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豪と徳 [宗教]

 小田急線の新宿駅地下ホームから区間準急の電車に乗ると、代々木上原、下北沢、梅が丘に停車して、そこから先は各駅に停まる。その最初の駅が豪徳寺である。高架のホームを降りて改札を出ると、駅前広場も何もなく、「駅前商店街」の狭い路地が南に向かって細々と続いている。

 クルマも走らないようなその商店街を進んでいくと、やがて右側に東急世田谷線の線路が並走するようになり、二両連結の路面電車がのんびりと走っている。あたりは住宅街で背の高い建物は一つもなく、空が広い。
 ほどなく踏切のある道に出るが、線路を渡らぬように路地を選びながら引続き南へと住宅街の中を歩いていくと、ブロック塀に囲まれた緑の一画が左に現れる。それはかなり広大な土地で、葉の落ちた雑木林に混じって見事な松の木が見えている。背伸びをしてもブロック塀の中が見えないので、これは大きな公園か何かだろうかと思ってしまうが。実はそうではない。その塀に沿って東向きに進路を変えて尚も歩いていくと、やがて左手に立派な山門が現れる。
 大渓山豪徳寺、曹洞宗の名刹である。
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(豪徳寺の山門)

 山門をくぐって境内に足を踏み入れると、そこには「豪徳寺」の名に相応しい、骨太で剛毅な雰囲気が漂っている。正面の仏殿や右側の梵鐘がそれぞれに古風で堂々としていて立派だ。禅寺といっても、京都に残るいささか公家の世界に取り込まれたような諸寺とは雰囲気の異なる、いかにも関東の風である。

 元は臨済の寺であったらしい。応仁の乱がようやく終息を迎えたばかりの1480年、武蔵国では大田道灌がまだ存命の時代に、世田谷城主だった奥州吉良家の吉良政忠が伯母のために「弘徳院」という小さな庵を結んだのがその起源であるという。それが、戦国時代に曹洞禅に転じた。
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(仏殿)

 この寺の南側には世田谷城址が残されているが、その城の中枢部はむしろこの寺の位置にあったそうだ。やがて世田谷城は相模の北条氏の出城となるが、1590年の秀吉による小田原攻めで廃城となり、江戸期には彦根藩・井伊家の世田谷領となった。その第二代藩主・井伊直孝(1590~1659)が、井伊家の菩提寺に相応しい寺として伽藍を創建したのが現在の豪徳寺である。その寺号が直孝の戒名「久昌院殿豪徳天英居士」から来ていることは、よく知られている。

 家康の重臣として「徳川四天王」の一角に数えられ、赤い鎧兜で有名な精鋭部隊・「井伊の赤備え」を組織した彦根藩初代藩主・井伊直政(1561~1602)を父に持つ直孝は、次男として生まれ、しかも正室の子ではなかったそうだが、一旦は家督を継いだ長男では藩内がまとまらず、家康が直々にそこを差配して直孝に後を継がせたという。若い頃から、父・直政譲りの寡黙で剛直な、凄みのある人物であったようだ。

 直孝は秀忠の側近として仕え、大阪夏の陣で活躍。秀忠亡き後は家光の後見役も務め、譜代大名ではトップの30万石にまで取り立てられた。それでもなお、戦国の世の剛毅な風を残していて、彦根城下では質素倹約を徹底させ、自身も極めて簡素で質実なライフスタイルを貫いたという。なるほど、戒名の中に「豪徳」という文字が残るわけである。そして、それを寺号としたこの寺は、広い敷地の中に一つ一つの伽藍が実に堂々としていて男らしいが、一方でそのなりには飾るところがなく、いかにも簡素だ。名は体を表わす、その典型ともいえる。

 だから、豪徳寺を訪れるには冬がいい。それも、北風がごうごうと鳴るような日が、この寺の雰囲気によく合っているようだ。その点、今日は一月初頭にしてはずいぶんと穏やかな晴天である。

 敷地内には直孝以下、井伊家歴代当主の墓があり、あの桜田門の変で暗殺された第13代・直弼の墓も残されている。そして、そうした藩主の墓に従うようにして、江戸で命を終えた彦根藩士やその家族の墓が300ほどもあるという。いずれも質素なものである。それが豪徳寺の味わいなのだが、そのことは寺の宗派が曹洞宗であることとも、決して無縁ではないだろう。
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(井伊直弼の墓)

 「禅問答」として知られる公案を論じ、騒々しい印象があることから「看話禅(かんなぜん)」と呼ばれる臨済宗とは対照的に、ひたすら座禅に取り組むことを宗旨とする曹洞宗は「黙照禅」と呼ばれる。修行をして本来の自己(仏心)に目覚めることを目指す臨済禅に対して、修行の結果として仏になるのではなく、修行そのものが仏の行なのだという曹洞禅。前者が鎌倉・室町の幕府権力に近付いて存在感を高めたのに対し、後者では「権力には近付かず、深山幽谷で修行に励め」という教えが受け継がれてきたのも、極めて対照的である。だから歴史的にも支持層が異なり、「臨済将軍、曹洞土民」などと呼ばれる。(あくまで個人的な印象であるが)曹洞宗の方に簡素で純粋なイメージがあるのは、こうしたことから来るのだろう。

 それにしても、禅宗は徹底して己(おのれ)を見つめる仏教だという風によく言われる。そして、禅宗が武士階級によって広く取り入れられたのは、命を賭して戦(いくさ)に臨む侍にとって、心を落ち着かせるものが禅であったからだという。

 「仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己をわするるなり。」
(『正法眼蔵』 道元 著)

 「普通われわれが『知る』と言う時には、それは『何であるか』を知ることを意味する。これに対して『ならう』とは、『習う』 『倣う』の文字が示唆するように、『どのようにするのか』、その仕方を『ならう』のである。だとするならば、禅師が『自己』を『ならう』ものだと言うとき、その『自己』は、ある存在が何であるかを決定する根拠のようなもの(それは『知る』ことの対象である)を言うのではなく、ある行為の仕方、様式のことであろう。つまり、意志し、反省し、決断する、主体としての様式のことである。
 そして、それが『仏道をならう』ことなのだと言われるならば、禅師の意味する『自己をならう』とは、『仏法にしたがって意志し、反省し、決断する仕方をならう』ことであり、僧侶としての、仏教者としての主体性を創造することにほかならない。ここにこそ、仏教の倫理的基盤がある。」
(『日常生活のなかの禅 -修のすすめ-』 南 直哉 著、講談社選書メチエ)

 そうだとすると、武士という、人を殺めることを仕事とする、つまり不殺生戒という仏教の根本的な戒律とは全く相容れない生き方をする人々が禅に取り組んだというのは、大いなる矛盾である。ただひたすらに坐り、それによって「仏道をならい」、仏教者として主体的に生きようとするのであれば、まずイの一番で殺生などできないからだ。それなのに、日本では中世以来、禅と剣は結び付いてきた。

 企業経営者や一流のスポーツ選手が時々禅堂にこもる、というようなことは現代においてもよく聞かされてきた話である。そして、「精神統一のために」、「心の安寧を求めて」などという言葉が大抵彼らの口から出るものだ。
 結局のところ、「仏教者として生きる」という肝心な部分はどこかへ行ってしまい、精神面でのリラックスをはかるための手段として禅が愛好されてきたというのが、(それが全てとは言わないが)大半のあり方だったのではないだろうか。原理原則論は抜きにして、こうした手段を融通無碍に拝借してきたというのが、この国の文化の一つの特徴なのだろう。
 その点で、大阪冬の陣では籠城する真田軍と激突して多数の兵を失い、夏の陣では城内に大砲を撃ち込んで秀頼・淀君を自害に追い込んだ井伊直孝が、一体どのような倫理的思考によって(後に豪徳寺と呼ばれる)曹洞の寺を建てたのか、そのあたりを想像してみるのも興味深いものである。
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 今日は午後になっても穏やかな冬晴れが続いている。年末年始の休みの最終日、年の初めにあたり、なぜか豪徳寺の、その名の通りの味わいをかみしめたくなって、久しぶりに足を運んでみたが、やはりここは気分がいいものだ。

 なお、この寺は招き猫伝説があることでも知られている。ある日のこと、井伊直孝がこの場所を通りかかった時、猫に招き入れられるようにして門内に入ると、結果的にそこで雷雨を避けることができ、更には和尚さんの法話を聞くことができたとう。直孝はそれをたいそう喜び、ここを井伊家の菩提寺にすることに決めたそうである。
 この伝説に因み、境内では招き猫の人形が売られているが、それは片手を挙げただけで小判を持たないシンプルなものである。「招福」とはあくまでも上記のような経緯であって、決してゼニカネではない。そのあたりもまた、豪徳寺の一つの味わいなのだろう。
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 さて、明日からまた仕事だ。

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