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上野の山 [歴史]


 東京の山手線の内側は、何かと起伏の多い地形をしている。建物がぎっしりと建ち並んでいるから、見た目ではそうした起伏が印象に残りにくいが、足で歩いたり自転車を漕いだりすれば、それを実感することができる。私の住んでいる所などは、家の目の前が既に坂道だ。

 そうした数ある起伏の中でも、特に顕著な丘をなしている場所は、言うまでもなく古くから人の手が加えられた場所である。由緒の古い寺社があったり、お屋敷町であったり。そして歴史の長い学校のキャンパスがあることも多い。だから、週末の散歩道というと、ついそんな丘を歩くことになる。

 上野の山も、私にとってはそんな丘の一つだ。我家からはのんびり歩いても1時間ほどである。不忍池の南端から眺めると、一つの大きな森ではあるものの、「山」と呼ぶにはいささか大袈裟な印象を受ける。だが、木々の繁る中を歩いていくとしっかり上り坂があって、それなりの丘であることは確かだ。
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(不忍池から眺める上野の山)

 動物園や博物館の集まる上野恩賜公園の一帯はいつも多くの人出があって賑やかなのだが、芸大を過ぎてこの丘の北端あたりに出ると、人通りがぐっと少なくなって実に静かなものだ。そして、そこで木々に囲まれた一際静かな場所が、かつて上野の山で栄華を極めた東叡山寛永寺である。

 1625(寛永2)年の創設。家康から家光まで三代の将軍のブレーンを務めた「黒衣の宰相」天海の開山によることは言うまでもない。芝の増上寺と並ぶ徳川将軍家の菩提寺で、15代中6代の墓がここにある。天台宗の僧侶としても実務家としても極めて有能であった天海をうまく活用することで、家康は泰平の世を築くことが出来たともいえる。
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(東叡山寛永寺)

 「天海は権僧正から僧正になり、叡山の復興に努力したが、しかし彼は西の比叡山に対して、江戸幕府の支配が容易な東の比叡山、すなわち東叡山を彼が住職を務める川越の喜多院におき、この寺を比叡山延暦寺以上の権力をもつ本山とした。さらに天海は家康死後、江戸城の北東にある上野忍岡の地に寛永寺という寺を建て、東叡山の名を寛永寺に移し、そこを天台宗の実質的本山にした。寛永という年号を寺名に用いたのは、最澄が延暦という年号を寺名に用いて延暦寺と名づけたのにならったものであろう。これによって江戸幕府は天台宗を、ひいては日本仏教全体をその支配下におくことができたのである。」
(『梅原猛、日本仏教をゆく』 梅原猛 著、朝日文庫)

 こうして、江戸城から見て鬼門の方角にある上野の山に建てられた寛永寺は、山全体を境内として所有していたという。だから、今のように山の北端にひっそりとしていたのではなく、寛永寺の根本中堂は現在の上野恩賜公園の噴水広場のあたりにあったようだ。境内の一角には家康を祀る東照宮が建てられた他、京都を模した清水堂ができ、大仏さえもがあった。そして寛永寺の伽藍の周囲に数多くの塔頭が建ち並ぶ様子は、さぞかし壮観であったことだろう。そして、上野の山は桜の名所でもあった。
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 もっとも、今のような「公園」という概念は当時なく、あくまでも寛永寺の境内だったから、花見といっても歌舞音曲や飲食はご法度。そして日没になれば門が閉じられたそうである。大仏も一般の人々が参詣できる場所ではなかった。(この大仏は後に関東大震災で倒壊し、今は顔の部分だけが残されている。)
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(顔だけが残った上野大仏)

 寛永寺が歴史の荒波に飲まれたのは、言うまでもなく幕末維新の時期である。1968(慶応4)年1月、鳥羽伏見の戦いで薩長軍が振りかざした「錦の御旗」を見て戦意を喪失した15代将軍・徳川慶喜は、軍艦で江戸に逃げ帰ると、恭順の意を表すために寛永寺に蟄居を続けた。そして、勝・西郷会談で徳川慶喜の水戸謹慎と江戸無血開城(同年4月11日)が決まると、それらに憤激した幕府方の主戦派が上野の山へと集結する。いわゆる彰義隊である。

 勝も西郷も、彰義隊との戦闘は何としても回避したかったようだ。だが、

 「五月十五日、午前八時から大村(益次郎)の総指揮のもとに上野の山への攻撃が開始された。彰義隊もしばしば斬込みに出て新政府軍を寄せつけなかったが、それも時間の問題である。大村の卑劣ともいえる戦法もあって、昼すぎにはもう散り散りの負け戦さとなる。」
(『それからの海舟』 半藤一利 著、ちくま文庫)

 この「上野戦争」を仕掛けるために長州の大村が数々の実に巧妙な作戦を立てたことはよく知られている。有名な手は、主要な道を塞いだ上で戦いを仕掛け、相手の残党が市中でゲリラ戦を展開しないよう、わざと根岸口(現在のJR鴬谷駅の方向)だけ退路を残したことだ。そこは急坂だから、一度そこから撤退した相手は引き返すのが難しい。そして、激戦地となる上野広小路口には薩軍を仕向けて涼しい顔をしていたという。

 この日、戦局を決定的なものにしたのは、本郷の加賀屋敷(現・東大本郷キャンパス)から上野の山を目がけて官軍がアームストロング砲を打ち込んだことだ。現在の安田講堂のあたりと、彰義隊の主戦力があった現在の西郷隆盛像付近とを直線で結ぶと、不忍池を挟んでちょうど1kmほどの距離しかない。そして、本郷からだと上野の山に向かって大砲を撃ち下ろす地形になる。佐賀藩が製造に成功したアームストロング砲の射程距離は3km。精度も高い。これでは勝負あったというものだろう。
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(本郷と上野の山を直線で結ぶと・・・)

 この年の5月15日は、今の暦では7月4日にあたるから、季節はちょうど今頃のことだ。市街地に火災が及ばぬよう、大村は雨の日を選んで一斉攻撃を仕掛けたそうだが、それでも民家1200戸が焼けたという。白昼の戦いで、死者は「官軍」34、「賊軍」260。後者の遺体はそのまま長い間捨て置かれたために、上野の山の一帯は大変な腐臭に覆われていたそうである。

 そして、上野の山で栄華を誇った寛永寺の伽藍の数々は、この戦いの炎で灰燼に帰した。江戸の鬼門を守るために建立された東叡山寛永寺。だが戊辰の戦さでは、鬼門のはずの東北日本が最後まで佐幕派だった一方で、西南雄藩からやって来た敵軍を食い止めることが出来なかった。それは歴史の大いなる皮肉という他はない。

 そして明治改元。1970(明治3)年には、大学東校(後の東大医学部)の付属病院の建設地として、この上野の山が候補にあがる。だが、江戸幕府の招きで日本に駐在していたオランダ一等軍医のボードワン博士がそれを聞き、上野の山の豊かな自然が失われることを惜しんで、この地を都市公園にすることを提案。結果的にはそれが容れられることとなり、明治6年にこの一帯が日本初の公園に指定されることになった。宮内省から東京市へと払い下げられて上野「恩賜」公園となったのは、大正時代のことである。その上野公園の、東京都美術館に近い森の中に、ボードワン博士の銅像が人々の注目を集めることもなくひっそりと建っている。
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(ボードワン博士の像)

 新政府がオランダ医学からドイツ医学へと切り替える過程の中で、ボードワンは本来なら「お払い箱」になる身であったという。ところが、当のドイツも普仏戦争の最中で日本に講師の派遣が出来ず、後任が決まるまでボードワンが続投していたところ、上野の山への病院建設云々の話が持ち上がったというから、今の上野公園があるのは、歴史の上での偶然の賜物だったともいえる。

 山手線の内側は、起伏に富んだ地形と同様に、その歴史もまた起伏に富んでいる。今は雨の季節だが、坂道を歩きながら歴史をたどり、この季節なりの散歩を楽しむのも、悪くない。

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