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護摩の炎 [宗教]


 日曜日のお昼時、この寒さにもかかわらず、池袋駅東口はいつものように人々の往来で賑わっている。世の中は大学のセンター試験の二日目。例年、今頃は決まったように強い寒波がやってくる。家内も私も、今日は厚手の防寒着に身を包んで出てきた。

 明治通りとTの字を成すグリーン大通りに沿ったバス停で待つこと数分、王40系統の西新井駅行きの都バスがやってきた。ここが始発で、私たちを含めて6人ほどの乗客を乗せるとすぐに発車。左折して脇道に入り、豊島区役所の手前を右折して明治通りに入ると、そのまま直進を続けて飛鳥山から王子駅前へ。そこから先は片側一車線の道路を北東方向へ走り続け、隅田川と荒川を渡ると足立区に入る。

 このあたりは周辺に鉄道がないから、このバスは枢要な交通機関らしく、人々の乗り降りはかなり頻繁である。だいぶ混み始めたなと思った頃、バスは片側一車線の狭い道を右折して環状7号線に入ると、程なく「西新井大師前」のバス停に到着。日曜日だから渋滞もなく、ここまで極めて順調に来たが、それでも池袋東口から40分はたっぷりかかる。百円玉2枚にしてはずいぶんと乗り甲斐のあるバス路線である。

 今年、我家では息子が数えで25の「本厄」にあたる。法科大学院を卒業するまであと一年余り。体を壊さず今年も勉学に勤しんで貰わねばならないので、厄除けでもしてもらおうかということになった。といっても、肝心の本人は「試験前だ」と言って今日も学校へ出かけてしまったので、代わりに家内と私がお札を頂いて来るしかない。
 厄除けといえばお大師様だが、「関東三大師」の中で我家に一番近いのは西新井大師になる。まだ訪れたことがないので、「散歩がてら」と言ってしまうと叱られそうだが、家内と二人で出かけてみることにしたのである。

 環七沿いのバス停から北方向へと路地を入ると、東武鉄道の大師前駅があり、お大師様への参道が左に向かっている。それをしばらく進むと参道は右に折れ、前方に山門が見えてくる。両側はいかにも寺社の前の商店街で、甘酒や草団子、煎餅などを売るお店が並んでいる。その山門をくぐると道の両側は縁日の屋台が続き、何とも賑やかだ。1月16日、私たちも含めて、訪れている人々はまだ初詣の一環といった感じである。
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(西新井大師 山門)

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(参道商店街で見かけたレトロな世界)

 「西新井大師」というのは通称で、正式には五智山遍照院総持寺という。真言宗豊山派の寺である。ご由緒は西暦826年にさかのぼり、それにはもちろん空海(弘法大師)が登場する。目の前の大きな本堂は昭和40年代に火事を出したために再建されたものだが、弘法様以来のご本尊はその火災を逃れ、今も安置されているという。
 境内の祈祷受付を見ると、次の護摩は13時半からだ。まだ30分近く時間があるので、私たちは北風を避け、甘酒で暖を取ることにした。
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 指定の時刻の10分前に本堂の中に入ると、護摩を受ける畳敷きの場所は既に大勢の人々で埋まりかけていた。私たちは坐る場所を何とか確保して時を待つ。定刻になると、ズシリと重い太鼓が鳴り響き、12人の僧侶が壇上を取り囲むようにして坐る。緑色の袈裟を着た僧侶が4人ずつ左右に並び、紫の袈裟が3人と赤の袈裟1人が正面のご本尊を向いている。この赤い袈裟の僧侶のリードで読経が始まり、やがて一人の僧侶が立ち上がって、仏の智慧を象徴する水を張った鉢から、棹でその水を衆生に降りかける仕種を行う。(私には本を読んで得た知識しかないが、灌頂(かんじょう)という密教上の儀式の一つなのだろうか。)
 そして壇上では火が焚かれ、厄除けのお札がそれぞれ炎にかざされる。読経はなおも続けられ、密教に固有の、梵語をそのまま用いた我々には意味不明の言葉(これが真言と言われる)も聞こえてくる。その間に、衆生は今年最もお願いしたいことを仏に念じると良いとされる。護摩が終了するまで、概ね25分ほどであった。
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(護摩を待つ)

 空海(774~835)は、改めて言うまでもなく極めてスケールの大きな人物である。祖先が日本武尊の東征に従った佐伯氏の生まれだという。なるほど、讃岐地方だけでなく、東国も含めて日本各地に弘法大師が掘ったとされる井戸があるのは、先祖伝来のフットワークの賜物なのだろう。この西新井大師も、弘法様が総持寺のお堂の西側で杖を突いたら新たに井戸が湧いたというのが、「西新井」という地名の由来だそうである。

 空海は早くからその才覚を現し、律令の制度として中央に設けられた「大学」に18歳で入学。儒教や漢文などを学んだが中退し、山岳修行を始めて山野を流浪したという。24歳から7年間ほどは消息が不明なのだそうである。だがその間も数々の書物を著し、儒教・道教に対する仏教の優位性を説くと共に、「大日経(だいにちきょう)」と呼ばれる密教の根本経典を極める決意を固める。そこに、中国留学のチャンスがやってきた。

 803年の3月に遣唐使船が出たが、嵐に遭って都に引き返し、船を修繕して翌804年5月に再出発。その際に空海は留学メンバーに選ばれ、大慌てで船に乗ることになった。前年の船が予定通り唐に着いていたら、次の遣唐使船は30年以上も後であり、唐では廃仏の嵐が吹き荒れていて、真言密教などは学べなかったかもしれない。
 その一方、804年に再出発した4隻は再び暴風雨に遭って互いにはぐれてしまい、内2隻は海没もしくは行方不明。前年からメンバーに選ばれていた最澄(766~822)が乗る第1船と空海の乗る第2船だけがそれぞれに大陸に漂着したというから、歴史というのは不思議なものである。

 「空海の身分は、留学生(るがくしょう)である。むこう二十年留まる。その二十年間の生活費が官給されてもいいのだが、それほどの給与はなかった。(中略)
 最澄の立場はちがっている。
 かれは天皇や皇太子、それに時の権勢家の庇護をうけていたために、皇太子(平城天皇)から贈られた金銀だけでも数百両という多額なものであった。かれは短期の還学生(げんがくしょう)であった。還学生とは完成度の高い僧がそれを命ぜられ、権威は後世の国立大学の教授よりもさらに大きい。(中略)
 最澄の仕合せのよさを、空海はしっていたであろう。」
(『空海の風景』 司馬遼太郎 著、中央公論新社)

 身分も立場も異なる最澄と空海の出会いはここに始まり、二人のライバル関係はその後も長く続くことになるが、ここでは省略する。だが、空海はその留学を二年で切り上げて帰国し、ちょうどその当時に即位した嵯峨天皇に気に入られたことで急速な「出世」を遂げる。そのきっかけの一つが、真言密教による怨霊の鎮魂であったという。

 「嵯峨天皇の同母兄、前代の天皇である平城天皇が復位を志して、薬子(くすこ)の変を起こした。薬子は自殺、平城天皇は幽閉されるが、この平城一家の怨霊の鎮魂が大きな政治的課題となる。空海は真言密教の得意とする呪術によって、みごとに平城天皇にまつわる怨霊どもを鎮魂したのである。」
(『梅原猛、日本仏教をゆく』 梅原猛 著、朝日文庫)

 神秘的な曼荼羅を掲げたり、護摩の煙と炎の向こうにご本尊が見えたりと、固有のおどろおどろしさのある真言密教は、日本人の伝統的な宗教心にマッチする部分があったのだろう。今日の厄除けの護摩も、「厄年だから一応やってもらおうか」と思った私たちは、嵯峨天皇の頃の日本人とあまり違わないのかもしれない。本堂の奥に鎮座されておられるご本尊は十一面観音だそうだが、観音様のご慈悲は、かくも大勢の衆生にも漏れなく及ぶのであろうか。

 それからお札をいただいて、私たちは西新井大師の裏門から外に出た。午後二時をだいぶ回ったところだが、空には雲が流れ、北風が冷たい。二人の影法師が早くも長くなり始めた。
 そこから住宅地の中を二十分ほども歩いて尾久橋通りに出ると、東京都の新交通システム「日暮里舎人ライナー」の西新井大師西という駅がある。道路の上に設けられた高架の駅で待っていると、小さな車体の電車がやってきた。
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 汐留から出ている「ゆりかもめ」と同じように、高架の軌道を走る「日暮里舎人ライナー」は車窓の眺めが良い。日暮里行きの進行左側の席からは、荒川を渡る時に東京スカイツリーがよく見えていた。

 散歩がてらに「この国のかたち」をまた少し思ってみた半日だった。
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