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山の絵本 [読書]

 日本のどこかに上陸していれば、観測史上で二番目に遅い上陸となるはずだった台風14号は、土曜日の夜に房総半島沖を通過して東へ抜けた。最接近時は風雨が強まるというので、我家もベランダの植木を室内に入れたりしたのだが、結果的に東京はそこまでの荒れ模様にはならずにすんだ。

 本来ならば日曜日の今日は台風一過の秋空を期待したいところだが、西から新たに気圧の谷がやってくるため、月曜日までは雨模様の天気が続くという。こればかりはどうなるものでもないので、雨の日曜日は本を読んで過ごすことにする。

 詩人・尾崎喜八(1892~1974)は、よく晴れた明るい景色の中にも初秋の気配が漂い始めた蓼科の山を歩いている。

 「一天晴れて日は暖かい。物みな明潔な山地田園の八月の末。胡麻がみのり、玉蜀黍(とうもろこし)が金に笑みわれ、雁来紅の赤や黄の傍で、懸けつらねた干瓢が白い。この土地で高蜻蛉(たかとんぼ)と呼ぶ薄羽黄蜻蛉の群が、道路の上の空間の或る高さで往ったり来たりしている。 (中略) ふりむけば少しのけぞった蓼科山。だが私はもう少し前から、御牧ガ原の空に舞っている一羽の鳥を、鷹ではないかしらと気をつけている。
 シャンパンのように澄んで爽やかな、酔わせる日光。ガブリエル・フォーレの、フランシス・ジャムの秋。健康な胃の腑が火串であぶった鶫(つぐみ)の味を夢みる秋……」
 (「たてしなの歌」より)

 歳月を経てもなお色褪せることのない、瑞々しい表現。これは昭和9年に書かれたものだ。国全体が次第に戦争へと駆り立てられていった時代に、何と自由でおおらかな発想だろう。尾崎喜八のこうした散文を集めた『山の絵本』(岩波文庫)は、先週から私をその虜にしている。
Yama no Ehon.jpg

 尾崎喜八は若くしてロマン・ロランや白樺派の影響を受けて文学に傾倒し、高村光太郎や武者小路実篤らと交友を重ねた。ロマン・ロランやヘルマン・ヘッセの作品を原文で読みたいがために、フランス語はフランス人に習い、ドイツ語は独学したという。そのロランとは書簡も往復している。そうした詩や随筆の訳業を続けながら、自らも自然と人間をテーマにした詩文を発表するようになった。自然が好きで、山歩きが好きで、クラシック音楽への造詣が深く、天文学や気象観測にも興味を持ち・・・とくれば、この人はやはり本質的に詩人だったのである。

 確かに、彼の作品には音楽の話がよく出てくる。ガブリエル・フォーレは1924年に生涯を閉じる直前まで数多くの作品を手掛けていたから、尾崎喜八にとってはある意味で同時代の作曲家なのだが、それにして、もこの時代に晩夏の蓼科の情景をフォーレの音楽に例える感性には驚くばかりだ。また、冬の朝、小淵沢から小海線の列車に揺られている時のことは、こんなふうに表現している。

 「甲斐小泉、甲斐大泉。ドビュッシイの管弦組曲を想わせるような、雪に埋もれた高原の小停車場。純潔な山岳の結晶群と、清澄な一月の天へ登極する午前の太陽、終点まで五十分のあいだ、私たちはこの支線の美を温床(フレーム)列車の窓硝子の氷の孔から味わえるだけ味わって、そして酔った。」
 (「御所平と信州峠」より)

 山歩きを好んだ尾崎喜八。だが、彼はいわゆる「登山家」ではない。『山の絵本』に収録された散文も、そこで取り上げているのは、一般的にも知られた山域である。中には、山に登るのではなく、麓の道を歩いて冬の山々を眺める、今で言えばトレッキングのような旅もしている。そして、そんな山歩きを通じて、その土地に暮らす人々を見つめ、時には地元の子供達と無心になって遊ぶ、その目が優しい。

 「さようなら、国界の小さい子たち!この小父さんはまた来るだろう。甲斐や信濃で山々を吹く風が、とおく都へ伝わって来る時、小父さんは杖をとり上げて君たちの方へさまよい来ずにはいられまい。だが多分今度の時には、君たちの家のうしろを高原列車というのが走り、都会の卑小と軽薄とが、この素朴で大らかな野山一帯に、百貨店の包紙といっしょに撒き散らされることになるだろう。
 それならば、これが『さらば』だ。思い出の中でのみ滅びないものよ、さらば!」
 (同上)

 敢えて注釈を加えれば、昭和10年1月初めの時点では、現在のJR小海線の小淵沢方は清里までしか通じていなかった。野辺山という日本の鉄道では最も標高の高い所に線路が敷かれ、佐久海ノ口で小海線の全線がつながったのは、この年の暮のことなのである。

 昭和10年5月、尾崎喜八は友人と大菩薩連嶺の大蔵高丸・大谷ヶ丸に向かった。夜汽車で笹子トンネルを越え、初鹿野(現在の甲斐大和)駅を降りたのが午前3時。そこから(当時は舗装などしていないはずの)道路を5キロ近く歩き、更に大蔵沢という沢を遡行して大蔵高丸を目指したのである。
Sasago (Bird's-eye view).jpg

 このあたりは私も好きな山域なのだが、今でも結構山深いところだ。何といっても、笹子峠の両側に立ちはだかるのは、山梨県を東西に二分する山々である。その尾根を貫く中央本線の笹子トンネルが開通したのは明治35年。その時点では日本最長のトンネルだったのだ。その笹子の山の険しさを尾崎喜八はいとも平明に、しかし的確に描写している。私などは、ただ脱帽する他はない。

 「笹子をこえて人は甲州国中(くになか)の平野へすべり込む。錯覚をおこしそうな眼がぼんやり見ていたスイッチバック、三方から倒れかかって来そうだった山々の壁、あの郡内初狩の名をまだすっかりは忘れてしまわぬ内に。
 振りかえって見上げると、今抜けて来た山のまっくろな影絵の上に際立ってあざやかな一つの光。甲州路の旅の晴天をいつも予言する星の光だ。心がまだ見ぬ今日一日のために歌い出す。しかし夜は明けない。世界は陰沈と眠っている。一行七人、われわれもまた黙々として進む。」
 (「大蔵高丸・大谷ヶ丸」より)

 今は大蔵高丸から尾根続きの湯ノ沢峠までマイカーで上がれる時代になり、夜汽車はなくなったが、昔の人は文句も言わずに駅から歩いたのである。それも、大蔵高丸から稜線上を大谷ヶ丸へ南下し、更に滝子山を越えてその日のうちに鉄道で帰京する計画だったというから驚いてしまう。その日は天候に恵まれ、尾崎喜八は尾根の上から山々の眺めを存分に楽しんだようだ。

 決して平坦な人生ではなかった。幼くして両親は離縁し、里子に出された。高校を卒業後、高村光太郎に出会い文学や詩作に惹かれていくが、父はその道を好まず、一度は廃嫡を受ける。同時に、初恋の相手を病気で失っている。関東大震災と太平洋戦争で共に被災し、住居は転々とした。父の生家のある東京・中央区での生活にはなじめず、自然の残る世田谷の高井戸での暮らしを好んだ。終戦の翌年からは長野県の富士見で11年を過ごし、その後は世田谷の上野毛、そして北鎌倉などの緑の中で、持病の胃潰瘍を抱えながら静かに暮らした。

 私が大学生の頃、『冬の雅歌』という尾崎喜八の詩文集を読んだことがある。その中には前述した富士見での暮らしを描いた文章も収録されていた。世の中はまだ混沌としていた昭和20年代。尾崎喜八は富士見から汽車で上京し、子供や孫の顔を見た後、丸善で本を買い求めて富士見に戻る。そして庭の落葉を掃き集めて焚火をしながら八ヶ岳を眺め、家族と過ごした束の間の時を静かに思い出している・・・。確かそんな内容だった。淡々とした文章ながら、私は静かな感動を覚えたものだった。

 尾崎喜八が富士見に移り住んだのは昭和21年。彼が54歳の時である。奇しくも同じ歳になった私は、文庫本を通じて再び尾崎喜八の世界に出会った。そして、学生時代以来の山歩きを楽しんでいる。

 火曜日からは晴天が戻るという。富士山は冠雪しているだろうか。山々の紅葉は進んだだろうか。晴れる毎に遥かな山々の眺めが楽しみな季節である。

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