、中国を支配したモンゴル人のの勢力がインドシナにも及び始めると、アンコール朝の支配下にあったタイ族が玉突きのようにして雲南地方から南下。13世紀前半にタイ中北部を支配してクメール族の勢力を駆逐する。こうして成立したのが、タイ族初の王朝となるスコータイ朝だ。「幸福の生まれ出ずる国」という意味を持つこの王朝下では上座部仏教に基づく仏教文化がいよいよ栄え、タイ語の文字や文学が生まれるなど、現在にも繋がる「この国のかたち」が形成されていく。日本でいうと鎌倉時代の初期にあたる。
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 特別展に展示された14~15世紀のこの王朝下の仏像は、私たちが一般的に持っているタイの仏教文化のイメージそのものではないだろうか。
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 その後、14世紀半ばになると、スコータイの南にアユタヤ朝が成立。これがスコータイを併合し、東のクメール王国にも侵攻して首都アンコールを陥落させる。以後400余年の間、この王朝は国際交易国家として栄え、秀吉・家康の時代には朱印船貿易に携わった日本の商人たちもここに集い、日本人町も誕生した。言うまでもなく山田長政(1590~1630)が活躍した時代である。(日本人町に集まったのは商人だけではなく、戦国時代末期に主君を失った浪人たちが傭兵として海を渡ったケースも多かったのだ。)
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(薙刀を持っているのが日本人義勇兵)

 しかし、アユタヤ朝はその成立以降、西に隣接する現在のミャンマーを支配していた王朝と何度も戦火を交えた。その中で1765~1767年にかけて起こった戦争で首都アユタヤは陥落し、街はミャンマー軍によって徹底的に略奪・破壊され、アユタヤ朝は完全に滅亡してしまった。

 私は香港駐在時代に家族を連れてアユタヤを訪れたことがある。石造りの仏教遺跡の数々を巡り、それらがミャンマー軍によって破壊されたという説明も受けたのだが、まるで古代遺跡のように風化したその様子から、ミャンマーとの戦争とは、例えて言えばポエニ戦争(ローマvs.カルタゴ)のような古い話なのかと恥ずかしながら思っていた。しかし、それが18世紀の戦争だったとすれば、それなりに砲火(少なくとも銃火)を交えるような戦争だったのではなかろうか。
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(アユタヤの遺跡の一つ、ワット・プラシーサンペット)

 このアユタヤ朝滅亡のあたりから、世界史の教科書においてタイに関する記述はなくなり、その次は帝国主義時代の列強諸国による東南アジアの植民地化の話まで飛んでしまう。だが実は、1767年のアユタヤ朝滅亡の後、15年間の争乱を経る中でタイ族の勢力はミャンマー軍を再び撃退し、1782年にチャオプラヤー・チャクリーが内乱を鎮めてラーマ1世として即位。これが現在も続くラッタナコーシン朝(またはバンコク朝)である。

 その後、19世紀半ばに王位にあり、映画「王様と私」で有名なラーマ4世の時に清朝への朝貢を止めて冊封体制から脱し、西洋との自由貿易を開始。続くラーマ5世の時代に数々の近代化政策が実施された。因みに、今年で「日タイ修好130周年」という1887(明治20)年の日タイ修好通商宣言は、このラーマ5世の外交政策の成果物なのである。

 首都バンコック最大の観光地の一つである「エメラルド寺院」は、ラーマ1世の時代に建てられたものだ。予備知識を何も持たずに行くと、奈良や京都の名刹のように古いものと考えてしまいがちだが、実は日光の東照宮より150年以上も後に建てられたもので、タイの歴史の中ではかなり新しい存在なのである。
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(Google Earthで俯瞰した「エメラルド寺院」)

 仏像を鑑賞するというよりも、私の場合は今回認識を新たにするになったタイの通史の方に目が行ってしまったが、こういう機会に学び直すことが案外あるものだと思った。タイの通史をもう少しきちんと頭に入れていたら、香港駐在時代に何度も足を踏み入れたあの国の姿をもっとまともに見つめることが出来たかもしれないという大きな後悔も含めて。人間、還暦を過ぎてもなお、まだ知らないことだらけだと痛感している。

 いつもなら東京国立博物館の特別展は黒山の人だかりなのに、「山の日」の夕方に訪れた今回は入場者も少なく、展示室のソファーからもゆっくりとタイの仏様の微笑を鑑賞することが出来た。金曜日の夜に行くのはおススメである。

 外に出ると日没後の残光がそろそろ消えようかという頃で、本館のライトアップが美しかった。

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失われた遺産 [美術]


 七宝(しっぽう)焼きという工芸は、誰にも馴染みのあるものだろう。金属の下地の上にペースト状の釉薬を乗せて高温で焼いたものだ。中近東で生み出されたその技法が、中央アジア経由で日本に伝わったのは奈良時代だという。大がかりな設備も要らないので、個人で楽しむ人も多いようだ。

 だが、小さな壺の表面いっぱいに藤の花が描かれ、その花びらの一つ一つは1ミリほどの小ささで、しかも色の変わり目が金属線で仕切られた有線七宝として作られている、そんな精緻な七宝焼きが明治時代の一時期に日本から盛んに輸出され、欧米のバイヤーたちによって高価で購入されていたことを、現代の私たちは認識しているだろうか。
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(左:七宝焼きの「花文飾り壺」、右:薩摩焼の「蝶に菊尽し茶碗」)

 同様に、薩摩焼という陶磁器も、誰もが知っている物だろう。秀吉による「文禄・慶長の役」の際に、朝鮮から連れて来られた陶工たちを技術者として薩摩藩が保護したことから始まり、現在に至るまで発展してきたものだ。薩摩焼と聞けば、水で割った焼酎を温める時に使う「黒ぢょか」を連想する人も多いことだろう。

 だが、小さな茶碗の内側に僅か3ミリほどの大きさの無数の蝶が描かれ、しかもその個々の蝶は上下の翅(はね)の色が使い分けられていて、単眼鏡でもなければ細部の出来栄えを鑑賞することは到底できない、そんな精緻な薩摩焼が幕末維新の頃から海外に紹介され、明治時代には日本の輸出工芸品の花形であったことを、現代の私たちは認識しているだろうか。

 こうした七宝や陶器だけではなく、漆工、金工、刀装具、象牙彫、印籠、刺繍絵画など、いずれもミクロの技を極めて海外から大いに珍重された明治日本の第一級の輸出工芸品160点を鑑賞できる美術展『超絶技巧! 明治工芸の粋』が、東京・日本橋の三井記念美術館で開催されている。これは必見の美術展だ。
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 雨風に晒されて朽ち果てたような古瓦の上に、一羽の鳩がとまっている。だが、古瓦と見せかけて、実はそれは「打出し」で古瓦のような質感を持たせた鉄なのだ。そして、その上から鳩が足元の一点を凝視している。その目線の先にあるのは、瓦の窪みに身を潜めてはいるが、鳩に見つかってしまった一匹の蜘蛛なのだ。その縮こまった蜘蛛の慌てぶりまでもが見事に表現されている。そして、高さ15センチほどのこの作品はいったい何かというと、実は香炉で、上の部分が蓋になっている。こんな金工品を、現代の私たちは見たことがあっただろうか。
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(左:金工の「古瓦鳩香炉」、右:象牙彫の「竹の子、梅」)

 更には、展示ケースにゴロリと置かれた、たった今掘り出されたばかりのような実物大のタケノコ。どう見ても本物としか思えないのだが、実は象牙を彫って作り、彩色を施したものなのだという。その他にも、茄子だの蓮根だの柑橘類の一種だのと、八百屋の店先のように並べられたものが、実は同様にみんな象牙彫なのだ。これにはただただ呆気に取られるしかないだろう。三井記念美術館の内部は重厚な造りでとても厳かな雰囲気なのだが、会場のあちこちで聞こえて来るのは、驚きの声と溜息ばかりである。

 今回の美術展は全て、京都の清水三年坂美術館の所蔵品なのだという。館長の村田理如氏は、1980年代の後半に出張先のニューヨークでたまたまアンティーク・モールのショーウィンドウに置かれていた美しい印籠を見つけて、幕末・明治の美術品の虜になったそうだ。以来、「村田コレクション」と呼ばれる明治工芸品の収集に邁進することになる。

 「集めるうちに気がついたことは、幕末・明治の美術品の名品はほとんどが海外に流出していて、日本国内には残っていないし、それらを本格的に展示している美術館も国内には存在していないということでした。特に金工(金属工芸)、七宝、印籠、根付等はひどい状態だということが分かってきました。」

 「これらの名品が、日本で市場に出れば、海外の業者の手に渡り、たちまち欧米に流出してしまいます。こういう事が、明治以降延々と続いてきた為に日本からほとんど姿を消してしまったのです。だから一般の人が明治の美術品の名品を見る機会はほとんどないといっていいかと思います。」

(『明治の美術に魅せられて』 清水三年坂美術館HPより)

 徳川の世が終わった日本は、欧米の近代文明を取り入れる文明開化へと大きく舵を切り、新しい文物が急速に取り入れられたが、その一方で古いもの、伝統的なものが数多く捨てられた。ただ捨てるだけでなく、明治の初年に寺や仏像の大々的な破壊行為に結びついた「廃仏毀釈」などは、その最たるものだろう。

 対外的にも国内的にも戦争のない時代が長く続いた徳川の世。伝統工芸の名人たちは大名家のお抱えになり、もはや実用の機会がなくなった武具などは、「お洒落を演出するための小道具」へと昇華していた。浮世絵や文楽、歌舞伎などに代表される町人文化の興隆と相俟って、幕末時点での日本は、技術そして芸術性の両面で、世界の中でも非常に高い文化水準にあったようだ。

 ところが、そうした伝統文化が、明治の欧化政策の中で、国内では急速に見向きもされなくなってしまった。大名家もなくなり、お抱えの名人たちは職を失う。そうした人々の「失業対策と殖産興業政策」として、明治政府が彼らに輸出用の工芸品を作らせ、その結果、「外貨獲得のために外人の好みに合わせて作らせた作品」が数多く輸出された。そして、その中には想像を絶するような技巧を駆使した驚くべき作品が幾つもあったのだ。「村田コレクション」として現代の我々が鑑賞できるのは、その中のごく一部なのである。
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 そうした経緯を踏まえると、この美術展の名前に付された「これそ明治のクールジャパン!」というサブタイトルは、私にはいささか引っ掛るものがある。「小さくて精緻」というのは日本の工業製品の代名詞のようなものだから、それが明治の工芸品にもあったのだとすれば「クールジャパン」の源泉なのかもしれないが、それが世界に知られるようになった背景は、「国内では見捨てられた」ということなのだから。

 前述の「廃仏毀釈」に代表されるように、歴史が大きな変化点を迎えた時に、何か物に取り憑かれたように社会全体が一方向に走ってしまうことが、この国には何度もあった。もちろん、その結果として比較的短期間に変革を成し遂げることができたというメリットは大いにあったのだが、その反動として、捨てなくてもいいようなものまで捨ててしまい、不必要に価値を貶めてしまった物も山ほどあった。そのことを忘れてはいけないのだと思う。個々の作品はクールに見えても、当の日本社会は頭に血が昇っていてクールではなかったのだから。(先に挙げた象牙彫のタケノコなどは、一体どうやって象牙に色を塗ったのか、その技術は最早わからなくなってしまったそうだ。)

 更に言えば、これらの「海外に輸出されて高値で取引された」とのとだが、これだけの技を見せた当時の名工たちは充分に報われたのだろうか。これほどの技術に相応しい報酬を得ていたのだろうか。オリンピックの東京誘致の際のキャッチフレーズになった「おもてなし」もそうだが、それが安易に行われれば、単なる「オーバースペックなサービスの安売り」だけで終わってしまう。今の私がモノ作りの世界にいるから余計にそう思うのかもしれないが、明治の工芸品の技術の高さが正しく価格に反映されていたのか、超絶技巧なら「超絶価格」にちゃんとなっていたのか、それが製作者に正当に還元されたのか、そのあたりが気になるところだ。

 「村田コレクション」として収集された輸出用工芸品の数々は、江戸時代のハイレベルで多様な文化遺産を明治の日本がしっかりと受け継いでいたこと、そしてその後の日本がいかに大きなものを失ったのかということを、改めて私たちに教えてくれる。同時にまたそれは、多種多様な分野のそれぞれで皆がきっちりと仕事をこなしてきた日本の姿を凝縮しているようにも見える。簡素な美もあれば派手な美もある。繊細さばかりではなく、大胆なデザインもある。動も静もあり、一つの概念で全てを語ることは不可能だ。それらの総体の中に香る「日本」があるとすれば、それは実に淡く微かで、目には見えないものなのだろう。

 下手な官製イベントのような「クールジャパン」という言葉には踊らされず、ネット上に氾濫する安っぽいナショナリズムにも与せず、私たちは祖先たちの作品をじっくりと見つめながら、日本というものの在りようを考えて行きたいものである。

  「日本はたしかに一途(いちず)なところはあるのですが、それとともにたいそう多様な歴史を歩んできました。日本は『一途で多様な国』です。
 信仰や宗教の面からみても、多神で多仏です。『源氏』と信長の横着と芭蕉のサビが同居しているのです。考えてみれば。日本には天皇制や王朝文化がずっと主流になっていたことなど、ないのです。天皇と将軍がいて、関白と執権がいて、仏教と神道と儒教と民間信仰が共存してきた。(中略)

 信仰的なことばかりではない。社会制度だって一つの全国制度が支配していた例はきわめて少なかったと見るべきです。東の日本と西の日本はちがっているのです。江戸後期にいたるまで、東国では貫高制の金の決済で、西国では石高制の銀の決済がおこなわれていましたし、風土や習慣も異なるものが併存していた。東は水田優位社会が進行し、西は畑作優位社会が動いていたし、道具や言葉づかいも多様です。(中略)

 こういう多様性や多義性はふつうに考えると、そのままでは混乱を招いたり、弱体になりすぎて他国の侵略を受けたり、どこかの属国になりかねないという意見もあるでしょう。そう、思われがちになる。しかし実際には、それでも日本は日本であることを、なんらかの理由でちゃんと保ってきました。対比や矛盾だらけのようでいて、必ずしもそうでもないのです。」

(『日本という方法』 松岡正剛 著、NHKブックス)

手仕事という伝統 [美術]

 現代の私たちは、数多くの工業製品に囲まれて暮らしている。

 例えば、今私はマグカップのドリップ・コーヒーを飲みながら、机の上のノートパソコンに向かっている。身に纏っている室内着は、安価なカジュアル・ウェアを大量に販売している某メーカーのものだ。そして、胸ポケットに入れたスマートフォンが時々震えて、友人たちからメールが来たことを教えてくれる。

 長方形の机、小さなデスク・ライト、事務用の椅子、マグカップ、パソコン、室内着にスマートフォン。これらはいずれも機能本位の極めてシンプルな形にデザインされている。考えてみれば、私たちの普段の暮らしの中で身の周りにあるのは、こうした大量生産用にデザインされた物だらけだ。

 その一方で、私たちは時として、手仕事で作られた物をしみじみと鑑賞することがある。世の中が大量生産型の工業製品で溢れているからこそ、全く同じものは他に一つもない、そして「機能本位」とは別次元の、手作りならではの造形美を愛でてみたくなるのだろう。ましてそれらがこの国古来の伝統文化を受け継ぐ、繊細さと精緻を極めたものであったとしたら。

 毎年秋、日本橋三越を皮切りに各地で開催される「日本伝統工芸展」は、そうした手仕事による第一級の工芸品の数々を眺めることができる、貴重な機会だ。先に述べた通り、我が国が工業化の時代を迎え、とりわけ戦後になって国民のライフ・スタイルが急速に変わって行ったことから、消滅の危機に晒された全国各地の伝統工芸を保護し、その担い手を育成することを目的に、昭和29年から毎年続けられてきた。陶芸、漆芸、金工、木竹細工、染織、人形、諸工芸(ガラス、七宝など)の各分野における、現代の匠(たくみ)たちの作品を楽しむことが出来るのである。

 その「日本伝統工芸展」が、昨年秋に第60回を迎えた。そのことを記念した『人間国宝展-生み出された美、伝えゆくわざ-』という展覧会が、東京・上野の国立博物館で開催されている。三越の「日本伝統工芸展」には二人で足を運んだことが今までに何度もあり、家内と私はこの展覧会を楽しみにしていた。
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 「人間国宝」という言葉は通称で、正確には、昭和25年制定の文化財保護法に基づいて文部科学大臣が指定する重要無形文化材の保持者として認定された人物であるそうだ。今回の『人間国宝展』では、既に故人となった104名の人間国宝の手による名品が展示されている。

 今の展覧会はなかなかよく出来ているものだ。まずは第一章「古典への畏敬と挑戦」で、国宝や重要文化財として保存されている工芸品の古典を展示し、その伝統を受け継ぐ人間国宝の作品がそれに続く。遥かな昔に練り上げられた匠の技が現代の名工たちにもしっかりと継承されてきたことを、まず確かめることが出来る。平安時代の作とされる国宝の「片輪車蒔絵螺鈿手箱」は、その優雅なデザインといい精緻な仕上がりといい、まさに日本の工芸文化の原点であるかのようだ。
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 続く第二章「現代を生きる工芸を目指して」という展示箇所では、戦後のライフ・スタイルの大きな変容の中で現代の名工たちが、伝統を強く意識しながら今の時代に求められる技と表現を追求してきた、その様子を理解することになる。

 ここで誰もが歩みを止めてうっとりと眺めるのが、平田郷陽の名作「抱擁」だろう。江戸時代の末期に、主に見世物用に作られたという「活人形」の伝統を受け継ぎながら、人物の姿形は現代風に大胆にデザインされている。それでいて、生まれたばかりの幼子を優しく抱き上げる母親の姿は、時代や民族を超えて皆が共感を持つものだ。
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 そして、最後の第三章「広がる伝統の可能性」で頭を柔らかくして鑑賞してみたいのが、長い伝統をベースとしながらも、個性的なデザインなどによって伝統の概念を打ち破るような、現代の名工たちが示す伝統工芸の未来形である。展示品の最後を飾る生野祥雲斎の竹細工「怒涛」などは大変にインパクトの強いデザインで、もはや竹細工というジャンルを超えたものではないだろうか。しかもこれが1956年の作品であることに驚いてしまう。
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 先に挙げた平安時代の「片輪車蒔絵螺鈿手箱」。その写真は学校の日本史の教科書には必ず載っているから、誰もが見たことがあるだろう。このような作品が12世紀という時代に作られ、しかもそれが今に至るまできれいに保存されているのは驚くべきことだが、私たちの遠い祖先は、手箱という物に精緻な装飾を加えることに、なぜここまでのこだわりを見せたのだろう。

 20世紀ドイツの思想家オスワルド・シュペングラーは、西欧の近代文明が持つ独特な精神、すなわち無限への衝動的な欲求を、「無限の空間に憧れ、さらに、その空間を征服しようという欲求」であると定義し、それを「ファウスト的精神」と名付けた。

 要は、物事をいい加減な状態で終わらせず、根本原理をとことん突き詰めようとする姿勢のことだ。それが科学の出発点になり、啓蒙思想につながり、そして近代資本主義を推し進める原動力にもなった。

 「ご承知のとおり、ファウストとは、ゲーテの名作の主人公の名前である。ファウスト博士は、世界を動かしている根本原理とは何かを知るために、悪魔メフィストフェレスに魂を売ることをも厭わなかった男である。
 このファウストの話は、ヨーロッパには伝説として広がっていた物語であるが、それまでは『悪魔に魂を売った男ファウスト』と否定的な意味合いで語られていた。これに対して、ゲーテは従来の解釈を捨て、どんな犠牲を払ってでも学問を深めたいというファウストの知的欲求は肯定されるべきであるとし、彼を近代人の代表として描いた。」
(『かくて歴史は始まる』 渡部昇一 著、クレスト社)

 引用したのはずいぶん昔に読んだ本なのだが、その中で著者は、
〇鉄砲伝来から極めて短期間に日本が世界一の鉄砲生産国になったこと、
〇織田信長が16世紀後半の時点で政治と宗教を切り離したこと、
〇江戸時代に様々な学問が発達し、17世紀に関孝和と建部賢弘が和算の世界で微積分の概念に到達したこと(世界の中でも、独力でここまで到達したのは、関と建部の他には、同時期のドイツのライプニッツと、少し遅れて英国のアイザック・ニュートンだけであったという)
などを例に挙げながら、日本人が西欧と比べても遜色のない早い時期から「日本的ファウスト精神」を発揮し、それがアジアでいち早く近代化を成し遂げる土台となったと述べていた。

 「ファウスト的精神」というと何やらおどろおどろしい響きがあるが、日本の伝統工芸品の洗練されたデザインや手仕事の精緻さに表れた、妥協を許さず細部に至るまで美を突き詰めるという日本人の「こだわり」も、渡部氏の言う「日本的ファウスト精神」に繋がるものではないだろうか。

 着物について言えば、小紋のように微細で精緻な模様に生地を染め上げることは、着物の機能面からの必要性は全くなかったはずだ。けれども、それを着て表を歩く以上は、その装飾においても先人たちは妥協を許さず細部にこだわってきた。染織用の型紙が会場にも展示されていたが、その気の遠くなるような微細さ、精緻さにはただただ脱帽するしかない。

(着物の染織用の型紙については、以前にも書いたことがあった。)
http://alocaltrain.blog.so-net.ne.jp/2012-04-16

 私は今、モノ作りの会社にいる。といってもB to Bの世界だから、世の中一般にイメージされるモノ作りとは少し違うのだが、経済のグローバル化が極限まで進もうとしている中、今までのように国内でこの事業を続けていくことに様々なハードルが出て来ていることは言うまでもない。

 長らく続いた超円高を受けて、我々の顧客もモノ作りを日本の外に持って行ってしまったから、アベノミクスで1ドル100円台半ばまで円安になったといっても、それで昔の世界が戻って来る訳ではないのだ。新興国の同業者とも益々競合が激しくなる中、我々は更に技を磨き、コストを削り、素早く納品して行かねばならない。

 だからこそ、近代以前からこの国の先人たちが旺盛な「日本的ファウスト精神」を発揮し、ミクロにこだわり抜いて伝統工芸の技を磨き続けてきたこと、そしてそんな名工たちを尊ぶ文化・社会を近代以前から持ち続けてきたことが、日本ならではの近代化、工業化社会を迎えることに繋がった、そのことにあらためて励まされる思いがする。

 そして、この国で長い間受け継がれてきた伝統工芸という文化は、単に近代以降の社会の工業化に成功するためにだけ存在した訳では決してないはずだ。地球全体を見渡してみれば、むしろ大量生産型の工業化を進めていくことが一体いつまで持続可能なのか、そのことにはもう既に大きな疑問符がついている。

 そんな中で、伝統的な手仕事の持つ温かみと無限の可能性、ローカルに生きながらグローバルにも通用する美にこだわるそのスタイルに、私たちはこれからも学ぶところが多いのではないだろうか。
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 先人たちの匠の技に圧倒されながら過ごした一時間半。平成館で開催されているこの「人間国宝展」に加えて、本館では年明けに因んだ浮世絵や能衣装なども楽しむことが出来る。

 文化とはいいものだと、あらためて思う。


白い箱 [美術]


 私が子供の頃、東京・赤羽駅の北西にある高台に、赤羽台団地という公団住宅が建てられた。東京23区内では初の「マンモス団地」で、ズラリと並ぶ鉄筋コンクリート製の建物は5・6階建てぐらいだっただろうか。母方の親戚がそこに入居していて、小学生の頃に遊びに行ったことがあるのだが、コンクリートの四角い箱の両面に機械的に並ぶ無機質な窓や、どこまでも続く縦も横も直線的な景観は、当時の私にとっては全くの近未来だった。東京といえども、オリンピックの前後の頃はそれがまだ珍しかったのである。

 白い箱のような家を建て、窓を大きく作り、直線的なデザインの家具に囲まれて過ごす。空間の使い方としては最も合理的なそのスタイルが人類にとって当たり前になったのは、実はそれほど古いことではない。

 TVドラマのシーンからモノを語るのは安易に過ぎるかもしれないが、例えば、ジェレミー・ブレットが演じる『シャーロック・ホームズ』に出て来るロンドンの街中は、煉瓦造りの重厚な建物が続き、家の窓は縦長で小さい。街中の交通手段は馬車で、急ぎの通信は電報だ。ホームズがベイカー・ストリートの221bに事務所を構えていたのは1881~1904年とされるのだが、当時は世界随一の先進国だった英国の首都でも、街の景色はそんな風だったのだろう。
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 それが、アガサ・クリスティーの『エルキュール・ポワロ』になると、時代は二つの世界大戦に挟まれた1920~30年代となる。アメリカもヨーロッパ大陸も工業化が進み、人々が大量の工業製品に直接触れることによって、生活・文化のスタイルが急速に変わっていった時代である。

 デヴィッド・スーシェ扮する名探偵ポワロは自動車で事件の現場に向かい、秘書が電話を取り次ぐ。そしてポワロの事務所兼住居であるロンドンの「ホワイトハウス・マンション」は、曲面ガラスを多用したアール・デコ調の建物だ。ホームズの時代から半世紀も経っていないが、ずいぶんと大きな違いである。
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 そのポワロの時代の少し前、第一次世界大戦が始まった1914年に、真四角な箱型の家を建てることを初めて提唱した一人の男がいた。工業化の時代を先取りする画期的なアイデアを生み出したその男は、当時28歳の若者だった。

 1887年にスイスで時計の文字盤職人の家に生まれ、その家業を継ぐために装飾美術学校に進んだが、校長からは建築の才能を見出され、パリで鉄筋コンクリート建築を学ぶ。大学は出ておらず、建築事務所で働きながらの実学だ。1922年には従兄弟と共に建築事務所を構えるようになるのだが、シャルル=エドゥアール・ジャンヌレという彼の本名よりも、その頃から使い始めたペンネームの方が遥かに有名になった。

 ル・コルビュジェ。言うまでもなく、20世紀のモダニズムを代表する建築家である。
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(Le Corbusier 1887 - 1965)

 時は流れ、1959(昭和34)年に東京・上野で国立西洋美術館が開業を迎えた。戦後、フランス政府によって差し押さえられていた、いわゆる松方コレクションの返還を受けるにあたり、それらを展示する専用の美術館を建てることが条件になった。そして、日本政府からその設計を依頼されたのが、巨匠ル・コルビュジェだったのだ。

 その国立西洋美術館で、『ル・コルビュジェと20世紀美術』という展覧会が開催されている。建築設計の傍ら、現代絵画や彫刻、版画なども多数手掛けたル・コルビュジェの作品の数々を、彼自身の設計による建物の中で鑑賞するという、なかなかユニークな企画である。よく晴れた日曜日の午後、家内と出かけることにした。
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(国立西洋美術館・本館)

 本館の常設展入口から中に入ると、普段は「19世紀ホール」として使われている場所にル・コルビュジェの彫刻作品が展示され、いきなりキュビズム的な世界に引き込まれる。そして、緩いスロープを歩いて二階に上がると、普段はこの美術館の所蔵品である14~18世紀の絵画が常設展示されているフロア全体に、ル・コルビュジェ、及び彼と交友関係のあった人々の作品の数々が展示されている。ル・コルビュジェならではの吹き抜け構造。壁の上方に配置された横長の窓、或いは吹き抜け部の天窓からの柔らかな外光の取り入れ。そして空間の中でアクセントになる細い階段・・・。改めて建物の中を眺め回してみると、確かにこれは、合理的な中にもしっかりとした個性を持った造りである。

 1914年にル・コルビュジェが提唱した箱型の住宅。「ドミノ・システム」と名付けられたそれは、「第一次世界大戦によって破壊された街で、安価な住宅を、緊急かつ大量に確保するための原理を提案したもの」なのだそうだ。
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(ドミノ・システム - Foundation le CorbusierのHPより拝借)

 「六本の柱、三枚の床板、階段、それだけを描いた図に、提案内容が尽くされている。つまり、壁がないのだ。骨組みだけを用意してやり、壁は住民自らが、周囲に散乱している瓦礫を積み上げてつくる。」
(『ル・コルビュジェを見る』 越後島研一 著、中公新書)

 柱が四隅や壁面から少し内側に立っているのがミソで、建物の重量は柱で支えられているため、外壁は煉瓦のように重厚なものでなくてもいい。好みによって凹凸を付けることも可能だ。何よりも、建物を支える必要がないから、壁面に(場合によっては建物の四隅にすら)大きな窓を置くことも可能だ。壁面に軽くて平らな建材を使うことで、すっきりとした白い箱型の家を建てることができる。後にル・コルビュジェの作品で最も有名になった「サヴォワ邸」(1931年)につながるコンセプトの原型がここにある。

 そして1925年にパリで開かれた万国博覧会では、「レスプリ・ヌーヴォー館」の設計をル・コルビュジェが担当。装飾のない“四角い箱”そのものの建物は、アール・デコ一色だった博覧会の中で極めて異色の存在であったという。
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(Pavillion l 'Esprit Nouveau 1925 - 同上)

 「いま街で普通に見かける、豆腐を切ったような形態の建物は、二十世紀以降に特有のものだ。十九世紀までの重々しい建築が、植物形態を特徴とする世紀末に大きく変わり始め、その果てに到達したのが、こうした直方体の姿なのだ。」

 「十九世紀末、建築家たちは、それまでの『閉鎖的な箱の中』という空間を拒否し始めた。まずは分厚い壁を、萌え上がる植物装飾で覆って重苦しさから逃れようとした。そうした流れが最終段階に到ったのがこの一九二〇年代だった。二十世紀にふさわしい建築や都市のあり方が、徐々に具体的に見えてきた時期だったのだ。そうした過渡期にル・コルビュジェは、絵画から都市に到る、最大幅で斬新な提案をした。それは、新たな快適さ、新たな都市像などの発想を支える基盤が、つまり新たな空間のあり方が正確に捉えられ、また表現の武器として有効に使えるまでに消化されていたからこそ可能だったのだ。」
(以上、いずれも前掲書)

 とは言え、“白い箱”だけで建物の魅力を保ち続けることは不可能で、個々の建築作品には、緻密な計算と共に様々なアートの感性が必要だ。朝はアトリエで絵を描き、午後は事務所で設計に取り組むという日々と、様々なアーティストたちとの交友を通じて、ル・コルビュジェはそのマルチな才能を如何なく発揮していったのだろう。
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(Villa Savoye 1931 - 同上)

 とりわけ、フェルナンド・レジェ(1881~1955)、パブロ・ピカソ(1881~1973)、ジョルジュ・ブラック(1882~1963)といった、彼とは同世代のキュビズムの画家たちから、ル・コルビュジェは大きな感化を受けたという。だから、例えばレジェが次第にキュビズムの手法から離れて、くっきりとした輪郭と明快な色彩を持つシンプルなフォルムの作風へと変わっていったように、ル・コルビュジェが描く物も、いつしか曲線を多用したタイプの現代絵画になっていく。

 そして、ヨーロッパに大規模な破壊をもたらした第二次世界大戦が終わり、時代の要請である大規模な共同住宅の設計に参画しつつ、ル・コルビュジェが辿り着いたのは、壁に曲面を大胆に取り入れた「ロンシャン礼拝堂」(1955年)という、白い箱のサヴォワ邸のイメージとは対極にあるものだった。
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(Chapelle Notre Dame du haut, Ronchamp 1955 - 同上)

 展覧会では、このロンシャン礼拝堂の模型が展示されていて、その内部の様子も覗いてみることができる。建物の外見は不規則で不思議な形をしているが、内部は思いのほかすっきりとしていて、窓からの採光もよく、合理的に出来ているところは、やはりル・コルビュジェなのだと思う。

 サヴォワ邸からロンシャン礼拝堂へ。展覧会の展示物を見ることだけで私はもう頭の中が一杯になってしまったが、ル・コルビュジェのこのような作風の変遷の背景を、これから私なりに時間をかけて、じっくりと理解して行きたいと思った。

 考えてみれば、我家もマンションという四角い箱の中である。そのことを普段は何ら意識せずに暮らしていて、頭の中まで四角くなってしまっているが、たまにはそれを丸くして、ライフスタイルを見直してみようか。そんなことを考えるには、秋はいい季節かもしれない。

あの時の空の青 [美術]


 今月の中旬から、日経新聞朝刊の文化面に、「空の青 十選」と題する連続コラムが載っていた。

 「梅雨どきはなかなかお目にかかれない青空。せめて紙面で青空を味わっていただきたく。」

という意図で始まったこのコラム。19世紀イタリアのジョヴァンニ・セガンティーニ(1858~99)が描いた夏のアルプスに始まって、ギュスタヴ・クールベ(1819~77)による海の絵、初期ルネサンスの北イタリアで活躍したアンドレア・マンティーニャ(1431~1506)の天井画。そして我が日本からは北斎(1760~1849)の錦絵や岸田劉生(1891~1929)の油彩なども取り上げられて、古今東西人々の心にとまった夏の青空を、追体験のように眺めてみることができる。新しいところでは、ルネ・マグリッド(1898~1967)の、灯りがともった夜の家を描いているのに、森の背後は明るい青空という実に不思議な絵が面白かった

 編者は俳人だから、毎回のコラムの中に必ず一つ、何らかの俳句が引用されていて、その17音に凝縮された感性が、絵画を眺める時に湧き上がる自由な発想をアシストしてくれる。なるほど、文化とは頭を柔らかくして接するものだと、あらためて思う。

 今回の十選には入っていなかったが、「空の青」と聞くと、そのものズバリの題名を持つ一枚の絵画を私は思い出す。ロシア出身で、ドイツやフランスで活躍したワシリー・カンディンスキー(1866~1944)の作品で、抽象絵画の創始者とされる彼の代表作の一つである。
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(ワシリー・カンディンスキー作 「空の青」 1940年)

 この縦長の絵。澄んだ青空に浮かぶ不思議な造形の数々は、いったい何を意味しているのだろう。水の中の微生物のようでもあり、鳥のようでもあるのだが、その一つ一つの形が何ともユーモラスで、しかも細かく塗り分けられた色がどれもみな優しいパステルカラーだ。眺めているだけで色々なことが頭の中に浮かんでくる、とても楽しい絵である。どこからか音楽も聞こえて来そうだ。

 私と家内がこの絵に親しみを持つきっかけになったのは、1987年の初夏に東京・竹橋の国立近代美術館で開かれた、カンディンスキーの作品を多数集めた大きな展覧会に出かけた時のことである。我が家ではその年の11月に子供が生まれる予定になっていたので、家内のお腹はもうだいぶ大きくなっていた。そんな時に広い展覧会場をくまなく歩き回るのは大変だから、ポイントを選びながら休み休み歩いたのだが、その時に二人で飽きることなく眺めたのが、この「空の青」だった。

 何という自由な発想。何という色合いの優しさ。そして何と綺麗な青空・・・。生まれて来る子供がこんな感性を持って生きて行ってくれたらいいなあと思い、私たちは展覧会場のショップで、この絵のポスターを買い求めた。そしてその日から我が家の中で、既に用意されていたベビーベッドを見下ろす壁に、白い額縁に入れたこの絵が飾られることになった。

 今でも十分に「新しさ」を感じさせるこの作品からはちょっと想像がつかないが、カンディンスキーがモスクワで生まれたのは、幕末の日本で王政復古が起きた、その前年のことだ。裕福な家庭に育った彼は、やがて大学で法学や経済学を学び、そのままであれば大学に残っていたのかもしれない。残された彼の写真を見ると、その生涯を通じて、画家というよりは大学の先生か行政官のような風貌をしている。
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(1918年 革命後のモスクワにて 当時52歳のカンディンスキー)

 その彼が30歳の時に、モスクワで開かれた美術展でモネの「ジヴェルニーの積み藁」の絵を見て強い衝撃を受け、画家になることを決意したのだというから、人生とはわからないものである。

 ミュンヘンに移住して絵塾に入ったカンディンスキーは、風景画に腕を磨くことになる。だが、彼の眼は描こうとする対象そのものを次第に離れ、それが放つ色彩を直接カンバスに描こうとする抽象絵画の技法に入り込んでいった。その彼が中心となって1911年(当時45歳)に始めた「青騎士」という新しい芸術運動は、3年間ほどの短命に終わったものの、現代芸術の草分けとしてつとに有名である。
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(「ムルナウ 市場と山々」 1908年)

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(「即興VI」 1909年) 

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(「即興XXVIII (第二版)」 1912年) この間の作風の変遷に驚かされる

 やがて、母国ロシアが革命の前夜を迎えると、カンディンスキーはモスクワに戻り、革命後の新政権に参画。だがスターリンの時代には前衛芸術が疎んじられたために、再びドイツに戻る。1922年(当時56歳)にはヴァイマールの美術・建築の総合学校・バウハウスで教員として芸術活動に従事することになった。この時期から、彼の作品には直線や円、幾何学模様が登場し始めるのである。
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(「白の上に II」 1923年)

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(「コンポジションVIII」 1923年)

 だが、今度はヒトラーのナチス政権によってカンディンスキーらの活動は退廃芸術の烙印を押される。身の危険を察知したカンディンスキーは、1933年(当時67歳)にスイスを経由してパリに移住。既にその街に集まっていた多くの芸術家たちと親交を温めたという。(その間、ドイツの美術館に残されていた彼の作品57点が、退廃芸術として没収され、売り飛ばされてしまったそうだ。)
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(「無償の上昇」 1934年)

 1939年(当時73歳)にフランス国籍を取得したカンディンスキーは、第二次世界大戦が始まってフランスがドイツに占領されて以降も出国をしなかったという。だが、フランスでも彼の作品はあまり理解をされなかったようだ。そして、大戦の終結を見ないまま、1944年の12月にパリ郊外で失意の内にその生涯を閉じた。享年78歳。彼の業績が再評価されるまでには、戦後もなお年月が必要であった。

 非凡な才能を発揮しながらも、人生の後半を革命と戦争の時代に翻弄され、自らの芸術活動が迫害の対象にさえなったのだが、それでもカンディンスキーは、「私は悲しくもまた幸福である。」という言葉を残している。そして、そんな彼の人生の苦難を全く感じさせないほど、彼が残した作品の数々が、光の明るさと色彩の優しさ、そして自由な精神に満ちていることには、ただ驚くばかりだ。因みに、私と家内がかつて東京の展覧会場で眺め続けた「空の青」は、フランスがドイツに占領された1940年の作品なのである。
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(1936年 パリにて 当時70歳のカンディンスキー)

 東京でカンディンスキー展が開催された1987年の11月中旬に、我が家では予定通り子供が生まれた。それは長男だった。その翌年の春には、私が一年間の業務研修で単身ロンドンへと発つことになる。そして、その年の冬が始まろうとする頃、家内と一歳になったばかりの長男をロンドンに呼び寄せて一緒に暮らし、年末を迎えた。

 3~4日ほど続くクリスマスの祝日は、ロンドンにいても開いている所が殆どない。私たち3人はその期間をパリで過ごすことにしたのだが、その時にたまたまジョルジュ・ポンピドゥー・センターを訪れていて、家内と私は思わず「あっ!」と声を上げた。あのカンディンスキーの「空の青」と、思いがけずもそこで再会したのである。それはポンピドゥー・センターの所蔵品だったのだ。

 前年の夏にはまだ家内のお腹の中にいた子を今は腕の中に抱いて、異国の地で再び同じ絵と巡り合ったことの不思議さ。何という幸運。以来、カンディンスキーの「空の青」は、我が家にとって守り神の一つのようになった。だから、私がロンドンから帰国した年の夏に娘が生まれた後も、息子の時と同じように、ベビーベッドを見下ろす壁には白い額縁に入れた「空の青」のポスターがあった。もう24年も前のことだ。

 今週もまた梅雨空は続く。そしてその次の週からは7月だ。あと一月ほどの我慢なのだろうが、梅雨が明けたらどんな夏空が待っているだろうか。家族と共にそれを眺めることを、楽しみにしよう。
 

書というアート [美術]

 1980年代の初頭に私が社会人になった時、会社には和文タイプ室という部屋があった。各種の契約書をはじめとする対外文書を中心に、そこでは和文タイプによって書類が作成され、そのための技能を持った人が雇われていた。

 それから数年後に、日本語ワードプロセッサーという電子機器がオフィスに登場。当初は事務机を丸々一つ占領してしまうほど大きな物だったが、機器の小型化・高性能化と共に急速に普及が進み、あっという間に和文タイプを追放してしまった。だが、その後PC用の日本語ワープロ・ソフトが次々に登場し、とりわけマイクロソフトのWindowsが現われると、日本語の文書はもっぱらPCによって作成されるようになり、日本語ワードプロセッサーという単一機能の機器は駆逐されてしまった。

 更には電子メールが一つの社会インフラのようになり、携帯電話やタブレット端末などからの電子メールの受送信が人々のライフスタイルに完全に組み込まれるようになった今、自分の手で文字を書くことは、私たちの生活の中では非常に少なくなっている。

 しかしながら、文字を書くということ、それも出来るならば綺麗に書こうとすることは、人類が遥か古代から繰り返してきたことである。だから、どこを見ても明朝体やゴシック体で紙に印刷され、或いは液晶画面に表示された日本語ばかりの今もなお、人の手によって美しく書かれた文字に出会うと、私たちは憧れの気持ちを持ってそれを眺めるものである。

 上野の東京国立博物館・平成館で開催されている特別展『書聖 王羲之』。一見すると地味な内容に思えるこの展覧会に既に10万人が訪れたというのも、人々のそうした思いの表れなのだろうか。
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 2月もこれで終わりという28日の木曜日、休日出勤の代休を取ることができたので、実家の母に付き添ってこの展覧会へと足を運んでみた。前日までは北風の冷たい日が続いていたのに、この日は風が止み、太陽の光がいっぱいの穏やかな陽気になり、東京都心の最高気温は15度近くまで上がった。年老いた母を連れ出すには絶好のコンディション。神様の思し召しに何はともあれ感謝である。

 朝9時半に都心のターミナル駅で母と待ち合わせ、電車とタクシーで国立博物館の正門前へ。平日の朝10時少し前だが、人々が続々と入館している。そして、実際の展示物の前は既に黒山の人だかりだ。毛筆書きの展覧会だから年配の人々ばかりなのかと思っていたら、実はそうでもなくて、案外と若い人たちも見に来ている。

 王羲之(おうぎし、303?~361?)は、中国史の中でいうと五胡十六国時代の人である。門閥貴族の家に生まれた。それも、東晋王朝を興した一族である。高貴な家柄と優れた人格・見識が認められ、中央の高級官僚として引き立てられたが、地方への転出を自ら願い出て、会稽(現在の浙江省紹興市)に赴任。その土地柄が気に入って、355年に官を辞した後も会稽に留まり、名士たちとの清談で隠遁生活を楽しんだという。
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 幼少の頃から書の腕を磨き、書聖として同時代だけでなく後世にも絶大な影響を与えた。行書と呼ばれる書体の、文字がややふっくらとした王羲之の書は後の人々にも憧れの的となり、彼の書法を学ぼうとする書写が数多く行われたという。その対象になることが最も多かったのは、『蘭亭序』という28行・324字の書である。「書き写した」といっても、それを石に彫って拓本にしたものが残されている訳だから、書写には書道家だけでなく彫り師や刷り師も必要だった。展示されている数多くの拓本を眺めていると、ちょっと気の遠くなる思いがする。

 日本に初めて漢字を伝えたのは、4世紀末に朝鮮半島から渡ってきた王仁(わに)博士とされる。王羲之は4世紀前半の人だから、日本に漢字が伝わる以前に中国では早くも書がアートになっていたことになる。

 王羲之の名前を有名にしたのは唐の太宗(李世民、598~649)で、自分にとっては300年ほども前の時代になる書聖・王羲之の直筆の作品を熱心に集めたそうだ。『蘭亭序』のオリジナルも苦労を重ねて入手したのだが、太宗はそれらの作品全てを自分の墓に副葬させたため、今では王羲之直筆の作品は世の中に全く存在しないという。本人の直筆は一つもないが、後世の数多くの人々が書き写したものを通じて王羲之の偉大な存在を見つめ直すという、今回の展覧会はよく考えてみれば不思議なスタイルである。
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(『蘭亭序』の冒頭部分。これも後世の書写による刻本の一つ)

 言うまでもなく、中国の漢字の起源は甲骨文字だ。それが殷の時代から青銅器に鋳込まれる「金文」というタイプのものになった。漢字は表意文字としての性質上、放っておくと様々な漢字が新たに作られ、それも多数の「地方バージョン」が登場することになる。周の時代に文字数が格段に増えた金文は、春秋戦国時代の混乱で地方化が進んだ。そうしたカオスを収拾し、文字を全国で統一しようとしたのが秦の始皇帝だった。

 始皇帝によって統一された文字は、篆書(てんしょ)というスタイルで書かれた。それまでの文字に比べると縦横が整然として威厳のある文字だが、画数が多くて不便だったようだ。それを更にシンプルにしたのが隷書(れいしょ)で、漢代には木簡や竹簡に毛筆で書く時の字体になる。

 それを走り書きにしたのが草書、縦横を更に整理したのが現代の我々にも馴染みのある楷書、そして文字の崩し方が楷書と草書の中間ぐらいのものが行書(ぎょうしょ)である。「行書は速記向きで、草書ほど崩されていないから文字を明快に判読できるので、古代中国では公務文書や祭礼用の文書に用いられた。」というような解説を読むと、なるほどなぁと思う。
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 戦前の満州で生まれ、小学校の最終学年まで北京で暮らした私の母は、子供の頃から書道に親しんでいたようだ。当然のことながら王羲之は神様のような存在で、この展覧会は楽しみにしていたという。とはいえ、高齢になると寒さの季節は外に出にくいものだし、この博物館は上野公園の中を結構歩かなければならない。「平日に電車に乗って一人で行くから。」と本人が言っていたのが私は心配だったのだが、ちょうどいいタイミングで代休が取れて母に付き添うことができ、しかも穏やかで暖かい一日になった。

 母のペースに従ってゆっくりゆっくりと歩きながら、王羲之に憧れてその技法を真似た人々の作品を通して王羲之の足跡を辿った二時間。私自身は書をたしなむことはしないが、人の手によって書かれた美しい文字に触れてみるのも、たまにはいいものだと思った。デジタルな情報処理ばかりの世の中だからこそ、アナログな感性が必要なのかもしれない。

外に出ると、上野公園は春の光にあふれていた。

お殿様のコレクション [美術]


 東京メトロ有楽町線の電車を江戸川橋駅で降り、一番北側の出口から外に出ると、目の前は神田川に架かる音羽通りの橋である。頭の上は神田川沿いに走る首都高速道路。音羽通りをずっと真っ直ぐに行けば、正面の突き当りは護国寺だ。

 その橋を渡って左へ、神田川を遡るようにして歩いていくと、川の両岸は桜並木。右側は顕著な高台になっていて、南向きの日当たりの良い斜面が続いている。今は江戸川公園として整備されていて、春ともなればお花見のスポットだ。それは江戸時代からそうだったようで、川の南側は「早稲田」という文字通りの水田地帯だったから、桜の季節にはのどかな景色が広がっていたことだろう。
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(江戸川公園に梅が咲いた)

 神田川を見下ろすこの南斜面は、実は都内でもちょっとした歴史スポットである。

 江戸川公園を過ぎると、その先は土塀が続く。その中は、宴会場やホテルを持つ椿山荘の敷地である。元は江戸時代の上総・久留里藩の下屋敷だった所で、明治になるとその土地は山縣有朋邸に、そして大正時代には藤田財閥の手に渡った。南斜面に造られた日本庭園は一般公開もされていて、あたりは緑が豊かだ。

 延々と続く椿山荘の塀を過ぎると、更にクラシックな木造の門が現れる。「関口芭蕉庵」と呼ばれる史跡の正門である。1677年から1680年までの間、俳人・松尾芭蕉は神田川の改修工事に係わる仕事で収入を得ることがあったそうで、その当時はこの場所に住んでいたという。それは、神田川をこのあたりで分水し、水戸藩邸(現在の小石川後楽園)を経由して、人口が急増した江戸の市街地へと水を供給する神田上水の建設だった。

 その関口芭蕉庵の西隣には水神社という小さな社があって、青空駐車場の奥にコンクリート製の鳥居が一つ。その奥では大銀杏が天を向いている。神田川と神田上水を分ける堰の守り神なのだそうで、江戸時代には神田上水の恩恵を受けた神田・日本橋地区から多くの人々が参詣をしたという。路地から眺めると、まるで大銀杏そのものがご神体であるかのようだ。
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(水神社と大銀杏)

 さて、ここからが本命。関口芭蕉庵と水神社の間に、幅の狭い坂道がある。その名も「胸突坂」という、結構な急傾斜の坂だ。洪積台地の地形があちこちに残る文京区はこうした坂道が多いのだが、その中でもこの胸突坂は有数の急登ではないだろうか。土曜日の今日は、野球少年たちがそこをトレーニングの場所にしていた。
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(胸突坂を上がる)

 胸突坂を登り終えると、左は鬱蒼とした森が続き、コンクリート製の古い門塀に「永青文庫」の名前がある。公益財団法人永青文庫。熊本藩主・細川家に代々伝わる美術品や歴史上の資料、そして第16代当主にして日本を代表するアート・コレクターだった細川護立(1883~1970)が収集した美術品や文献の数々を収蔵し、展示する施設である。

 幕末の安政4年に作成された江戸の古地図を見ると、芭蕉庵も水神社も、この胸突坂に相当する急坂もちゃんと描かれている。そして、この坂道に沿った左側一帯は実に広い範囲にわたって細川越中守の屋敷であったことがわかる。
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(安政4年の胸突坂周辺)
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(現在の胸突坂周辺)

 細川氏は、元をたどれば平安時代末期の源氏に行き当たる。「八幡太郎」義家の孫で足利氏の始祖となった源義国。その義国の次男・義康の庶子、足利義清の血筋であるというから、足利の支流である。義清は木曽義仲に与して平家と戦ったという。

 鎌倉時代に入り、足利の本家が三河国の守護になると、義清の孫・義季は一門に従って三河へと移り住む。その領地が細川郷であったことから、細川を名乗ることになったようだ。この細川家は鎌倉末期から南北朝時代にかけて、義季の4代目になる和氏・頼春兄弟の時に足利尊氏に従ったが、和氏の血を引く細川宗家はその後衰退していった。

 一方の頼春の嫡子・頼之は頭角を現して将軍・足利義満の補佐役を務め、以後、この頼之の嫡流が細川家のメイン・ストリームになっていく。それは京兆家と呼ばれ、斯波・畠山と並ぶ「三管領」の一角として足利幕府の重職を代々務めた守護大名家で、応仁期の細川勝元やその子・政元などはこの血統になる。
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(細川氏の系譜 - 但し、肥後細川家に繋がるもの以外は省略)

 細川家にはその後も支流が幾つも出来ていくのだが、歴史上で重要な役割を果たすことになるのが、頼之の弟・頼有の子孫で和泉国の守護を代々務めた和泉上守護家である。その頼有の10代目・藤孝(幽斎)は、室町幕府最後の将軍・足利義昭を支持したが、信長が将軍を排して政権を握るとそれに従い、その嫡男・忠興は本能寺の変に際して秀吉に従い、更に秀吉亡き後は関ヶ原で東軍に与して功を挙げ、豊前・小倉藩を拝領。そして忠興の子・忠利の時に肥後・熊本藩54万石が領地となった。これが今も続く肥後細川家だ。我々の時代の元首相・細川護熙氏は、幽斎から数えて18代目の子孫にあたる。

 こうして眺めてみると、細川氏は宗家が比較的早く衰退したものの、分家が室町、戦国、桃山、江戸の各時期をうまく渡り、名門として続いてきた極めて珍しい家である。13世紀に三河で初めて細川を名乗った義季の時代から21世紀の現在まで700年以上も続く名家というのは、ヨーロッパでもなかなかないだろう。

 江戸時代以降の肥後細川家では、8代目の「肥後の鳳凰」こと細川重賢(1721~85)が有名だ。宝暦の改革と呼ばれる藩政改革を実行して藩内に産業を興し、藩校・時習館を創設したことで知られ、米沢の上杉鷹山、紀州の徳川治貞と並ぶ江戸中期の三名君の一人とされている。

 時代は下って明治の世になると、肥後細川家は華族になった。そして活躍したのが16代目、「美術の殿様」と呼ばれた細川護立である。学習院で同期生の武者小路実篤や志賀直哉らと交友があった護立は先代の四男だったのだが、大正期に家督を継いで貴族院議員となり、戦後は国宝保存会会長や東洋文庫理事長などを歴任。美術に造詣が深く、数多くの美術品を収集した他、梅原隆三郎や安井曽太郎といった文化人たちの良き理解者であったという。現在の永青文庫を設立したのは昭和25年のことである。
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(永青文庫の本館)

 永青文庫のクラシックな建物。それはしかし、広大な細川家下屋敷の中では事務棟に過ぎなかったというのだから驚く。中に入ると、戦前の世界がそのまま残されたような雰囲気で、二階から上に美術品や歴史資料の数々が展示されている。今は『武蔵と武士のダンディズム』と称した特別展示が行われていて、宮本武蔵が残した書画を見ることができる。武蔵は熊本藩と縁のある人物であったのだ。
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(宮本武蔵の手による作品)

 最上階の展示物の中に、「乾隆帝の玉座」とされる大きな椅子があったのには驚いた。乾隆帝といえば清朝の全盛期の皇帝である。本来ならば北京の紫禁城で保存されるべき玉座が、後世に売りに出されたのだろうか。

 どこの国でもそうだが、歴史上の大きな変革期においては、それまでの権力の象徴であったり、或いは伝統文化の象徴であったりした、美術品として極めて価値の高いものが、いとも簡単に破壊されたり、二束三文で売り飛ばされるというのは、起こりがちなことである。日本で言えば、明治の初年の廃仏毀釈がそうだったし、文明開化の名のもとに洋風文化が一斉に取り入れられた時には、錦絵や陶磁器をはじめとする大量の伝統的な美術品がタダ同然で外国人に売られていった。

 中国では、日中戦争や国共内戦の時期よりも、むしろ1960年代の「文化大革命」によって破壊された文物の方がずっと多かったという。同様にロシアでは、スターリンの時代に数多くのロシア正教の教会が破壊されている。「人民」の名のもとに富の象徴や伝統文化を破壊するというのは、その時にはそれで鬱憤を晴らすことが出来たとしても、そのことによって失ったものも極めて大きいはずだ。破壊することよりも、残すことの方が遥かに難しい。

 細川護立の手によって残された「お殿様のコレクション」を眺めながら、文化の保存には「高い教養をそなえたお金持ち」の存在がやはり必要だったのだと、改めて思った。

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どの国とも違う日本 [美術]


 私が香港に駐在して一つのチームを率いていた頃、チームのメンバーに一人のフランス人がいた。いささか我の強い男で、チームワークを取らせるのに苦労したものだが、仕事とは別に、彼は不思議と日本の文化に強い関心を示していた。

 日系の会社だから、東京から出張してきたお客さんからお土産(例えば、ちょっと高級な煎餅やあられの詰め合わせなど)をいただくことがある。それをチームの間で配ると、その一つを手に取った彼は、感心した表情でそれを眺めながら呟く。
 「スナック菓子のパッケージ一つが、なぜこれほど微細かつ洗練されたデザインで、なぜこれほど丁寧に作られているのか。これは実に驚くべきことだ。」
 もちろん、中味の”rice cracker”の歯ごたえと味わいにも彼はいたくご満悦だった。

 煎餅のパッケージだから、基本的には和風をイメージしたデザインで、着物で言えば江戸小紋のような、小さくて精密な図形の連続模様であることが多いのだが、そのフランス人の感想を踏まえて考えると、確かにそうした美意識やディーテルへのこだわりは日本独特のものだろう。

 17世紀の初めからの海禁政策によって、250年もの長きにわたり世界とは没交渉だった日本。その間に戦争のない社会を作り上げ、長い歴史と伝統に裏打ちされた独特の文化を爛熟させていた日本。幕末維新の動乱を経て、その日本の文物が海外に渡った時、それらが各国の人々の大いなる関心を集めたのも不思議ではないだろう。1878年に開催されたパリ万国博などを通じて欧米では「日本の美」に心酔する動きが始まり、既に始まっていた芸術運動(アール・ヌーボー)に大きな影響を与えたことは良く知られている。

 だが、そうした「ジャポニスム」は、例えば印象派の画家たちが日本の浮世絵から大いに刺激を受けたというようなことに留まるものではなく、様々な工芸の分野でも日本の伝統文化は注目を集めていた。その一つが、微細な連続模様で着物の生地を染め上げるために用いられた型紙であった…。
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(型紙 「伊勢海老に六弥太格子」)

 街路樹に鮮やかな新緑が甦りはじめた東京の都心、三菱一号館美術館で開催されている ”KATAGAMI Style 世界が恋した日本のデザイン”は、19世紀の後半から20世紀の初頭にかけて西欧に渡った日本の型紙が、その精緻さと優れたデザイン性において高い評価を受け、生地を染めるという本来の用途を離れていろいろな物に幅広く応用されていった、その軌跡をたどるユニークな美術展だ。この何年か着物の着付けを習ってきた家内が興味を示していたので、日曜日に二人で見に行くことにした。
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(三菱一号館)

 現代の私たちは、日本人でありながら和服を着ることが極端に少なくなってしまったから、着物が江戸小紋のような細かい連続模様にどうやって染め上がるのかを、そもそも知らない。会場ではその概要をビデオ映像で見せてくれるのだが、それは気の遠くなるような細かい手作業の積み重ねによって作られる型紙の存在が命なのである。

 まさに職人芸の極みのような技によって作られ、生地の染色に使われ、そして使い古されれば捨てられる型紙。だが、19世紀末から20世紀の初頭にかけてそうした型紙が何万枚も欧米諸国に渡り、芸術家たちの感覚を大いに刺激し、彼らの創作に様々なヒントを与えていったという。

 例えば、部屋の壁紙やカーペットの模様、布地のプリント模様、磁器の絵柄、そしてポスターのデザイン。私が仕事でロンドンに暮らしていた頃、家内が好きでリバティ百貨店をよくのぞいたものだが、「リバティ・プリント」として知られるあの連続模様の布地も、日本の伝統的なデザインからインスピレーションを得た物の一例だったのだ。
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(左:型紙「梅に変り芝翫縞」 右:リバティ商会 シラン・シルク見本帳)

 日本の”KATAGAMI”から影響を受けたとされる展示品を眺めていると、異なる文化同士の触れ合いというのは面白いものだと、改めて思う。英米圏、仏語圏、独語圏それぞれの個性の中で、「型紙」というミクロの世界に凝縮された日本の美意識が大胆に取り入れられている。ルネ・ラリックの香水瓶も、アルフォンス・ミュシャが描き出した世界も、こうした視点に立つと何だか親近感が湧いて来るから不思議である。
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(左:ルネ・ラリック 『赤い珊瑚』, 右:アルフォンス・ミュシャ 『舞踏』)

 考えてみれば、文化というものは民族や地域の個性であるようでいて、実は驚くほど柔軟な汎用性をも兼ね備えているものなのだろう。例えば、日本の寿司文化は海を渡り、今や世界各地でその地域なりの”sushi”が人気を集めている。そう思うと、私たちは自らの伝統文化を「ガラパゴス」などと卑下する必要はないのだし、むしろこういう時代だからこそ、狭小なナショナリズムとは異なる意味で、私たち自身が日本の文化をもっとよく知っておかねばならないのではないだろうか。

 英国のトニー・ブレア元首相は、今年1月に日経新聞に連載された『私の履歴書』の中で、
 「日本を訪れるたびに、ここは世界のどの国とも違う、独特の風土と文化を持った国だという思いが湧いてくる。」
といった趣旨のことを述べていた。そういう「世界のどの国とも違う」日本が生んだ型紙の文化が19世紀後半以降の世界をこれほどまでに感化してきたのだから、私たちはやはり、民族の文化のアイデンティティーというものをもっと大切にすべきなのである。

 時を忘れて美術展をゆっくりと楽しみ、外に出ると、日曜の午後の丸の内はのんびりとしている。家内と二人で、そののんびり感を楽しみながら歩き、修復中の三階部分が姿を現した東京駅丸の内口の様子を眺めているうちに、大手町に出た。
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 日曜日で人通りの少ない金融街。新たな高層ビルが幾つも建設中で、このあたりも急速に姿を変えつつある。建物だけ見れば世界の金融センターとあまり変わらないのかもしれないが、日本のこの季節だからこそ甦る街路樹の緑が、目に眩しかった。
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ボストンが保存したオールド・ジャパン [美術]


 2月最後の日曜日。昨日からの穏やかな好天がまだ続き、日中は更に暖かくなるという。家内と「日曜朝市」で週に一度の買出しを済ませた後、いつもより薄着をして、昼前から二人で街に出た。

 メトロを乗り継いで恵比寿駅で下車。地下から表に出ると、太陽がまぶしい。私はカジュアル・シャツにジャケット一枚の格好だが、そのジャケットもいらないぐらいの暖かさだ。花粉症持ちの家内は、大気中に漂うものを感じたようで、早くも鼻をグスグスいわせている。そんな時に外に連れ出すのは申し訳ないのだが、今日は二人で決めていたことがあった。

 やや上り坂の駒沢通りを都心方向に歩くこと約10分。山種美術館に入る。昨日から始まったばかりの『ボストン美術館浮世絵名品展』が今日のお目当てである。

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 19世紀の後半、南北戦争(1861~65年)に北軍が勝利して以降、急速な工業化・資本主義化が始まって空前の好景気に沸いていた米国。その頃、東部のニューイングランドでは、遥か東洋から船で運び込まれた日本の古美術品や伝統工芸品、錦絵などの数々に知識階級の多くの人々が魅せられていたという。

 1870年に設立されたボストン美術館は、「日本国外では質量ともに世界屈指のコレクション」と呼ばれる日本美術の所蔵品を有していることで知られるが、それは上記のような人々がその時期の日本に渡り、膨大な数の文物を買い集めた、そのコレクションがベースになっているという。今回はその中から、天明期(1781~89年)から寛政期(1789~1801)にかけて、つまり田沼意次や老中・松平定信の時代に活躍した、絵師の鳥居清長、喜多川歌麿、東洲斎写楽らの作品を中心に取り上げた美術展である。ボストンにある浮世絵をこれだけまとまった形で鑑賞できるのも、めったにないことだ。
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(鳥居清長 『風俗東之錦 萩見』)

 私たちが一般に「浮世絵」と呼ぶものは、鈴木春信(1725~70)が大ヒットさせた多色刷りの美人画に始まる、いわゆる「錦絵」である。春信の存在があまりにも大きかったために、一頃はそのパターンを踏襲する絵師ばかりだったようだが、その死後10年を経て時代が天明期に入ると、戯作と錦絵を組み合わせたり、ブロマイド風の「大首絵」をヒットさせたりした名プロデューサー、蔦屋重三郎の活躍もあって、個性的な画風の絵師たちが登場することになる。それが清長であり、歌麿、写楽であった。錦絵の黄金時代である。
http://alocaltrain.blog.so-net.ne.jp/2010-12-05

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(喜多川歌麿 『青楼遊君合鏡 丁字屋 雛鶴 雛松』)

 それにしても、会場には画面が大きくて立派な作品が揃っている。当時買い付けられた錦絵の中でも相当な選りすぐりだったのだろう。そして、個々の作品の説明書きに目を通すと、所蔵者として ”William Sturgis Bigelow Collection” と記されたものが実に多い。ウィリアム・スタージス・ビゲロウ(1850~1926)。私もその名を知ったのはつい数年前のことだが、もっともっと日本の中で知られるべき人物である。

 ビゲロウはボストンの裕福な貿易商の家に生まれ、父親の強い勧めで医師の道を目指したが、地元である講演を聴いたことが彼の人生をまるっきり変えてしまった。それは、同じボストン出身で日本の「お雇い外人」になったエドワード・シルヴェスター・モース(1838~1925)。大森貝塚の発見で名高い、あのモース博士が帰国した時の講演である。

 モースは初回の日本滞在中に、伝統的な陶磁器が持つ「自然の気まぐれが作った天然の美」にすっかり魅了されてしまい、以後数度にわたる訪日で5千点以上のものを買い集めたという。(もちろん、そのモースのコレクションもボストン美術館の所蔵品となっている。)
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(ウィリアム・スタージス・ビゲロウ 1850~1926)

 1881(明治14)年のモースの講演に大いに触発されたビゲロウは、翌年にはもう日本に渡る。それも、仏教に帰依し、四六時中を修行僧の格好で暮らし、日本の奥深くを歩き回り、フェノロサや岡倉天心らと行動を共にして、由緒ある寺院や古美術品の修復のための寄付を集め、日本の新進気鋭の芸術家たちを支援するという、実にエネルギッシュな日々を送るうちに、結局7年も滞在することになった。その間に収集したものは錦絵に留まらず、刀剣類や漆器、染織物、彫刻なども含めて、実に4万点にも及んだそうである。
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(東洲斎写楽 『市川男女蔵の奴一平』)

 そして、帰国後は米国有数の親日派として行動し、後に大統領となるセオドア・ルーズヴェルトに新渡戸稲造の『武士道』を進講し、日露開戦にあたっては、その後の講和を取り持つよう、ルーズヴェルトに強く進言したという。誰もが日本の敗戦は必至と予想していただけに、ビゲロウは愛する日本の将来が心配でたまらなかったのである。(因みに、ビゲロウの墓は大津市の三井寺の一画にあるそうだ。)

 ビゲロウが日本に滞在した明治14年から22年といえば、自由民権運動から内閣制度の発足、憲法制定に至る時期である。鹿鳴館が建てられ、欧化政策が急ピッチで進められた頃だ。だから、国民は日本の伝統的な文物には価値を見出さず、それらはただ同然で外国人に売り払われてしまった。加えて、明治の初年に出された「神仏分離令」のために、誠に不可解なことながら、それまで崇められていた仏教寺院や仏像などが猛烈な勢いで破壊された。いわゆる「廃仏毀釈」である。

 ボストンから日本に渡り、日本の伝統文化や美術工芸品に魅了されたモースやビゲロウ、フェノロサらは、そうした有様に大いに心を痛め、それならばと自分たちで買い付けに走る。「日本人が売るから買うのだが、実にもったいないことだ」との思いを抱えながら。

 「もし日本人が“オールド・ジャパン”を保存するつもりがないのなら、誰か他の者がそれをしなくてはならない。ボストンとその周辺地域の各博物館、中でもボストン美術館とセイラムのピーボディ・アカデミーで引き受ければいいではないか。」
(『グレイト・ウェイヴ-日本とアメリカの求めたもの-』 クリストファー・ベンフィー著、大橋悦子訳、小学館)

 錦絵についても、このようにして大量の作品が日本から流出し、目ぼしい物は明治期の間に日本から姿を消してしまった。そして、誠に皮肉なことながら、その大量流出によって日本の美術品が多数の欧米人の目に触れたことが、海外で「ジャポニズム」が流行する下地を作ったのだという。しかしながら幸いなことに、当時の日本人に代わって“オールド・ジャパン”の保存に努めたボストンの知識階級の人々がいてくれた。そのおかげで、現代の私たちは日本に残されていない清長や歌麿、写楽をゆっくりと鑑賞することができる。

 だから当時の日本人はダメだった、などと単純なことを言うつもりはない。革命などが起きた時、熱にうなされるようにして過去の文化を全否定することは、色々な国で起きてきたことだ。要は、こうした事実・経緯があったことを民族としてきちんと認識し、同じ過ちを繰り返さないことである。

 会場は盛況ながらも、私たちは好きなだけの時間を使って全作品を鑑賞することができた。江戸中期の文化水準の高さを改めて認識させられる、素晴らしい作品ばかりで、家内も「本当に見応えがあった」と大いに満足していた。それらは普段ボストンにあって、訪れた人々を魅了し続けてきたことだろう。やはり、文化とはいいものだ。

 なお、前掲書『グレイト・ウェイヴ』は、19世紀後半の空前の好景気によって『成金の時代』を迎えた米国で、その薄っぺらな時代の風潮に嫌気がさし、ボストン港で陸揚げされた日本の古美術に魅せられて日本を目指したニューイングランドのエリートたちを描いた、非常に興味深い書籍である。もちろんモースもビゲロウもフェノロサも、あまた登場する人物の中の一人だ。
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 この本の翻訳者が私の友人で、ご親切にも訳者贈呈で一冊を分けていただき、じっくりと読ませてもらったのが数年前のことだ。日米の架け橋になるような素晴らしい作品を世に送り出してくれた友の偉業に、改めて敬意を表したいと思う。

光を求めて [美術]


 10月最初の日曜日を迎えた。

 二日前の金曜日頃は、日曜日から天気が崩れるとの予報だったが、今日は家内と近所の「日曜朝市」に出かけ、食料品を買い込んで帰ってきた後も、青空がまだ続いている。天気の進展が少し遅れているのだろうか。いずれにしても、日中は雨に降られることもなさそうだ。それならば、せっかくの日曜日、散歩がてら絵でも見に行こうか。家内とそんな話になって、昼前から出かけることにした。

 メトロを乗り継いで渋谷へ。大勢の人々で賑わう駅前を抜けて、東急本店へと向かう。お目当てはBunkamura ザ・ミュージアムで開かれている『フランダースの光 - ベルギーの美しき村を描いて』という美術展である。

 入場して最初のコーナーに展示されている、アルベイン・ヴァン・デン・アベールという画家の『春の緑』という作品が、早くも目に留まる。もちろん油彩であるが、繊細なタッチと淡い色の重なり方が森の奥行きを感じさせるその絵は、どこか日本画を見ているようでもある。
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(アルベイン・ヴァン・デン・アベール 『春の緑』 1900年)

 前後の絵も、葉の落ちた雑木林の連なりや、見渡す限りの平地を蛇行しながらゆったりと流れる川など、農村の自然の風景を描いたものが多い。そこに再現されている空は、大体が雲に覆われていて、画面の端の方でかすかに陽の光が斜めに漏れている。或いは、そうした農村風景が一面の雪に覆われ、針のような木の枝が灰色の空を刺す、ふとブリューゲルの画を連想するような作品も並んでいる。

 私たちは日本にいて、今日もまだ半袖で歩いているが、10月といえば、緯度の高いヨーロッパではとんとん拍子に日が短くなっていく頃だ。もうだいぶ肌寒くなって、晴天の日が少なくなっていく。あの長い冬が遠からずやって来るのである。展示された絵を眺めながら、そんなことを何となく思い出していた。

 ベルギー北部のフランダース(フランドル)地方。その西寄りにゲントという都市がある。19世紀の終わり頃から20世紀の初めにかけて、そのゲントの近郊のシント・マルテンス・ラーテムという村に、フランダースの芸術家が移り住んで絵画や彫刻などの芸術活動を熱心に展開したという。19世紀は大陸ヨーロッパにおける産業革命の時代で、ゲントのような都市でも生活環境が大きく変わっていった。芸術家たちがそうした都会の喧騒を離れ、自然が豊かに残る農村の光の中に自らの活動の場を求めていったのは、パリの画家たちにとってのバルビゾン村と同じような存在であった、という説明を読むと、なるほどと思う。

 それにしても、この時期のフランダースの画家たちは、日本では非常にマイナーな存在である。私にとっても今日初めて名前を聞き、初めてその作品に触れた画家ばかりだ。その中で、冒頭に挙げたアルベイン・ヴァン・デン・アベールの次に目を引いたのはエミール・クラウスという画家である。1883年からこのラーテム村に生涯住み続けたクラウスは、(本家のフランスでは既に最盛期を過ぎていた)印象主義の手法によってこの村の豊かな自然を光豊かに描いた、その先駆者だという。しかし、それは単なる印象主義の模倣ではない。『ピクニック風景』と題された大きな絵には光あふれる自然が瑞々しく描かれているが、その精緻な筆使いはまるでカラー写真のようだ。いつまでも眺めていたくなる絵である。
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(エミール・クラウス 『ピクニック風景』 1887年頃)

 ベルギーは大国に隣接する小国である。元々は17世紀半ばにハプスブルグ・スペインから独立を勝ち取ったネーデルランド王国の一部であり、ベルギー王国としてそこからの分離独立を果たしたのは1830年のことだ。ラーテム村が”芸術家のコロニー”となるのはそれから凡そ半世紀後のことだが、20世紀になって印象主義の画家たちが腕をふるったのも束の間、第一次大戦が勃発し、ベルギーはドイツの侵攻を受ける。その大戦が終わり、疎開していた画家たちがこの村に戻ると、絵画の世界はドイツから表現主義が、そしてフランスからはキュビズムの流れがやってきて、“ラーテム派”の画家たちもその影響を受けていく。

 今回展示されている絵画の最後の方は、そうした流れの中で風景が単純化され、人物像が様式化され、テーマが幾何学図形のようになった、そんな作品が並んでいる。そして、ラーテムにおける芸術家たちの活動は、その1920年代に自然消滅していったという。それもまた、バルビゾン村と同じ運命だったのだろう。
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(フリッツ・ヴァン・デン・ベルグ 『日曜日の午後』 1924年)

 大学を卒業する直前に、私は友人と三人でヨーロッパを貧乏旅行したことがある。バックパックを担ぎ、鉄道の二等車で移動し、各地のユースホステルや安宿を泊まり歩くという、当時の学生のお決まりのようなパターンだった。三人で三週間ほど行動を共にし、最後の一週間は個々に旅を続けることにしていた。

 当時まだ共産圏だったチェコスロヴァキアのプラハから列車で西ドイツのニュールンベルグに出たところで友達と別れた私は、南ドイツを抜けてスイスで雪の山を眺めて数日を過ごした後、バーゼルからブリュッセル行きの列車に乗り、夜遅くゲントのユースホステルに部屋を求めた。食堂はもう終わっていたが、パンとスープだけなら何とかなると、先方の好意で簡単な食事を出してくれたのがありがたかった記憶が今も残っている。三月中旬の、ヨーロッパはまだ寒い頃だった。

 一夜が明けると、ゲントの街中はまさに古都の佇まい。私の目には時間がゆったりと過ぎていく街に見えたが、産業革命の時代にはそれでも都会の喧騒があったのだろう。その近郊にあるラーテム村は、今でもフランダースの人々にとっては最も住みたい土地の一つなのだそうである。

 今日になってたまたま思い立って出かけた美術展が、思いがけずも若い頃の一人旅とつながった。物事との出会いというのは、何とも不思議なものである。

 ラーテム村の世界をゆっくりと鑑賞した後、NHKの放送センターの前から原宿駅を抜けて新宿御苑まで、家内と散歩をした。気がつけば街路樹のハナミズキが赤い実をつけている。そして、吹く風に金木犀が香り出した。今日の太陽は思いの外元気だったが、それでも午後三時を回るとその光は早くも赤味を増してくる。そして、西の空で黄金色に輝くあの雲の向こうには、きっとまたもう一つ、秋がある。

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