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初夏の夜襲 [歴史]


 5月18日(日)、朝から5月の青空がきれいだ。

 移動性高気圧が真上にあって、風がなく穏やかな休日。空気がカラッとしているので、こんな日は緑を見ながら外を歩きたくなる。午前中に家の中のことを済ませ、正午過ぎから家内と二人で、義母のお墓参りがてら散歩に出ることにした。

 我家から徒歩30分足らず。本郷通り沿いのお寺で墓参りを済ませ、そこから5分も歩けば根津神社だ。緑深い境内で本殿を眺めながら一休み。5月も下旬に近づくと、今日のような快晴の日には日差しも強いから、そろそろ木陰がありがたい。この神社のご由緒は古く、日本武尊の時代にまで遡るという。当初は千駄木にあったのだそうで、15世紀後半の文明年間(1469~86)に太田道灌がそこに社殿を建てたという。その当時も、今頃の季節には今日のように爽やかに晴れた初夏の日があったことだろう。
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 その道灌の時代から半世紀以上が過ぎた、天文15年(1546年)4月20日というと、太陽暦では5月19日だから、まさに今の時期になるのだが、その日の夜に展開された一つの軍事作戦が、以後の関東の歴史地図を大きく塗り替えることになった。

 北条氏の3,000の兵が立て籠もる武州・河越城を、関東管領家の山内上杉、扇谷上杉、そして古河公方の軍を合わせた総勢8万とも9万ともいわれる大軍が包囲して、約7ヶ月。それに対して、小田原から進軍してきた北条氏康(1515~71)率いる8,000人の兵がこの日に夜襲を仕掛け、10倍の人数の敵軍をあっという間に撃退してしまった、いわゆる河越夜戦(かわごえのよいくさ)である。

 江戸時代後期の歴史家・頼山陽(1781~1832)は、その著書『日本外史』の中で、この国の歴史上で特筆すべき戦いとして三つの奇襲戦を挙げている。1560年の「桶狭間の戦い」、毛利元就の軍が陶晴賢(すえはるかた)の軍勢を壊滅させた1555年の「厳島の戦い」、そして三つ目がこの「河越夜戦」だ。

 頼山陽によってそこまで評価された河越夜戦。だが、それを学校の歴史の授業で教わったことはない。もっと言えば、この夜戦に限らず、室町時代後期から戦国時代に至るまでの関東の歴史には、フォーカスが当たることがあまりない。

 室町時代は幕府と将軍が京都にあったため、そことは遠く離れた「武士のメッカ」関東の統治が常に問題になった。

 初代将軍・足利尊氏の次男の系譜が鎌倉公方となるのだが、世代が下るほど京都の将軍家との対立を深めて行く。そして、本来はその補佐役である関東管領職を世襲した山内上杉が、鎌倉公方と対立。更には分家の扇谷上杉との抗争に明け暮れる。京都の幕府の権威は失墜し、「公方」だの「関東管領」だのといった役職は次第に風化。その間に実力をつけていったのが、国人・地侍層を直に掌握する北条氏のような勢力だった。15世紀の中頃以降、それらの勢力が入り乱れて争いを繰り広げていたから、この時期の関東の歴史には、確かにわかりにくいものがある。(鎌倉公方は、関東管領との対立の中で鎌倉を追われ、この時代には利根川を越えた古河に館を構え、古河公方と呼ばれていた。)

 上野国と武蔵国北部は山内上杉の、武蔵国南部と相模国は扇谷上杉の支配地域だったのだが、箱根を越えてやってきた北条氏によって扇谷上杉の領地は大きく浸食されていく。夜戦の舞台となる河越城も、元はといえば、扇谷上杉の家宰であった、前述の太田道灌(1432~86)が築いた城だ。武州・川越は、西・北・東を入間川によって囲まれ、荒川との合流地点も近い陸上交通の要衝である。扇谷上杉の若き当主・朝定の居城であったその河越城が1524年以降、北条氏による度重なる攻撃を受け、1537年には遂に北条氏が奪取することになった。「国を盗んだ男」北条早雲の子・氏綱の時代のことである。
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 その氏綱が1541年に没し、氏康が三代目当主になると、4年後に大きな危機が訪れた。

 関東で両上杉家と対峙する中、1545年の7月下旬、山内上杉と手を組んだ駿河の今川義元によって、北条氏康は突如西方を攻められる。そしてそれに呼応するように、9月下旬には両上杉家と古河の足利公方の連合軍約80,000の軍勢が河越城の包囲を開始。関東の大名家のほぼ全てがこれに動員されたと言われる。 対する河越城の守備隊は僅か3,000の兵だ。籠城を続けても、陥落は時間の問題と思われた。氏康は東と西の両面作戦を強いられることになった。

 この危機にあって、氏康は武田晴信(信玄)を介して今川との和睦を10月下旬に実現し、東方戦線に専念できる体制を素早く作り上げる。そして8,000人の援軍を整え、半年の時間をかけて河越城の奪回作戦を展開したのである。
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(北条氏康)

 氏康は降伏の意を伝えるような偽の詫び状を敵方に乱発し、相手が攻めて来ると大きく後退して戦意がないかのように見せかける。そうやって敵軍を慢心させる一方で、盛んに間者を放って敵軍の情報を集めた。包囲されている河越城の守備隊とも、巧みに連絡を取っている。守備隊の食糧の備えもしっかりしていたようだ。 

 兵の数からみれば完全なワンサイド・ゲームになるはずなのに、戦線は膠着し、城はなかなか落ちない。大包囲を始めてから長丁場になった連合軍の士気は緩んでいったという。兵の数が80,000ともなれば、殆どが野宿のはずである。日々の食糧もどの程度まで行き渡っていたのだろう。冬場を挟んでそんな生活が半年も続けば、厭戦気分にもなろうというものだ。

 そして迎えた1546年4月20日(新暦では5月19日)、その日はどんな天候だったのだろうか。歴史ドラマなどで河越夜戦が描かれる時、昼間は初夏のような陽気に兵たちは汗まみれで横たわり、日が暮れると妙に手回しよく大勢の「遊び女」たちが戦陣を訪れる場面があったりするのだが、北条の間者はこういう手も使ったのだろうか。

 深夜、鎧兜を脱いで軽装になった8,000人の北条軍は4隊に分かれ、味方であることを識別する合言葉を決めた上で、包囲軍に対して奇襲攻撃を開始。河越城の守備隊3,000もこれに呼応して城外へ突撃。不意を突かれた包囲軍は総崩れになり、その死者は18,000に達したとも言われる。
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(関東の16世紀)

 北条氏康の軍勢が、夜襲によって10倍の敵を撃退した河越夜戦。この時点で31歳の氏康は、領国大名として気力も充実していた時期だったのだろう。この奇襲戦に勝利して以降、北条氏は関東での勢力範囲を更に広げていくことになる。

 敗れた側はといえば、河越城の元の持ち主であった扇谷上杉は、21歳の当主・朝定がこの夜戦で戦死したために、あえなく滅亡。一方の山内上杉は、当主で関東管領の憲政が23歳。ほうほうの体で居城の上野国平井城に逃げ帰るが、6年後にはその城も北条の手に落ちて、以後は越後長尾氏に家督を譲ることになる。また、古河公方の足利晴氏はこの時点で38歳。御所を包囲されて降伏し、隠居・幽閉の身となった。そして古河公方の存在も、晴氏の子の世代で自然消滅してしまう。

 川中島の戦い(1553~1564年)、桶狭間の戦い(1560年)、そしてそれ以降の信長・秀吉・家康が関与した数々の戦いに比べると、1546年の河越夜戦は、あまり語られることがない。だが、頼山陽が注目したように、圧倒的に不利な情勢を北条氏が夜襲によって一気にひっくり返してしまった河越夜戦は、その後の日本史、とりわけ関東の歴史を大きく変えた戦いとして、もっと注目を集めてもいいように私は思う。関東管領や古河公方といった古めかしい権威の存在に事実上のトドメを刺したという意味では、関東の中世に終わりを告げる戦いであったのかもしれない。

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 根津神社の静かな境内で一時を過ごした後、家内と私は根津から谷中の方面を歩いた。爽やかな青空はなおも続き、今日は恰好のお散歩日和だ。

 谷中の路地裏を歩いていくと、気がつけばずいぶんと人通りが多くなってきた。Tシャツに短パンの外国人も少なくない。昔ながらの路地裏の風情が残る谷中は、もう立派な観光地になってきたようだ。

 多くの人々が行き交う谷中銀座商店街に出て、いつものように酒屋さんの店頭で生ビールを買い求める。店先のビールケースを椅子代わりに、皆が思い思いのスタイルで午後のビールを楽しんでいる。私たちも、今日のツマミは数軒手前のお店で買って来た鶏の手羽先の唐揚げだ。

 今から468年前の今日がこんなお天気だったとしたら、その時に意気の上がらぬまま河越城を包囲させられていた兵士たちには大変申し訳ない気もするのだが、ともかくも2014年を生きる私たちは、5月の素晴らしい青空に乾杯をすることにしよう。

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