SSブログ

セピア色の渋谷 [自分史]

 金曜日の午後6時25分。地下鉄の表参道駅は絵に描いたような夕方のラッシュの中にあった。

 都心から乗った千代田線の電車を降り、列にしたがってエスカレーターを上がると、エキナカのあるその先は人の流れが縦横に交錯し、まるでスクランブル交差点の中にいるようだ。その中を泳ぐようにして銀座線のホームに進み、満員の渋谷行きの最後尾に乗る。

 ゴトゴトと走り始めた電車が、やがて減速しながらトンネルを抜けると、窓の外は渋谷のネオンだ。少しずつ景色を見下ろすようになり、かつて東急文化会館があった場所の基礎工事の様子が見える。そして明治通りを大きなガードで渡るときに駅前の夜景が窓いっぱいに広がって、終点の渋谷駅に到着。ホームも改札も狭く、直結している東急東横店のレトロな階段は昔のままである。

 地下鉄なのに地上三階にホームがある。考えてみれば、銀座線の渋谷駅は奇妙な構造だ。表参道は高台の上で、青山通りから宮益坂を下りた渋谷は谷底だから、その地形に忠実にトンネルを掘ると地下鉄は急勾配になってしまう。戦前に建設された銀座線は、それを避けるために渋谷を高架の駅にしたのだが、そんなことは露も知らない子供の頃、山手線よりも高い位置から発車して空中を走るような銀座線の姿には、何やらモダンな印象があった。ここに住んだのは子供の頃の6年足らずのことだが、私にとって渋谷は懐かしい街である。
銀座線渋谷駅.jpg
 今夜は、道玄坂上の行きつけの店に席を取っていた。小学校の同級生のH君と、実に29年ぶりに会う約束をしていたのである。渋谷駅前の喧騒をやり過ごし、道玄坂から一本外れたところにある店に辿りついた私は、子供の頃の渋谷を思い出しながら、カウンターの一角でH君を待つ。

 私が大阪から渋谷の区立の小学校に転校してきたのは、二年生の二学期が始まった日のことだ。東京オリンピックの開催を翌月に控え、学校の周辺は空前の建設ラッシュだった。その小学校は、現在の東急百貨店本店の場所に元々あったそうだが、五輪開催で渋谷区にもまとめて予算がついたのか、それが渋谷区庁舎の南に隣接する場所に移転し、しかも鉄筋コンクリート三階建ての校舎にアスファルトの校庭という、当時としては斬新な姿に生まれ変わった。そのピカピカの小学校に、私は転校生としてやってきたのである。代々木のオリンピック・プールは勿論のこと、渋谷区庁舎や公会堂、NHK放送センターなど、周囲のランドマークは皆この年から翌年にかけて一気に建てられたものだった。

 僅か二年間とはいえ大阪の匂いを幾分身に纏っていた私は、転入したクラスの中では異星人だった。それでなくても、転校生というのは(今とはだいぶ違う意味ながら)「いじめ」の対象になりやすい。私もずいぶんと、いわれのない攻撃を受けたものだった。当時、小学生の男の子はほぼ例外なく野球帽をかぶって通学し、その野球帽は東京の場合ほぼ例外なく読売ジャイアンツのものであったが、学年では私一人が南海ホークスのマークを付けていた。それだけで立派に「村八分」の理由になったのである。

 子供というのは異質なものを攻撃する残酷さを持つ反面、そうした攻撃に耐えながら育つ、それなりの逞しさもある。自分で言うのも変だが、私もそうした子供の社会の中で次第に強くなり、時には取っ組み合いの喧嘩もしながら、理不尽な仕打ちに対する免疫が備わっていった。勿論、クラスの中は「いじめっ子」だけではなく、仲の良い友達もたくさんできていた。

 そうこうして四年生になったある日のこと、私のクラスに一人の男の子が小樽から転校してきた。頭脳明晰で発言が明快なだけでなく、正義感が強くて芯のしっかりした男だった。転校生の宿命として、程なく彼も「いじめっ子」による攻撃の対象となるのだが、それに対して彼は果敢に立ち向かっていた。転校生同士、互いに親近感を持ち、友達付き合いが親友の間柄になるのに時間はかからなかった。

 放課後に、彼の一家が住む社宅にお邪魔したことは何度もあったし、その頃はまだ豊富にあった空き地で日が暮れるまで遊んだものだった。渋谷名物の一つであった東急文化会館最上階の五島プラネタリウムにも、誘い合っては毎月のように通っていた。

 当時、銀座線のガード下では、傷痍軍人が兵隊姿でアコーディオンを弾いては寄付を募るなど、渋谷の街は終戦後の色彩をまだ一部に残していた。現在は東急ハンズが建つ宇田川町の繁華街もまだクルマの通行が少なく、夜鳴きソバの屋台が並んでいたような時代だ。山手教会はあったが、「公園通り」や「スペイン坂」なる地名など勿論ない。私がH君を待っているこの店のあたりも、東急玉川線の丸っこい路面電車(いわゆる玉電)がゴトゴトと走っていたものだ。そうした思い出の一つ一つが、私にとってはセピア色の渋谷なのである。
玉電4.jpg
 別れは、卒業と共にやってくる。H君は区立の中学に進み、私は受験をした。小学校の卒業式の日に、お互い最後に何と言ったのだろう。そもかくもH君とはお別れになった。二年後に私の一家は千代田区内へ引っ越すことになり、H君も中学の途中で再び北海道へ転校となった。私たちは互いに音信不通になった。

 それから10年の月日が経った。大学三年になって間もないある日、家に帰ると母が私を待ちわびていた。何と、H君から電話があったという。小学生の頃、我が家にも遊びに来てもらっていたから、母もH君のことはよく覚えていた。聞けば、彼も私と同じ大学の同じ学部にいるという。三年になると専門課程でゼミを選択するのだが、希望者多数のためレポート提出による選考があった。その、合格発表といったら大袈裟に過ぎるが、選考された学生の名前が学部の掲示板に貼り出され、H君がそこに私の名前をたまたま見つけたのだそうだ。彼はすぐに学部の教務課へ行き、私の実家の電話番号を教えてもらったという。「個人情報保護」云々の話など何もない、おおらかで良き時代だったと言う他はない。

 大学のキャンパスで再会した私たちは、さっそく高田馬場の焼鳥屋で来し方行く末を語り合った。お互いに抱えていた10年間の吹き溜まりとでも言うべきものが、終電までの時間で語り尽くせるはずもない。その夜は私の実家に泊ってもらい、二人で文字通り語り明かすことになった。中学生の途中から下宿生活を続けてきたH君の、その鋭敏な問題意識と正義感、そして芯の強さには一層の磨きがかかっていて、親元を離れる苦労も知らずに生きて来た自分を、私は恥じた。

 別れは再び、卒業と共にやってきた。私は就職が決まり、彼は大学院へ進むことになった。これからは、それぞれが自力で歩む人生。小学校の卒業時とは比べ物にならない、大きな別れである。特に私が就職と同時に地方へ配属になったこともあり、私たちは再び音信不通になってしまった。そして、歳月は流れた。

 運命というのは不思議なものだ。再会への糸をたぐり寄せたのは、今度は私の方だった。

 昨年12月、クリスマス前の日曜日に寝転がって新聞に目を通していたとき、或る書籍の広告に偶然目が止まった。南アフリカ共和国の国情を解説した新書本の広告だが、著者名がH君と全く同じだったのだ。H君と南アフリカがどう繋がるのか、自分の記憶を辿っても腑に落ちないものがあったが、ともかくもインターネットで検索してみると、この著者の略歴に行き当たり、どうやらH君に間違いないと確信するに至った。それによると、彼は大学院を出た後にアフリカの国々と縁ができ、今はエコノミストとして日本におけるアフリカ経済研究の第一人者になっているようだ。

 幸い、そのサイトに彼の職場のメールアドレスが載っていたので、私は逸る心を抑えつつ、彼に簡単なメールを送ることにした。だが、29年の歳月を一通のメールの中に凝縮するなど、土台無理なことである。あれこれ考えた挙句、妙に事務的な内容になり果てたメールが、送信済みトレイに入った。

 道玄坂上の店のカウンターには、一組、二組と客が入り始めた。金曜の夜ということもあって男女のペアが多い。男二人で待ち合わせをしているのは、私たちぐらいのものだろうか。しかし、H君から返信が来て飲む約束が出来た時、色々考えたが、店の場所はどうしても渋谷にしたかったのだ。

 そして、約束の時間から15分ほど経った頃、少々道に迷ったと言って頭をかきながら店に入ってきた一人の男があった。目と目が合い、「やぁ!」という一言と共に固い握手を交わす。挨拶は抜きで、まずは飲もう。男同士の再会は、それで充分なのだ。何から話そうか、あれこれ考えていた私も途端にふっ切れて、そこから先は肝胆相照らす展開となった。

 二人とも頭の半分は白髪で胴回りも太くなったが、そんなことはどうでもいい。お互いの仕事の様子、外国暮らしの経験、家族のこと、両親のこと、そして渋谷の思い出。「あのいじめっ子にもう一度会ったら、一発ブン殴ってやろうぜ!」・・・。29年の歳月を行ったり来たりしながら、夢のような時が過ぎていく。そしてその間だけ、私の中のセピア色の渋谷は淡い色彩を取り戻している。気がつけば、カウンターの上では焼酎の四合瓶の二本目が空きかけていた。

 もうすぐ日付が変わろうかという頃までタイム・トリップをして、私たちは店の前で別れた。坂道をふらふらと降りながら、私は渋谷駅に向かう。いつものことながら、渋谷は夜遅くまで人の波である。横断歩道を渡り、駅ビルの二階に上がってJRの改札口に向かうと、そこに「玉川改札」という表示がある。H君と再会した今夜は、最後にこれを見たかった。他でもない、かつて渋谷の駅から玉電が出ていたことの名残りなのである。セピア色の渋谷は、まだここにもあった。

 H君と私が通った小学校の名前は、今はもうない。少子化に伴う統廃合の対象になり、建物はそのままだが、違う名前の学校になった。平成9年のことだった。

 
コメント(0)  トラックバック(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

『山の思想史』冬枯れの権現山 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。