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「外地」の鉄道 [鉄道]

 発売を楽しみにしていたものを手に入れて、このところ毎日のように、時間を見つけては眺めているものがある。

 昨年5月から始まった新潮社の『日本鉄道旅行地図帳』シリーズ。その続刊ともいえるものだが、「歴史編成」と銘打って、『朝鮮 台湾』と『満州 樺太』の二冊が先月の20日に発売になった。日本各地の鉄道路線と全ての駅を正確な地図の上にプロットするという、ありそうでなかった初の試み。しかも、既に廃線になった路線とその駅も再現され、各駅の開設年月日、廃止になった場合はその年月日、鉄道路線としての沿革(私鉄の場合には社名の変遷等)も、路線毎の駅名一覧表として掲載されている。かつての馬車鉄道、軽便鉄道、山の中の森林鉄道まで路線地図が載っているから驚きである。そのシリーズが、何と戦前の日本が領有した外地について、同様の路線地図とデータ集を世に出したのである。
朝鮮台湾.jpg満州 樺太.jpg
 子供の時分から、私は地図を眺めるのが好きだった。自然の地形を真上から見下ろしたものを一枚の紙の上に表現するとこうなる、ということが実に興味深かった。色々な都市の位置関係や、河川の分水嶺となる山の深さ、土地の傾斜の具合など、眺めているだけで様々な事実を教えてくれる。そのことに常に知的好奇心をくすぐられていたのである。

 考えてみれば、地形図や国鉄の時刻表、各種の統計集など、私が少年時代から興味を持って眺め続けてきたのは、いずれも客観的な事実だけを淡々と伝えてくれるデータブック的なものである。そこに蓄積された一つ一つのデータもさることながら、複数のデータを組み合わせることによって導き出される新たな発見こそが、子供心にも面白かったのだ。

 古今の鉄道に関する優れたデータブックとして登場した『日本鉄道旅行地図帳』。それが戦前の外知にフォーカスを当てた。わくわくしながら買い求めたものの内容は、期待を上回る数々の驚きに満ちていた。何といっても、注目の的は南満州鉄道と鮮鉄(朝鮮総督府鉄道)である。ざっと眺めただけでも、(他の書籍から得た知識と繋ぎ合わせると)例えば以下のような史実を確認することができた。

①日露戦争以前に、ロシアが清国から権益を得て建設した東清鉄道(長春・大連間の南満州支線を含む)は、ロシア国内の鉄道の規格である5フィート(1,524mm)の軌道であった。

②1904年2月の開戦後、同年5月に日本は大連を占領。以後、内地用の車輛が走れるように、占領地で順次、南満州支線の軌道を国内基準の3フィート6インチ(1,067mm)に改軌した。

③ポーツマス条約で南満州支線の権益がロシアから日本に譲渡されると、中国・朝鮮と同じ4フィート8.5インチ(1,435mm)の世界標準軌へと更に改軌した。

④一方、朝鮮半島に日本が建設した鉄道は、最初から世界標準軌で造られた。釜山から中朝国境の新義州までは開通したが、鴨緑江を渡る鉄橋の完成は1911年まで待たねばならなかった。

⑤日露戦争後、日本は中朝国境の中国側・安東から奉天(現在の瀋陽)までの鉄道を急ピッチで建設したが、それは軽便鉄道の規格(軌間762mm)であり、これも後に世界標準軌に改軌された。

⑥難工事の末、1911年に完成した鴨緑江の鉄橋は、船舶の航行時に橋梁の中央部が90度回転するユニークな構造になっていた。

⑦この鉄橋の開通によって、釜山から大陸行きの直通列車が走るようになり、最盛期には急行「のぞみ」・「ひかり」(共に釜山⇔新京・・・現在の長春)、急行「興亜」・「大陸」(釜山⇔北平・・・現在の北京)が走っていた。(満鉄の有名な「超特急あじあ号」の運行は大連・ハルビン間。)

⑧こうした直通列車に乗ると、東京を午後3時に特急富士で出た場合、新京には翌々日の22時12分に到着。北京には(奉天から路線が変わるが)更に翌日の12時50分に到着するダイヤになっていた。
あじあ号.jpg
 当時の鉄道が、主として軍事上の目的から建設されたのは、そういう時代背景があってのことである。ただ、上記のような、例えば改軌を繰り返したような経緯を紐解くと、大きなグランドデザインがあって個々の施策が進められたというよりは、かなり場当たり的な、その時々の必要に迫られて都度対応してきたような印象がなくもない。何といっても、軍事において「兵站」が常に軽視されてきたのが日本の伝統である。そして、このようにして始まった「外地」の経営は、それこそ試行錯誤の連続であったのだろう。

 それはともかくとして、19世紀後半に生まれたばかりの近代日本が、東アジアを舞台にしてこの時代を懸命に生きた、そのことの持つ重みを改めて感じずにはいられない。それと同時に、今の日本人はこの時代の自国の姿をあまりにも知らないことにも、強い問題意識を持たざるを得ない。時代背景とは無関係に今の価値観だけで、戦争を仕掛けて他国を領有したことは悪であると一方的に断罪したところで何の意味もないし、海外の領土を統治したことについての成功と失敗を客観的に分析できなければ、それは歴史の教訓を無駄にしていることになるだろう。

 人は、全くの無国籍な一個人としては生きられない。人・モノ・カネが海を渡って自由に移動する現代においてすら、人は国家というものを作り、その構成員として義務を履行し、権利を行使しながら、自らの人権、財産と生活の安寧を確保するより他はない。そして、いつの世も現実は国家と国家の利害のぶつかり合いなのである。そうである以上、どんな時代にも国家の危機管理というものは必要なのだから、イデオロギーではなくリアリズムの目で、過去の史実をしっかりと見つめ、そこから得られる教訓にきちんと学ぶべきなのだ。

 そういえば、日本時間の昭和16年12月8日午前3時23分、太平洋の彼方で「トラトラトラ」の電文が打電された、その68周年まで、あと6時間足らずである。「開戦記念日」という言葉は、今や殆ど聞かなくなってしまったが。
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