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マイノリティーの矜持 [スポーツ]

 サッカーのワールドカップ大会が終わり、それと入れ替わるように参院選の結果が出て、今週は世の中が再び現実に戻った。毎朝のテレビも、民主党の敗北によって昨年までとは逆周りになった「衆参ねじれ」のニュースが、連日トップを占めている。政治の世界も、一瞬にして攻守が入れ替わるサッカーの試合のようだが、こういう姿を選んだのも、それはそれで民意なのだろう。

 当選者の万歳や、西日本で続く大雨を写し出した画面に続いてスポーツニュースになり、何だか久しぶりにプロ野球の映像を見たなと思っていたら、「おや?」というシーンがあった。埼玉西武ライオンズの試合なのだが、選手たちが着ているものがいつもとは違う。赤と白のユニフォームに青のアンダーシャツ。白い帽子に赤い鍔。胸の”Lions”の文字や背番号も赤である。台湾代表チームを連想してしまうような色使いだが、どこかで遠い記憶が私を呼んでいるような気分にもなる。これは一体何だろう。そう思って選手たちの帽子のマークをよく見てみたら、合点がいった。

 これは、かつて4年間だけ存在した太平洋クラブライオンズのユニフォームの復刻版なのだ。
Taiheiyo Club Lions.jpg

 昭和48年という年は、パ・リーグにとってエポック・メーキングな一年だった。シーズン開始前に東映フライヤーズが身売りになり、日拓ホームという聞き慣れない名前の会社の持ち物になった。それに先立ち、前年の11月には九州の西鉄がライオンズの経営を放棄していた。昭和24年の暮に誕生した西鉄クリッパーズを起源とし、名将・三原脩の下で昭和31年から33年まで日本シリーズ三連覇に輝いた名門チームも、昭和38年を最後にリーグ優勝から遠ざかり、44年に発覚した八百長事件で主力選手が退団や出場停止となったために、翌年から3年連続最下位に低迷。親会社の西鉄に球団を持ち続ける体力は残っていなかった。

 そのライオンズをロッテ・オリオンズのオーナーが買収し、太平洋クラブというゴルフ場開発会社がそれを資金面で支えることで誕生したのが、太平洋クラブライオンズである。先日テレビ映像になったユニフォームはその時の復刻版で、ホームゲーム用のものだったのである。赤・白・青というのは当時としては派手な色使いだが、ビジター用のユニフォームはもっと強烈で、上半身が真っ赤なものだった。プロ野球がカラー・ユニフォームの時代に突入する嚆矢となった「赤いライオンズ」には、とにかく世間の注目を集め、減少の一途だった観客を呼び戻したいとの思いがあったのだろう。実際にこの年は「赤いライオンズ」が開幕5連勝を飾り、シーズンを通して「台風の目」になったことは確かだ。私が高校2年生の年である。

 人気挽回策といえば、この昭和48年からパ・リーグが採用した「二シーズン制」も、その一環だった。昭和42年から47年まで、パ・リーグは6シーズンの内の5回が阪急ブレーブスのリーグ優勝で、いささか飽きられていたのである。ならば、一年を前期と後期に分け、それぞれの勝者がプレーオフで対戦してリーグ優勝を決める形にすれば、阪急以外のチームにも優勝の可能性が出てくるのではないか。事実、この年の前期は南海ホークスが優勝し、後期優勝の阪急とのプレーオフを3勝2敗で征して日本シリーズに進んでいる。(このニシーズン制は昭和57年まで続いた。) 更に50年から、パ・リーグは指名打者(DH)制を導入している。これも、派手な打撃戦で試合の見どころを増やそうという人気挽回策の一つである。

 巨人が勝てば勝つほど人気が高まるセ・リーグとは対照的に、南海も西鉄も阪急も勝てば勝つほど飽きられる。考えてみるとパ・リーグとは不思議な宿命を背負うプロ球団の集まりだった。

 「そもそも、パシフィックとセントラルというふたつのリーグが分立する事態が生じた背景には、敗戦直後のメディア戦争があった。多くの民間企業が球団経営に魅力を感じていたが、集客のためにはどうしても人気カードが必要であり、またファンの関心を惹くためにはメディアの利用が不可欠だった。しかし、読売からみれば、他のメディアの参入は歓迎できない。
 そういった状況のなかで、読売の独占を脱却し、複数のメディアが対抗する図式へと移行させようとする力が生まれる。 (中略)
 あえて単純化すれば、毎日をメディア戦略の核に想定した私鉄リーグと、読売の力に依存するリーグとに整理されていったといえよう。 (中略)
 パシフィック・リーグは1950(昭和25)年に結成された。それは、毎日オリオンズという新球団を加え、毎日系メディアを広告塔として活用しつつ、参加球団全体の繁栄をめざす企業連合という側面をもっていた。」
 (『南海ホークスがあったころ』 永井良和・橋爪紳也 著、紀伊國屋書店)
 
 毎日新聞は、明治時代に大阪毎日新聞と東京日日新聞が合併して全国紙となった会社である。系列のラジオ・テレビ局を通じて大阪で南海や阪急の試合を放送しつつ、東京にも毎日オリオンズというチームを持つことでリーグの人気を高めていけば、それが新聞の拡販にも繋がるとの狙いがあったのだろう。だが、昭和29年に初の日本一を成し遂げた南海ホークスとの間で放送権料の交渉が難航する。そして、大阪人からすれば、毎日新聞は大阪発祥の会社だとしても、オリオンズはやはり東京のチームである。

 「やがて、毎日は球団経営から思ったほどの実りがもたらされないことを痛感する。さらに、合併した大映の社長だった永田オーナーと、毎日経営陣との関係が悪化してしまう。1960(昭和35)年、オリオンズが優勝したその年の11月に開かれた重役会で、毎日側の役員がすべて退陣、球団経営から撤退するにいたった。」

 プロ野球が客寄せ興行である以上、メディアの活用は欠かせない。だが、昭和39年の東京オリンピックの開催によってテレビが圧倒的な存在になる、その前にパ・リーグは毎日というメディアを失ってしまったのである。その結果、セ・リーグに比べてテレビへの露出度が圧倒的に低いパ・リーグの試合は閑古鳥の巣になった。電鉄4社と映画2社というオールド・エコノミーによって運営される地味なリーグ、それがパシフィックの姿であった。先に述べた太平洋クラブや日拓ホームの登場は、その電鉄会社や映画会社さえもが球団経営をギブアップせざるを得なくなった頃の出来事なのである。
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 長らく日蔭の存在だったパ・リーグ。だが、近年の変わりぶりはどうだろう。DH制で鍛えられたせいか、先発完投型の好投手が今のパ・リーグには揃い、野球版ワールドカップのWBC大会で活躍するのもパの選手が多い。2005年から始まったセ・パ交流戦の優勝チームは全てパのチームで、今年などは上位6チームが全てパである。そして、6球団の戦力が相対的に均衡しているパに対し、セントラルは3強と3弱の差があまりにも大きく、同一リーグとしての体をなしていないかのようだ。

 更に興味深いのは、これまでプロ野球人気を盛り上げてきた既存のメディアが、ネット社会の到来と共に大きな曲がり角にさしかかっていることである。セ・リーグ6球団の内、新聞やテレビ局が親会社であるか、或いはそれと密接な関係にある球団が4つもある。だが、新聞もテレビ局も赤字の時代。それも先行きはかなり深刻である。対してパ・リーグでは新興メディアとしてのIT企業二社が球団を保有している。更に、テレビ番組は地上波だけのものではなくなり、衛星放送やCATVの普及で、パ・リーグの試合も映像として好きなだけ見られる時代になった。

 昭和38年の夏。小学校一年生の時に、父に連れられて難波の大阪球場で観た南海・阪急のナイトゲーム。子供の頃に刷り込まれた体験というのは侮れないもので、東京生まれ・(基本的に)東京育ちの私はその時以来の、(チームの本拠地が大阪から福岡に移った今もなお)ホークスのファンである。そして、オールスター戦や日本シリーズ以外にはパ・リーグの映像を見る機会が殆どなかった時代に、パ・リーグを愛し続けてきたへそ曲がりである。

 栄枯盛衰。瞬時にして攻守ところを変えるサッカーの試合のように、世の中は変わるものである。そのサッカーに比べて野球はどうも劣勢だが、これからもマイノリティーとしての矜持を失うことなく、パ・リーグを見つめ続けていきたい。

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