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根津の権現さま [宗教]

 5月15日(土)、快晴。朝早く目が覚めたので、今日もジョギングに出かけることにする。

 いつも決めているコースを走ってもよかったのだが、今朝は少し趣きを変え、根津神社へ向かった。我家からはゆっくり走っても20分ほどである。境内の一角にあるツツジ園で有名なのだが、5月の連休一杯まで行われていた「つつじまつり」に今年は行きそびれていた。

 4月の天候不順をもたらした、シベリアの寒気が南に降りやすい気候のパターンがその名残りを見せたようで、今週は例年よりもかなり気温の低い日が続いた。木曜日には上越国境の谷川岳で雪が降ったという。だから、雨上がりの今朝も青空の下で冷たい空気が残っていたが、走る者にとってはそれが心地よい。我家から登り坂と下り坂を二つずつ越えて、緑に覆われた根津神社に着いた。
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 土曜の朝の7時前だから、境内に姿を見せているのは近所の早起きなお年寄りぐらいのものだ。朝日が背の高い木々を照らし、宝永3年(1706年)の創建になる社殿はその影の中にある。将軍綱吉の治世の最晩年。富士山が噴火して宝永火口ができた、その前の年のことだから、建てられてから三百年を超えている。本殿、拝殿から楼門に至るまでの7棟が国の重要文化財である。

 「今から千九百年余の昔、日本武尊が千駄木の地に創祀したと伝えられる古社で、文明年間には大田道灌が社殿を奉献している。」

 根津神社の「ご由緒」にはそう記されている。日本武尊と大田道灌の組み合わせとは恐れ入るが、これに従えば神社は当初、今よりも少し北方にあったことになる。それを、将軍綱吉が兄・綱重の子・綱豊を自分の世継に定めた時、氏神である根津神社に土地を献納し、「世に天下普請と言われる大造営」を行ったのが、今も残るこの神社の社殿なのだそうである。大空襲を受けた都心にありながら、よくぞ今まで残ったものだと思う。
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 江戸時代に作られた地図を見ると、この神社は「根津権現」と記されている。赤坂の日枝神社も、古地図では「日吉山王大権現」である。「ごんげんさま」という言葉は、それこそ時代劇などにもよく出て来るが、それが何なのかを私達が意識することは、ほとんどないと言っていいだろう。

 権現とは、仏教の尊格が日本の神々の姿を借りて人々を救うために現れたものとされる。インド生まれの仏教には、それがやがて他の地域へと信仰が広がっていく中で、その土地古来の宗教や思想と融合する大らかさがあった。飛鳥時代にそれが伝わった日本では、最初こそ日本古来の神々との衝突があったものの、神と仏は急速に習合・融合していく。平安時代には、仏教の本来の尊格(本地仏)が、仮に日本の神の姿になって現れる(垂迹)とする、いわゆる「本地垂迹」という思想になった。

 その代表的なものが、日枝山(比叡山)の山岳信仰と日本古来の神道、そして天台宗が融合した山王神道なのだろう。大山咋神(おおやまくいのかみ)という、「大いなる山の神」が主たる祭神なのだが、それは釈迦の垂迹であるとされ、天台宗と延暦寺の守護神ともされた。「比叡山の王」であり、釈迦が姿を変えた大山咋神、それが「山王権現」だということになる。

 先に名前の出た大田道灌は、江戸城の守護神としてこの神様を勧請して日枝神社を建てている。そして、大山咋神は徳川家の氏神にもなったようだ。江戸時代の根津神社はその山王神道の神社であり、根津の町の「ごんげんさま」であった訳だ。だが、明治初期の「神仏分離令」によって釈迦と大山咋神は別物になり、権現という言い方は一時禁止もされたようである。

 ともあれ、大山咋神が「大いなる山の神」であるならば、明日の日曜日に山へ行く予定の私としては、一言仁義を切っておかねばならない。拝殿に向かって二礼二拍手一礼。神様が何と仰せられたかは知る由もないが、明日は気をつけて山へ行って来よう。
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 その根津神社をあとに、私は更に30分ほどジョギングを続けて家に戻った。午前7時半。土曜の朝はまだ始まったばかりである。せっかく神様に挨拶をして一日が始まったのだから、今日という日を有意義に使いたいものだ。

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