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暑い夏 [歴史]

 8月23日(木)、暦の上では「処暑(夏の暑さに陰りが見え始める頃)」だが、今年はまだその兆候が見えず、連日厳しい暑さが続いている。

 今月になってからこの三週間、東京都心の一日の平均気温は22日間の平均で28.8度。これは平年(1981~2010年の平均)よりも1.2度高い計算になる。1876(明治9)年に気象観測が始まって以来、昨年までの136年の間に、8月の東京都心の平均気温が28度を超えたのは14回(その内、29度超は3回)しかなかったから、今のような暑さがあと一週間続けば、今年の東京の8月は史上有数の暑い夏だったことになる。

 平年との差が1.2度というと小さな違いのように思えてしまうが、東京の年間の平均気温が2度上がると、鹿児島と同じ気候になるという。

 鹿児島の夏というと、今から135年前、1877(明治10)年の8月は、半年に及んだ西南戦争もいよいよ終盤。官軍が日向を平定し、薩軍は県境の山野を敗走していた時期である。戦力の多くを失ったラスト・サムライたちにとっても、それは暑い夏だったことだろう。

 明治新政府に叛旗を翻した薩軍の「お神輿」だった、西郷隆盛。その西郷が新政府に背を向けるきっかけになったのが、1973(明治6)年の「征韓論」を巡る新政府内の対立であったことは、論を待たない。
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(錦絵になった「征韓論之図」)

 朝鮮というのは、今も昔も「近くて遠い国」である。室町時代から朝鮮通信使の来日があり、江戸幕府がいわゆる「鎖国令」という、海外貿易と渡航の制限を行なっていた時代にも、李氏朝鮮とは対馬藩を介した形での交流が続いていた。だが、日本が維新を迎えたことで、そうした関係に波風が立った。

 新政府は明治元年早々に対馬藩を通して朝鮮側に書簡を送り、江戸幕府の時代が終わって日本が王政復古を迎えたことを通知し、併せて従来通りの交流を望むという意図を伝えようとしたが、朝鮮側はその書簡の受け取りを拒否。書簡のフォーマットや押印が前例と異なることや、「皇室」などの言葉使いが不遜であるというのがその理由だった。

 当時の李氏朝鮮は、国王の父・大院君による強固な鎖国・排外政策の下にあった。日本側の書簡の形式を問題にしたのは、旧弊を廃して国を開いた日本との交流を拒絶するための口実だったのだろう。この書簡の問題は何の進展も見ないまま2年間を費やすことになる。

 明治3年になって、新政府が今度は対馬の宗氏を介さず外務省の役人を朝鮮に派遣。釜山の和館で朝鮮側と会見を行なうも、書簡上の字句を巡る朝鮮側の非難は変わらない。そのやり取りに留まらず、日本に対する恥辱を受けたとして、二人の役人は憤慨感と共に帰国。事ここに至っては干戈に及ぶも止むなしとする建白書を出したという。いわゆる「征韓論」の始まりはこのあたりからなのだろう。

 明治5年には、対馬藩の下にあった釜山の和館を新政府の管理下に置くべく朝鮮側との交渉に臨んだが、相手は従来方式に固執し、新政府を相手にしないとのスタンス。日本側は何度も使者を送って交渉を依頼するも、事態は全く進展しない。そのうちに和館の前には、文明開化を断行して西洋の風を取り入れた日本を非難する紙が貼られた。
 「その形を変じ、俗を易(か)ゆ、これ即ち日本の人と謂うべからず。わが境に来往するを許すべからず。」
 「近頃彼人の所為を見るに、無法の国と謂うべし。而して亦、これを以て恥と為さず。」

 ここまで言われたら、憤激するなと言う方が無理というものだろう。山積する国内問題に忙殺されていた新政府も明治6年になると、沸騰する「征韓論」を前に朝鮮問題が喫緊の案件となり、6月には閣議にかかる。そこから先は私たちが歴史の授業で教わった通りで、居留民保護のため、軍艦と海陸の部隊派遣を板垣退助らが主張すると、西郷がそこに割って入り、まずは平和的に談判をしに行くべきだとして、自らが使者として朝鮮に赴きたいと申し出る。それで話がまとまればよし。万一西郷の身に何かあれば、いよいよもって実力行使の口実になる。不平士族の期待を一身に集めていた西郷さんが、自らの死に場所をそこに見つけたと言われる所以だ。

 西郷派遣の閣議決定は、日清修好条約の締結交渉のため清国に出かけていた外務卿・副島種臣の帰国を待って行なわれるはずだった。そして7月に入ると、岩倉使節団の一員だった木戸孝允が一足早く帰国。だがその木戸は、朝鮮問題については煮え切らない。閣議はなかなか始まらなかったが、征韓派は清国から戻った副島の「朝鮮との武力衝突に及んでも清国は武力介入をしない」という見解を得て、8月17日の閣議で西郷の朝鮮派遣に関する内定取り付けに一旦は成功する。

 そして、岩倉具視・大久保利通・伊藤博文ら征韓反対派のそこから先の強烈な巻き返しは、よく知られる通りだ。最終的に征韓派が敗れることになる10月14日の閣議までの間に、両者は水面下で激しい鍔迫り合いを展開。気象統計はまだない時代だが、明治6年8月・9月の東京は、きっと暑い夏だったに違いない。

 その明治6年から139年後の今年、日本と韓国の間では竹島の領有権を巡る問題が急激にヒート・アップしている。様々な論調があるものの、オリンピックのサッカーの試合で選手がこの問題をアピールしたり、その試合の開催時期に合わせて大統領が島を突如訪問したりしたことが発端なのだから、対立を煽ったのは誰がどう見ても韓国側であるだろう。そして、大統領の訪問を遺憾とする内容の野田首相の親書に対して、韓国側はそれをそのまま送り返す方針であることが、今週になって報じられている。

 曰く、「領有権を主張する日本の首相の親書を受け取って、前例を残す必要がない。」
 曰く、「大統領が訪問したのは独島であり竹島ではないのだから、内容の間違っている親書を受け取る必要はない。」

 韓国側のこうした発言を耳にすると、明治元年に李氏朝鮮が見せた対応と少しも変わっておらず、いかにも儒教に染まった思考回路のままなのだと言わざるを得ない。そして、21世紀のこの世の中で、国交のある国の首相から届いた親書をそのまま送り返すという行為が国際社会の中でどのように受け止められるのか、彼らにはそれが見えていないか、見えていても敢えて無視しているとしか言いようがないだろう。
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(外務省のHPより拝借)

 これが19世紀の出来事であったなら、両国は干戈に及んでいたかもしれない。それがそうならずに何とかここまで来ているのは、人類の経験知でもあるのだろうが、そこにも限度はあることだろう。

 だが、私たちは冷静にならなければならない。国際社会のルールに則って、日本の主張を整然と展開すべきであって、相手と同じように頭に血が昇ってしまってはいけない。一時の感情に走って行動を起こしてしまえば、それは結局自分に跳ね返ってくることなのだ。そして、こういう時にマス・メディアは国民を煽ってはならない。

 暑い夏だからこそ、頭の中はクールでいたいものだ。

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