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隅田川テラス [散歩]


 都心から乗った東京メトロ日比谷線の北行きの電車が、三ノ輪を過ぎて地上に出る時、進行左側の窓から外を眺めていると、近づいてくるJR常磐線の高架との間に挟まれた狭い土地にちょっと大きなお地蔵さんを見下ろすことが出来る。
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 既に速度をかなり落とした電車は、その直ぐ先の南千住駅に到着。南口の改札口から猫の額のようなロータリーに出ると、向かい側にそのお地蔵さんが見えている。延命寺というお寺の境内に鎮座するそれは「首切地蔵」という縁起でもない名前のお地蔵さんで、なぜそんな名前がついたかというと、江戸時代に小塚原の刑場がこのあたりにあったからだ。常磐線の線路によって分断される前は、その北隣にある小塚原回向院と一体になっていて、要するに幾多の刑死者が埋葬された場所だったのだ。

 回向院の境内に入ってみると、幕末期の「安政の大獄」で処刑された橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎らの墓が並んでいる。そして、もう一つ忘れてはならないのが、ここは前野良沢、杉田玄白らによって刑死者の「腑分け」が日本で初めて行われた場所で、それに因んで「解体新書」の表紙のデザインをレリーフ化した「観臓記念碑」が置かれている。
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 おっと、いけない。目的地で電車を降りたとたんに道草をしてしまったが、今日は歴史探訪の散歩に来た訳ではなかった。駅前に戻って更に北へ進もう。JR貨物の隅田川駅を右手に見ながら、新興の高層マンション街を抜けて10分ほど歩くと、やがて隅田川の右岸に出た。

 岸の高さまで降りてみると、左側(=上流側)にトラス橋が見えていて、日比谷線の南行き電車が轟音を立てながらその鉄橋を渡るところだった。実はそこはメトロの日比谷線、つくばエクスプレス、そしてJR常磐線用のそれぞれのトラス橋が3つ並行する、鉄道風景としてはなかなか壮観な場所なのである。
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 おっと、いけない。今日は鉄旅をしに来た訳でもなかった。私はジョギング用の服装でここまでやって来た。これから隅田川の右岸沿いの遊歩道を、河口に近い勝鬨橋まで距離にして12kmほどなのだが、それをジョギングしてみようという魂胆である。今朝の東京は今冬一番の冷え込みとなったが、正午を過ぎたばかりの今は風もなく、冬晴れの太陽が眩しい。

 昨年の4月末に膵臓がんの開腹手術を受けた私は、その後の養生の過程で3回ほど隅田川沿いの遊歩道「隅田川テラス」を部分的に散歩していた。初回は術後2ヶ月ちょっとの7月初めに、両国駅から浅草駅までを恐々と歩いた。まだ体調は全く安定していない時期だったから、試運転そのものだ。その2ヶ月後の9月初めに、今度は永代橋から佃島を経て築地の勝鬨橋までを歩いた。少し元気が出て来た頃だった。更に、金木犀の香る10月初めには、京成関屋の駅を起点に水神橋を渡って浅草までを歩いた。そうした隅田川沿いの散歩を重ねるうちに、「本当に元気になったら、この隅田川テラスを千住から築地まで通しで走ってみたい」と思うようになっていた。

 既にこのブログにも綴って来た通り、術後の抗がん剤の服用も12月下旬で予定通り終了し、半年後の今年6月の経過観察までは病院に通うこともない身になった。体力の回復も概ね順調で、日帰りの山歩きにも特に問題なく行けている。ならば、この週末に隅田川テラスのジョギングを実行してみよう。年が明けて二週間。寒さは厳しいが、今この12kmを完走出来たなら、自分にとっても励みにもなることだろう。
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 汐入公園と呼ばれる一画の西端にあたる隅田川テラスの起点からジョギングを開始。そこは隅田川の大きな蛇行に沿って右カーブが続き、真昼の今は太陽を真正面に見ながら走ることになる。程なく汐入大橋・水神橋という比較的新しい橋を通過。そこから先は上述の通り散歩をしたことがあるので大体の様子はわかっている。白髭橋を過ぎるともう浅草が近い。
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 白髭橋の一つ下流側に桜橋というエックスの形をした歩行者専用のユニークな橋が架かっている。そこからは東京スカイツリーがもう見上げる高さまで近い。今日の起点からここまで凡そ3.5kmの距離である。
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 再び走り始め、言問橋を過ぎると、歴史を感じさせる、しかし重厚なだけでなくどこか優雅なスタイルのトラス橋が近づいてくる。1931(昭和6)年に竣工した東武伊勢崎線の隅田川橋梁だ。ちょうど上り列車が橋を渡って右手の浅草駅に進入するところで、列車は殆ど止まりそうなほどゆっくりとアプローチしている。
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 それもそのはずで、東武伊勢崎線のルートは隅田川を横断するや否や半径僅か100mほどの左急カーブを切り、最終的には川に並行した東武浅草駅のホームへと入って行く。従って、この間は15km/hの徐行にならざるを得ないのだ。
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 明治30年に北千住・久喜間で営業を開始した東武鉄道は、その後南北に鉄路を伸ばすも、隅田川を越えて都心への乗り入れを行うことにはなかなか認可が下りなかった。京成電鉄との激しい鍔迫り合いの末、昭和6年に念願の浅草入りを果たすのだが、当時東都最大の繁華街の一つだった浅草に線路を敷くのは大変で、そのルートも隅田公園に入らぬように配慮した結果、現在の急カーブになったという。橋のトラスの背が高くないのも同様に景観への配慮で、だから鉄橋の割にいかめしくない印象があるのだろう。
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 おっといけない、またしても鉄旅気分になってしまった。先を急ごう。浅草駅前のほぼ真下になる吾妻橋の西詰を潜り、なおも走り続けると、風格のあるアーチ橋が近づいてくる。1927(昭和2)年竣工の駒形橋だ。関東大震災後の復興計画の一環として新たに架けられた橋で、それ以前は渡し舟が行き来していたという。
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 春日通りが走る厩橋をくぐり、次の蔵前橋を過ぎると、再び大きなアーチ橋が迫る。JR総武線の隅田川橋梁だ。1932(昭和7)年、総武線の両国・御茶ノ水間の延伸のために架けられた鉄橋で、たった一つの長いアーチが印象的である。今日の起点から約6.5kmだから、コースの半分が過ぎたところだ。今のところ、お世辞にも速くはないが、私なりに順調に走れている。
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 さて、この橋を過ぎたら右手の陸側に上がるように気をつけていないといけない。この先は右手から神田川が隅田川に合流するため、遊歩道自体は一度途切れている。江戸時代には、ここから隅田川を遡って遊郭・吉原へと通う舟が多数出入りしていたという。
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 小さな橋で神田川を渡り、幅の広い靖国通りを横断して両国橋の西詰へ。その先から隅田川テラスが再び始まる。首都高の6・7号線を潜ったあたりから隅田川は少し東向きに蛇行。そのために新大橋を過ぎるあたりまでは走路が日陰になり、とたんに寒くなった。太陽エネルギーとは、やはり偉大なものなのだ。
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 それが、再び南方向にカーブしていくと正面に太陽が復活。眩しい光の中に現れるのが、優雅な吊り橋の清洲橋だ。そのクラシックな姿は見ていて楽しい。これも震災復興計画の一環として1928(昭和3)年に架けられたというから、今年で満90歳の卒寿だ。いつまでも大切にしたい景観である。
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 もう一つ首都高の下を潜る所があって(地上部分には隅田川大橋という一般道用の橋があるのだが)、それを過ぎるといよいよ永代橋が近く、そのどっしりとしてクラシックなアーチと、背後に並び立つ佃島の高層マンション群とが絶妙なコントラストを見せている。
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 永代橋の手前で日本橋川が右から合流するので、隅田川テラスはそこで再び途切れており、陸側で日本橋川を越え、永代通りを横断して永代橋の西詰から川に戻る。ここから先は昨年9月に家内と歩いたコースだが、あの時に比べると、冬晴れの下で高層ビル群が更にくっきりと見えている。

 コースが幾分西を向き、日本橋川の分流が右から合流するところで中央大橋を渡り、佃島へ。眺めの良いこの佃島の北端で360度のパノラマ写真を撮りたかったので、予定通りそこで小休止。隅田川の本流と豊洲運河に囲まれた「水辺の風景」がパノラマ写真には絶好の場所だと、前回来た時から思っていたのだ。今日の起点からちょうど10kmの距離である。


 さあ、残りは僅かになった。再び頑張ろう。佃島の北端から中央大橋を潜って南西方向へ。左手に住吉神社の境内をチラッと眺め、その先の佃大橋へと上がって隅田川の右岸に戻る。そして隅田川テラスに下りれば残りは1kmほどである。
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 何度か写真を撮りながらの行程になったので、ずっと走り続けた訳ではなく、タイムを意識するつもりもなかったからスピードは極めてゆっくりとしたものだったが、特段ペースを変えることもなく、呼吸の苦しさや足の疲れを感じることもなく、今日はこうして築地の近くまで走り続けることが出来た。昨年の秋に散歩をしていた頃は、隅田川テラスを走ることが出来るのはいつになるだろうかと思ったものだが、年明けから二週間後の今日、こうして12kmの道のりの完走を間近にしてみると、色々な感慨がこみあげて来る。何よりも、ここまで元気を取り戻したことについて、昨年4月の入院以降お世話になった、そしてご心配をいただいた多くの方々への感謝の気持ちで一杯だ。

 隅田川テラスが行き止まりになる勝鬨橋の真下。誰もいないその場所にゴールテープが張ってあるつもりで、私は今日のランニングを終えた。
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続・川を眺めた日 [散歩]


 このところ、我家の週末の散歩は何やら隅田川に引き寄せられているかのようだ。

 三連休の中日の10月8日(日)、日本列島は移動性高気圧に覆われているが、その東の縁にあたる関東南部は、北東風が吹き込むので雲の多い天気だ。けれども時折雲間から陽が射すと、これがまた結構暑い。従って、それなりに風が吹いて涼しい場所を散歩道に選ぼうとすると、結局は川沿いを歩くことになる。

 家内と二人、正午を少し過ぎてから家を出る。都バスと電車を乗り継いで京成関屋駅で降り、外の大通りを南方向へと私たちは歩き始めた。今日はこの少し先から隅田川の左岸に出て水神大橋で川を渡り、浅草を目指して川の右岸を歩くことにしている。
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 日曜日で車の少ない大通りをしばらく歩き続け、荒川と隅田川を繋ぐ水路を短い橋で渡ると、右手に隅田川が見えて来る。ならば次の信号で道路を渡り、川の方へ歩いて行こうか。すると、その信号機の背後にカネボウ化粧品の建物があった。そうか、この先をあと700mほども歩けば東武鉄道の鐘ヶ淵駅だから、このあたりはまさにカネボウの発祥の地なのだ。
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 明治時代末期の地図を見ると、たしかにこの一帯は鐘ヶ淵紡績會社の広大な敷地で、隅田川沿いに工場が立ち並んでいたことがわかる。原材料や製品の搬送には水運を利用していたのだろうか。
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(星印が、現在のカネボウ化粧品のビルの位置)

 この地図の時代から95年後の2004年、多額の債務超過に陥って経営危機に瀕した旧カネボウ株式会社は、その主力事業である化粧品部門を切り離して産業再生機構の支援を仰ぎ、それは2006年に花王株式会社の100%子会社となった。先ほどのカネボウ化粧品のビルの左隣には花王のロゴを掲げた建物が並んでいて、鐘紡発祥の地の新しい景観を形成している。20世紀末の金融危機を経て大手銀行がメガバンクへと再編され、巨額の債務を抱えた数々の企業にどのような審判を下すのかが問われていたあの当時、カネボウの企業再生は大きな注目を集めた事案だったのだが、あれからもう10年以上の月日が経ったことになる。私も歳をとるわけだ・・・。

 さて、私たちは隅田川の土手に上がる。対岸もかつては工場の煙突が並ぶ一帯だったのだが、それらが移転した跡地の再開発が進み、今は学校や高層住宅が建てられると共に、川沿いの土地には緑地や遊歩道が綺麗に整備されている。
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 そして、隅田川の河口の方向を眺めると、シンプルで大きなアーチが印象的な橋が架かっている。平成元年に竣工した水神大橋だ。
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 昔の地図でこのあたりを探すと、鐘紡の工場群の南隣に水神森という記載が見える。現在の隅田川神社の前身にあたる「水神社」の鎮守の森だったのが、この水神森で、小高い場所にあったために、隅田川が増水した時にも水没することがなかったという。そして、伝説によれば、平家追討の兵を挙げた源頼朝が1180年にこの地を訪れ、水神の霊験を大いに感じたことから、そこに社殿を建てたのが始まりなのだそうだ。(もっとも、現在の隅田川神社はかつての水神社から100mほど南へ移動しているそうだが。)

 戦前に荒川放水路(=現在の荒川)が掘削される前はたびたび洪水を引き起こしていた隅田川。その水難から逃れるということについて、昔の人々には切実な思いがあったのだろう。そんな時代の名前を受け継いだ水神大橋を渡り、私たちは隅田川の右岸へと向かう。その橋を渡り切った所には、かつての隅田川の堤防の一部がモニュメントして残されていた。なるほど、こういう堤防が河口まで延々と続いていたのだから、かつての隅田川遊覧船からの両岸の眺めが殺風景だったのも無理はない。
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 緑地と遊歩道が整備された右岸をしばらく歩き続け、次の白髭橋が見えて来たあたりで、私たちは一休み。少し晴れて来て日差しが暑いが、川っぷちだから吹く風は心地よい。ススキの穂もすっかり大きくなって、隅田川沿いもそれなりの秋だ。
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 さて、白髭橋までやって来ると、その西詰に一本の石碑が立っていた。見れば「明治天皇行幸對鷗荘遺跡」とある。その奥に用意された説明書きのプレートによれば、話はこうだ。

 明治6年の10月、いわゆる征韓論を巡って明治新政府の閣議は真っ二つに割れていた。その過程で、征韓派の意見が通らない場合の辞任をちらつかせた西郷隆盛の言を怖れた太政官にして議長の三条実美が、朝鮮への特使の即時派遣を一旦は決めたのだが、逆に大久保利通、岩倉具視ら征韓反対派の参議が相次いで辞任。そんなあれこれによる過度のストレスから、三条公は高熱を発して人事不省に陥ってしまった。その三条さんが寝込んでいたのが、この場所にあった對鷗荘という屋敷で、事態を憂慮した明治帝が直々に見舞いに赴いたというのである。
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 三条さんが倒れたことによる「議長の空席」は、征韓反対派に巻き返しの時間を与えることになり、太政大臣代理に就任した岩倉が事態を仕切ったため、逆に西郷ら征韓派が下野することになった、この明治6年の政変。幕末期には長州の攘夷派に担がれ、「七卿落ち」も経験している三条さんは、この時点で36歳だった。この場面を描いた歴史物のテレビ番組などでは、オロオロして倒れてしまう三条さんはもっと年上のイメージなのだが、実際にはまだ壮年だったのだ。一方、この時に国の命運を賭けて激論を交わした西郷は45歳、大久保は43歳。公家にしては珍しく体を張って征韓派に立ち向かった岩倉は48歳。そして、三条さんを見舞った明治帝に至っては弱冠20歳だった。幕末維新は随分と若い人たちが時代を動かしたんだなあ・・・。

 プレートの説明書きを読みながらちょっとした感慨に囚われている私を見て、家内がクスクス笑っている。
 「こういう話が本当に好きなのねぇ。」
 まあ、いいじゃないの。男は大体そういうものなんだよ。
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(錦絵に描かれた、征韓論をめぐる閣議の紛糾。丸印の人物が三条実美)

 心地よい風に吹かれながら隅田川テラスを歩いていると、頻りに甘い香りが漂ってくる。季節は10月上旬。この時期は一年に一度、金木製が輝くような存在感を見せる時だ。この川沿いの遊歩道にもその木が幾つも植えられていて、自らの季節を謳歌していた。
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 言問橋のもう一つ下流に架かる桜橋に近くなると、対岸の東京スカイツリーもだいぶ大きく見えて来る。この隅田川テラスを歩く人の数も多くなって来た。
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 川沿いの散歩はここまでにして、丘に上がる。街中を暫く歩くと、小高い丘の上に寺院が一つ。江戸名所の一つだった待乳山聖天(まつちやましょうでん)である。
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 ご由緒によれば飛鳥時代の昔に地中から突然湧き出た霊山だそうで、この地が大規模な旱魃に見舞われた時に、十一面観音菩薩が大聖歓喜天(だいしょうかんぎてん)に姿を変えて現れ、人々を苦しみから救ったとされる。大聖歓喜天とは、吉祥天とか弁財天、韋駄天などと同じ部類に属するインド発祥の神様で、仏教を守護し、衆生を迷いから救って願いを叶えさせてくれるものとして信仰されて来たという。仏教を守護することにどの程度重きが置かれていたのかはともかくとして、現実的な諸々のご利益を願って人々は参拝を重ねたようだ。かつてこのあたりは、吉原で遊ぶ人々を乗せて隅田川を遡る舟が上陸した地点だったから、何かと賑やかな界隈であったことだろう。
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(歌川広重が描いた待乳山)

 この待乳山聖天というのは別称で、寺としては本龍院という名の、浅草寺の子院の一つだそうだ。それならば、今日の散歩の最後に浅草寺にも寄ってみよう。と言いながら、私たちは浅草寺への道の途中で店に入り、抹茶のソフトクリームで一休み。昨今の浅草には本当に多くの外国人観光客が集まり、今日も観光バスが続々と到着しては、中国語やスペイン語の騒々しい一団を吐き出している。

 京成関屋駅を起点にした隅田川沿いの今日の散歩。スマホのアプリが計測したここまでの歩行距離は約6.5kmだった。4月の下旬に私が膵臓がんの手術を受けてから約5ヶ月半。転移を防ぐための抗がん剤を服用しつつ、体力の回復に努める過程の中にいるのだが、このところは体調も安定し、今日も何の問題もなく家内と二人で散歩を楽しむことが出来た。浅草寺の観音様にそのことを報告し、感謝の気持ちと共に頭を下げる。

 観音様を背にして本堂の階段を下りると、賑やかな境内には引き続き様々な言語が飛び交っていた。

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北の守り神 [散歩]


 JR仙台駅から、車体に石ノ森章太郎の懐かしいアニメ・キャラクターが描かれた電車に揺られること30分。本塩釜駅で高架のホームに降り立つと、午後の爽やかな秋空が広がっていた。

 出張先での仕事が早めに終わり、後は東京に帰るだけ。自分一人だし、日暮れまでにはまだ少し時間があるから、折角ならばそれを利用して宮城県の地理にも親しんでみようか。そう思い立ったが吉日、私は仙石線の電車に飛び乗ってここまでやって来た。駅の直ぐ先には港も見えて、ちょっと遠くまでやってきた気分になる。
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 塩釜という地名は、製塩用の「かまど」を意味する普通名詞から来ているそうだが、それならば漢字は「釜(かま)」ではなくて「竈(かまど)」のはずだ。現に自治体の名前は塩竈市だし、私がこれから訪れる予定の神社は鹽竈神社という更に古風な表記になっている。人間が生きて行くために不可欠な塩。この地域に限らず、かつては日本の津々浦々に「塩竈」が見られたことだろう。(因みに、英語の”salary”(給与)の語源はラテン語の”salis”(塩)なのだそうだ。)

 名勝・松島の島々を抱く内海に面した塩竈はもとより平地の少ない所で、埋立地がつくられる以前は数々の丘陵が海に迫る地形だった。古代に東北地方南部(福島県・宮城県・山形県の一部)を陸奥国と呼んで支配を広げつつあった畿内の中央政権は、政治・軍事上の拠点として多賀城国府を建設(724年)。塩竈はその国府の外港(国府津(こうづ)と呼ばれた)としての役目を担い、その海に向かって西側から岬のように突き出した丘陵の上には、創建の年は不明ながら陸奥国の守護神として鹽竈神社が置かれた。(国府から見て鬼門の方角に神社が置かれているのが興味深い。)この神社(宮)と国府(城)が「宮城」の地名のもとになったと言われるぐらいだから、今回私が訪れている地は、宮城県のルーツと言ってもいいのだろう。
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 そんな経緯があるので、鹽竈神社は陸奥国一宮である。諸国一宮の中で、東北地方太平洋側ではこの神社が最北なのだ。機会があれば是非一度訪れてみたいと思っていた。
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 本塩釜駅から西方向へ400mほど歩くと、道路の北側に大きな鳥居が現れた。それが鹽竈神社の東参道の入口で、参道はそこから丘陵の尾根を緩やかに登っていく。平安時代に奥州藤原氏の三代目・秀衡が開いたとされる道で、敷石は石巻から運ばれたという。平日の午後だから、あたりは実にひっそりとしたものだ。草むらではヒガンバナの赤色が鮮やかなアクセントを見せている。
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 やがて正面に再び大鳥居が。シンプルながらも品格のある扁額を見上げて、思わず一礼。やはり陸奥国一宮は鳥居からして違うなあ。
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 その鳥居を潜って直進すると、やがて左側に手水舎(てみずや)があり、そこで手と口を清める。そして鹽竈神社へと上がる階段の手前には「皇族下乗」の立て札が。そういえば、先ほど乗って来た仙石線には、本塩釜の二つ手前に「下馬(げば)」という名前の駅があった。それは、鹽竈神社へのかつての参道を行く人は、そこで馬を降りて歩かねばならなかったことに由来するのだそうだ。それほどの参拝客を集めた陸奥国一宮は、王政復古を迎えた明治の世になっても皇族に下馬を求めたということか。
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 そこから更に鳥居を潜り、向かって右の唐門を経て鹽竈神社の境内へ。まずは正面の左右宮拝殿へと向かう。お祀りするのは左が武甕槌(タケミカヅチ)神、右が経津主(フツヌシ)神。いずれも「出雲の国譲り」で大国主命(オオクニヌシノミコト)と談判をした武勇の神様だ。後に神武東征の際にも天皇を補佐し、更には蝦夷(東北地方)平定も行ったとされる。
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(二神を祀る左右宮拝殿)

 中央政権側で武威をふるった二神それぞれに頭を下げた後、この拝殿の右側、それまでとは90度右の方向に建つ別宮拝殿へ。別宮というと、何だか本館に対する別館のような響きがあるが、実はこちらの方がメインの神様、すなわちこの神社の主祭神である鹽土老翁(シオツチオヂ)神と向き合う場所なのだ。

 この神様は高天原から降りて来た瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に自らの国を早々に差し出したとされ、他方では海幸彦から借りた釣針をなくして途方に暮れた山幸彦の前にも現れている。また、この神様が「東に良い土地がある」と述べたことが神武東征のきっかけになったとされ、武甕槌神・経津主神による蝦夷平定にあったてはその先導役を務め、その後もこの地域に残って人々に製塩業を伝えたという。
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(別宮拝殿)

 「塩」=「潮」ということからなのか、鹽土老翁は潮流を司る海路の神様ともされていて、海に囲まれたこの国の風土にいかにも適した国津神(くにつかみ)である。そして、山幸彦や神武天皇に因むエピソードから考えると、海路に限らず物事を進めるための正しい道へと導いてくれる神様であるようだ。今の日本では突如として衆議院選挙が行われるようで、与党も野党も右往左往しているが、こんな時にこそ鹽土老翁神の御導きがないものだろうか。

 塩竈神社への参拝を終えて再び「皇族下乗」の立札まで戻ると、鹽竈神社の境内に隣接してもう一つ別の神社がある。それが志波彦神社だ。ご祭神は志波彦(シワヒコ)神で、これは記紀に登場するような神様ではなく、農耕や国土開発を司る地元の神様。要するに鹽土老翁よりももっとローカル色の強い国津神なのだろう。この神もやはり武甕槌神・経津主神による蝦夷平定に協力したとされるが、実際には平定(or征服)された地域の人々を代表する「地霊」のような存在であったのかもしれない。
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(志波彦神社拝殿)

 志波彦神社は、元々は岩切という、もっと内陸部に建てられ、927年に完成した延喜式(律令の施行細則)にも名神大社として記載があるという。だが中世には廃れてしまい、火災にも遭って、江戸時代には他の神社に合祀されるほどだったという。それが明治4年に突然国弊中社に格上げされ、社殿を造営しようにもスペースがないので、明治7年に陸奥国一宮・鹽竈神社の東隣に遷祀されるという、何とも破格の処遇を受けることになった。そして、終戦後に社格制度がなくなるまで、「志波彦神社・鹽竈神社」を一体のものとして国弊中社というステータスが与えられていたのである。

 以前にもこのブログに書いたことがあるが、この志波彦神社が鹽竈神社の隣に遷祀された翌々年の明治9年に、明治天皇による東北・函館巡幸が行われている。明治初年の戊辰戦争に加え、版籍奉還や廃藩置県、地租改正などの大改革が続いたこの時期に、明治天皇自らが民の前に姿を現し、働く人々を慰撫して回ることは、生まれたばかりの近代国家に安定をもたらす上で極めて重要なイベントであったのだろうと、私は想像している。だとすれば、地元を代表する志波彦神を祀りながらも他の神社に「居候」せざるを得ないほど廃れていた志波彦神社に社格を与え、陸奥国一宮と同格に扱うという施策が明治天皇の巡幸前に行われたことにも、そうした政治的な配慮があったのではないだろうか。

 鹽竈神社では、かつて東北を平定したとされる武甕槌神・経津主神の二神が概ね鬼門の方角を背にしており、主祭神の鹽土老翁神は東側の海を背にしている。国の中央から見た場合に、それがまさに陸奥国の守護神たる構造なのだろう。そして明治7年に造営された志波彦神社では、ご祭神が北北西を背にしている。中央の神様と地域の神様が横に並んで共に北を守るという構造。このあたりにも、戊辰戦争を経た後の明治新政府の思いが表れていると言ったら考え過ぎだろうか。
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 私たちが神社を訪れて拝殿に向かった時には、10円玉を賽銭箱に投げ入れ、鈴を鳴らし、二礼二拍手の後にありったけのお願い事をするのが普通のパターンだ。しかしながら、参拝というのはお願い事をするものではなく、本来は神様に対して誓いを立てることなのだそうである。確かに、日本の神様は何かお願いごとを叶えてくれるのではなく、神前で誓いを立て、自らを律しながら生きていく私たちを、姿は見えないけれどいつも近くで静かに見守って下さる存在なのだろう。
 
 私はこの春に病変が見つかり、生涯で初めての大きな手術を受けた。現在もまだ治療中であるし、この先の余命がどうなるかも、今はまだ何とも言えない。そして家族や友人、会社の同僚をはじめ、多くの人々に心配をかけ、多くの人々のお世話になってしまった。そうであれば、今日こうして二つの神社を訪れた私がご祭神に対して行うべきことは、自分の延命や病気快癒のお願いではない。自分に残された命が続く限り、お天道様に恥ずかしくないよう真っ当に生き、人々との繋がりを大切にし、何よりも家族をしっかりと守って行くという誓いを立てることだろう。そして、その通りに出来るかどうかを神様に見ていただくしかないのである。そんな神々が神社だけではなく、森の中の大きな木立にも、清らかな沢の流れの中にも、更には家々の竈の火の中にもおわす私たちの国は、何と恵まれていることだろう。

 志波彦神社の境内を後にすると、遠くに松島方面の海の眺めが広がる一角があった。1689(元禄2)年の春、門人・河合曾良を伴って「奥の細道」の旅に出た松尾芭蕉は、5月8日(現在の暦では6月24日)にこの鹽竈神社を訪れている。その当時、志波彦神社はまだここにはなかったはずだが、松島の方向には今と同じ眺めがあったのだろうか。丘の上だけあって、よく晴れた今日も風が涼しい。
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 さて、志波彦神社から鹽竈神社の南側に回ると、急な坂を202段の石段で降りて行く道がある。これは下界から見ると、丘の斜面を直登して鹽竈神社の境内へ最短距離で上がるルートで、表参道と呼ばれている。その急登ぶりは何やら東京・芝の愛宕神社にある「出世の石段」のような趣で、今では鹽竈神社で一番の「パワースポット」などと呼ばれているようだ。しかし、手水舎も通らず境内に直接上がってしまうルートを表参道と呼ぶのはいかがなものだろうか。
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(表参道の急な石段)

 そのパワースポットの石段を一気に降りて道路に出る。後は本塩釜の駅へ戻るべく、のんびりと歩いて行けばいい。途中、味噌・醤油の醸造元の店先に小さな石碑があり、6年前の東日本大震災の時に津波がここまで押し寄せたことを示している。多島海の構造を持つ松島湾があるために、塩釜は津波の勢いがだいぶ緩和された地域ではなかったかと想像するのだが、それでもこんな所まで津波が達したとは。
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 駅に戻る前に、大通りを少し外れて塩釜の街中を歩いていた時に、興味深いものに一つ出会った。

 陸奥国一宮として人々の信仰を集めて来た鹽竈神社。その麓には神社の別当寺として室町時代に法蓮寺という寺が創建され、江戸時代には大いに栄えていた。先ほどの東参道入口の鳥居を潜ったすぐ先に位置していたようで、芭蕉や曾良もそこに宿泊している。ところが、明治の初年に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた際に、この法蓮寺は廃され、幾多の破壊を受けて仏像や仏具類も散逸してしまった。当然にして諸堂も打ち壊されたのだが、その内の本堂の向拝(本堂の正面階段上に屋根がせり出した部分)を多賀城にある寺が譲り受け、本堂の玄関として長年使用して来たところ、2006年になってその本堂も建て替えの対象となり、向拝も一緒に解体・廃棄の運命にあった。それに対して、塩釜の市民グループなどによって向拝の保存運動が起こり、2008年に塩釜の酒造会社の新社屋の玄関として使用されることになったというのである。
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(見事に保存された法蓮寺の向拝)

 因みにその酒造会社とは、江戸時代中期から御神酒(おみき)酒屋として鹽竈神社との関係が深かった、あの浦霞を造る佐浦酒造である。新社屋の隣にはレトロな姿をした浦霞の販売店もあった。折角だから中を覗いて行きたいところだが、私は病気治療中のため、もうしばらくはアルコールを控えねばならない。店に入るとロクなことにならないから、今回はその外観だけを楽しませてもらうことにした。
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 本当にその日に思い立って、仙台から電車で30分だけ足を延ばしてみた塩釜の街歩き。小さな街にもなかなか深い歴史があることを、改めて思った。

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川を眺めた日 [散歩]


 このところ、週末の散歩は何だか引き寄せられるように隅田川の周辺を歩いている。

 9月最初の週末は、それまで降り続いていた雨が土曜日の昼前には上がり、日曜日は終日好天で暑さもほどほどだという。それならばと、日曜日の昼前から家内と散歩に出ることにしたのだが、二人で選んだ場所が、隅田川の河口に近い佃島周辺だった。

 今から20年以上前、我家の子供たちがまだ小さかった頃、隅田川を上り下りする遊覧船は既にあったのだが、乗ってみると両岸の眺めは堤防と倉庫ばかりで何とも殺風景だった覚えがある。その時代に比べると、今は「隅田川テラス」と呼ばれる遊歩道が両岸に整備され、街路樹も植えられて、その景観には昔とは見違えるほど豊かになった。特に隅田川の河口が二股に分かれる佃島のあたりは、船から眺める遊歩道や公園の緑がきれいで、聖路加病院やリバーシティ21などの高層ビルや中央大橋の幾何学的なデザインとの組み合わせがなかなかいい。今日は永代橋の西詰を起点に、その佃島周辺の遊歩道を散策し、月島・築地を経て銀座まで歩いてみよう。
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 東京メトロを乗り継いで茅場町で外に出て、広い永代通りを東に600mほども歩くと、重厚なアーチが印象的な永代橋が見えて来る。江戸時代までは隅田川に架かる最南端の橋だった。これを渡ってもう少し行けば富岡八幡宮の門前町として栄えた門前仲町だが、今日はその方面へは行かない。
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 永代橋の西詰から右に曲がって川岸の「隅田川テラス」に出ようとした時、マンションの植え込みの中にちょっとした石碑があった。「船員教育発祥の地」と書いてあり、その碑文によれば、明治8年11月、内務卿・大久保利通の命により、岩崎弥太郎がこの地に「三菱商船学校」を設立した由。江戸時代を通じて大型船の建造が禁じられていた日本は、明治になって西洋船による海運が始まった時に船乗りが足りず、この地でその養成を始めたという訳だ。言うまでもなくこの学校が、隅田川の対岸を1kmほど下った越中島の東京高等商船学校(現・東京海洋大学)の前身である。
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(中央区観光協会HPより拝借)

 隅田川テラスに降りると、行く手に佃島のタワーマンション群が天を突いている。斜張橋と呼ばれるタイプの中央大橋との組み合わせが、ちょっとした未来都市のようだ。
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 「佃島のタワーマンション群」と書いたが、今目の前に見えているのは、実は佃島ではなくて石川島である。元々は石川島と佃島の二つが隅田川の中にポツッとあって、江戸時代の内にこの二つが繋がったのだそうだ。石川島の方は17世紀前半の江戸開幕府早々の頃に、石川八左衛門重次という旗本が徳川家からこの島を拝領し、屋敷を構えたことからその名が付いたという。

 一方の佃島は、徳川家康との繋がりが更に深いことで知られる。1582(天正10)年6月2日に本能寺の変が起きた日、家康は堺の街を見物中だった。その家康が明智光秀の軍勢をかわして命からがら岡崎へと逃げ帰る、いわゆる「伊賀越え」の際に、多数の舟を出して淀川を密かに遡上するのを助けたのが摂津国佃村の漁民たちだった。これに恩義を感じた家康は、後に江戸を支配した際に、折からの人口増による江戸の食糧難への対策も兼ねて、佃村の漁民たちを江戸に呼び寄せ、この島の砂州を埋め立てて住まわせると共に、特別の漁業権を与えたという。それが、彼らの故郷の名を冠した「佃島」の始まりなのだそうだ。

 幕末の嘉永年間に作られた江戸の古地図を見ると、石川島と佃島が繋がっただけのこじんまりとした様子がわかる。まだ月島以南の埋め立て地が何もなかった頃のことだ。
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 1830(天保元)年頃に作製された葛飾北斎の「富嶽三十六景」の中に、「武陽佃島」という作品がある。画面中央に富士の遠景が描かれているから、この絵は隅田川の上流側から河口側を眺めている訳で、だとすれば中景左の緑に覆われた島が石川島、集落のある右側の島が佃島なのだろう。現在の地名では佃一丁目の、堀で囲まれた一角が当時の佃島にあたる。
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 因みに、この佃島だった場所の北端には住吉神社が置かれている。主祭神の住吉三神は航海安全の神様とされ、全国の住吉神社の総本社が摂津一宮の住吉大社だ。佃村の漁民たちの江戸移転に際してこの「すみよっさん」を一緒に連れてくるあたり、いかにも大阪の風と言えようか。
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(左)佃島の住吉神社 (右)歌川広重 「江戸名所百景」より「佃しま住吉の祭」

 さて、中央大橋を渡ってかつての石川島へ。川沿いは遊歩道と石川島公園が整備され、永代橋や東京スカイツリーを眺めながら一休みするにはいい場所だ。ここで隅田川が二股に分かれているので、目の前の景色は右も左も隅田川の河口である。この石川島には幕末期に水戸藩が石川島造船所を設置。後にこれが民間に払い下げられ、石川島播磨重工業の前身となった。私たちの背後に林立するタワーマンション群を眺めていると、その石播の工場が1979(昭和54)年までこの場所で稼働していたことなど、今ではとても想像できない。
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 それまでは適度に高曇りだったのが、ここで一休みしている間に晴れ間が大きく広がり、日差しがいささか暑くなった。そんな時に川沿いは風が涼しくて心地よい。家内と私はタワーマンション群を抜けて東京メトロの月島駅方面へと向かう。歩いて行く道がちょうど佃島と新佃島の境目あたりで、後者は佃島の南隣に明治になってから埋め立てられた土地である。ここまで歩く間に見て来た近未来的な景観とは対照的に、新佃島は路地も路地裏も実に昔懐かしい庶民的な姿で、私などはついホッとしてしまう。
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 少々余談になるのだが、今は埋め立て地が格段に広がった東京湾も、幕末に黒船がやって来た時には隅田川の河口に石川島と佃島があるだけだった。浜離宮から西では現在の東海道本線の線路ぎわが海岸線で、埋め立て地は何もなかったのだ。これではいかにも無防備だからと、品川の沖合に7つの砲台を設置したのが、いわゆるお台場だ。その内の3号と6号の砲台が今も東京レインボーブリッジの南側に残されている。
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 さて、明治・大正時代には佃島・新佃島の更に西側が埋め立てられた。それが現在の地名で言うと月島と勝どきだ。東京メトロ有楽町線の月島駅がある広い通りが、佃島・新佃島と月島の境界になっていて、月島側へ歩いて行くと名物の「もんじゃ焼き」の店が軒を連ねている。干拓によって町が形成されていった頃、この地域で小麦粉を出汁で解いたものを熱した鉄板の上に垂らして焼きながら文字を覚えさせたのが、「文字焼き」→「もんじゃ焼き」の起源なのだそうである。

 茅場町を起点にここまで歩いてきて、さすがに喉も乾いてきた。盛夏をとっくに過ぎたとはいえ、それなりの日差しが照りつける中、今まで通りならもんじゃ焼きをツマミにビールを一杯!と行きたいところだが、今の私は年末に抗がん剤の服用が終わるまでの間、アルコールはご法度である。今日のところは我慢ガマン。それもまた人生だ。
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 明治時代の終わり頃には既にその骨格が出来上がっていた人工島の月島。昭和になると干拓による土地造成はその南の晴海へ、そして戦後はその更に沖合の豊洲、そして有明へと進んで行った。今日はそれを全部歩く時間はないが、もう少し気候が良くなったら散歩コースにも入れてみよう。

 月島の商店街から北西に向かうと、程なく隅田川の堤防に出る。少し上流方向に戻って佃大橋を渡ろう。1964(昭和39)年8月27日というから、東京オリンピック開会日の一ヶ月半前にこの橋が竣工するまで、佃島と対岸の明石町の間には無料の渡し船が運行されていたのだが、今の景観にはその面影はない。
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 その佃大橋を渡っていると、ちょうどTokyo Cruseが運行する松本零士氏デザインの観光船・ホタルナが聖路加病院をバックに隅田川を遡って来た。
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 そして対岸の「隅田川テラス」に出ると、聖路加病院に近いこの一帯は花壇がよく整備されている。それらを愛でながらゆっくりとジョギングを楽しむ外国人たち。都心にもお金をかけずに良い気分転換を図れる場所が結構あるものだ。
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 そして、植え込みの中にはもうヒガンバナの姿が。そういえば秋のお彼岸まで、あとちょうど20日だ。
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 前方に見えていた勝鬨橋の姿が大きくなると、今日の隅田川沿いの散策コースも終わりに近い。1940(昭和15)年竣工のこの橋は中央に可動橋部分を持つために、その重厚さは他の橋とは全く別格だ。ずっと眺めていたくなる橋である。
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 行く夏と始まり出した秋とが交互に顔を見せ合ったような半日。川沿いの心地よい風を楽しんだ家内と私は、それから築地と銀座を横切って数寄屋橋まで歩いた。距離にして約5.7キロ。ショッピングとは無縁ながら、こういう都心の散歩も悪くないものだ。

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帝都の治水(補遺) [散歩]


 前回は昭和5年に竣工した東京の荒川放水路について書いてみた。
 http://alocaltrain.blog.so-net.ne.jp/2017-07-29

 その関連で、週末の散歩がてらに見て歩いたことのいくつかを、補遺として残しておくことにしたい。

 JR総武線・亀戸駅の北口に出ると、南北に走る広い道路が明治通りだ。その明治通りの一本東側の細い路地を北に向かう。この路地はいかにも駅裏の飲み屋街といった感じで、今は土曜日の午後2時前だが、餃子屋の前には行列ができ、もうもうと煙を上げるモツ焼き屋は昼間っから繁盛してそうだ。

 なおも直進し、自動車通りに出たところで右折。そこから300mほども歩くと、道の左側に小さなお社がある。それが亀戸水神である。有名な亀戸神はここから蔵前橋通りに沿って西へ1kmほど行ったところだ。天神様は言うまでもなく菅原道真公のことだが、この亀戸水神のご祭神は弥都波能売神(ミズハノメノカミ)という神様である。
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 日本神話ではイザナミが数々の「神産み」をしたことになっているが、ミズハノメノカミはイザナミの尿から生まれた女神で、水を司る神様だという。神社の御由緒によれば、室町時代末期の1521~46年頃の創立で、このあたりを開墾した土民が水害を防ぐために堤防を築き、大和国吉野の丹生川神社からこの神様を勧請したことがその始まりなのだそうである。(亀戸天神の創立は江戸時代に入ってからのことだから、亀戸では水の神様の方が先輩格になる。)
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 地図を見ると、ここは旧中川と隅田川に東西を挟まれた土地だ。旧中川は幾つにも蛇行した、いかにも増水時には暴れそうな川で、徳川家康が大規模な治水工事を行う以前には利根川の水も東京湾に流れ込んでいたから、水害は繰り返されたのだろう。また、江戸時代の初期に水路として旧中川と隅田川を結ぶ北十間川が開削されたが、隅田川の氾濫時には水が逆流して被害が広がったそうである。20世紀に入って荒川放水路の開削が行われた背景の一つとして、隅田川の下流では室町時代から治水の重要性が認識されていたということを、ここでは押さえておきたい。
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 水神様に二礼二拍手一礼を済ませた後、神社への参道だったと思われる道路を200mほど進むと踏切があり、その右手にはカーブの途中に作られた駅がある。東武亀戸線の亀戸水神駅だ。週末の昼間は10分間隔のダイヤで二両連結の電車が亀戸・曳舟間3.4kmを往復する、東京23区内にありながらローカル色の濃い路線で、私自身も乗車するのは今回が初めてになる。けれども、東武亀戸線の開業は1904(明治37)年と、非常に早い部類のものだ。世が世ならば、これが東武鉄道の本線になっていた可能性もあるのだが、そのあたりの経緯についてはまた別の機会に纏めてみることにしよう。
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 亀戸線の電車に乗って曳舟駅で伊勢崎線の普通列車に乗り換え、そこから二つ目の鐘ヶ淵駅で下車。前回見たように、この鐘ヶ淵駅から次の堀切駅にかけては、荒川放水路の開削に伴って東武伊勢崎線のルートが変更になった箇所である。
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 1902(明治35年)に東武伊勢崎線の吾妻橋(現・とうきょうスカイツリー駅)・北千住間が開業した時には、鐘ヶ淵駅から緩やかな左カーブで荒川放水路の中央近くまで張り出した上で放水路の右岸に戻るルートになっていたのだが、新ルートは鐘ヶ淵駅から左急カーブを切って荒川放水路の土手に迫り、その土手に並行して暫く走った上で、再び左急カーブで従来のルートに戻ることになった。だから、鐘ヶ淵駅は上り線ホームの全体と下り線ホームの北端がその急カーブの中にある。
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 駅を出て線路の東側の路地を歩いて行くと、程なく荒川の土手に上がる道がある。そこから鐘ヶ淵駅を眺めてみると、確かに線路が急カーブで土手に迫っていく様子がわかる。
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 線路は土手の法面(のりめん)ギリギリまで近づいてから土手に並行した直線部分を形成しており、荒川放水路の開削計画と折り合っていくためには、こうするより他はなかったと思わざるを得ない。
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 このルート変更がなければ旧線の線路があったであろうあたりには野球場が整備され、球児たちの声が広い空に響き渡っていた。
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 線路を下に眺めながら土手沿いに1kmほど歩くと、頭の上を高速道路が横切る所に隅田水門があり、荒川から隅田川へと通じる水路が現れる。昔の綾瀬川の地形を利用したもので、この地点では荒川と隅田川に挟まれた陸地は400mほどの幅しかない。
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 そして、この水門の直ぐ先に現れるのが堀切駅だ。荒川の土手に沿った線路の直線部分が終わり、左カーブで元々のルートに戻ろうとする地点にあるため、ホーム全体が急カーブの中にある。
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 上り線ホームからの出口(=東口)は荒川の土手に面した一ヶ所だけ。自動改札を出て15段の階段を上ると川の堤防の上に出るなどというのは、東京23区内ではこの駅だけではなかろうか。こういう「寂れた感」が悪くない。
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 そして、下り線ホームの駅舎が実にレトロでいい。東京を遠く離れたローカル私鉄のような雰囲気だ。辺りには商店一つなく、実にひっそりとした駅前である。
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 ところで、作家・永井荷風(1879~1959)は、かつて荒川放水路の左岸を川上から川下へ散歩した時の様子を、以下のように記している。

 「西新井橋の人通りは早くも千住大橋の雑沓を予想させる。放水路の流れはこの橋の南で、荒川の本流と相接した後、忽ち方向を異にし、少しく北の方にまがり、千住新橋の下から東南に転じて堀切橋に出る。橋の欄干に昭和六年九月としてあるので、それより以前には橋がなかったのであろうか。あるいは掛替えられたのであろうか。ここに水門が築かれて、放水路の水は、短い堀割によって隅田川に通じている。
 わたくしはこの堀割が綾瀬川の名残りではないかと思っている。堀切橋の東岸には菖蒲園の広告が立っているからである。」
(『放水路』 永井荷風 著、昭和11年4月)

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 荷風が「綾瀬川の名残りではないか」と推測した短い掘割に築かれた水門は、先ほど通り過ぎた隅田水門のことだ。他方、堀切橋については若干の説明が必要になる。

 1902(明治35)年に東武伊勢崎線の吾妻橋・北千住間が開業した時に、堀切という駅は旧ルート上、つまり今は荒川の河道になっている箇所のどこかに設置されていたのだが、僅か3年後の明治38年に客扱いが休止となり、更に明治41年には廃止されてしまった。止まったり発車したりを頻繁に繰り返すことに向いていない蒸気機関車にとって、鐘ヶ淵・堀切間の距離が短すぎたというのが理由とされるが、利用者が少なかったこともあったのではなかろうか。

 それが、1924(大正13)年に荒川放水路の開削に伴う東武伊勢崎線のルート変更の際に電化も完成し、先ほど見た場所に堀切駅が復活することになった。その時に、地元の要望があって駅の近くに荒川放水路を渡る堀切橋が架けられた。それが荷風も見た初代の堀切橋だ。(先ほど見た、頭の上を越えて荒川を渡る首都高6号向島線の高架橋とほぼ同じ位置にあったようである。)そもそも堀切という地名は荒川放水路の対岸、つまり現在の葛飾区側のものであり、その堀切地区の人々にとって、かつての最寄り駅が今度は川向こうになってしまった。だから堀切橋が新たに架けられたのである。
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 ところが、その後の1931(昭和6)年に京成電鉄が上野線(日暮里・青砥間、現在の京成本線)を開業し、荒川放水路の右岸(葛飾区側)に堀切菖蒲園駅、左岸(足立区側)に京成関屋駅を開設すると、葛飾区側の堀切地区の人々も、足立区側の堀切駅周辺の人々も、都心に出るには京成電車の方が便利になり、東武の堀切駅は乗客を大幅に奪わることになってしまったという。そして、堀切橋自体も戦後になって250mほど上流の、現在の新堀切橋へと代替わりしている。今や、新堀切橋を渡って堀切駅を利用する人などは皆無であろう。
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(京成本線の全通後)

 堀切駅までやって来たところで雨が降り出した。曳舟や鐘ヶ淵で何人も見かけた浴衣姿の人々は、今夜の隅田川花火大会がお目当てだったのだろうが、ちょっと気の毒なことだ。私も傘を持っていなかったので、堀切のもう一駅先の牛田まで行き、そこから目と鼻の先にある京成関屋駅から京成電車に乗って都心へ戻ることにした。

 そのため、荒川放水路開削のために東武伊勢崎線がルート変更になったもう一つの箇所、つまり小菅・五反野間でJR常磐線をオーバーパスする部分については、今回は自分で見て歩くことが出来なかったが、実は戦後になって、このオーバーパスは俄かに注目を集めることになった。

 1949(昭和24年)7月5日朝、日本国有鉄道初代総裁の下山定則氏が公用車で出勤途上に失踪、翌7月6日未明に轢断死体で発見されるという事件が起きた。この死体が生体轢断なのか死後轢断なのかを巡って専門家の見解が分かれ、多くの自殺説・他殺説が飛び交う中、警視庁は捜査結果を発表することなく同年末に特別捜査本部を解散し、15年後には殺人事件である場合の公訴時効が成立。戦後最大の迷宮入り事件の一つとされる、いわゆる下山事件である。

 下山総裁は7月5日の朝、公用車で都内の自宅を出発。通常ならば午前9時前には丸の内の国鉄本社に出社するところを、この日は運転手に命じて日本橋・丸の内一帯を複雑なルートで周回。9時37分頃に三越百貨店前に停車させ、「5分位で戻る」と言い残して三越に入店、そのまま消息を絶った。

 その後、浅草行の地下鉄銀座線の車内や東武伊勢崎線・五反野駅で下山総裁と思しき人物が目撃され、午後2時から5時頃まで同駅近くの旅館に滞在。そして午後6時以降は五反野駅から南の東武伊勢崎線沿線で、同様の人物が複数の人間によって目撃されている。そして、日付が替わった7月6日の午前0時半過ぎに、国鉄常磐線の北千住・綾瀬間の下り列車用線路上で下山総裁の轢断死体が発見された。

 この時の死体発見現場が、東武伊勢崎線がJR常磐線をオーバーパスした地点から、綾瀬方の最初の踏切の手前までの場所であったそうである。(その後、現場付近の常磐線は高架になったので、同踏切は今はなく、道路との立体交差になっている。)
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 前日の出社前の下山総裁の不可解な行動。「影武者」によるアリバイ作りの匂いがする目撃情報(その一例として、自他共に認める愛煙家だった下山総裁が、現場付近の旅館に3時間滞在する間に一本の吸殻も残していないこと等)。轢断場所での血液反応の異様な少なさ。轢断した貨物列車の一本前に現場を通過した進駐軍専用列車の存在。下山総裁失踪の前日に国鉄が発表した3万7千人の従業員に対する整理(=解雇)通告。ソ連・中国との冷戦の激化を受けた米国の対日占領政策の「逆コース」化・・・。

 今もなお多くの謎が残る下山事件の現場は、今回その歴史を辿ってみたように、荒川放水路の開削計画がなければ今の場所ではなかったのだ。東武伊勢崎線のルートが旧線のままであったなら、今の五反野駅に相当する駅がその後に開設されていたのかどうか。そこに駅前旅館があったのかどうか。もしかしたら下山事件の発生現場は全く違う場所になっていたのかもしれない。

 歴史にifはないと言われるが、ついそんなことも考えてみたくなった。

East of River [散歩]


 今年4月の下旬に膵臓の半分を切除する手術を受けてから、ちょうど2ヶ月と1週間が経過した。直近3回の日曜日は何かと体調が悪くて何れも棒に振ってしまったのだが、7月最初の日曜日の今日は特に問題がなく、少しは外で体を動かせそうだ。梅雨の合間に日差しが戻り、日中は30度超えになるようだが、元気を出して散歩に出かけよう。

 我家の最寄駅から地下鉄とJRを乗り継ぐこと約20分、隅田川を渡った両国駅で電車を降りる。普段は東京の山の手側で暮らしている私にとって、週末にちょっと気分を換えたい時には隅田川を超えてみることが時々ある。

 両国という地名は、言うまでもなく隅田川がかつて武蔵国と下総国との境であったことに由来している。それが、寛永年間(1622~43年)とも、もう少し後とも言われるが、いずれにしても17世紀の内に隅田川の東側も武蔵国に編入されたようだ。そしてそれは江戸の市街地拡大の歴史と軌を一にしている。

 大坂夏の陣の終結によって実現した元和偃武(1615年)から20年後の1635(寛永12)年、徳川家光によって諸大名の参勤交代が制度化されると、各藩の江戸屋敷が次々に設けられ、江戸詰めの家臣達も居住を開始。江戸の人口は急増し、市街地が拡大していく。その延長線上で起きた大惨事が1657(明暦3)年の明暦の大火、いわゆる「振袖火事」だった。旧市街地の大半が焼失し、大名屋敷はおろか江戸城の天守閣までもが焼け落ちてしまったこの大火による死者は、3万人とも10万人とも言われる。

 この大火の二年後の1659(万治2)年、隅田川に両国橋が架けられた。そして、この橋から東側の地区への居住が幕府によって奨励される。橋よりも北側が本所、南側が深川だ。上述したようにこの地域が下総国から武蔵国へと編入されたのも、こうした防火・防災上の政策の一環なのだろう。

 時代は明治に飛んで、1904(明治37)年4月5日というから、日露開戦からまだ間もない頃だ。私鉄・総武鉄道の線路が市川方面から伸びて来て、この両国に終着駅が出来た。当時の駅名は「両国橋」だったそうだ。その終着駅時代の面影を残す駅舎が(関東大震災で焼失したため、昭和4年に再建された駅舎がベースではあるが)今も残されている。
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 現在は1・2番線ホームをJR総武線の電車が行き交っているが、その北側の一段低い場所にもう一本のホームがあり、3番線の線路が西側(浅草橋駅寄り)で行き止まりになっている。

 道路の両国橋に並行するように総武線の鉄橋が隅田川に架けられたのは、1932(昭和7)年。関東大震災後の帝都復興事業の一環で、これによって総武線の電車は今のような運行形態になった。それでも、東京と内房・外房地区を結ぶ中・長距離列車の東京側の終点は長らく両国駅のままで、私が小学生の頃、夏の臨海学校の帰りに内房の岩井駅から蒸気機関車が牽く客車列車に揺られ、最後はこの両国駅に降り立ったことを今でも覚えている。そう、あの時も確かにこの行き止まりの線路があった。
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 そんな風に、どこか昔懐かしい両国駅から外に出て南に向かい、京葉道路を渡ると、正面に回向院の緑が目にとまる。諸宗山無縁寺回向院。幕府の命により、振袖火事の死者を弔った万人塚を起源とする寺である。以後も大きな災害による横死者の無縁仏を供養する場所として機能し続けて来た。
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 境内の奥には沢山の供養塔や慰霊碑が建てられていて、そこに刻まれた文字を読み解くと興味深いものがある。写真の左側は「大正十二年九月一日 大震災横死者之墓」、言うまでもなく関東大震災の死者に対するものである。その右側は「天明三年癸卯七月七日八日 信州上州地変横死之諸霊魂等」とあるから、「天明の大飢饉」の原因となった1783(天明3)年7月の浅間山大噴火による横死者への慰霊碑なのだろう。(因みに、この年の4月には東北の岩木山でも噴火があった。)
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 さて、回向院の南側にある路地を東側に数ブロック歩いていくと、「本所松坂町公園」の表示がある。公園といっても小さな土地で、遊具などは何もない。しかも白塗りの塀に囲まれているので、ここが公園だと思う人はいないだろう。それが吉良邸跡、要するにあの忠臣蔵の「悪役」・吉良義央の屋敷跡(の一角)である。1702(元禄15)年12月14日(今の暦では1703年1月30日)、四十七士による吉良邸討ち入りの舞台はこの場所だったのだ。
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 浅野内匠頭が江戸城松之大廊下で刃傷沙汰を起こし、即日切腹となったのが前年の3月14日。赤穂城の明け渡しが同4月19日。一方の吉良義央はその年の8月19日に呉服橋門内から本所のこの場所へと屋敷替えになっている。もちろん自主的に引っ越したのではなく、幕府により呉服橋の邸宅が召し上げられ、代替地があてがわれたという訳だ。

 大名屋敷が連なり、北町奉行からも目と鼻の先にある呉服橋から、それよりも遥かに人通りの少ない本所への転居命令。私たちが北斎や広重の錦絵を通じてイメージしている江戸・両国橋近辺の賑わいはあくまでも19世紀前半のものであって、両国橋の竣工からまだ40余年しか経っていない赤穂事件の時代は、両国橋の向こう(東側)はまだ市街化の歴史がずっと浅い頃だ。それに、元禄時代といえば文化の中心はまだ上方にあった頃である。そんな時代の本所に屋敷を移せと幕府が吉良に命じたことについて、敢えて討ち入りがしやすい場所を与えたのではないかという想像が働くのも無理からぬところだろう。
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(歌川国芳「忠臣蔵十一段目夜討之図」 19世紀に描かれた想像画ではあるが・・・)

 さて、吉良邸跡から両国駅に戻り、今度は隅田川に沿いに浅草まで歩いてみることにしよう。
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 両国国技館を右手に見ながら土手沿いに歩いて行くと、水上バスの両国発着場があり、階段を降りると隅田川の岸辺に出る。どうせ歩くなら土手沿いの道よりも岸辺の遊歩道の方が楽しい。振り返ると、総武線の電車が隅田川橋梁を渡っていく様子が彼方に見える。
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 そのまま暫く歩いて行くと、蔵前橋が目の前に近づいて来る。時刻は午後2時半を回った頃で、隅田川の左岸(東側)は対岸から太陽に照りつけられて暑い。岸辺から一旦上がって蔵前橋を渡り、右岸に出れば少しは日陰があるかな。そう思って蔵前橋から対岸に出てみた。1927(昭和2)年の竣工というこの橋。その直下から眺めると、鋼鉄製の重厚なアーチ部分がなかなか立派である。
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 両国に移転する前のかつての国技館は、この橋の東詰にあった。私が子供の頃に父に連れられて大相撲を見に行ったのは、その蔵前国技館の時代である。その跡地は東京都下水道局の蔵前ポンプ所になっていて、台東区周辺の家庭や工場からの下水を三河島水再生センターに送ったり、降った雨水を集めて隅田川に流したりする役目を負っている。
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(昭和40年当時の地図にある蔵前国技館。当時は主要な道路にまだ都電が走っていた。)

 期待したほどの日陰は右岸にはなく、汗を拭き拭き歩き続けると、次にやって来るのは春日通りがその上を走る厩橋。三つ並んだアーチが印象的な橋だ。厩(うまや)の名前は、江戸時代に蔵前の米蔵に出入りした荷駄馬用の厩が橋の西側にあったことに因むという。現在の橋は1929(昭和4)年の竣工になるもので、このあたりから対岸の眺めは次第に東京スカイツリーが主役になっていく。
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 ここまで来れば、浅草までは残り1kmもない。左手の土手の上を見上げると、川沿いに居並ぶビルの所々に、フレンチ・レストランや和風の居酒屋が隅田川の対岸に向いた場所にテラス席を設けている。スカイツリーの夜景を眺めながら一杯という趣向、なかなか良さそうだ。そして駒形橋を過ぎると、正面には鮮やかな赤色に塗られた吾妻橋が見えて来る。そこから左手の土手を上がれば東京メトロの浅草駅だ。
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 両国から浅草まで、川岸と土手の昇り降りを除けば 川沿いの至って平坦な散歩コースだが、梅雨明け後の盛夏を先取りしたような陽気になった今日は、両国駅前で買った水のペットボトルが浅草ではもう空になっていた。

 人気番組「ブラタモリ」のような深掘りは出来ないが、自分なりに江戸と東京とを行き来しながらの日曜日の散歩も、たまにはいいものだと思った。

台地の縁を歩く (その2) [散歩]


 東京の都心にある小石川、小日向、関口の各台地。神田川の流れに寄り添うようにして、それらの台地と低地とを結ぶ坂道の数々を訪ねる休日のウォーキングも、後半に入った。雑司ヶ谷の鬼子母神で一休みした後は、更に西を目指そう。
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 鬼子母神から高田一丁目交差点まで戻り、目白通りを渡ると、このあたりにしては緩い下り坂が反対側に続く。それをゆっくり下っていくと、慈眼寺金乗院という真言宗の寺があった。そして、この緩い坂道が宿坂(しゅくざか)と呼ばれ、中世の鎌倉街道に設けられた「宿坂の関」からその名がつけられたと、寺の前の標識に書かれている。

 しかもこの寺は、慈眼寺金乗院という名前よりも、目白という地名のオリジンになった目白不動尊が置かれていることの方が有名であるようだ。弘法大師自らの作になるという不動明王像が、江戸時代にこの近くに再興された寺の本尊となり、徳川家光によって江戸の五色不動の一つ、目白不動の名を贈られたが、その寺は太平洋戦争時の空襲で廃寺に。だがその本尊はこの金乗院に移され、現代の目白不動尊として信仰の対象になったという。

 そのご本尊が祀られた不動堂の横の階段を上っていくと墓地があり、その最奥に「丸橋忠弥の墓」の標識が。
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(⑫宿坂の慈眼寺金乗院にある丸橋忠弥の墓)

 丸橋忠弥!江戸時代初期の慶安4(1651)年、幕府の転覆を図った「慶安の変」において、由比正雪と共に首謀者となった人物である。この陰謀は事前に露見し、丸橋は捕縛され鈴ヶ森で磔刑に処せられた筈だが、低地を見下ろす関口台地の中腹に彼の墓があったとは。

 目白不動尊から再び目白通りに戻って西方向に向かうと、目白通りが明治通りをオーバーパスする千登世橋へとやって来る。橋の下の明治通りは切通しで台地を横断するような形になっていて、橋の向こうは目白台地である。

 明治時代に作成された地図にはこんな切通しはなく、現在の関口台地と目白台地が一体となった丘が続いている。要するにこの切通しは、「明治通り」といいながら昭和2年の都市計画に基づいて東京初の環状道路が建設された時に出来た人工の地形なのである。
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(明治42年の地図。明治通りの切通しも千登世橋もまだ無い)

 この橋の東端に立つと、関口台地の崖に沿って都電荒川線が勾配を上って来る様子を見下ろすことができる。目白通りと明治通りの高度差もなかなかのものだ。
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(⑬千登世橋から見下ろす都電荒川線)

 さて、目白通りを少しだけ戻って最初の右の路地に入ろう。そこに待っているのはクルマの対面通行が出来る長くて急な下り坂だ。あたりに坂の名前の標識はないが、これがのぞき坂と呼ばれる、クルマが通れる道路では東京23区内で最も急な坂の一つなのだ。その名の通り、昔の人はこの坂の上から恐る恐る下をのぞき込んだのだろうか。
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(⑭-1 のぞき坂を見下ろす)

 今日の私はこの坂を下っているが、これを上る人は難儀なことだろう。スマホの高度計アプリを使って計測してみたら、坂の上と下では16mほどの高度差があった。この坂道体験は本日の台地巡りのハイライト部分であるかもしれない。
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(⑭-2 のぞき坂を下から見上げる)

 のぞき坂を下り切って路地を右に曲がると、程なく都電荒川線の学習院下駅に出て、その直ぐ先の横断歩道で明治通りを渡る。そこからしばらくの間は、目白台地の南斜面に延々と続く学習院大学の敷地を眺めながら歩くことになる。

 やがて山手線の築堤に設けられたトンネルを潜り、山手線の外側へ。右手には高台が続いており、案外と緑が多い。そしてその緑が一段と濃くなった所が新宿区立のおとめ山公園である。ここが山手線のすぐ外側?と思うような坂道の景色だ。

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(⑮-1 おとめ山公園を左に見る坂道)
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(⑮-2 緑深い公園の中)

 江戸時代にこのあたりは徳川将軍家の狩猟地で、一般人の立ち入りが禁じられ、「御留山」または「御禁止山」と記されたそうだ。このおとめ山公園に入り込んでみると、中は落葉樹の緑が驚くほど深い。今もなお湧水があり、毎年7月にはホタルの鑑賞会が開かれることでも知られている。

 おとめ山公園の下をその敷地に沿って歩いていくと、それが終わった所の右手にもう一つ急な坂が現れる。相馬坂と呼ばれるもので、徳川家が所有していた御留山が明治になって近衛家と相馬家の手に渡ったことからその名がついたという。
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(⑯相馬坂)

 相馬坂を過ぎてなおも道なりに200mほど進むと、右手に山門の立派な寺があった。東長谷寺薬王院という真言宗の寺で、その山門を潜って中に入ると、目白台地の上へと続く広い境内はよく手入れが行き届き、今の季節は実に鮮やかな緑に包まれている。奈良の長谷寺から譲り受けた牡丹が咲く寺としても知られている場所だ。
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(⑰ 薬王院の山門)
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 初めて訪れた薬王院の境内をしばし眺めた後は、歩いて来た道路に戻る。その道はすぐに左に曲がって新目白通りに出るので、歩道橋でそれを越えると西武新宿線の下落合駅が近い。

 三鷹の井の頭池から流れて来る神田川と、杉並の妙正寺池を水源とする妙正寺川。この二つが出会う場所がその名の通り「落合」だ。そして現在は水害を防ぐために妙正寺川がここで暗渠となり、山手線の内側で神田川と合流するようになっている。その暗渠の入口を、下落合駅のすぐ西側にある踏切から眺めることができる。
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(⑱妙正寺川の暗渠の入口)

 そして、踏切を渡った先の道路を左へ歩いていくと、やがて神田川を渡り、高田馬場駅へと続く「さかえ通り商店街」へと入ることになる。私の学生時代、このあたりの飲み屋にはよくお世話になった懐かしい場所である。
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(⑲神田川と「さかえ通り商店街」)

 東京メトロの後楽園駅から歩き始め、幾つかの台地の南側の縁をたどりながらここまで、距離にして8.4km。よく歩いた。都会の中といえども、自然の地形を体感しながらの散歩には色々な発見があって楽しいものだ。

 カシミール3Dの「スーパー地形セット」が描き出してくれる東京都心の地形の凸凹をPC上で眺めながら、次回の散歩のプランを立てることが当分続きそうである。

台地の縁を歩く (その1) [散歩]


 登山者用の地図ソフト、「カシミール3D」。山へ行く前の準備作業などのために私はよく利用しているのだが、昨年11月にリリースされた「スーパー地形セット」がスグレモノだ。

 国土交通省が作成し公開している「デジタル標高モデル(DEM)」を基に、全国各地の詳細な地形図をPC画面上に表示することができる。DEMは地上を5m四方のグリッドに分割し、各グリッドについて最小で10㎝単位の標高データを記載したものだ。航空機から地上をレーザー光でスキャンすることによって得られた標高データから、樹木や人工の構築物に関するものを取り除いて作成されているという。

 カシミール3DはそのDEMを使い、予め用意された色々なパターンの表示方法によって、地上の生の姿のレリーフ図を描いてくれる。しかも、そのレリーフ図を国土地理院の25000分の1の地図や空撮写真と重ね合わせて表示することもできるのだ。国内の全ての箇所についてこんな作業が自由にできるのだから、私たちは何と恵まれた環境にいることだろう。

 DEMがこのように詳細な標高データなので、山岳地帯だけでなく都市部でも建物の陰に隠れた地表の凹凸をレリーフにすることがカシミール3Dはできる。例えば東京の皇居の西側の地図を表示してみると以下のようになる。
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 これは標高差を8倍に拡大して地形の凹凸を強調したものだが、東京の都心にも実に様々なアップダウンがあることが改めてわかる。確かに、クルマで通り過ぎるだけでは認識することが難しいが、自分の足で歩いてみると、東京の山手線の内側には坂が多いことを実感するものだ。このレリーフ図はそうした「足で歩いた実感」を再現してくれるものであるとも言える。

 良く晴れた5月3日(火)、連休の最中で東京の都心部は(一部の繁華街を除けば)ガランとしている。その感じを楽しむのが好きで、私は5月の連休中には遠出をしない。わざわざ渋滞に巻き込まれて遠くへ出かけるよりも、静かな都心を歩いて身近なことの再発見をする方を、どうしても選んでしまうのだ。

 予めカシミール3Dで調べたことを基に、今日は小石川、小日向、目白の各台地の南側の縁を歩き、神田川が台地を刻んで作り上げた地形の凹凸を自分の足で確かめてみることにしよう。

後楽園駅前 → 江戸川橋交差点

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 東京メトロ丸ノ内線・後楽園駅の北側にある富坂下交差点。そこから西方向を眺めると、小石川台地の尾根を登るように春日通りが坂道を作っている。
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(① 富坂下交差点から見た春日通り)

 駅の南側の都道を西方向へ進むと、その小石川台地の南斜面が続いていて、その縁に沿って造られた築堤の上を丸ノ内線が走っている。(ここから茗荷谷駅までは二ヶ所のトンネルを伴う地上区間である。)
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(②後楽園駅付近の丸ノ内線の築堤)

 牛天神交差点で都道と別れて右への道を進むと、伝通院から降りてくる安藤坂を横切って、小石川台地の南の縁沿いになおも道が続く。巻石通り、或いは水道通りと呼ばれる道路で、かつての神田上水が流れていたルートを明治時代になって暗渠にしたものだ。

 そして小学校を過ぎると、右側に緑の多い一角が現れる。道路沿いには「徳川慶喜公屋敷跡」の碑。維新後は駿府に隠棲していた慶喜が明治34年以降はこの地に住み、そして終焉を迎えた場所で、現在は国際仏教学大学院大学の敷地となっている。キャンパスを左手に見ながら登っていく坂道は今井坂と呼ばれ、登りつめると、掘割の中を走る丸ノ内線を小さな橋で跨ぐことになる。
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(③徳川慶喜公屋敷跡と今井坂)
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 水道通りに戻り、西を目指そう。あたりは小日向地区に入る。確かに本来の地形は日当りの良さそうな南斜面だ。やがて右手に小日向神社へと上がっていく服部坂が現れる。上り一方通行の結構な傾斜の坂道で、左カーブで小日向神社の上へと登っていくと、江戸川橋方面を見下ろせる。
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(④服部坂)

 水道通りを更に進むと、右手に現れるのは下り一方通行の大日坂。坂の途中に大日如来を祀る小さなお堂があることがネーミングの由来なのだが、これは小日向の南斜面を上がっていく長い坂である。
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(⑤大日坂)

 ここまで来ると小日向台地は終わりに近く、道路の先方を横切る音羽通りが見えてくる。左に行けば江戸川橋の交差点だ。

江戸川橋交差点 → 雑司ヶ谷鬼子母神

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 江戸川橋交差点の一つ北の信号で音羽通りを横断すると、首都高速の5号池袋線をくぐって丘を登っていく道がある。ここから先は関口台地が始まるのだが、それを上がっていくこの坂が目白坂だ。上りつめると左側の深い緑の中に椿山荘が現れる。言うまでもなく、明治の元勲・山形有朋の屋敷だった場所である。
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(⑥目白坂を上る)

 椿山荘の前で目白通りに合流。カトリック東京カテドラル関口教会の特異な建物を右に見ながら目白通りを進み、左手に現れる最初の路地に入ると、200mほど先の右側に永青文庫がある。旧熊本藩主・細川家の屋敷跡だ。そして、その直ぐ先に鬱蒼とした緑の中を細い坂道が急傾斜で下っている。その名も胸突坂。あまりに急なので中央に手摺が設けられている。あたりはひっそりとした緑の中で、東京の山手線の内側とは思えないほどだ。
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(⑦胸突坂)

 そして、平地と台地の境にあたる部分には神社がよくあると言われる通り、胸突坂を下りきると右側に「水神社」の社が見える。前を流れる神田川のもう少し下流方向(=江戸川橋方向)には、江戸時代に神田上水用の取水のために神田川の流れを堰き止める「大洗堰」が設けられ、水神社はその守護神を祀ったのだそうだ。更には、俳人・松尾芭蕉が一時期はこの場所の水管理に係わっていたというのも、何やら興味の湧く話である。
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(水神社と大イチョウ)

 先ほどは目白坂を登ってせっかく関口台地の上まで来たのに、謎めいた胸突坂をつい下ってしまった。台地の上に戻るためには、またどこかの坂を上がらねばならない。水神社から神田川沿いの道を上流方向へと歩いていくと、道は直ぐに神田川を離れて住宅街の中へと続いている。300mほど歩くと右側に左クランク状の登り坂があり、それを登り返すことにしたのだが(豊坂というそうだ)、これがまた結構な傾斜である。

 この坂を登りきって再び関口台地の上に出た所が「日本女子大前」の交差点で、通りの向こう側にもこちら側にも日本女子大関連の施設がある。そして、目白通りを西方向へと進んでいくと、三差路の手前左側に小さな区立の公園があり、台地の下を眺めることができる。
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(⑧台地の下の眺め)

 その直ぐ先の目白台二丁目交差点が区の境になっていて、そこから先は豊島区になるのだが、この信号を過ぎて最初の左の路地の先に、またしても急な坂があった。

 これはちょっと不思議な景色だ。一方通行ながら車が通る急な下り坂の途中で、三角形の民家の敷地を挟んで左に階段を下っていく細い坂道がもう一つある。右側は富士見坂、そして左側は日無坂と呼ばれ、日無坂はまさに文京区と豊島区の境界線を成している。途中まで降りてみたが、どちらも相当な急坂である。
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(⑨日無坂と富士見坂)

 小石川、小日向、そして目白の各台地と低地とを結ぶ坂道に興味を惹かれて、ここまで歩いてきた。そろそろどこかで一休みしようか。

 目白通りを更に西方向に向かい、高田一丁目の信号を右に曲がると、鬼子母神への参道であった道路が始まる。都電荒川線の踏切を渡ると、背の高いケヤキの木が道なりに並び、いかにも寺社の参道らしい雰囲気だ。
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(⑩鬼子母神の参道)

 そして、鬼子母神堂の境内のベンチで一休み。室町時代から続くこのパワースポットの中にいると、何だか時が止まったかのようだ。憲法記念日の今日は南風が強いがよく晴れている。ここまでせっせと歩いてきて、半袖・短パンという軽装ながら、それなりに汗をかいた。それだけに、鬼子母神の深い緑陰が、今は何ともありがたい。
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(⑪鬼子母神堂)

(To be continued)


台地の突端 [散歩]


 「今日はお洗濯用の柔軟剤を少しまとめ買いしたいのだけれど、一緒に行ってくれる?」
 「それなら、伝通院へ散歩がてら、白山通りのスーパーへ行こうか。今週末は確か、伝通院の『朝顔市』をやってるはずだから。」
 「ああ、それいいね。」

 日曜日のお昼過ぎ、コーヒーを飲みながら家内とそんな話になって、外を歩くことになった。「海の日」の三連休の中日。梅雨の末期特有の空模様だが、雨は降って来そうにない。気温はもう30℃に近いのだろうか。やたらと蒸し暑いから、私もTシャツに短パン姿だ。
 「虫除けをシュッシュして行こうね。」
家内が小さなスプレーを持ってきた。お寺の境内は蚊がいるから、この季節の散歩には必携なのだ。

 いつもの坂道を上って大通りに出ると、雲間から陽がさして、早くも汗が出て来た。両側にマンションやオフィスビルの立ち並ぶ大通りは、日曜日とあってクルマも人通りも少ない。休日の都心のそんなガランとした様子が、私は案外と好きだ。家内と何の話をしたのかは覚えていないが、15分ほど歩いて大きな交差点を左に曲がると、正面が伝通院の山門だ。
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 山門をくぐると、たくさんのアサガオの鉢が参道の上に並べられている。その鉢の販売だけではなくて、地ビールだの甲州のワインだのが販売されていて、伝通院の境内は賑やかだ。「文京朝顔・ほおずき市」と名付けられた文京区のイベントになっているこの催し。これが始まると、今年も夏がやって来たことを肌で感じることになる。
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 ほおずき市の方は、この伝通院から坂道を下っていった先の源覚寺で行われている。(源覚寺という名前よりも「こんにゃくえんま」と呼ばれる閻魔像の方がずっと有名なのだが。) 善光寺坂と呼ばれる、幅の狭いその坂道を下り始めると、道路の中央近くに幹の太いムクノキの姿が見える。
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 善光寺坂のムクノキ。樹齢400年とされるこの巨木は、文京区指定天然記念物の第1号だ。往時は高さが22mもあったそうだが、昭和20年5月25日の空襲で上部が焼け落ちてしまったという。にもかかわらずこの木は生き続け、今も多くの枝に葉を茂らせて元気いっぱいだ。そんな様子から、最近では一種のパワー・スポットとしても知られるようになった。

 ムクノキからも更に下り坂が続く。先ほど我家の前から坂道を上った分以上に下って来たようだ。下りきると千川通りの商店街に出て、それを右方向にしばらく歩いていくと、右手にいきなり「こんにゃくえんま」の入口が現れる。源覚寺の境内には入らず、閻魔堂にお参りするための通路なのだ。その狭い空間にほおずきの鉢が幾つも吊るされ、販売されている。徳川家の菩提寺であった広大な伝通院とは対照的に、庶民の信仰の対象だった「こんにゃくえんま」では狭い場所に人々がひしめいている。
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 今日は坂を一つ上り、一つ下りてここまでやって来た。これから買い物をして、我家に帰るためにはまた少し坂道を上ることになるのだが、このように文京区は坂道が多い。武蔵野台地が沖積平野に接する間際のところで、小さな河川が台地に谷を刻んだような地形が幾つもあるのだ。例えば、TVドラマなどのロケに使われることがある庚申坂は、東京メトロ丸ノ内線の後楽園・茗荷谷間で電車が地上の高架を走る、その足元から始まって、坂を登り切った春日通り沿いとは5mほどの高度差がある。
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(庚申坂)

 文京区に限らず、台東区の西部、千代田区、港区、渋谷区、新宿区、豊島区の東部・南部も坂道ばかりだ。ちょうど、JR山手線に囲まれた地域である。その山手線の内側のデコボコを、7つの台地と6つの谷に整理する学説があるそうだ。

 ① 上野台地
 ② 本郷台地
 ③ 目白・小石川台地
 ④ 牛込台地
 ⑤ 四谷・麹町台地
 ⑥ 赤坂・麻布台地
 ⑦ 芝・白銀台地

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 最初の上野台地は、上野駅から田端駅にかけて線路の西側に続く丘で、いわゆる「上野の山」と「道灌山」だ。そして、東大のキャンパスがある②の本郷台地との間が千駄木・不忍谷である。②と③の間は指ヶ谷(さしがや)谷と呼ばれ、現在の千川通りや白山通り(中山道)の一部がそれにあたる。

 そして③と④の間は神田川が作る谷、④と⑤の間は飯田橋から四谷までの皇居外堀、⑤と⑥の間は溜池谷で、紀尾井町のお堀から赤坂見附を通って外堀通りの溜池までの谷だ。そして⑥と⑦の間は古川谷で、現在は暗渠になった渋谷川の上を明治通りが走っている。

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(文京区のクローズアップ)

 このうち、文京区の部分をクローズアップしてみると、目白・小石川台地は神田川と千川通りの二つの谷に挟まれた台地で、春日通りがちょうど尾根の上を走っているような構造だ。そして、目白台と小日向の間の谷(現在は音羽通り)も、神田川の支流によって刻まれた谷なのだろう。今日訪れた伝通院は台地の上、そこから善光寺坂を下った源覚寺(こんにゃくえんま)は、台地の下の縁に位置していることがわかる。

 ところで、日本列島が出来たのは、海面が上昇したおかげだという。今から2万年ほど前にウィスコンシン氷期と呼ばれる大規模な氷河期があり、海面が下がったので日本列島はユーラシア大陸と陸続きになった。その後、温暖化が始まって徐々に海面が上昇し、日本が列島として大陸から離れていったという。

 「一番高く海面が上昇したのは、約6000年前のことであった。その時を『縄文海進』と呼んでいる。その6000年前の縄文海進期には、現在より海面が5~7メートル高かった。それは地質調査や貝塚の分布調査などによって確定されている。

 日本の歴史が誕生した縄文海進期に、現在ある平野は存在していなかった。今の日本文明の中心である石狩、仙台、関東、濃尾、新潟、富山、金沢、福井、大阪、和歌山、徳島、香川、高知、広島、筑後、熊本平野など、平野という平野は全て海の底であった。

 その縄文海進期が終わり、気温が下がり始めた。それに伴い南極など地球各地で氷河や氷床が形成され、そのため海水面が数メートル低下して現在に至っている。」
(『日本文明の謎を解く』 竹村公太郎 著、清流出版)

 この縄文海進期には、現在の東京でいえば九段下あたりまで海が来ていたという。勢力の強い台風などがやって来て海面が上昇した時には、それがもっと先まで押し寄せて行ったのだろう。とすれば、現在の目白・小石川台地の東の突端あたりが陸と海の境目だったこともあるのではないか。

 東京メトロ・後楽園駅のすぐ近く、春日通りと千川通りが交差する富坂下の四つ角の東南側に、文京区役所が建っている。その25階にある展望ロビーに上がると、目の下はちょうど目白・小石川台地の東の突端だ。春日通りと千川通りに挟まれた間に伝通院の山門も見えていて、建物が密集する都会の風景ながら、地表のデコボコをそれなりに観察することが出来る。そして、この近くまで海が押し寄せていた6000年前の風景を想像してみるのも悪くない。
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 朝顔市とほおずき市。夏の風物詩を見物した私たちは、その近くのスーパーで本来の目的である買い物をした。そして、少々重たい荷物を抱えながら、我家に向かって再び坂道を上がった。散歩に出た時よりも今の方が日差しが強く、汗が出る。天気予報に載っていたこの先の予想天気図を見る限りでは、明後日の22日には関東地方も梅雨が明けそうだ。

 さあ、帰ったらシャワーを浴びて、缶ビールを開けようか。そう話しかけようとしたら、家内の横顔にも同じことが書いてあった。

起点と終点 [散歩]


 11月23日、火曜日。会社は休みである。週中にポツンと祝日があるよりも、どうせなら週末につなげた方がいいのにと若い頃は思ったものだが、相応に年を取ってみると、こういう休みもそれはそれでありがたいと思うようになるから不思議なものだ。昨夜からの雨がまだ残っていたので、朝はのんびりと過ごした。

 読みかけの本を手に取り、横になって続きを読む。途中でついウトウトしてしまったが、気がつくと窓の外は薄日が差していた。正午を少し過ぎたところだ。天気予報の通り、午後はそれなりに良い天気になりそうである。同じようにして過ごしていた家内も、そんな外の光に誘われるようにしてベランダに出る。
 「せっかくだから、少しお散歩しようか。」
 どちらから言い出すともなく、いつものようなパターンになった。我家にしてはスロー・スタートだが、たまにはそれもいい。

 休日で乗客も少ないメトロに乗って15分。三田駅で外に出ると、空の半分ぐらいはもう青色を取り戻していた。日比谷通りを南に行くとすぐに幅の広い第一京浜にぶつかり、JRの田町駅がある。目の前を走る山手線や東海道線の線路は、元々は東京湾の波打ち際だったところだ。

 このあたり、江戸時代の古地図と重ね合わせてみるとなかなか興味深い所で、田町駅前(三田口)のあたりは薩摩藩の蔵屋敷だった。貨幣の代わりだった米やその他の物産を貯蔵しておく倉庫が置かれ、だからこそ海岸に面していたのだろう。幕末維新のハイライト、江戸総攻撃の是非を巡る西郷と勝の談判が行われた場所を示す「江戸開城 西郷南洲 勝海舟 会見之地」という碑が自動車会社のビルの隅に建てられている。
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 そんな重要な会談をなぜ蔵屋敷なんかで?と思ってしまうが、すぐ近くにあった薩摩の上屋敷は、両者の会談の3ヶ月ほど前、1967(慶応3)年の12月25日に焼き討ちに遭っていたのだ。江戸の街中で騒乱を起こすという薩摩の挑発に幕府方(庄内藩など)が乗ってしまった「江戸薩摩藩邸の焼討事件」で、戊辰戦争のきっかけとなったものである。今は電器メーカーの背の高い本社ビルが建つ、その敷地内に薩摩屋敷跡の碑があるそうだ。

 田町駅の正面へと歩いていくと、大勢の若い人たちが吸い込まれるように「慶応通り商店街」へと向かっている。今は学園祭の季節。「三田祭」を見に行く人々の列だ。
 「三田キャンパスの中は今イチョウがとっても綺麗よ。」
 そう言って我家の娘は今朝も早くから大学へ出かけていった。学園祭のイベントで裏方をしている娘の様子をわざわざ見に行くつもりもないが、散歩のついでにキャンパスの様子を見てみるのも悪くない。家内と二人でメトロに乗って三田まで来たのは、そんなことがきっかけだった。

 東門から入ると、キャンパスの中は大変な人出である。そして、学生さんたちはみな楽しそうだ。食べ物を売る屋台がひしめき、奥の野外ステージのあたりはポップな歌声に盛り上がっている。いかにもお祭りという感じである。自分もいつの間にか大学生の子を持つ親になってしまったが、自分の子供達と同じ年格好の若者が大勢集まる場の中にいると、それだけで何となく元気をもらったような気分にもなるものだ。そして、「若い」って羨ましいなぁとも、改めて思う。
 「今、キャンパスに来てみたよ。忙しそうだから、このまま帰るね。頑張ってね。」
 娘には家内がメールを送っていた。

 よく考えてみれば、慶大のキャンパスに足を運ぶのは、私自身初めてのことだ。学生時代もついぞ縁がないままだった。当時私が通っていた大学の、立て看板にゲバルト文字という何とも無粋な文化祭に比べると、二十一世紀の三田祭は何ともスマートである。
 人々の流れに従いながら敷地の中を簡単に一周して、再び東門へと戻る。振り返ると、クラシックな図書館の外壁がイチョウの黄葉によく映えていた。
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 慶大の東門を出ると、桜田通りの先には東京タワーが近い。1871(明治4)年に、島原藩中屋敷の跡地を借り受ける形で慶応義塾がこの地へ移って来た時、周囲はまだ大名屋敷の名残りをとどめ、東京タワーの建つ小高い丘は芝の増上寺の塔頭が多数残っていたに違いない。そんな昔を想像しながら赤羽橋の交差点を渡り、東京タワーの足元へと向かう。芝公園の紅葉もだいぶ終わりかけている。
 東京に住んでいると、東京タワーの中に入ることはまずないが、散歩がてら訪れて足元から見上げてみると、それはそれで面白いものだ。
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 アジア人の観光客が多い東京タワーの直下を過ぎ、飯倉の交差点に向かって歩いていくと、右手に寺が一つ。「勝林山 金地院」の名前に、思わず私は足を止めた。金地院(こんちいん)といえば、徳川家康のブレーンだった臨済僧・金地院崇伝(以心崇伝)の名を思い出す。
 「コンチインスウデンって、誰のこと?」
 家内はキョトンとした顔をしているが、戦国の世が終わって江戸時代に入ると日本史は人気がなくなるから、知られてなくても仕方のないことだ。

 崇伝は足利将軍家の家臣である一色家に生まれたが、その足利幕府が滅亡したため僧籍に入り、後に京都・南禅寺の住持に就任。やがて家康に招かれて政治顧問となり、キリスト教の禁教令や武家諸法度、禁中並公家諸法度の起草に係わったとされる。豊臣家を滅亡に追い込む「大阪夏の陣」のきっかけとなった、方広寺の鐘銘への言いがかりにも係わるなど、家康の側近として権勢をふるって「黒衣の宰相」と呼ばれた、豪腕で腹黒いイメージのある男である。
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(以心崇伝 1569~1633)

 「崇伝は、室町時代から外交文書を司っていた鹿苑僧録の職にあり、秀吉、家康にも仕えた西笑承兌(せいしょうじょうたい)と親しかった関係で家康と知り合い、承兌死後、鹿苑僧録を継ぎ、外交文書を作成するようになるが、やがて家康の外交顧問、政治顧問の如き役割をするようになる。」
 (『梅原 猛、日本仏教をゆく』 梅原 猛著、朝日文庫)

 金地院とは南禅寺の塔頭の一つで、小堀遠州の作った庭で有名な寺だが、その名前がなぜここに? 私は不勉強だったので帰宅後に調べてみると、家康に取り立てられてからの崇伝は京都と江戸を往復する生活で、その江戸執務のための居寺として1619(元和5)年に田安門内に金地院が創建され、それが寛永期(崇伝の死後)に現在の場所に移転したのだそうだ。だから崇伝は江戸の金地院の開山であり、現在この寺は南禅寺の東京出張所でもあるという。
 それにしても、戦乱期にようやく終止符を打った元和堰武の時代に、臨済宗の禅僧がなぜ家康から重用されたのか。

 「彼(崇伝)の書いた『異国日記』を読むと、彼は得られるかぎりの外交情報を集め、東アジアの政治情勢を的確に把握し、家康によき助言を与えていたことが分かる。」
 「徳川氏が天下を取ったものの、武士たちのなかで外交や法律の知識のある者は皆無で、そこで代々相国寺の僧が務めた鹿苑僧録を引き継いだ崇伝が、このような外交や法律の文書の作成をほとんど一人で成し遂げた。」
 (いずれも、前掲書)

 戦乱の火種であった豊臣家を滅ぼし、以後は恒久平和の世を実現するという大きなビジョンの下、自分達に欠けているものを補うために、これぞという人材を外から見つけてきて登用する、このあたりは家康という政治家のスケールの大きさを改めて感じさせる話である。
 「政治主導」の名の下に何でも自分でやろうとした結果、外交も国防も、そして肝心の財政再建についてさえ素人ぶりを露呈して国を混乱させている今の政権党の人々は、こういう歴史に学んでいるのだろうか?
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 江戸無血開城を決めた薩摩の蔵屋敷と、徳川幕府による統治体制の基礎を作った崇伝ゆかりの寺。今日は偶然ながら江戸時代の終点から起点へとさかのぼる散歩になった。そう思うと、東京の街中にも歴史のヒントが色々とあるものだ。

 金地院を過ぎて道をまっすぐ進むと飯倉の交差点。そこを右に曲がって桜田通りを歩き、神谷町の四つ角のカフェで一休みしてから、家内と私はホテルオークラを超えて溜池山王の駅まで歩いた。
 陽が差して暖かくなった雨上がりの午後には、夕闇が迫り始めていた。

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