SSブログ

いただきます [宗教]

 昨年の暮、我家の厨房に強い味方が現れた。家内から相談を受け、二人で実物を見に行って買い求めることにした、圧力鍋なるものである。

 通常の鍋では煮込むのに時間がかかる料理が、これを使えば驚くほど短時間で出来上がるという。しかも手間としては、具材を切って鍋に入れ、煮汁の材料(水、醤油、砂糖、塩、ブイヨンなど)を加え、蓋を閉めて火にかけ、圧力が上がったら決められた時間だけトロ火でその圧力を保つだけだとも。
 鍋を買い求めたその日の夕方、トリセツの後半部分に載っていたレシピに従って家内が「中華おこわ」にトライしてみたら、あっという間に、しかも極めて美味しく出来上がり、我家は大いなる驚きと喜びに包まれた。それ以来、この新兵器は連日の活躍を見せている。
1st take.jpg
(初めて出来た「中華おこわ」)

 圧力鍋は、大気圧以上の気圧の下で水を加熱すると沸点が上がるという原理を応用したものだ。高い圧力と沸点が得られることで、食材の火の通りがよくなり、短時間で美味しく調理が出来上がる。学生時代の山登りの合宿で、標高の高い(=気圧が低い)所で米を炊くと、沸点が下がるために米に芯が残りやすかった、それと正反対の効果が得られるという訳だ。

 2~3年前頃から、以前に比べて平日の帰宅時間が早くなった。歳をとると共に、商売の最前線で切った張ったを差配するよりも、後ろの方から社内の全体に目配りするような役回りになる。少し寂しくもあるが、サラリーマン人生とはそういうものだろう。
 だがその分、家で家族と共に晩飯を食べる機会が格段に増えることになった。単身赴任を経験した者なら誰もが痛切に思うことだが、家族と一緒に食卓を囲むとは、平凡ながらこれほどありがたいこともない。できることなら、子供たちが小さかった頃に、こういう時間をもっと作ってやりたかったと、今にして思う。
2nd take.jpg
(簡単に作れる「アサリとズッキーニのペペロンチーノ」)

 私は食べ物には元々興味のあるタチだ。それと、学生時代に山登りを続けていたので、炊事も含めて自分の身の回りのことを自分で整えることに、あまり抵抗はなかった。だから、香港での単身生活が始まった時、半ばサバイバルのような意識で料理作りを少しずつ覚えることになった。

 料理といっても、無論自分一人のためのものだから、作るものには偏りがあるし、そもそも食べ手が他にいないから、あまり大きなものは作る意味がない。だから、私が覚えたのはごく僅かなことである。
 とはいえ、素人なりに「旨い」と思えるものが出来上がると、それはそれで嬉しいものだ。しかしそれとて自分一人だと、30分かけて作っても5分もすれば食べ終わってしまう。そして、「美味しい」という喜びは、出来れば誰かと共に味わいたい。分けても決して半分にはならず、むしろ人の数だけ喜びが増える。「美味しい」とはそういうものだ。

 だから、帰国して再び家族と一緒に暮らすようになってからも、週末などには料理の真似事をしてきた。素人の手作りながら、家族も案外喜んでくれる。家内も外食は滅多にしたがらず、本当に身近な食材を使いながら、それでもちょっと美味しく、そして家族みんなで賑やかに食卓を囲むことが好きなので、いつの間にか土日の夕方は(家にいる限りは)家内と共に厨房に立つようなパターンになっている。
 そこに、新兵器として圧力鍋が加わったという訳だ。大学生の娘などは、このところ毎晩何が出て来るか楽しみにしながら帰って来るようになった。
3rd take.jpg
(モツ煮込みもレパートリーになった)

 食べることは楽しい。それも、家族や親しい友人と共にする食事は本当にいいものだ。だが、その楽しさにかまけていて、食事をすることの本来の意味を、私たちはつい忘れてしまいがちである。

 私たちはふつう、食事を始めるときに「いただきます」と言う。それは、私たちが生きていくために、食材となる動植物の命を奪って食べているのだから、不殺生戒があるにもかかわらず「命をいただく」ことを懺悔し、その奪った命の分まで精一杯「活かさせていただく」ことを誓うために唱えるのだ、と説明するのが仏教である。

 修行僧の集まる禅寺では、食事の前に「五観の偈(ごかんのげ)」という以下のような偈文(げもん)を唱えることが今も続いているそうだ。唐の時代の中国で始まり、後に道元(1200~1253)の著作『赴粥飯法』を通じて日本でも普及が始まったという。「食事の心構え」とでも言うべきもので、特に禅宗の専売特許ということではないようだが、日々の生活の一つ一つが仏の行であるとする道元の曹洞禅には確かにぴったりのイメージである。

 一には功の多少を計(はか)り彼(か)の来処(らいしょ)を量(はか)る。
  (この食材が採集され、調理されて自分のもとへ運ばれてくるまでの経過や人々の労苦をよく考える。)

 二には己が徳行(とくぎょう)の全欠を忖(はか)つて供(く)に応(おう)ず。
  (このようなありがたい食べ物を受けるに値する行いを自分がしてきたかどうかを振り返り反省する。)

 三には心を防ぎ過(とが)を離るることは貪等(とんとう)を宗(しゅう)とす。
  (心の汚れを清めて正しい状態を保ち、過ちを避けるために、貪(むさぼ) りの心を克服する。)

 四には正に良薬を事とすることは形枯(ぎょうこ)を療(りょう)ぜんが為なり。
  (食べ物とは、修行する自分の肉体を保持し養うための良薬としていただくものである。)

 五には成道(じょうどう)の為の故に今此(いまこ)の食(じき)を受く。
  (仏の道を成すために、この食べ物をいただく。)

 自己への反省と他人への感謝、そして他の命の尊重。この世の一切の物事(色)は因縁によって相互に結び付いており、「此があれば彼があり、此がなければ彼がない」という仏教の考え方からすれば、我々が食事をいただくということは、まさにこの「五観の偈」に要約された通りなのだろう。
 それは同時に、「いただきます」を言われることもないままに大量の食材が売れ残りとして捨てられ、必要もないような贅沢が「グルメ」としてもてはやされる、「自由」の意味を履き違えた今の世のあり方を、遥か昔に見抜いていたかのようでもある。

 「苦しみの本質が、『思いどおりにならない』ことなら、その原因たる欲望の本質は『思いどおりにしたい』ということであろう。当たり前のことだと言われるだろうが、ここは勘所である。私がこだわるのは、欲望は単に、言わば本能的に『したい』ことではなく、『思いどおりにしたい』ことなのだという一点なのだ。
 食欲と人は言う。腹がへったから食べたい。よくわかる話である。では、これと『おししいもの』が食べたい、ということとは同じことなのだろうか。違うであろう。おいしいものとは、おいしいと思ったものである。だから、人は『思ったほどおいしくなかった』と言いつつ、つぎのおいしいものを求めるのだ。
 ここで仮に『腹がへったので食べたい』を食・欲求と言うとすれば、まさしく『おいしいと思うものを食べたい』こそ、食・欲望と言うべきであろう。」
(『日常生活のなかの禅 - 修業のすすめ』 南 直哉 著、講談社選書メチエ)

 「美味しい」を人と共有することは楽しいし、共有したくても出来ないことに比べたら遥かに幸せだと思ってしまうのだが、それとても本質的には「思いどおりにしたい」という「欲望」に根ざした、放っておけば際限のないものであり、思いどおりにならなければ苦しむばかりのものであることは、私たちも今一度認識しておく必要があるだろう。

 山で寝泊りをすると、水や食料の大切さ、ありがたさを私たちは改めて認識するものだが、それぐらい普段の生活では食べ物に恵まれていることや、私個人について言えば、昔に比べて家族と共に過ごす時間が増え、今は毎日「いただきます」を一緒に唱えることが出来る、そのありがたさを忘れないようにしていきたいものだ。
 しかし、その「ありがたい」状態もまた「無常」であり、この先には老いやら別れやらの苦しみが必ずやって来るのだろうけれど、それでも縁あって生を受けた以上は生きていかねばならない。釈迦はそう教えてくれている。

 (年末年始に読んでいた前掲書は、今から10年ほど前に世に出たものである。当時私は香港にいたので、その存在を知らなかったのだが、もっと早く出会ってみたかった一冊である。)
06258211.jpg
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

足柄の風 - 矢倉岳護摩の炎 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。