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武蔵国の酉の市 [宗教]

 新宿から京王線の準特急でちょうど20分。府中の駅で電車を降りると、駅ビルの西側を南北に走るケヤキの並木が天を突いている。

 道路の両側に並び立つその木々はいずれも目を見張るほど幹の太い古木で、その素朴な味わいがいかにも武蔵野の参道である。今でこそ立派な駅ビルが建ち、京王線の線路は高架でこの並木を越えているが、1925(大正14)年にその前身である玉南電気鉄道が東八王子までの路線を開通させた頃には、小さな車体でせいぜい二両連結ほどの電車が、この並木道をおそるおそる渡るようにして走っていたにちがいない。

 古(いにしえ)の武蔵野の趣を今に伝えるようなその並木道を南へ数分歩き、旧甲州街道を横切ると、その先は緑深い神社の境内である。その名も大國魂(おおくにたま)神社。第十二代・景行天皇41年の創建というから、額面通りなら2世紀初め以来の歴史を持つ神社で、645年の大化の改新により武蔵国の国府がこの地に置かれたという。以後、「武蔵総社」として国司の祭事を取り仕切る神社となった。言わば、府中という町の歴史を象徴するような社である。
 先ほどのケヤキ並木は、「前九年の役」を平定した源頼家・義家父子が1062(康平5)年にケヤキの苗木千本を寄進したことに起源を持つという。なるほど、参道の成りが立派なわけだ。
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 11月最初の日曜日。今日はこの神社に酉の市が立つ日である。酉の市といえば、東京では浅草の大鷲(おおとり)神社や新宿の花園神社が有名だが、府中のそれはまだ見たことがなかったので、家内と二人で散歩がてら出かけてみようかということになった。
 時刻はちょうど正午になる頃。朝方は曇っていたが、今は半分ぐらい青空ものぞき、穏やかな良い日和になった。
 「ちょっと厚着をし過ぎたかしら。」
府中まで出かけると聞いて少し着込んできた寒がりの家内も、何だか拍子抜けのようである。

 その大國魂神社の境内には縁日の屋台が並び、酉の市に七五三のお参りも加わって大変な賑わいだ。酉の市の縁起物である熊手の売買が成立すると行われる、威勢のよい「三本締め」も奥の方から聞こえてくる。
 春を待つことのはじめや酉の市 (宝井其角)
江戸の町では冬の初めの風物詩とされた行事だが、今年はずいぶんと暖かい酉の日になった。
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 11月の酉の日は、日本武尊(やまとたけるのみこと)の命日なのだそうである。神話の中に出て来る「東征」で関東各地を転戦した彼は、現在の埼玉県久喜市にある鷲宮神社をはじめとする鷲(おおとり)神社と縁があったことから、この日に大酉祭が行われたのが酉の市の起源であるという。元々は農産物や農具が市に並ぶ農村のお祭りだったのが、江戸の町の発展と共に都市型の祭りになり、縁起物の熊手が売られるようになったようだ。いずれにしても関東の風習である。

 大國魂神社で酉の市が行われるのは、ここに鷲神社を勧請してきたからだ。南北に細長いここの境内には、中央の拝殿の右奥に小さな鳥居があり、そこが鷲神社になっている。だから、大國魂神社自体にお参りする人々と、酉の市の「熊手守り」を買い求める人々は、それぞれ別の列に並ぶことになる。
 例えば九州の宇佐八幡から京都の南の石清水八幡宮へ、そして更に鎌倉の鶴岡八幡宮へと八幡神が迎えられたように、「神仏の『分霊』(!?)を請(しょう)じ迎えること」を意味する勧請というのは、考えてみれば不思議なことだ。これによって神社の中に別の神社が同居したり、仏教のお寺の一角に神社が同居したりするのである。事実、この大國魂神社には鷲神社の他にも鳥居があって、酒造りの神様や水の神様も祀られている。八百万の神が寿ぐこの国は、そういうところが実に大らかだ。
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 では、大國魂神社そのものは何という神様を祀っているかというと、それは大国玉神(おおくにたま)である。古事記にはなく日本書紀だけにある表記で、この神様は他にも色々な名前を持っている。八千矛神(やちほこ、記紀共通)、大穴牟遅神(おおなむじ、書紀では国作大己貴命)、許葦原色許男神(あしはらしこお、書紀では葦原醜男)、宇都志国玉神(うつしくにたま、書紀では顕国玉神)、大物主神(おおものぬし、書紀のみ)。だが、記紀のどちらにも記載があって一番良く知られているこの神様の名前は、大国主神(おおくにぬし)だろう。出雲大社に祀られている、あの神様である。

 大国主神は、天照大神の弟・須佐之男命(すさのお)から数えて六代目にあたる。地上の「葦原中つ国」を統治していた、いわゆる国津神(くにつかみ)の代表的な存在で、天上の高天原にいた天津神(あまつかみ)から要求された「国譲り」を受け入れた神様である。
 大和朝廷によって平定された部族を象徴するものではないかとも言われ、出雲大社で安らかにしておられたはずなのだが、大國魂神社のご由緒に話を戻すと、景行天皇の41年(西暦111年?)の5月5日に大穴牟遅神(おおなむじ)としてこの地に降臨し、それを村人が祀ったという。
 天照大神や須佐之男命から数えて六代目の子孫が神武天皇とされ、景行天皇はその神武から数えて十二代目にあたるのだが、大穴牟遅神すなわち大国主神は前述のように須佐之男命の六代目の子孫だから、景行天皇の治世に大国主神が出現したとすれば、ずいぶんと後の時代になって姿を見せたことになる。
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 更にいえば、景行天皇の息子・日本武尊は、前述のように東征伝説の中で鷲神社と縁があったことになっているが、その鷲神社の「総本山」である久喜市の鷲宮神社に祀られる三体の祭神の一つが、これまた大己貴命すなわち大国主神なのである。(同じ大国主神を祀っているのなら、大國魂神社の一角に鷲神社を呼び、酉の市を開いても「違和感」はないのかもしれないが。)
 それにしても、出雲系の神様が単に大和朝廷によって征服された側を象徴するだけのものであるのなら、大和朝廷側の日本武尊はなぜ、東征の戦勝を祈願し且つその勝利を祝うのに、出雲系の神様を祭る神社に参拝したのだろう。

 それを言えば、景行天皇41年に大國魂神社が府中に開かれた後、天穂日命(あめのほひのみこと)という出雲国造の祖神になった神様の末裔が武蔵国造に任命され、代々にわたって社の祭務を担当してきたというのも、考えてみれば不思議なことだ。(天穂日命は天照大神の第二子で、「国譲り」の交渉のために高天原から派遣されたのに、大国主神の家来になってしまった神様である。)日本武尊が苦労して平定した関東・武蔵国の国造に、かつて征服された側の出雲系の末裔がなぜ任命されたのだろう。

 もっとも、全国の神社の8割は、出雲系の神様を祭る神社であるという。遥かな古代にこの国が統一されていった過程は、単に征服と被征服という二元論では捉えきれないものがあるのだろうか。確かにそれ以降の我国の歴史は、敵対する相手を徹底的に殲滅してしまうことの少ない歴史である。
 「うーん、何だかよくわからない話ね。」
 また日本の神様の話が始まったかという顔をしている家内と、屋台で買った「大阪焼」を二人で半分こした。
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 午後になって益々の賑わいを見せる大國魂神社を後に、そこから歩いて5分ほどのJR府中本町駅へ私たちは向かう。10分に一本の南武線の電車に乗ると、最初の駅が分倍河原。鎌倉幕府が倒れた時の古戦場で、駅前広場に立つ乗馬姿の新田義貞の銅像がホームからも見えている。周辺は広い敷地の工場である。

 そこから二つ目の谷保という駅で降りると、駅前ロータリーから北へ一本道が走っている。JR中央線の国立駅まで続く、約2キロの広い並木道。春は桜の名所としても有名な道で、両側は閑静な住宅地だ。
 穏やかな午後の陽に照らされながらのんびりと歩いていくと、やがて一橋大学のキャンパスが現れる。今日はその大学の文化祭に加えて「くにたち市民まつり」も開かれており、周辺はこれまた大変な賑わいである。並木道は歩行者天国になり、両側には青空市やらテントやらが並んでいる。大学の文化祭と市民まつりは、どこに境目があるのかわからないほどだ。住民の自治意識の高い国立市らしく、見ていても市民の手作り感のあるお祭りである。

 かつて農村の収穫祭のようにして始まった酉の市が、江戸の市内で都市型の祭りに変容していったように、「くにたち市民まつり」もまた、現代の酉の市とでも言うべきものだろうか。

 広いキャンパスの中に法科大学院の建物があり、その中には日曜日の今日も自習に出かけた我家の息子がいるはずだ。近くまで来てるよ、とメールでもしてみようかとも思ったが、こちらは遊んでいる身だし、シャイな奴だから、呼んでみたところでどんな顔をしたらいいのかわからないことだろう。やはり勉強の邪魔はしないでおこうと、家内と決めた。夜中に帰ってきたら、話でもしてやろう。

 国立の駅は、昨夜のJRの集中工事が終わり、上り線の高架のホームの運用が今日から始まっている。踏切のなくなった中央線の快速電車に揺られ、酉の市の熊手守りを手に、家内と私は半日の散歩を終えようとしていた。
 また少し、日本の神様のことを思ってみた半日だった。

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