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水戸学の跡 [歴史]


 5月21日の金曜日は、二十四節季の「小満」であった。「万物が充満し、草木枝葉が繁る季節」という意味なのだそうだが、確かに街中で見かける緑には勢いがある。おまけにこの日は朝から快晴で、関東各地は今年初めての真夏日になった。今日の土曜日も、その暑さが幾分か残っている。

 散歩に出かけた昼間、久しぶりに小石川後楽園へ足を運んだ。御三家の一つ、水戸徳川家の江戸上屋敷の跡地で、庭園部分だけが今は都立の公園として残されている。東京ドームの西隣という都会の真ん中にありながら、驚くほど緑の深いスポットである。
小石川後楽園.jpg

 幕府の開設により俄かに政治の中心地となった江戸は、その中心部に大きな河川がなく、当初は水の供給に苦労したようだ。そのために開設された神田上水は、現在の江戸川橋付近から水路を作って神田川の水を引き、この水戸藩上屋敷の敷地内を通って江戸の街中へ水を流していた。小石川後楽園の園内では、その神田上水の跡を見ることができるが、地形的にそうせざるを得なかったのかどうかはともかく、敷地内に上水を通させたのは、やはり御三家への信頼に基づくものなのだろうか。(因みに、水戸藩上屋敷を通り過ぎた神田上水は、それから江戸城の外堀を懸樋(かけひ)で越えて江戸城内や市内へと流れていた。それが、今も残る「水道橋」という地名の由来である。)
神田上水跡.jpg

 水戸徳川家は家康の第十一子、頼房が始祖である。参勤交代の義務はなく、常に将軍を補佐する立場にあった。但し、領地の石高は28万石(後に公称35万石)と小ぶりである。二代目の(黄門様として有名な)光圀(1628~1700)が始めた『大日本史』の編纂事業に藩費の三分の一を投入したため、水戸藩の年貢は後に八公二民にもなったそうだ。(天領の年貢が概ね五公五民だったことから見ても、これは驚くべき重税である。)

 光圀が16歳の時、中国では漢民族の王朝・明が女真族の清によって滅ぼされた。光圀はその明の遺臣・朱舜水を自らの師として招き、朱子学を学ぶ。それは12世紀に出た朱子(朱熹)によって一つの学問体系に仕立てられた儒教で、新儒教とも言われる、学問というよりは一つのイデオロギーであった。

 「理非を超えた宗教的な性格がつよく、いわば大義名分教というべきもので、また王統が正統か非正統かをやかましく言い、さらには異民族をのろった。 
 漢民族は本来、経験的で実際的な民族なのである。 
 しかし、宋学はおよそ中国的ではないといいたくなるほどに理屈において苛烈であった。 
 ひょっとすると、成立当時、福建省や広東省、あるいは洛陽あたりにまでひろがっていたイスラム教の影響があったのではないかと思えるほどである。」
(『この国のかたち 三』 司馬遼太郎 著、文芸春秋 より)

 朱子の時代の中国は、漢民族の王朝・宋が北方の異民族の侵入を受け、勢力を南へ南へと狭めていた時期である。そういう現実がありながら、(というよりも、そういう現実があったがゆえに) 朱子学は観念論的になり、いわゆる中華思想的な世界観を理論武装するようになっていく。宋は結局滅び、モンゴルの後に漢民族王朝を一度復活させた明も、再び夷狄によって滅ぼされた。その明からの亡命者である朱舜水から光圀が学んだ朱子学は、その分だけ純度を上げた蒸留酒のようなものであったのかもしれない。
DSCN2809.JPG

 朱舜水の影響を受けた、「水戸学」と呼ばれる水戸藩の朱子学理論は、
「江戸の将軍は親戚頭として尊重するが、真の主君は天皇である」
という思想を持っており、幕府と朝廷の関係がうまく行っている間はよいが、両者が対立関係にあった場合には、御三家という自らの立場との間で矛盾を抱えることになる。『大日本史』の編纂事業によって水戸藩はこの「尊皇攘夷」思想の総本山的な存在となり、各地の「尊攘の志士」が水戸詣でに走ったが、幕末期にはそれが日本を大きく揺さぶり、水戸藩自身も深刻な内部抗争を始めることになる。

 その危機を深めたのは九代目藩主の斉昭だった。異国船の姿が見えるようになると強硬な攘夷論を展開し、下級藩士ながら過激な尊攘派を上位に取り立てた。そのために家格の高い保守的な藩士達は冷や飯を食わされたが、斉昭の死後に勢力を盛り返し、藩内では「俗論派」と呼ばれた。

 この俗論派と対立を繰り返した尊攘派も、中では「激派」と「鎮派」に分かれていた。両派はいずれも彰考館総裁・藤田幽谷(1774~1826)の弟子を出発点としながら、幽谷の次男・東湖(1806~55)、そして東湖の四男・小四郎(1842~65)の系統が過激な尊攘論を唱え、「攘夷は内外の情勢を冷静に見極めた上で慎重に行うべきものであり、今は開国もやむなし」とする会沢正志斎らと激しく対立する。

 こうした内部抗争や、井伊大老暗殺事件をはじめとする数々の事件に加わったことで、水戸藩は有為な人材を失っていく。そして、「蛤御門の変」で長州と尊攘派の公家が京都を追われた翌年の1864年3月、藤田小四郎を中心とする水戸尊攘派の天狗党が、全国の攘夷論者に攘夷決行を促すために筑波山に挙兵。約9ヶ月の間、幕府の追討軍と闘いながら関東・中部の山の中を京都へ向けて転々とするが、頼みの一橋慶喜(当時は将軍・家茂の後見職)に見捨てられ、12月に加賀藩に投降。352名が斬首された。
DSCN2808.JPG

 尊王攘夷運動の先陣を切った水戸藩であったが、こうした内部抗争や激発事件の結果、幕末維新が山場を迎える頃には人材が枯れ果てていたというのは、歴史の皮肉である。もっともそれを言えば、徳川宗家の第十五代将軍によりによって水戸家出身の慶喜が就任したことは、最大の皮肉であろう。「江戸の将軍は親戚頭として尊重するが、真の主君は天皇である」とする水戸学で育った男であるがゆえに、薩長側に錦の御旗が翻っただけで戦意を喪失してしまったのだから。

 中国や朝鮮の歴史と比べれば、日本が儒教から受けた影響は相対的に少なかったとは言える。江戸幕府の統治のイデオロギーとしては利用されたが、科挙や宦官などの制度は導入されなかった。しかし、幕末期に激越な尊皇攘夷論が沸騰したように、現実離れした空理空論を振りかざすところは朱子学の影響とされる。彼我の大きな戦力差にもかかわらず日米開戦に及んだことも。そして、私の経験からしても、いまだに大企業などでは、例えば組織防衛のための呆気に取られるような空理空論が罷り通ることがある。そして、昨今の「事業仕分け」などを見ていると、事業者側が説明する空々しい「大義名分」のいかに多いことか。そういう「朱子学」は、もう終わりにしたいものである。

 小石川後楽園の奥には梅園があり、その一角に藤田東湖の墓がある。元々斉昭のブレーンとして登用されていた東湖は、ペリーの黒船がやって来ると、江戸詰めの側用人として活躍する。その熱烈な尊皇攘夷論は全国に知られ、横井小楠や橋本左内、更には西郷隆盛とも交遊があったが、安政2年(1855年)の大地震の際、この上屋敷で倒壊した建物の下敷きになり、命を落とした。

 「明日は雨」という天気予報の通り、朝方の青空はいつの間にか姿を消して、早くも雲が広がっている。静かな庭園の中を更に歩いていくと、内庭では池の蓮が清らかな花を見せていた。
lotus flower.jpg
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