SSブログ

冬の散歩 [季節]

 私は冬の散歩が好きである。元々歩くことが好きなのだが、それに加えて、天気の良い日に家の中で過ごすのはもったいないと思ってしまう質(たち)である。昔から暑がりで、夏の暑さに比べたら冬の寒さの方が遥かに我慢できる。そして、東京の冬は晴天が多い。だから冬の散歩が多くなるのである。

 私にとって一番の気分転換法は、緑を眺めることである。できれば、緑の中を歩きたい。我家の近くでそうした欲求を満たしてくれるのが、東大理学部の附属施設になる小石川植物園だ。敷地全体が横長の丘になっているので、離れた場所からもこんもりとした緑地のように見えている。この土地は、元はといえば五代将軍徳川綱吉の別邸であったそうだ。強い冷え込みと共に冬の青空が広がった今日は、しばらくぶりにこの植物園を訪れることにした。

 入口の正面にある幅の広い坂道を登ると、左に時計塔のあるレトロにしてモダンな建物があり、その先は平らに整地された広い緑のスペースである。春は桜の園となり、その後には藤が咲き、ツツジの数々が咲く。秋は楓の並木が紅く染まり、その奥の大イチョウが無数の銀杏の実を落とす。桜の木々の下は草地になっているので、季節の良い頃にはここに座って花や緑を楽しむ人々が多い。
植物園6.jpg
 桜の園の左奥には、この植物園の由来となる薬草園がある。三代将軍家光の時代に、薬用の植物を栽培するために幕府が開園した薬園が、綱吉の時代に統廃合が行われ、現在の場所に移設されて小石川御薬園(こいしかわおやくえん)となった。それが八代将軍吉宗の時に薬草園が敷地全体へと拡大され、有名な青木昆陽の発案になるサツマイモの試験栽培もここで行われたそうだ。更には、目安箱への投書によって請願された貧民のための医療施設が、小石川療養所としてこの敷地内に設置された。山本周五郎の小説『赤ひげ診療譚』の舞台となった施設である。

 今は冬だから、薬草園にも緑はなく、それぞれの草の名を示す立て札が並んでいるだけだ。それを更に奥まで歩くと、当時使われていた井戸の跡が残っている。『赤ひげ診療譚』には、療養所の炊事場の井戸端で女たちが菜を洗う場面が描かれているが、それはこの井戸のことなのだろうか。赤ひげ先生が実在の人物であったなら、どのあたりで薬研を動かしていたのだろう。そんなことを考えながら歩くのも面白い。井戸の近くには、一本の寒桜が二月の空の下で五分咲きになっていた。
植物園1.jpg
 この植物園は、ここから先が更に深い。開放的な桜の園から一転してスズカケノキやプラタナスの林となり、首が痛くなるほど見上げるような樹々が大らかに枝を伸ばしている。眩しいほどの新緑の頃や、枯葉の舞う晩秋などは、いくぶんヨーロッパの公園を思わせるような風情があり、私が好きな場所のひとつだ。その奥は武蔵野の雑木林のようになり、やがてスギやヒノキの暗い森へと続く。
植物園2.jpg
 左へゆるやかに曲がっていく森の中の道を進むと、見晴らしの良い東屋(あずまや)があり、斜面の道を降りていくと、その下は幾つもの池のある日本庭園である。桜の木はここにも植えられているが、この庭園の中心は何といっても梅林であろう。さすがに植物園だけあって、梅の木にもよくぞここまで種類があるものだと感心してしまうほど、ここには多品種の梅の木が並んでいる。今日は概ね三分から五分咲きといったところだろうか。彩りの少ない冬景色の中でこの紅白は充分に鮮やかなのだが、土曜日の午前10時台で、晴れてはいるが風がやや強い今日は、入園者もまだ僅かである。
植物園4.jpg
 いつまでも花を眺めていたい梅林を過ぎると、かなり自然のままに草木が生い茂る道が続いている。左側は上り斜面でやや深い森になっており、その中の小道を上がれば先ほどの薬草園に出る。つまり、薬草園は丘の上、今歩いている緑の道は丘の下である。これは想像だが、貧民達が治療と施薬を受けた小石川養生所はこの丘の下にあったのではないだろうか。

 『赤ひげ診療譚』の主人公・保本登は、将来を嘱望された若い医師である。幕府の御番医になるつもりで三年間長崎に遊学したが、江戸に戻ると期待に反して小石川養生所で医員見習いを命じられる。そこは無知で貧しい最下層の人々がやって来る場所であり、仕事はきついが安月給だ。おまけに、赤ひげと仇名される医長の新出去定(にいで きょじょう)は気難しく、手荒く、言葉も乱暴である。出世とは正反対の現実への幻滅に、長崎遊学中に婚約者に背かれたという心の傷も手伝って、安本登は赤ひげのやり方にことごとく反発するが、市井の中で己の信念を貫く赤ひげの人間性に次第に強く惹かれていく・・・。

 この小説を読んだのは高校生になってからだったか。世の中では社会主義思想がまだ元気だった頃で、貧民を救うことに懸命な赤ひげの姿に、そうした時代の気分を読み込んだりもしていたのだろう。所帯も持たず、名利を追わず、大名家や豪商相手の往診では高額の治療代を請求し、その金で貧民に薬を分け与え、貧民街に自ら出向いては有無を言わさず診療を施し、政治の過ちを糾弾し、世の不正をのろい、何よりも病に対する医学の無力を痛感しながら、たとえ大海の一滴であろうとも己の使命に忠実たらんとする赤ひげの姿に何ともいえない爽やかさを感じていたあの頃が、今となっては懐かしい限りである。

 小石川養生所での医員見習は、将来のための修行をさせようと登の父親がひそかに手を回してのことだったのだが、赤ひげの生き方に魅せられた登は、すでに決まっていた幕府の目見医への推薦を断って養生所に残ることを心に決める。

 「はっきり申上げますが、私は力ずくでもここにいます。先生の腕力の強いことは拝見しましたが、私だってそう  やすやすと負けはしません、お望みなら力ずくで私を放り出して下さい」 
 「おまえはばかなやつだ」 
 「先生のおかげです」 
 「ばかなやつだ」と去定は立ちあがった。「若気でそんなことを云っているが、いまに後悔するぞ」 
 「お許しが出たのですね」 
 「きっといまに後悔するぞ」 
 「ためしてみましょう」 登は頭をさげて云った、「有難うございました」  
 去定はゆっくりと出ていった。

 赤ひげの時代はおろか、この小説が書かれた時代からも世の中は大きく変わり、今や我国では福祉・厚生関連が国家財政の最大の歳出項目である。しかし、財政再建の目途が立たないまま、高福祉高税率か、或いは低福祉低税率なのか、本来ならば決断すべき二者択一が政治の怠慢でなされていない。国民に耳障りの悪い問題は常に先送りである。赤ひげ先生が今の世にいたら、何と言って我々を叱咤するのだろう。

 緑の道をなおも歩くと、植物園の出口は近い。そこに、メタセコイアの高い木が並んでいる一角がある。すっかり葉を落とした今、針のような枝ばかりとなったメタセコイアは凛として、雲が頻りに流れる冬の青空を突いている。冬だからこそ背筋を伸ばして空を見つめる、その姿は我々に何かを教えてくれているようである。
植物園5.jpg
 冬だからこそ、散歩はいいものだ。

コメント(0)  トラックバック(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。