SSブログ

14世紀の梅雨空 [歴史]

 今年も、雨の季節がやってきた。この週末も傘が離せない。東日本に限って言えば、今年の梅雨はまだ涼しい方だが、日曜日の今日は午後になって陽が差すと、途端に暑くなった。私たちにはそんな風にいささか鬱陶しい季節なのだが、植物にとっては存外居心地が良いようだ。雨に煙る街の中でも緑は元気で、ツユクサやアジサイの青が瑞々しい。

 今から680年ほど前の関東も、今頃の時期は空の様子も緑の勢いも、こんな風だったのだろうか。

 元弘3年(1333年)5月8日というと、今の暦に直せば6月20日にあたる。この日の未明、現在の群馬県太田市郊外の小さな神社に総数150騎といわれる軍勢が結集していた。

 頃年 北条高時入道
 朝憲ヲ軽ンジ
 逆威ヲ恣(ホシイママ)ニ振ヒ
 積悪 已(スデ)ニ天誅ニ値ス
 ココニ至リ 累年ノ宸襟ヲ休ンゼンガ為
 将(マサ)ニ一挙ノ義兵ヲ起コサントス
 ・・・・・・・・

 社殿の前に進み、かねてより賜っていたという天皇の綸旨と願文を読み上げるのは、河内源氏義国流新田氏本宗家の八代目棟梁、源義貞。鎌倉幕府から派遣されてきた金沢出雲介という徴税使との間でトラブルになり、前夜にその男を叩き斬ったばかりだった。北関東の一角にあって鎌倉幕府の打倒を声高らかに宣言した、新田義貞の旗上げである。以下、日付を現在の暦に置き換えてみよう。
yoshisada nitta.jpg

 旗上げ当日の6月20日、義貞の軍は生品神社からまず北上して幕府方の上野守護所を壊滅させ、背後を固めた上で南進を開始。すると越後から2000騎、信濃、甲斐方面から5000騎の一族らが一気に加勢したという。そして翌6月21日に利根川を渡って武蔵国へ入ると、足利高氏(この時点ではまだ「尊氏」ではない)の嫡男・千寿丸(数えで4歳)を護衛してきた200騎と合流する。西国へ出征した高氏に対して北条高時が千寿丸を人質に取っていたのだが、その千寿丸が6月14日に鎌倉から忽然と姿を消していたのである。

 この千寿丸の新田軍合流には、予め手はずが整えられていたのだろう。源氏の名門・足利の御曹子を擁したことで新田軍には続々と援軍が加わり、この日の夕方には20万7千騎の大軍に膨れ上がっていたという。しかもこれは騎馬武者だけの数字だから、馬のない雑兵まで加えればこの数倍の人数がいたことになる。『太平記』や『梅松論』の記述にはたぶんにデフォルメがあったとしても、ともかく大変な人数だったという他はない。

 日本では伝統的に、戦(いくさ)で遠征をする時、食料などは基本的に現地調達だったという。新田軍の南進ルートが往時の鎌倉街道に沿っていたとしても、これほどの大人数が結集して一路鎌倉を目指すとしたら、人間が食べる物、馬の餌、飲み水、煮炊きの燃料などはその道中で全て賄えたのだろうか。そして、夜は大多数が野宿だったはずだが、6月後半の季節にどうやって雨露をしのいだのだろう。
The way to Kamakura.jpg

 6月23日の朝、新田軍は小手指ヶ原(埼玉県所沢市の西方)で幕府軍と遭遇する。新田荘の生品神社からここまで、最短距離でも60kmほどの道のりを丸2日でやって来たとすれば、なかなかのスピードだ。この衝突では新田軍300騎、幕府方は500騎の犠牲者が出て、双方共にやや後退。そして翌24日の夜明けに、幕府方が陣取っていた久米川で両軍は再び合戦に及んだ。この久米川古戦場は、現在の東村山市で多摩湖の東側、今は八国山緑地と呼ばれているあたりだ。この合戦に新田軍は勝利を収め、幕府方は12kmほど後方の多摩川の南まで後退する。

 (ついでながら、この時代に武蔵野の平原で対峙した両軍は、互いに相当な数の弓矢を射ち合ったはずである。何万騎もの騎馬武者が放つ矢を、両軍はどうやって運んだのだろう。各自が背負った矢束だけでは足りないはずだし、俄かに集結して南進を続けた軍勢に荷車を曳いてくる時間があったのかどうか。)

 それから2日間の休養を経て両軍が再び激突したのは、その多摩川。新田義貞が陣を構えていたのは、この地域の中心地・府中にほど近い分倍河原だった。久米川の合戦の勢いそのままに新田軍は進撃を開始。だが、幕府方には2日の間に10万と言われる援軍が到着しており、新田軍は一転して苦境に陥った。この戦闘で軍勢の1/3を失ったとされる義貞は、やむを得ず狭山市の掘兼まで大きく後退してその日は終わる。

 ところが、この日の夜になって、相模の三浦義勝が相模各地の国人衆を伴って新田の陣営に加わった。今日の戦いに大敗した新田軍に、幕府お膝元の相模からなぜ寝返りが?

 「いぶかしいのは、これだけではない。明け方にもまた、大量な投降者があった。
 『何で敗者のわが陣へ?』
 と、夜来、不審にしていた義貞にも、ようやく、その真相がわかってきた。
 六波羅滅亡!
 それの噂がここへも知れてきたのである。」
 (『私本太平記』 吉川栄治著、講談社)

 今から680年も前のことながら、14世紀の日本はダイナミックな時代だった。新田軍が生品神社で旗上げをした前日の6月19日に、丹波の篠村八幡で足利高氏は鎌倉幕府の打倒を宣言。京の六波羅探題に向けて兵を挙げていたのである。通信手段もない時代に、遠く離れた両者はよくぞ連携を取ったものだと思う。

 そして翌28日の未明、相模勢や武蔵七党が加わった新田軍は反撃を開始。今度は幕府方を散々に打ち負かして大勝利を収めた。世にいう「分倍河原の戦い」は、鎌倉幕府の滅亡を決定的なものにした歴史上の大きなマイルストーンだったと言えるだろう。新田軍はその二日後、6月30日の朝には分倍河原から35km先の神奈川県・藤沢までやって来て、鎌倉攻めに取りかかっている。このあたりのスピード感は、もはや時の勢いなのだろう。新田軍の勢力はこの時点で「60万7千騎」というから、これはもう途方もない数である。

 新田義貞というと、稲村ヶ崎で浜を渡った鎌倉攻めのエピソードにばかり光が当たりがちだが、上州の生品神社から藤沢までの、最短距離でも120kmほどになる道のりを、大軍勢を率いて10日間で進撃してきたその行程にこそ、歴史のダイナミズムが凝縮されているように思う。

 当時は「兵農分離」の200年以上も前のことだから、義貞の挙兵に呼応して各地から馳せ参じたのは、武士といっても「武装した自作農」である。6月といえば田畑へ出るのに忙しい時期のはずだが、それを擲(なげう)ってこれだけの人数が幕府打倒の陣営に加わった。そして、そうまでして迎えた新時代。京都に出来た新しい政権は、彼らの期待に応えるものではなかった。それもまた、人の世の常なのだ。

 その時も、関東はこんな風な梅雨空だったのだろうか。そして、武蔵野には緑が輝いていたのだろうか。

green leaves in June.JPG
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。