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北の終着駅 [歴史]


 それなりに歳をとってから旅に出ると、若い頃には考えもしなかったことに思いが至ることがある。

 先週末、家族の用事でほぼ四半世紀ぶりに新潟市を訪れた時のことだ。JR新潟駅の南口から、駅の北側にあたる万代口へ向かう間、在来線のホームを見下ろす跨線橋を歩きながら、ふと思った。信越本線は、なぜ今のようなルートで新潟駅を終点にしているのだろう。

 新潟駅は、信濃川に並行するように東西に線路が走っている。日本海を縦貫する幹線鉄道を作るなら、信越本線は長岡からもっと海側を走り、今の上越新幹線のようなルートで西側から新潟駅に入るようにすれば良かったのではないか。そうすれば、更に秋田・青森方面を目指す現在の羽越本線だって新潟駅を起点にすることが出来たはずだ。

 それなのに、信越本線は長岡から海には近づかずに新津まで走り、そこから向きを北西にかえて、新潟駅には東側から回りこんでいる。そして羽越本線は新潟ではなく新津から北を目指しており、新潟・新発田間は白新線というわざわざ別の路線で結ばれている。新潟から海沿いに西へ向かうのは、越後線というローカル線だ。

 要するに新潟駅の東西南(北はない)で鉄道路線の作られ方がどこか素直じゃないのである。かつてあった大阪発青森行の長距離列車などは、新津方面から新潟駅に到着すると、そこでスイッチバックして白新線経由で北へ向かって行った。(逆に、現在の豪華寝台特急「トワイライトエクスプレス」は新潟を経由せず、新津から直接羽越本線に入っている。) なぜこんなことになったのだろう。
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 そこには何か歴史的な背景があるはずだと思い、インターネットで調べているうちに新潟市のホームページに行き当たったのだが、そこに載っていた「新潟市の歴史」というのが、なかなか良く出来ている。

 それによると、越後平野は縄文時代にその原形が出来たそうである。気候の温暖化による海水面の上昇(いわゆる縄文海進)によって旧平野が海面下に沈み、そこに信濃川や阿賀野川が運んできた大量の土砂が堆積して出来上がった広大な平野だという。だから、縄文海進の時代に人々はもっと高い所に住んでおり、その頃の石器が出てくるのは現在の新津丘陵、角田丘陵といった場所であるそうだ。
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 やがて弥生時代・古墳時代になると、人々の住処は少しずつ山麓部へ下りてくる。ただ、当時の阿賀野川は河口が今よりもずっと信濃川寄りにあり、二つの大河の出口にあたる地域は茫漠たる湿地帯であったようだ。治水の行き届いている現代とは違って、これらの大河は氾濫を繰り返したはずだから、人々はそう簡単に平地には住めなかったはずである。

 この時代の越後平野は、東北地方に古来あった文化と西からやって来た文化との接点であったという。大和朝廷からは高志(こし)の国と呼ばれ、その支配権が及んでいることを示す渟足柵(ぬたりのき)という拠点が築かれた。場所は、もっと信濃川寄りだった阿賀野川の河口近くである。「渟」は「ひと所に水がじっと止まって流れない」状態を意味する文字で、その渟足は後に沼垂(ぬったり)という地名になる。

 中世になると、山麓に近い平野の開発が進む。改めて新潟県の地図を眺めてみると、主な都市がある場所は平野の真ん中や海寄りではなくて、丘陵が野に出たような所ばかりだ。その中で現在の新潟市だけが突出して海の近くにあるのは、やはり二つの大河の河口に位置する港としての機能が大きかったのだろう。

 新潟市のホームページに載せられた古地図を見ると、戦国時代の越後国の港が三か津と呼ばれていた、その様子がよくわかる。三か津とは、阿賀野川の河口の右岸の沼垂湊、二つの川の河口に挟まれた蒲原(かんばら)津、そして信濃川の左岸と日本海に挟まれた新潟津の三つである。(ここで初めて新潟という地名が登場する。) 蒲(淡水の水際に生える草)、潟(遠浅の海岸で、潮の干満によって見え隠れする所)、沼などの文字から、当時の風景が目に見えるようだ。この三か津は上杉氏が制圧し、その中では新潟が最大の港になっていく。
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(新潟市ホームページより拝借)

 その後の江戸時代は、基本的には平野部の新田開発の時代だ。そして数々の商品が回船で運ばれた時代でもある。そんな時に阿賀野川の河口の位置がずっと東寄りに変わって日本海に直接流れ出るようになり、沼垂湊が衰退していったのとは対照的に、新潟津の存在はますます大きなものになっていく。幕末の「異国船打払」の頃は新潟港が幕府の直轄となり、安政の日米修好通商条約では幕府が開港を約束した五つの港の一つになった。(実際に開く前に幕府は倒れてしまったのだが。)

 そして迎えた明治期には、新潟に県庁が置かれ、まさに県の中心に。そして明治30年には鉄道がやって来るのだが、その主体であった私鉄の「北越鉄道」は、西の直江津から東へと建設を進めていった。明治25年の鉄道敷設法に明記された「新潟県下直江津又ハ群馬県下前橋又ハ長野県下豊野ヨリ新潟県下新潟及ビ新発田ニ至ル鉄道」がこれにあたるのだが、それは直江津から柏崎を経て、長岡→見附→三条→加茂を経て、新津で北西に向きを変えて終着駅の新潟というルートになった。既に町がある所を線路で結ぶのであれば、それは当然のことだったのだろう。

 その新潟駅をどこに造るか。それを巡って当時は新潟市と沼垂町が誘致合戦を繰り広げ、それがエスカレートして爆破事件などもあったそうだが、コストの観点から北越鉄道は沼垂町を選び、明治30年11月に、現在の新潟駅の北東方向に沼垂駅を設置してそこが終着駅となった。だが、その後も新潟市側の駅誘致活動が続き、結局は明治37年になって、沼垂駅から南西方向へ大きく左カーブを切る形で線路が延伸され、初代の新潟駅が出来たという。現在の駅の北側で、少し万代橋に近い場所だった。
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 だが、その初代新潟駅も戦後は手狭になり、沼垂から大きく左カーブを切るルートも非効率だというので、新潟駅の移転話が本格化。紆余曲折を経て、初代の駅の南側を走る貨物線を利用する形で昭和33年に移転したのが、現在の新潟駅なのだそうである。

 新潟の街の中心は、新潟駅から北へ向かい、長さ300mの万代橋を渡った更にだいぶ先で、駅からは2kmほども離れている。明治30年に鉄道がやって来た頃には、信濃川河口付近の川幅は700mほどもあったそうだから、いかに終着駅といっても、信濃川に鉄道橋を架けて新潟市の中心地近くまで線路を伸ばすなどというのは、当時としては全くあり得なかったことなのだろう。

 けれども、北越鉄道の開通時にそれが実現していたら、終着駅・新潟の姿はどんな風であったのだろうと想像を巡らせてみるのも悪くない。県庁所在地のJR在来線の駅が行き止まり式の構造になっているのは、私の理解が正しければ青森、高松、長崎の三つだけ。そこにもし新潟駅が仲間入りをしていたら、それはそれで独特の風合いを持った駅になっていたかもしれない。

 新潟県地方の週間天気予報には、雪マークが現れるようになった。日本海側も、これからいよいよ本格的な冬を迎える。

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