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180年前の多色刷り [美術]


 5月最後の週末、東京は土日とも曇り時々小雨で、この時期にもかかわらず肌寒いような天気が続いた。日本海を涼しい高気圧が移動していく時、関東には北東から冷たい空気が流れ込み、雲に覆われて雨が降りやすいのだという。これで二週続けて傘マークの日曜日となった。

 旧友たちとの山歩きも、今日は計画していない。ならば文化を楽しんでみようかと、家内と二人で散歩がてら、一度行こうと話をしていた渋谷区の山種美術館へ足を運んでみることにした。JR恵比寿駅から駒沢通りを都心方向へ、ゆっくり歩いても10分ほど。学校とお屋敷の多い落ち着いた街並みの中に、その新しい美術館はあった。証券会社のオーナーが設立したために元は兜町にあったのが、昨年秋にこの地へ本格的に移転してきたのである。

 山種は日本画専門の美術館として知られてきたが、江戸時代の浮世絵も多数所蔵しているようだ。昨日から始まった、開館記念の一環としての特別展『浮世絵入門』では、その浮世絵コレクションから85点が展示されているという。「広重《東海道五十三次》 一挙公開」というサブタイトルに私達が惹かれたことは言うまでもない。
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 「ホクサイ」と「ヒロシゲ」は、いずれも世界で最も有名になった日本人の一人だが、見る者をハッとさせる大胆な構図や、物の動きを高速シャッターで撮影したような科学の目など、その作品ぶりはまさに天才としか言いようのない葛飾北斎に比べると、広重の作品には、美しい自然の中で生きる人々の営みを穏やかに、そしてどこか滑稽に描いた独特の親しみやすさがある。『東海道五十三次』はその代表作だが、その本物の全篇を一挙に鑑賞できる機会は、ありそうでないものだ。これを上野の美術館でやったら黒山の人だかりなのだろうが、ここは入場者もまだ限られているので、ゆっくりと鑑賞できる。

 このシリーズで昔から最も人気があるのは、第15番目の蒲原宿の「夜の雪」と、第45番目の庄野宿の「白雨」であろう。

 蒲原は現在の富士市から富士川を渡って南西へ向かったところで、宿場はJR東海道本線・新蒲原駅の近くにあったようだ。このあたりから山が急に南へと押し出してきて、列車は海との間の狭い平地を西走するようになる。(新幹線はこの区間を長いトンネルで越えてしまうので、こうした風情はわからない。) 温暖な駿河国でこんな雪景色になるの?と思ってしまうが、海の近くまで山が迫る地形では、こういうこともあるのだろうか。広重の絵を見ていると、道行く人が雪を踏む、その音が聞こえてきそうである。
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 一方の庄野宿は現在の三重県鈴鹿市である。このあたり、今も国道一号線は東海道本線とは別ルートで、JR関西本線とほぼ並走している。その関西本線と紀勢本線の乗換駅・亀山の一つ手前の宿場が庄野である。「白雨」という言葉は使われなくなったが、夕立、にわか雨といった意味だ。街道筋もこのあたりは山道なのだろうか。一陣の風に森がざわめき、人々も思わず道を急ぐ。雨に煙る木々のグラデーションと雨足の描き方が印象的で、夕立に遭った時の濡れた土の匂いが漂ってきそうだ。会場の説明文を読むと、雨を描くための版木に濡れた布を当て、表面を湿らせてから刷ることにより、絵具がにじんで雨の情感が出るのだそうだ。何とも日本人の感性をくすぐる微細な技術である。
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 広重の絵はこうした自然の描写に優れている一方、人々の暮らしぶりをユーモラスに描いているのも、もう一つの魅力である。第35番目の御油宿は現在の愛知県豊川市にあったのだが、そこで旅人を勧誘する留女(とめおんな)の強引さと、獲物になった旅人の困惑する表情が何とも滑稽だ。こういう絵を見ていると、今の日本が世界有数のアニメ大国であるのも頷けてしまう。
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 会場では、菱川師宣(1618~94)等の肉筆絵に始まり、単色刷りの版画に一部だけ筆で色彩を加えた鳥居清信(1664~1729)等の丹絵(たんえ)、そして田沼時代以降に盛んになった、鈴木春信(1725~70)、喜多川歌麿(1753~1806)、東洲斎写楽(生没年不詳)、歌川豊国(1769~1825)等による多色刷りの錦絵までの変遷についても、大変わかりやすい解説を見ることができる。(私達が一般に浮世絵と言う場合には、この錦絵を指すことが多い。) そうした歴史の集大成が北斎や広重の作品であった訳だ。

 広重の『東海道五十三次』が世に出たのは1833年。北斎の『富嶽三十六景』の4年後である。それは、ペリーが日本にやって来るちょうど20年前のことだ。年号は文政から天保へと既にかわり、翌年からは最後の幕政改革を目指して老中・水野忠邦が登場する。その天保年間には大飢饉が発生し、やがて大坂では大塩平八郎が乱を起こした。高野長英や渡辺崋山らが幕政批判の書物を著し、幕府はそれを「蛮社の獄」で弾圧する。1840年には海の彼方の香港からアヘン戦争勃発の一報が届くことになった。

 時代は風雲急を告げていたが、その中にあって江戸の町では為永春水の人情本が流行り、硬派の曲亭(滝沢)馬琴の読本(よみほん)もロングセラーを続け、そして北斎や広重の錦絵が人気を集めていた。世界でこれほど庶民が本を読む国はなく、多色刷りの版画というのはこの時点で他の国には例を見ないものだった。広重が描いた「ペリーがやって来る20年前の日本」には、地球上を横比較で見ても極めてレベルの高い大衆文化が爛熟していたことを、私達はよく認識しておく必要があるだろう。そうしたプラットフォームを持った上で、祖先たちが幕末・維新の歴史を刻んで行ったことも。

 新しくて静かな美術館でじっくりと錦絵を眺め、諸国漫遊に出たような気分になりながら、私達は心地よい一時を過ごした。外は相変わらずの曇り空。だが、そのモノトーンの空に新緑が映えている。幾つかの学校の前を通り過ぎながら、坂道は渋谷の駅前へと続いていた。
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(追記)
 多色刷りの錦絵では、それぞれの色ごとに版木を使い分けるため、印刷する段階で版木の位置がずれないよう、目印をつけて位置を合わせるのだが、その目印のことを「見当」と呼ぶそうだ。「見当をつける」という言葉はここから来ているとする説には、それなりに説得力がありそうである。

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