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この国の成り立ち [歴史]

 建国記念の日の今日、東京は雨交じりの寒い一日であった。

 前線が本州南岸に停滞しており、鹿児島では春一番が吹いたそうだが、前線の北側は寒気に覆われて関東北部は雪である。『チーム森田の 天気を斬る』によれば、南北わずか300kmの幅で、北と南では15度の気温差があるのだそうだ。そういう寒気と暖気のぶつかり合いが、春の兆しでもあるのだろう。

 昼前に家内と渋谷まで買い物に出たが、寒い一日だったので、祝日ながら人出は少なかった。バレンタインが近いので、その関係の売り場だけ若い人達が集まっていたぐらいだろうか。

 それにしても、「建国記念の日」であるのに、それは全く話題になっていない。今朝の日経・朝日両紙にもこの祝日に関する記事は皆無である。テレビに至っては論外で、相も変わらずお笑い番組の名前ばかりが新聞のテレビ欄に並んでいる。街を走る都バスが日の丸を掲げているので、辛うじて祝日だとわかる、そんな程度だ。

 言うまでもなく、2月11日は昔の「紀元節」である。日本の初代天皇と伝えられる神武天皇の即位日を祀る祭日で、明治5年に制定されたものだ。『日本書紀』の『神武紀』の中に、神武天皇の即位日が「辛酉年春正月、庚辰朔」と書かれていることを手掛かりに、暦学者によって紀元前660年の2月11日が割り出されたという。

 明治22年の大日本帝国憲法はこの2月11日を以って発布されたので、この日は旧憲法下における「憲法記念日」でもあった。以後、この日には国民が天皇皇后両陛下のご真影に向かって最敬礼や万歳をしたり、小学校では生徒を集めて校長先生が教育勅語を読み上げたり、各地の神社ではお祭りがあったりと、一年の中でも枢要な祭日であったようだ。
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 終戦後の昭和23年に、新憲法下での祝日の法案からGHQの意向によって紀元節が削除されたが、講和条約の発効で日本が独立を回復すると、「建国記念日」の制定を求める政治運動が始まり、紆余曲折を経て昭和42年から2月11日が国民の祝日となった。私も小学生時代の途中からこの日が休みになったことを覚えている。

 因みに、「建国記念の日」と敢えて助詞を一つ加えたのは、これだと特定の日を記念日として祝うのでは必ずしもなく、建国されたという事柄そのものを祝う日とも読めることから、「皇国史観」に基づいた紀元節の復活ではないとして、反対勢力との妥協が図れるギリギリのところだったという。

 神武天皇と、そこから数えて十代目の崇神(すじん)天皇は、日本書紀における名称が共に「ハツクニシラススメラミコト」である。西国から大和入りを目指すも敵対勢力に阻まれ、あらためて紀伊半島から攻めて大和入りを果たしたという「東征伝説」がこの二人に共通していることと併せて、崇神天皇が実在した可能性のある最古の天皇で、神武天皇は建国神話の中で皇統系譜を更に古いものにするために崇神天皇をコピーしたものではないか、との説があるようだ。だから、第二代の綏靖(すいぜい)天皇から第九代の開化天皇までは、実在しないとして「欠史八代」という呼び方がある。

 日本独自の記録がない時代であることに加え、卑弥呼が死んで壱与が邪馬台国を受け継いだ3世紀後半から約150年は、中国の史書にも日本に関する記述がない。だから建国の日を特定しようにも雲を摑むような話なのだが、しかしそれでも、明治維新を迎えて近代国家の仲間入りを目指し、建国の日を定めようとした時に、当然のように記紀の世界にまで遡ったところが、やはり日本である。鎌倉幕府の開設日でもなく、江戸幕府のそれでもなく、維新の江戸開城の日でもない。明治の初年において、日本という「国」は記紀の時代から脈々と続いてきたと考えられていたのだ。

 中国の建国記念日に相当する10月1日の国慶節は、1949年に毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言した日である。一方、台湾の双十国慶節(10月10日)は、1911年の辛亥革命の発火点となった武昌蜂起の日だ。米国の独立記念日(1776年7月4日)、フランスの革命記念日(1789年7月14日)は言うまでもないが、ドイツ(10月3日)は1990年の東西ドイツ再統一の日、ロシア(6月12日)は1991年に旧ソビエト連邦からの独立を宣言した日・・・というように、つい20年ほど前に以前の建国記念日を捨てて新たな建国記念日を制定した国々もある。つまり、国家というのはいくらでも新しく造り替えられるものだということだろう。

 それとは対照的に、実際の血統の連続性はともかくとして、万世一系の天皇家を権威の中心に仰ぎつつ、世俗の権力は交代しても日本という「国」の歴史は連綿として続いてきた。二十一世紀の今もなお、「建国の日は?」と問われて史書にもない茫漠たる古代にまで遡ろうとする国は、世界に二つとない稀有な存在と言うべきだろう。

 昭和41年に「建国記念の日」を制定するにあたり、紀元節の単なる復活と見なされないために、政府が国民の中から成人1万人に対して対面調査を行い、どの日が「建国記念の日」に相応しいと思うかについて意見を集めたそうである。それによれば、2月11日を選んだ人が半数近くを占めて断然トップであり、5月3日(新憲法の施行日:昭和22年)や4月28日(サンフランシスコ講和条約の発効日:昭和27年)は少数であったという。日本人にとっては、戦後の大変革ですら日本の「再出発」であり、連綿と続いてきたこの国の歴史の新たな一ページという受け止め方であったのだろう。

 だとすれば、この国のこうした伝統を現代の私達はもっと大切にすべきではないか。建国記念日としては何とも摑みどころのない面はあるが、史実と神話をはっきりと区別した上で、天皇家のルーツを遡ると神話の世界に繋がる特異な文化を我国が持ち続けてきたことに、現代の私達はもっと理解を深めるべきではないだろうか。21世紀の日本は少子高齢化で人口が減り、いずれは移民の受け入れも真剣に考えていかねばならないのだろうが、そうであればこそ、この国の成り立ちについて、私達はその歴史と文化をよく理解しておく必要があるだろう。

 それにしては、「建国記念の日」をメディアが何も語らず、人々の話題にも上らず、若者は日本の神話を知らず、ただ漫然とした休日が過ぎていく・・・、2月11日がそんな状態に放置されたままになっているのは、おかしなことだ。

 崇神天皇は、奈良・三輪山の北方、磯城端籬宮(しきのみずかきのみや)に王権を構えたという。その治世に疫病が蔓延し、人々が死滅するのではないかと崇神天皇が憂いていたところ、夢枕に大物主神(おおものぬしのかみ)が現れて、「三輪山に自分を祀れば国も鎮まる」と告げたことを受け、大田田根子(おおたたねこ)に命じてその通りにしたと、古事記に記されている。それが日本最古の神社と伝えられる大神(おおみわ)神社である。祭神は大物主神だが、ご神体は何と三輪山そのものなのだ。
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 その崇神天皇に東征伝説があるとすれば、どこから大和へやって来たのであろうか。邪馬台国とはどんな関係にあったのだろうか。そして崇神のルーツは、やはり半島や大陸であったのだろうか。

 国民がそんなことに思いを馳せる日が、年に一日ぐらいあってもいいのではないか。

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コメント 2

H氏

難しい問題はあるのかもしれませんが、個人的には宮内庁により管理されている古墳を学術的分野に開放して欲しいと思いますね。結果的に天皇家のルーツが韓国半島にあったとしてもなんら問題無いよう思います。
神武天皇のお父さん「ウガヤフキアエズ(鵜草葺不合命)」は韓国の「ウガヤ」には戻れない命とよめるようです。
その御子神武が新羅から来たスサノオ王朝(出雲)を倒していくのでしょうが、そういうことも古墳を開けていけば少しは真実に近づけるように思います。大物主は出雲系なので後から来た九州系が祟りを恐れて祭ったという説もあるようです。
by H氏 (2010-02-14 16:20) 

RK

「陵墓比定地」になっている古墳の学術的調査は、行われていいのだろうと私も思います。

色々な新事実が出てきたら、それはそれでいいのではないでしょうか。ルーツが繋がっているなら、今の日韓でいがみ合ってもしょうがないことにもなる訳で。
by RK (2010-02-15 00:28) 

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