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秋祭り [宗教]

 日没が早くなった。

 猛暑の名残りが続いているが、さすがに真夏の頃とは違って、午後を回ると太陽の光にどこか赤みが加わっていく。いつまでも30度を超える気温との間にはミスマッチ感があるが、一年の日時計は確実に歩みを進めているようだ。今日もよく晴れていたが、午後六時には暗くなった。考えてみれば、あと十日ほどで秋のお彼岸である。

 「夜中に英プレミア・リーグの中継があるから、11時までには家に帰るよ。」と言って、息子は今日も朝から法科大学院へ出かけていった。娘は大学のゼミ合宿で日曜日まで帰ってこない。子供達がそんな風だから、週末に家内と二人だけで過ごす時間も最近では珍しくなくなっている。

 今日も昼前に二人で池袋へ出て、そこからはそれぞれの時間の過ごし方をしていたのだが、4時頃までには家に戻り、簡単なツマミを作って、朝から冷やしておいたロゼワインを二人で楽しんでいた。今日も暑い一日だったが、気がつけば、もう日が暮れている。

 「せっかくだから、お祭りに行ってみようか。」
 「そうだね。ここんとこ何年も行ってないからなぁ。」

 今日と明日は、近所にある簸川(ひかわ)神社の祭礼である。普段はひっそりとした小さな神社なのだが、秋祭りだけは賑やかで、人がよく集まっている。中学生の頃までこの神社のすぐ近くに住んでいた家内にとっては、子供の頃からの氏神様のようなものだ。ほろ酔い加減で私たちは出かけることにした。

 すっかり暗くなり、土曜の夜で車も少ない千川通りをのんびりと歩いていくと、先の方の小さな四つ角の右側だけが賑々しい光で明るい。その路地には早くも屋台が出ていて、周囲からは子供の手を引いた人々が吸い込まれるように集まってくる。浴衣姿の子供たちも多い。小石川植物園の北西側に隣接した、狭い坂道の左側がこの神社の境内で、昼の蒸し暑さが残っているところへ、それぞれの屋台が火を使い、そこへ人々がひしめき合っているものだから、歩いている私たちは早くも背中に汗が流れ始めていた。

 アンズ飴や焼きそば、ベビーカステラなどの屋台を通り過ぎて鳥居のある階段を登ると、僅かばかりの境内がある。そこにも屋台が敷地を取り囲むようにして出ていて、中央では鬼太鼓のパフォーマンスが行われているところだった。この暑さの中、文字通り汗のほとばしる演奏である。
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 お祭りに集まる人々の大半は屋台がお目当てなのかもしれないが、本殿の前で参詣に並ぶ列も出来ていた。せっかく来たのだから、神様にご挨拶だけはしておこうと、私たちも列に従う。どこからともなく蚊取り線香の煙が漂う中、列はゆっくりと進んで、私たちも最前列に出た。

 二礼二拍手一礼。十円玉一枚でそんなにたくさんお願い事をしてもいいのかな?と思うほど、家内は長い間手を合わせている。子供達が大人としての進路を決めるのはこれからだから、親としては心配事が尽きないものだ。大それたお願いごとをするつもりはないが、高い所から私たちの行動をいつも見つめている神様に対して恥ずかしくないよう、真面目に生きていくことを誓いつつ、一家のささやかな幸せを願う。それはここに並ぶ人々にも、そして毎年の祭礼を続けてきた我々の祖先たちにも共通する思いであるのだろう。
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 よく考えてみると不思議なことだが、私たちが神社でこうして神様に手を合わせる時、祭壇の向こうにおわすのは一体何という神様なのか、それを問うことはあまりしないものだ。この簸川神社に祀られているのも、素盞鳴命(スサノオノミコト)、大己貴命(オオナムヂノミコト)、稲田姫命(イナダヒメノミコト)の3神なのだそうだが、それが意識されることは殆どないだろう。因みに稲田姫命は素盞鳴命の妻、大己貴命はその子孫で、大国主神(オオクニヌシノカミ)の別名である。

 この神社は孝昭天皇3年(473年)の創建とされる。孝昭帝は実在の天皇とは考えられていないのでその年代は割り引いて考えるとしても、意外と歴史の古い神社のようである。元々は現在の小石川植物園の中の水源地に置かれていたが、江戸時代になって現在の場所に移され、「氷川大明神」と呼ばれたが、明治期に「氷川神社」に名前を変え、更に大正時代に現在の「簸川神社」に表記を変えた、とある。いずれにしても、小石川村の鎮守の神様であったようだ。

 東京に暮らしていると、「氷川神社」という名前はよく目にする。この名前の神社は全国で261社もあり、中でも埼玉県に162社、東京都に68社があるという。これだけで既に88%である。(残りは福井県12社、福島県5社など) 関東の、それも荒川流域に集中して分布しているそうだ。「氷川町」、「氷川台」などという地名もあちこちに残っている。

 それらの「氷川神社」の本社は埼玉県の大宮駅からほど遠からぬ所に今も大きな境内を持つ氷川神社で、昔から武蔵国一ノ宮と呼ばれ、維新の後は官幣大社の社格が与えられた枢要な神社である。各地の氷川神社はここから御霊(みたま)を分けたもので、祭神はどこの氷川神社も先に挙げた3神である。
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 氷川神社は、武蔵氏という氏族が国造(くにのみやつこ)として関東に移り住んだ時に、一族の信仰を持ち込んだのがその始まりだそうだ。その武蔵氏は物部氏や大伴氏と同じ出雲系の出身で、「氷川」の名前は出雲国にある、かつて簸川と呼ばれた河川がその由来であるという。それは、中国山地を水源として宍道湖へと流れ込む現在の斐伊川である。

 ご祭神の素盞鳴命(スサノオノミコト)は天照大神(アマテラスオオミカミ)の弟で、悪行により高天原から出雲国へと追放された神様である。ヤマタノオロチを退治した伝説が残るが、そのオロチは氾濫を繰り返した斐伊川をイメージしたものであるという。斐伊川と同じように耕作には大切な河川であるが、やはり暴れ川でもあった関東の荒川を、武蔵氏が畏敬の念を持って祀ったのが氷川信仰の始まりである、と聞くと、それはそれで説得力がありそうである。

 素盞鳴命は高天原では散々悪行を働いたが、出雲に追放されてからはヤマタノオロチを退治し、草薙剱を得て天照大神に献じ、地元の娘(イナダヒメ)を娶るという、善悪を併せ持つ神様である。その猛々しいエピソードの数々から厄除けの神様として祀られてきた。それは、畿内に比べれば後発地域で気候風土も荒々しい関東には相応しい神様だったのかもしれない。いずれにしても、大和朝廷の時代の草深い関東が出雲とつながっていたあたり、古代史のダイナミズムを感じる話である。
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 「スサノオって、縁結びの神様じゃなかったっけ?」
 
 その昔、修学旅行で出雲大社を訪れたことがあるという家内は、そう記憶している。イナダヒメと結ばれたことから、確かにそういう神様としても崇められたようだ。高天原で悪行を繰り返し、下界ではヤマタノオロチと戦ったスサノオの姿が荒魂(あらみたま)だとすれば、イナダヒメとのロマンスはさしずめ和魂(にぎみたま)なのだろう。そういう両面を持っているのが、日本の神々なのである。それもまた、いい。

 夜店に集う境内の賑わいはまだ続いている。

 この簸川神社に限らず、二人でお祭りに出かけたのもずいぶんと久しぶりのことだ。もしかしたら新婚時代以来かもしれない。後はいつも子供達の手を引いていたから。

 昔ながらの的当てや金魚すくい、風船釣りなどの屋台を眺めながら、蒸し暑さが残る中にも、近づきつつある秋を思った。

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