SSブログ

最も力がある時に [歴史]


 私が小学校の高学年になっていた1960年代後半、素材メーカーで営業を担っていた父が、仕事で年に一度は中国へ行くようになった。

 まだ日中の国交がなかった時代だが、高碕達之助と廖承志が交換した「日中貿易覚書」に基づく「LT貿易」は既に始まっていて、広東省の広州で定期的に開催されていた「広州交易会」が、西側世界に向けて開かれた数少ない中国の窓口だった。父はそこへ出かけるようになったのである。

 広州出張のたびに、父は中国の土産物を山ほど持ち帰ってきたのだが、子供心にもロクなものがなかった。「人民帽」や「毛沢東バッジ」はともかく、衣類も革製品もプリミティブなものだったし、漢方薬の類は怪しげなものばかり。何よりも、それぞれの包装紙が極めて粗悪なものだった。そのうちに母は、「お願いだからもう何も買って来ないで。」と父に懇願するようになった。
Mao's button.jpg

 当時の中国はといえば、「文化大革命」の嵐が吹き荒れていた。「毛沢東語録」を手に紅衛兵が街中を練り歩き、壁新聞がベタベタと貼られていた様子を、晩酌しながら父がよく語っていたものだ。「一本のズボンを夫婦で共有するのが革命精神だ」などと当時は語られていたそうだが(本当かどうかは知らない)、ともかくも相次ぐ権力闘争に伴う政治の混乱によって、その頃の中国は極めて貧しかったようだ。

 満州で生まれ、天津や北京で育ち、12歳になる年まで戦前の大陸を経験した母は、そんな風に父が語る「人民中国」の話に眉をひそめるばかりだった。実際に、その文革によって中国では各地で計り知れないほど多くの破壊があったという。
「中国の伝統文化には大きな親しみがあり、仲良くしている特定の中国人は何人もいるが、あの『烏合の衆』だけは嫌だ。」
という反応は、戦前の中国を知る母の世代には意外と多いようである。

 ところが、それから3・4年で戦後世界の潮流は俄かに向きを変えることになる。私が中学三年生だった1971年の7月に、電撃的な「ニクソン訪中」が発表された。そして10月には国連総会でいわゆる「アルバニア決議」が採択され、中華人民共和国の「中国代表権」を承認。同時に台湾が国連を脱退することになった。翌1972年、日本では戦後最長政権だった佐藤栄作内閣が終焉を迎え、後継者には「コンピューター付ブルドーザー」と呼ばれた田中角栄が選ばれる。そして、船出したばかりの田中内閣が早々に取り組んだのが「日中国交正常化」であった。

 その田中内閣の誕生から、この年の9月29日に北京で日中共同声明の調印が行われるまでの経緯を描いた『日中国交正常化 - 田中角栄、大平正芳、官僚たちの挑戦』 (服部龍二 著、中公新書)は、何度読んでも面白い本である。あの日中共同声明から、今年の秋でちょうど40年。とすれば、これはもう立派にこの国の歴史の一部なのだ。そこに至る過程を的確に、そして平易に紐解いてくれる書籍がやっと登場してくれたとも言える。

 「今太閤」角さんの登場、日中の国交回復、「日本列島改造論」に沸き立つ国内、石油ショックの襲来と狂乱インフレ、「ロッキード疑獄」の発覚と角さんの退陣・・・。その3年間は私の高校時代とぴったり重なっているから、私にとってはまさに同時代史なのである。日中共同声明の模様がテレビで報道されていた頃には、高校で生物の授業の時に、先生が、
 「私は普段、生物のことしか皆さんに教えていないけれども、アルバニアという東欧の小さな国が国連に提案した事柄によって、中華人民共和国に対する世界の位置付けが変わり、その中国と日本が今まさに国交を回復しようとしていることは、歴史の上でもとても大きなことだから、今起きていることにしっかりと注目してください。」
という話をされたものだった。
102110.jpg

 日本が戦後の国際社会への復帰を果たした1951年のサンフランシスコ講和会議。だが、連合国の間で利害が一致せず、「中国の代表」はこの会議に招かれていない。日本は講和条約の締結と同時に日米安全保障条約を結び、その米国の強い意向を受けて、翌1952年には中華民国(台湾)との間で日華平和条約を締結。そこで台湾は日本への賠償請求権を放棄するが、当然のことながら中華人民共和国はその条約締結を強く非難する。その中国は当時ソ連と緊密な関係にあり、一方の台湾は米国の支援を受け、共に「一つの中国」を主張して譲らない。

 だが、時代が’70年代にさしかかる頃から、「『一つの中国』=中華人民共和国」という認識が世界の趨勢になっていく。泥沼のベトナム戦争を早期に終結させたい米国が、中国に接近せざるを得ないという事情を抱えていることも、背景にはあった。

 角さんが宰相になった時点の日本にとって、それまでの戦後世界の枠組みを与件としながら中国との国交正常化を図ることは、まさに複雑な方程式を解こうとするようなものだったのだろう。だが、古代からの長い歴史を考えれば、たとえ日中15年戦争という悲惨な経緯はあったにせよ、両国の間でいつまでも国交がない状態が続くことは、どちらの側から見ても得策ではないはずだ。だから、事態を前に進めなければならない。台湾の説得が非常に難しく、自民党内にも台湾派の議員は多いが、とにかくこれはやらねばならない。

 日中国交正常化のプロセスが始まる以前にはこうした背景があった訳だが、本書を読んでみると、歴史が動くかどうかはその時のプレイヤーの顔ぶれによるところが大きいことを、改めて教えられる。

 1972年7月7日に組閣されたので「七夕内閣」と呼ばれた、第一次田中角栄内閣の外相は大平正芳。豪放磊落な田中と緻密で論理的な大平は長年の厚い信頼関係にあり、この首相・外相コンビでなかったら、この時点での日中国交正常化という大きな決断とその実行は出来なかったのではないか。そして彼らはその大きな外交政策の実現に向けて、外務省の橋本恕アジア局中国課長、高島益郎条約局長、栗山尚一条約局条約課長といった官僚たちを、存分に使いこなしている。

 中国側も、岸信介-佐藤栄作の系譜は嫌っていたから、佐藤退陣後の田中内閣の登場は千載一遇のチャンスであったのかもしれない。仮に角さんの時代にそれが実現しなかったとして、ロッキード事件で彼が退陣した後の歴代首相ではどうだったかというと、三木武夫はいかにも「暫定」で政権基盤が弱かったし、その後の福田赳夫は政策的に佐藤に近かったから、中国側は相手にしたくなかっただろう。福田の後は大平首相だが、その時点では周恩来も毛沢東も既に他界してしまっている。
SEP29 1972.jpg

 そう、日本だけでなく中国側でもプレイヤーの顔ぶれは極めて大きなことだった。1972年秋の時点において、毛沢東、周恩来という革命の英雄は共に健在だったのだ。

 冒頭に少し書いたように、当時の中国は極めて貧しかった上に、共産主義国同士で仲が良かった筈のソ連とは関係がどんどん悪化しており、1969年には中ソ国境で軍事衝突まで起きていた。日中戦争という過去へのわだかまりは極めて大きいものの、日本との国交回復を急ぐニーズは中国側でも強かったはずだ。

 恩讐を捨てて、しかし必要な面子はきっちりと守り、当時既に上海を牛耳っていた「四人組」の顔も立てながら実務を進める周恩来と、何と言っても人民中国の「顔」でありカリスマである毛沢東の存在。この二人がいなければ、当時の中国をまとめて日中共同声明に漕ぎつけることは出来なかったに違いない。事実、1976年にこの二人が相次いで他界すると、その後の中国は再び混乱期を迎えることになる。

 「田中は訪中前に、『政治家というのは最も権力があるときに、最も難しい問題に挑戦するのだ』と小長啓一秘書官に決意を語り、毛沢東や周恩来を『革命第一世代』と呼んでいた。

 第一世代というのはどこでもそうだけれども、やっぱりそれなりのリーダーシップ、指導力を持っている。第二世代、第三世代になると、その辺の力は衰えてくるものだ。第一世代が健在なうちに、こういう難しい問題は解決しなきゃいけない。こっちは最も力の強いうちにやらなきゃいけない。

 中国では第一世代が健在であり、田中も権力の絶頂にある。国交正常化の時機はいましかないと田中は読んでいた。」
 (前掲書)

 あれから40年。日中共に政治家は後の世代になった。今や日本にとって中国が最大の貿易相手国となり、日中間の国交は間違いなく両国に大きなメリットを産み出しているが、政治家の力量はというと、特に日本については、残念ながら角さんのコメントが現実のものになっているようである。

 ところで、‘60年代の終わり頃に父が持ち帰ったあの人民帽は、実家に行けばまだどこかにしまってあるのだろうか。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

されど、低山 - 九鬼山冬から春へ ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。