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某重大事件 [読書]

 NHKのスペシャル・ドラマ『坂の上の雲』が佳境を迎えている。大変な力作で、私の周囲でも話題になることが多い。中には「カッコよすぎる」、「明治を美化しすぎている」といった声もないではないが、総じてポジティブな評価を集めていると言っていいだろう。司馬遼太郎のあの壮大な原作を、足掛け三年とはいえ時間の限られたテレビドラマに仕立てるとなると、どう作ってみても賛否両論あることだろうし、そもそもの「司馬史観」にも様々な意見があるようだ。だが、ドラマへの評価はともかく、帝国主義の時代に極東での生き残りをかけた、その頃の我国の姿が今改めて注目を集めるのは、悪いことではないだろう。

 それにしても、日露戦争の頃の日本は現実をよくわきまえ、貧乏国が大国ロシアとどう戦うか、そのことをみな必死になって考えていたのに、それが終わると「戦勝体験」から政府も軍部も国民も途端に夜郎自大になった、という風に語られることが多い。確かに、1905(明治38)年のポーツマス条約の交渉でロシアから賠償金が取れないことが解ると、日比谷焼打事件が起きて戒厳令が敷かれる騒ぎになったし、10年後の1915(大正4)年には、第一次世界大戦の勃発に乗じて火事場泥棒的な「対華二十一箇条要求」を国民政府に突きつけている。いわゆる「満州事変」の発端となる柳条湖事件が起きたのは、それから16年後のことだ。「明治は偉大だが、戦前の昭和は全く別の生き物のようだ」というのは「司馬史観」でもある。

 かつての日本史の教科書を改めて紐解いてみると、その「不可解な昭和史」の冒頭に書かれているのが、「満州某重大事件」というこれまた不可解な事件である。1928(昭和3)年6月4日の早朝に起きた、満州軍閥の親玉・張作霖が奉天へ帰還すべく北京から乗った列車が爆破され、張が暗殺されたという、「張作霖爆殺事件」のことだ。
 日露戦争で流した将兵の血の代償として満州に様々な権益を持っていた日本は、蒋介石の国民政府による中国統一を望まず、満州軍閥の張作霖を支援してきたが、その張が日本の思惑通りに動かなくなったので、日本陸軍が謀略をめぐらせて暗殺したという。首謀者は関東軍参謀の河本大作大佐であったとされるが、それは終戦まで公表されなかった。

 浅田次郎の新作『マンチュリアン・リポート』(講談社)は、この事件を題材にした非常に興味深い作品だ。
manchurian report.jpg

 「満州某重大事件」という名で呼ばれたように陸軍が事をウヤムヤにしようとする中、事件の真相究明と関係者の厳正な処罰を求める昭和天皇が自ら密使を送るところから話が始まるのだが、そこから先の話の展開をその密使自身に語らせる章と、張作霖の乗った列車を牽引する蒸気機関車を擬人化して語らせる章とを交互に織り交ぜ、マルチ・スクリーンを見ているような気分でストーリーの展開を楽しむことができる。
 よく考えられた構成で、事件と同じルートを辿って密使が奉天に近付くにつれ、話が盛り上がっていく。そして、その結末たる最終章も実によく考えられているのだが、勿論ここでは触れないでおく。
 更に言えば、馬賊出身の張作霖が、これはこれで英雄として人望を集めた魅力ある人物として描かれているところが、私には新鮮であった。
The plot(2).jpg

 この事件は、要するに線路に爆薬を仕掛けて走ってくる列車を吹っ飛ばしたのだろうと単純に想像してしまいがちだが、実はそうではない。歴史の教科書にも載っていた写真を思い出すと、爆破された列車の車体は上部が吹き飛ばされたように大きく壊れ、焼け焦げているが、台車はレールに乗っていて脱線していない。だから、地面からの攻撃ではないのだ。以前から明らかになっていることは、

①張作霖を乗せた列車が走ったのは京奉鉄路という、英国の借款により建設された中国側の鉄道で、奉天軍の兵士が要所要所で歩哨に立っていたであろうから、日本軍が彼らの目につかぬように大量の爆薬を線路に仕掛けることは不可能に近かった。

②爆破の現場となった皇姑屯という場所は、京奉鉄路の終点・瀋陽駅のすぐ手前で、日本が権益を持つ満鉄・連長線が京奉鉄路をオーバークロスする箇所だった。(満鉄の沿線なら関東軍の守備範囲で立ち入りができる。) そして、上を走る満鉄に仕掛けられた爆薬によって鉄橋が崩れ落ち、下を通る車輌が押し潰された。(その直後に満鉄の列車が現場を通過せぬよう、満鉄側にも予め何らかの連絡が行っていたはずである。)

③蒋介石の国民政府軍との戦いに敗れて奉天への撤退を決めた張作霖は、これは敗走ではなく故郷奉天への凱旋なのだというポーズを取るために、列車を時速10キロほどの低速で走らせていた。(だから満鉄のオーバークロスの鉄橋で、張作霖が乗っている車輌をピンポイントで狙うことができた。)

④張作霖を乗せた列車は、25年前にあの西太后が祖先の墓参りをするために乗った「お召し列車」として製造された、超豪華列車だった。(但し、警戒心の強い張作霖はその前後に囮(おとり)列車を走らせていた。)

⑤現場には、「これが犯人でござい。」とでも言わんばかりに、阿片中毒の中国人二人の死体が転がっていた。

などで、吟味してみるとなかなか奥深いものがある。勿論、浅田次郎の小説もこうしたポイントを踏まえてストーリーを展開させている。
The plot(1).jpg

 事件発生直後から「陸軍の陰謀」の匂いがしたが、自らも陸軍大将であった当時の首相・田中義一は腰が重い。元老・西園寺公望に再三促されて、事件発生から半年以上も経ったクリスマス・イブの日に宮中に参上し、「十分に調査し、もし陸軍の手がのびているようであれば厳罰に処する」旨を天皇に報告して了承を得たが、そこから先はいよいよ陸軍の抵抗を受ける。
 結局、翌年(昭和4年)の5月になってから再び天皇の下へ行き、「調査の結果、本件に陸軍の関与は一切ない。但し、日本が手を組んでいた張作霖を警備するという点では結果的に関東軍に責任があるが、それは軽微な処分で済ませたい。」という報告をして天皇の逆鱗に触れた。

 「田中は再び私の処にやって来て、この問題はうやむやの中に葬りたいと云う事であった。それでは前言と甚だ相違した事になるから、私は田中に対し、それでは前と話が違うではないか、辞表を出してはどうかと強い語気で云った。こんな云い方をしたのは、私の若気の至りであると今は考えている。」
 (『昭和天皇独白録』 寺崎英成 編、文藝春秋)

 首相が「お前はもう辞めたらどうだ?」などということを天皇から直々に言われてしまったのは、後にも先にもこの時だけだろう。天皇が辞任を迫ったのは実際には翌6月の事件に関する最終処分案の報告の時であったようだが、天皇から再三の叱責を受けた田中は7月2日に内閣総辞職を決意。そして失意のまま9月に生涯を閉じた。天皇はその報せに衝撃を受け、
 「この事件あって以来、私は内閣の上奏する所のものはたとえ自分が反対の意見を持っていても裁可を与える事に決心した」
 (前掲書)
という経緯はよく知られているところである。結果的に、その後の昭和史を方向付ける「沈黙の天皇」を生むことになる事件であったとも言える。

 なお、首謀者とされる河本大作の『私が張作霖を殺した』と題する手記が、昭和29年になって文藝春秋から発表されている。戦前に本人が記録を残す目的で義弟に筆記させたものだそうだが、これはネット上でも読むことができる。大変に興味深い内容である。
Daisaku Kohmoto.jpg
(河本大作 1883~1955)

 張作霖爆殺事件の処理を巡って内閣は倒れたが、河本は軍法会議にかけられることもなく、予備役編入という軽い処分になり、その後は満鉄の理事に就任。更には国策会社の山西産業の社長になった。日中戦争の終了後も山西省に留まり、国民党軍に協力したが、1949年に共産党軍の捕虜になり、太原の収容所で1955年に病死している。享年72歳。

 激動の東アジアを舞台にしたその生涯は、「不可解な昭和」の一つの象徴なのだろうか。
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