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江戸の距離感 [歴史]


 北千住駅を出たJR常磐線の上り電車が隅田川を渡る時、右手には国道4号線の千住大橋が見える。上り線用と下り線用の二つの橋が並ぶなかなか立派なもので、さすがは一級国道用の橋である。

 千住大橋は、家康が江戸に入ってから早々に架けられた隅田川最初の橋で、両国橋より60年も早い。錦絵にもその姿が残されているように、江戸の名所の一つであったようだ。日光街道を南下してきた旅人にとっては、ともかくもこの橋が江戸の入口だった。そして、渡ったところが南千住である。
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(歌川広重 『名所江戸百景』より「千住大はし」)

 常磐線の南千住駅を下り、西口から南西方向に進んで自動車通りを横断すると、常磐線と東京メトロ日比谷線の二つの高架の間に挟まれるようにして、延命寺という浄土宗の小さな寺がある。いささか殺風景な成りで、敷地の中へ入るといきなり大きなお地蔵様の坐像が見える。建物もなく、墓地を背後に座した野晒しのままのお地蔵様だ。その名も首切り地蔵。「首切り」なのに「延命」という寺の名前も何だか奇妙である。
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(延命寺の「首切り地蔵」)

 日光街道から千住大橋を渡るとたどり着く、江戸の入口の南千住。そこに1651(慶安4)年に設けられたお仕置き場の小塚原刑場が、実はこの場所にあったという。南大井にある東海道の鈴ヶ森刑場も同じ年に開設されているが、これは要するに、江戸に入ってくる者に犯罪を起こさせないよう、見せしめとして江戸の入口に置かれたのだろう。特に小塚原は江戸城から見て鬼門の方角にあり、その災いを封じるのが上野の寛永寺という、そんな位置関係になっている。

 処刑後の遺体はろくな埋葬もされなかったそうで、それを野犬が食い散らかし、あたりには腐臭が漂うなど、何とも凄惨な状態であったという。それもまた、人々に恐怖心を植え付ける手段だったのだろうか。今、目の前にある「首切り地蔵」は、1741(寛保元)年に建てられたものだそうだ。刑場そのものの様子は今や全く残っていないが、磔刑や斬首などが明治の初年に廃止されるまで、このお地蔵様は幾多の処刑の場を見てこられたのだろう。

 この刑場での処刑者を弔うため、1667(寛文7)年に両国回向院の別院が刑場に隣接する場所に建てられた。それが、この延命寺から常磐線の高架と一本の路地を挟んだ北側にある、現在の小塚原回向院だ。後に安政の大獄で処刑された橋本佐内や頼三樹三郎、吉田松陰などがここに埋葬されたことで知られる。また、蘭学者・杉田玄白、前野良沢らが1771(明和8)年に、小塚原刑場で刑死者の遺体解剖に立会い、「ターヘル・アナトミア」に載せられた解剖図の正確性を確認した、そのことを記念する「観臓の碑」を、この南千住回向院の入口で見ることができる。

 明治になって常磐線が敷地内に建設されると、回向院と刑場跡は分断され、後者は延命寺として後に独立することになったという。二つの鉄道の高架線に挟まれ、周囲も何となく寂れた印象のある地域だが、江戸時代の歴史を今に残す貴重なスポットの一つといえるだろう。
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(小塚原回向院)

 延命寺の前から跨線橋を渡り、JRの貨物線の上を越して南側に下りる。広い道路が南東向きなので、前方には東京スカイツリーがよく見えている。

 そのまま直進していくと、程なく明治通りとぶつかる泪橋(なみだばし)交差点。東西に走る明治通りが荒川区と台東区の境になっている。今は完全な暗渠だから全く知らずに通過してしまうが、元々は石神井用水の支流が三ノ輪から明治通りと同じコースを流れ、白髭橋で隅田川に注いでいた。思川(おもいがわ)と呼ばれたこの川に架けられた小さな橋が泪橋で、江戸時代は処刑される者がこの橋で家族・知人らに別れを告げ、小塚原刑場へ連れられたという。(今日の私は刑人とは反対の方向に歩いてきたことになる。)
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(150mほど先が泪橋)

 泪橋付近は江戸時代から木賃宿が集まるところであったらしい。現代はそれが簡易宿泊所に代わり、山谷と呼ばれる地域が形成された。歩いていると、確かに価格の安い旅館の看板が多い。交番のある角を右に曲がり、酒屋の前の路上で一杯やっている人々をやり過ごしてアーケードのある商店街に入ると、これがまた見るからに寂れていて、店の半分以上がシャッターを閉じている。東西400mほどの距離の商店街を通り抜けると大通りに出て、それを左へ100mほど進むと、吉原大門と書かれた交差点があった。ここまで、南千住の延命寺からちょうど1キロほどの距離である。

 元々は人形町の近辺にあった、幕府公認の遊郭・吉原。それがこの地に移されたのは、1657年の「明暦の大火」を受けてのことだ。以後は新吉原とも呼ばれるのだが、遊客がここへ通うには、両国橋の袂から猪牙舟(ちょきぶね)で隅田川を遡り、浅草の今戸橋で岡に上がった後、三ノ輪へと続く土手道を歩くことになった。当時の小塚原から三ノ輪にかけて、隅田川の東は低湿地帯で土手が必要だったのだ。私が今歩いてきた大通りに土手通りという名が残り、このあたりには日本堤という町名も残っている。そして、目の前の交差点が「吉原大門」というからには、かつては遊郭への大きな門がここにあったのだろうか。
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(歌川広重 『名所江戸百景』より「吉はら日本堤」)

 地図を眺めてみると、路地の縦横の格子の方角が、吉原大門を長辺の中心とする400m×500mほどの長方形のエリアだけ、周囲の地区のそれとは異なっている。これもまた当時の名残なのだろう。だが、南千住の延命寺から歩いてきてここまで1キロ程度ということは、新吉原の遊郭は小塚原の刑場からさして離れていなかったことになる。幕府も認めた「必要悪」としての遊郭。きらびやかな中に人間の欲望が渦巻く世界が、実は刑死者の世界と隣り合わせのようなものだったというのは、どこか暗示的である。
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(明治42年当時の新吉原付近)

 吉原大門の交差点から、土手通りと直角に交差する道を進むと現在の吉原の繁華街があり、やがて台東病院の前で道が屈曲すると、道の両側に縁日の屋台が並び、人々の集まりが俄かに大きくなっていく。そして、南北に走る大通りに出ると、それはゆっくりと前に進む長い行列になった。色鮮やかな熊手を肩に担ぐ人々が行き交う大通り。交通整理にあたる多数の警察官。そう、今日はこの先の鷲(おおとり)神社酉の市の日なのだ。
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 日本武尊の命日に因むとされる酉の市。鷲在山長国寺の境内にあるこの鷲神社の酉の市は、現在の東京でも最も規模の大きいものだ。長国寺は1630年の創設。開山の第13世・日乾上人は、あの石田光成の遺子と言われる。元は浅草に開かれていたが、1669年に縁あって新吉原の西隣にあたる現在地に移転。鷲妙見大菩薩を拝むことから、以後、酉の市の寺として知られた。
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 明治の初年になると、神仏分離令によって長国寺と鷲神社に分割される。だが、どうも日本人は寺と神社をすっぱりと分けるのが苦手のようだ。長国寺のホームページを見ても、
 「浅草酉の市では長国寺の『仏様のおとりさま』と、お隣の鷲神社の『神様のおとりさま』の両方からご利益をいただけますから、大きく来年の福をかっ込んで下さい。」
などと書いてあって、これはもう「何でもあり」である。

 新吉原の遊郭街と背中合わせのようにして建てられた長国寺と鷲神社。開運招福と商売繁盛を願う酉の市が立つ場所は、吉原大門から0.8キロ、小塚原刑場からは1.8キロの距離だ。そして、刑場とは逆の江戸城の方に向かって歩けば、同じく1.8キロで上野の寛永寺である。聖と俗、生と死。それら同士の距離感は、江戸の町ではこれぐらいのものだったのだろうか。

 江戸時代への束の間のタイム・スリップを終えて我に帰れば、今の日本を取り巻く内外の情勢は一段と厳しさを増し、来年も大変な年になりそうだ。

 ここはひとつ、おとりさまに手を合わせてみることにしよう。

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